ISBN:4334005179 新書 小室 直樹 光文社 1992/01 ¥805

この本、売ってるのかなぁ。いまはもうないと思う。
入手困難なんよな。
これをして「トンデモ本だ」と思ってる人が知り合いにいてるので、簡単に解説だけ書いておこうと思った。

この本は信長本なわけですが、信長の話はまぁいいのです。
それよりも、日本の歴史家がいかに「ええかげん」であるかが、この本を読んではっきりわかったというのが一番大きいんですな。

小室さんはアメリカまで留学して学問の基礎から学んだ人ですよ。ほんまもんの博士であって、トンデモ本なんか書く人ではない。なによりこの人はどの本一冊取っても、「学者」という枠からはずれたことは書かない。
(その外れていないという点で問題があることはある。それと学者の立場を離れて個人的意見を述べることもある。それもちょっと困る。でも概略すごい人です。)

信長と言えば「桶狭間の戦い」なわけですよ。
常識的に。

それはみんなそう思ってたし、山岡壮八の小説だってそうなってた。

で、みんな「狭間の戦い」と思ってたわけですよ、この本が出るまで。「はざま」ね、「はざま」。

みんな谷間で休んでた今川義元が織田信長の急襲にやられたんだと思ってたわけ。いまだにそう思ってる人は多いのよ。

でもね、もっとも歴史的事実に関して正確だと言われている「信長公記」(信長と同時代の太田牛一が書いた歴史書。信長に関する史実はこの本を頼りに推理するのが定番になっている。)の「読み方」自体がみんなええかげんやんけ、と暴いたのが小室さんなわけです。

だって、「信長公記」には「桶狭間」なんて一言も出てこないんだから。
出てくるのは「おけはざまやま」です。
「やま」なの、「やま」。

どこが「はざま」やねん、ちゅう話ですわな。
それも「一気にかけあがり」だったかなんだか、そういうことが書いてあるわけよ。どこをどう読んでも「谷」とか「はざま」には読めない。山を駆け上って攻めてるのよ。

そういう指摘を小室さんはしたわけです。

歴史家とか信長研究家とか、そういう人が偉そうに「推理」して、あてずっぽうで「おけはざまで信長が勝ったのは暑い日だから敵側が小手や具足を外していたからだ」とかなんとか、もう好き勝手言ってる横から、小室さん、ひょひょいと出てきて、一番学術的に信頼性の高い資料をじっくり読んで、「これは狭間ではない。山だ。」と指摘したのですよ。

たぶんね、みんな「はざま」という言葉と、義経のひよどり越えのイメージがあって、「谷間」と思っちゃったわけよ。

学者として実に正しい指摘なわけですよ。歴史学というのは、要するに資料読み学なわけですから。その基本の基本をピシッと筋を通して貫いただけなの。

で、その基本の基本をピシっと貫いただけで「ということになっている」というイメージだけ雰囲気だけの世界を完全にぶち壊してしまったわけです。

ということで、この後に緒方直人主演でNHKでテレビ化された織田信長では、この「やま」説を採用しておりました。
ま、誰もグゥの音も出ないわけですよ。これは。ようするにみんな基本資料もちゃんと読まずに、自分の思い込みだけで「語って」いたわけだから。
アホやん、そんなん。

山岡壮八もまぁアホですわな。でもまぁ、こらしゃーない。小説家やねんし。話をドラマチックにわかりやすくするなら、ひよどり超え風にした方が楽やし。
司馬遼太郎の「国盗り物語」も同じレベルの描写だったと記憶してます。
ま、小説家ですから。

誰も資料すらちゃんと読んでなかったというのが実際のところなんよな。

で、だ。

この本を読んだ時は「うわっ、資料読むとかキチンとやらなアカンよな」ということを学んだだけだったわけですが、その後、さまざまな勉強をしまして、この「資料をキチンと読み込む」ということがいかに重要なことであるかを後から私は学んだのでありますよ。

それは「宗教改革」です。

宗教改革が起こってプロテスタントが生まれるわけですが、その立役者となったのがカルヴァンです。
このカルヴァンが、何が偉かったかというと、「聖書を徹底して言葉どおりに読む」ということをした。
ここから宗教改革は生まれたわけです。
小室博士は、この故事にならっただけなんですよ、基本的には。

