E3というものがありまして。

Electronic Entertainment Expo (E3Expo) と言って、まぁゲーム関連の展覧会ってとこでしょう。
毎年春にアメリカでやってまして、ゲームの世界のワールドワイドな動きがわかるお祭り騒ぎになっております。

これがどうやら来年から大幅に規模縮小になってしまうようで、ああ、ゲーム業界の不況は、やっとアメリカでも姿をあらわし始めたか、というのが、この数日感じていたことなのであります。

日本とアメリカではいろいろと事情が違うのですが、まぁおおむね全体的な流れとして失速気味なのはしょうがないわけで。

それを考えると、ニンテンドーDSの快進撃というのはとんでもない。国内の販売台数だけでも、たった20ヶ月で1000万台を越えたそうですし、じゃあ900万台突破がいつだったかというと、7月の頭だったわけで、月に100万台売ってるってことになる。

すごいね、どうも。

で、ここまでの人気を達成したのは、やっぱり社長の岩田聡(さとると読むそうです。ずっとさとしだと思ってたよ。)さんの力が大きいわけです。

で、実は、最後のお祭り騒ぎをやったE3で、任天堂は「Wii」という、新しい家庭用ゲーム機の発表をやりました。

知っている人は知っている、ゲームのユーザーインターフェースに関わる大革命を提案している、新しいゲーム機で、位置センサなどをコントローラーに活用することで、実に自然な操作環境を提案しています。

くわしくはこちら。
http://www.nintendo.co.jp/n10/e3_2006/

従来のゲームコントローラーを、まるでテレビのリモコンのような形に刷新して、まったく新しいゲーム体験をユーザーに提供するということをしようとしています。

これが業界では大きな話題になっていて、ニンテンドーDSの快進撃に加えて、家庭用ゲーム機の革命まで引き起こそうとしている任天堂の岩田さんにいやでも注目が集まってしまうわけです。

で、この今年のE3の任天堂のカンファレンスの様子はインターネットで生中継されてたんですね。

Wiiの内容に興味のあった僕は、これをリアルタイムに見ていた。Wiiの内容紹介やらソフト紹介やらがあった後に、岩田さんが舞台に登場して、記念講演をはじめたわけです。

当然英語。

なんかね、これがもう、やたらとかっこいいわけですよ。
岩田さんと僕はほぼ同い年なので、くやしいなぁという気持ちもありつつ、あこがれの気持ちもある。あんな風になりたいぜって感じ。

聞いていると、BE動詞や助動詞、前置詞などのつなぎの発音はそうとう流暢なのに、ポイントとなるキーワードに関しては突然、母音の発音が余分に入ってしまう日本語発音になってるんですね、岩田さんのスピーチ。

日本語発音のところは日本人の僕には実に聞き取りやすくて、おかげで、スピーチの内容は素で聞いても7割は聞き取れました。

でも多分この日本語発音は「計算」なんだよなぁ。アメリカでは、自分の母国語の発音のクセを残している方が、自己のアイデンティティを保持しているという意味で尊敬されるんですね。

だからポイントとなるキーワードに関しては、ものすごい日本語発音だったんだと思います。そういう事もひっくるめて、実にかっこいいわけです。

タートルネックのセーターにジャケットという出で立ちで現れて、ボディアクションも豊かに英語でスピーチする岩田さん。
いやー、実にかっこよかった。

Wiiの話にさしかかると、ポケットからヒョイとWiiリモコンを取り出して会場の人たちに見せながら解説する。
いや、ほんとにカッコ良かったのでありました。

しびれる〜!!! って感じ。

で、これをまたリアルタイムで英語でそれなりに理解しながら聞けている自分もうれしかったりするわけですがね。あとで日本語訳と比べてみたら、そう大きくズレがなかったので、よけいうれしかった。

日本が世界に誇れるものなんて、実はそれほど多くはない。和食の栄養バランスと京都の歴史の長さと、物作りの異様なうまさと、あとはこのゲームエンタテインメントの面白さくらいのものだ。

それを社長自ら世界のアピールできる、この本物志向のすばらしさよ。なんて素敵なんだろうと感心してしまう。

しかもニンテンドーDSでの実績やE3でのWiiの熱狂的なまでの大絶賛という実績を、ちゃんと達成した上で、です。

有無を言わさぬ実力派経営者と言わざるを得ない。ほんとうにすごいと思うわけですね。
かっちょいい〜。しびれる〜。何度も言ってますが。

でね。

この岩田さんが、こういうすごい事ができる背景が知りたくてネットでいろいろちょろちょろ調べてみたわけです。家族構成とかなんとか。

そしたら驚いた!
岩田さんは、基本的に個人情報を非公開にしているというではありませんか!!

