良書は意外に素顔を隠す。
2007年12月2日 読書
ISBN:483795670X 単行本 本田 健 三笠書房 2006/11 ¥1,470
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/483795670X/249-9767057-8485143
う〜ん、そうだったのか! とうなってしまった一冊。
ずっとアダルトチルドレンの知識をもとに、いろいろ書いてきてましたが、ずっとNLP(神経言語プログラミング)に関してだけは、いまひとつ良い印象がなかったので、あんまり読まずにいたのですね。
というのも、NLPの立場の人は、つねに「トラウマに問題解決の原因を求めても問題は解決しない」という事を言ってたから。
いやー、それはおかしい、根本問題に気付いてなかったから、私は苦しかったし、それに気付いてから随分ラクになったのだよ、と思ってたので、どうにもNLPというのは信用ならなかったんですね。
でも、これもまたアダルトチルドレン関連の書籍と同じで、現場臨床に基づいてテクニックをまとめたものがNLPなので、NLPとタイトルの付いてる書籍はどうしても総花的になってしまい、その結論・総論として「トラウマに注目しても解決にならない」になっているのだと、この本を読んでわかりましたね。
ずっとNLPは気になっていてNLPと名の付いた書籍は立ち読みでサラッと流し読みはしてきたんですけど、テクニックの総まとめみたいな本ばかりで心に響かなかったのですよ。
でもどうも、NLPの本質をちゃんと受け止めて整理してる本っていうのは、タイトルにNLPというような総花的な文言は入らないみたいですな。
という事で、この本ですが、訳者が「幸せな小金持ちシリーズ」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4763184237/249-9767057-8485143
や「ユダヤ人大富豪の教え」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4479790764/249-9767057-8485143
を書いた本田健さんなので、多少は気にはしてた本だったのですが、タイトルがあまりに軽くて敬遠していたんですね。
ただ先日、たまたま、この「一瞬で自分を変える法」の続編である「一瞬で「自分の夢」を実現する法」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/483795684X/249-9767057-8485143
が、いつもはあまり行かない書店にどーんと並んでいて、少し気になったので前作である、この「自分を変える法」を手にとってみた、という事なのであります。
読むまで、NLPの概念に沿って展開されている本だとは知らなかったのですが、いざ読み出すと、これがやたらと面白いんですねぇ。
「一瞬で自分を変える」などと書いてあるから眉唾に感じるわけですけど、でも実際、自分の感情というのは、回りの出来事に敏感に反応していて、一瞬一瞬変化し続けているわけです。
で、マイナス思考になるとか、物事を悪い方に考えるというのは、一種の「クセ」のようなもので、自分の中に悪いクセが何個も何十個も入っているというだけの話で、それをどんどん良く捉えるように書き換えてやれば良いわけです。
それは「悪い捉え方をした、その一瞬」にこそ修正の必要があるわけで、まさにタイトル通り「一瞬で自分を変える法」なんですね。これはなかなかに面白いです。
テクニックはいろいろ書いてありますが、その概念を学ぶだけでも役に立ちます。
良く言われる「コップ半分の水は、『半分しか入ってない』のか『半分も入っている』のかと、捉え方で意味がまったく変ってしまう」という話も、まさにNLPのテクニックそのものだったんですね。
この本、アメリカでの初版がなんと1986年でして、20年も前の本なんですよ。「そうかぁ、こういう事を、すでに20年も前からやってたのか」と感慨深いものがあります。
日本では、NLPのいろいろなテクニックのわかりやすいところだけが、いろんな書籍のいろんな部分に掲載されたりしてきたって事なんだろうなという気がしました。
それに、テクニックだけではダメなんですよね。NLPの技法は汎用的に役立つけど、それらはあくまでテクニックで、個別事情に応じて最適のテクニックを活用してくれるようなカウンセラーにつかないと、あまりに深く根付いてしまった「クセ」には難しいのかも知れないし、やはりNLPに長けたカウンセラーにつくのが、ベストなんでしょうけど、でも、この書籍に紹介されているテクニックや考え方を知るだけでも、そうとうに面白いのです。
たとえば、自分の悪いクセの解消に、悪いクセの原因行動と、それが解消されてうまく行くようになった自分のイメージとをワンセットでイメージする手法、なんていうのは「あ!なるほど!」と目ウロコでした。
悪いクセを持っているという事を、逆に力として利用するわけですね。悪い考え方や行動が出てきた時に、理想の姿もセットで思い出すようにイメージングして、で、頭のスクリーンの中で悪いクセを縮小し、良いクセを拡大する。で、その良い状態をしっかりと味わう。(どれだけ臨場感を持って味わうかがポイントなようですね。色・匂い・音などなど。)
これだけでも相当に現実的に役立つテクニックであります。
すでに自分がアルコール依存症になりかけているという人が、飲みたいなと思った瞬間に、二日酔いではない、快適な目覚めをイメージするようにセットしておくとかね。こういう「瞬間」を日々積み重ねて、イメージ練習していく、というものなわけです。
これはあくまでテクニックのひとつではありますけど、発想として、ものすごく新鮮でした。悪癖の力を逆に活用させてしまうわけですから。実に面白い。
まぁもちろん、これは自分の悪癖を自覚してないと、全然効果がないテクニックで、酒を飲む事自体を問題視してない場合には役に立たないわけですけど、その場合でも「何が嫌で、どうなりたいか」というのは、みんな考えてるわけで、その「嫌」と「ありたい自分」をワンセットでイメージングすれば、かなり効果があるって事ですわ。
これねぇ、ブラインドタッチの練習とそっくりなんですよね。実は一時期ブラインドタッチの練習ソフト(シェアウェア)の開発をやってた時期がありまして、いろいろ調べてたんですが、練習する過程で、「苦手なキー」というのが出てくるんです。「Y」とか「?」はかなり打ちにくく感じたりします。でも、その時、「Y」とか「?」を打つ練習したらダメなんですよね。そうではなくて、打ちやすいキーを、もっと素早く正確に打てるようにする。つまり、苦手キー以外の能力をもっと磨く、という事をするのです。これが正解なんですね。
なんでかというと、キーの数は決まってますから、他のキーが完全に打てるようになったら、苦手キーは「それら得意キーとは異なる指の動かし方をするキー」として、必然的に間違わなくなるからなわけです。
たとえば、「Y」は、たいてい「U」と打ち間違うんです。あるいは「T」とか。それなら「U」や「T」を正確に練習すれば、「そうではない打ち方がYだ」と必然的に体が覚えてくれるんですね。
これと結局は同じ事だなぁと思うのです。一日は24時間ですから、「良いことを考える時間」を増やせば、嫌でも「悪く捉えてしまう時間」は減っていくわけです。だから得意な所を、うまく伸ばせば良い訳です。
まぁ実際には、こういうテクニックだけでは「良い生き方」が身に付くわけでもないのだろうとは思いますが、アダルトチルドレンの概念だけでは、どうにもうまくいかないなぁという部分も多々ありましたので、僕的には大発見だったのでありますよ。
特に、ここをご覧になっている方には、けっこう面白い書籍かもしれませんなぁと思ってご紹介した次第であります。ご一読あれ。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/483795670X/249-9767057-8485143
う〜ん、そうだったのか! とうなってしまった一冊。
ずっとアダルトチルドレンの知識をもとに、いろいろ書いてきてましたが、ずっとNLP(神経言語プログラミング)に関してだけは、いまひとつ良い印象がなかったので、あんまり読まずにいたのですね。
というのも、NLPの立場の人は、つねに「トラウマに問題解決の原因を求めても問題は解決しない」という事を言ってたから。
いやー、それはおかしい、根本問題に気付いてなかったから、私は苦しかったし、それに気付いてから随分ラクになったのだよ、と思ってたので、どうにもNLPというのは信用ならなかったんですね。
でも、これもまたアダルトチルドレン関連の書籍と同じで、現場臨床に基づいてテクニックをまとめたものがNLPなので、NLPとタイトルの付いてる書籍はどうしても総花的になってしまい、その結論・総論として「トラウマに注目しても解決にならない」になっているのだと、この本を読んでわかりましたね。
ずっとNLPは気になっていてNLPと名の付いた書籍は立ち読みでサラッと流し読みはしてきたんですけど、テクニックの総まとめみたいな本ばかりで心に響かなかったのですよ。
でもどうも、NLPの本質をちゃんと受け止めて整理してる本っていうのは、タイトルにNLPというような総花的な文言は入らないみたいですな。
という事で、この本ですが、訳者が「幸せな小金持ちシリーズ」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4763184237/249-9767057-8485143
や「ユダヤ人大富豪の教え」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4479790764/249-9767057-8485143
を書いた本田健さんなので、多少は気にはしてた本だったのですが、タイトルがあまりに軽くて敬遠していたんですね。
ただ先日、たまたま、この「一瞬で自分を変える法」の続編である「一瞬で「自分の夢」を実現する法」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/483795684X/249-9767057-8485143
が、いつもはあまり行かない書店にどーんと並んでいて、少し気になったので前作である、この「自分を変える法」を手にとってみた、という事なのであります。
読むまで、NLPの概念に沿って展開されている本だとは知らなかったのですが、いざ読み出すと、これがやたらと面白いんですねぇ。
「一瞬で自分を変える」などと書いてあるから眉唾に感じるわけですけど、でも実際、自分の感情というのは、回りの出来事に敏感に反応していて、一瞬一瞬変化し続けているわけです。
で、マイナス思考になるとか、物事を悪い方に考えるというのは、一種の「クセ」のようなもので、自分の中に悪いクセが何個も何十個も入っているというだけの話で、それをどんどん良く捉えるように書き換えてやれば良いわけです。
それは「悪い捉え方をした、その一瞬」にこそ修正の必要があるわけで、まさにタイトル通り「一瞬で自分を変える法」なんですね。これはなかなかに面白いです。
テクニックはいろいろ書いてありますが、その概念を学ぶだけでも役に立ちます。
良く言われる「コップ半分の水は、『半分しか入ってない』のか『半分も入っている』のかと、捉え方で意味がまったく変ってしまう」という話も、まさにNLPのテクニックそのものだったんですね。
この本、アメリカでの初版がなんと1986年でして、20年も前の本なんですよ。「そうかぁ、こういう事を、すでに20年も前からやってたのか」と感慨深いものがあります。
日本では、NLPのいろいろなテクニックのわかりやすいところだけが、いろんな書籍のいろんな部分に掲載されたりしてきたって事なんだろうなという気がしました。