キリスト教もイスラム教もユダヤ教もどれも基本的に「啓典宗教」と言って、基準となる書物をこそ最上位において、その基準に従うのをよしとする宗教なわけです。

で、ヨーロッパにおける宗教権力の腐敗は、この聖書を誰にも読ませず、勝手に免罪符を売りつけたりして進んでいたわけですよ。それを聖書を徹底精読することで打ち崩したわけです。簡単にシンプルに書いてしまえば。

小室さんは、そういう歴史のあり方に素直に従ったまでです。で、その著作がこの一冊です。

別に、偉そうな自分なりの哲学を打ち立てる必要もないし、英雄のように度胸のある行動をとらなくてもいい。せめて、本が目の前にあるならキチンと読め。

それだけのことです。

ましてや歴史書は人類の先達の残した(残したということは残す意義のあった、ということです。)大切な宝ですからな。判断は読んだ後でよし、です。

ということで、明らかに読んでもいない人が、この本をして「トンデモ本」よばわりしたので、ここに書きました。

で、いつもならそういうことは「読んでから言え」とだけ言って、本の内容にまでは言及しないんですけどね。(これを言われて読む人間は少ない。でも、読む前に内容を要約して教えるとかはしない。それこそ僕の読み方が間違っているかもしれないわけだから。でも、読まない人は本当に読まない。あかんよなぁ。ほんま。)
でも、この本はどうも絶版みたいだし、とにかくざっくり書くだけ書くことにしました。

ごちゃごちゃ偉そうに言ってる人が偉いんではないのです。コツコツ一次資料にあたって、正しく読み解く作業をしている人が偉いのです。

ま、とにかくすごいですよ、小室先生は。この一次資料にキチンとあたるという態度だけでも、どれだけ人生に大きく役立っていることか。なんてことないことなんですけどな。でもここ一番で、とにかく強烈な効果があります。どんなときでも。この態度は。

小室博士は、尊敬してます。本当に。はい。
ISBN:4101189218 文庫 江原 啓之 新潮社 2003/10 ¥500

去年の春あたりからずっと「倫社の帝王」を書きかけのままにしてたので、その続きを書こうと思うんですが、どうにも基本的な「宗教」の話の入り口だけで話しが止まってしまうんですな。

なんでそうなるかというと、純粋に論理とか倫理という価値中立的なところで論議されずに、感情的というか、単なる反発心だけで「この人、変」とか言われそうな気がするからなんです。

で、どうしてそういうことになるのかが、いまいちよく分かってなかったんですが、この江原さんの本を読んで、自分の中でひとつの納得が生まれたのです。

一言で言うと、「宗教と霊の世界は全然別物」ということが、スキッと理解できたからです。

やはり宗教というのは宗教学というか、社会学とかの学問的に捉えないと日本人である僕には理解しにくいんです。
逆に言うと一神教の世界は、はっきりとは良く分からないですが、そうとうにキチンと「考え方の体系」として確立されている、ということなんですね。

でも、日本人には、この「考え方の体系として確立されている」ということ自体がわからない。
宗教が「考え方なのだ」という点で、もう理解不能だと思うのですよ。
逆に宗教について語った瞬間に「こいつは霊的なあやしい世界に首を突っ込んでいる人間か?」という色眼鏡で見られてしまう。

いや、違うんよ、それは。

と言いたい。

言いたいのだけども、日本人特有の多神教的考え方だと「宗教なんてええかげんでテキトーなもんや」程度の認識しかできなくなるので、やっぱり霊的な事柄と宗教とか不可分になってしまうんよなー。

ごっちゃまぜ。

ちゃうっちゅうに。

そこをごっちゃまぜにしてるからアカンのに。

ということで、その「あやしい」霊的体験の急先鋒というべき江原さんの本を読んでみたわけですわ。

すると、これが実に納得行く。
「ああそうか」とわかる。

江原さんも、この宗教と霊的体験のごっちゃまぜ状態に困ってる人だったわけです。
江原さん曰く「霊の世界は実在します。でもそれは外国みたいなもので、現世の人間には知覚できない。だから、霊界とのやりとりを一手に引き受ける商社みたいな存在が必要になってきて、それが宗教です。」と書いておられる。