独身なのか、家族持ちなのかも不明。公開してないんだってさ。

いやー、かっこいいにもほどがある。
しびれまくる。
親だ子だというような関係性に寄りかかった論議を廃して、まったく「個人」として意見を発表し、その考えのもと企業を運営し、そしてここまでの実績を見せつけている。

あああああ、もう、本当にかっこいい。
なんてすごいんだろうか、この人はって思う。

「子供を作ったから、一つの大きな役割を果たしたという気にはなるよね」という話は良く聞くのだけれど、実はそんなことは当人以外には「どーーーーーーーーーーーでもいい」話なのである。

そうではなくて、社会は、世の中は、より多くの普通の人は、あなた個人が、何を成し、何を社会に提供するのか、その本道の部分での貢献しか評価はしないものなのである。

日本が西洋文化と出会い、大混乱に陥った時に、個人の努力で海外文化を吸収し、慶應義塾大学を生み出した福沢諭吉も「家庭を作り、子供をつくる事も大切だが、それだけでは人間として何かを成し遂げたとは、とても言えない。世のため、人のために、いったい何をやったのかこそが大切だ。」という事を言っていて、まさにそれこそが社会が求めている個人への「期待」であり、僕は、この考え方をこそ大切にするべきだと思います。

(福沢諭吉とガンジーは私注目の巨人なのです。目指すなら尊敬できる人を目指すべきです。)

で、こういう志の高さというようなところを、岩田さんは、すごく良くわかってると思うのですよ。

ほんっとーに素晴らしいと思う。
すごいよねぇ、こういう人。
そうそういないと思うなぁ。

で、岩田さんの言動をずーっと拾っていくと、どうも「妻子あり」の人に思えてしょうがないわけですよ。
Wiiリモコンの発案だとて「テレビのリモコンなら主婦の方でも、OLさんでも机の上に出しっぱなしにしておくのに、ゲームのコントローラーは『ちゃんとしまいなさい』とすぐに片付けられてしまう。その状況をなんとかしたかったんです。」という所から生まれてるんですよね。

こういう発想は、家庭で「愛する人がゲームをしない」という状況があってはじめて生まれると思うのですよ。

しかも、その家人を相当に愛している。相手がやりたいようにやらせていて、その様子をじっと見守っている。そうでなければ、この「リモコンは置きっぱなしだけれど、ゲームのコントローラーは片づけられてしまう」という観察報告は出てこないと思うのです。

なので多分岩田さんには妻も子もいて、その妻子をマスコミの目から離すために「個人情報非公開」にしているように感じられるのですね。いや、これは単なる想像でしかないけど。

ちゅうか、独身で「リモコン置きっぱなし状況」をキチンとリサーチできるとしたら、その方がよほどすごい。それこそ市場調査の超天才ですわね。まぁ、それはそれでおもしろいけど。

こういう事を、同年代の友人・知人たちと比べてしまうと、「お前ら、何やっとんねん。」と叱りつけたい気分になってしまうのですよね。

40過ぎると、何事をするにもおっくうになって、人生を捨ててしまってるような発想になって、タバコや酒やギャンブルや、そういう「依存物」に依存して生きるか、そうでなけりゃ「子供」に依存して生きる、くらいのことしかできなくなってる。

「大人になったら成長する必要はない」てなアホな理屈で勉強もせず、狭い視野のまま自分育てをもせず、その結果、感性豊かな子供たちよりよどんだ目でしか社会を見れず、そのよどんだ目でみた社会を「現実」と子供に思いこませて、自分の子供の可能性すらふさいでいるのに、「ちゃんと子育てしているまともな大人」だと思ってるような人が意外に多い。

タバコ好きが「タバコはおいしいよ。このタバコのない人生なんて考えられない。タバコを吸ってない奴なんて人生をムダにしてるだけだ。」とか言うのと同じように、「子供は可愛いよ。子供のいない人生なんて考えられない。子供を作っていない人間なんて人生をムダにしているだけだ」と言う人までいてたりする。

こういう人は「自分とは異なる生き方」を否定することでしか自分を肯定できないという悪癖に陥ってしまってるだけで、その考え方自体が、すでにものすごく歪んだ病気状態なんだけれども、そのこと自体に気づけないわけです。

