考えたくないからゲームする。
2006年9月22日最近、精神的に辛いことがあって。
そしたら、とたんに勉強が止まった。
ずーっとえいご漬けに音読やってたのに、どうにもやる気になれない。
で、やたらとゲームする時間が増えた。
考えたくないからゲームしてるっていうのが、自分でもよく分かる。
ああ、逃避だなぁって思う。
でもまぁ、少し逃避したい時だってあるさ。
また復帰したらいいんだ。
問題に直面して、またとっくみあいをすればいいんだ。
ゲームしている時間って、簡単には答えの出ない、複雑な問題を、意識ではなく、「無意識」の側に考えさせてる作業なのかもしれないとも思うし。
けどまぁ、あんまり生産的でないことだけは、自分でもよく分かるのであった。
いまさら、またまたWindousMobile版のソリテア(トランプの一人遊びゲーム)なんかしてるんだもんね。
もう、ええやろ、それはってことです。
ニンテンドーDSでも、「逆転裁判」のDS版、「どうぶつの森」「ソニックラッシュ」と立て続けにゲームばっかりしてる。
で、どんどん英語に触れる頻度が下がってる。
いかん。これでは。
ということで、懸案の問題にとりかかる事にした。
ゲームばっかりしててもしゃーないもんな。
ということで、ゲームも英語もやめて、ちょいと久しぶりに友人に会い、いろいろ話したり相談してみたりする。
すると、けっこう良い答えが見えて来たりする。
動いてみれば、意外に解決策らしきものが見えてきたりするんだなぁと思った。
まぁうまくいくかどうかわからんが、やらんよりマシか。
もう英語に戻りたいよ。うん。
そしたら、とたんに勉強が止まった。
ずーっとえいご漬けに音読やってたのに、どうにもやる気になれない。
で、やたらとゲームする時間が増えた。
考えたくないからゲームしてるっていうのが、自分でもよく分かる。
ああ、逃避だなぁって思う。
でもまぁ、少し逃避したい時だってあるさ。
また復帰したらいいんだ。
問題に直面して、またとっくみあいをすればいいんだ。
ゲームしている時間って、簡単には答えの出ない、複雑な問題を、意識ではなく、「無意識」の側に考えさせてる作業なのかもしれないとも思うし。
けどまぁ、あんまり生産的でないことだけは、自分でもよく分かるのであった。
いまさら、またまたWindousMobile版のソリテア(トランプの一人遊びゲーム)なんかしてるんだもんね。
もう、ええやろ、それはってことです。
ニンテンドーDSでも、「逆転裁判」のDS版、「どうぶつの森」「ソニックラッシュ」と立て続けにゲームばっかりしてる。
で、どんどん英語に触れる頻度が下がってる。
いかん。これでは。
ということで、懸案の問題にとりかかる事にした。
ゲームばっかりしててもしゃーないもんな。
ということで、ゲームも英語もやめて、ちょいと久しぶりに友人に会い、いろいろ話したり相談してみたりする。
すると、けっこう良い答えが見えて来たりする。
動いてみれば、意外に解決策らしきものが見えてきたりするんだなぁと思った。
まぁうまくいくかどうかわからんが、やらんよりマシか。
もう英語に戻りたいよ。うん。
最近、怒りをコントロールするために、非常に有効な手段を見つけた。
まだ見つけたばっかりなので、身に付いてるとは言い難いのだけれど、いざやってみると、実に面白いほど怒りが治まる。驚くほどの効果である。
びっくりした。
やり方は簡単で、「全て私が悪いのだ。原因は自分にある。」と考える、という方法である。
それだけ。
他にオプションもへったくれも、何もない。
ただ、「ああ、俺が悪いんやなぁ。」と思うこと。
どこが悪いかを考える必要もない。ただ「俺が悪いんや」と考えたらそれでオーケーだったのであります。
こう考えると、もう、驚くぐらい、自分の「悪いところ」というのが見えてくるんですね。
「あ、あそこで、ああいう言い方したのがまずかった。」とか、「本当は、こう考えるべきだった」とか、そらもう、いくらでも反省点が出てくる。勝手に出てくる。
もの凄く簡単。
なんで簡単なのか?