あー、わかりやすいなー、これ。
って思うのよ。
江原さん曰く「だから霊的体験と宗教とは全然別のものです。」と言うわけ。霊的体験というのは直接海外に行くようなものなんだって話で。

そうよそうよ、それよそれ。
私はね、海外に直接行く話は全然する気はないんですよ。
そうではなくて、商社の違いを正しく知っておきましょうってことなわけです。

で、日本には、その「商社」の存在すらないに等しいというのが実際のところなんですから。

たとえばお笑いの話で言うと、関西のお笑いだとなんでもかんでも「ヨシモト」とか思われるけど、実際には吉本も松竹もあるわけですよ。だから「鶴瓶とかオセロとかアメリカザリガニとか、吉本は強いね」とか言われたら「それはみんな松竹じゃ」とか言いたくなるでしょ。

前に一度テレビのテレホンショッキングで、誰だか東京のタレントが「関西の吉本系のタレントさんはすごいですよね、鶴瓶さんとか上岡さんとかノックさんとか、みんな人気ありますし。」とか言ってた。全部吉本と違うやんけーって思った。なんやねんそれはと。

で、日本人の宗教観というのは、この吉本と松竹その他との区別もついてない関東のタレントよりひどいレベルなわけですよ。個々の宗教の基本的な違いもわかってない。

で、宗教はお笑いタレントとはわけが違うわけですよ。宗教観というのは、人間の生き方とか価値観の基礎の基礎の、そのまた基礎、大前提を決定しまくってるわけですから。

これを知らずして何を語ることもできゃせんのです。それこそ、世界レベルでの社会の動きを、それなりに理解しようと思ったら、まずこの宗教観をキチンと知るというところからはじめなきゃしょうがない。

そうしない限り、多分日本人の多神教的な素朴な感覚だけでは、世界のシビアな動向など理解したり読み取ったりできるはずもないわけなんですね。

いや別に「語る」とかまで行かなくてもいいのだ。
日本には世界の宗教の考え方が勝手に流れ込んできていて、それに一般人が翻弄されて精神的にダメージを受けているって部分もあるから、ちょっと他国の宗教について「客観的」に理解するだけで、そうとうに気持ちが楽になるし精神的な平安を得ることも可能なわけですよ。
ここが一番重要なんだよねー。
でも、これがわかってないって人が、これまた多い。

で、不安だから「バカの壁」に走る。「多神教が良いんだ」という「自分の文化にひきこもれ」という内容ですわな、あれ。
アカンってそれでは。
いつまでたっても心の平安は得られんっちゅうに。
自国の文化と他国の文化を冷静にちゃんと見極められる目を持たないと。なんでもごちゃまぜで、それで「多神教でござい」では日本人の心の不安定はいつまでたっても治らん。
ちゃんと多神教と一神教くらいは区別して理解せんと。

一神教の人間は多神教なんて原始的で未整理な遅れた宗教としか思ってないし、事実そうなのですよ。それは一神教でないと、商社として成立しないというか、そういうことなわけです。

で、そりゃまぁ確かに霊的体験で言えば、海外まで直接行けば何事でも真実はわかるかも知れませんが、そんなものは特殊な人にしか体験できないし、何も現世にいながら霊界のことを知らなければならなということもないわけですよ。
心が平安に暮らせればそれでいいんだから。

だからちゃんとした商社がある国は、まぁ押しなべて多くの人が安定した心の平和を供給してもらえてるというようなことなわけです。
日本には、この商社がない。それは多神教だから。家庭内手工業でとどまっているのが日本の宗教だから、です。

だから何です。国を司る政治を「心の外の政治」とするなら、宗教というものは「心の内面を司る政治」と考えてもいいわけです。

そういう捉え方をしないと全然駄目なわけ。
「イスラム教は目には目を歯には歯をとか言うやん。あーこわいこわい」とか言うてても、何の意味もあれへん。なんでそういう言葉が生まれてきたかの背景を「知識」として知っておかないと。

そういう根本的なことが、みんなわかってないと思うのよねー。

で、そういう「霊と宗教の完全分離」というのを、キチンと指し示してくれた、という意味で、この江原さんの本はなかなかおもしろかったんですね。
私的には去年読んだ中でも、そうとうに影響力の大きかった本でした。