なんで「自分とは異なる生き方」を否定しなければならないかというと、自分の生き方が空っぽだからなわけですね。

自分の生き方の中身が充実している人は、岩田さんみたいに「私はこう考えて、こう実行してきた。そして、こういう結果になりました。」とストレートに普通に自分を語る。

タバコや酒や子供などに依存してる人は、自分に自信がないから、話の中心は

●自分以外の生き方の否定
●自分ではない存在への依存

と、どこまでも「じぶん」がないのである。
まぁ、哀れなものだと思う。

で、見ている限り、40歳になった前後が、こういう精神の危機がひどくて、40前後でうまくそれを処置できているかどうかで、人生の後半戦への準備態勢の整え方が変わってくるように見えるのです。

この年になると離婚したり、急に職を変わったり、バクチに手を出したり、不倫に走ったり、ほんとにみんな苦しんでいる。

僕自身、この数年で精神の危機に直面したからそのあたりの心情がよくわかる。

この時期をうまく乗り越えるかどうかは、本当に大事なんだと思うのですよね。

そういうこともひっくるめて、岩田さんのかっこよさは特筆ものです。

自分の上に岩田さんのような目標にして間違いのない人がいて、で、自分の下に「なにやってんねん、おまえら」というような友人知人がグシャって固まって存在していて、「さて、どうしたものか」と考えた時に、やっぱり私は「自分が自ら自分自身を鍛えて、より成長を目指すしかない。」って思うのですな。

実際アカンもん。「自分と違う生き方を否定して自己肯定した気になってるアホ」の相手していても。

上を向いてる人には、「それはおかしいのではないか?」と声をかけると「おお、確かに! よう教えてくれた! ありがとう!」と自己修正をすばやくかけて、するすると成長の階段を駆け上がって行かれるわけですが、「他者否定して、それを自分の価値として肩代わりしてる」ような人は、注意しても絶対に自分の悪いところを直さない。反省すらしない。完全にバカなまま。

そういうのは、相手をしていても、まったく意味がないのですな。100回注意しても自分の間違っているところに気付こうとしない。

まぁ、確かに、タバコ吸ってる人に「あなた、薬物中毒ですよ。」と言って、気分のいい奴はいない。

でも、それが事実であり、真実なのだからしょうがないよね。

で、どうでも良い他人なら、最初から注意もしないけど、親しい友人・知人なら、それはやっぱり心を鬼にしてでも「それは薬物中毒だ」と事実を突きつけますわね。少なくとも私は。

で、やっぱり尊敬できる人は、そういう事実を突きつけると、「おお、確かに。わしが間違ってたわ。よく教えてくれた。ありがとう」と感謝してくれるし、その後も良い関係が続くのですが、耳に痛いことを言われて反発するだけの人は、まぁほんと、くだらない間違いをずーーーーーっと永遠に繰り返し続けております。

で、もう、それはしゃーないよなぁと思うわけで。
「おお、その通りやな。ありがとう!」と言える人とだけ付き合いたいし、僕自身がそうなっていけるように努力したいしね。

やっぱ下を引き上げていくより、上の岩田さん目指す方が正しいんだと思うわけですよ。
人生はもう残り短いんだし。堂々巡りのくだらなさに付き合っているわけにもいかないし、なによりつまらない。

で、注意をしてもちゃんと活かせるツーカーの人だとて何人かはちゃんといてるんだし、関係を広げていくなら、そっちがいいですよ、それは。当然やん。ねぇ。

まぁ、そういうようなことであります。
最近は「怒りのコントロール」というのが課題です。
簡単なようでいて、なかなか難しい。

「怒りのコントロール」。僕はこれがとても苦手です。

怒りのコントロールというのは、決して「抑圧」して自分の不満を押さえつける事ではない。適切な表現で要求・要望を伝えていくという事ができなければ、それは「怒り」に自分が負けてしまっているということなわけです。

自分自身を本当に大切に思うなら、「怒り」という感情に頼らずに、自分の望みを実現しなければならない。これはけっこう難しいんですね。

で。

この半年、一年で、すごく当たり前なのに、いままで気付いていなかったなぁと思ったのが、「苦手克服」ということの意義なんですね。

人生において、何が達成感が大きいかと言っても、この「苦手を克服する」という事ができた時が、もっとも達成感が大きいのです。つまり喜びが大きい。

この事を僕は最近、とても深く実感していて、日々アイディアメモをつけているのですが、自分の苦手項目を整理しながら、どうやれば克服できるかを考えています。

(考えているだけで、実行できてないなぁと思う事の方が多いのですが、それでも何もしないよりはるかに良いです。)

でも、それは自分の欠点を自ら探していくことだから、けっこう辛いことではあるんですね。なので、あんまり他人にはお勧めしないのです。自分のダメな面、弱い点、失敗を繰り返しているところを自分で直視するのは、やっぱり辛い。

