ずっと「本を読む話」ばっかりしてますが、ちょっと原点に立ち戻って、僕が何故、こうもしつこく「本を読む」ことにこだわっているのか、というところを話してみましょう。

それはやはり、学習する必要性をしみじみと感じているからなのですね。

この「学習する必要性」というのは、「留学したいから英語を勉強する!」みたいな目的志向の「勉強」ではないんです。そういうことではなくて、もっと幅広く、「いろんな出来事に関して、少しずつでいいから知識を増やしておきたい。」というようなゆるやかなものなんですね。

こういう緩やかさこそが、自分の人生を救うよなぁ、という実感があるから、「本を読め」なんですよ。

僕の心の中で、いちばん大きな実例の話をすると、亡くなった自分の父のギャンブル依存症への対応なんかが、まさにそれです。

僕の父はギャンブル依存症だったので、とうとう最後には持ち家を抵当に借金してまでバクチを続けてしまった人なんですね。でも、そういう事になってる事は隠されてたので、僕はずっと持ち家があると思ってたんです。

その事実が、ある日突然わかったので、僕はものすごいパニックになってしまったわけです。
もう、本当にどうして良いかわからなくなってしまった。

持ち家があることを前提に人生イメージを作ってたんで、それが崩れて、まず自分の人生設計が暗礁に乗り上げたような気持ちになってしまったし、父親のギャンブル依存症がそこまでひどいというのをはっきり知って、でも、全然治る見込みもなくて、どう対処すればいいのかがわからなくなったわけです。

その時の僕は「こういう時はどうすればいいのだ?どこか公的機関で相談できるところはないのか?」とか、ものすごくいろいろ考えて悩んでいたわけです。精神的に、ものすごいストレスでした。

でも、しかし、ここで問題なのは何か? というと、決して、うちの父親のギャンブル依存症が問題なのではないんですよね。

実は、問題なのは、「自分のパニック」の方なんですよ。

●自分がパニックになってあわてふためいている。

という事が一番の問題なんです。

で、じゃあ、ここでなんであわてふためいて、パニックになっているのか? というと、単純に知識があまりに少なかったからなんです。

当時は全然そんな事は思いませんでしたが、いまの時点からふり返ると、もう本当に、その時点の自分に「あわてるな、あわてるな。方法はいろいろあるから。落ち着いて。」と言ってやりたい。

たとえば、持ち家がなくなる! と思ってパニックになってたわけですが、古い家一件分の借金なんて、たかが知れてるわけですよ。自分でマンションを買ったローンとかから考えればどうってことではない。だから、自分の生家をなくしたくないのなら、父親の借金を肩代りすれば良かっただけの話なんですね。

でも、当時はマンションを買うとか、そういう経験をしてなかったから、そういう発想に全然たどり着かなかったわけです。

で、なんでたどりつかなかったか、というもうひとつの大きな理由として、「まず父親のギャンブル依存症をなんとかせねば」というところで思考が堂々めぐりをしてたからなんですね。

依存症ってのは、かなりやっかいです。そう簡単には治りません。でも、当時の僕は父親が「依存症である」という客観的な現実認識自体が出来てなかったわけです。親子の人間関係の問題としてしか、考えられなかった。「うちの父親は依存症なのだ」というモノの見方自体ができてなかった。そら、パニックになりますわなぁ。

でも、実際には、ここまで行ったら明確な依存症ですから、「依存症を治療するための対処」を考えるべきだったんですね。でも「父は依存症である」という認識ができなかったから、正確な情報収集作業もできなかった、というわけです。

いまなら、すでにアラノンとかの依存症を回復させるための自助グループがあるという事とか、アルコール中毒とギャンブル依存症とが兄弟関係で、自助グループ同士のつながりがあるとか、家族全体がそういう知識を持って依存症者を正しく説得して回復できるようにカウンセリングを受けた方がより良いのだ、とかの知識がありますから、そっちの選択肢もキチンと考えられると思うのです。

これらはね、全部「前提となる知識の不足」から起こってるんですよ。知識不足だからパニックになるんですね。

だいたいアラノンなんかの自助グループの存在自体を僕は知りませんでしたから。いや、だいたい、父親を「かなり強度の依存症者である」という認識自体をもってませんでしたからね。「やっかいな嗜癖を持った父」くらいにしか認識してなかったわけです。

社会生活に影響を及ぼすくらいになっていたら、それは嗜癖とか言ってられなくて、明確に病気なわけです。だから、その時の僕を、別の見方をすれば、「家族がインフルエンザで寝込んでいるのに、疲労で休息を取っているだけと勘違いして、ほったらかしにしている人間」というのと同レベルだった、とも言えるわけです。

だから、本来は、そういう知識を持った専門家に相談するのが正しかったんですね。問題というものは、すでに誰かが体験していて、それなりの解決策を見いだしてるものなんです。だから、まず専門家に頼ることを考えなければいけない。

ところが、あまりに知識がなかったものだから、誰に頼ればいいのか? というところが全然見えてなかったわけです。しかも、当時の僕は父親の依存症の問題と自宅が抵当に入ってしまっている問題を切り分けて考えないといけないという発想自体がなかった。全部父親の「やっかいな嗜癖が問題」というところだけで考えてたから、状況が悪くなるのを指をくわえて見てるしかなかったわけです。

結局、こういう問題の切り分けとか、「どこに相談すべきかを考える」とかは、少なくとも基礎的な知識がある程度ないと、思いつくことすらできないわけです。「父親のやっかいな嗜癖をなんとかしなければ」だけで堂々巡りをしてしまうのは、「多様な知識」「別の角度からの問題の検討」がなかったからなんですね。

最低限の幅広い知識を備えていれば、こういう時にパニックにはならないで済むわけです。

で、この幅広い知識、というのを得るためには、やはり普段から本を読むのが最良の方法なわけですよ。

実際、ここで「依存症を回復させるためにはアラノンなどの自助グループに…」とさらっと書いてますけど、この知識にいたるまでに、どれだけの時間と読んだ本の冊数がかかっていたのか? って事です。

当時はアダルトチルドレンの知識なんか全然なかったしねぇ。

「アラノンなどの自助グループに…」とさらっと言えるようになるまでの経過を書いていくと、本との出会い、導きがいかに大事だったかがわかるんです。

自宅抵当がわかったのが、平成2年(1990年)くらいの事なのですが、その後、家は抵当にとられてなくなり、父が亡くなった後、自分でマンション買って、母親と一緒に暮らし出したんですが、そういう状態になって、やっと落ち着いてきた、父親の借金が発覚してから、10年以上もすぎた2003年になってはじめて、東ちづるの、

「<私>はなぜカウンセリングをうけたのか」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4838712855/glfclb-22/ref=nosim

を読んでるんですね。ここの日記でブックレビューを書いてるのでわかりますが。
http://diarynote.jp/d/12917/20031025html

持ち家の問題をマンション購入によって、多少は克服した後だったので、やっとこの時点で、自分の内面を見る余裕が出てきたって事でしょう。
ここではじめて、アダルトチルドレンという言葉や概念を知ります。
この段階で13年かかってるんですけどね。ああ、なんというムダだろうか。

で、この時に、自分の内側に、たとえば恋愛であるとか、親しい人との関係性であるとか、そういうところに、欠損があるんだなというのを少し実感しはじめたわけです。

で、たぶん、その次の年に、あのウォイティツの「なぜいつも、あなたの恋愛はうまくいかないのか」を読んだんです。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4313860053/glfclb-22/ref=nosim

これがかなりの衝撃でした。

で、ここのブログでこの本を紹介したのが、一年後くらいなんだと思います。
http://diarynote.jp/d/12917/20051224.html

この二冊で、かなり自分の問題に切り込むことができたんですよね。
で、ここには男女間の一般的な考え方の違いというような個別の問題に関する知識というのも必要だったわけで、そのあたりは多分2001年くらいの段階で、かの有名な、

「話を聞かない男、地図が読めない女」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4072352179/glfclb-22/ref=nosim

を読んでいたので、別問題として切り分けが出来てたって事なんですね。だから

「<私>はなぜカウンセリングをうけたのか」
「なぜいつも、あなたの恋愛はうまくいかないのか」

にたどり着く前には、どうしても、

「話を聞かない男、地図が読めない女」

が必要だった、という事があるんです。

あ、そうそう、嗜癖からの回復、と言う意味では、こういう事の前に2000年か、2001年かに

「禁煙セラピー」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4845405059/glfclb-22/ref=nosim

を読んでタバコをやめた、という自分の体験も大きかったんですね。本を読むことで、嗜癖からの回復できる! という実にポジティブな体験をしたって事ですね。嗜癖は結局意識の問題なので、正確な知識を得ることで、かなり大きな効果があるんだと身を持って体験していたというのは、やはり大きかったでしょう。

で、ここまでたどりついてやっと、

●自分の問題と父親の問題を別問題として切り分ける

準備ができたんだと思います。
それで、ウォイティツの

アダルト・チルドレン―アルコール問題家族で育った子供たち
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4772405615/glfclb-22/ref=nosim

にたどりついたわけです。
自分の問題を客観視できるようになって、やっと父親を含めた依存症全体をキチンと見渡す余裕ができたんでしょう。

この本を読んだのが、2006年で2年前ですね。
http://diarynote.jp/d/12917/20060221.html

で、この時にはじめて、自助グループの存在を知ったわけですよ。で、「ああ、あの時父親を上手に説得して、そういうところに参加させておけば、オヤジももう少しは長生きできたかもなぁ」とか思うに至ったわけです。

依存症になってる人間って、自分が依存症である、と言う認識自体がなかなかできませんからね。自分と同じような問題を抱えてる人が、依存症からなんとか回復しようとしている姿を見てはじめて、「私は回復しようとすら考えていなかったのだ!」と気付くってものですし。だから父がまだ依存症だという自覚がなかった時に、こういうグループに上手に参加させてやりたかったなぁ、という気持ちは、いまになって出てきてますねぇ。いやもう、全然手遅れなんだけど。(笑)

だから、「父をアラノンなどの自助グループに…」とさらっと言えるようになるまでには、これだけの冊数の本が必要だったって事な訳です。
で、これはアダルトチルドレン関連の書籍だけに絞ってますけど、実際にはここに至る前にマンションを買ったので、その関連でマンションの資産価値関連の書籍であるとか、投資に関する基本的な知識とか、なんだかんだかなり読んでいて、それを済ませていなければ、この「自分の内面の問題と向き合う」というところに至れなかったわけですし、その「自分の問題と向き合う」があってはじめて、父親の問題を切り分けて別個問題として客体視もできるようになって、やっと「父をアラノンなどの自助グループに…」にたどりついたって事ですわね。

だから、本は冊数を読まねばいかんし、そうするしか他に手はないわけですわ。

仮にここまでの冊数を読んでいなかったとしても、問題にたどりつく手前の知識を得ていれば、問題にぶちあたった時に、後の「深めていく読書」は速いわけです。
ちゅうか、父親の問題にぶち当たった時も、パニックで意味なく悩んでるヒマがあったら、書店にでかけて、必死になってギャンブル中毒に関する書籍を手当たり次第に読みまくったら良かったはずなんですよねぇ。なんでそうしなかったんだろう? と、いまになって悔やみます。ほんとに。

ともあれ、学習の必要性、っていうのは、こういうような自分との関わりとの複雑なからみあいとかもあるわけで、ゆっくりと必然性が湧くという事もありますから、とにかくヒマを見つけては、どんどん読んでおくと言うことをしないとしょうがないんじゃないかなぁって思います。

そうしないと多分、僕だとて、ずっと「うちの父親はやっかいな嗜癖を抱えてましたから、大変でしたわ、わはははは」だけで終わってたと思うんですね。

いやまぁ、それだけで僕の内面が大変安定してるんなら、それでも別にかまわないんですけど、そうじゃなかったもんね。パニックになったわけだから。

なので、そういうパニックを防ぐためにも、幅広い知識を、日々少しずつため込んでおくのが良いって事です。いろんな事に「落ち着いて」対応できる可能性がグンと高まるわけですから。

とくに、依存症のような問題は、小さなところからはじまって、だんだんと大きくなってしまって、大きくなってから解きほぐすのがすごくやっかいな問題なので、早めに対処しておくのが一番なんですよね。

で、その早めの対処には、まず「知識」から入る、というのが効率的だと思います。

だから、自分が気になっているテーマの本を、とにかく早めにサッサと読んでいって、概略だけでもいいから、課題のアウトラインを大づかみにしておくと言うことが、自分をパニックから救って、より深く、適切な問題解決に導く、よい「手がかり」になるという事です。

「自助グループ」にたどりつく前に「禁煙セラピー」を読んでるとか「話を聞かない男、地図の読めない女」を読んでるとかが大事だったわけですから、やっぱり内容はなんでもいい、なんでもいいから数を読めってことになりますわね。

で、読む冊数を増やせば、ここに書いた自分の課題を深めていった過程も、もっと早くなるって事です。
そういう事が、たぶんとても重要で、だから「本をどんどん読みましょう」「学習しましょう」って言いたいんですね。

ま、そういう事であります。
またまた本の話なんですが、先日書いた、
「本を読むには、まず通勤読書。」に、
http://diarynote.jp/d/12917/20080502.html
フク子さんという方から

>今日「ああそうなんだ!」と思ったのは、「本を読まない人とはコミュニケーションすらできない」というところです。

というコメントをいただきました。

で、この「本を読まない人とはコミュニケーションすらできない」という事が、いったいどういう事なのか、というのを、少しわかりやすく書きたいと思ったのです。

というのは、僕もよくわかってなかったのですが、本を読まない人というのは、かなりやっかいな精神構造になってるんだなぁ、というのを最近いろいろと感じはじめてるからなのです。

それはどういう事かというと、「自分の知らない事を想像でおぎなう」という事なんですね。

「自分の知らない事を想像でおぎなう」というのは、まぁたいてい誰でもやってる事はやってるんです。ただ、どうも本を読まない人は、この「補う程度」が異様に高く、時と場合によっては、「妄想」のレベルにまで到達してる事が少なからずあるようなのですね。

なので、政治にせよ、社会のルールにせよ、少し込み入った話をしようとした時に、本を読んでない人との話が時折、まったくかみ合わなくなるんですね。何故かというと、「妄想」を前提に意見を言ったりするからなわけです。

こっちが、「え? え? 何の事? どういう事? 意味がわからん。」ってなってしまう。

コミュニケーションを取るためには、やはり共通の基盤というものが必要で、世の中のいろいろな問題とかテーマとかは、やはりまず、大前提となる知識なしには語ることはできないわけです。

たとえ話で言うなら、ディズニーランドに行ったことのあるAさんとBさんの会話というのは、行ったことのないCさんには本来は「わからない」のが当然なんですが、わからないCさんとしては、そこのところを「想像」で穴埋めして、頭の中に、想像上のディズニーランドを構築して話をするしかないわけですね。

で、その「想像上のディズニーランド」が現実と合っていて、問題ない場合は別に普通にABC三人ともに会話が成立するわけですが、Cさんの想像が的はずれになっていて、勝手な思いこみが生じてた場合は、行ったことのあるAさんBさんからは、「は? なんの事?」と言われるという事になります。

そう、たとえば、スペースマウンテンの仕様を、エキスポランドとか、各種の遊園地のような、「敷地全体を利用したジェットコースターと勘違いする」みたいなことでしょうか。とにかくそういう勘違い・妄想を持ってしまったりするわけですよ。

で、「ディズニーランドも歩いてたら、頭の上でゴーってうるさいやろね。」とか言ってしまう。で、行った事のある人達からは「は? 何の事?」と首をかしげられてしまう。だって想像の範囲外でしょ?行ったことのある人からすれば。違います?

で、こういうディズニーランドのような具体例でなら、Cさんも、「あ、私の勘違いでした」とすぐに修正とかは可能なんです。

ところが、抽象的な法体系の話であるとか、社会の仕組み、歴史や宗教の話、精神の内側の話、などになると、とても抽象的な概念の取り扱いになりますので、Cさんのように想像で穴埋めしてる人は、どこからどこまでが自分の想像で、どこからどこまでが社会的な認知を受けた知識なのかの区別がまったくつかない、という事になるわけです。(というか、本当は「わかってない」のだから「わかりません」と言わないといけないんだけど、それは後で書きます。)

ディズニーランドの場合なら現実の問題なので、行かないとわからないというのが当たり前です。

だから、すぐに「自分の想像が間違ってる」と、わかるわけですが、抽象概念だと、自分の妄想であっても、

●「同じように人間が考え出した『考え』ではないか。」

という勘違いを読んでない人におこさせるようなんですね。

いやいやいや、それは違う。大前提となる知識は、まさにディズニーランドに行ったか行ってないかの違いで、本も読まずに話なんかできるわけないんやよ。という事なんです。

このAさんとBさんの普通の確かなコミュニケーション、というのは、本をたくさん読むほどに確実に実感できてくるわけです。

また、著者の知識レベルとかも、読んでるうちに見えてきたりします。この人は、このジャンルの知識は弱いな、とかいろいろ見えてくる。

そういう基礎知識があるもの同士のAさんとBさんの会話やコミュニケーションを数多く重ねていけば、Cさんが完全に勘違いしてるというのは、もう自明の理なんですね。ものすごくはっきりしてる。はっきりくっきりしてる。バシ!っとフォーカスがあってるわけです。

ところが! この抽象概念であっても、社会的にバシ!っとフォーカスのあったやりとりがあるのだ、それから外れてたら完全に勘違いなのだ、そんなものはすぐにわかるのだ、と言っても、想像で穴埋めだけをしてきた人には、ここのところがわからないわけですわ。そういうバシ!とわかった上でのコミュニケーションなのだ、ということがわからない。困ったことに。

基本的なね、知の体系とか、大きな歴史の流れとか、そういうものはちゃんと抽象的な概念上に、キチンとモノであるかのように存在しているわけですよ。

中世と近代の違いとか。意識と無意識とか。一神教と多神教とか。アダルトチルドレンと機能した家族に育った人の違いとか。わかってる人は解ってる。わかってない人はわかってない。それはもう、ものすごくはっきりしてる。それこそ、言葉のささいな使い方の違いで、わかってるかどうかが見えてしまうものなのです。

で、こういう事は、まず学ばないとしょうがないわけですよ。大前提となる常識的な入門知識みたいなところから積み上げる以外にないわけです。
知らないのに大雑把に「こんなもんだろう」という事で想像で穴埋めしてしまっちゃダメなわけでね。

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でも、想像で穴埋めしてる人に「それは違うやろ」という事を言うと、すごく怒り出したりするわけですよ。プライドが傷つけられたと思うんでしょうけど。たぶん妄想をベースに自分の生き方まで構築してしまってるんですよね。そうなると、間違いを指摘された時に、自分個人の人格を否定されたように感じるって仕組みなわけです。

通常、基礎からキチンと学習を積み重ねてきた人に、「それは間違ってますよ」と指摘すると、たいていの場合は、相互に確認しあって、最終的に「とても勉強になりました。ありがとう。」という話になります。

なんでそうなるかというと、「自分が何を知らないか」に関しては情報を得るのがなかなか難しいからです。自分に欠けている知識を明確に知る、というのはかなり難しい。
だから「間違ってるよ」と言われたら、こまかく確認して「なるほど」ってなるわけです。
また、指摘された事をきっかけに、また新しいテーマで読書をしたりするわけですね。

でも、本を読んでない人は、ひたすら自分の哲学が崩壊させられた、という被害妄想を抱えるわけです。
いや、それは最初から哲学にすらなってないよ、って事なんですけど、それ以前にいきなり「不安」があからさまになるから、落ち着いていられないんでしょうね。

こうなると、回りから間違いを指摘してもらってるのに、それを受け取る事もできなくなっているので、修正して正解に近づくという善循環も働かず、「間違ってる事をムリクリ正しいという事にするための妄想」をまた新たに生み出して、えんえん妄想の無限回廊を生み出して、一人歩きをするしかなくなるわけですね。こうなると、もう、本当にやっかいで、これは手をつけられないわけです。

でもそれは「自分勝手な妄想」をベースに自分の哲学みたいなものを作ってしまってる、という事自体が問題だってことなんですけどね。

こういう人に正しい知識を伝えようとしたときに、「その考え方は危険だ」とかまで言われたりしましたからね。

ここで言う「危険」が何が危険かと言えば、その人の間違いに立脚した哲学が崩れ落ちてしまうから「危険」なわけです。自分のアイデンティティが崩壊するという危険なんですね。

いや、そりゃ砂上の楼閣なんだから崩壊して当然だし、もっと早くに崩壊させとけよ、って事で、笑ってしまいますけど、どうも当人にはえらく大事に感じてるようだから、触りようもないってことになるわけです。

いやまぁ、こういう事って、実はよくある事なんですよ。でも、悲しい事に、普通は、当人には、表だっては言わないわけですよ。相手を気遣って。だからよけいに見えなくなっちゃう。

でも、普通そういうのは「バカ」としか言わないんですけどね。で、本当にそういう事が良くないよ、と心配してる人だけが注意するわけですけど、それをまた拒絶するという事になりまして、当人だけが、世間から取り残されるわけです。
でも、取り残されてる事自体に気付いてないんやろなぁ。多分。

でも、まぁこれは、良くある話なんです。
どこにでもある。
もう本当にそういう人間のほうが増えてしまったようですから。
困った事だなぁ。
ほんとに。

そういうわかってない人が増えると、それが普通になってしまうので、わかってないのが「当たり前」になるんですね。
それで、よけいにわけのわからん世界が現出する。

で、だから、ディズニーランドに行ったことのあるAさんとBさんのほうが、世間の「妄想のディズニーランド」から取り残されているかのように、アホからは見える、てなところまで行くんですね。

でも、そんなもん、ハナクソなわけですよ。実際にディズニーランドに行った人間からしたら。ハナクソ。勝手に言うとれとしか思わない。でしょ?