それに、テクニックだけではダメなんですよね。NLPの技法は汎用的に役立つけど、それらはあくまでテクニックで、個別事情に応じて最適のテクニックを活用してくれるようなカウンセラーにつかないと、あまりに深く根付いてしまった「クセ」には難しいのかも知れないし、やはりNLPに長けたカウンセラーにつくのが、ベストなんでしょうけど、でも、この書籍に紹介されているテクニックや考え方を知るだけでも、そうとうに面白いのです。
たとえば、自分の悪いクセの解消に、悪いクセの原因行動と、それが解消されてうまく行くようになった自分のイメージとをワンセットでイメージする手法、なんていうのは「あ!なるほど!」と目ウロコでした。
悪いクセを持っているという事を、逆に力として利用するわけですね。悪い考え方や行動が出てきた時に、理想の姿もセットで思い出すようにイメージングして、で、頭のスクリーンの中で悪いクセを縮小し、良いクセを拡大する。で、その良い状態をしっかりと味わう。(どれだけ臨場感を持って味わうかがポイントなようですね。色・匂い・音などなど。)
これだけでも相当に現実的に役立つテクニックであります。
すでに自分がアルコール依存症になりかけているという人が、飲みたいなと思った瞬間に、二日酔いではない、快適な目覚めをイメージするようにセットしておくとかね。こういう「瞬間」を日々積み重ねて、イメージ練習していく、というものなわけです。
これはあくまでテクニックのひとつではありますけど、発想として、ものすごく新鮮でした。悪癖の力を逆に活用させてしまうわけですから。実に面白い。
まぁもちろん、これは自分の悪癖を自覚してないと、全然効果がないテクニックで、酒を飲む事自体を問題視してない場合には役に立たないわけですけど、その場合でも「何が嫌で、どうなりたいか」というのは、みんな考えてるわけで、その「嫌」と「ありたい自分」をワンセットでイメージングすれば、かなり効果があるって事ですわ。
これねぇ、ブラインドタッチの練習とそっくりなんですよね。実は一時期ブラインドタッチの練習ソフト(シェアウェア)の開発をやってた時期がありまして、いろいろ調べてたんですが、練習する過程で、「苦手なキー」というのが出てくるんです。「Y」とか「?」はかなり打ちにくく感じたりします。でも、その時、「Y」とか「?」を打つ練習したらダメなんですよね。そうではなくて、打ちやすいキーを、もっと素早く正確に打てるようにする。つまり、苦手キー以外の能力をもっと磨く、という事をするのです。これが正解なんですね。
なんでかというと、キーの数は決まってますから、他のキーが完全に打てるようになったら、苦手キーは「それら得意キーとは異なる指の動かし方をするキー」として、必然的に間違わなくなるからなわけです。
たとえば、「Y」は、たいてい「U」と打ち間違うんです。あるいは「T」とか。それなら「U」や「T」を正確に練習すれば、「そうではない打ち方がYだ」と必然的に体が覚えてくれるんですね。
これと結局は同じ事だなぁと思うのです。一日は24時間ですから、「良いことを考える時間」を増やせば、嫌でも「悪く捉えてしまう時間」は減っていくわけです。だから得意な所を、うまく伸ばせば良い訳です。
まぁ実際には、こういうテクニックだけでは「良い生き方」が身に付くわけでもないのだろうとは思いますが、アダルトチルドレンの概念だけでは、どうにもうまくいかないなぁという部分も多々ありましたので、僕的には大発見だったのでありますよ。
特に、ここをご覧になっている方には、けっこう面白い書籍かもしれませんなぁと思ってご紹介した次第であります。ご一読あれ。
ちょっと遅いですが、11月に読んだ本の一覧。
(1)粗食のすすめ
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4101056218/249-9767057-8485143
(2)一瞬で自分を変える法
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/483795670X/249-9767057-8485143
(3)5文型とNLPで英語はどんどん上達する
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4478980918/249-9767057-8485143
(4)ドル覇権の崩壊
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4198620105/249-9767057-8485143
(5)エネルギーバス
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4902444615/249-9767057-8485143
(6)引き寄せの法則(マイケル・J・ロオジェ)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/406214381X/249-9767057-8485143
(7)幸せな宝地図であなたの夢がかなう(コミック版)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4777107507/249-9767057-8485143
(8)ようこそ成功指定席へ
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4763197061/249-9767057-8485143
(9)わずか3秒の「しぐさ」で成功をつかむ!
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4408323039/249-9767057-8485143
いちおうお勧めの順というか、面白かったもの順です。
さすがにこれだけあると、アマゾンとかへのリンクは面倒くさいので、興味を持たれた方は、ご自分で検索ください。
このリストの中で、いちばん大きな刺激を受けたのは、何と言っても「粗食のすすめ」でしたねぇ。
食を考える、という意味では、ものすごく重要で、基礎文献と言って良いように思います。ようは、昔ながらの食生活が一番なんじゃないの? って本ですが。
とにかく3ヶ月は、読む本の冊数を増やそうと思ってるので、年内はこの調子でもうちょっと読んでいきたいですね。やはり、まず読む量を増やすというのが、すごく大事だとわかりました。
だいたい、「粗食のすすめ」自体が、先月読んだ「年収10倍アップ時間投資法」に載ってたもので、あれを読んでなければ、この大切な書籍には出会えてないわけですから。やはり「量」というのが、ひとつの重要な補助線になるなぁという実感です。
あと、今月の収穫はNLP。
・一瞬で自分を変える法
・5文型とNLPで英語はどんどん上達する
・引き寄せの法則(マイケル・J・ロオジェ)
が、実はNLP関連の書籍です。
「一瞬で…」を読んで、かなりNLPに興味を持ちました。残り2冊も、かなり面白いです。
NLPに関しては、またそのうち。でも、はっきりわかったのは、NLPと銘打ってる本は、たいていテクニックの総覧みたいになってるから、本質的な「心」がわからないって事ですね。これもまた、読書量を増やして、いろいろ当たっていくしかないって事の証のひとつですな。
あと、四位に挙げた「ドル覇権の崩壊」は、例の副島隆彦の著書ですが、例のロン・ポールの「ドル覇権の終焉」という演説を、そのまままるまる一章を割いて、解説付きで紹介してます。元の演説の3倍以上の長さになってるけど、間に副島節が入っていて楽しめるのと、的確な必要知識・情報の挿入によって、ものすごくわかりやすくなってのが良いです。
あとは成功哲学とかそういう奴ばっかりだなぁ、今月は。
読み残した本をざっと目を通して「捨てる」っていうのも、やらないといけないので、いまいちの本も入らざるを得ないのが辛いですね。もっと捨てないと本棚がえらいことになる。(というか、もうなってる。)
毎月、こういうのを書くのは、自分の指標にもなって良いかもなぁとか思ってますので、来月も書くかも。まぁいま読書量倍化3ヶ月の最中だから、来月もやるでしょうな。
ま、そんなことで。
(1)粗食のすすめ
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4101056218/249-9767057-8485143
(2)一瞬で自分を変える法
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/483795670X/249-9767057-8485143
(3)5文型とNLPで英語はどんどん上達する
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4478980918/249-9767057-8485143
(4)ドル覇権の崩壊
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4198620105/249-9767057-8485143
(5)エネルギーバス
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4902444615/249-9767057-8485143
(6)引き寄せの法則(マイケル・J・ロオジェ)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/406214381X/249-9767057-8485143
(7)幸せな宝地図であなたの夢がかなう(コミック版)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4777107507/249-9767057-8485143
(8)ようこそ成功指定席へ
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4763197061/249-9767057-8485143
(9)わずか3秒の「しぐさ」で成功をつかむ!
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4408323039/249-9767057-8485143
いちおうお勧めの順というか、面白かったもの順です。
さすがにこれだけあると、アマゾンとかへのリンクは面倒くさいので、興味を持たれた方は、ご自分で検索ください。
このリストの中で、いちばん大きな刺激を受けたのは、何と言っても「粗食のすすめ」でしたねぇ。
食を考える、という意味では、ものすごく重要で、基礎文献と言って良いように思います。ようは、昔ながらの食生活が一番なんじゃないの? って本ですが。
とにかく3ヶ月は、読む本の冊数を増やそうと思ってるので、年内はこの調子でもうちょっと読んでいきたいですね。やはり、まず読む量を増やすというのが、すごく大事だとわかりました。
だいたい、「粗食のすすめ」自体が、先月読んだ「年収10倍アップ時間投資法」に載ってたもので、あれを読んでなければ、この大切な書籍には出会えてないわけですから。やはり「量」というのが、ひとつの重要な補助線になるなぁという実感です。
あと、今月の収穫はNLP。
・一瞬で自分を変える法
・5文型とNLPで英語はどんどん上達する
・引き寄せの法則(マイケル・J・ロオジェ)
が、実はNLP関連の書籍です。
「一瞬で…」を読んで、かなりNLPに興味を持ちました。残り2冊も、かなり面白いです。
NLPに関しては、またそのうち。でも、はっきりわかったのは、NLPと銘打ってる本は、たいていテクニックの総覧みたいになってるから、本質的な「心」がわからないって事ですね。これもまた、読書量を増やして、いろいろ当たっていくしかないって事の証のひとつですな。
あと、四位に挙げた「ドル覇権の崩壊」は、例の副島隆彦の著書ですが、例のロン・ポールの「ドル覇権の終焉」という演説を、そのまままるまる一章を割いて、解説付きで紹介してます。元の演説の3倍以上の長さになってるけど、間に副島節が入っていて楽しめるのと、的確な必要知識・情報の挿入によって、ものすごくわかりやすくなってのが良いです。