が、それでもやっぱり、身の回りの優れている人、尊敬に値する人は、自分の欠点・弱点を素直に認めておられるし、その「弱い自分」をスタート地点にされているからこそ、大地に足をしっかりつけて、生きておられるという気がするのです。

だから自分の欠点を直視して、それを克服課題にするというのは、とても重要な事なのだろうなと思います。

いやまぁ、実は「欠点・弱点を克服する」というのは、もの凄く高度な課題でして、本当はまず「自分の得意を伸ばす」ということをやらないといけないのですね。

もっと簡単に言うと「できることをちゃんとやる。苦手なことはやらない。」です。

まず自分のできる事をする。たとえば、好きな人がいてるのに、デートにも誘えないとしたら、まず「おはよう」と声をかけるとか、そういう「できる」事からはじめる。そういうことですね。

この「できることからやっていく」というのが幸せになるためのファーストステップで、ここを無理して「なんとかデートに誘うぞ」と考えると苦しいばかりなのですね。それは「できない事」をやろうとしているという事なわけです。

で、こういう具合に、自分の得意項目を伸ばして自分に自信をつけるというのが、「自分を愛する」ことでして、これができていない人は他者攻撃ばかりするようになってしまいます。相手を貶めることで、自分の能力が高くなったような勘違いをするわけです。

僕はなんとか自分の得意項目を伸ばすという事に関しては無理せずやれるようになって来たので、次のステップとして、苦手克服の達成感の大きさを味わうようにしようという事に目標が変わってきたのだと思います。

結局、それもこれも「得意を伸ばす」「できることを上手にやる」「自分を愛する」という基礎項目が、なんとか形なりにもできるようになってきたからよなぁ、とつくづく思うのです。

安心して自分を認められるだけの「自分」を作り上げることができたのかなと思う。

なんでもないことですが、ウクレレの演奏という趣味も、そういう過程の中でとても大きな位置を占めているんですね。ほんとうに5分、10分でおだやかな心を取り戻せる、素晴らしい「道具」を得られたなぁと感謝しているのです。

音楽というものは本当に素晴らしいです。

そういう基盤が固まってきたから、次は苦手項目の克服だよなと思うのです。がまんしたり抑圧するのではなく、怒りを交えずに、キチンと正しく主張していくというようなことですね。

実は、いま、この文章が「です、ます」なのも、その怒りのコントロールの一環なのです。

最近読んだ本の中に書かれていたのですが、「だである」は文章構造的に複雑なものになりがちなのだそうです。日本人ではない外国の人が読んで、理解しやすい文章が「ですます」なのだそうです。

じゃあ、「ですます」で文章を書こう。そう思うのですね。
それだけで相手に伝わりやすくなるなら、そうしましょう。
そう思うわけです。

ともあれ、まだまだ達成はしていないけれど、苦手は克服しようと思います。
自分のダメなところを直視して、それを直す、ですね。
がんばります。
マザーテレサが言った言葉で、「私は反戦の集いなどには出ないのです。平和を生み出すための集いになら参加しますが。」というのがあります。

これ、極めて素晴らしい考え方だと思うのですよ。

反戦の集いも平和の集いも同じようなものだと考えがちですが、実は全然別の事なんですね。で、大切なのは、平和のように「良いものを創る」という関わり方なわけです。

で、さて。

これを、もう少し普遍化させてみるとどうなるかというと、「皆が良いと思うことを促進していく」ということになります。

阪神大震災の時に、30年以上もの長期のローンを抱えたまま、住んでるマンションが半壊してしまって、その再建をどうするかで管理組合がいくつも紛糾したわけですが、それがうまく行ったところは「お互いの不利益を気づかうということではなく、共通のメリットをとにかく優先するようにした」という話がありまして、これもこのマザー・テレサの考え方に似ているなぁと思うのですね。

不幸をどうにかするのではなく、幸せを共有する。広げる。伸ばす。豊かにする。

そういうことですね。

で、そういう事を本当に、いついかなる時にでもできるようにしようとするなら、やはり「共通のメリットを優先する」という事になるわけです。

自分の心の中では5番目くらいにしか大事に思ってないことでも、みんなが同じように大事に思っているのなら、自分だけが一番大事に思っていることは少しおさえて、五番目を最優先課題にする、ということですね。

これが社会的な決まりなどを決めるのに、大切な方法なんだそうです。阪神大震災の時には、そういう話を聞いて、「なるほどなー」と思いました。

では、さて。

そういう事を考えていくと、親子関係というものを考える時にはどうしたら良いのでしょうか?