ちなみに、「霊」の世界においても日本は遅れてるのよなー。江原さん、イギリスで霊媒師修行してきてるんよな。で、「ははぁ、なるほど。霊そのものの存在証明をするという、そういうやり方があったのか。」と感心してしまいました。

駄目駄目よ、ほんと。日本の内側だけ見てても。ほんと。
ISBN:4872574818 単行本 夏目 房之介 イーストプレス 2004/09 ¥1,355

1/8付けになってますけど、読んだのは多分去年の暮れ。

いやー、さすがに夏目房之介さんですなぁ。実におもしろいし、内容が深い。
というか、現実の姿を冷静に思慮深くチェックして推論しているところがとても良いです。
まぁあんまり売れないんでしょうけどなぁ。

僕的に「そそそ、そうか、そうだったのか」と感心したのが、マンガの「フキダシ」。

ありますわね、マンガのキャラクターの横についてるセリフ用の風船みたいな奴。

この本、あれの起源についてけっこう地道にていねいに調べようとしてるんですね。夏目さん独特の知的なアプローチで。

黄表紙と呼ばれる江戸時代の絵物語のようなものの中にフキダシに近いものがあるからと、夏目さんはこれがフキダシの起源なのかと調べるわけです。

しかし、どうも違うらしい。文章の区切りとして曲線で分けられていることはあっても、誰かのセリフを囲むという発想ではないらしいんですね。
だからストレートなフキダシの起源とは考えられないわけです。

で、ここからはちょっとわかる人にしかわからんからさらっと流しますが、マンガはようするに虐げられた下級文化なんですよ、現代日本以外では。
なのでまともな資料というのがあんまりないわけです。

で、パッと飛んで明治の中ごろになると、どうもアメリカンコミックスが日本にも入ってきてたらしいんですね。
それで夏目さんは「どうもフキダシというのは、海外文化を日本に取り込んだものであるようだ」と言ってるんです。

そそそそ、そうだったのか!

だったんですなぁ、私的には。

そうやったんや。アメコミの真似やったんや。うーん。そうやったんかぁ。です。

日本人はマンガのようなファンタジーに関しては先進国なんですけど、でも肝心のフキダシみたいな表現技術とかは、けっこう海外のものを真似てたんだなぁと。

あ、あと、この本を読むと「あしたのジョー」と「巨人の星」がいかにすごいマンガであったのかが、あらためてわかりますです。主人公が成長するマンガというものが、いかに日本のマンガ文化を変えたのか、世界に影響を与えたのかとかですね。

とにかくマンガというものをキチンと考えたい人には実に面白い、良い著作だと思いました。
おすすめ。
神は理不尽である。

10年前の阪神大震災の時にそう感じた。

人間が積み重ねてきたものなど、一瞬のうちに葬り去ってしまえるのだ。泣き叫ぼうが、すねて無視しようが、自分をごまかして妄想にひたろうが、自然の驚異というすざまじいまでの力には人間はまったくの無力である。

まず、そういう現実認識があった。

阪神大震災の時、日本の政府は、ごく普通の一般市民を守ることもできなかった。海外から飛んできたNGOの救助犬のほうがはるかに役に立っていたし、人の命を救っていたのではないか。確か政府の担当大臣が現地に着くより救助犬のほうが早かったはずだ。

なので「日本の政治体制は遅れているのではないか」という気持ちが強く出た。そしてそれは、私の命を救ってくれないくらいにダメダメなのではないかと思った。

だから、この大地震を海外のメディアはどう報道しているのかが気になった。大まじめなメディアではない。日本で言えば三流の大衆紙などでの、口汚い評論家の意見などが知りたかったのだ。

なので35才だったが、そこから英語の勉強をはじめた。「Itの複数形はIt’s」というレベルだったし、lとrの音は聞き分けることも発音することもできなかった。ruler(ルーラー。定規のこと。)を聞いても聞き取れないし、ましてや口真似することすら無理だった。発音記号と発音のCDを使って口を動かしまくって、何時間もかかって、やっとruler一単語が発音できた。