自分の事だから、ですね。
自分が体験したことなのだから、自分の立場も都合も分っている。だから「私が全面的に、すべて悪いのである」という仮定に立てば、反省する材料には事欠かないわけです。
だって自分の事だもん。全部、どういう過程を経て、そういう行動・言動に至ったかの事情までわかってるんだもん。良い点は反省する必要もないけど、悪いところなら、いきなりいくらでも思いつく。
そうなると、人間関係で、誰かに腹を立ててたのが全部「あ、俺のせいか。」となって腹が立たなくなってしまうのですな。
いやー、びっくりした。
自分以外の人間に腹を立てたところで、その人の考え方を変えることなんて出来ないんだから、よけい腹が立つだけなんですな。無駄。それがやっと当たり前のこととして分った。
でも、自分の悪いところなら、すぐにでも改良できる。改善できる。希望があるわけです。楽しい。相手のせいにしてると、これは絶対一歩も動くはずがないんだから楽しくない。よけい腹が立つ。当たり前ですわな。そういう当たり前のことに、やっといま気付いたという次第。
誰かに腹が立つというのは、相手を鏡として自分を見ていることなのだ。誰かに腹が立つというのは、いろいろ理由はあるけれども、自分の弱点を相手に見せられるから腹が立つのである。
自分の思いこみでしゃべる人が嫌いだったとしたら、いま自分はもう思いこみでしゃべる人間ではなかったとしても、過去にそういう自分がいて、それを弱点、あるいは「許されない事」だと思っているから腹が立つのである。
僕は、アダルトチルドレンの学習その他で、「自己評価が低いのはいけない!」というのを知り、コツコツと自己評価を高めてきた。「自己評価が低いのは許せないこと」になってたわけです。
やっぱり大事なのは、自分の悪いところを見るのではなく、良いところを評価して、それを伸ばすという生き方、考え方なんだと思ってたんですね。
いや、それはそれで正しいんだけど。
確かに「自己評価の高い生き方」は実に素晴らしかった。いきなりとても生きやすくなった。生きる事が苦痛ではなく、楽しみになった。素晴らしい。もう、天国と地獄ほどの差なのです。
でもね。
あまりに、その展開の幅が大きかったものだから、「自己評価を低くしてしまっていた自分」を許せなくなっていたわけですよ。
「自己評価が低いなんてだめだ!」ってなってた。つまり過去の自分を許してなかった。言い方を変えれば、「ダメだった自分」を否定したかったわけです。過去の自分を消し去りたいとか思ってたんだろうなぁ。
だから、ついつい、そういう、過去の地獄のような苦しい生き方を「否定」するようになってしまっていたんですね。
自分がそうやって生きていたのに!
そういう「過去の失敗していた自分」を許して、愛してあげてないから、身の回りの「苦しい生き方」をしている人を見ると腹が立って仕方なくなってしまうわけですよ。
「もっと自分を愛したらどうなんだ!」「もっと自分を肯定しろよ!」ってね。
いやー、それ、なかなかできなかったんだから。
私、それが出来なくて苦しかったんだから。
いくら言っても、それはできないって。
言われて、出来たか?俺。
出来ん、出来ん。無理無理。
そんな高望みを押しつける方が悪い。
本当はそらね、「自己評価」が高い方が良いわけですよ。それは言うなら、「九九」ができないよりはできた方がいいってことと同じで。
でも、九九ができないから愛さないってのはダメだよなぁ。出来ない自分も自分なんだから愛してあげないといけない。
自分に対して、「自己評価が低くてつまらない生き方をしてた時の自分もまた、素敵な自分じゃないか。」と、自分自身を抱きしめてあげれば、身の回りにいる「自己評価の低い人」にも腹は立たないわけです。
まず自分を愛する。それが基本だしね。
「自己評価が低いのはダメだ!」と言ってる事自体が、実は自分の否定、つまり自己評価が低い事だった訳です。
わかります? この構造。
すべては自分の心の問題なんだよなぁ。
つくづく。
ということで、最近はちょっと禅とか内観とかに興味が出てきました。面白い。
ま、てなことで。
まだ見つけたばっかりなので、身に付いてるとは言い難いのだけれど、いざやってみると、実に面白いほど怒りが治まる。驚くほどの効果である。
びっくりした。
やり方は簡単で、「全て私が悪いのだ。原因は自分にある。」と考える、という方法である。
それだけ。
他にオプションもへったくれも、何もない。
ただ、「ああ、俺が悪いんやなぁ。」と思うこと。
どこが悪いかを考える必要もない。ただ「俺が悪いんや」と考えたらそれでオーケーだったのであります。
こう考えると、もう、驚くぐらい、自分の「悪いところ」というのが見えてくるんですね。
「あ、あそこで、ああいう言い方したのがまずかった。」とか、「本当は、こう考えるべきだった」とか、そらもう、いくらでも反省点が出てくる。勝手に出てくる。
もの凄く簡単。
なんで簡単なのか?