あとは成功哲学とかそういう奴ばっかりだなぁ、今月は。
読み残した本をざっと目を通して「捨てる」っていうのも、やらないといけないので、いまいちの本も入らざるを得ないのが辛いですね。もっと捨てないと本棚がえらいことになる。(というか、もうなってる。)
毎月、こういうのを書くのは、自分の指標にもなって良いかもなぁとか思ってますので、来月も書くかも。まぁいま読書量倍化3ヶ月の最中だから、来月もやるでしょうな。
ま、そんなことで。
落語と英語。
2007年12月13日えー、またまたmixiからの転載であります。
いや、ま、転載するほどの大した内容やないんですが。
---------------------------------------------------
最近どうも変な具合なのです。
というのは英語の練習。
これをやっていると、どうにもストレスがたまっていけないのですよ。
自分の国の言葉じゃないですからね、本に書かれた文章を声に出して読むという事自体が難しいわけです。
ましてや、同じ意味の言い換えができるわけでなし、上手に感情表現を抑揚で出せるわけでなし。
ちゅうか、本からちょいと目を離して一文そらんじてみるだけでも、複数形のSが抜けたり、過去分詞があやしくなったりしてしまうわけです。
で、いま良くは知らないのですが、NHKの朝の連続ドラマが、落語に関する話らしく、仕事で一緒になったデザイナー君がやたらと落語の話をいろいろするものだから、もともと落語好きだったので、つい手持ちの文庫本やら、ネットのテキストデータやらで、お気に入りの話を読み直したりしてしまったのですね。
すると。
これがどうもいけません。
まず、「音読」したくて仕方なくなってしまうわけです。なんせ、上方落語のテキストですから、抑揚も感情表現も言い換えも自由自在ですからな。それでついつい「わいのオジキっちゅう人が南農人橋御祓筋をちょっと入ったところに住んどおって」とか「清水の音羽の森の落としてや、茶碗もひびのもりの下露」とか「わが母さんじゅさんさいのおり」とか「鞍馬から牛若丸が出でまして、名も九郎判官」とか、まぁそういうのを読み上げては遊んでしまったわけです。
そしたら、これがえらく楽しくて。
いろいろやってるうちに、落語を2席ほど、ほぼ完全に覚えてしまったのですねぇ。
仕事場の行き帰り、歩く距離を稼ぐために一駅二駅ほど遠い駅まで歩いてから電車に乗ったりしてるので、そういう時に、「つい」やってしまう。まるまる一席。
で、これがまた楽しくていけません。落語なんちゅうものは、もともと歴史の風雪に耐えて生き残ってきた「おもしろ話」ですからな。思い出し思い出し演じてみるだけで、充分に面白い。自分で話して自分で笑ってしまうのですよ。もともと繰り返し聞いても面白いようにできてるわけですから、そらそうなりますわな。
別にどこぞで高座にかけるわけでもないのに、昼間と言わず夜と言わず、町なかを、落語をしゃべりながら歩いてるオッサンですから、かなりおかしな奴であります。
しかし、自分でしゃべってみると、やっぱり人間国宝、米朝さんのテキストは、よーでけたあるなぁと感心してしまいます。ムダがなくて、必要なだけリアル。登場人物がちゃんと生きて呼吸をしている語り口。すごいもんです。
自分でしゃべってみると、良く分かるのですが、あんまり自分にあわない部分というのは、適当に割愛してしまったほうが自分が楽しいし、逆に気に入ったところは丁寧に演じたくなったりするもので、これが何度繰り返ししゃべっても、やるたびに面白いんですねぇ。いやー、落語っちゅうのは不思議なもんですよ。
青菜あたりの短い話で20分くらい、長いものでも1時間まではかからないので、ちょっとした合間に楽しんだりはできるものなのですね、これが。
ちゅうことで、また妙な趣味ができてしまいました。青菜とまんじゅう怖いを覚えてしまったので、次あたりは、はてなの茶碗とかやろうかなぁ。
英語の練習をすればするほど、反動で落語もしゃべりたくなるので、まるで振り子のような感じなんですがね。おもしろいもんですな、人間っちゅうもんは。
ま、そんなことで。
いや、ま、転載するほどの大した内容やないんですが。
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最近どうも変な具合なのです。
というのは英語の練習。
これをやっていると、どうにもストレスがたまっていけないのですよ。
自分の国の言葉じゃないですからね、本に書かれた文章を声に出して読むという事自体が難しいわけです。
ましてや、同じ意味の言い換えができるわけでなし、上手に感情表現を抑揚で出せるわけでなし。
ちゅうか、本からちょいと目を離して一文そらんじてみるだけでも、複数形のSが抜けたり、過去分詞があやしくなったりしてしまうわけです。
で、いま良くは知らないのですが、NHKの朝の連続ドラマが、落語に関する話らしく、仕事で一緒になったデザイナー君がやたらと落語の話をいろいろするものだから、もともと落語好きだったので、つい手持ちの文庫本やら、ネットのテキストデータやらで、お気に入りの話を読み直したりしてしまったのですね。
すると。
これがどうもいけません。
まず、「音読」したくて仕方なくなってしまうわけです。なんせ、上方落語のテキストですから、抑揚も感情表現も言い換えも自由自在ですからな。それでついつい「わいのオジキっちゅう人が南農人橋御祓筋をちょっと入ったところに住んどおって」とか「清水の音羽の森の落としてや、茶碗もひびのもりの下露」とか「わが母さんじゅさんさいのおり」とか「鞍馬から牛若丸が出でまして、名も九郎判官」とか、まぁそういうのを読み上げては遊んでしまったわけです。
そしたら、これがえらく楽しくて。
いろいろやってるうちに、落語を2席ほど、ほぼ完全に覚えてしまったのですねぇ。
仕事場の行き帰り、歩く距離を稼ぐために一駅二駅ほど遠い駅まで歩いてから電車に乗ったりしてるので、そういう時に、「つい」やってしまう。まるまる一席。
で、これがまた楽しくていけません。落語なんちゅうものは、もともと歴史の風雪に耐えて生き残ってきた「おもしろ話」ですからな。思い出し思い出し演じてみるだけで、充分に面白い。自分で話して自分で笑ってしまうのですよ。もともと繰り返し聞いても面白いようにできてるわけですから、そらそうなりますわな。
別にどこぞで高座にかけるわけでもないのに、昼間と言わず夜と言わず、町なかを、落語をしゃべりながら歩いてるオッサンですから、かなりおかしな奴であります。
しかし、自分でしゃべってみると、やっぱり人間国宝、米朝さんのテキストは、よーでけたあるなぁと感心してしまいます。ムダがなくて、必要なだけリアル。登場人物がちゃんと生きて呼吸をしている語り口。すごいもんです。
自分でしゃべってみると、良く分かるのですが、あんまり自分にあわない部分というのは、適当に割愛してしまったほうが自分が楽しいし、逆に気に入ったところは丁寧に演じたくなったりするもので、これが何度繰り返ししゃべっても、やるたびに面白いんですねぇ。いやー、落語っちゅうのは不思議なもんですよ。
青菜あたりの短い話で20分くらい、長いものでも1時間まではかからないので、ちょっとした合間に楽しんだりはできるものなのですね、これが。
ちゅうことで、また妙な趣味ができてしまいました。青菜とまんじゅう怖いを覚えてしまったので、次あたりは、はてなの茶碗とかやろうかなぁ。
英語の練習をすればするほど、反動で落語もしゃべりたくなるので、まるで振り子のような感じなんですがね。おもしろいもんですな、人間っちゅうもんは。
ま、そんなことで。
倉敷大原美術館・閑谷学校
2007年12月17日またmixiから転載。
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この土日は、仕事場の出入りの人たちと一緒に、ちょっとした小旅行でありました。
行き先は岡山の倉敷大原美術館と、閑谷学校。
外注スタッフ、と言えば言えなくもないのだけれど、直接仕事に関わるというのは少なくて、季節ごとに飲み会したり、時折旅行に出かけたりするという感じ。
いまの事務所のデザイナーさんのやっていた前の会社のスタッフで、いまだに交流が続いている人とか、フリーのイラストレーターだったりカメラマンだったりと職種はクリエイティブ関係なので、まぁ美術館とかは、良い選択でありました。なんと13人という大所帯。この集まり、けっこう、なかなか楽しいのであります。
倉敷の大原美術館は、前にも出かけたことがあるので内容は分っていたけれど、やはり改めて見てみると、その幅の広さに感心してしまいますね。モネやらマネやら印象派の有名どころの作品がずらりとならんでいるし、ロートレックにゴーギャン、ルノワールにピカソと有名な作家の作品がずらり。しかも国内の有名作家の作品も佐伯祐三やら梅原龍三郎やら目白押し。その上、彫刻もロダンにジャコメッティがあるし、ほんとにたいしたものです。
ウィキペディアから引用すると、
「大原美術館は、倉敷の実業家大原孫三郎(1880年–1943年)が、自身がパトロンとして援助していた洋画家児島虎次郎(1881年–1929年)に託して収集した西洋美術、エジプト・中近東美術、中国美術などを展示するため、1930年に開館した。西洋美術、近代美術を展示する美術館としては日本最初のものである。」という事になります。
今回、せっかくだからと最近の美術館にはよく備え付けられている音声ガイドを借りていろいろ聞きながら回ったので、よりいっそう楽しかったですね。モネの睡蓮とか、児玉虎二郎が直接モネから買い付けに出かけてるんですねぇ。知らなかった。
次の日は世界最古の庶民学校と言われる閑谷学校へ。江戸時代に武士だけでなく、広く庶民からも学生を募り、儒学やらを教えていたというもの。
これもウィキから引用すると、
「岡山藩は学校領を設け藩財政より独立させ、学田や学林を運営させた。これにより、もし転封や改易により藩主が交替となった場合においても学校が存続するよう工夫した。ここに岡山藩がこの学校をいかに重要視していたか、その一端が窺える。」
となっていて、その先見性と体制の確かさに感心してしまう。
ついでに引用すると、
「建造物のうち、講堂が国宝に指定され、小斎・飲室・文庫・聖廟・閑谷神社・石塀など24棟が国の重要文化財に指定されている。」
ということなんですが、とにかく居心地の良い場所で、「ああ、ここなら本当に心静かに勉強できただろうなと思わせられる良い場所でした。なんせ山の中ですからね。とても静かで気持ちの良い空間だったのであります。
奇しくも、絵と学校という事で仕事とプライベートの学習という、いまの僕の生活に直接関わりの大きいテーマでの旅行になったので、いろいろと思うところは大きかったのであります。
大所帯だったので、マイクロバスを仕立てての旅行となりまして、移動もラクラク。時間も比較的のんびりできたし、なかなかに快適だったのであります。食事もおいしかったしなぁ。ほかにもあちこち見たし。
しかしまぁ、年末ってのだけは問題でしたが。忘年会代わりにという企画で出てきたものだったけど、さすがに時間のやりくりにヒーハー言う事になってしまったですよ。
いやまぁ、楽しかったからいいんだけど。
-------------------------------
この土日は、仕事場の出入りの人たちと一緒に、ちょっとした小旅行でありました。
行き先は岡山の倉敷大原美術館と、閑谷学校。
外注スタッフ、と言えば言えなくもないのだけれど、直接仕事に関わるというのは少なくて、季節ごとに飲み会したり、時折旅行に出かけたりするという感じ。
いまの事務所のデザイナーさんのやっていた前の会社のスタッフで、いまだに交流が続いている人とか、フリーのイラストレーターだったりカメラマンだったりと職種はクリエイティブ関係なので、まぁ美術館とかは、良い選択でありました。なんと13人という大所帯。この集まり、けっこう、なかなか楽しいのであります。