異文化というのは、そのくらい遠い文化なのだとわかった。

そんなこんなをして、世界の側から見た日本、外から見た日本についてずーっと考えてきた十年だったみたいに思う。

で、結局、この十年に思ったことは、日本人は「神は理不尽である」という厳正なる事実さえ受け取れず、現実を曲げて妄想するることくらいしかできない民族なんだということだった。

海外の宗教、とくに一神教の多くは神は理不尽であるということを基本的には受け入れている。

十年前の一月十七日に神戸の道路はなんとか知り合いを救いたいという人であふれていたが、そんな車の群れに遮られて、緊急車両さえ移動できない状態だった。「私権の制限」を含む緊急時の法令が定まっていなかったからだ。これだけでも我々は大きく反省すべきことなのだ。

しかし実際の「私権の制限」を含む法律は、我々が阪神大震災で学んだことを基準にして立法はされず、イラクとアメリカのもめごとにまきこまれる形で成立してしまった。
なんと情けないことであるか。

大切なのは、我々の命である。
よその国のことなど知らない。

我々の命をいかにして守るかという論点から、論議されるべきだったはずだ。
しかし、そんな論議はされない。テレビにそんな論点は紹介されない。最初から排除されている。行ったこともない国の動向やら、戦争を仕掛けた国がどうやらとかまびすしい。

そんなことどうでもええやんけ。

それより「私権の制限」の必要性を我々がもっとキチンと勉強すべきやったん違うんか。法律って何や? 国って何? 我々は民主主義というものを正しく理解しているのか。いや、それよりも「みんしゅしゅぎ」でいいのか?
そんな、あんなこんなや、そんなこんなを、もっと自分の身近なところから考えなアカンの違うんか。

考えもしないから、よくわかってる他国のええようにされてるだけや。

つくづくそう思う。

我々国民がバカなのだ。とにかく、それが何よりの問題なのだと言うのが、この十年の結論だ。
他に言うことはない。

それでも、と思うのだ。
われわれはまだまだ賢くなれるのではないかと。
せめて自分たちのことを自分たちでキチンと考えられる人間になっていけるのではないかと。

そしてそれは別によその国のことを考えることではないと思う。

まず自分だ。
自分の頭の中だ。
理不尽な現実を真正面から受け止められる知力と体力を身につけることだと思う。

そうなるのだ。

すくなくとも私はそうなる。
去年の10月からやってたんだけど、一月いっぱいで終わるということだったので、「本田宗一郎と井深大展」をひとりで見に行ってきた。

やっぱり日本人はモノづくりだよなぁとつくづく思う。
宗教観とか、社会ルールとかは、そう簡単に海外から取得してマネッこできないけど、モノづくりは違うのよなぁ。モノそのものがあるから、確実に世界の最先端に到達できるし、日本人のまじめさや精緻さがあればいきなり世界一になれたりするんだなぁとつくづく感じた。

そういう何か突き抜けたことをやれる人はやっぱり違うよなぁと、いろいろ感心する。

まぁ本田宗一郎さんにせよ、井深大さんにせよ、ありとあらゆるところで話題になっている人たちだから、たいていのことはすでに知ってる話ばっかりだったんですけどね。

でも「展示物」とともにそういうエピソードがあると、やっぱり説得力が違うのよなぁ。

で、私的に感動したのは、本田宗一郎さんが、マン島のバイクレースで日本一になった時のバイクの音を音声ガイドで聞いた時でした。
(展示会とかに行くと500円とかで貸し出ししてくれる音声ガイドってありますよね。今回、それを聞いたのであります。)

いやー、すごいよ。
エンジン音がすごいよ。
やったるでーって叫んでるよ。

なんかそういう感じがすごくあってうれしかった。
こればっかりは聞かないとわからんよなぁ。
仕事で鈴鹿サーキットに行って、あそこでエンジン音聞いた時もすげーなぁって思ったけど、それに近いものを感じたわねぇ。