自分の事だから、ですね。
自分が体験したことなのだから、自分の立場も都合も分っている。だから「私が全面的に、すべて悪いのである」という仮定に立てば、反省する材料には事欠かないわけです。
だって自分の事だもん。全部、どういう過程を経て、そういう行動・言動に至ったかの事情までわかってるんだもん。良い点は反省する必要もないけど、悪いところなら、いきなりいくらでも思いつく。
そうなると、人間関係で、誰かに腹を立ててたのが全部「あ、俺のせいか。」となって腹が立たなくなってしまうのですな。
いやー、びっくりした。
自分以外の人間に腹を立てたところで、その人の考え方を変えることなんて出来ないんだから、よけい腹が立つだけなんですな。無駄。それがやっと当たり前のこととして分った。
でも、自分の悪いところなら、すぐにでも改良できる。改善できる。希望があるわけです。楽しい。相手のせいにしてると、これは絶対一歩も動くはずがないんだから楽しくない。よけい腹が立つ。当たり前ですわな。そういう当たり前のことに、やっといま気付いたという次第。
誰かに腹が立つというのは、相手を鏡として自分を見ていることなのだ。誰かに腹が立つというのは、いろいろ理由はあるけれども、自分の弱点を相手に見せられるから腹が立つのである。
自分の思いこみでしゃべる人が嫌いだったとしたら、いま自分はもう思いこみでしゃべる人間ではなかったとしても、過去にそういう自分がいて、それを弱点、あるいは「許されない事」だと思っているから腹が立つのである。
僕は、アダルトチルドレンの学習その他で、「自己評価が低いのはいけない!」というのを知り、コツコツと自己評価を高めてきた。「自己評価が低いのは許せないこと」になってたわけです。
やっぱり大事なのは、自分の悪いところを見るのではなく、良いところを評価して、それを伸ばすという生き方、考え方なんだと思ってたんですね。
いや、それはそれで正しいんだけど。
確かに「自己評価の高い生き方」は実に素晴らしかった。いきなりとても生きやすくなった。生きる事が苦痛ではなく、楽しみになった。素晴らしい。もう、天国と地獄ほどの差なのです。
でもね。
あまりに、その展開の幅が大きかったものだから、「自己評価を低くしてしまっていた自分」を許せなくなっていたわけですよ。
「自己評価が低いなんてだめだ!」ってなってた。つまり過去の自分を許してなかった。言い方を変えれば、「ダメだった自分」を否定したかったわけです。過去の自分を消し去りたいとか思ってたんだろうなぁ。
だから、ついつい、そういう、過去の地獄のような苦しい生き方を「否定」するようになってしまっていたんですね。
自分がそうやって生きていたのに!
そういう「過去の失敗していた自分」を許して、愛してあげてないから、身の回りの「苦しい生き方」をしている人を見ると腹が立って仕方なくなってしまうわけですよ。
「もっと自分を愛したらどうなんだ!」「もっと自分を肯定しろよ!」ってね。
いやー、それ、なかなかできなかったんだから。
私、それが出来なくて苦しかったんだから。
いくら言っても、それはできないって。
言われて、出来たか?俺。
出来ん、出来ん。無理無理。
そんな高望みを押しつける方が悪い。
本当はそらね、「自己評価」が高い方が良いわけですよ。それは言うなら、「九九」ができないよりはできた方がいいってことと同じで。
でも、九九ができないから愛さないってのはダメだよなぁ。出来ない自分も自分なんだから愛してあげないといけない。
自分に対して、「自己評価が低くてつまらない生き方をしてた時の自分もまた、素敵な自分じゃないか。」と、自分自身を抱きしめてあげれば、身の回りにいる「自己評価の低い人」にも腹は立たないわけです。
まず自分を愛する。それが基本だしね。
「自己評価が低いのはダメだ!」と言ってる事自体が、実は自分の否定、つまり自己評価が低い事だった訳です。
わかります? この構造。
すべては自分の心の問題なんだよなぁ。
つくづく。
ということで、最近はちょっと禅とか内観とかに興味が出てきました。面白い。
ま、てなことで。