倉敷の大原美術館は、前にも出かけたことがあるので内容は分っていたけれど、やはり改めて見てみると、その幅の広さに感心してしまいますね。モネやらマネやら印象派の有名どころの作品がずらりとならんでいるし、ロートレックにゴーギャン、ルノワールにピカソと有名な作家の作品がずらり。しかも国内の有名作家の作品も佐伯祐三やら梅原龍三郎やら目白押し。その上、彫刻もロダンにジャコメッティがあるし、ほんとにたいしたものです。
ウィキペディアから引用すると、
「大原美術館は、倉敷の実業家大原孫三郎(1880年–1943年)が、自身がパトロンとして援助していた洋画家児島虎次郎(1881年–1929年)に託して収集した西洋美術、エジプト・中近東美術、中国美術などを展示するため、1930年に開館した。西洋美術、近代美術を展示する美術館としては日本最初のものである。」という事になります。
今回、せっかくだからと最近の美術館にはよく備え付けられている音声ガイドを借りていろいろ聞きながら回ったので、よりいっそう楽しかったですね。モネの睡蓮とか、児玉虎二郎が直接モネから買い付けに出かけてるんですねぇ。知らなかった。
次の日は世界最古の庶民学校と言われる閑谷学校へ。江戸時代に武士だけでなく、広く庶民からも学生を募り、儒学やらを教えていたというもの。
これもウィキから引用すると、
「岡山藩は学校領を設け藩財政より独立させ、学田や学林を運営させた。これにより、もし転封や改易により藩主が交替となった場合においても学校が存続するよう工夫した。ここに岡山藩がこの学校をいかに重要視していたか、その一端が窺える。」
となっていて、その先見性と体制の確かさに感心してしまう。
ついでに引用すると、
「建造物のうち、講堂が国宝に指定され、小斎・飲室・文庫・聖廟・閑谷神社・石塀など24棟が国の重要文化財に指定されている。」
ということなんですが、とにかく居心地の良い場所で、「ああ、ここなら本当に心静かに勉強できただろうなと思わせられる良い場所でした。なんせ山の中ですからね。とても静かで気持ちの良い空間だったのであります。
奇しくも、絵と学校という事で仕事とプライベートの学習という、いまの僕の生活に直接関わりの大きいテーマでの旅行になったので、いろいろと思うところは大きかったのであります。
大所帯だったので、マイクロバスを仕立てての旅行となりまして、移動もラクラク。時間も比較的のんびりできたし、なかなかに快適だったのであります。食事もおいしかったしなぁ。ほかにもあちこち見たし。
しかしまぁ、年末ってのだけは問題でしたが。忘年会代わりにという企画で出てきたものだったけど、さすがに時間のやりくりにヒーハー言う事になってしまったですよ。
いやまぁ、楽しかったからいいんだけど。
田んぼの生き物図鑑 (ヤマケイ情報箱)
2007年12月23日 読書
ISBN:4635062597 単行本 内山 りゅう 山と溪谷社 2005/07 ¥3,360
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4635062597/249-9767057-8485143
またmixiからの転載。最近こればっかしですな。
--------------------------------------------------
毎月読んだ本を紹介してますが、考えたら、この素晴らしい本を紹介してなかったので、紹介しておきます。
田んぼの生き物図鑑(内山りゅう)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4635062597/249-9767057-8485143
写真家の内山りゅうさんが撮影された、日本の「田んぼ」を中心とした生き物(植物も含みます)の写真図鑑です。
図鑑なので、机の上に置いて、ときおりパラパラと眺めるというような読み方しかしてなくて「読了」したわけではないので「今月読んだ本」には入れてなかったんですが、まぁほんとに素晴らしい本であります。
田んぼというのは、春から収穫のある秋までは水を張ってお米を育てていますが、晩秋から冬にかけては水を抜いた更地になります。
お正月の凧揚げなどというのは、まさにそういう更地になった田んぼなどでやるもので、風物詩というものはちゃんと背景のありますし、僕自身、子供の頃に母方の田舎で水の抜かれた田んぼで走り回った記憶があります。
しかし、この水が張ってあったりなかったりする、という環境があることによって、生き物の生態系は大きくごろっと変るわけですね。端的に言うと、水がしばらくなくても生き残れるような生き物だけが残る。そういう人間との関わりの中で自然が変化していって、日本の田園風景は形作られてきたのだ、という事がとても良く分かる一冊です。
自然、自然と言いますが、人間も自然のひとつであり、そこには自然への「関わり方」というものがあります。何らかの形で影響を与えずにはおれないわけです。
この本には外来種がどのように自然環境に影響していくのか? という事についてもいろいろ豊富に書かれていて、それもまた面白い点です。
外来種の影響など、人間の関わりがなくて生まれる事はないので、このあたり、本当に慎重にして欲しいなぁと僕は思います。
ともあれ、田んぼというのは、人間が自然に積極的に関わってきて生まれている小宇宙なのだなぁという事がとても良く分かる一冊で、大変お勧めであります。
----------
ちなみに、なんでこの本を知ったのか? というと、実はお仕事で、この作者の内山りゅうさんのインタビューをしたからなんですね。
もう、ちょうど一年前になりますが、内山さんのお宅におうかがいして、いろいろお話しをさせていただいたのです。
もともと内山さんは水中写真家という肩書きを持っておられるのですが、水中は水中でも「海」ではなく「川」。淡水専門で潜っておられるカメラマンで、実はそういうカメラマンというのは、とても珍しいのだそうです。
内山さんいわく、日本ほど川の水が綺麗な国も珍しいのだそうで、外国では川の水をそのまま飲める国なんてほとんどないのだそうです。内山さんは、海外へでかけての撮影もたくさんされていて、その日本独自の河川の美しさに気付かれたのだそうです。
日本でも、いまでは川の水をそのまま飲むなんて考えられないですけど、本の数十年前までは、そういう川が当たり前だったのだからちょっと考えさせられます。
最近落語に興味が湧いてきてるので、過去の大阪についてもいろいろ読んだりするのですが、大阪はもともと埋め立て地で、井戸が出にくい。だから水壷を各家庭において水を買ってたらしいのですが、それをどこで汲んできたかと言うと、上流の水ほど値段が高くてけっこう山に近い場所からくみ出してたようですが、一番安いところでは、長堀で汲んだ水を道頓堀で売るというような事もあったらしいのですね。歩いて15分の距離ですよ!
そういう水と親しんでいた環境というのが、自分の祖父とか曾祖父の時代にはキチンとあったのだから、ちょっとちゃんと考えないといけないなと思います。ちゃんと戻さないとなぁ。
内山さんは、淡水の水中写真家として、良い仕事がしたいからと、東京から和歌山の白浜にある和歌山空港のそばに移り住まれておられるんですね。和歌山にはまだまだ自然の残った川や田んぼがたくさんあるので、それを撮影したい、という事なんだそうです。
和歌山空港のそばなら出版社などのある東京へもすっと行けると言うことで、生活と仕事の拠点としてうまく機能しているご様子でした。家の中に水槽がたくさんあって、それもまた圧巻だったのです。
ずっとすごい人が世の中にはいてるよなぁと感心してたのですけれど、肝心のご著書を読んでなかったので、まずはやっぱりこの本だろうと思って買って読んでみたら圧倒された、というような事であります。
自分の興味を活かして、世の中の役に立つことをしていくという生き方の部分でもとても良い刺激を受けた方です。
こうありたいな、と思って、そっちの方に動いていこうとすると言うこと。それがとても大切だなぁと思うのですね。
で、しかもそれは、やってて楽しいって事なんですね。そのやってて楽しいを仕事にしていて、それで世の中との関わり、影響というものが成り立っている。そういうところが素晴らしいなぁと思うのであります。
そういう方向に生きていきたいと思います。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4635062597/249-9767057-8485143
またmixiからの転載。最近こればっかしですな。
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毎月読んだ本を紹介してますが、考えたら、この素晴らしい本を紹介してなかったので、紹介しておきます。
田んぼの生き物図鑑(内山りゅう)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4635062597/249-9767057-8485143
写真家の内山りゅうさんが撮影された、日本の「田んぼ」を中心とした生き物(植物も含みます)の写真図鑑です。
図鑑なので、机の上に置いて、ときおりパラパラと眺めるというような読み方しかしてなくて「読了」したわけではないので「今月読んだ本」には入れてなかったんですが、まぁほんとに素晴らしい本であります。
田んぼというのは、春から収穫のある秋までは水を張ってお米を育てていますが、晩秋から冬にかけては水を抜いた更地になります。
お正月の凧揚げなどというのは、まさにそういう更地になった田んぼなどでやるもので、風物詩というものはちゃんと背景のありますし、僕自身、子供の頃に母方の田舎で水の抜かれた田んぼで走り回った記憶があります。
しかし、この水が張ってあったりなかったりする、という環境があることによって、生き物の生態系は大きくごろっと変るわけですね。端的に言うと、水がしばらくなくても生き残れるような生き物だけが残る。そういう人間との関わりの中で自然が変化していって、日本の田園風景は形作られてきたのだ、という事がとても良く分かる一冊です。
自然、自然と言いますが、人間も自然のひとつであり、そこには自然への「関わり方」というものがあります。何らかの形で影響を与えずにはおれないわけです。
この本には外来種がどのように自然環境に影響していくのか? という事についてもいろいろ豊富に書かれていて、それもまた面白い点です。
外来種の影響など、人間の関わりがなくて生まれる事はないので、このあたり、本当に慎重にして欲しいなぁと僕は思います。
ともあれ、田んぼというのは、人間が自然に積極的に関わってきて生まれている小宇宙なのだなぁという事がとても良く分かる一冊で、大変お勧めであります。
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ちなみに、なんでこの本を知ったのか? というと、実はお仕事で、この作者の内山りゅうさんのインタビューをしたからなんですね。
もう、ちょうど一年前になりますが、内山さんのお宅におうかがいして、いろいろお話しをさせていただいたのです。
もともと内山さんは水中写真家という肩書きを持っておられるのですが、水中は水中でも「海」ではなく「川」。淡水専門で潜っておられるカメラマンで、実はそういうカメラマンというのは、とても珍しいのだそうです。
内山さんいわく、日本ほど川の水が綺麗な国も珍しいのだそうで、外国では川の水をそのまま飲める国なんてほとんどないのだそうです。内山さんは、海外へでかけての撮影もたくさんされていて、その日本独自の河川の美しさに気付かれたのだそうです。
日本でも、いまでは川の水をそのまま飲むなんて考えられないですけど、本の数十年前までは、そういう川が当たり前だったのだからちょっと考えさせられます。
最近落語に興味が湧いてきてるので、過去の大阪についてもいろいろ読んだりするのですが、大阪はもともと埋め立て地で、井戸が出にくい。だから水壷を各家庭において水を買ってたらしいのですが、それをどこで汲んできたかと言うと、上流の水ほど値段が高くてけっこう山に近い場所からくみ出してたようですが、一番安いところでは、長堀で汲んだ水を道頓堀で売るというような事もあったらしいのですね。歩いて15分の距離ですよ!