これねぇ、たぶん「自分の親について、キチンと考える」だと思うのですよ。

子供を持っている人は、子供の事を中心に考えるだろうけど、世の中には、いくら子供が欲しくても子宝に恵まれない人もいる。そう言うことを考えると、「親子関係の問題」を考える時には、「自分と親との関係をしっかりとつきつめて考える」ということをやれば、ほとんどの人と共通の話題になるんですね。

みんなが自分の話だと思って考えることができる。そういうとらえ方をすることが大切だと思うのです。

特に「その考え方って面白いよなぁ。」と思ったのが、手塚治虫の言ったセリフで、「人類はすべて、女性から生まれている。」という言葉。

なんてこたぁない、当たり前の事を言ってるように思えますが、これはそんなこんなを考えると、やっぱりすごい一言だよなぁって思うのです。

子供にいてない人間はいてても、親のいてない人間はいてないんです。

だから、自分と親との関係を、まず見つめ直すというのが、ファーストステップなんですね。いちばんの初歩なんだと思う。

で、それだけで、まぁおそらくはたいていの問題が解けるはずなんですね。ようは立場を入れ替えて見ればいいのだから。
そして、どんな人でも、このテーマに関してなら、話ができるんですね。はみだしっ子をつくらない。

これが平和を生み出す、物事を実現させる発想なわけです。

このテーマであれば、子供が欲しくてしょうがないのに、なかなか子宝に恵まれない夫婦だって、いろいろと考えられるし、学びも成長もありえる。

ところが、これが困った事に、子供を持った親の中には「子供を持ったことのない人間に子育てについて語ってもらいたくない」とかいう独善的な事を平気で言う人がとても多いのですよ。

独善的だ。ものすごく。

でもねぇ、こういう事を言う人は、それが独善的な発想だという事に欠片も気付いてないんですね。というか、多分気付きたくないんだろうな。そういう事を言う人は、多かれ少なかれ、児童虐待をやっている。

児童虐待なんてね、そんじょそこいらに転がってるわけです。ほんとうに些細なことが「虐待」なわけですよ。はたから見れば一発でわかる。子供を持って無かろうが、親子関係のあるべき姿なんて、すぐにわかる。誰だってみんな子供だったんだから。

そんじょそこいらに転がっていることだから、それをとやかくは言わないけれども、なんちゅうかなぁ、自分が独善の極み、わがまま勝手の極北の事を言ってるんだという事には気付いてもらいたいよなぁとは思うのですね。

親子問題は「子供から見た親」というテーマでなら、すべての人類が、共通に語れるってことですね。よりメジャーで立派で本道の論議がそこにはキチンとあって、たとえば、アダルトチルドレンの話だって、その観点から見るだけで全てが明らかにできるというたぐいの事なわけです。

逆に言えば、「数学」ではなくて「算数」レベルの話だ、と言い換えてもいいでしょう。算数ができてない人に数学がわかるわけがないのです。子育てで誰かに「それはアカンのと違う?」と言われたら、数学ばっかりやってて算数がわかってないんと違うやろか? と思わないとダメなわけです。

そらねぇ、四則演算のうちのひとつでも習得してないままに、高等数学なんかに手をだしたら、悩んで混乱して、おかしなことを口走ることにしかなりませんわな。

なので、「子供を持ったことのない人間に子育てについて語ってもらいたくない」という人には、本当に深く反省してもらいたいのよなぁ。子供が欲しくて欲しくて、それでも子宝に恵まれないというような夫婦を何組も見てますしなぁ。そう言うことを考えると、「子どもを持ったことがない人に…」とか発言する人は、そういう悲しみを抱えた人に対する思いやりすら持つ余裕がなくなっているということだから、生きてる価値さえないと思うのよなぁ。

「タフでなければ生きられない。優しくなければ生きている値打ちもない。」

というのはハンフリー・ボガードのセリフだけれども、まさにそれですね。
そういう人を思いやる心もなくして、何が親か、という事だと思います。そういう人は断罪されても仕方ないよなぁ。実際とんでもなくヒドイ事を言ってるんだし。

ひどいことを自覚して言うなら、まだ許せるんだけど、自覚してないのが問題なんだと思う。
子供のいてる人からは反感を買うんだけど、これはどうしても思ってしまうことなんですねぇ。ほんとに。

「子供のいてない人に教育について、語ってもらいたくない。」という言葉が、まさに児童虐待の温床なわけですよ。ほんとに。マジに。

で、そういう事を言う人がいるから、妊婦のための買い物のしやすい施設とかが生まれないわけですよ。自分で自分の首を締めてるような事にしかならない。ほんと。

これ、本当に大問題で、「子供のいてない人に教育について、語ってもらいたくない。」って一回でも言った事のある人は、心底反省してもらいたいんですよねぇ。この言葉って、みんなの水源地に毒薬を流してるのと同じなんだ。そこに気付いてない。