で、もっと感激なのは、「音」は井深大さんがやり続けてきたってことですわな。
この展示会はようするに音と車の展示会でもあったわけで、そういう意味でも感慨深かった。

なにより本田宗一郎さんと井深大さんは個人的にアニキと呼び合う親友同士だったということもあって何か意義深く感じてしまいましたなぁ。

で、僕はエンジンとかには詳しくないけど、身の回りに来ている人たちはとても若い人たちで、展示されている当時のエンジンスペックとかサスペンションの方式とかを見ながら「へぇ〜○○方式って言えば、○○で使ってたやつやん。うんたらかんたら」とか言いながら、床にはいつくばって、携帯を懐中電灯代わりに車の裏を照らしながら観察したりしてるわけです。

うーん、日本人の文化は死なずだなぁ。と思うのですよ。
この探究心が、ごく普通なんだもんなぁ。
まだまだ大丈夫だよなぁと思う。

しかもこの展示会、うれしいことに「写真撮影可」なのです。
ああ、すばらしい。
実に日本人的だ。
オープン。

みんな携帯デジカメでパシャパシャやりまくり。
それこそ若い女の子まで。

いいよなぁ。
うれしいよなぁ。
なんか。

携帯デジカメも日本人ならではだしなぁ。

なんつーかDNAは受け継がれるよなぁという感じがあっていいのですよ。

で、展示会が終わると感想を書く用紙とボックスがあったのだけれど、そのボックス前には、いままでに書き込まれた感想が壁一面に張り出されててねぇ。
読むとねぇ、感動するわ。ほんと。
なんつーか、みんな元気をもらって帰ってるんだなぁと。

いやまぁ、逆に、いまの世の中に、それこそ本田さんや井深さんのような、良き「オヤジ」がいなくなったのが問題なのかも知れないんですけどね。
だからこういう展示会で足りなくなったものを得に来ようとしてるのかも知れない。
でも、ともあれ、もらえたんならいいじゃんとは思ったなぁ。

私的には展示の最後にソニーのワープロが置いてあって、生前の井深氏が「この機械でワープロに挑戦しようと、本田宗一郎氏宛ての手紙を書き始めたところ、とたんに本田宗一郎氏の訃報が飛び込み、それ以来生涯井深氏はワープロには手を出そうとされなかった」というのがなんともしみじみ来た展示だったんですが。
いや、私、文章書きが商売なもんでね。

んー。
うむ。
ISBN:4072364061 単行本 ナターリャ・メイゼル 主婦の友社 2003/11/27 ¥1,680

「他人の話に本気で耳を傾けたりするより、銃撃戦のさなか匍匐前進するほうがはるかに簡単である」

という一節が、この本の後半に載っていて、「そうよなぁ、その通りよなぁ」と思うのであります。

戦場に行くよりも、うんとはるかに、「自分と向き合う」ということの方が難しいというタイプの人間は世の中にいてるものです。

かくいう私もそのくちだったかも知れませんが。

えーっとですね、先に本の紹介しますと、

「睡眠中に、ひらめいた考えによってその後の人生をも変えてしまう力をもつ思考法、スリープシンキング。あなたも睡眠時間をもっと有効に活用してみませんか? 寝ているあいだに脳が問題を解決してくれるプログラムを紹介。」

ということになります。

で、前半の一章から六章までは、そのスリープシンキングのやり方がごちゃごちゃと書いてあるわけですが、実は、そんなものちーとも面白くない。

この本の真骨頂は七章以降に出てくるスリープシンキングを利用して自分と向き合った人たちの実例のほうであります。

読むならまず第七章から読み始めていただきたい。

●自分はゲイなのにそれに気づこうとせずに生きている男
●ソロを弾こうとすると弾けなくなるギタリスト
●歴史小説を書くために仕事をやめたいのにやめられない女
●借金を支払わなければいけないのに、銀行口座のパスワードがどうしても思い出せない女
●ロデオでスターになりロデオ引退後はビジネスウーマンとして頭角をあらわしているのに、趣味の絵画をはじめるのが怖くて仕方ない女
●「まじめ」な歌手であるために楽しんで歌を歌えなくなってしまっている女

そういう話がいっぱい載ってます。

どれもこれも「自分を精一杯生きている」人の話で、僕的には非常に共感するんですなぁ。

思うに人間がこの世に生まれてきた使命は、究極「自分らしくイキイキと生きること」なんだと思うのです。

もし自分が自分らしく生きてないと実感するなら、それは自分の責任です。生き方の再調整をしないと仕方ない。それは結局、自分と向き合うという作業をするしかないってことなんですね。