そういう水と親しんでいた環境というのが、自分の祖父とか曾祖父の時代にはキチンとあったのだから、ちょっとちゃんと考えないといけないなと思います。ちゃんと戻さないとなぁ。
内山さんは、淡水の水中写真家として、良い仕事がしたいからと、東京から和歌山の白浜にある和歌山空港のそばに移り住まれておられるんですね。和歌山にはまだまだ自然の残った川や田んぼがたくさんあるので、それを撮影したい、という事なんだそうです。
和歌山空港のそばなら出版社などのある東京へもすっと行けると言うことで、生活と仕事の拠点としてうまく機能しているご様子でした。家の中に水槽がたくさんあって、それもまた圧巻だったのです。
ずっとすごい人が世の中にはいてるよなぁと感心してたのですけれど、肝心のご著書を読んでなかったので、まずはやっぱりこの本だろうと思って買って読んでみたら圧倒された、というような事であります。
自分の興味を活かして、世の中の役に立つことをしていくという生き方の部分でもとても良い刺激を受けた方です。
こうありたいな、と思って、そっちの方に動いていこうとすると言うこと。それがとても大切だなぁと思うのですね。
で、しかもそれは、やってて楽しいって事なんですね。そのやってて楽しいを仕事にしていて、それで世の中との関わり、影響というものが成り立っている。そういうところが素晴らしいなぁと思うのであります。
そういう方向に生きていきたいと思います。
ISBN:4022503610 単行本 桂 米朝 朝日新聞社 2007/12/07 ¥1,365
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4022503610/249-9767057-8485143
この間、いつもどおり本屋を探索に出かけたら、こんな本がでておりまして。ついつい買ってしまいました。
よく知らなかったのですが、いま米朝さん、ラジオ番組をレギュラーで持ってるんですねぇ。最近はもう落語ができなくなって、昔のこととか思い出しながらいろいろしゃべったり、ゲストを招いて話をしたりするらしいのですが、それを一冊の本にまとめたものだそうです。
で、これが実に面白い。
米朝さんの弟子というと、なんと言っても枝雀さんと吉朝さんなんだけど、この二人の天才が二人ともに早くにお亡くなりになってるわけですね。師匠の米朝さんより先に、あちらへお引っ越しになってしまわれた。
で、そういう話もいろいろ読めるかな? と思ったら、枝雀、吉朝さんの話はほとんどなし。逆に、いま生きてる弟子の話がすごく多い。
たぶん、ゲストがそういう生きてる弟子達だったんでしょうね。なので、ざこば師匠とかの話がけっこうあったり、千朝さん(この人はうまい!)とかの話の方が多かったりする。
で、それより面白いのは、米朝さんが若かった頃のお話がけっこうたくさん出てくるって事です。つまり、米朝さんの師匠とか、先輩落語家の話ですね。
あるいは、もうすでに消えてしまった大阪の風習の話とか、とにかく今みんなが知らない昔の大阪の姿をいろいろとお話されていて、ここがまたやたらと面白いのであります。
読んでいて、ははぁそういう訳だったのか!と新発見したのは、昔の職人の話でした。
昔の職人さんは、植木屋さんにしても大工にしても、とにかく日当をいただいて仕事をするわけですが、朝から仕事にかかって、いかに早く仕上げてしまうかが腕の見せ所であり、自慢でもあったのだそうです。
なので、腕の良い職人ほど、仕事は午前中で終わらせてしまって、午後はゆっくり講釈を聞きに出かけたりするという、そういう感じだったらしい。
ああ、そういうことやったんか! なんですね。
いやいや、というのは、「青菜」という落語を、まるまる一席覚えてしまったんですが、やってるうちにどうにもこうにも、時間の流れがよくわからんところがあったからなんです。
「青菜」は、仕事が終わった植木屋を旦那さんが酒でもてなして、その時の様子を家に帰ってから真似てみるというお話なわけです。
で、これを私は、いまの勤め人の感覚で解釈してたから、旦那さんから柳陰だの鯉の洗いだのをふるまってもらう時間を夕方4時くらいと考えてたわけです。
でもそうすると、帰ってからの話がどうにもつながらないんですね。帰ってから友達が「風呂いこけ」と訪ねてくるし、だいたい嫁さんのお咲きさん自体、旦那に向かって「何寝とぼけてなはんの、まだ日も高いうちから」とかのセリフがけっこうあるわけですよ。
おかしいなぁ? いったい何時に帰ったのよ? とか思ってしゃべってたんですが、結局、旦那さんと飲んでた時間が多分、昼の2時とかそんな時間なわけですな。で、だからこそ冷えた柳陰を飲むんだわ。
うーむ。なるほど。と思いました。
米朝さんの話によれば、職人は昼からは講釈場で講釈を聞いてたって事ですけど、これも言うならいまでいう連続テレビ小説みたいなもので、毎日少しずつ「続き物」で話しをしてたんですってねぇ。だから講釈場には、ひと月券とかの「定期券」とかあったらしい。昼間の講釈場なんて職人だらけだったみたいですな。
で、またこの講釈場というのが、ありとあらゆる事をネタにしていて、歴史の面白いところをつまみ語りしたり、話題はとても豊富だったみたいで、たぶん時事ネタとか、あるいは、町のうわさ話や、ちょっとした物知り知識みたいなネタとか山のようにやってたんだろうと想像されるんですね。
で、どうも、米朝さんの幅広い知識というのは、そういう講釈場からの知識も、けっこう大きな背骨として入ってる感じなんですよねぇ。
なるほどなぁと。
昔の人はいまみたいにいろんなメディアがなかったから話芸を通じて教養を高めていたんだろうなぁと、すごく勉強になったのであります。
この本、なかなかに面白かったでありますね。
昔の職人は、仕事をさっさと切り上げて、講釈場で森羅万象のことを楽しみながら学習してたんだなぁという感じが解って実に面白く感じたのであります。いや、自分がライターという職人であり、現代版講釈士でもあるというような事が重なって、そう感じるんですけどね。
おもしろい本でした。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4022503610/249-9767057-8485143
この間、いつもどおり本屋を探索に出かけたら、こんな本がでておりまして。ついつい買ってしまいました。
よく知らなかったのですが、いま米朝さん、ラジオ番組をレギュラーで持ってるんですねぇ。最近はもう落語ができなくなって、昔のこととか思い出しながらいろいろしゃべったり、ゲストを招いて話をしたりするらしいのですが、それを一冊の本にまとめたものだそうです。
で、これが実に面白い。
米朝さんの弟子というと、なんと言っても枝雀さんと吉朝さんなんだけど、この二人の天才が二人ともに早くにお亡くなりになってるわけですね。師匠の米朝さんより先に、あちらへお引っ越しになってしまわれた。
で、そういう話もいろいろ読めるかな? と思ったら、枝雀、吉朝さんの話はほとんどなし。逆に、いま生きてる弟子の話がすごく多い。
たぶん、ゲストがそういう生きてる弟子達だったんでしょうね。なので、ざこば師匠とかの話がけっこうあったり、千朝さん(この人はうまい!)とかの話の方が多かったりする。
で、それより面白いのは、米朝さんが若かった頃のお話がけっこうたくさん出てくるって事です。つまり、米朝さんの師匠とか、先輩落語家の話ですね。
あるいは、もうすでに消えてしまった大阪の風習の話とか、とにかく今みんなが知らない昔の大阪の姿をいろいろとお話されていて、ここがまたやたらと面白いのであります。
読んでいて、ははぁそういう訳だったのか!と新発見したのは、昔の職人の話でした。
昔の職人さんは、植木屋さんにしても大工にしても、とにかく日当をいただいて仕事をするわけですが、朝から仕事にかかって、いかに早く仕上げてしまうかが腕の見せ所であり、自慢でもあったのだそうです。
なので、腕の良い職人ほど、仕事は午前中で終わらせてしまって、午後はゆっくり講釈を聞きに出かけたりするという、そういう感じだったらしい。
ああ、そういうことやったんか! なんですね。
いやいや、というのは、「青菜」という落語を、まるまる一席覚えてしまったんですが、やってるうちにどうにもこうにも、時間の流れがよくわからんところがあったからなんです。
「青菜」は、仕事が終わった植木屋を旦那さんが酒でもてなして、その時の様子を家に帰ってから真似てみるというお話なわけです。
で、これを私は、いまの勤め人の感覚で解釈してたから、旦那さんから柳陰だの鯉の洗いだのをふるまってもらう時間を夕方4時くらいと考えてたわけです。
でもそうすると、帰ってからの話がどうにもつながらないんですね。帰ってから友達が「風呂いこけ」と訪ねてくるし、だいたい嫁さんのお咲きさん自体、旦那に向かって「何寝とぼけてなはんの、まだ日も高いうちから」とかのセリフがけっこうあるわけですよ。
おかしいなぁ? いったい何時に帰ったのよ? とか思ってしゃべってたんですが、結局、旦那さんと飲んでた時間が多分、昼の2時とかそんな時間なわけですな。で、だからこそ冷えた柳陰を飲むんだわ。
うーむ。なるほど。と思いました。
米朝さんの話によれば、職人は昼からは講釈場で講釈を聞いてたって事ですけど、これも言うならいまでいう連続テレビ小説みたいなもので、毎日少しずつ「続き物」で話しをしてたんですってねぇ。だから講釈場には、ひと月券とかの「定期券」とかあったらしい。昼間の講釈場なんて職人だらけだったみたいですな。
で、またこの講釈場というのが、ありとあらゆる事をネタにしていて、歴史の面白いところをつまみ語りしたり、話題はとても豊富だったみたいで、たぶん時事ネタとか、あるいは、町のうわさ話や、ちょっとした物知り知識みたいなネタとか山のようにやってたんだろうと想像されるんですね。
で、どうも、米朝さんの幅広い知識というのは、そういう講釈場からの知識も、けっこう大きな背骨として入ってる感じなんですよねぇ。
なるほどなぁと。
昔の人はいまみたいにいろんなメディアがなかったから話芸を通じて教養を高めていたんだろうなぁと、すごく勉強になったのであります。
この本、なかなかに面白かったでありますね。
昔の職人は、仕事をさっさと切り上げて、講釈場で森羅万象のことを楽しみながら学習してたんだなぁという感じが解って実に面白く感じたのであります。いや、自分がライターという職人であり、現代版講釈士でもあるというような事が重なって、そう感じるんですけどね。
おもしろい本でした。
力餅食堂って知ってますか?