「本を読まない人とは話があわない。」というのは、ようするに、そういう話です。

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で。

実は、しりあがり寿の4コマ漫画で、とても面白いなぁと感じたものがありまして、それはこんな内容だったのですが、

●電車の吊り広告に「いま時代はロハス」の文字があり、それを眺めている主人公の女性
●同じく雑誌でも「ロハス」特集
●で、同僚の男の子に「ねー、ロハスってなんだい?」と聞くと、「あーロハスね。俺も考えてたんだけどね!」とにこやかに答え、
●「(1)漢字の只をロハと読んで、金のかからない生活を言う。(2)アロハのロハからとった自然でゆとりのある生活を言う」と自分の説をとうとうと述べる。
主人公の女性は困り顔で一言、「考えてないで調べろよ!」

とまぁ、こういう内容なわけですが、これがまさに「本を読んでない人」なんですなぁ。
実感として、この漫画が実態を良く表してる。

でも、こういう人がものすごく多いんですよね。
で、インターネットが普及してから、よけいにこの傾向が強くなった。なんせ、「ロハスとは漢字の只から取ったロハの事」というような妄想まで、平気で一人歩きしてるのがインターネットですから。こういうのがコピペでどんどん広がってますから。

だから本を読まないとアカンのよ。

と私は思うのだけど、読まない人というのは、実は「読まない」のではなくて「読めない」人であることが多いので、読みなさいと言ってもムダだったりするんですねぇ。

「読めない」というのは、環境がそうなってしまってるから、って事なんですが。自宅で仕事をしてるとか、お店をやっていて立ち仕事だから読めないとかね。

(でも、そういう人は実は中波のラジオで知識を得てたりする。実は中波のラジオってけっこうレベルは高いです。少なくともテレビよりははるかにマシ。これは余談でありますが。でもまぁ、やっぱり本には主体性の面で劣るわなぁ。)

たとえば、僕は子供の頃からそうでしたが、何かを学ぼうと思ったら入門書をとにかく買ってくるんですよね。やっぱりそこには基礎の基礎が書かれてるんです。なので、かなり重要なんです。

で、実は入門書も一冊じゃダメで、数冊は読まないとダメなんですね。というのは用語に意外とズレがあったりするからなんです。

まぁそうだなぁ、初心者用数冊と中級者用数冊、それにそのジャンルに関する自分の興味の湧くことが書いてあるような本数冊の10冊くらいは読まないと、そのジャンルの「ディズニーランドに行ってきた人との会話」ができないと思って間違いないんですね。

でも、本を読まない人は、これすらしませんからね。やっぱり結局、自分の想像で穴埋めするんですよね。やれやれ。

ともあれ、じゃあ、本を読まない人に「読みなさい」と言ったところで、読み方自体がわからない可能性があるので、そういう人には、「まず自分の妄想モードを止めると言うことをしなさい」と言うしかないんですよねぇ。
妄想が壊れるのがイヤで本を読んでないって部分もあったりするのでね、このタイプは。
いや、ほんと困りものです。

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えー、で、本を読んでいる方には、こういう妄想がひとり歩きしてる人への対処法をお伝えしておきます。

まず基本的に関わらない事です。単純に時間の無駄しか生まれませんので。妄想に付き合うことほど空虚な事はないです。

で、ここからが大事なんですが、このタイプの人間の見分け方です。このタイプは意外に人当たりも悪くないので、なかなか本性が読めませんが、実は大きな共通点があります。

このタイプは「知りません」とか「わかりません」と言うのが苦手です。それも知っておくべき重要なテーマに関するほど、「知りません」「わかりません」が言えないんです。
なので、知ったかぶりをしてる人を見たら、とにかくサッサと逃げる事だと思います。
ろくでもないです。時間の無駄。

別に知らなくてもいいのに、「知ってなくては恥ずかしい」って思ってるみたいなんですよねぇ。
そういう「理想の自己」に押しつぶされそうになって、必死に「妄想」にすがってるんですね。
やれやれ。

精神病の中に、虚言症って言うのがありますけど、それが基本的には、こういう構造です。

誰でもこういう構造に陥る危険はあるんですよね。どこかで「虚言」を弄してしまっているところが人間にはある。
でも、そういう心のワナにはまってはいけません。

なので私は言うのです。

「私はロハスの意味、知りません。」と。

いや、ほんま。ほんまに知らんのですよ。わははははは。どうでもええもん。ロハスなんか。

そういう事なんですけどね。「知らんわ、そんなもん」と言えれば、それこそが「無知の知」だったりするんですが。

で、こういう態度を持ってた方が、素直に他者の知恵である「本」を読む気が起きたりするって事なんですよね。

人間の心というのは、おもしろいものであります。

ま、そんなことで。
ということで、かなり遅くなりましたが、今月も、読んだ本のご紹介。
4月は9冊。まぁまぁの冊数。
紹介する順番は面白かった順。

(1)3種類の日本教―日本人が気づいていない自分の属性 (講談社+α新書)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4062724979/249-9767057-8485143
(2)ウォーキング考―最短距離で最大効果を生み出す「正しい歩き方」 (角川SSC新書)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/482755031X/503-1393334-5299133
(3)自分が好きになる 自信がわく 願いがかなう 夢ファイル
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4534043643/503-1393334-5299133
(4)レバレッジ英語勉強法
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4022504234/503-1393334-5299133
(5)頭の回転が50倍速くなる脳の作り方~「クリティカルエイジ」を克服する加速勉強法
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4894512645/503-1393334-5299133
(6)本は10冊同時に読め!―生き方に差がつく「超並列」読書術 本を読まない人はサルである! (知的生きかた文庫)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4837976913/503-1393334-5299133
(7)本を読む本 (講談社学術文庫)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4061592998/503-1393334-5299133
(8)ほんとうの心の力
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4569654436/503-1393334-5299133
(9)十牛図入門―「新しい自分」への道(幻冬舎新書)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4344980778/503-1393334-5299133

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(1)3種類の日本教―日本人が気づいていない自分の属性 (講談社+α新書)

今月は絶対オススメが、この本。超おもしろかった。
日本には文化の異なる大きな3つの集団があって、それは宗教の違いのように、考え方や価値観までがまったく異なっている、とする島田裕巳のなかなかの力作。

で、その集団とは、
●サラリーマン系
●自営業系
●公務員系
だとしてます。

大きくは、この3つの「系」が、日本にはあると。そして意外にも、この系ごとで価値観がまったく違う事を誰も意識していないが、人生計画を立案するにも、何をするにも、現実的に、役に立つのだ、というお話し。
この本は本当におもしろかった。

とにかく、みなさん、自分の親戚や友人などなど親しい人を思い出して、どの「系」が多いか考えてみましょう。いちばん多い「系」の「思想」が、あなたの居心地の良い思想になるはずです。

これは日本人の精神史にとって、かなり重要な本だと思います。

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(2)ウォーキング考―最短距離で最大効果を生み出す「正しい歩き方」 (角川SSC新書)

あの有名なウォーキングの先生、デューク更家さんのウォーキング本。でも新書なので、考え方とか理屈とかがたっぷり入ってる本です。
で、読んでみて「ほほ〜、なぁるほどぉ。」と感心しまくり。多分レベルがかなり高いと思います。

「歩く」という事を、ほんとうにキチンと考えていて、歩くためには、まず呼吸と立ち方が大事、と、歩くための前提としての呼吸の仕方と骨盤の開き方、骨盤調整の仕方、などをていねいに教えてくれる。

この「まず基礎からやりましょう。」というところが、なんでもないようでいてすごいんですね。

で、では歩き方はどうすればいいの? と読んでいくと「歩き方が大事なんじゃないです。キレイな姿で歩いてるなと思う事が大事」とおっしゃる。これも言ってる意味が深い。美しく見えるように歩こうとすれば、自然と「歩き方」は正しくなると。「歩き方」という手順・方法にこだわるとギクシャクして良い形にならないですよ、方法論ではなくて意識の持ち方ですよ、というわけです。

これもなかなかにするどいと思うんですね。みんないきなり「カタチ」から入ろうとするもんなぁって思って。こういう「考え」とか「意識」みたいな事が本当は大事なのにってつくづく思います。

あと、骨盤調整は、たぶん腹を凹ませるために、ものすごく大事な事だろうと僕は思ってます。けどまぁ、それはまた別の話なので。

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(3)自分が好きになる 自信がわく 願いがかなう 夢ファイル

うーん、順位を下げようと思ったけど、意外に上にきてしまうなぁ、この本。

えー、自己啓発本っぽくなってますが、僕は単純に「A4クリアファイルの活用方法のアイディア本」として読みました。
そういう読み方をするのは、ちょっと作者が言いたいテーマとは、ずれてしまうんですけどね。でも、僕にとって興味があったのはそっちなので。

書籍内容としては、「自分のポートフォリオをまとめなさい」というだけの本なんですけどね。

たとえば、イラストレーターの人なら、作品をクリアファイルでまとめたりされてると思うんですが、そういう事を、普通の人もキチンとやりなさい、というような本です。仕事の実績をA4クリアファイルでまとめるといいよ、って。それが他者に対する、良いアピールにもなるから夢もかないやすいよ、という、まぁ実に普通の話ですね。

でも、こういう普通の事を普通に書いてる本って少ないのかも知れないです。

僕は最近、A4サイズのクリアファイルを、いろいろ便利で気に入って使ってるんですね。パソコンのプリントアウトから、街なかで入手したチラシまで、適当にほおりこむだけで「本」的な体裁で活用できるので大好きです。少し前からA4クリアファイルを、「どデカい、システム手帳」として使ってきてたので、そういう意味でもこの本は面白かったです。

システム手帳だと、リフィルに穴があいてないとダメなんですが、クリアファイルだと穴がない普通の紙がバインドできるので便利なんですね。これほどすぐれたバインド方法はないよなぁと最近かなり気に入ってます。特に、横から紙を入れるサイドインのタイプのA4クリアファイルは、紙が落ちなくてA3サイズも入るから便利です。音楽の楽譜もA4、A3っていうのが多いので、ウクレレの楽譜とかにも便利でありがたいのです。

この本では「ファイルのまとめ方は単純に最初のページから順に入れていけばいい」という考え方が紹介されていて、「ああ、これは実用的で賢いな」と思いました。普通の紙の大学ノートを買って、頭から仕事のメモを書いていくとかしますけど、あれと同じようにクリアファイルを使ってみるのも良いかも知れません。薄いものなら、300円とかからありますし。

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(4)レバレッジ英語勉強法

例の如く、レバレッジシリーズの本田直之さんの本。今度は英語本です。
んー、実はあんまり書くことはない。内容はとても良いと思いますが、僕は昔紹介した「英語上達完全マップ」のやり方で行きたいですね。

で、実はこのレバレッジ英語勉強法でも、「英語上達完全マップ」はちゃんと紹介されてます。よくわかってるじゃん、本田直之。

「英語上達完全マップ」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4860641027/503-1393334-5299133

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(5)頭の回転が50倍速くなる脳の作り方~「クリティカルエイジ」を克服する加速勉強法

ということで、先月「英語は逆から学べ」を紹介しましたが、その著者の苫米地さんの本です。んー、考え方はすごく面白いんだけど、この人の本って実践の部分がちょっと弱いのよなぁって思う。「英語は逆から学べ」と重なってるところが多かったので、あっと言う間に読めてしまった。

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(6)本は10冊同時に読め!―生き方に差がつく「超並列」読書術 本を読まない人はサルである! (知的生きかた文庫)

これは書評済み。
http://diarynote.jp/d/12917/20080424.html

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(7)本を読む本 (講談社学術文庫)

出版界の新・スーパースター、勝間和代さんがおすすめしたために、なぜか重版されたらしく、店頭でズラリと平積みになっていた本。
本の読み方を書いてあったので読んでみました。

この本で面白かったのは、通読するのではなく、目次や全体をサラサラと斜め読みする「点検読書」が紹介されていた点。
実用的かつ、すごく面白くて「おお、これは良い、これからこの読み方しよう!」と感激したのだけど、冷静に考えると、こういう読み方って、本屋で立ち読みして、買うか買わないかを考えてるときには絶対普通にやってるのよなぁと思うと、一気につまらなくなってしまった、という本です。

基本的に、本好きならみんな、この「点検読書」は書店で本を買う時にやってると思う。
ただまぁ、「速読」ではなく、目次と見出しをバァーっと見ていって、内容を把握するというやり方はけっこう大事だと思います。

後はじっくり読む「分析読書」が紹介されてましたが、それは普通に本を読んでる人間なら、当たり前に感じることばかり。なので、ここまではあんまり読むべきところがない。

残り数十頁でシントピカル読書というのが紹介されていて、これは「自分が決めたテーマに沿って複数の本を読む」という事で、すごく面白いとは思ったんです。
でも、これも、ここの2005年5月3日の日記、「田中角栄の読書法」
http://diarynote.jp/d/12917/20050503.html
で紹介した、「関連項目の書物を一貫目ほども買ってくる」という田中角栄の一言の方がはるかに実用的かつ分りやすいですな。

という事で、あんまり読む意味を感じませんでした。
でも、本を読んでない人は、この「点検読書」も、「分析読書」も、「シントピカル読書」もやってないよなぁと思うと、この本にも意味はあるのかな? とは思いましたね。

読書習慣を持ってない人が、とりあえず読書の基本的な取り組み方を手取り足取り教えて欲しい時には役立つかも、です。

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(8)ほんとうの心の力

この本をここで紹介するのは、実は反則かもしれないんですけどね。
この本はずっと「枕元本」として寝る前にパラパラ読んだりしてた本。買ったのは1年半くらい前です。で、ずっとパラパラ読んで、で、ほぼ最後まで読んであったのですが、ずっとほったらかしにしていて、今月ふと残り20頁くらいを一気読みして読了した、というだけの事です。
中村天風さんの本ですが、中村天風、好きなのよなぁ、僕は。
うむー。

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(9)十牛図入門―「新しい自分」への道(幻冬舎新書)

今回、この本が一番つまらなかったんですが、一言書いておきたいんですね。
これこそ、日本の宗教のレベルの低さで、本当にひどいと感じたので。

「十牛図」というのは、禅をやったことがある人なら、たいてい知ってると思うのですが、禅の公案として、使われている素材なんです。で、「十牛図」の事は前から知ってたんですが、一度キチンと正規の解釈というのを、聞いてみようか、というようなつもりで買った訳です。

そしたらこの本、十牛図が誰の発案で、何年ぐらいに作られて、いままでにどういう解釈がされて、どのように利用されてきたか、あるいは禅における考案とはどのようなものか、というような基礎事実関係の詳述を一切しないままに、この十牛図に則って、この横山紘一というオッサン個人の「わたしの釈迦教観」みたいな話をとうとうと述べてるわけです。

十牛図は禅の発展とともに親しまれてきた図なわけだから、釈迦の教えより時代は随分と下がるはずです。いわば仏教を作った釈迦の思想とは直接的には何の関係もないはず。
あくまで禅を考えた達磨大師の思想体系に沿って出てきた図のはずなわけです。

それを、もう、本当に、自分の妄想の解釈で、あれもこれもお釈迦様、という感じで、十牛図にお釈迦様の考え方をベタベタと自分の勝手な判断で貼付けて、「十牛図解説でござい」と自己満足をしてる。で、とうとう一冊丸々「私の釈迦教観」だけで終わらせてしまってる本なんですね。

あまりにひどい。それで、これでは十牛図について何もわからんじゃないか、もうちょっと知りたいなと思って、インターネットで「十牛図」を検索してみたら、なんのことはない、市井の人たちの解釈の方が、はるかに面白い。なんやねんこれは? って思ったんですね。
もともと公案というのは、いろいろな解釈ができるように作られているから、誰もが自由に解釈できて、それで生き残ってきたのだろうとは思うけど、それにしても、横山紘一のレベルはひどい。本当にこれで書籍にして良いと思ってるんやろか?仏教学者ってなってますけど、こんなもの単なる妄想家でしかないよなぁと、つくづく日本の宗教に関するレベルの低さに驚いたという次第。

今月の1位の島田裕巳とくらべると、その差歴然。本当にひどい本でした。
ちょっと最近本を読むことに関する話が多かったのですが、読み慣れてない人に「読め」と言っても辛いだけなのかもなぁ、という気がしましたので、それ以前の「自分に優しくする方法」について、ちょっと書いてみたいと思います。

これは誰にでも有用な話だと思うんですよ。いろんな本に書いてあったことをちょっとまとめた感じです。

まず、いったい「辛さ」とか「徒労感」とか「無気力感」というのが、どうして起こるのか? というと、それは、

●自分に失望してるから

なんですね。ようするに「何をやってもうまくいかない」と感じてしまう。
この失望感を持ってしまったら人生が灰色になるだけなんですね。

で、この「自分に失望する」と言うことがどうして起こるかというと、実は「自分に期待しすぎているから」なんです。

自分に期待するのは悪くないんですけど、「期待しすぎる」のはよくないんですよ。

たとえば、高い理想を持つこと自体はとても良いことなのだけども、その高い理想的自己と、ありのままの自己を比べてしまってはいけないんですね。そこでの比較をすると当然「いまの自分はできてない」って話になるから。

これは場所の移動を考えて、そのアナロジーで考えると、そのおかしさがわかる。大阪にいて東京に行こうとしたときに、「ここは東京と違う。駄目だ。」とか言うのはおかしいわけです。
いくら目的地が東京でも、現在地は大阪ですから、その比較をしてはいけない。でしょ?

でも人間はどうしてもこれをやってしまうんですね。

たとえばダイエットでもそうです。10kgやせた理想の姿を想像して、その姿と自分を比較して「だめだなぁ」とか思ってたりする。これはまずい。自分を責めてはいけないんです。

でも、この「自分を責める」ということをベースに行動を起こすことが人間はとても多いんですね。

この「自分を責める」をベースに行動するとどうなるかというと、中間目標の設定にムリがきます。

大阪から東京へ行くのに、すごく急ぐから、「京都は飛ばして、まず名古屋まで行こう!」とか思ってしまう。

で、これをやるとどうなるか?

実は、人によっては、すごいスピードで東京までたどりついたりしてしまうんですよ。

「ならいいじゃん!」と思いました?

普通そう思いますよね。

でも、あんまり良くないんです。実は旅の途中が楽しくないんです。しかも、楽しくなかったのに、目標は達成してるから、成功体験になって、次の課題をクリアするのにも「自分を責める」というやり方を使ってしまうし、困った事に、これを他人にも強要してしまうんですね。

そうなると、回りが能力のない人間ばかりに見えてしまうわけです。かなり辛い状態になってしまう。

僕自身、この傾向が強いので、反省しないといけないのですが、これとはまったく逆のやり方も世の中にはあるわけです。

それは、自分に優しくする方法で、これはステップをもっともっと小さくするって事です。
「一気に名古屋とか大変やんか」と、まず大変さをちゃんと自覚する。
「まず大阪市内から外に出よう」と小さな小さな目標を設定するんですね。
で、とりあえず自転車でいいから市内を出る。

で、出た時に「やったー!できたやん俺!」ってほめるんです。
で、ここからが大事なんですけど、ここで、二回三回と繰り返して、この成功体験を積む事と、ほんの少しだけ課題を難しくするということを忘れないようにするんです。

一度うまく行ってるんだから2度目もうまく行くと人間は考えますから、気が楽で、「前よりちょっとだけ長い距離を、今度はバスで移動しよう」と言う具合にステップアップします。

するとどうなるかというと、京都にたどり着く前に、伊丹空港にたどりついたりするわけです。

「今度はバスではなくて飛行機使ってみようか?」となって、実はこっちの方が早く東京についたりする。
しかも楽しみながらやっていて、楽しい。
そういう事が、けっこう、かなり重要なんですね。

大きな流れはこういう事なんですが、ただ、この「自分に優しくする方法」であれ、「自分に厳しくする方法」であれ、どっちにしても東京にはたどりつくんですよ。

でも、唯一、絶対に東京にたどりつかない方法がありまして、実は意外と、それをわかっていない人が多いのかな? とも思うんです。

それはまさに「サル」の話になってしまうんですが、「自分の居場所をわかってない人」なんですね。

この人だけは東京に永遠にたどりつけないわけです。

自分が大阪にいてると分っていれば、そこから東京に行く方法はいろいろあります。

しかし自分がどこにいてるのかがわからなければ、何をどうすればいいのかすらわからないようになってしまうんですね。

具体的に言うなら「サル」です。「サル」は自分が本も読まないサルであるという事を自覚することができてないんですね。だから読めないんです。

で、サルは基礎知識も仕入れていないのに、知識人と同等のつもりで偉そうな事を言ったりします。まさに大阪にいてるのに東京にいてるかのような事を言ったりするわけです。

ネットでも時折そういう人を見かけますよね。それはやっぱりみっともないです。

ダイエットなんかでも同じですね。大事なのは、まず自分がどれだけたくさん食べているのか? という現状把握をしないといけません。それをせずに、ただ量を減らしただけでは、ほとんど意味がない。

一日の摂取カロリーが2500kcalにもなってる人が、いくら100kcalや200kcal減らしても、まぁ痩せません。何もしないよりマシですけど。
まず、40才くらいなら、一日の必要カロリーが1500kcal〜1700kcalくらいで、自分は1000kcalもオーバーしているのだ、という自分の居場所と目的地を明確にした「全体地図」を見ないと移動できるはずがないんですね。

例の「いつまでもデブと思うなよ」は、だからレコーディングダイエットという事で「毎日食べたものをメモせよ」というところからはじめてる。

まず自分が一日にどのくらい食べているのかを「食事をガマンせずに」(←ここが大事! 死ぬほど大事! これこそが自分の居てる場所、大阪を知ることなんです。)メモして、その事実を知る、という事なんですね。

本を読む事に関しては、読まない人は「サル」なので、まず自分がサルである、という事を自覚するところからはじめないとしょうがないわけです。

実はこれ、「無知の知」という、ソクラテスの言葉そのものなわけです。
「あなたは自分が無知であることを知らない。だが私は自分が無知であることを知っている。だから少なくとも私は、あなたより賢い」
ということですね。

本を読む人は、必ずこれを自覚しています。
つまり実は、いちばん最初に「俺はサルだ」と自覚した人だけがキチンと本を読む力を身につけられるんです。

「お前はサルだ」と言われて腹を立てて本も読まない人は、永遠にサルのままです。
「お前はサルだ」と言われて「そうだよなぁ、その通りだよなぁ。」と思える人だけが、ちゃんと役立つ知恵を得られるんですね。