誰にでも親はいる。
人間である限り親から生まれている。

この当たり前の事実に立ち戻っていただきたいですわ。ほんまに。

このあたり、日本という国が何故「少子化」になっているのか、ということともつながるんですけど、そういう話はまた別の問題なので、別の機会に書きます。

ほんと、「子供のいてない人に教育について、語ってもらいたくない。」と言う人。あなた人間としてあるまじき発言してるんだから、ほんと、ちょっと自覚してよねって思うのよなぁ。マジに。人間の本道を自ら踏み外しておいて、何を偉そうに、ってことなんだけどなぁ。

わからんのやろなぁ。

「子から見た親」の話なら、どんな人間でも一緒に考えられるのよ。それこそ高校生でも。この開かれたテーマの立て方ができないという事こそが、あなたの問題なんだよ、ってことなんですね。ほんとに。

でも、わからない人には、そこがわからない。

困った事である。
「人口減少経済」の新しい公式―「縮む世界」の発想とシステム

ISBN:4532350956 単行本 松谷 明彦 日本経済新聞社 2004/05 ¥1,995

もう一年くらい前に読んだのですが、僕的にとてもショックを受けた本なので、少し書いておきたくなりました。

この本の趣旨は、まぁ良くある「人口が減少してGNPが下がっても、一人あたりの社会資本そのものは充実するから、とても豊かな世界がやってくるんだよ。」という人口減少肯定派の意見そのままでして、私的には「まぁそういう側面もあるけれど、年寄りばっかりってのは楽しくないなぁ」というのが感想。

で、実は、書籍として紹介することより、この本で明確に書いてあって、「あ!」とびっくりして、「そうや、その通りや! なんでいままで気付かなかったのか!」と思ったことの方を紹介したいのであります。

それは「少子化の原因」なんです。

誰も本当の原因を言わない。

これほど明確な原因があるのに、気付いてすらいない。

それはいったい何か?

「優生保護法」なんですね。

わかります?

優生保護法というのは、「赤ちゃんを殺して良い」という法律です。一言で言うなら。
こういう法律を、日本は持っている。それこそが、人口減少の、少子化の本当の原因で、他に原因なんかあるわけなかったんです。

でも、この本の著者は、もともとお役人で、この事を「戦後の日本が急速に豊かになった良い法律だった」と肯定してます。

いや、まぁ、経済面だけを見れば、確かにそうなんだろうけど、ちょっと待ってくれ、なんかワシ、釈然とせんわ、なんやこれ?

と、とても頭が混乱してショックを受けたのです。
サラッと書いてあるだけに、逆にショックだった。

つまり、一言で言ってしまうなら、「日本人の豊かさは、子殺しで成り立っている」ということだったんですね。

若いときの過ちを「子殺し」で解決して、それでそれが正しいとする社会。それが日本の文化の本質だったんだと気付いたのです。

日本人が「一億総中流だ」てなことを平気で言えたのは、戦後ずーーーーっと、今に至ってもまだ「自分の失敗を省みず、もっとも弱い赤ちゃんという命を殺す事で成り立たせている」社会なわけです。

僕やあなたが、おいしい食事をできるのも、ようは社会的に子供を踏みつけにしてきたから、なんですね。そういう社会の中に自分が身を置いているのだと知って、実に嫌な気がしたのです。

でも、冷静に考えると、その通りなんです。我々は、子供を踏みつけにして平気という、おそろしい文化を持っている。それが厳然とした事実だったんです。

前に、「世にも不思議な偶然」の話が好きで、よく読んでいるという事を書いたことがありますが、海外の不思議話を読んでいると、とにかく子供の頃に親子が離ればなれになったのが不思議な偶然で出会えたとか、兄弟が離ればなれになったのに偶然出会えたとかいう話がとても多いんですね。

でも、この手の話は日本には少ない。というか、ほぼ皆無。

そこで気付いたのですよ。「ああ、そうか」と。
ようするに海外では「子殺し」をしていないのです。「捨て子」だとか「養子に出す」という事はしても、「子殺し」はない。

貧困の中で子供が出来てしまったら、泣く泣く「裕福な人の所で育ててもらってくれ」と施設にあずけたり、宗教施設に捨て子したりする事は多いのでしょうけれど、そして、それが貧困層を作るという事は、あるにはあるのでしょうけれど、基本的に「殺し」はしない。