2007年12月26日先日、ふと自宅近くを歩いていて、力餅食堂があるのを見たのです。
「あー、まだちゃんと営業してたんや。」とか思って。
力餅食堂。
ご存じですか? 知らない人の方が多いでしょうね。なんせ関西ローカルの食堂ですから。なんちゅうか、昔からある、うどん、そば、ドンブリもの定食類などを出してる、とても庶民的な食堂の名前です。
特徴的なのは、名前の通りで、お持ち帰り専用のおはぎ(ぼたもち)やら、赤飯やらを、つねに置いてるってところ。これがまた昔ながらの作りでおいしいのですよ。(最近はほとんど買いませんけど。かれこれ30年以上も。:笑)
いま何店舗あるのか知らないんですけれど、関西圏には、この力餅食堂って、けっこうあるんですよね。
で、これが、実は明治から続く古いのれんのお店なのだ、ということを、ふと気になってグーグルしてみて知って、「へぇ〜」って驚いたのであります。
なんとか力造って人が初代なんだけど、そこからどんどんのれん分けされて、お店が増えていったんですね。
力餅食堂に関しては、ググると、ここがトップに出てきます。
力餅食堂の謎
http://ha6.seikyou.ne.jp/home/osarukun/zatuwa3top.htm
便利な世の中になったねぇ、ほんとに。
サイトを見てると、なかなか面白くて、味わいがありますな。
これぞ、私たちの日本、って趣があるんじゃないかって思う。
好きだなぁ。
いまで言えばフランチャイズみたいなもんですけど、あくまで日本の昔からある「のれん分け」の制度ですから、お店で修行して一人前になったら、名前だけ分けてもらって独立して自分の店が持てる、というだけで、資本関係もなければ経営に対する縛りもないというそういう昔ながらのやり方で広がったものらしいのですね。
ということなので、どこの力餅食堂もたいていは、実質的に家族経営の、ごく当たり前の街の大衆食堂なわけです。椅子やらテーブルもお店ごとにちがうし、メニューも全然違う。
ただ共通するのは、力餅という名前と「のれん」があって、ぼたもちを売っているという事だけ。
でもねぇ、これがなんちゅうか、昭和のノスタルジーというか、大枠、気持ちよいのですよ。
単純に考えても、イートインとテイクアウトの両方のメニューをキチンと持っているというだけでも、かなり優れた営業形態なわけです。どっちか片方だけで伸びてきたお店が、大きくなってくると結局はイートイン&テイクアウトの両面で対応するようになるのだから。
最近ではファミレス各社がテイクアウトに力を入れたり出前を受け付けたりしてますけど、そんなのは家族経営で小回りのきく大衆食堂では、当たり前の事だしねぇ。
しかしのれん分けというのは面白くて、たとえば一富士食堂なんていうのも、大阪には何店もみかけるんですけど、たぶんあれも、元はのれん分けしたお店だったんでしょうね。企業の昼食の食堂サービスをやってる一富士フーズだっけ? そんな会社も確かあったし。のれん分けしたあとは、名前が一緒というだけで、それぞれ全然別のお店になってるんですよねぇ。
最近落語をしゃべっていて、明治の時代・風俗とかに興味が出てきてたから、そういう昔のやり方とかが、よけいに面白かったです。
私の死んだじいさんは、明治36年だか、そのあたりの生まれだったんですが、そのじいさんが良く「力餅で赤飯買(こ)うてこい」とか「力餅でそばでも食べよか」と言ってた記憶があるのですよ。まさに明治からの生活を支えてきたお店なんだろうなぁって思う。それもごくごく普通の一般庶民による家族経営で。
いいなぁって思うんですよね。そういうところが。「のれん」というロゴの力と餅と飯という持ち帰り&イートインの二面作戦という「アイディア」だけで、今日まで生き残ってきてるってことなんでしょうな。そういうのがすごく面白いと思う。
こういうのを見てると、人生って面白いなぁって思うんですよ。僕は。うまく言えないけど。
うーん。いちど久しぶりにおはぎを買いに行こうかなぁ。うむ。
「あー、まだちゃんと営業してたんや。」とか思って。
力餅食堂。
ご存じですか? 知らない人の方が多いでしょうね。なんせ関西ローカルの食堂ですから。なんちゅうか、昔からある、うどん、そば、ドンブリもの定食類などを出してる、とても庶民的な食堂の名前です。
特徴的なのは、名前の通りで、お持ち帰り専用のおはぎ(ぼたもち)やら、赤飯やらを、つねに置いてるってところ。これがまた昔ながらの作りでおいしいのですよ。(最近はほとんど買いませんけど。かれこれ30年以上も。:笑)
いま何店舗あるのか知らないんですけれど、関西圏には、この力餅食堂って、けっこうあるんですよね。
で、これが、実は明治から続く古いのれんのお店なのだ、ということを、ふと気になってグーグルしてみて知って、「へぇ〜」って驚いたのであります。
なんとか力造って人が初代なんだけど、そこからどんどんのれん分けされて、お店が増えていったんですね。
力餅食堂に関しては、ググると、ここがトップに出てきます。
力餅食堂の謎
http://ha6.seikyou.ne.jp/home/osarukun/zatuwa3top.htm
便利な世の中になったねぇ、ほんとに。
サイトを見てると、なかなか面白くて、味わいがありますな。
これぞ、私たちの日本、って趣があるんじゃないかって思う。
好きだなぁ。
いまで言えばフランチャイズみたいなもんですけど、あくまで日本の昔からある「のれん分け」の制度ですから、お店で修行して一人前になったら、名前だけ分けてもらって独立して自分の店が持てる、というだけで、資本関係もなければ経営に対する縛りもないというそういう昔ながらのやり方で広がったものらしいのですね。
ということなので、どこの力餅食堂もたいていは、実質的に家族経営の、ごく当たり前の街の大衆食堂なわけです。椅子やらテーブルもお店ごとにちがうし、メニューも全然違う。
ただ共通するのは、力餅という名前と「のれん」があって、ぼたもちを売っているという事だけ。
でもねぇ、これがなんちゅうか、昭和のノスタルジーというか、大枠、気持ちよいのですよ。
単純に考えても、イートインとテイクアウトの両方のメニューをキチンと持っているというだけでも、かなり優れた営業形態なわけです。どっちか片方だけで伸びてきたお店が、大きくなってくると結局はイートイン&テイクアウトの両面で対応するようになるのだから。
最近ではファミレス各社がテイクアウトに力を入れたり出前を受け付けたりしてますけど、そんなのは家族経営で小回りのきく大衆食堂では、当たり前の事だしねぇ。
しかしのれん分けというのは面白くて、たとえば一富士食堂なんていうのも、大阪には何店もみかけるんですけど、たぶんあれも、元はのれん分けしたお店だったんでしょうね。企業の昼食の食堂サービスをやってる一富士フーズだっけ? そんな会社も確かあったし。のれん分けしたあとは、名前が一緒というだけで、それぞれ全然別のお店になってるんですよねぇ。
最近落語をしゃべっていて、明治の時代・風俗とかに興味が出てきてたから、そういう昔のやり方とかが、よけいに面白かったです。
私の死んだじいさんは、明治36年だか、そのあたりの生まれだったんですが、そのじいさんが良く「力餅で赤飯買(こ)うてこい」とか「力餅でそばでも食べよか」と言ってた記憶があるのですよ。まさに明治からの生活を支えてきたお店なんだろうなぁって思う。それもごくごく普通の一般庶民による家族経営で。
いいなぁって思うんですよね。そういうところが。「のれん」というロゴの力と餅と飯という持ち帰り&イートインの二面作戦という「アイディア」だけで、今日まで生き残ってきてるってことなんでしょうな。そういうのがすごく面白いと思う。
こういうのを見てると、人生って面白いなぁって思うんですよ。僕は。うまく言えないけど。
うーん。いちど久しぶりにおはぎを買いに行こうかなぁ。うむ。
日本人の精神史を考える。
2007年12月26日 読書
ISBN:4344980603 新書 島田 裕巳 幻冬舎 2007/11 ¥756
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4344980603/249-9767057-8485143
この本は、二週間ほど前に読んだ本ですが、かなり面白かったんですよね。
島田裕巳というと、オウム事件の時に、オウムを擁護してケッチン食らった人という印象しかないんですけど、そういう軽いところのある人だからこそ、日本の「新宗教」を総覧的にザザザザザーっと見るには最適の人なのかもな、という気がしました。
紹介されているのは、
●天理教
●大本
●生長の家
●天照皇大神宮教と璽宇
●立正佼成会と霊友会
●創価学会
●世界救世教、神慈秀明会と真光系教団
●PL教団
●真如苑
●GLA(ジー・エル・エー総合本部)
と、有名どころが過不足無く適切に並んでる感じ。
それと、いちおうあとがきに紙幅の都合上、「金光教」「阿含宗」「善隣教」を取り上げられなかったと断わり書きがあって、簡単な説明がありました。
ということで、これだけ並ぶと、本当に日本人の、この何十年かの精神のありようが、いかに変化してきたのかがわかるから面白いのであります。
ここに並ぶ「新」宗教は、古くは明治時代くらいに生まれて、現代まで生き残っているような宗教ばかりなんですね。
で、島田氏の紹介文を読んでいくと、海外からの文明がやってきて、日本人のライフスタイルが変化するのにあわせて、宗教というものの姿形も変化してきたのだな、というのが本当によくわかるんです。
まぁ言わば、「宗教のカタログ雑誌」という感じで、この本は面白いです。
でも、神道やら仏教やらキリスト教などの王道路線の話は全然出てきませんので、まさにファッション・カタログのノリなんですね。それぞれの宗教の個性の違いみたいなことがよくわかる。
で、やっている宗教的儀式とかを見ていくと、まさに日本の土着の文化から産まれてきているなぁというのがわかって、実に面白いのです。
たとえば、田舎から都会に出てきた若者が、村の寄り合いに集まるような感じで立正佼成会・霊友会の「法座」に集まってきたとか、島田氏はおおむね、これらの宗教を時代の変化の中でのニーズに位置づけた紹介をしているので読みやすいのです。
上に●で紹介した順で個々の宗教が紹介されているのですが、実は勃興した時代の古いものから順に並べられていて、日本人の精神史が明治から昭和にかけて、どのように変化してきたかという、「日本人の精神史」になっているところがグッジョブ! という感じなんですね、この本。
どうもこの間から、落語といい、力餅食堂といい、明治から昭和にかけての大衆文化というところに興味が行ってるので、とにかくやたらと面白くて仕方ないのであります。
僕自身、この数年、地球全体の捉え方からはじまって、世界の宗教の概略(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・仏教・儒教)学習をしてきてたのですけど、ここに来て、やっと日本の現代に近づいて来れた、という感じなのですね。あー、長かった。
個人的に「やっぱり面白いなぁ」と思ったのは、ひとつは何と言っても、「大本(おおもと)」ですね。
日本の宗教史において、この大本というのは、別格的に重要なんじゃないかなぁと思います。知ってる人は知ってるけど、出口なおと出口王仁三郎(おにざぶろう)の、あの「おおもと」です。
大本がやっぱり「おおもと」なんだなぁと思うのは、「手かざし」などのヒーリングですね。これがそのまま真光系の教団とかにも継承されてるんですな。ああ、やっぱりそうだったのかって思う。で、どうもこの「手かざし」の系統は、力餅食堂じゃないけど、「のれんわけ」で広がってるところがあって、すぐにみんな手かざしができるものだから、みんな勝手に新宗教を作ってしまってるというような印象があります。
このあたり、この島田さんの本には書いてないけど、「レイキ」の歴史と重ね合わせると、かなり面白いと思うんですよね。
「レイキ」は、ようするに「霊気」の事なんですけど、「手当」「てかざし」による病気の治療・ヒーリングというものが、実はハワイに渡ってそこから全世界に広がり、たとえばイギリスでは「レイキ」というのは一般名詞化してるほどの普通の治療法として定着してるんですよね。
驚くなかれ、アメリカにもレイキは渡っていて、病院によっては補助治療行為として認知されてるから、保険がきく場合すらあるんですよ。そのくらい「レイキ」は一般化してる。
で、レイキのテクニック修得法に関してはここでは語りませんけど、ようはレイキもこれら新宗教と同じ時代に広がっているわけなんです。