こんなことは本を読む人間には自明の理。大阪から東京に行くには、まず自分が大阪にいてる、という事を知らねばならない。そういう事です。

でも、まず、この最初の一歩がわかってない人がけっこういてるので、ここはあえて書きました。

で、この「自分はサルだ」という自覚があった後に「自分に優しくする」が来るのがいいんです。
本当に「俺はサルだ」という深い自覚があってはじめて、いきなり名古屋を中間目標にせずに大阪市外を目標にできるんですね。

でもやっぱり自分はサルだと自覚するのは辛いので、ついつい人間は自分を人間だと思いたくて名古屋を目的地に設定して、楽しい旅ができなくなってしまうんです。

だから、こういう事を含めて、成毛眞さんの言う「サル」という言い方は非常に正しいんですね。
本当に正しいし、大事な事なんです。

でもなぁ、サルと言われて怒るような人には、このあたりの大事さはわからんよなぁ。

自分がサルで無知でどうしようもない、という事を客観的に自覚できれば、目標もそんなに高く設定しないし、目標を低くすれば、自分を責めることもなくなってとても良いのですよ。

適切な目標設定というのは、本当に大事で、これは「ムリせずラクラク実行できる設定」にしないといけないんですね。目標が低いと達成がラクで、すごく楽しい。ここがすごく大切で、そのラクさ加減は、「いかに自分がサルであるか」を自覚している度合いに比例します。

このあたり当たり前の事だと思ってたのですが、どうもそうではないんですねぇ。

先の読書習慣を身につける、という話でも、齋藤孝さんが言う、「4年で100冊程度」というのは、たぶん一番低い目標設定だろうと思います。2週間に一度は本を読むくらいの頻度でないと「読書習慣が身に付いている」とは言えないと思うんですよね。これより少ないと月に一冊ですから、これはもう読書習慣が身に付いてるとは言い難い。

なので、4年で100冊程度、というのは最低限の単位として適切だろうと思います。
で、その内容も、何を読んでも良い、というくらいに低くしておくのがどうも正解のようですね。
ある程度いろいろ良い書籍と出会ってる人間は、どうしても「これが良かった!」と自分の趣味を押しつけてしまいがちなんですが、それは実は自分が134冊目に読んだから感動した本、なのかもしれないわけです。
それを、まだ24冊しか読んでない人に言っても効果がないって事はあるわけですからねぇ。

本当に無知の知のある人なら、それこそ歴史の勉強をするのに、横山光輝の漫画あたりからはじめるわけですよ。ラクやもん。そのほうが。
「俺、根が続かんし、歴史苦手やさかい、漫画で読も。」とか素直に思える。
それは自分がサルである、と自覚してるからです。

(ちなみに私、三国志、史記、徳川家康などなど、かなりの歴史読み物は、横山光輝でしか読んでないです。とほほほ。でも、あれは役立ちますからね。読んで損はないです。漫画喫茶を使い倒したって感じ。)

つまりは、

●俺ってサルよなぁ。

と自覚することと、

●サルでもできる○○する方法。

を編み出す事が、
「自分に優しくする方法」の真髄だってことなんですね。

ここらあたりがわかってないと、人間は永遠に理想の自己に負ける、失敗者となって生きるという事になってしまいます。
理想の自己と自分を比較して「駄目だなぁ」と自己嫌悪するだけ。で、何も達成できないか、達成できても「自分を責める」方法でしかやれなくて、ノウハウを他者に手渡せない人になるか、です。

それよりも「俺ってサルよね。」と自覚して、自分に優しくする方が、数千倍意味が大きいのです。

ま、てなことで。
えーと。また本を読む話。

本は好きなんですけど、やっぱり「読むべきだ」「読まなくてはいけない」と思って読んでる部分は、あるわけです。

なので多少は強制もしてるんですね。

で、やってみて、まぁまぁ良いかな? と思ってるのが、

●未読本棚

です。

とにかくどんどん買ってしまって、買うだけで読まないってのも多いので、買った本は、家から出る時に目に入る玄関に近い位置に棚を置いて、そこから選ぶという形にしてます。

逆に、買ってきたときは、とにかくすぐに、この「未読本棚」に置いてます。
背表紙を見ておくだけでも「次はあれを読もうか」とか思うので、良いのです。

続いて

●読書中本のカバー飾り

これは、読んでる最中の本の話です。
まず、カバーにデカデカとタイトルがあったりすると電車だと頭の中をみなさまにさらして移動してるような状態になるので、カバーを外すんですね。で自分でオリジナルのブックカバーをつける。

で、だいじなのは、ここで、外した方のカバーを未読本棚に「飾る」ことなのです。本にブックカバーをすると、どの本をカバンに入れてるかわからなくなっちゃうので、未読本棚にカバーだけ飾って「いま、この本たちを読んでるのだ」と意識しとくわけです。これが意外に良い感じで、半年くらいずっと続けてます。

●毎月の読書予定リストをつける。

名刺サイズくらいの小さなメモをToDoも兼ねていつもポケットに入れてるのですが、そのうちの1頁を「今月読む予定本一覧」にしてありまして、読みたい本とかをリストアップしてます。
で、読み終えたら線を引いて消す。これが気持ちよいので、読み進めやすいです。

ひと月に読むのは6〜9冊というところですが、この読書予定リストには10冊以上書き込んでることが多いです。「どっちを先に読もうかなぁ」とか考えるんですね。
まぁ、未読本棚の持ち歩き版とも言えます。

●手帳に読み終わった本のタイトルを書く。

読み終わったら手帳の読み終わった日のところに本のタイトルを書いておきます。
で、毎月読んだ本を、ここで書いてるので、月の頭から数えて何冊目になるのかだけを記録しておきます。

3/16
(3)1分間自己革命

とかいう感じですね。今月の3冊目を読み終えたという事ですね。
これも「いま月に何冊目なのか?」がわかるので、「もうちょっと頑張ろう」とかのモチベーション維持に役立っています。

●分散読書

これは最近あんまりやってませんが、家の中のいろいろな場所に本を置いておく、というものです。
家の中の空間は、それぞれの機能によって役割が違うので、その機能にあわせた本を読む、というものですね。

食事をするテーブルには、健康系を置くことが多いです。食に関することとか、料理本とかいろいろ。
枕元には精神修養的なのが多いかなぁ。「怒らないこと」とか「ほんとうの心の力」とか、そんなのを置いてます。
トイレには、わざわざ棚まで作って本を置いてますね。ホームセンターで板きれを買ってきて、金槌でクギを打っただけの棚で、トイレットペーパーのストック棚を兼ねてます。トイレは英語の前置詞の使い方本とか、1頁単位で独立して読めるようなのを置いてます。ほんとうにちょっとした隙間時間で読めるし。

●読書カンヅメ

有名作家が本を書くためにホテルにカンヅメになったりしますが、あれと同じ事ですね。仕事が早めに終わった日とか、本を読むためにファミレスやら喫茶店に入って集中して読みます。
特に7割8割、読み終わってて、最後の追い込みっていうような時はよくやります。

●3色ボールペン読書

これは齋藤孝さんの影響。成毛眞さんは「本に線を引くなんて!」と否定してるけど、僕は絶対、圧倒的に齋藤さん派。効率が違うもの。読み直しする時とか、ブログに何か書くときとか、あと「速読」の役にも立ちます。あんまりおもしろい本じゃないな、と思ったら、斜め読み、飛ばし読みをするんですけど、その時はポイントだけにサッと線を引いて他はザクザク飛ばして読んでいくのです。で、とにかく読み終えてしまう。

そうやって最後まで読んでみたら、後半にやたらと良いことが書いてあったりして「おお、よく最後まで読んだもんや!」と思うことがよくあります。「二回くらい読んでもいいや」というような軽い気持ちで、気を抜きながらザクザク読みをするという時に線を引くっていうのがいきおいがついて良いのです。

僕は齋藤さんみたいに厳格に赤青緑を使い分けてるわけではなくて、赤と緑だけ。それもほとんど赤だけですね。「ここ大事!」というとこだけ線を引く。それと個人的に「おもろ!」と思ったところには緑。でも緑は少ないなぁ。あと思いつきを赤でメモしておくこともあります。こういう時は本が「ノート」の役割を果たしてます。

という事で、線を引くのは大変有効です。成毛さんは、単なる神経症。あれは完全に間違いですな。本好きなのはわかるが、線は引いた方がいいです。線を引く=汚すというのは、齋藤さんいわく、ひとつの「決断」が必要で、間違っていてもいいから、この「決断」を下す事が「読む力」を養うと言っておられるのですが、その通りだと思います。線を引くと「ひとりよがりな読み方」はしなくなります。本に書かれている言葉を、「誰もが共有している意味」で読むようになります。そういう事がとても大事だと思うので、線引きは絶対に必要です。なので成毛眞は間違い。これは断定しときます。

本は自腹で買って、その自腹で買った本を「汚す」という決断を繰り返しながら読むのです。まさに必死で読む。それが大事。自ら読んでいるんだ!というのが大切なのです。娯楽本だと上手に「読まされて」いるだけで、「自ら読んでいる」のではなくなっちゃうわけです。

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うーんと、このくらいかなぁ。
思いつくところでは、読書量を増やすために僕がやってるのは、このくらいでしょうかね。

で、このくらい強制力を働かせてでも、読んだ方が良いのが「本」です。

本を読まない人から見たら「何もそこまでしなくてもいいじゃん」とか思うかもしれませんが、読めば読むほどに「本ってのは素晴らしいね!読まない奴はバカだね。こんなに投資効率の良い商品なんて、他にないのに!」って思いますから「もっと読もう!」になるんですよ。そういうものなのです。

本読みの人なら、その有効性は、深く深く深く分ってると思います。圧倒的に有利で、得る所が多くて、精神生活が豊かになる。ありとあらゆる面でメリットがあるわけです。

しかし、読んでない人は、そのすばらしいメリット自体をわかってないんですよねぇ。

ひどいのになると「ああ、あんな本を読まなくて良かった」とかくだらん事を言ってる。たとえば、トンデモ本シリーズとかはその類ですね。トンデモ本シリーズだけを読んで「ああ、読まなくて良かった!」とか言って自分のサボリを正当化しようとしてたりする。

自分で読めよ、おまーら! バカか、おまーらは。自分で読んで良いか悪いか判断しろよ。お前には脳みそはないのか? と言いたい。

(実際、あのトンデモ本シリーズを書いてる人の中には、ちょっと人品骨柄がよろしくない人がいたりするからよけい困る。実はちょっとメールのやりとりをしてみた事もあるんですが、かなりレベルが低かった。レベルが低いのだけは、けっこう文面から読み取れてしまいますからなぁ。ともあれ「読まない」から始まるコミュニケーションなんかないわけですから、トンデモ本だけ読んでるような人っちゅうのがいたら、かなりおかしい。のですが、あれ、けっこう固定ファンがいてるのよなぁ。アホの集まりや。ようするに。笑。)

ともあれ。

ここに書いてある程度の努力をすれば、まぁ月に3冊や4冊くらいはラクラク読めますからな。読めよ!本当に。何がどうあろうと絶対に得なんだから。絶対に損はないんやから。

一冊1500円、数時間で、パッと世の中の見方が変わって、いきなり世間の見通し力が上がるんだから、読む前にごちゃごちゃ言ってないで、とにかく読みなさいっていうの。百の言葉より行動。読むというのは行動の事なのです。行動しない人間が信用されないのは当たり前で、「読んだ」というだけで信用度が全然、まったく変わるのです。それだけでもメリットは何百万円の価値があるわけですよ。

逆に「これこれの本を読んだら?」と言われて読まなかったら、読んでない間、ずーーーーーーーーーーーーーーっと相手にバカにされ続けますわね。で、絶対永遠に信用されません。どーーーーーしたって絶対に信用されませんよ。絶対にです。どんな事があっても信用されません。
当然でしょ?

まぁ興味の幅というものがあるから、読まなきゃいけないってもんでもないんだけど、基本的に読んでなけりゃ、その分野での発言は、読んだ人からは信用されないってことだけは覚悟せなしゃーないですわな。これは。

逆に言えば、読めば、その段階で同じ土俵に上がれるので対等に話しが出来るわけです。
これが、仕事関係の人間だったら、同じ本を読んだことがある、というだけで、かなりの信用度になるわけです。少なくとも問題意識と「行動」は共有してると思ってもらえるから。

これだけでもものすごい投資効果でしょ? 思いませんか? だから本は読まなければいけないのです。絶対に読まねばいかんのです。日本には聖書がないのなだから、なおさらなのです。

だから、読まない人はサルと言われてもしょうがない。反論の余地はまったくないですからな。

だから読まない人はサルなんですよ。読んだ人間からしたら、そらそうにしかならない。人の話を聞いてないというのと同じ、聞く耳持ってないですと表明してるのと同じですから。そんな人間が信用されるわけないから「バカか、こいつは」ってなるだけでして。

ほんと、バカはキライです。
最近ずっと「本を読む」という事ばかり書いてるんですが、考えてみると、「本を読む」というのは、そうそう誰にでもできる事でもないんですよね。

実は、本を読むためには、それなりに環境を作らないと難しいんだと思うんです。

僕もひとりで自宅で仕事をしてた時には、あまり本が読めなかったんですね。自宅で仕事をしてると、テレビやら趣味のあれこれやら、いろんなものがあって気が散るわけです。本なんか読んでられない。

自宅でそうやって仕事してるうちに「あああ、本が読みてぇ!」と言う気持ちがすごく高まってきまして、実はいま自分で事務所を借りて仕事をしてるわけですけども、それは「本を読むため」でもありました。

「事務所を借りたら、そこにはゲームもテレビも持ち込まないから、ゆっくり本や新聞が読めるだろう。」というのが事務所を持とうと思った最初の動機だったというわけで。

で、じゃぁ事務所を持って、その事務所で本を読んだか? というと、実はあんまり読んでないんですよね。新聞はけっこう読んでたんですが、本は読まなかった。だって、仕事しなくちゃいけなかったんだもの!(笑)

考えたらこれは当たり前の話で、普通に仕事してる人だって会社に出かけたらそこで仕事をするわけですから、本なんか読んでられませんわ。

でも、やっぱり事務所を持つと本は読むようになったんですね。なんでか? 「通勤」です。電車の中。
この時間は本当に他にすることがないわけですよ。通勤時間って、それこそ何もできない。

まぁ、いまの世の中なら携帯でメールとかニンテンドーDSするとかあるかもですが、いまから20年前には、そんなものはない。
なので、電車の中が、一番の読書室でした。

そういう事を考えてみると、まず通勤電車の中で本を読む習慣を作らないとダメでしょうね。これができない人は、まぁ本を読めません。

僕の場合は、片道で20分くらいでした。往復で40分。これは引っ越ししたり色々してますが、いまでもそう変わらないわけです。

一日に40分の読書時間があるってことですね。
まず、このボリューム「だけ」で、週に4日だけ読んだとしても160分。2時間40分ですから、まぁ新書なら一冊くらいは読める。もう少しボリュームのある本でも、二週間あれば一冊読めます。

という事は、一年で25冊くらいは読める勘定になります。

この週に4日くらいは通勤電車の中でコツコツと本を読む、ということをやってるかどうかで、知的レベルははっきり変わります。

本を100冊読む、というのは、ようするに、この通勤読書を4年続けた、という事になるわけです。
4年です。4年。

4年やっていれば、本当に普通の習慣になって完全定着します。
で、この習慣を持つか持たないかで、その人の能力というのは、大きく変わってきます。圧倒的に違うと言ってもいいです。

たかが片道20分です。しかし、この20分をバカにしてはいけない。この20分こそが明暗の分かれ道なんです。

はっきり言って、成毛眞氏が言うように「本を読まない人はサルである」なんです。

で、この「読まない奴はサル」というのは、読んでる人間からすると、もう、あまりに当然、圧倒的なる事実、なわけですよ。
ところが、「読んでない人」には実感として全然わからないんですね。バカは、自分がバカである事に気付けないんです。

ここがとんでもなく大事で、じゃあ本を読んでる人間は、賢くなろうと思って日々努力したのかというと全然そうじゃない。本が読みたくて、通勤時間がもったいないから、その隙間時間を活用しただけなんです。

でも、4年とか10年とか経って、身の回りを見回してみると、圧倒的な差が出来ている。で、その圧倒的な差を、「読んでない人」は、実感することすらできてない、という事な訳です。

実際、現実問題として、本を読んでない人間とは、話自体ができません。別世界の人種と言ってもいいくらいです。話が通じないんですね。あまりに知的レベルに差がありすぎてコミュニケーションそのものが成立しなくなってしまう。

日本人は、サラリーマンがとても多くて、多くの人が長距離通勤をしてますが、そういう人の中に、やっぱり通勤時間にコツコツと勉強する人がいて、そういう人こそが、この国を支えてるんですね。それはもう、最近、すごく実感します。本を読んでない人はサルなんです。ほんとに。

毎日本を読んでいると、面白いもの、つまらないものにもぶちあたるので、僕の場合、時たまカバンに二冊くらい本を入れて持ち歩きます。スイッチするためですね。気分で選ぶ。で、知り合いで、大変すぐれた営業の方がおられて、その人と話をしてたら、その人はカバンから本を3冊出してきた。
「いやー、飽きるでしょ。そやから3冊入れてるんです。」とおっしゃる。

二冊と三冊。
この差。
これも意外にバカにならんのです。
やっぱり読む人は読んでる。上には上がいる。
その人は、ビジネス書に重心をおいて読んでおられるようなので、ビジネス面では僕は全然かないません。たいしたもんやなぁって思います。

で、この、二冊持ち歩くか、三冊持ち歩くか、というのは、一日に3分の隙間時間を見つけて読むか読まないかの差なんですね。
僕の場合は「そこまでしなくていいや」と思ってるから二冊しか持たない。なので3分の隙間をムダにしてるんです。ムダはムダでしかないんですよねぇ。もうちょっとがんばらなきゃ。

さて。その「3分の差」なんですが、本というのは、読み切れないほどたくさんあるので、その隙間でたまたま読んでみた本が、大きな出会いになって、人生を変える、という事があるんですね。

人生を変えるということがある。

人生を変えるという事があるんです。本当に。たった三分の時間の使い方だけで、まったく人生が変わるんです。世の中が変わって見えるし、パースペクティブが変わる。見通しがいきなり良くなる。

「あああ、ああ、そういう事だったのか、世の中は!」って思う。この爽快さと気持ちよさ。
これなくして、読書する意味はないというほどのものです。

読書をしない人は、暗い牢獄に自ら入り込んで、うめいて、文句ばっかり垂れてるバカなんですね。まさにサルなんです。それも自分でその牢獄に入ってるわけです。20分の通勤牢獄です。

でも、読書をする人は違います。その20分で、世界中の碩学たる人物と対面し、対話をし続けている。時間を超え、空間を超え、この世の成り立ちと仕組み、幸せとよろこびについて教えてもらっているわけです。

そんなもの、圧倒的な差になるに決まっているではないですか。最初から論議する必要すらないわけです。

だからやっぱり、本を読まないといけない。

通勤読書を続けていると、時折、それこそ、続きが読みたくて仕方ないような本にも出会います。そういう時、読書をしている人間は、まっすぐ家には帰りません。帰ったらテレビを見ちゃうもん。家族と話しをしてしまうもん。

だからファミレスに入ります。喫茶店に入ります。そこで20分なり、1時間なり、読書にふけります。これぞ、至福の時。
有名・無名多士済々の方々と、ちょっとお茶をするようなものです。「へぇ、そうなんですか!」「わぉ!それは知りませんでした!」という発見と驚きに満ちた、ワクワク・ドキドキの時間です。

こんな素敵な時間はない。
こんな素敵な時間はないのです。
ほかにはない。ネットじゃあダメ。ムリ。
インターネットは、いつまでどこまで行っても「部分」にしか触れません。「全体」としてまとまった、キチンとした概念を理解することはできないんです。
いや、よくできたサイトはあるから、それをキチンと読めば、かなり読書に近いかもしれないけれど、でもそれを電車の中で読むのはかなり辛い。紙の書籍の手軽さ便利さには、はっきりくっきり劣ります。(だって赤線も引けないじゃないか!)