このあたりはたぶんキリスト教のプロテスタントもカソリックも、イスラム教とかでも同じなのではないかと思うのです。

いや、中国の儒教や道教、インドの仏教においても、「子殺し」を標準の文化として持っている国なんて、そうそうないのではないかしらん。

日本の文化は「和」を中心に「みんな一緒」を大切にして「一億総中流」を標榜してたわけですけど、その本質って冷静に考えると、貧困層の切り捨て、それも、いちばん弱い「赤ん坊を殺すこと」で成立していたわけです。
赤ちゃんは文句言わないからね。世の中の矛盾を赤ちゃんに押しつけるのが、この国では普通なわけですよ。恐ろしいことに。

あまりに当たり前になっていて、みんな気付いてないですけど、「水子供養」なんて言葉が、町なかのポスターとかに堂々と書いてあったりします。考えたら相当にゆがんだ文化を我々は持っていたのではないかと僕は思ったわけです。

というのも、僕自身がアダルトチルドレンであると気付けたのも、「親に捨てられたけれども、幸せな家庭を気付いた人」の存在を知ったからこそ、なんですね。

海外の成功者の中には貧困層から這い上がってきた人というのがけっこうたくさんいます。で、そういう人は本当に愛情豊かな発言をすることが多くて、僕はけっこう信用するのですが、そういう立派な人と、自分の父親とを比べると全然違うよなぁ、というのが、アダルトチルドレンから抜け出す大きなきっかけになっているのです。

親がいないのに、正しく愛情豊かな家庭生活を築いた人がいる。

これほど僕を勇気づけた事実はないわけです。
アダルトチルドレンの問題は、親にされた虐待を、自分が大人になった時に子供にもしてしまうという仕組みなわけです。

親からの正しい愛情を受け取れなかった私も、同じ間違いをしてしまうのではないか? それは避けられないのではないか? とすら思ってたわけです。まぁ、一種の強迫観念になっていた。

でも、親のない成功者の姿勢とかを見て、親からの愛情を受け取ってなくても、社会に揉まれながら愛ある行為を学んで行くことは可能なんだ、という事がはっきりとわかりました。
「親はいないが幸せな人」の存在を知ることで、正しい幸せというものが、自らの意志で学習可能なのだ、ということが証明されてるわけです。

だから、大丈夫なんだと。

愛ある行為は、後天的学習で、キチンと身につけられるのだと。

それがわかったわけです。

アダルトチルドレンのくびきから逃げ出せたのは、まさにこの一点にかかっていたわけです。

日本以外の多くの国は、子殺しをしません。だから貧困層は多いです。子供に手間を取られて豊かになれないのでしょう。でも、そこに愛はある。

また、子捨てという事はするだろうけれど、そういう人が成功した時に、本当に誰もにとって希望になる。救いになる。安心感を生むというのがあります。

そして、お金持ちが捨て子を育てると言うことも頻繁に行われているわけです。ごく普通に。そういう仕組みもおそらくはあるのでしょう。だから「お金持ちを尊敬する」という社会通念も生まれやすいのです。

インドなどでは逆にお金持ちは「施しをしなければならない」ですしね。アメリカでは「儲けた金の10%を必ず寄付に回せ」が金持ちになるための基本ルールと言われているし、国の法律としても「寄付は無税」になっている。

でも日本では「金持ちは、なんか悪いことしたから金持ちなんだ」という揶揄のほうが強い。はっきり言ってホリエモンがつかまったのは、それが原因でしょう。(いやまぁ政治的にそうとう複雑な裏がありそうなので、あの問題にはアンタッチャブルですが)概略、検察が「行ける!」と踏んだのは、世間が金持ちは悪いことしてるから金持ちなんだと思っているという大前提があってのことなわけですよ。基本はね。

で、その「金持ちは、なんか悪いコトしてるから金持ちなんだ」というひきずりおろし感覚というのは「子殺しをして、やっと生活を安定させてる人がたくさんいてる」からなんですね。そこから生まれた感覚なんだろうと思います。

もうね、この本に書いてあった「優生保護法による子殺し」という観点で日本社会を見渡すと、もうすべてが全部、きれいに見えてしまうのですよ。

結局、日本人の文化は、「自分の経済的安定のために子殺しをする文化」でして、基本的に常に弱者に問題点をおっかぶせて、それで自分の責任はほおかむりする社会構造から生まれているんです。それがすべてと言ってもいいかもしれない。