ただ、大本や真光の手かざしが宗教と一体化しているのに対して、レイキは宗教とは関係なかったというところが違うんですね。で、宗教と関係なくなったレイキは、国内では消滅に近いくらい小さくなって逆に世界に定着した。で、国内では大本やら真光系で宗教とともに生き延びたって事何じゃないかな?と僕は見ました。
このあたりは想像で書いてますす。でもまぁ、レイキと手かざしは多分同じものですよね。きっと。もともとそういうものがあるんだと思う。人間には。それが何らかの形で「師から弟子に伝えられる技術」として伝承されるようになったんだと思うんですね。まさに力餅食堂みたいに。
で、どうもそのおおもとが、やっぱり「大本」であるような気がするのであります。
大本というのは僕は妙な因縁がありまして、僕が若かりし頃、コピーライターになりたての頃に、ある印刷会社さんから、ある銀行の京都の綾部支店オープンに関するオープン企画の依頼が来たのですよ。
で、僕は当時、会社に入りたてで、やる気もあったものだから、「綾部という土地がわからないと、企画も立てようがないので、現場を見に行ってきてもいいですか?」と気軽に言ってしまったんですよね。
でも、京都の綾部なんて、大阪からでもかなり時間のかかる場所だったわけです。当時はとくに。
普通ならそういう事を言っても「なにもわざわざ行かなくてもいいよ」と言われそうなものなんですが、どういうわけかその時は、会社の僕のボスが僕のやる気を買ってくれて、わざわざ印刷会社さんにかけあって、「電車賃だけで良いですから取材費出してもらえませんかね」と予算枠を取ってくださって出かける事になったんです。
これねぇ、いまから考えると、どう考えてもおかしいんですよ。そんなもん、片田舎の銀行の支店のオープン企画なんだから、まぁポケットティッシュでも配りましょか? にしかならないんですよ。いくら考えたって良いアイディアが出るわけがない。
なのに、何故か僕は「綾部に行かないと」と思って、ボスは「行かせてやりたい」になって、そんでもって印刷会社さんも「ええですよ」になったんです。もう、ものすごく不思議で。
で、その綾部こそ、大本の発祥の地というか、本拠地というか、そういう場所なわけですよ。で、僕はその取材に行く日まで、大本の名前も出口王仁三郎の名前も知らなかったわけです。
で、とにかく現地に行って市役所で歴史を調べて、大本の本山の山の上まで昇って、とにかく、やたらと精神的な意味で気持ちが良かったんですね。何かに導かれるかのようなイメージが僕にはありまして、別にどうということのない出張ではあったんですけど、僕の人生の中ではかなり大きな出来事として印象に残ってるんです。
そういう事があってから、もうずっと大本が気になって気になって仕方なくなってしまっておりましたからねぇ。
で、実際、この本を読んでも、やっぱり大本の存在というのは、いろいろと大きいですな。
この本にはそのほかPL教団の事も書いてあるけど、高校・大学と南大阪に通ってた私としては、かの有名なPLタワーの正式名称(超宗派万国戦争犠牲者慰霊大平和祈念搭)がわかったり、高校の頃から読んでいたウルフガイの平井和正が関わったGLAが出てきたりと、自分とのからみで理解できるところも多くて、実に面白かったのであります。
それはともあれ、明治以降の西洋文明が入ってから後の「日本人の精神史」を考えるには、けっこう流れが分りやすくて面白い書籍だと思います。おすすめです。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4344980603/249-9767057-8485143
この本は、二週間ほど前に読んだ本ですが、かなり面白かったんですよね。
島田裕巳というと、オウム事件の時に、オウムを擁護してケッチン食らった人という印象しかないんですけど、そういう軽いところのある人だからこそ、日本の「新宗教」を総覧的にザザザザザーっと見るには最適の人なのかもな、という気がしました。
紹介されているのは、
●天理教
●大本
●生長の家
●天照皇大神宮教と璽宇
●立正佼成会と霊友会
●創価学会
●世界救世教、神慈秀明会と真光系教団
●PL教団
●真如苑
●GLA(ジー・エル・エー総合本部)
と、有名どころが過不足無く適切に並んでる感じ。
それと、いちおうあとがきに紙幅の都合上、「金光教」「阿含宗」「善隣教」を取り上げられなかったと断わり書きがあって、簡単な説明がありました。
ということで、これだけ並ぶと、本当に日本人の、この何十年かの精神のありようが、いかに変化してきたのかがわかるから面白いのであります。
ここに並ぶ「新」宗教は、古くは明治時代くらいに生まれて、現代まで生き残っているような宗教ばかりなんですね。
で、島田氏の紹介文を読んでいくと、海外からの文明がやってきて、日本人のライフスタイルが変化するのにあわせて、宗教というものの姿形も変化してきたのだな、というのが本当によくわかるんです。
まぁ言わば、「宗教のカタログ雑誌」という感じで、この本は面白いです。
でも、神道やら仏教やらキリスト教などの王道路線の話は全然出てきませんので、まさにファッション・カタログのノリなんですね。それぞれの宗教の個性の違いみたいなことがよくわかる。
で、やっている宗教的儀式とかを見ていくと、まさに日本の土着の文化から産まれてきているなぁというのがわかって、実に面白いのです。
たとえば、田舎から都会に出てきた若者が、村の寄り合いに集まるような感じで立正佼成会・霊友会の「法座」に集まってきたとか、島田氏はおおむね、これらの宗教を時代の変化の中でのニーズに位置づけた紹介をしているので読みやすいのです。
上に●で紹介した順で個々の宗教が紹介されているのですが、実は勃興した時代の古いものから順に並べられていて、日本人の精神史が明治から昭和にかけて、どのように変化してきたかという、「日本人の精神史」になっているところがグッジョブ! という感じなんですね、この本。
どうもこの間から、落語といい、力餅食堂といい、明治から昭和にかけての大衆文化というところに興味が行ってるので、とにかくやたらと面白くて仕方ないのであります。
僕自身、この数年、地球全体の捉え方からはじまって、世界の宗教の概略(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・仏教・儒教)学習をしてきてたのですけど、ここに来て、やっと日本の現代に近づいて来れた、という感じなのですね。あー、長かった。
個人的に「やっぱり面白いなぁ」と思ったのは、ひとつは何と言っても、「大本(おおもと)」ですね。
日本の宗教史において、この大本というのは、別格的に重要なんじゃないかなぁと思います。知ってる人は知ってるけど、出口なおと出口王仁三郎(おにざぶろう)の、あの「おおもと」です。
大本がやっぱり「おおもと」なんだなぁと思うのは、「手かざし」などのヒーリングですね。これがそのまま真光系の教団とかにも継承されてるんですな。ああ、やっぱりそうだったのかって思う。で、どうもこの「手かざし」の系統は、力餅食堂じゃないけど、「のれんわけ」で広がってるところがあって、すぐにみんな手かざしができるものだから、みんな勝手に新宗教を作ってしまってるというような印象があります。
このあたり、この島田さんの本には書いてないけど、「レイキ」の歴史と重ね合わせると、かなり面白いと思うんですよね。
「レイキ」は、ようするに「霊気」の事なんですけど、「手当」「てかざし」による病気の治療・ヒーリングというものが、実はハワイに渡ってそこから全世界に広がり、たとえばイギリスでは「レイキ」というのは一般名詞化してるほどの普通の治療法として定着してるんですよね。
驚くなかれ、アメリカにもレイキは渡っていて、病院によっては補助治療行為として認知されてるから、保険がきく場合すらあるんですよ。そのくらい「レイキ」は一般化してる。
で、レイキのテクニック修得法に関してはここでは語りませんけど、ようはレイキもこれら新宗教と同じ時代に広がっているわけなんです。
ただ、大本や真光の手かざしが宗教と一体化しているのに対して、レイキは宗教とは関係なかったというところが違うんですね。で、宗教と関係なくなったレイキは、国内では消滅に近いくらい小さくなって逆に世界に定着した。で、国内では大本やら真光系で宗教とともに生き延びたって事何じゃないかな?と僕は見ました。
このあたりは想像で書いてますす。でもまぁ、レイキと手かざしは多分同じものですよね。きっと。もともとそういうものがあるんだと思う。人間には。それが何らかの形で「師から弟子に伝えられる技術」として伝承されるようになったんだと思うんですね。まさに力餅食堂みたいに。
で、どうもそのおおもとが、やっぱり「大本」であるような気がするのであります。
大本というのは僕は妙な因縁がありまして、僕が若かりし頃、コピーライターになりたての頃に、ある印刷会社さんから、ある銀行の京都の綾部支店オープンに関するオープン企画の依頼が来たのですよ。
で、僕は当時、会社に入りたてで、やる気もあったものだから、「綾部という土地がわからないと、企画も立てようがないので、現場を見に行ってきてもいいですか?」と気軽に言ってしまったんですよね。
でも、京都の綾部なんて、大阪からでもかなり時間のかかる場所だったわけです。当時はとくに。
普通ならそういう事を言っても「なにもわざわざ行かなくてもいいよ」と言われそうなものなんですが、どういうわけかその時は、会社の僕のボスが僕のやる気を買ってくれて、わざわざ印刷会社さんにかけあって、「電車賃だけで良いですから取材費出してもらえませんかね」と予算枠を取ってくださって出かける事になったんです。
これねぇ、いまから考えると、どう考えてもおかしいんですよ。そんなもん、片田舎の銀行の支店のオープン企画なんだから、まぁポケットティッシュでも配りましょか? にしかならないんですよ。いくら考えたって良いアイディアが出るわけがない。
なのに、何故か僕は「綾部に行かないと」と思って、ボスは「行かせてやりたい」になって、そんでもって印刷会社さんも「ええですよ」になったんです。もう、ものすごく不思議で。
で、その綾部こそ、大本の発祥の地というか、本拠地というか、そういう場所なわけですよ。で、僕はその取材に行く日まで、大本の名前も出口王仁三郎の名前も知らなかったわけです。
で、とにかく現地に行って市役所で歴史を調べて、大本の本山の山の上まで昇って、とにかく、やたらと精神的な意味で気持ちが良かったんですね。何かに導かれるかのようなイメージが僕にはありまして、別にどうということのない出張ではあったんですけど、僕の人生の中ではかなり大きな出来事として印象に残ってるんです。
そういう事があってから、もうずっと大本が気になって気になって仕方なくなってしまっておりましたからねぇ。
で、実際、この本を読んでも、やっぱり大本の存在というのは、いろいろと大きいですな。
この本にはそのほかPL教団の事も書いてあるけど、高校・大学と南大阪に通ってた私としては、かの有名なPLタワーの正式名称(超宗派万国戦争犠牲者慰霊大平和祈念搭)がわかったり、高校の頃から読んでいたウルフガイの平井和正が関わったGLAが出てきたりと、自分とのからみで理解できるところも多くて、実に面白かったのであります。
それはともあれ、明治以降の西洋文明が入ってから後の「日本人の精神史」を考えるには、けっこう流れが分りやすくて面白い書籍だと思います。おすすめです。
椿三十郎は映画業界の古典落語か。
2007年12月30日 映画
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000M2DJHC/glfclb-22/ref=nosim
黒沢明の名作「椿三十郎」のリメイク。織田裕二版、森田芳光監督作品を一週間ほど前に見て参りました。
で、感想なんですけど、それがこの一週間くらいで大分変っちゃったんですねぇ。
見てすぐ後は「うーむ、悪くないけど、やっぱり織田裕二では辛い。」という印象だったんです。ラストシーンの室戸半兵衛(豊川悦司)との、あの対決も違うし。(かなり大きく違います。内容は内緒。)
でも、日を追うごとに、「いや、けっこう織田君、良かったかも。」となってきまして、ネットでの評判とかも見てみると、昔の三船・黒沢版を知らない若い世代が純粋に「面白かった」と言ってるのを見て「ああ、死んだ人と比べてる僕が間違ってました。」という意見に大きく変ったのでありました。