だから本です。
本を読まない人は、掛け値無しにバカなんです。
どうしようもない。
ものすごい差です。

自宅で仕事をあのまま続けていたら、どれだけバカになっていたか、という事ですね。
20分往復読書だけで、10年で200冊や300冊の本は読めます。20年なら600冊とかです。

自宅で仕事をする自営業の人間には、通勤読書をする習慣というのが身に付きませんから、こういう圧倒的な差が生まれるのだ、という実感自体がないでしょう。しかし、これはかなりハードで大きな、厳しいリスクです。かなりきついリスクと言っていいと思う。

そういう意味で、20年ほど前にムリしてでも自分の事務所を持って通うようにしたのは正解だったなぁとしみじみと思います。あのまま20年たっていたら。まぁ本は好きだからずっと読んではいたでしょうけど、500冊1000冊読めてたかというと、ムリだったでしょうね。せいぜい200冊だろうなぁ。

しかし、ま、どんなにゆるやかに読んでいても、通勤読書をしていれば、20年で500冊は読めます。

500冊読めば、どれだけ適当な読書をしていても、仕事や生き方、考え方を大きく変えて、気持ちよく前進させてくれる「恩人」ならぬ「恩書」に数冊は出会います。人によって何に感激するかは異なるでしょうが、大きな刺激を受け、人生が変わる出会いが必ずあります。

だから、読書は数なのです。
生き方は人それぞれ。成長の過程も人それぞれ。
だから、大きな影響を受ける本もひとそれぞれ。

でも、とにかく数を読まないとしょうがない。
とくに日本人は「倫理観」が明文化されてませんから、それはもう、ありとあらゆる人と対話することで倫理観を磨くくらいしか、他に手はないんです。

本を読んでもいない人が、他者に「なるほど」と納得させられる意見なんて言えないんです。
これは、どうあがいてもムリなんです。できるはずがないんです。よほど何かが得意な人でないとムリ。(イチローとかね)

で。最近気付いたのは、僕は自宅にソファというものを持ってないんですが、ソファを部屋の真ん中にドカンと置いたら、意外とそれは良い読書空間になるかもなぁという事なのです。

主婦とか、自営業の人とかは、まずこれかも知れない。
家の中でくつろぎながら本を読む空間をまず作るって事ですね。
寝っ転がって読める。手元が暗くならないように、灯りはちゃんと用意しなくちゃいけませんが。

そういう環境さえ作れば、本を読む習慣は作れるかもしれない。(でも難しいんよねぇ、自宅では。)
やっぱりいっそ近くの喫茶店やファミレスに、毎日出かけるってことでしょうね。
仮にコーヒー一杯400円だったとしても月に1万円ちょっとの投資。そのくらい安いもんです。
絶対に安い。

月に1万円とか1万5千円投資してでも、本は読むべきものだし、元は取れる。
齋藤孝さんがおっしゃるように。「本は読まなければいけないもの」なのです。「読んでも読まなくても個人の自由」では決してありません。これを個人の自由だと思ってる奴は明確にバカです。
何を読んでもいいから、とにかく読め。それが人間としての義務です。そういう事です。

あ、あと、地域の図書館で読んでる奴!
読まないよりはマシやけど、出版業界は苦しいんや。そういう泥棒猫みたいなせせこましい事をするな。
金も出さずに知識を得るということは、ものすごく、ものすごく、ものすごく恥ずかしい事なんやぞ!
恥やと思え。
そういうのは人間のクズです。
泥棒ですから。

(ちゅう事で、わざわざ書くこと自体無意味ですが、ファイル交換ソフトとかで各種著作物を盗人してる奴および、ファイル交換ソフトを擁護してる奴は、ただそれだけで人間のクズです。なぜなら「自己投資をする」という当たり前の事や、「自分の楽しみを、自分の稼ぎで得る」という自分の喜びを放棄してるから。つまり、「自己否定」なんですね、それは。自己否定するくらいなら、生きてる価値ないやん。死んだ方がマシ。話にならない。でも、これも、著作物で人生が変わるくらいの出会いとかを受けたことがないと、想像すらできないわけですよ。そういう出会いをしていれば、1500円とかの書籍がいかに安いか。もっと払わせてくれ!と言いたくなるくらいの感激があるわけで、その喜びにうちふるえる経験をしてないバカは、せこせこ盗人作業とか、ウジ虫みたいな事しかできない。カスです。まぁ経験・体験がないねんから、しょうがないねんけど、あまりに幼稚やと思う。)

公的サービスというなら図書館もあまり大衆向けの本とか用意するなよ、とか思うのだけど。

ともあれ、本に線も引けない図書館読書は、実用上あまり役に立たないですし、やめましょう。

本は買って読むものです。

どの本を買うべきなのか。その選択からすでに読書は始まっているんです。

目次を読む、前書きを読む。そうして、似たテーマの書籍のうち、どちらを選ぶかを真剣に考える。

この過程を経ていない知識なんて、結局は体にしみこまないんだから、そういうくだらない図書館読書は時間の無駄です。やめてしまえ!

銭を払うのは「自己投資」です。
自分を育てるためにやる。
その気がないなら「私はバカで良いのだ」と、一切意見を言わずに生きていく覚悟をしないといけない。

そうでなければ、自分で本を買う。そして読む。人生を変えてしまうほどの素晴らしい本との出会いを期待しながら、日々コツコツと読む。ただそれでけです。

ともあれ、通勤をしている人は、それだけで朗報です。あなたには「本を読む環境」が整っています。

書店へ行きましょう。そして、選びに選んでお金を払って本を買い、それをカバンに入れて電車に乗りましょう。

仕事場へ、得意先へ、家族の元へ。電車があなたを運んでいる間に、あなたは世界中のすばらしい人物と話しをし、教えを受けることができるのです。車両がタイムマシンになったようなものです。通勤している人は、そういう素晴らしい財産を持っています。まず、この財産を活用しましょう。

ま、そんな事で。
本を読まない人はサルである!
最近ちょっと書いてないので、書こうと思ったら、「だいありのーと」のアマゾンへのリンクが張れない状態。
ま、しょうがないので、写真載せて適当に。

紹介するのは、元日本マイクロソフト社長の成毛眞さんの

●本は10冊同時に読め!
―生き方に差がつく「超並列」読書術
本を読まない人はサルである!
(知的生きかた文庫 な 36-1) (文庫)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4837976913/503-1393334-5299133

リンクさせていただいてるgonzagaさんが読んでらしたし、タイトルがけっこうアジってるので、ちょっと読んでみたら1日で読めちゃったよ。

副題のついてる「本を読まない人はサルである!」というフレーズが、まぁ、この本のすべてですな。「そのとおりだ!」と思っていきおいこんで読んだけど、それだけだった、という本。(笑)

言い方はアクが強くて、腹が立つ人は腹が立つだろうけども、まぁ、「ほんまの事やねんもんしゃーないやん」という感じ。実際、本を読まない奴は、掛け値なしにバカだもん。現実的に。

でも、事実をそのまま述べたところで、書籍としては、あんまり面白くないって事な訳ですね。「本を読まない人はサルである!」「そうです。その通り。でも、そんな事実を今更言ってどうする。」って感じです。

パァな奴はずっとゲームしたりテレビ見たりしてるだけですよ。ほんまに。パァはずっとパァです。
テレビを消して本を読むという、そういう簡単なことができないんだから、そういう人間は、この本の存在も知らないよなぁ。

そういう意味で、この本は、「そのとおりだよね」と普通に賛同はするものの、強くお勧めはしないのです。

実際、前半は「本を読んだら出世するぜ」とか、「金が稼げるぞ」みたいな話で、そのくせ、齋藤孝さんみたいに、「どうすれば読書習慣が身に付くか」みたいな親切なノウハウ伝授がないんです。そういう意味で読む価値自体がない。残念ながら。

(ちなみに、齋藤孝さんは「●文庫100冊●新書50冊をまず読みなさい」と明確に数値目標を示してる。目標の明確さ、という意味で、成毛さんよりはるかに意義が高いのですよ。とくに読書習慣のついてない人にはわかりやすい。この150冊を4年くらいで仕上げろと期間まで明示してるし。すごくわかりやすい。こういう事こそが、本当は大切なのです。)

という事で、前半部はあまりにも当たり前の事しか書かれてなくてつまらなかったんですね。「10冊同時に読め!」という言い方にしても、「そんな事、テキトーな気まぐれ読書家ならみんなやっとるわい!ボケ!」というレベルのものです。だって10冊同時に読了せよ」じゃなくて、「読みたいものだけ読めば良い。」であり、「つまらないものは途中でやめてよろしい」なんだもの。それはさんざんやってるって。みんな。

じゃ、なんでわざわざ紹介するかというと、この本、後半がやたらと面白いのですよ。

たとえば、お勧めの本が「おおお、それは面白そう!」と感じるわけです。

「モーセと一神教」ジークムント・フロイト

とかね。僕はユングの方が好きで、フロイトを追いかけてなかったので、このフロイトが最後に書いた本というのを全然知らなかったのですよ。
この本って、ようは、「モーセはユダヤ人ではなく、エジプト人だったのではないか」という仮説を立てて論証してる本なんだってさ!
これだけで、もう無茶苦茶に面白いじゃないか。
あのフロイトが! ああ、そうだったの!知りませんでした、私! ごめんなさい! という感じ。

世の中、面白いことはまだまだあるんだなぁって思う。ほんとに。

他にもいろいろ紹介してくれてるんだけども、どれもこれもやたらと食指が動く。たまりません!
そういう意味で、この本は面白かったのですよ。

で、読み進んでいくと、この本の最後の方で、こういう記述にぶつかって、わたしはぶったまげる事になるのでありますよ。

(引用開始)--------------------
(私の)親は小中学校を通じて1円もおこづかいをくれなかったが、本だけは別であった。近所の本屋で気に入った本を選べば、ツケ払いで買えたのである。選んだ本は本屋の人が家まで届けてくれて、トイレの下のほうにあった引き戸の中に本を置いていった。それを親が確認して、OKが出た本にはお金を払い、ダメな本は本屋に戻すというシステムだった。
(引用終了)--------------------

だとさ。

な、なんなんだ、このシステムは!!!
すごいじゃないか!
子供の自主性と、お金の使い方と、なんだかんだをひっくるめて考えて、かなり(偏ってはいるが)効果の高そうな教育手法であるような気がするのですよ。

いいですか、「1円もおこづかいをくれなかった」んですよ? かなりイビツです。(笑)
でも、書籍に関しては自分で選んで、親が良いと判断したらいくらでもOKなわけですよ。

これはすごいなぁ。
成毛眞の親がどういう人だったのかが、ものすごく知りたい。
「本を読まない人はサルである」みたいな言わずもがなの事を書いてるヒマがあったら、この親の事を書け! バカモノ! 私は、あんたの新鮮味のないゴタクより、あんたの親の作ったシステムの方がはるかに気になるゾ、と思いましたなぁ。

なんで、こんな重要な事が、こういう「読書」について書かれた本の、全170P中の165Pになって出てくるのか、という事の方が、僕にとってははるかに大きな謎であります。最初に書けよ!「はじめに」で書け! こういう事は。ふんとにもう! 何やってるんだ成毛眞は。だめだなぁ、こいつ。良き読者ではあるが、書き手としてダメだって思う。

多分純粋に「本好き」なんでしょうね。それも原日本人的な意味で「本好き」なんよね。

僕の仮説ですが、ある程度知的な素養を持つ日本人は、現実問題として「読書家」になるより他に道がないんだと思うんです。

なんでかというと、日本は敬典宗教ではないから。つまりキリスト教の聖書のように「倫理基準」を明確化する聖典が確定されていないから、です。

だから、あるていど知的に成長した人は、倫理基準を求めて、多様な倫理構築のシミュレーションをするしかなくて、そのためには、多様なモデル習得をせざるを得ず、その方法として「本を読む」以外に道がないわけです。

聖書が「倫理の基準値」として明確化されてたら、とにかく原点ゼロをそこに求めて、そこから考えを進めていけるわけですけど、日本人にはそれがない。だから山のように本を読んで、多様なモデルシミュレーションをする以外に良い方法を思いつけなくなるわけです。

そういう意味では、成毛眞さんって、ほんっとーに原日本人だなぁ、と思う。たとえば、こういう発言。

(引用開始)--------------------
拠(よ)るべきものを持たない無宗教の私にとって、本は人生のすべてである。
(引用終了)--------------------

人生のすべて!
人生のすべて!

人生のすべてですよ!人生のすべて!
いや、そうなるしかないんだけどさ。聖書もタルムードもコーランも持たない日本人なら、そうなるしかない。時代とともに変化する倫理観を、必死になって色んな本を読みながら微調整し続ける以外に、日本人の倫理観を確立する方法は皆無なのですから。
皆無です。皆無。敬典宗教じゃないんだから、こればっかりはしょうがないんです。

そういう意味では、成毛眞さんは、そういう日本人としての限界も可能性もキチンと分ってる人ではあるって事ですが。

(敬典宗教でない日本では、だから、たとえばDNA技術の倫理基準を考える、だとか、死刑の問題について考えるとか、優生保護法における子殺しの善し悪しを論じるとか、そういう「命」に関して論議すること自体が「不可能」なんですね。定規がないのに、紙のサイズを伝達できないというのと同じ事です。政府直属のプロジェクトチームで、そういう問題の法的落しどころを探るとかやってるけど、「大変やろなぁ、基準値もなしにそういう基準を決めなきゃならんのやから。ごくろうさまです。」としか思えない。
なので、こういうことに関して、本も読まずに自分の考えを固めようとかしてる人間は、単なるバカです。考えてるヒマがあるなら、本を読め、っちゅう事ですな。考えるだけ時間の無駄。答えが出るわけないねんもん。その「答えがでるはずがない」という事を知らない、という事がいかに不幸か。って事なんですけどね。でも、不幸な人間はずっと不幸なままを望んだりするから困る。)

無宗教の日本人は本を読む以外に、まともな倫理観の育成は無理なわけです。
そこのところを正しく自覚してるだけでも成毛眞は大したものです。

それと、「本好き」としては、大先輩というか、かなり上のレベルの人なんだなぁって思う。
こんなしょうもない本を書かずに純粋な書評の本を書いて欲しかったなぁ。
ようは「おもろい本って、まだまだあるでしょ。出し惜しみせずに、もうちょっと教えてよ。」っちゅう事でした。

と言うことで締め。

●本を読まない人はサルである!

ちゅうことであります。
はい。
3月に読んだ本
また、読んだ本の一覧です。

今月は7冊。ちょっと少なめ。読んだ順です。

いつまでもデブと思うなよ
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4106102277/503-1393334-5299133

1分間自己革命
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4478730350/503-1393334-5299133

環境問題はなぜウソがまかり通るのか
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4862481221/503-1393334-5299133

夜中にラーメンを食べても太らない技術
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4594055923/503-1393334-5299133

英語は逆から学べ
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4894512963/503-1393334-5299133

ミネラル豆乳ダイエット
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/409310364X/503-1393334-5299133

なぜあの人はモテるのか--科学が解き明かす恋愛の法則
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4797338016/503-1393334-5299133

(1)いつまでもデブと思うなよ

今月は、もう、圧倒的に、この本でありました。「いつまでもデブと思うなよ」。
もうね、現代人必読の書だと、僕は思いました。

この本、ダイエット本だとみなさん思ってるでしょ。その通りです。(笑)
でも、実は、僕はそういう読み方より、「デブの国からヤセの国への旅行記」として読んだのです。そういう読み方をするのが、僕には無茶苦茶におもしろかったのです。

著者の岡田斗司夫さんは、オタク評論家として有名な方ですが、この本を書く前は170cmで、107kgという体格だったわけです。それがたった1年で50kgものダイエットに成功してます。その方法は「レコーディングダイエット」と岡田氏が呼んでいる「食べたものを詳細に記録する」という方法だったわけです。

成果が成果なので、そのダイエットの手法ばかりに注目が集まりますが、それよりなにより、僕は岡田さんがその体験の中から実感したという、

●いまの世の中は「見た目主義社会」になっている。

という主張に深く同意するのです。というか、それが現実になっているのだ、ということを、改めて心に刻んでおかなきゃ、という気持ちになりました。

要するに、世の中は昔なら家柄が良ければそれで評価される「家柄社会」だったが、それが「学歴社会」に変って、とにかく頭だ、という時代が続いたと。しかし、最近では、良い大学を出たからと言って、かならず経済的に成功するわけでもなくなったし、「学歴」という価値観も崩壊しつつあると。

そういう流れの中ではっきりと出てきたのが「見た目」なのだと、岡田さんはおっしゃる。というか、体験の実感からそれを説き起こすんですね。

具体的に岡田さんにとってショックだったのは、「太っている限り、どんなに良い内容の本を書いても、相手にされない。」という事だったようです。

だいたい岡田さんが、本の内容の話をしても、太っている間は、内容を読むより先に「そんな内容の事をあなたが書いても、キャラクターにあわないから、やめたほうがいいよ。」と平気で言われていた、という事なのですね。

しかし、痩せてからは、そういう事を言われないのだそうです。

で、この手の「見た目でキャラ付けして判断してしまう」という事を、僕自身、無意識のうちにしてしまってたよな、という事なのです。まさにそういう事を僕自身がしてた。
で、多分それは、それが時代の逆らいようのない「傾向」だからなんですね。

社会がそういう流れになっているのに、それに逆らう事はできない。もちろん、「見た目で判断してはいけない」とは思うし、自分で注意もするけれど、世の中全体がそういう流れになっていると言うこと自体は変えられないのだから、個人の努力でどうこうしようとしてもムダなのだ、という事なんです。

で、デブかヤセか、というのは、骨格などと違って、自分の意志でコントロールできるものなのだ、ということなんですね。つまり「デブの国からヤセの国」へは、行こう! と思えばいつでも移動できるという事なんです。太っている人は、その自分で出来ることが、できていないという事なんですね。だから評価されない。恐ろしい事ですが、ようはそういう事なんですね。とにかく、まず痩せてないと、評価のまな板に載せてもらう事自体が難しくなってしまうんですよ、という話なんです。

この「いつまでもデブ…」という本の本当にすごいところは、そういう冷酷な現実を、冷酷に受け止めて、「だから痩せなきゃいけないんだ」としてるところだと思います。

身も蓋もない現実の姿の直視、と言う奴です。

そういう意味で必読の書だと僕は思いました。お勧めです。

(2)1分間自己革命

この本は、あらためて書評します。僕にとって原点のような本です。人生を旅していくのに、いつも戻る場所。とても大切にしている我が家のような本です。

(3)環境問題はなぜウソがまかり通るのか

この本も、なかなかに良い本でした。環境問題というのを、科学の目で的確に見ていると思います。いろいろ「読み方」を注意しなくてはならない部分が多々あるとは思うのですが、おおむね言ってる事は正しいだろうと思います。

ただ、それでも、環境問題は、「もともと政治問題なのだ」という点でのつっこみが、少し弱いので、さて、そこをどう考えるのか? という気はします。

このあたり、かなり微妙な話を含みますので、またいずれ書きたいです。

ちゅうかね、「環境問題とはもともと政治問題なのだ」という視点を持つ事自体、僕はごくごく当たり前の事だと思ってたんですが、どうも世の中はそうではないらしいんですよね。どうもそのあたりは、整理して書かないとまともな論議にならないよなぁ、っていうのが、僕の実感なので、こういう話に関しては、また書きます。

(4)夜中にラーメンを食べても太らない技術

「いつまでもデブ…」の流れから、気になって読んでみた本ですが、かなり面白いです。同じように定食を食ったとしても「食べ方」で太りやすくなったり、太りにくくなったりするそうです。

ひとつには「食べる順番」ですね。いきなりご飯から食べるのではなく、野菜やみそ汁から食べるとかすると、インシュリンの急激な増加を防げるので効果的だ、とかね。

とにかく、この本は面白かったです。けっこうお勧めです。

(5)英語は逆から学べ

この本も面白かった。「そうか、そういう考え方もあるか」と新鮮でした。英語学習には、クリティカルエイジというのがあって、3歳までとか、小さいうちに習得しないと、それ以降に新しい言語を身につけるのは難しいという考え方があるのですが、その「クリティカルエイジ」の問題を「乗り越えられるのだ」としているところが面白いです。

ま、これも機会があれば紹介したいですね。

(6)ミネラル豆乳ダイエット

これも「いつまでもデブ…」からの影響。「いつまでもデブ…」に紹介があったので、読んでみました。が、まぁ基本的には知っている知識の範囲内の話だったので、参考まで、という感じでした。
でも著者が漫画家の赤星たみ子さんなので、楽しく読めましたよ。マンガもちょろちょろ入ってるし。
なにより赤星たみこさんって、一時期少女漫画を読んでた時期があって、その頃にデビューされた作家さんなので、「あー、懐かしいなぁ」という感じがありました。

悪い本ではないです。興味のある方はぜひ。

(7)なぜあの人はモテるのか--科学が解き明かす恋愛の法則

この本、内容はおもしろかったんだけど、タイトルがウソばっかしなので、そこが問題ですなぁ。(笑)

実際の内容に即してタイトルを書き換えるなら、
●おもしろ実験アラカルト。恋愛からしゃっくりまで。
みたいな感じです。ようは、ちょっと面白い科学実験やら仮説やら心理学的なテストやらで、人間の体とか感覚に関するようなテーマのおもしろいものばかりを集めただけの内容です。

しかも軽い。無茶苦茶に軽い。

まぁ読み物として面白いのだからいいのだけれど、こういうのを読むと、本当に「新書」っていうのは、雑誌の娯楽記事と何も変らないモノになったんだなぁとつくづく実感するしかないのであります。

いま現在の新書の「質の低下」というと、この作者の人に失礼になっちゃうけど(この人、文章テクニックとしては、かなりレベルは高いんだと思うんですよ。軽いけど。)そういう書籍界の状況がそのままストレートに反映された本ですねぇ。

でもまぁ、内容としては面白かった。読んで損はないです。得も少ないけど。(笑)
毒にも薬にもならない本ってところですかね。
たまにはこういう本も良いかも。

という事で、今月はこれだけ。3月は英文法の復習をコツコツやってたので、あんまり読んでられなかったのです。
ちょっと書き込んでなかったので、書きます。

最近、やたらと忙しいのです。
数年前から、お得意の印刷会社さんと一緒になって、ネット経由で仕事を取る仕組み作りに、いろいろと関わってきたんですが、いやー、やっぱりインターネットはすごいわ、と言うしかない。

いろいろな会社さんから発注がきて、そのお手伝いをしてるわけですが、本当に世の中には、いろんな優れた会社があるんだなぁって感じ。取材して原稿をまとめるというのをやってますが、それもまた面白い。

日本は本当に、9割の中小企業が頑張ってる国で、政府とか大企業とか見てても、本当の姿って見えないんじゃないかなぁって思う。

小さくて優れてる会社は「うちはうち、よそはよそ」っていうのがはっきりしてるから、世間の常識とか通用しないんですよね。
だから、世間の常識に沿って「○○は××ですけど、そのあたりはどう工夫されてますか?」とか聞くと、「いや、○○は××だと考えてる限り、うまくいきませんから、うちではこうしてます。」とかを、普通にさらりと言われるわけです。企業文化になってるんでしょうねぇ。

一部上場会社から、二部にこれから上場しようとしてる会社、上場しても得はないと考えてる会社、などなど、実にいろいろありますな。で、得意分野がそれぞれに違っていて、それは他社を圧倒してたりする。

かなり忙しいんですが、それがまたいろいろと面白いです。
この世はやっぱり面白いと思う。
ちょっと、健康と人間関係の話をまとめて書きます。

えー、本当はいろんな本のご紹介をして、引用文もキチンとつけて、説得力高く書きたいテーマなんですが、そういう事をしてると、文章が長くなっていけないので、最近いろいろ読んだ本から感銘を受けて「そうだよなぁ」とつくづく思ってる事を、実体験とかとからめて書きます。