望まない子供が出来た。その責任は誰にあるのか? 親にあるに決まってるではないですか。

でも、日本という国は、そこで責任を、その個人に取らせない。生まれてきた子供に取らせる。それが「当たり前」になっている。

この基本構造があるからこそ「児童虐待」は生まれるわけです。

「都合の悪いことは子供のせいにしておけ」という風潮が生まれる。

だいたい儒教が日本で受け入れられたのも、この「子供の人権無視」という文化がもともとあったからではないか? と僕は思っているのです。「子は親に仕えよ」です。それが儒教ということになっている。

そらね、中国の本場の儒教は徹底して「親孝行は美しい」を強調しますからね。ものすごく強調する。たぶん老人虐待が、かの国ではひどかったんでしょう。姥捨て山とかが普通にあったんだと思う。というか、姥捨て山の話って海外では多いですよね。

でも、そういう事とは別に「親孝行は美徳」という儒教の考え方が、日本人に支持されてしまったのは、その裏に「児童虐待」が普通に行われてきたからなわけです。

親が子供の気持ちを踏みつけにしてかまわない。それを保証してくれるから「親孝行は美徳」が支持されている。そういう構造でしょう。

逆に言うと、「親孝行は美徳」という社会通念が強すぎるから児童虐待が起こりやすいという側面も大きいのですね。「子は親に従うのは当たり前」と、理由も示さずに子供を親に従わせるのが教育だと勘違いしてる親のなんと多いことか。

それは教育ではなくて虐待なんですよ。

でも、そうは感じないのですよね。日本人の多くの人は。子供の頃から虐待され続けてきたから、親が理由もなく子供を叱り、子供を親に従わせるのが当たり前だと思ってしまっている。

そんなこんなのいろんなことをひっくるめて、この国の文化の根幹のところで問題なのが「水子供養」だってことだと思う。

でも、もう文化として定着してるもんなぁ。水子供養とか。
僕は日本文化の中でも、この水子供養だけはちょっと問題だなぁと思っているのです。

でも、こんな問題意識を持って、世の中を見てる人の方が少ないでしょう。
だってテレビとかで、堂々と「少子化対策として新婚家庭の免税が」とか平気でやってるし。

そんなもん、出生率に関してだけなら、優生保護法を変えて、子殺しできないようにすれば、一発で解決ですよ。で、再チャレンジ政策がどうたら、本質のわかってない論議がされてるけど、貧困層のための養子縁組促進システムとかキチンと整えなきゃいけないんだってーの。本気で少子化問題に取り組むなら。それだけのことじゃん。

でも、そのあたりの本質的構造が「水子供養は当たり前」「親孝行は美徳」という児童虐待あたりまえ文化によって、きれいに隠されてしまってるんですね。

とにかく、日本の少子化は世界的に見ても異常で突出してます。で、それは「優生保護法」が主原因なのであって、最優先で考えるべきは、そういう社会の底辺層の人たちのバックアップシステムが整っているかどうか、ということなんです。養子縁組を促進する。孤児院を社会的に認めて国家運営する。そういうような事を法的に実施していかないと変わるわけがない。

でもそれは日本の文化にそぐわないし、経験がないから、なかなか世の中に意見として出てこないわけです。
だいたい子を持つ親が「子育てしたことのない人に教育問題を語ってもらいたくない」とかアホなことしか言えない人が多いので、こういう問題が見えにくくなるのです。

養子縁組、捨て子を救う、孤児院などなど。そういう「子供は社会の宝」として見る視点なしに、この問題は解決しない。
「子育てしたことのない人に教育問題を語ってもらいたくない」みたいな閉じた、視野の狭い、つまらない発想しか持てないから、子育て問題が、子供から大人まで含めた誰もが考えるべき問題にならないのですね。
妊婦が移動しやすい街にならないし、優先座席も妊婦より老人が代表例になってしまう。子育てしやすい社会というものが生まれない。そういうことです。

でもまぁ、そういうアホなことしか言えない人が出てくるのもしゃーないわなぁって思うのですよ。いまだに優生保護法で水子供養してるのが、この国なわけですから。優生保護法なんて、国が児童虐待してるわけですからね。本質的に矛盾してますよ。ほんとに。

でも多分、大きくは日本も欧米化して行かざるを得ないのだから、数十年とかの時間はかかるけれども、そういう仕組みを作って行く方がいいようには思いますね。
インターネットの時代なんだし、水子供養よりは養子縁組だと思う。ほんと、子供のいてなくてうまくいってない夫婦も多いっすから。そういう夫婦が子育てしたほうが「子は親に従うのが当たり前」と児童虐待してる家庭に育つよりかはマシな気がします。

いや、これはマジに。

ともあれ、少子化の本当の秘密は「優生保護法しいては、それを許している我々の鈍感な感受性」にあるんだというのは僕自身の自戒を込めて思いますね。

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