ネットの評価で「うまいこと言うなぁ」と思ったのが「三船は父親的ヒーローで、織田は兄貴的ヒーロー」という評価なんですね。
「ああ、そうか」と思いました。
頼れる、デキる兄貴としての椿三十郎なんですね。そういう見方で見ると、そりゃ面白いよなと。いま一番求められているのは、そういうヒーローだもんな、って思い直したって事ですね。ようは時代にマッチしてるって事です。
頭は切れる、剣の腕は立つ。純粋な若者に対して優しくて、でもまだ、ギラギラしたところは残っていて、年寄りの諫めに対しては頭があがらない。そう考えると、まさに「兄貴」なんですね。もともとシナリオにそういう要素がちゃんと入ってる。
今回、森田監督は大胆にもシナリオのセリフはほぼそのまま、まったく変えていないと言っても良いくらいにそのままにしてます。
であるにもかかわらず、映画のテイストは三船・黒沢版とはまったく違って、明るく健康的で、よりヒューマンな世界に変ってるんですね。(より軽くなったとも言える。)
それは、間の取り方であったり、解釈の仕方であったり、演出に違いであったり、たくさんたくさん違いはあるんです。
でも、やっぱり、昔の三船敏郎で見てしまった僕としては、そういうシナリオの新解釈にまで気持ちが到達してなかったんですね。どうしても三船との比較で見てしまう。
これは良くないですね。いまの時代の人がいまの時代に作ってるんですから、いまの時代の人がどう感じているのかをちゃんと理解しないと。
で、そういう事を考えて行ったとき、「ああ、落語がそうじゃないか!」と思い至ったんです。
落語も、いくつも名作があるわけですけど、それらは演者が変れば、まったく別物に変るわけです。で、その違いこそを楽しむものなわけです。
考えてみたら、椿三十郎も、そういう古典落語のような、味わいのある、受け継いでいくべき映画作品なのかな? という気になったわけですよ。
欧米でも映画のリメイク作品というのはたくさんありますから、日本でも、もっとやって良いのではないかな? という気持ちになったんですね。
とくに、これだけシナリオを変えずにやるというのは、ある意味「リメイクのお手本」になるかも知れないという風に感想が変ってきたんです。
だって落語で演者が変ったときに、演者の個性の違いを引き合いに出して批評したら、それはルール違反ですもんね。「松鶴は春団次と違ってたからオモロない」とか言ったら「違うのは当たり前じゃ!ボケ!」と怒られますわな。そういう事です。
確かに、椿三十郎というシナリオが、もともと「三船敏郎ありき」で書かれたものだけに辛いっていうのは少しあるんですよね。アテ書きなんだなぁ、セリフにしても。もう少し織田君らしいセリフとかに、部分的に変更しても良かったような気はする。「〜だぜ。」っていう言い方がけっこう多かったんですが、これは三船が用心棒で三十郎をやったイメージを継承しての言い回しだったろうと思うし「だぞ」とか「なんじゃないか?」とか語尾の変更くらいはしても良かったのにな、とは思います。
でも、逆に言えば、そういう無茶な事までちゃんと着地させてるところは、織田君・森田ともに、大したもんだってことになるわけです。大した演技力、演出力だと脱帽するしかないわけです。
で、そういう事まで考えていくと、ラストの対決の殺陣がまったく変ったって言うのが、じっくり考えると、実に正しい選択だったって思うのですよね。
映画のストーリーとテーマ性から考えると森田版の方が、実はシナリオの良さを、より引き出してるんです。実は。ある意味、オリジナルを超えているのかも知れないって思うわけです。
室戸半兵衛と三十郎の葛藤を考えれば、森田版の殺陣の方が、より三十郎の内面に入り込んでいて正しいわけです。(地味だけど。笑)
そんなこんなを考えていくと、森田芳光版「椿三十郎」は、名作リメイクの本当に良いお手本とも言うべきリメイクになっているんじゃないかなかぁって思うのですね。
その功績を挙げるなら、
●若い世代を楽しませた
●家族で見れるエンタテイメントにまとめた
●クロサワは世界のブランドであり、それを次の世代に継承した
●白黒だった作品をカラー化して見やすくした
●シナリオを尊重して古典として残した
●演出にさまざまな工夫をして新解釈を付け加えた
●作品としてのテーマ性を一環させた
と、悪いところなしになってしまうんですね。まさにリメイクのお手本として素晴らしいし、今後、いろいろな名作をリメイクするなら、こういうところを、ぜひ見習ってリメイクして欲しいとまで思うくらいに素晴らしいわけです。
三船・黒沢版を知ってる僕としては、どうしてもついつい、細かい点で昔の作品の方を思い出してうんぬん言ってしまいがちですけど、トータルに総合的に考えて、これはいまの時代、ベストのリメイクなんじゃないかな? と思うのです。
森田芳光は三船のような野性味溢れるキャスティングを考えるよりも、「映画俳優としてのスター」としての織田裕二を選んだ。だから若い世代が幅広く楽しめるという良さが生まれたんですね。阿部寛だったら良かったんじゃないか? とか考えたんですが、そうなるとマニアックなリメイクにしかならないんですよね。やっぱり「スター」でないとダメなんだと思う。
という事で、やっぱり「世界のクロサワ」の良さ・面白さは、若い世代にも受け継いで欲しいので、この素晴らしいリメイクは、この正月にぜひとも見て欲しいなぁと、ふと思ったので、日記に書いたという次第。
実際単純に面白いし、家族で見るには最適ですから。
で、昔の三船版を知ってる人には「ラストが違うよー。地味だけど、これはこれでなかなか。さぁ、気になってきたやろ!」と煽っておきます。
やっぱり古典落語があるように、日本映画にも古典があって良いし、古典として残す、引き継ぐという見地から見れば、この森田芳光の作り方はベスト。お手本になると思います。
という事で、お正月には、ぜひ! おすすめです。(古い世代は「三船」を期待せずに見に行くべし! であります。)
黒沢明の名作「椿三十郎」のリメイク。織田裕二版、森田芳光監督作品を一週間ほど前に見て参りました。
で、感想なんですけど、それがこの一週間くらいで大分変っちゃったんですねぇ。
見てすぐ後は「うーむ、悪くないけど、やっぱり織田裕二では辛い。」という印象だったんです。ラストシーンの室戸半兵衛(豊川悦司)との、あの対決も違うし。(かなり大きく違います。内容は内緒。)
でも、日を追うごとに、「いや、けっこう織田君、良かったかも。」となってきまして、ネットでの評判とかも見てみると、昔の三船・黒沢版を知らない若い世代が純粋に「面白かった」と言ってるのを見て「ああ、死んだ人と比べてる僕が間違ってました。」という意見に大きく変ったのでありました。
ネットの評価で「うまいこと言うなぁ」と思ったのが「三船は父親的ヒーローで、織田は兄貴的ヒーロー」という評価なんですね。
「ああ、そうか」と思いました。
頼れる、デキる兄貴としての椿三十郎なんですね。そういう見方で見ると、そりゃ面白いよなと。いま一番求められているのは、そういうヒーローだもんな、って思い直したって事ですね。ようは時代にマッチしてるって事です。
頭は切れる、剣の腕は立つ。純粋な若者に対して優しくて、でもまだ、ギラギラしたところは残っていて、年寄りの諫めに対しては頭があがらない。そう考えると、まさに「兄貴」なんですね。もともとシナリオにそういう要素がちゃんと入ってる。
今回、森田監督は大胆にもシナリオのセリフはほぼそのまま、まったく変えていないと言っても良いくらいにそのままにしてます。
であるにもかかわらず、映画のテイストは三船・黒沢版とはまったく違って、明るく健康的で、よりヒューマンな世界に変ってるんですね。(より軽くなったとも言える。)
それは、間の取り方であったり、解釈の仕方であったり、演出に違いであったり、たくさんたくさん違いはあるんです。
でも、やっぱり、昔の三船敏郎で見てしまった僕としては、そういうシナリオの新解釈にまで気持ちが到達してなかったんですね。どうしても三船との比較で見てしまう。
これは良くないですね。いまの時代の人がいまの時代に作ってるんですから、いまの時代の人がどう感じているのかをちゃんと理解しないと。
で、そういう事を考えて行ったとき、「ああ、落語がそうじゃないか!」と思い至ったんです。
落語も、いくつも名作があるわけですけど、それらは演者が変れば、まったく別物に変るわけです。で、その違いこそを楽しむものなわけです。
考えてみたら、椿三十郎も、そういう古典落語のような、味わいのある、受け継いでいくべき映画作品なのかな? という気になったわけですよ。
欧米でも映画のリメイク作品というのはたくさんありますから、日本でも、もっとやって良いのではないかな? という気持ちになったんですね。
とくに、これだけシナリオを変えずにやるというのは、ある意味「リメイクのお手本」になるかも知れないという風に感想が変ってきたんです。
だって落語で演者が変ったときに、演者の個性の違いを引き合いに出して批評したら、それはルール違反ですもんね。「松鶴は春団次と違ってたからオモロない」とか言ったら「違うのは当たり前じゃ!ボケ!」と怒られますわな。そういう事です。
確かに、椿三十郎というシナリオが、もともと「三船敏郎ありき」で書かれたものだけに辛いっていうのは少しあるんですよね。アテ書きなんだなぁ、セリフにしても。もう少し織田君らしいセリフとかに、部分的に変更しても良かったような気はする。「〜だぜ。」っていう言い方がけっこう多かったんですが、これは三船が用心棒で三十郎をやったイメージを継承しての言い回しだったろうと思うし「だぞ」とか「なんじゃないか?」とか語尾の変更くらいはしても良かったのにな、とは思います。
でも、逆に言えば、そういう無茶な事までちゃんと着地させてるところは、織田君・森田ともに、大したもんだってことになるわけです。大した演技力、演出力だと脱帽するしかないわけです。
で、そういう事まで考えていくと、ラストの対決の殺陣がまったく変ったって言うのが、じっくり考えると、実に正しい選択だったって思うのですよね。
映画のストーリーとテーマ性から考えると森田版の方が、実はシナリオの良さを、より引き出してるんです。実は。ある意味、オリジナルを超えているのかも知れないって思うわけです。
室戸半兵衛と三十郎の葛藤を考えれば、森田版の殺陣の方が、より三十郎の内面に入り込んでいて正しいわけです。(地味だけど。笑)
そんなこんなを考えていくと、森田芳光版「椿三十郎」は、名作リメイクの本当に良いお手本とも言うべきリメイクになっているんじゃないかなかぁって思うのですね。
その功績を挙げるなら、
●若い世代を楽しませた
●家族で見れるエンタテイメントにまとめた
●クロサワは世界のブランドであり、それを次の世代に継承した
●白黒だった作品をカラー化して見やすくした
●シナリオを尊重して古典として残した
●演出にさまざまな工夫をして新解釈を付け加えた
●作品としてのテーマ性を一環させた
と、悪いところなしになってしまうんですね。まさにリメイクのお手本として素晴らしいし、今後、いろいろな名作をリメイクするなら、こういうところを、ぜひ見習ってリメイクして欲しいとまで思うくらいに素晴らしいわけです。
三船・黒沢版を知ってる僕としては、どうしてもついつい、細かい点で昔の作品の方を思い出してうんぬん言ってしまいがちですけど、トータルに総合的に考えて、これはいまの時代、ベストのリメイクなんじゃないかな? と思うのです。
森田芳光は三船のような野性味溢れるキャスティングを考えるよりも、「映画俳優としてのスター」としての織田裕二を選んだ。だから若い世代が幅広く楽しめるという良さが生まれたんですね。阿部寛だったら良かったんじゃないか? とか考えたんですが、そうなるとマニアックなリメイクにしかならないんですよね。やっぱり「スター」でないとダメなんだと思う。
という事で、やっぱり「世界のクロサワ」の良さ・面白さは、若い世代にも受け継いで欲しいので、この素晴らしいリメイクは、この正月にぜひとも見て欲しいなぁと、ふと思ったので、日記に書いたという次第。
実際単純に面白いし、家族で見るには最適ですから。
で、昔の三船版を知ってる人には「ラストが違うよー。地味だけど、これはこれでなかなか。さぁ、気になってきたやろ!」と煽っておきます。
やっぱり古典落語があるように、日本映画にも古典があって良いし、古典として残す、引き継ぐという見地から見れば、この森田芳光の作り方はベスト。お手本になると思います。
という事で、お正月には、ぜひ! おすすめです。(古い世代は「三船」を期待せずに見に行くべし! であります。)