それは、表題にある通り、

●「大問題」とは複雑さのことである。

という事なんです。

実はおそらく、世の中のさまざまな問題というのは、小さいうちなら、さして解決も対処法もつきあい方も難しいものではないわけなんです。

しかし、それをほおっておくと、いろんな問題と相互にからみあって、問題が問題に栄養を与えるような感じで複合化して「大問題」へと成長してしまうんですね。

このあたり、健康問題と人間関係というようなものは、意外につながっていたりするので、うまく切り分けないといけないのですが、でも実は問題が大きくなってしまってからでは、切り分け自体が難しくなりがちなんですね。そうなると、原因がどこにあるのか自体が見えにくくなってしまう。

たとえば、虫歯の治療をほおっておいて、痛みがあるのにほったらかしにしていて、そのストレスで、何かの小さな約束をついうっかり忘れて、誰かに不満足を与えたとかね。
そういう複雑さが生じてしまった時に、その人との人間関係がぎくしゃくしたときに、スッと「あの時は歯が痛くて忘れたんだよな。」と、小さな原因を思い出せる人はマレです。ほとんどいません。で、「ちょっと忘れたくらいで何さ」ってなったりするんですな、これが。

人間関係の部分でゴチャゴチャ考えてるヒマがあったら、本当は虫歯を治す方が正解なわけですよ、これは。でも、そういう小さな問題をほったらかしにしてしまうと、小さな問題の事を忘れてしまって、大きな問題にばかり注目してしまうんですね。

小さな問題なら解決できるけど、問題が複雑化して、複合化してしまった後だと、どうやって解決したらいいのかすら見えなくなっちゃうわけです。

上の例では虫歯だけを小さな問題の例に出しましたけど、他にも「前から部屋の片付けをしたいと思ってたんだけど出来てない」とか、「ここのところぐっすり寝てないのよな」とか、小さな問題っていうのは、実は誰でも山のように抱えていて、ひとつひとつは小さな問題で、全然解決に手間のかかるような事でもないんだけれど、ちょっとそのままになってしまってるとか、けっこう多いはずなんですね。

で、そういう小さな問題が複数、複雑にからみあってしまうと、たとえば人間関係とかいうような高度な問題にまでつながってしまって解決がものすごくやっかいになってしまったりするわけです。

たとえば、実は、この年齢になると年を食ってからの離婚とかも知り合いの中で多いし、そういう話をいろいろ聞いてもみたけれど、ようはそういう「複雑化してしまって解きほぐしようがなくなった」っていうのが多いように感じるのです。

小さな問題を小さいうちに解決しておけば、そんなに感情的にならなくてもよかったのにとか思うような話だらけでね。だから何か問題が起きたら、基本的な小さな問題にできるだけ小分けしてみないといけないし、何より、普段から小さい問題にこそ注力してなきゃいけないと思うのですよ。

それは、前に紹介した築山節さんの「脳が冴える15の習慣」とかを読んでいて、そう思ったのです。
たとえば、早起きするとか、ぐっすり寝るという、当たり前の小さな事を大事にしていれば、それが人間関係の大問題に発展したりはしにくいわけですよ。

あるいは食べものでも言えるのですが、たとえば砂糖の入ったお菓子とかは糖分が高いので、瞬時に血糖値があがって幸せで満足な気持ちになりますが、吸収も速いので、そのあと落ち込んだ気分になったりもします。人工的に情緒不安定を作ってるような部分があるわけです。

これも小さな問題ですけど、こういう小さな情緒不安定を日常的に繰り返していると、何か刺激がないと満足できないという気分になって、どんどん強い刺激を求める方向に動いてしまうかもしれない。(動かないかもしれない。そこは意志にもよるので不明ではあるけれど。でも影響がないとも言えない。)

また、毎日歩いてないよなぁ、という小さな問題があって、それに対処するために「ランニングして健康になろう」とか言うのも、これに似ている。まず「歩く」が先でしょ? って思う。問題をよけいに複雑化してるという気がする。でも、こういう発想をしてる人はとてもとても多いです。

「仕事でストレスがたまったから家ではゲームをする」とか「自分の生きがいが見つけられないから子供に賭ける」とか、すごく似てる。いや、それ、問題を複雑化してるだけなんと違うん? 歯が痛かったら歯医者に行こうよ。今治水塗って、ゲームして気を紛らわすとかしてても意味ないやん。って思うわけですよ。

「太ってきたから、運動しなくちゃ」って言うのも、本当はものすごくおかしい。太るのは食う量が多いからです。量を減らせば痩せます。何を食べたらいいのかとか、何を食べたらいけないのかとかありません。何でも食っていいです。何を食ってもいいから量を減らすことです。運動なんか関係ないです。枝葉末節です。

本当の問題は、実はすごく小さい事で、で、それは実はものすごく簡単な事なのです。屁みたいな事。
でも、その簡単な事を、ほったらかしにしたり、省みたりしないから、どんどん問題が大きくなって複雑化して、完治不能になっていくんですね。

このあたりアダルトチルドレンの問題も同じであります。根っこは一緒。問題を小分けにして、別問題を別問題として、ちゃんと区分けして、医者に行く問題と、食い物の量をコントロールする問題と、親子の確執の問題と、自分の生き方の問題とを、全部別問題として個別に考えれば、実はそれぞれはあまり難しい問題ではなかったりするわけです。

でも、これを面倒だからと、ひっくくって一つの問題として考えてしまうから、うまくいかないわけです。

もう、実に良い例が、離婚して、結婚生活をふり返ってる友人の話。とにかくもう、問題がごちゃまぜ。人間関係の問題に、健康問題と、人生目標の問題と、部屋の整理の問題が無秩序にくっつきあっていて、分離不能になってるわけです。
でも、そういうもんなんよなぁ。自分の事をふり返ってもそう思うもん。

まず小さな問題をひとつずつ、つぶしましょう。

で、それは、たとえば健康問題でも、

●歩くことと走ることは別の課題である。

というような小さな小さな区別をちゃんとつけるかどうか、というようなところから始まるわけです。

で、もうひとつ言うなら、その小さな問題というのが、解決は簡単なんだけど、「取り組んでみると意外に大変」だったりするわけですよ。

たとえば虫歯を例に出したので、僕の実体験で言いますが、まず私は歯医者が大嫌いだったのです。
もう、基本的に怖い。

で、この、「怖い」というのが、まずひとつの小さな問題としてあったわけですが、こういう問題をほったらかしにしていたので、歯医者に行くこと自体を避けてまして、どんどん虫歯が増えました。

今現在は治せるところは全部治しましたが、神経を抜いたり、人工の歯が入っていたり、かなり悲惨です。そうとうにヒドイ状態です。そうなったのも、「歯医者は怖い」というところにとどまったままだったからなんですね。小さな問題を解決してなかったからです。

この小さな問題を解決してなかったから、実際、10年ほど前に、一本歯が抜けたのですが、それを抜けたままほったらかしにしまして、いざ治すときには土台となる骨格部分がかなりやせ細ってしまっていて、人工の歯を埋め込むインプラント手術ができなくて、ブリッジにするしかなくなっていたわけです。

で、歯が抜けていると、そちらの側では噛みにくいので、反対側でばかり噛みますよね。そうすると、体の筋肉のバランスが壊れて肩こりとかにもなりやすいし、また、ちゃんと噛めないので、消化が悪くてウンチがかたくなり、痔になるとか、いろいろ影響もでてくる訳です。

なにより堅いものを食べるのが苦手になるので、食べ物の好みも変ってしまいますし、そういう好みの問題なんかは、すぐに変化するのではなく、長い時間の間にゆっくりと「なんとなく」という理由にすらならない理由で変化していったりするわけです。

で、「最近、肩が凝るなぁ、胃腸の具合も良くないし」と思って、その理由を、今度は「トシかな」という風に納得させるわけですね。

でも、そういうのはちょっと問題を「大きくまとめすぎ」なんですよね。個々の問題はそれぞれに別問題で、それぞれに別の原因が複数存在しているわけです。
しかも、ある問題が別の問題の原因になっていたりもします。

で、この場合で言うと、テーマは歯なので、歯の問題のみに集中して考えると、やっぱり「キチンと直す」と言うことが大事なわけですよ。ほったらかしにしてるから、どんどんひどくなってるわけで。僕なんてもう、ずーーっと虫歯ができては治療に行っての繰り返しでしたから。

「でした」と言う言い方をしたのは、実は、いまではそういう悪循環からは抜け出せているからなんです。

どうしてかというと、「歯医者は怖い」という、一番最初の問題に注目して「怖いけれども健康のためには行かなければいけない」と自分の中で問題を明確化したからです。

別にこれ、「歯医者を怖がらないようにしよう」とかしたわけではないんです。いまでも歯医者は好きじゃないし、怖いです。
でも、怖がりながらでも、行き続けて、全部の歯を治しきってしまう、という事はできるのです。

この当たり前の事が、前はできてなかったんですね。痛い!と痛みが出てから、イヤイヤ出かけて「ああ、他にも虫歯がたくさんあります」と言われていながら、痛い歯だけ治したら、もう通院しなくなってたわけです。

「いや、それはアカンやろ!」

てなもんですけど、そうなるんですよ。いちばん最初の、いちばん小さな問題である、「歯医者は怖い」という問題に関して、「怖いけれども健康のためには行かなければいけない」という当たり前の解決ができてなかったから。

怖がりながらで良いわけですよ、歯医者に行くのは。別に「怖くないと思う」ように「なろう」としなくてもいい。ありのままの自分、怖がっている自分を認めて、怖がりながら行けば良いわけです。

でも、この当たり前の事が僕にはできてなくて、ずっと逃げてた訳ですね。で、虫歯がどんどんひどくなって、食べるものとか、顔の見栄え(治療途中で、歯が欠けたままにしてた時期もあったので)とか、肩こりとか、胃腸の不調とか、痔とか、そういう問題にまで複雑化させてしまってたわけです。

でも、「怖がりながらで良いから、とにかく完治しよう」と思って、ずっと歯医者に通い続けて、間にまた、「つい」行かなくなってしまった半年間を含めて、約3年かかって、去年の秋口に全部の歯を治した訳ですよ。

治していって、良くわかりましたけど、直すと気持ちいいんです。欠けていたところがまともになると、笑い方が変るしね。
抜けていた歯が入ると、食い物が噛みやすいし、食べていておいしい。

で、何よりうれしいのは、あの怖い歯医者に、もう定期検診以外はいかなくていいという事です。もう二度と虫歯になるのはゴメンなので、定期検診にもキチンと通ってるんですよね、いまは。

3か月に一度、検診してもらって、歯石を取り除いてもらって、ブラッシング指導をちょっと受ける。それだけ。
たったこれだけで歯の健康と、それにまつわるいろいろ全部が良い方向に調整できるわけで、実にありがたいし、うれしいのです。

でも、前はずーーーーーーっと、「無意識のストレス」という感じで抑圧感があったわけですよ。「歯医者に行かなきゃなぁ」とか、そういう「不機嫌のタネ」が。

そういうものを持っている、という事が、まず何よりいけない事なんですね。

それは「不機嫌な自分をそのままにしている」という事であり、自分を大切にしていないって事なわけです。

身の回りに不機嫌な人がいてる事ほど、うっとおしい事はないわけですよ。まず実は自分が一番うっとおしい。(笑)

だからまず、ご機嫌でハッピーな自分を、自分自身にプレゼントしないといけないし、そういう自分のハッピーさを自己管理していると言うことは、身の回りの人への最上のプレゼントになるわけです。

で、書いたように、たかだか、「解決策の見えている事」をするだけでも、何年もかかったりするわけです。
だから、まず、あんまり大きな問題とか複雑な問題に手をつけずに、小さな問題から手をつけるって言うのが良いのですよね。

問題というのは、複雑になってしまっているからこそ問題なわけですよ。
先に書いた友人の話で言うなら、それこそ、「もう、どうしてええかわからんわ」ってな事を良く言ってたし、まさにその通りでして。問題が複雑になってしまったら、本当に解決が難しいのです。

そう言うときは、ほんとに確実に解決できる、簡単で小さな問題を着実に処理して、自分を気持ちよくしてやるというような態度が必要だろうなと思います。

なんちゅうか、大問題を、いきなり逆転ホームランで解決しようとするとかは、やっぱりうまく行かないと思うのですよね。
だってそれは「できないことをできるようにする」という発想だから。

うーん。実は世間の偉人と呼ばれるような人でも、「出来ないことをできるようにした」って言う人はいてないんですよね。
「できることを、キチンとコツコツとやってきただけ」って言う事なんですよ。

まず、解決しやすそうな問題から手をつける。僕の例で言うと、「とりあえず、歯だけはなんとかせねばな。」と思った、という事です。他にも問題はいろいろあったけど、とにかく、これだけはなんとかしようと思った。

で、僕の場合なら、なにより「歯医者が怖い」と思っている自分を、ちゃんと認めたというところが実に大きいと、いまになって思います。怖がってる。オーケー。それでいいよ。怖いままでいいから、怖がりながら歯医者には行こう。そう思った。

で、実際に怖いままだったし、いまでも怖いし、けっこう痛い事も多かったし、歯医者は今でも嫌いですけど、本当にもう、定期検診だけで良いので、うれしくて仕方ないです。最近は本当に歯に関してはうれしい。

噛むのが楽しくなってきたので、玄米を食べるようになってきたわけですが、これがまた、食物繊維たっぷりだし、胃腸の調子も良いし。肩こりがなくなったので、カバンを持って少し長めに歩いても疲れないんですよね。そういう事も有り難い。前はとにかく喫茶店に入らないと長く歩けなかった。

なんかね、そういう事なんですよ。小さな「自分の問題」を、「解決策が分ってる簡単な事だけやる」という感覚。それが相当、かなり重要な事のように思います。

玄米はどうも砂糖と違ってゆるやかに血糖値を上げるので、情緒不安定とかも減ってきたと思うんですよね。イライラすることも少なくなってきたかもしれない。でも、それもゆっくりとした変化で、急激に変るものでもないのですけど。

こういう事は、やっぱりすべてつながっているので、「できること」をやってると、とりあえずは何かが変って変化はしていくんですよね。一気には変らないけど。

だからやっぱり「大問題」とは複雑さの事で、複雑な問題なんて、簡単には解けないんですよね。そういうところに、あんまり注目しない方がいいような気がする。

それより、自分の問題に注目して、(「歯医者が怖い」というような内面の問題を含む)その解決に力を注ぐ、というのがいいと思うのです。(それも全力を注ぐのではなく、毎日少しだけ、とかがいいと思う。しんどいのは続かない。)

ま、最近思う事はそういう事です。

とにかく、やってはいけないのは、複雑化してしまった問題を一発逆転ホームランで解決しようとすることでしょうね。

「太って来たから運動する」とか、「仕事でストレスがたまったから家ではゲームをする」とか「自分の生きがいが見つけられないから子供に賭ける」とか、全部変。複雑なものをよけい複雑にしてるだけと思う。

太って来たら食べる量を減らす。運動不足で体がなまってると思ったら運動する。仕事でストレスがたまったら、仕事の仕組みを考え直す。自分の生きがいが見つけられないなら、見つけなくてもいいと開き直るか、自分を見つめ直すかする。そういうシンプルで簡単で当たり前の事が一番大事なんじゃないか? と思います。

で、解決できない難しい事は、ちゃんと「難しい」と認める事。

それから解決の仕方がわからない事は「わからない」とちゃんと認めること。

そうしないと「解決できる簡単な事」が見えてこないから。

で、「解決策がわからない事」に対して、「とりあえずの言い訳」をレッテルして、それで終わりにしないこと。「体の調子が悪いのはトシのせいだ」とか、大まかにくくった答えでほったらかしにするのは、やっぱりよろしくはないと思う。

「わからない」ことは「わからない」ままに置いておくようにすべきだと思うのです。「わからない」ことを「わからない」と認めるからこそ、人に「どうすれば良いのですか?」と質問もするようになるし、本を読んで調べたりもするようになるわけだから。

でも「わからない」事に「トシのせいだ」とかの言い訳レッテルを貼ってしまうと、もう、本も読まないバカになっちゃうのよな。何も考えてねぇだろ、お前! って人間になってしまう。

「わからん」ことはわからんままで良いから、わかってる事はやれば良いではないか? って思う。できる事はやったらええやんか、って思う。わかってる事に取り組むのは、そんなに難しいことでもないのです。わからないは分らないと直視する。で、そのまま認める。怖い事は怖いと直視する。で、そのまま認める。そういうシンプルさが大事だと思う。

実際、世の中、ほんとうは、そんなに複雑じゃないと思うんだよね。でも、その簡単な事を、直視しないから、問題が複合化して難しくなっておかしくなるように思うのです。ちゃんと区別しないとね。

関係する問題をくっつけて解決したらアカンよね。多分。

一個の問題は一個としてあって、それはそれで解決するのが、簡単やし、シンプルやし、達成もしやすいと思います。

太るのは食ってる量。運動とは直接には関係ない。

親の問題は親の問題。子供には直接関係はない。

自分の問題は自分の問題。自分で直視して自分で解決するしかない。他の人が解決してくれたりはしない。

基本的にはそういう事ですわな。ま、例外もあるし、状況でいろいろやろけど。で、まずは基本に立ち戻らないとねぇ。

ま、そんな事を想う、今日このごろです。
百歳まで歩く―正しく歩けば寿命は延びる!
■走る前に歩こう!

百歳まで歩く―正しく歩けば寿命は延びる!
ISBN:4344410459 文庫 田中 尚喜 幻冬舎 2007/11 ¥480
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4344410459/249-9767057-8485143

最近は、長生きしようと決めているので、こういう本に興味が行く。この世は楽しくて素敵な場所だから、長くとどまっていたいのだ。

なんとなく買っただけなので、最初はスポーツトレーナーか何か、そういう人が書いた本なのかな? と思っておりましたが、そうではなくて著者は理学療法士さん。PTとか呼ばれたりもしますが。

理学療法士というのは、体の骨格やら筋肉やらの付き方の知識をキチンと頭に入れた上で、肉体的なリハビリテーションのサポートをされたりするようなお仕事ですね。

この理学療法士さんというのは、実は本当にすごくて、なんちゅうか体のエキスパート、という気がします。

前に付き合ってた彼女が、しょっちゅう腰が痛いという人だったので、やたらと腰をもまされていたのだけれど、一度医者に診てもらったら?という話になって、病院に行くと、お医者さんの診察はすぐに終わって、即理学療法士さんの診断に移ったのだそうです。

で、腰が痛いと言うと、「そこに立ってみてください」と姿勢のチェック。「あー、だいぶ体を反らせて立ってますね。」と体のゆがみを一発で判断。「これからしばらく腹筋の運動をしてください。」と言われ、それを一週間続けたら、見事に腰痛がなくなって、私も腰もみから解放された、という事がありました。
理学療法士さんってすごいなぁと感心してしまったのですよ。

で、いろいろ面白いなぁと思うところの多かった本なのですが、とにかく歩くという事を推奨されていて、大事なのはここだと思うのです。

(引用開始)-----------------------------
 では、歩くために使われる筋肉の数はどれくらいなのでしょう。
 歩くという行為には全身の筋肉が使われていて、歩行のときの推進力として使われる筋肉は、全身の筋肉の3分の2に当たります。全身の筋肉の数が400種類ですから、実に約260種類の筋肉が前に進むたびに使われていることに。加えて、二足歩行では体を支え、バランスを取るためにも筋肉が使われるので、歩行ほど参加する筋肉の数が多い日常動作もありません。
(引用終了)------------------------------

ということなわけです。要するに歩くという行為は筋肉を鍛えるためにとても良いわけです。
で、ここで言う鍛えるというのには、遅筋と速筋の違いという事があります。

(引用開始)-------------------------------
しかし最近では、こうした形状で筋肉を分類することはほとんどしなくなりました。トレーニングや体の動かし方を考えて筋肉を捉えることが主流になるにつれ、形状よりも性質による分類のほうが重要になってきたわけです。
瞬発力や持久力などで、筋肉を大きく2種類に分類する考え方です。筋肉の性質で瞬発力のある筋肉が「速筋(そっきん)」で、持久力がある筋肉を「遅筋(ちきん)として分けます。
(引用終了)-------------------------------

中年になったら、まずこの「遅筋」を鍛えなさいと、この田中さんはおっしゃる。

(引用開始)-------------------------------
困ったことに、中年になってスポーツジムで筋トレを始めた人に膝を痛める、腰を悪くするなどの故障が多発していますが、これはマシーンを使ったトレーニングなど速筋だけを集中的に鍛えた結果です。
(引用終了)-------------------------------

つまり持久力を支える遅筋が不足しているから故障するという話な訳です。このあたりを田中さんは「相撲」を例に出して話しておられます。

(引用開始)-------------------------------
相撲の練習では、昔からシコと鉄砲が基本です。なかでも柱に向かってゆっくり押し出す鉄砲が、遅筋を鍛えます。しかし、近年の相撲部屋では専用のトレーニングルームを設置しているところもあり、従来のシコと鉄砲を重視した練習より、トレーニングマシーンを使った練習が多く行われるようになりました。
その結果、遅筋よりも速筋がきたえられることになりました。で、最近の取り組みは瞬発力のある相撲が中心になり、持久力のある相撲が少なくなった。がっぷり組合ったまま水入りになるような、見応えのある相撲はなかなか見られないなぁ…、というのが、私の感想です。
 また、昔に比べると、力士がケガで休場することが多くなりました。このことにも、遅筋を鍛える事がおろそかになっていると、理学療法士の立場からは推測しているのですが…。繰り返しますが、すばやく力強く収縮し、柔軟性において劣る速筋、その速筋を中心に鍛えていると、ケガをしやすいのです。
 この力士の話を中高年のみなさんに置き換えても同じで、中高年も速筋中心ではなく遅筋を中心に動かすべきなのです。
(引用終了)-------------------------------

と、こうなるわけです。
このあたりは、陸上競技などで、ケガをしない体を作るための「マフェトン理論」を生み出したフィリップ・マフェトン博士の話と共通してますな。というか、田中さんは、マフェトン理論くらいは知ってるんでしょうね。

マフェトン理論については、
http://www.ne.jp/asahi/ja/asd/saitou/tore1.htm
が詳しいのです。

中年になって、筋肉が落ちてくると、ついついすぐに「スポーツジムで筋肉を鍛えなきゃ」とか思うわけですが、それはあまりに単純すぎる発想なんですね。
まず、キチンと歩くという当たり前の事をしないとダメなわけです。基礎工事を飛ばして高層建築はできないわけで、まず毎日数千歩くらいは歩かないと。
(歩き方に関しても田中さんはいろいろ書いておられます。一日一万歩って言うけどそんなに必要ないのではないか? それより姿勢をキチンとして歩くべきだとか、いろいろ。)

運動不足だと、ついつい「がんばって運動して取り返すぞ」とか思うわけですけど、その発想自体が間違ってるのですね。
そうじゃなくて、たとえば家の中で掃除や洗濯をマメにやるとか、買い物に毎日出かけるとか、そういう日常の普通の動きをたくさん増やすのが、まっさきに必要で、そういう歩くというような普通の動きで持久力が整えられて、それによって「長く体を動かしても疲れない」体の基礎ができる。それからランニングとかをすると、そういう順番があるわけですよ。運動してない人って、まず寝っ転がってテレビ見てるとか、パソコンにへばりついてるとかしかしてないので、まぁ、まずは家の中で動く、でしょうね。それから毎日歩く、でしょう。いきなりランニングじゃないよなぁ。

ものすごく基本的な話なので、引用はしませんが、筋肉というのは、拮抗筋と言って、つねに反対側に動かす筋肉がセットで存在してるそうなんですね。腹筋と背筋みたいに。で、そのバランスが崩れて、どちらかだけに頼ると体が歪んでしまって、僕の彼女みたいに、しょっちゅう腰が痛いとか言わなくてはならなくなるわけです。

これは、ようは「同じ動きばかりやってる」からいけないわけですよ。一日中運転してる仕事だとか、座って作業するだけの仕事とか。
同じ事ばっかりやってるから、筋肉バランスが崩れて変な負担がかかっておかしくなるわけです。でも、歩く動作だと使う筋肉の数が多いし、体のバランスを取るためには、それこそたくさんの筋肉をつねに連動させて動かさなければならない。だから「歩く」は体に良いわけです。

歩いてないから、走って済まそうっていうのは、だから根本的に完全に間違いな訳です。だって走る筋肉って特殊な動きですから。
歩くためには、重心を前に送り出す大臀筋やヒラメ筋を使う比率が高いのですが、これらの筋肉は遅筋の比率が高いそうです。でも走る時はハムストリングって言う遅筋の少ない筋肉ばかりをコキ使うことになるようです。

(引用開始)----------------------------
そして重心を前方に移動させることのできる筋肉には、もう一つハムストリングがありましたが、ハムストリングは大臀筋やヒラメ筋に比べると、遅筋よりも疲れる筋肉の速筋の割合が高く、歩行のスピードを上げる時や、走るときなどによく使われます。ハムストリングが使われる時は走る動作と同じで、体の前方に重心があり、膝がまがっていることなどがあります。大臀筋やヒラメ筋が体の後ろから重心を押し出すのに対し、ハムストリングは前から重心を引き寄せるのです。
(引用終了)----------------------------

だから、座り仕事しかしてない人間が「運動不足だし、走るか」とか言うのは、一番よろしくないというか、効率の悪い筋肉の鍛え方をしているとしか言えないわけですね。
まず「歩く」が先でしょ、って事です。注意しないと。

この本に書いてあったと思うのだけど(どこに書いてあったか、ちょっと見あたらない。他の本で読んだのかなぁ。)人体骨格標本とか見ていてもわかるんですが、腹回りの骨って、実は背骨しかありません。

これはどういう事かというと、人間の体は筋肉でこそ支えられているって事なんですね。で、拮抗筋の説明でもわかったように、それはバランスによって成立しているんです。すべての筋肉をおしなべて使うことによって、無理なく痛みのない、よい状態で体を支えていられるというわけです。

で、筋肉というのは、使わなければ減っていきますから、全体をまんべんなく利用するのが一番良いという事になるわけですが、そうするための一番効果的な方法が「歩く」だ、という事になるわけです。

で、てんびんばかりの釣り合っている状態なら、少しの力で傾きが生じますから、バランス良い運動に、あんまり激しい動きって必要ないって思うんですね。まぁ負荷はかけないといけないでしょうけど。で、速筋も鍛えないといけないけど。でもまぁおしなべて、全体をバランス良く使ってれば痛みもなく筋肉を保てるって事な訳です。
ちゅうことは、やっぱり歩くが一番だよなぁって思うのでありますよ。

これは、別の本で読んだのだけれど、人間の体重の7割は上半身にあるんだそうです。頭が重いですからね。だから、その重い頭のある上半身を支えるために、人間の体の筋肉の7割が下半身にあるんだと思う。
で、それらをバランス良く鍛えるには歩くのが一番だって事になるわけですよ。

とりあえず、基本的な考え方だけ紹介しましたけど、この本のいちばん面白いところは、年代別で、いろいろなエクササイズを提案してるところです。
年齢によって鍛えるべき筋肉は違ってくるんだそうです。40代になって20代のマネをしていても意味ないし、同じ動きばっかりやってても、年食ってから欠けがちになる筋肉を年齢に応じて補完してやるとかしてなければ、意味がないわけです。

なので、年齢別のエクササイズが図解入りで紹介されてるとかが、なかなか良いのであります。

ともかく、基本は歩く事ですわな。やっぱり。

そうそう、それと、WiiFitが良くできてると思ったのは、やっぱりこの本を読んだ後だったからなんですよね。あれは、体のバランスをチェックする装置の上で体を動かさせるし、トレーニングが何十種類も入っているのはとても正しい。雨でもやれるし記録はつけられるし、なかなか良いのじゃないかなと。

とまぁ、こんな事書いてますが、中年太りの場合は、運動より先に食う量を減らすことが最優先なので、そこは先にやりましょうね。運動は後でも良いのだ。
このあたりは例の「いつまでもデブと思うなよ」からの引用なんですけど、それはまた。

ともあれこの本はなかなか良かったです。

今月は少ないなぁ。読んだ順に書きますと、

(1)読書力
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4004308011/249-9767057-8485143
(2)何故追いつめられたネズミはネコを噛むのか
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4894512890/249-9767057-8485143
(3)バカとは何か
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4344980166/249-9767057-8485143
(4)英語落語で世界を笑わす
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4327452106/249-9767057-8485143
(5)人生が変る「潜在意識」の書き換え方
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4804717110/249-9767057-8485143
(6)BeとHaveからわかる英語の仕組み
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4537204362/249-9767057-8485143
(7)乳と卵
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4163270108/249-9767057-8485143
※「バカとは何か」を忘れてたので追加しておきました。おもしろかったです。

です。読了したのはこれだけですな。
2月の後半から、英文法の再学習をはじめたので、そっちに時間を取られたというのが大きいです。

文法関連の書籍をいま2冊ほど平行して読み、それとは別に先日紹介した中学生用の英文法の参考書を頭から順に音読しながら良く分かってない部分を赤ペンチェックしつつ読み進めてるのであります。これに時間がかかって、通常の読書が全然できないのですよねぇ。あ、中学英語のドリルとかもいちおうやってるんですが。(これはほとんど進んでおりません。)

中学英語の参考書と、「中学英語をマスターした人に、より細かい部分がわかるように」と書かれた本とを読み比べ、なおかつ、この半年、ずっと音読暗唱してきた文例集を比較して確認しながら進めてるので、どの本も毎日数ページずつしか進まないのです。

ある程度例文が頭に入って、日本語から英語に自分なりに変換できるようになってくると、細かいところが不明になってくるんですよね。May I …? と Can I …?で、どう違うの?とか、must とhave to はどう使い分けるんだ? とか。
もう、いま疑問だらけでして。本当に。

そういう中で言うと、(5)BeとHaveからわかる英語の仕組み は、実にすごい本でした。英語文法というものそのものを、根本から考え直している。さすがは副島さんですなぁ。

他に読んでるのは「理屈で分る英文法」って本と「英会話に役立つ・基本単語のやさしいルール」って本です。全然読み進んでないけど。

「基本単語のやさしいルール」は、(3)英語落語で世界を笑わす と同じ著者、大島希巳江さんのご本です。

大島さんってすごくおもしろい人なんですよねぇ。「笑い」とかユーモアをテーマにいろいろと研究されていて、英語落語を自分独自で翻訳して演じてるわけですが、笑いには世界に通用するものとしないものがあって、落語の「オチ」でよく使われる駄洒落っていうのは伝わらないものの代表ですわね。なので、落語の内容そのものをご自分で改編してるんですよ。で、しかも自分で演じてる。すごい!
CDがついていて、聞いてるだけでも「けっこうこなれた英語だなぁ」とわかるんですよね。そういうところが、かなりおもしろい。

英語に関してはまた書きます。
あと、「乳と卵」に関しても、ちょろっと書きたいんですけど、まぁ、それはまたそのうち。

謎が解けた。

2008年2月29日 ゲーム
またmixiから転載です。ゲームネタ。
なんというか、この話は、僕的にはかなりすっきりした気分なのです。もうずーっと、23年間、変な感じがしていたことが、すべてすっきりと解明できた気分で、便秘が治った気分。ああ、長い便秘やった。
でもまぁ、おそらく、この見方でほぼ間違いなし。実にスッキリ。
文中に「コメント」とかあるのは、mixiでコメントいただいて、それに応えた事を指しております。
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えー、ずっと、「スーパーマリオブラザーズ」というゲームが大嫌いで、どうしようもなかったんですが、先日書いた「乗る十字カーソル」の日記でコメントしたりしてるうちに、はたと、なぜ嫌いなのかの謎が全部解けました。

で、それが自分の中ではっきりとわかったので、冷静に「スーパーマリオブラザーズが嫌い」というのは撤回して、

●「スーパーマリオブラザーズは世紀のクソソフトである」

という断定に変更することにしました。
単に売れたから勝てば官軍で良いソフトだ、と言う事になってただけで、かなり、そうとうにまずい、よろしくない悪性ソフトだとわかりました。
とくに、発達期にある、幼児とか、あるいは、依存症になってしまっている人には、その健全な精神の発達を阻害する可能性が高いので、あまりやらせない方がよいだろうという推測・仮説も成立すると僕は思います。

謎のすべては、宮本茂という人にありました。

あの人、左利きのインダストリアル・デザイナーだったんですよ。そこに気がついてすべてがわかったのです。

スーパーマリオのシリーズには、全部と言って良いほど「ストーリー」がないんですね。

で、それを僕は「ストーリーを軽視している」のだと思っていたのですが、その見方自体が間違っていたんです。たぶん、宮本さんは「ストーリー」というものを「憎んで」いるんです。そういう仮説が成立した。
それですべてがわかったんです。

左利きの人にとっては、モノと自分との関わりに置いて「ストーリー=モノの扱い方の説明」は、自分を裏切る存在になりがちなのだ! ということなんですよ、ようは。

たとえば、ジュースのペットボトルがあったとします。その開け方を右利きの母親が、「こうやって空けるのよ」と言ったとします。で、そのとおりにやってみると思い通りにいかない。仕方がないから、自分なりのやり方をすると「いや、それは変よ。」と言われたりする。

つまり「ストーリー=モノの扱い方」は、つねに、自分を阻害するものとして存在してたんでしょう。だから宮本さんはストーリーが「嫌い」なんだ。

でも、大人になると「嫌い」とははっきり言えないから「まぁ、いいじゃない」って言い方になる。で、「無視する」という、最悪の態度を取ってしまう、ということなんでしょう。

無視というのは、ネグレクトと言って、正真正銘の「虐待行為」なんですね。で、宮本さんは「ストーリーを否定する」という事を、困ったことに、無意識でやってネグレクトしてるわけです。

このネグレクトがあるということを僕は勘づいたから、マリオが大嫌いだったんだとわかりました。

ようするに親と子の間にある、まともで健全な「コミュニケーションの感覚」というものが、まさに欠落してるという事なんです。
「ストーリーがない」というのは、そういう事なんです。

幼児が小学生に成長していく過程で、親が子供に絵本の読み聞かせをするとかするのは、とても大切な行為なんですね。
で、その読み聞かせは、「ものごとの説明」への納得感も含みます。つまり、この世は自分たちのために住みやすく作られているのだよ、という健全な精神の安定が、そういう親とのやりとりの中から形作られるわけです。

その基本のところが、レフター(左利き)の人は阻害されやすい。特に、「モノ」に対して、屈折してしまうでしょうね。
で、宮本さんは屈折しているからこそ、インダストリアル・デザイナーという方向に進んでいったんですよ。間違いない。

「スーパーマリオブラザーズ」の中にある、ものすごく気持ち悪い部分というのは、まさに、そういう「説明=この世の理解」に対する不信感みたいな事なんです。

その象徴として大きいのは、マリオの中にいくつも出てくる「キノコ」にはっきりと現れています。
キノコには毒キノコと食べられるキノコがあります。それは見ただけではわからない。

こんなものね、もともと表現力が低く、ルールの明確性が必要な「ゲーム」という枠組みの中でアイテムとして登場させる方がどうかしている。ルールの明確性が壊れる。でも、そういうものがメインアイテムとして登場する。まさに右利き用に作られた社会で生きる左利き人間の恨み節としか僕には思えない。

そういう事を、多分宮本さんは自覚していないんですな。無自覚にやってる。そして「ストーリー=この世の説明」という、人間が成長するために、まず最初に信用しなければならないものへの不信感だけで、モノ作りをやろうとしてる。

それは根本的に間違いですわ。ダメ。それは。

コミュニケーションは通じさせるために行うものなのだ。だから右利きと左利きの間にこそ、より深い理解のために、より多くの説明とストーリーが必要なのです。なのに、その「説明」を拒否してるだけなんですね、この「スーパーマリオブラザーズ」というゲームは。

それが、なぜか一気に理解できた。

スーパーマリオブラザーズを遊んでいて楽しいのは、そういう「言葉による説明」がない、純粋な幼児向けの遊び感覚のみなんです。
たとえば「高い高い」をするとか、メリーゴーランドでくるくる回る感覚とか。そういう「感覚的な面白さ」だけしかない。つまり「幼児専用」なんです。大人をそういう幼稚感覚に戻すことしかしていない。

(より詳しく説明すると、スーパーマリオブラザーズにおいては、キャラクターがジャンプしている時に、キャラクターが空中で左右移動ができます。現実的にはあり得ない動きです。ジャンプしている時に「もっと遠くまで行け」とか、「あ、ここでまっすぐ下に落ちたい」とか思っても現実では無理です。でもマリオはそういうおかしな事ができる。その物理法則の無視の感覚が面白いというのがマリオというゲームのすべてで、他に良いところはまったくありません。つまりそういう現実にはない感覚に身をゆだねているのが面白いというだけですから、お酒の酩酊状態とまったく同じです。つまりドラッグと同じ。こんなものに浸っていてはバカになります。断定します。発達心理学の過程を考えても、そういう事にしかなりません。)

なので、「スーパーマリオブラザーズ」をやって身に付くのは、そういう「説明への拒否感」だけです。つまり「説明の否定=現実社会への拒否」です。これほど精神に悪い影響を与えるものはないですな。

1985年発売ですから、23年たってるのか。

23年たって、やっとまともに冷酷に批判できるようになりました。
こういうゲームがスタンダードになってしまったことも、ゲーム業界が発展する事を阻害した一因ですね。任天堂の現社長、岩田さんが「ゲーム市場がシュリンクしている」と発言したのが数年前ですが、そのシュリンクの原因を作ったのが、このスーパーマリオブラザーズでしょう。
最初から「世界の説明」を否定していたのだから、長くずっと愛されるというのは無理だったって事でしょう。最初から閉じてたんだから。

23年間ずっと釈然としなかった事が全部一気に納得できた。

世界で最も売れたゲームが、もっともゲーム業界に悪い影響を与えたってことで、その理由は「ストーリーの拒否=世界の拒否」だったって話ですな。

もう、マリオは大嫌いではなくなりました。
もともとカスであったというだけだったのですわ。
その理由がわからないので「嫌い」と言うしかなかった。それだけの事だったんですね。

ストーリーを軽視してるんではなくて憎んでるんだよな、要するに。可哀想に。

そういうことが明確にわかりました。

ちなみに、任天堂では、本当にストーリーもののゲームづくりが弱いです。まぁ「メトロイド」くらいじゃないかなぁ、それなりにストーリーがあるのは。

ま、他の人の意見は知らないですが、僕としては明確に、

●「スーパーマリオブラザーズは世紀のクソソフトである」

を断言できるようになりました。かなりこれで気持ちがすっきりした。
ダメですよ、あんなソフトで遊んでは。精神に悪い影響しか与えません。はい。

愛の讃歌

2008年2月27日
習いに行っているウクレレ教室で、「いい日旅立ち」を練習してるのです。

で、自宅で練習していたら、急に同じ山口百恵の「湖の決心」が聞きたくなって、Youtubeを検索したらきっちり出てきたわけです。

♪白い鳥が仲良く水を浴びています
♪悪い人は訪ねて来ない 名も知らぬ湖

って歌ですね。
で、Youtubeでついつい、いろいろクリックし続けてしまい、和田アキ子の「あの鐘を鳴らすのはあなた」だのなんだかんだの歌謡曲映像を連続して見聞きしてしまいました。

いろいろ聞いたりしてて思うのは、山口百恵の初期の作品は千家和也さんの作詞で、とても文学的なんだなぁってことでした。
おもしろい事に、かの作詞家、故・阿久悠さんは、山口百恵の作品にはかかわっていないんですねぇ。時代は完全に重なるのに、すごく不思議。
で、「あの鐘を鳴らすのはあなた」が阿久悠さんの詞なんです。

「あの鐘を鳴らすのはあなた」の歌詞はじっくり味わうと、すごくいい。ほんとうにいい詞だなぁ。生きるという意味の本質を思い出させてくれる。みなさんももう一度聞いてみてください。

阿久悠さんの詞は本質的に前向きで明るいから、陰の魅力の山口百恵の世界とは合わないのかもしれない。

で。

ここからやっとタイトルの「愛の讃歌」の話なんですが、Youtubeを見てると山口百恵が引退するときに、テレビで特別番組をやってたらしく、その番組で山口百恵が「愛の讃歌」を歌ってたみたいで、その動画があったんです。

これがなかなか良かった。

ただ、歌詞が例の岩谷時子さんの詞で有名な「あなたの燃える手で…」というのとは全然違ってたんですね。
でも、歌詞をよく聞いてると、まさに、これから結婚してスターとしての生活を捨てようとしている彼女にはぴったりの内容でした。

で、この歌詞はいったい何だ? と思って調べてみたら、美輪明宏版の詞だったんですねぇ。
歌詞ばかりは、引用しちゃうと、それこそ著作権にかかわると思うので、引用はしませんが(それに長くなるので)、さすがに美輪明宏だなぁという内容。ヨイトマケの歌の人ですから。ヨイトマケの歌もいいよなぁ。下手な教育論よりよっぽどいい。

で、気になったものだから、ネットでいろいろ検索すると、今度は美川憲一が歌っている別バージョンの歌詞まで出てきた。こっちは永田文夫さんという方の歌詞。
これもなかなかいい。

ようはエディット・ピアフが作詞して、その詞の内容が心にせまるものだったから、どう訳すか? というところで、訳する人の判断で何パターンもできてしまってるって事なんですな。

この歌詞は、エディット・ピアフが恋人を飛行機事故で失った時に書いた詞らしく、それゆえに、本来の詞の内容は、とても深くて激しい。愛のためなら盗みもしましょう、祖国や友もすてましょう、という内容です。

燃え上がってる時ってそうなりますよね。特に恋人を失ったら、たまらないものがありますからね。

でも、日常の生活の中では、そんな命がけの状況なんて、なかなかないです。

なかなかないんだけど、でも、「命がけ」って考え方は、とても大事で、本当は人間は毎日、命がけで生きてるんだと思うんですね。

春の日だまりの中、ぽかぽかとひなたぼっこをしていても、実はそれは「命がけ」でやってることなんだと思う。

「命がけ」って言葉で最近よく思い出すのは、なぜか「花嫁」というフォーククルセダースの歌で、

「命かけて燃えた、恋が結ばれる」って奴なんです。この歌詞はこのあと「帰れない、何があっても」と続く。ああそうだよなって思うんですよね。結婚だって、そういう意味では命がけだなぁって。

で、実は「命がけ」という言葉では、もうひとつ、どうしてもつい口から出てしまう歌があって、それが「あの素晴らしい愛をもう一度」。

こっちは失恋の歌で、「命かけてと誓った日から素敵な思い出作ってきたのに」ときて「二人の心が、いまはもう通わない」となって、で、でも、だからこそ、「あの素晴らしい愛をもう一度」となるんですね。

で、命がけって、実は別に何もしてなくても、無為に過ごしていても命がけなわけじゃないですか。誰だって、必ず死ぬんですから。

だから、何も考えていなくても、わがまま言ってるだけでも、勘違いしてるだけでも命がけは命がけなんですよね。

でも、結婚で誰かと結ばれたり、あるいは別れてしまって悲しい気持ちになった時にだけ、ふと、実は命がけで生きてるんだって事に気付いて、思い出したように「命がけで…」って言うんだろうなぁって思う。

そういう意味では、人間はみな愛おしい存在だよなぁって思うわけです。何をしてたって命がけなんだから。ほんとうに愛おしい存在です。

でも、それはそれとして、最近自分に問いかけて「これが一番言い得ているよな」って思う「命がけ」の定義っていうのがあって、それは「赤ちゃんが歩く練習をする姿勢」って事なんですね。

あれこそが「命がけ」という事の本当の本質なんだって思う。

誰に命令されたんでもなく、自分から、自ら動いて立ち上がり、歩いて行くのですよ。あれこそが命がけって事なんだって思う。

一生、ベッドに横たわって、誰かに食べさせてもらおうと考えたって別におかしくないはずなのに、立ち上がって歩き始める。これこそ奇跡だよなぁ。

科学は再現性こそが本質で「再現す」が「サイエンス」だって、前にも書きましたけど、科学で命は生み出せない。この世の本質は解き明かせていないのです。

だから、江原さんとかのスピリチュアル系の世界は、いくらかなりあやしくて、「多分本当は見えてないよね」と思えても、基本として否定はしないことにしてるんです。僕は。

奇跡は、命がけで立ち、歩く赤ん坊を見ればそこに存在する。だから、科学は万能ではないし、逆に人体浮遊やら超能力やらを強調する宗教も大きな所で偏っているものだなと思うわけです。

だから、ただひとつ大事なのは、赤ん坊の立ち歩きのように、自ら成長しようとする命の不思議を肯定するという事だけだなぁって思う。それこそが「命がけ」って事なんだと思います。

だから、生きて成長を求めないのは、まぁそれも「命がけ」のひとつなんだろうけど、ちょっと本質から離れてしまってるよなって思う。やっぱり、何事も「命がけ」でやらなきゃねぇ。

で、良く赤ん坊を観察すればわかるけど、命がけをやってる赤ちゃんって、別にしかめっつらして立ち歩きの練習をしてるわけじゃないのよな。真剣な顔、集中した顔はしてるけど、不機嫌じゃない。

そういう事を頭に思い描いていたら、本当の意味の「命がけ」を、大人になってからやる時に、とても参考になるんじゃないかなぁって最近は良く思うんです。赤ん坊のあの姿を思いだそうって思う。

苦しい表情でヒーハー言うのも、まぁ悪くないし、「命がけ」のバリエーションのひとつではあるんだろうけど、なんか本質ではないような気がする。やっぱり本質は、赤ちゃんの立ち歩き練習の真剣さなんだよなぁ。そこからズレてると、それはやっぱりおかしいんだと思う。単純に。

世の中、けっこう、そういう誰にでも考えられる、単純でシンプルな事が大事なんじゃないだろうか。

で、こういう意味で言うところの「命がけで生きる」こそ、回りが手放しで喜べる、「愛」だよねって思うんです。

自分が成長すること自体が、回りの人へのプレゼントになるって事です。しかめっつらとかだとダメなんですよね。回りが心配するだけになっちゃうから。それはちょっと違うでって思う。

赤ちゃんはもっと、真剣に集中するって感じっちゅうか。真剣やけど、必死ではないっちゅうか。そういうバランスこそが「命がけ」という事なんやろなぁと思うのです。

で、そういうガンバリズムでもなく、自己欲求を適切に自覚して自己成長していくという行為こそが、まさに「愛」で、(自分を愛する愛です。まずこれが基本ね。)それこそが素晴らし愛だって気がするんですが、どうでしょう?

自分を確かに生きる事こそ、まさに「愛の讃歌」なんじゃなかろうかって事なんですね。

最近はそんな事を、よく考えています。

乗る十字カーソル

2008年2月23日
乗る十字カーソル
ふと思いついて、Wii fit を買いました。「板です。」のコマーシャルで有名なゲーム機Wiiにつなげて体重を図ったり、体移動によるバランスでのゲームをしたりするツールです。

●Wii Fit
http://www.nintendo.co.jp/wii/rfnj/index.html

去年は2月から12月まで、けっこう長く、続けて筋トレをやってたんですが、どういうわけか、この1、2ヶ月、さぼりっぱなしだったんですね。で、まぁ、せっかくついた筋肉が完全に落ちてしまってるし、また最初からやり直しするのに、このWiiFitがちょうどいいやと思って買ったわけですが、思ってたより、かなり良くて気に入ってます。

3Dのトレーナーが登場して、その真似をする「ヨガ」「筋トレ」メニューと、「バランスWiiボード」の上で体重移動をして遊ぶゲーム「有酸素運動」「バランスゲーム」の四つのメニューになってるんですが、メニュー構成がなかなか良いバランスで感心しました。

筋肉トレーニングにしても、ソフト内トレーナーが、動きを解説してくれたり、ボードでこちらの動きをチェックしつつ、「ふらついてますよ。」とか、「とてもきれいな姿勢です。」とか声をかけてくれるので、まさに専任のトレーナーに習ってる感じです。

やはり感心したのは、「バランスWiiボード」という装置の新しさですね。単純に言ってしまえば、「乗る十字カーソル」。ファミコンのコントローラーについている、十字カーソルをアナログ対応にして床に置いたような感じと言えばいいのでしょうか。板の脚部4箇所にセンサがついていて、それで重心の移動や、100g単位での重量の変化まで読み取れる高精度高機能体重計になってるわけですが、それをそのままゲームのコントロール機器として使えるというわけです。

これはなかなか面白いと思います。

ちょっと話は外れますが、僕はWiiを、

●テレビマウス

と呼んでます。この「テレビマウス機能」がすごいと思うんですね。十字カーソル以来の大発明だ、って思う。触った人にしかわからないですけど、Wiiのコントローラーは、テレビ画面上のボタンに触れると、リモコン本体がプルッ!と震えるんですね。その振動がすごい。リモコンという使い慣れたユーザーインターフェースにマウスの機能を完全に上乗せしていて「テレビマウス」と言うのがぴったりな環境を作り出してるんです。
(家電メーカーのリモコンが全部に、こういうテレビマウス機能を付けて欲しいくらいです。)

で、今度のバランスWiiボードは、

●乗る十字カーソル

と呼ぶ事にしました。体重を量ったり、スポーツトレーニングをするため用に開発されたツールと思われてますが、それ以上に「ゲームの入力機器」として、潜在的なポテンシャルが相当に高いという気がします。(解る人にしか解らない書き方になりますが、ヌンチャクの代わりにバランスWiiボードでキャラクタ移動が出来るfpsとか作ったら、すごく面白いのでは? と思う。)

で、こういう事を見ていて、つくづく感じるのは、「任天堂はやっぱりハードメーカーだよなぁ」って事です。

任天堂の先代社長の山内さんは「うちはソフトこそが命や」みたいな事をずっと言うてはりましたが、それは「自分の事が一番見えていない」という事の代表例でして、任天堂はやっぱり「ハードを売るために活動している会社」というのは、動かしがたい事実なんですね。で、そのハードを売るために「ソフト」を大切にしている、というだけで、本質はハード屋さんなんです。

このあたりは、ソフト専業の映画業界とか出版業界とはまったく違うところでして、まぁ言うたらなんですけど、任天堂にそういうソフト専業のところが生み出す「ドラマ性」と戦えるだけの、上質なソフトを生み出す力はありません。そういう能力は任天堂には、まったくない。それはきっぱり言えます。(この「ドラマ」については、そのうち。)

実際長い任天堂の歴史をふり返っても、ようは「モノ売り」の会社なんだ、という事がはっきりします。以下の商品群がそれ。

●ウルトラ三部作
ウルトラハンド(折りたたみ式遠隔物取り機)
ウルトラマシーン(家庭用ピッチングマシーン)
ウルトラスコープ(潜望鏡風のぞき見おもちゃ)
●ラブテスター
●光線銃
googleのイメージ検索とかかけてみてください。

全部「ゲーム性」は入れてあるけど、「文化の対立」みたいなドラマ性は皆無。「表現メディアとしてのゲーム」は、もともと作れない会社なんだなぁって、今回つくづく思いました。

大人向けの「価値観の対立によるドラマ性」とか、そういう高度な表現とかは、もともとできない会社なわけです。ハードを売るのが本筋のメーカーだから。そこまで高度な事をやっても意味がないってことですね。ハードを売るための「お話」があれば、それでよろしい程度なわけで。良くも悪くも、それこそが任天堂の「企業文化」なんだろうと思います。

その代わり、モノづくりへの追求は徹底してますからね。子供が遊ぶと言うことを前提にしていて、壊れにくい構造にするとか、低価格で効果的なものを作るとかにかけては天才的だなと思います。

社長がいまの岩田さんに替わってから、ずっと任天堂の動向はウォッチしていて、「おもしろいなぁ」と思うのは、任天堂社長である岩田さんが、開発陣の現場の人、ひとりひとりにインタビューすることで、開発の裏話を公開する「社長が訊く」のシリーズなんですね。こういう事をするところが、岩田社長の希有な個性なんですが、

●社長が訊くシリーズ

社長が訊く Wii プロジェクト - Vol.1 Wii ハード編
http://www.nintendo.co.jp/wii/topics/interview/vol1/index.html
社長が訊く Wii プロジェクト - Vol.2 Wii リモコン編
http://www.nintendo.co.jp/wii/topics/interview/vol2/index.html
社長が訊く Wii プロジェクト - Vol.3 Wii チャンネル編
http://www.nintendo.co.jp/wii/topics/interview/vol3/index.html

社長が訊く Wii プロジェクト - 番外編 (社長「に」訊くですな、これは。)
http://www.nintendo.co.jp/wii/topics/interview/vol_ext/index.html

社長が訊く Wii プロジェクト - Vol.4 『Wii Sports』編
http://www.nintendo.co.jp/wii/topics/interview/vol4/index.html
社長が訊く Wii プロジェクト - Vol.5 『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』編http://www.nintendo.co.jp/wii/topics/interview/vol5/index.html
社長が訊く Wii プロジェクト - Vol.6 『おどる メイド イン ワリオ』編
http://www.nintendo.co.jp/wii/topics/interview/vol6/index.html

Wii.com JP - 社長が訊く『スーパーマリオギャラクシー』
http://wii.com/jp/articles/mario-galaxy/crv/vol1/index.html
Wii.com JP - 社長が訊く『Wii Fit』
http://wii.com/jp/articles/wii-fit/crv/vol1/index.html
Wii.com JP - 社長が訊く『大乱闘スマッシュブラザーズX』
http://wii.com/jp/articles/smashbros/crv/vol1/index.html

これをずっと読んでいて、つくづく思うのは、スーパーマリオの開発者である宮本さんは、もともとがインダストリアルデザインをやっていた人で、どこまで行っても「モノづくり」の人なんだなぁって事でした。
ゼルダの伝説なんて、開発の最後でシナリオをひっくり返して(無視して、です)構成を変えてしまってるんですね。操作性を優先して。

でも、こんな事、映画業界の製作の流れとかが頭にあったら、あり得ないですからね。こんな事をしたらアカンわな。つまり宮本さんがこういう事をしてる限り、任天堂からドラマ性のあるソフトは生まれ得ないって事です。(はっきり宮本さんがガンです。僕はこの「社長が訊く」シリーズを読んで確信しました。これでは、シナリオライターの立つ瀬がない。宮本さんは最低です。スターウォーズのジョージ・ルーカスをはじめ、ハリウッドがいかにシナリオを重視してるかを、ちょっとは学んで欲しいと思う。で、一般人もみんな、シナリオとかストーリーに興味を持つのが普通なんだって事は頭に置いて欲しいなぁと思う。ストーリー無視してゲームできるのは、ゲーム依存症のオタクだけですよ。これはキッパリと言いたい。オタクしか相手にしなかったからニンテンドー64は失敗したのだと、いまは明確に言えると思う。)

でも、それは逆に言えば、モノづくりに関してはものすごく天才的だって事でもあります。そういう意味で、今回のWiiにせよWiiFitにせよ、ウルトラ三部作、ラブテスター、光線銃、ゲームウォッチに続く、「任天堂のモノづくりのDNA」が遺憾なく発揮された製品だって事が言えると思うのですよ。画期的で天才的で、それは任天堂の企業文化からこそ生まれたものだと思います。

ともあれ、世界に冠たる「ハードメーカー」任天堂だからこそ生み出せたWiiFitは、実におもしろいです。

WiiSportsなんて、全然運動効果なんかないけど、WiiFitは、効果高いと思う。なんせ、ありきたりに腹筋と腕立て伏せですから。その他の運動ゲームやヨガもなかなか良いです。こういうバランスの良い組合せがうまい。WiiFitを肩幅サイズに決めた宮本さんもインダストリアルデザイナーとしての本領を実に上手く発揮してると思う。

宮本さんには、こういう事だけさせとくのが良いと思うなぁ。ストーリーをどうのこうのさせる権限を与えてはイカンですよ。役割分担がうまくいかない。やめたほうがいい。あ、これは岩田さんの仕事か。

ま、ともあれ、WiiFitは面白いです。はい。
大反省のその2。

実は、またまた本の話なんですが。

この数年、ネットでいろんな人に「1分間マネジャー」という本を「良いよ」と紹介してきたんですね。

実際、僕の人生を大きく変えた本だったから…。というか、「そうだった」と思いこんでたから。

え? 「思いこんでた」ってどういう事かって?

わはははは。いや、実は、ものすごい間違いをしてたんですよ。

先日、本の整理をしようと思って不要なものは捨て、心に残った名作だけ残そうとより分けていたら、「1分間マネジャー」が出てきたので、「うむ、ちょっと読み直そう。」と思って読み出すと、どうも面白くない。

というか、記憶している良い話がいくらページをめくっても出てこない。

あれれれれ?

と思って最後までいろいろ詳細にページをめくり続けていくと、確かに読んだ記憶はあるんですね。で、気がついたのは「あ、これは同じ1分間シリーズでも、オモシロイと思わなかった方の本だ!」って事でした。

実は1分間マネジャーという本はアメリカで1986年だかに大ヒットした書籍だったんですが、そのあと1分間シリーズと銘打って何冊も書籍が出されていて、その中で僕は、

●1分間自己革命

という書籍に大きな影響を受けたのでした。
それも、僕は、この続編的な書籍から次に「マネジャー」を読み、で、「マネジャー」がいまいちだったので、結局2冊しか読んでなかったんですね。

で、前に引っ越しをする時に、何を勘違いしたのか、影響を受けた方の「自己革命」を捨てて、「マネジャー」を残して荷造りしてしまった、というわけです。(この引っ越しというのが、生家を失うという、僕的にはかなり辛い出来事にまつわるものだったので、かなり判断力が鈍ってたんですね。馬鹿な話です。)

もうね、「あっちゃー。」

であります。

なんというミス!

もう、自分を笑うより他に手がないですね。ほんとに。

ということで、あわてて、「自己革命」の方をアマゾンのマーケットプレイスで買って(多分、もう新品は売ってないと思います。)今、読み直してるところなのです。

そしたらこれが、もう、本当に素晴らしい!!!
こんなにすごい本だったっけか?
というぐらいに素晴らしい。
なんだこれ。
本当にワシ、ものすごい影響受けてるやんけ! と思ったのであります。

ということで、いまは、まるで聖書でも読むかのように、わざとゆっくり、一ページ一ページをかみしめるように毎日読み返しているんです。

速読とか鼻で笑うね。行間の深い意義まで読み取れるかどうかだよ。いろいろ頭をぶつけて、こんがらがって、悩んだ後の方が、「ああ、その通りだなぁ」と実感できる話というのはあって、この本はそういう事ばっかり書いてあるから、ゆっくり読まないと、その深さが分らないんですね。

この本の紹介はまた改めてしますけど、とにかく反省しているのは、そういう良い書籍を紹介しようとして、ついうっかり「1分間マネジャーが良いよ!」と、いろんなところで、お勧めしてしまったという事です。もう、いまや、誰に勧めたのか記憶にすら残ってない。やばい!

ということで、深く、深く、反省しております。適当な事を言ってすみませんでした。
1分間マネジャーではなく「1分間自己革命」です。
もし、僕から間違えて勧められて「つまらんかった」と思った人がいたら、心からお詫びします。

で、良かったら「自己革命」の方を読んでみてください。
すばらしい本だと思います。
もう、すべての基礎やなぁと僕は思ってます。
僕の人生を変えた本と言っても良いのです。

という事で、「自己革命」のレビューは、また改めてしようと思ってるんですが、取り急ぎ、お詫びして訂正します。
誠に申し訳ありませんでした。
お許しください。

お願いいたします。
最近、本の紹介に関して、すごく反省した事が2つあります。
どっちも大事な事だと思うので、別々の日記に書きますね。

ひとつは、書籍紹介の仕方についてです。
自分で自覚してなかったんですが、僕はちゃんとした書籍の紹介というのをやってなかったなぁと感じております。
というのは、要約というか、書籍の中身をていねいに紹介してるつもりで、自分の意見と書籍の中で書かれていることをごちゃまぜにして書いておりました。

とくに、一回前の「読書力」の紹介の仕方が、実にまずかった。自分の意見と書籍の中に書かれていたことがごちゃまぜです。これは「自他の区別がついてない」と言われても仕方がない。自他の区別がついていないというのは、ある意味「キチガイ」であるという事でもあります。

という事で、今後はキチンと引用文をつけた上で紹介しようと思います。

前から副島隆彦さんがしつこくしつこく「引用は明確に」と言っておられた影響で、できるだけ明確な引用をしようと思ってはいたんですが、全然できてなかったよなぁと改めて思ったのです。

というのは実は、その副島さんのお弟子さんである中田安彦(アルル)さんが、「副島隆彦の学問道場」

http://www.snsi-j.jp/boyaki/
の「ぼやき918」で、

以下のような事を書いておられたからなのですが。

(引用開始)-------------------------------
 例えば、私たちのサイトでは、記事を転載したり、他の本から文章を引用する場合には、(引用開始)と(転載始め)という風に書き入れています。私(アルル)は、最初はこれが面倒でしようがなかった。なぜそんなことをやるのか、と正直思ったものです。

 ところが、衛星放送で、CNNやNBC(アメリカの主要な民放)等のアメリカの政治ショー番組を観ていた時に、ニューズショーの司会者(ホスト)が、ある政治家の過去の発言を紹介する時には、「クオウト 」「アンクオウト 」と言っているのに気が付きました。そのコトバの間に新聞や演説の文章を挟(はさ)み込んでいくのです。

 「クオウト」とは、quoteという英語で引用するという「動詞」で、unquoteとは、「引用終了」という意味の言葉です。つまり、アメリカでは、かならず発言者を特定するのです。誰の言葉、文章であるかを明確にします。日本の「報道2001」や「サンデープロジェクト」のような番組ですら、誰かの発言を紹介するときには、「引用開始」と「引用終わり」を明示しているのです。

 しかも、テレビの画面の口頭でさえそれをやるのです。私はこのことを数年前に知って、トンカチで頭を殴(なぐ)られたような非常な衝撃を受けました。これが、副島先生の言っていた、「日本の知識人は土人(どじん、未開人)並みだ」ということの意味なのだと分かりました。
(引用終了)-------------------------------

口頭ですよ! 口頭! 会話の中でも「クオウト、…。」「アンクオウト、…。」とやる。これぞまさに「文明」であります。ちょっとこれはショックだなぁと。

で、しかも、です。

たまたま、この数日、仕事がヒマだったので、自分の仕事用のホームページをいろいろいじっていて、勉強がてら、カスケードスタイルシートの使い方とかいろいろ調べていたんです。

で、ホームページ制作では良くやる間違いである、

●<blockquote>を字下げ用コマンドとして使う。

というのが、いかに問題であるかを解説してくれる文章に出会ったわけです。このあたりは、あまりに煩雑になりますので、引用まではしませんが、<blockquote>というのは、ようするに「引用を行う」という事を示すためのコマンドなわけです。そういう「専用」のコマンドがある。

「専用」のコマンドがあると言うことは、そういう「他者の意見を改変せずにそのまま紹介する」という事が、ごく一般的な習慣として定着している、ということです。そして、日本人は、その大事な習慣がないから、このコマンドの意味がわからずに「字下げ用」のコマンドとして使ってしまう、という事な訳です。

まず、欧米の文化がいかに「自他を区別した引用」を大切にしているか、と言うことがあって、そして、その習慣の事を、自覚することすらできない、我々日本人の文化がある、という事なんですよ。そこにあらためて気付いたわけです。

たとえば、「読み上げソフト」などを使ってホームページを読む、視覚障害者の事などを考えると、こういう基礎的なコマンドの使い方がいかに重要なのかがわかりますよね。このコマンドを、見栄え調整のために適当に使うと、何が書かれているのかがわからなくなってしまいますし、それは結局、普通の人間にとっても、どこからどこまでが、原稿作成者の意見で、引用文を言ってるのが誰なのかがわからない、ということになります。

このページでは、よくアダルトチルドレンの話題など出していましたが、ああいう心の問題も、親と子の「自他の区別」がついてなくて起こることがすごく多いわけです。「子供は自分のからだの一部だ」という感覚なのでしょうか。この間も、とても仲の良かった家族で、父親が家族を惨殺して死ぬという悲惨な事件が起こりました。あれも、「私がひとりで自殺したら、家族がみんな寂しがるだろう」と道連れ殺人をしてしまうわけで、そういう「距離感のなさ」が問題なんだろうなと思うわけです。

●適度な距離を保つ。

●自他の区別をキチンとつける。

という事は、日々、注意して注意しておかないとなかなかできない事だよなぁと、つくづく思ったのです。
もともと日本語は「主語を省略しやすい言語」ですからね。簡単に自他をごっちゃまぜにして「共同責任だから」と結論づけやすい文化を持ってるんです。
でも、だからこそ起きる問題もあるわけで、その両面をキチンと見なければいけないですよね。引用の問題については、キチンと「引用開始----終了」とブロックの切れ目を明確にしながら引用するのが正しいと、つくづく思いました。このくらいは日本の文化の中に取り入れても良いのではないかなぁ。そう思います。
ISBN:4004308011 新書 斎藤 孝 岩波書店 2002/09 ¥735
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4004308011/249-9767057-8485143

このところずっと読書に力を入れてるのですが、そういう僕にとって「おおお、これは素晴らしい!」と感心した書籍を見つけました。

それがこの齋藤孝さんの「読書力」です。

齋藤孝さんは明治大学文学部の教授ですが、「本を読む読まないは自由なのだから、強制しないで欲しい」という学生が出てきたりしている現状を憂い、「読まないのは自由」という考え方に対する反論として書かれたものだそうです。

●本は読んでも読まなくても良いというものではない。読まなければいけないものだ。

と言い切っていて、ここが実に清々しい。

僕も前々から「本は読まなければいけないものだ」という意識があったのですが、世間の「読まないのは自由」みたいな風潮があって、断言まではしてなかったんです。

でも、斎藤さんは違う。はっきりと断言している。そこが素晴らしいのですよ。えらい!感動してしまう。

日本の大学は受験が厳しく入学してからはたいして勉強してない学生が多いようですが、欧米の大学はまったく違うそうです。キックアウト式と言って、勉強しないと卒業できない仕組みなのだそうです。(このあたりの日本と欧米の大学の違いについては、別に斎藤さんは何も言ってませんよ。これはあくまで僕の聞きかじりです。)

それもそう簡単な授業ではなく、本を3冊〜4冊指定されて、それを一週間くらいで読んで、まとめ、自分の意見をレポートにせよ、というものが多いのだそうです。で、その書かれたレポートの内容について基礎的な情報をキチンと把握した上で意見を述べているか、独自の視点があるかどうかを問われる。まさに論文を書く練習そのものですね。欧米の大学はみなそういう仕組みになっているそうです。

ですから、日本の大学生は圧倒的に勉強不足です。そういう状況なのですから、大人になってから誰かがまともに勉強しないと、この国は回っていかないんですね。現実問題として。だから本はどんどん読まなければなりません。

その当たり前の事を真正面から正しく指摘してくれてるのが、この本です。

しかし、「さすがは齋藤孝だなぁ」と感心するのは、その「読書力」というものを、客観的に判定できる基準を明確に提示しているところです。

読書せよ、と言ったところで何をどのくらい読めばいいのか? というのが問題になるわけで、それを斎藤さんは、

●文庫100冊
●新書50冊

と数字で定義してるんです。「何を読んでも良いが、とにかく、これだけの冊数はこなせ。」ということなんですね。
これだけこなせば、読む行為そのものに慣れてくる。そこが大切だと斎藤さんはおっしゃる。けだし名言!であります。まさに「読むことに慣れる」事こそが読書力そのものだと思うのですよ。

よく「速読」が話題になりますが、そういうテクニックを身につけるのも悪くないけれども、その前にテレビやゲームをする時間を削って本をまずは読むようにすればいいのです。まずは、とにかく本を読む習慣を身につける。そっちが先です。

まぁ、文庫100冊、新書50冊も読めば、いやでも習慣は身に付きます。週に一冊読めば、一年で50冊ですから、150冊なら3年です。そう無理な数字ではないでしょう。月に2冊くらいにして6年で力をつけてもいいし、週2冊にして1年半でこなしてもいい。このくらいの範囲なら、速読のテクニックを身につけてなくても充分可能です。(斎藤さんは文庫100冊を4年というのを有効期限として設定されてます。)

しかも、斎藤さんが素晴らしいのは、その「一冊を読んだ」という基準も、わかりやすく明確な言葉にしている点です。

その基準というのは、

●要約ができれば読んだことにしてもいい。

というものです。つまり斜め読みでも良いという事なんですね。

これ、なんでもないことのように見えて、超重要な事でもあります。上記で書いた欧米のキックアウト式の大学の授業でも、実は課題図書を精読したりはしないのですね。特に欧米の書籍や論文というのは、まず結論が書いてあって、その後に、その詳述があるという構成に、必ずなっているので、各章の最初の数ブロックずつ読んでいけば、著者の言いたい事だけはわかるという仕組みになってるんです。(その意味で、実は欧米式の速読術と、日本の速読術では意味がまったく異なるのですが。)

で、斎藤さんは、ようは「要約ができれば読んだことにしてもいい」と規範をゆるめてくれているのです。

ただ、これ、実は規範を緩めているようでいて、実はより本質的な読書力を必要とされる基準でもあるんですね。

斎藤さんは、この本では指摘してませんが、例の大ヒット作である「三色ボールペン情報活用術」で、読書力がない人間は、その書籍が何を言おうとしているのかを正しく読み取ることができていない。だから、内容を正しく読み取るのもひとつの技術として必要だ、という話を書いているからです。読書力がないからこそ、「読み取り方は自由だろ」という論点のすり替えに入り込んでしまうし、より広い視野を持つ「正しく読む」ができなくなるんですね。

(このあたりの話は、この日記でも、前に書きました。
http://diarynote.jp/d/12917/20051221.html)

三色ボールペン読書法というのは、この「自分の思いこみで書籍を自分勝手に解釈する」というのを防ぐ、良い方法なのです。本を読んでいて、
a)まぁ大事----------------青
b)とても大事--------------赤
c)個人的に面白いと思った--緑
という色分けで本に書き込みをしなさいと教えてくれているのであります。

ほんとにね、読書力のない人間は、上記の緑線しか引かないですからね。これが困ります。本を読むというのは、その著者と一対一で話をするようなものですから、まず相手の言っている事がどういうことであるのかの「大意」をつかめなければ意味などまったくないのであります。そこがつかめていないのならコミュニケーション自体が成立してないわけです。

ところが、これを平気で緑線の部分だけ読んで、読んだつもりになってる人間とかいてますからね。これが本当に困る。揚げ足ばっかり取るマスコミなんてのも同じようなものですが、そういう世の中の悪いところばっかり真似して、それで良いのだと思ってる人種がけっこう、かなりいてますからね。

●要約ができれば読んだことにしてもいい。

というのは、かなり本質をついた重要な指摘です。
逆に言えば、大意をキチンとくみ取れる力があれば、かなり読書力はあるのだ、とも言えます。

このあたりの話は、この日記の、去年の6月2日に「感じ方は自由なのか」で書きましたが、

http://diarynote.jp/d/12917/20070602.html

「感じ方は自由なんだから、国語のテスト自体おかしい」とか言う人間がいたりするのは、唖然とするしかないんですね。前も書いたかも、ですが、作者の意図も読めていないで、「自分の感じたままで良い」なんていうのは話にもなんにもなっていない。単なるパーなだけです。

自分で感じるというのは、三色ボールペンの緑ですから、どんどん感じ取ればいいのですが、赤線がまったくないのなら、それは作者の意図がまったく解っていないと言うことにしかならないわけです。

斎藤さんは、この読書力を、食べることになぞらえて、強い歯やあごを作るためにするべき事なのだとおっしゃる。アニメやゲームは軟らかい、自力で消化することを求めない食べ物であり、スープのようなもの。マンガはスナック菓子だと例えておられます。

「児童文学で離乳食。推理小説、歴史小説などで乳歯レベルだ。」とも言っておられて、三十代や四十代の大人でも、このレベルの読書に留まっている人も多いと嘆いてもおられるのですね。

この後に永久歯の読書、心地よい精神の緊張感ある読書の話が出てくるのですが、ともあれ、スープやスナック菓子ばっかり食していたら、どんどん歯が弱るだけです。それははっきりしてるんだけど、どうにも、いまの日本、スープやスナック菓子が多すぎる。

はっきり言いますが、ゲームしかしない人は、ゲーム好きではないですよね。単にゲームに依存してるだけで。本当にゲームを愛してる人は、本当に面白いゲームを、一発で見つけ出しますし、他のジャンル(書籍など)と比較した上で、その良さが語れる人です。本当に面白いものとか、有用なものとか、知るべき事、理解するべき事は世の中にあふれるほどにあるわけですから。そういうものと同等に発展して欲しいと願うのが、本物のファンですわね。ゲームしかしない人間に、そういう視点があるわけがない。だからオタクはダメなのです。(私ははっきりオタク否定派です。)

しかし、忘れてはいけません。斎藤さんも指摘してますが、

●日本は読書立国

なのですね。世の中を支えている人は、みなせっせと本を読んで、役立つ知識や、心にしみいる感動などを自分の生きていく糧としているのです。

この部分を斎藤さんは、かつての日本人の読書レベルが世界最高レベルだったことを出して説明してくれます。けっこう高齢の方々は世界文学全集などをせっせと読んでいたのです。いまでも高齢の方々の読書レベルはかなり高いんです。ドイツ・ロシアの作家も読んでいる。

そういえば、先日も、「ロシア文学の『カラマーゾフ兄弟』を「カラキョウ」と略して、かなりの人が読んでいる。」というようなニュースが出ていましたが、もともと日本人には、そういう「読書を糧とする」文化があるのです。

これは、この「読書力」に書かれていて僕も、「その通り!」と思った事ですが、日本には聖書にように「The Book」と言うべき、「読むべき、かの本」がないのです。日本人は敬典宗教ではないから、倫理観や精神的な基盤を特定の書籍から学ぶという事がないのです。だから、その代わりに幅広く数多く書籍を読んで倫理観やら精神的基盤を自ら養っていかざるを得なくなるという側面があるというのですね。もう、その通りだと思うのですよ。

日本では、年間4万種類、15億冊の本が生産・印刷されていて、出版社の数も約5000企業にのぼるのだそうです。
で、これだけの出版社・出版物があるというのは、まさに聖書がないからこそだろうと思うのです。

いま、若い人の間で、「自分探し」というような事がよく言われるわけですが、これも自分なんか探しててもどこにも見つからないよ、と、僕は言いたいわけです。だって、ちゃんと「自分づくり」ができてないわけですから。目の前の現実にキチンと対処して、日々の日常を愛し、さまざまな考え方を書物から学んで、日々自分の内面を豊かにしていく「自分作り」の過程を経ずして、探すべき自分が生まれるはずもないわけです。

読書力は、そういう意味で人生を豊かにします。

しかし、学歴社会・受験戦争なんてものが当たり前になってきたおかげで、ゆっくりと読書をする時間すらなく、いまの子供たちは、そういう豊かさをはぐくめていないのですな。

この本でも指摘してますけど、「相手の言ったこととまったく無関係に『ていうか』という始まりで、まったく自分だけに関心のある話をする」というような社会性のない子供たちが増えてるとは思いませんか?

これははっきり親が悪い。親が本を読んでないんです。読まなくはないのだろうけれど、自分の興味や考えに合致するものだけを読み、それと食い違う場合には「憎むべき悪書」として攻撃したりする。そうすることが強さと勘違いしてるのかも知れないけれど、それはしなやかさのない生き方で、思考停止をしているに過ぎないのです。
思考停止をするから強いのではなくて、それは堅くもろい自己のあり方なわけです。

このあたり、かなり斎藤さんの言葉を引用してるんですが。(笑)

でも、本当にこのあたりの意見は深くうなづいてしまいます。

ともあれ、この本はとても良い書籍です。
さすが読書人・齋藤孝。僕と同年代ですが、出版の世界では大活躍しているスーパースターとして、岩波新書という、王道中の王道たる出版社で、これだけしっかりした内容の本を出していたとは!

日本人の必読書として、超強力におすすめしたい一冊であります。
ISBN:482841407X ハードカバー 副島 隆彦 ビジネス社 2007/12/26 ¥1,680
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/482841407X/249-9767057-8485143

ここ数日、中国産餃子の話が良く話題になりますが、そういう話をする前に、この本を一冊読んで欲しいと思うのですよねぇ、私としては。

で、先に副島さんの結論を、ここでまとめてしまうと、ずっと「アジア人どうし戦わず」ということを副島さんは言っておられて、まさにそれだと思うのです。

この「アジア人どうし戦わず」って一言に、どれだけ深い意味があるか、というのは、この本が「中国とは恐ろしい国だ」「怖い国だ」「ゴキブリみたいな汚らしい国だ」という、日本人がつい抱いてしまう偏見から論を説き起こしているのを見ればすぐにわかります。口先だけの平和論ではないのです。

だいたい中国が恐ろしい国だと「感じる」事すらできていない日本人がいたとしたら、その段階で鈍感かつバカです。

中国人が起こした犯罪や、さまざまな文化摩擦などを、標準的な日本人の感覚で感じ取れば、「なんて残忍な」とか、「何を自分勝手な」と思わざるを得ません。

しかし、こういう「理解しがたい事がある」という事実を正しく見据えて、それでも、それはそれとして「異文化」として付き合うという態度が必要なんですね。

日本と中国では島国と大陸で、実は文化を支える根本的な理解とか、骨格そのものが違う。

副島さんが言ってた事ではなくて、これは僕が実際に中国に足を運んだり、いろいろな本を読んで自分なりに実感している事だけれども、まず宗教観から違います。

日本人は「死んだら仏様」であって、ちゃんとお葬式さえ出せば、どんな人間でも良い魂として現世は精算されると考えるんですけど、そういう文化規範自体が中国にはないわけです。

向こうはどうもね、歴史という空間の中にすべての生きた人間がずっと固定して生きてるという考え方をしてるんですよね。だから、いま現世で良い事が起きていて、その基礎を作った人がいれば、それはずっとあがめられるんですが、逆に、今の時代にデメリットのある人はずーっと永遠に悪人のままで無限に許されることはないのです。

無限ですよ、無限。恨みを永遠に抱き続けるのが当然という文化なわけです。上海とか、あっちの神社仏閣とかに行くと、この感覚っていうのは良く分かるはずです。みんなお寺参りとか熱心なんだよねぇ。それはまさに「歴史という空間の中で、生きている人に会いに行く」という感覚なんですね。

それに、僕は見てなくて本で読んだだけですけど、歴史上、「悪人」とされてる人は、わざわざ銅像を建てて、そこにツバを吐きかけたり何かをぶつけたりして「こらしめる」のが当たり前になってるんだそうです。ああ、さもありなんだなぁって思う。「歴史という空間に生きてる人をこらしめる」わけですよ。これは。もう、永遠にこらしめ続けるわけですね。

こういう事は日本人はできません。なんでできないかというと、日本人は実は中国人より未開の地に住んでいて、いまだに「死者のたたり」を怖れているからです。

あまりにむごたらしい人の殺し方をしたら、その人は成仏せずにこの世にとどまって、うらみを殺人者にはらすと考える。だからむごたらしい殺人の方法とかは採らないんですよね。

こういう死生観というのは、実はすごくプリミティブな原始宗教の考え方で、日本人というのは先進諸国の中では、飛抜けてプリミティブな宗教観を保存している民族なのだと自覚しなくちゃいけないんだと、僕自身は思ってます。(こういうことを副島さんが言ってるわけではないのであしからず。あくまで僕の意見。)

まぁ、日本は「宗教のガラパゴス島」なんだろうと、僕は思う。別にそれが悪い訳ではなくて、だからこそ、世界に冠たる「お人好し国家」でもあるし、なおかつ、お人好しであるがゆえに嫌われてもいない、という良さはあるのです。ここはかなり安心して良い部分だろうと思います。原始宗教のままなので、「根が善人」なんですな。

ただ、この原始宗教の殻の中にだけ閉じこもってると、まぁ騙されたり、被害を被ったり、ろくでもない目にあうって事になるわけです。
だから世界の常識とか、より進んだ宗教とかを、「概念」としてで良いから学んでおく必要はあるんです。

で、今回の餃子の件ですけど、まぁ殺虫剤とかの化学薬品はキチンと調べればどこで作られたかとかすぐわかっちゃうし、これはこれで様子を見てればいいのだけれど、仮に故意に入れたとしても、それが中国人なのか、日本人なのかどころか、アメリカ人なのかも知れないわけですよ。マジに。

帝国の運営者というのは属国を属国間でつねに争わせるものなのですね。それがいちばんコストのかからない管理方法だから。属国同士が手を組んで帝国本体に刃向かってきたら、こんなやっかいな事はないので。

(この考え方は「ルール&デバイド」と言って国際関係学=帝国と属国の関係を考える学問では当然の大ルールのようです。このあたりは副島さんの書籍から学んだ事です。副島さんから学んだのに、それを言わずに、口先でそのままマネして偉そうにしてる学者とかがテレビに出てたりして、「なんだかなぁ」とか思う。僕は副島さんから学んだと言っておきますね。)

ただ、まぁ、こんな事は徳川時代の幕府を見ていてもわかる事ですから、たぶん、まぁ世界の常識ではあるんだろうけど、そういう大きな枠組みでのモノの見方をしてないと、いきなり「だから中国人は」とか「だから日本文化を守らねば」という「アジア人どうし争う」というところにしか行かない。狭い、狭い視野でしか、こういう問題を見れなくなってしまう。「中国人を悪く言ってはいけない」とかの日本人的善人さで物事を推し量ろうとしたりね。

いや、そうじゃなくて、中国人は文化の違う、「恐ろしい隣人」なんですよ。日本人にとっては、どうしてもそうなっちゃうんだ。これはもうしょうがないのよ。違うんだから。話もかみ合わない、ゴキブリみたいな奴らなんだと、まず「自分の内心」を認めないといけない。
で、だからこそ、是は是、非は非として、きちんと話を詰めていくようにしないと、仲違いを喜ぶ人たちの思うつぼになるだけって事なのです。

で、その中国人の恐ろしさをキチンと説き起こしてるのが、この副島さんの御本だって事です。まぁ、日本人の「たたり」の宗教観のところは、副島さんはあんまり気にしてないというか無頓着でまったく言及はないんですけど、イソップ物語のカエルとサソリの寓話への言及があって、「ああ、それそれ、それよな」と思ったのです。

くわしくはこの本の97ページに書いてあるから立ち読みでもしてもらったらいいのですが、(前は本は買って読め!というスタンスだったので、こういうネタばらしもしなければ立ち読みも勧めなかったのですが、いまはいろいろ思うところあって平気でこういう事を言います。)やっぱりサソリはカエルを刺すんですよ。

寓話というのは、ようするに島から島へ渡るのに、サソリがカエルに「背中に乗せてくれ」と頼むのだけれど、カエルが「君は僕を刺すからイヤだ」と言って、それでサソリが「いや刺さない」と約束したから運んでやるんだけど、運んだ後でやっぱり刺されるわけです。で、カエルが「約束したのに何故刺す。どうしてウソをつくんだ?」と聞くと、「ウソをついたんじゃないんだよ。これが俺の本性(nature:ネイチャー)なんだからしょうがないんだ。」って答えるのです。

まぁ、そういう事なわけ。日本人と中国人の関係というのは、まさにこのカエルとサソリなんだけど、でもそれでもやっぱり、サソリに刺される可能性はあっても、カエルである日本人はサソリと付き合うしかないのですよ。だから、サソリは刺すと知って付き合わないといけない。

そして、文句は文句として正しく言って、でも戦争だけはしない、「アジア人どうし戦わず」って事を考えなくちゃいけないわけです。

でもなぁ、日本人は、この「中国人はサソリである」と言っただけで「なんて差別的な事を言うのか!」とかの批判が始まってしまって、そこで思考停止しちゃうんだよねぇ。アホか。相手がサソリやねんから、そこから論を説き起こす以外に手はないやないか。何考えとんねん。あ、何も考えてないんか。ほんまにアホやなぁ、こいつらは、ちゅうことなんですが。まぁ原始宗教のままだからしょうがないんだけど。根っからの善人ちゅうか、単なるアホというか。で、だからこそ刺されてしまうんですねぇ。

とにかく、仲良くするには、サソリをサソリと正しく知らないと話にならんのですよ。
でも、そこで「善人であろうとする」という原始宗教から一歩も出ようとはしない、かたくななバカが多くて困ります。それは単なる没交渉でしかないんやけどなぁ。ディスコミュニケーション。コミュニケーションが成立していない状況。

まぁ、このディスコミュニケーションが起きるのは、単に不勉強なだけって事なんですけどね。
日本人で海外と仕事をしてる人はみんな、こういう事を個別事例として頭を打ちながら学習し続けてるし、みなさんものすごくよく勉強してます。

なんで勉強してるのかっていうと、日本には「聖書」の文化がないから。「これさえ読んでおけば、倫理観はいちおう学べる。」という決定版の本がない。
だから山盛りたくさんの本を読む以外に方法がないわけです。いろんな立場のいろんな考え方を必死になって吸収するより他に方法がないのです。

だから本を読まなくてはいけないんですね。日本人は本を読まなくてはいけないのです。どうあっても。で、だからこそ、民族的意志として、出版社は小さいところが山のように国内にあって、有象無象の輩が、良い本から悪い本まで、これまた山のように出版を続けてるってわけです。

だから本を読まない奴は本当にバカだし、非国民なんだよ(笑)。

サラリーマンなら毎日電車に乗って、その電車の中でのわずか20分、往復で40分くらいだけを使って本を読んで、それで週に一冊、年間で50冊くらい読んで、それで視野を広めて、そういう人が社内で信用もされて、それでこの国は成り立ってる。ほんとうにそういう事なんです。それが現実です。

副島隆彦さんの、この本は、そういう意味で行くと、中国の本質みたいな事を、おおきくザクーっと、バクーっと、大づかみに紹介してくれているので、なかなかに素晴らしいですな。

中国人は「義」を大切にする。そしてそれは「法」を上回り、いわばヤクザの杯を交わすというのと、似たような絶対性の上になりたっている、というような精神面での根幹のところから説き起こしているので、実に有用であります。

勉強もせずに、うんたらかんたら、しょうもない事を言うより、まずは勉強であります。日本人には、そうするより他に道はないのであります。

ともあれ、「アジア人どうし戦わず」ってのは副島さんが、もう5年くらい言ってる政治思想なんだけど、この思想を一言でまとめてしまってるというところがスゴイのよなぁ。感心してします。

ま、このあたりは話が広がりすぎるので、また別の機会に。
ではでは。

早起きは苦手。

2008年2月7日
長年、早起きができなくて困ってます。
基礎の基礎なのになぁ。

早起き生活
http://www.hayaoki-seikatsu.com/

というサイトがあって、早起き日記というか、ボタンひとつでグラフをつけられるっていう機能が便利。
面白いのは、グラフの上の方が遅い時間になっていて、下の方が早い時間になってる事。まぁ、少ない数から多い数へ進むのがグラフとしては当然なんですが、30分でも早起きすると、棒グラフが下に下がるっていうのが僕的には面白い。

なんでかって言うと、重力で下がってるみたいに見えるから。「自然と早起きになりました」という無言の暗示効果を感じる。(そんなこたぁないか。)

ま、あせらずコツコツ練習します。
ほへほへ。

ちゅうことで、秘密日記が書きたかったので変な書き込みになっちゃった。

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