これは水路にゴミがたまっているようなものだと僕は思うのです。複雑でどこがどうつながっているかもわからないような水路に水が流れていない。どこかでゴミが詰まってるのだけれど、それがどこなのかわからない。

調べだしたら大変な作業になるから、ついついほおりだしてしまいがちなんですが、それでも結局、いつかは溝掃除をするしかないわけです。

長く生きているとゴミもたまるよ。
そう思う。

一度ゴミ掃除さえしてしまえば、あとは水路を自由に水が流れると思うんだよなぁ。

スリープシンキングというのは睡眠前に、そのゴミのありかを自分に聞くというようなやり方ですが、この後半部分を読むと、別にスリープシンキングのやり方がすべてにあてはまるわけでもない。多少効率的という程度のことで、結局は問題を抱えている当人が「自分と向き合うぞ」と思わない限り、何もはじまらない、ということに関しては同じなんですね。

そこがまた面白い。

人間が生きているという不思議。
その一番大きな不思議に気づかずに、何を考えても、結局は遠回りでしかないと思うのですよ。

そんなことを考えたら、まずは自分の中の心の水路の溝掃除を、まず最初に行うというのが一番大事だよなぁと、つくづく思うのであります。

人類全員が溝掃除したら、それこそ戦争も起こらない理想の世界がやってくるのかもしれないとかも思いますけどね。
あー、でも「自分と向き合う」というのは、一番辛いしなぁ。できねぇよなぁやっぱし。なかなかねぇ。

うむ。
ISBN:4140018712 単行本(ソフトカバー) 岩月 謙司 日本放送出版協会 1999/09 ¥914
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4140018712/503-1393334-5299133

知らなかったんですが、岩月謙司さん、逮捕されてたんですね。

うーん。

辛いなー。

確かに「育てなおし」の手法は物理的には「わいせつ罪」に見えてしまうからなぁ。というか物理的には若い女性に父親代わりとなってスキンシップするんだから、反論のしようがない。

でも、それでも私的には岩月さんの味方をします。
こういう時こそ味方しないとまずいわ、これは。

ネットでこの件を検索しても「読んでもいないのに世間の流れに沿って批判している」というのが多くて困る。
それとは逆に岩月さんの「治療」を受けて社会的に回復した人たちからは「今回の逮捕は冤罪だ」という声が非常に多い。

だって心の苦しみから本当に救ってくれた人なんだからねぇ。そうなるよ、それは。

で、あまり知られてないけど、子供時代の親子関係をキチンと整理できずに苦しんでる人って本当に多いんだよって言いたい。女性に多いらしいけど、実は男だってそうだ。

(岩月さんは「男は論理的に問題を解き明かせるからまだまし」という意見を言っておられるが、私は男のほうが問題が無意識の下に眠ってしまってやっかいだと思う。「苦しい」と自覚できて岩月さんの門を叩くのは女性がそれだけ自己分析に長けているからではないのか? と思っている。男は下手ですよ。自己分析。まぁ仕事で矯正されてる部分はあるかもしらんけど。)

私、この数年、いろいろありまして、そういう悩んでいる女性とたくさんお会いしたのです。だから、その苦しみがいかにやっかいかつ大変なのかというのは実感としてあるのですね。(わかると言いたいが言うとウソになるので、実感があるとだけ書く。)

で、岩月さん批判をしてる人の意見を読まなくちゃと思って探してみたら、内田樹ってのが批判してた。
一見まともな批判に聞こえるんだけど、なんかおかしいんだ、こいつ。なんか言ってることが結局「エロ」だけなんよな。エロティックはすばらしい、みたいなことしか言ってない。
で、なんか変よなぁ、なんだろうなぁと思ってたら、ようするにこの内田樹という人の言葉からは苦しんでる人を救う「気」が感じられなかったってことなんよねぇ。

(しかも、「同性愛問題と社会問題を関連づけて考えるなどということをする気はまったくない」などとバカな事を言ってるし。「まったく」かよ?ひどいね、それは。アメリカの大統領選挙戦の争点も知らないのかとあきれた。ま、岩月さんの話とは関係ないけど。)

岩月さんの著作からは、その「救わなければ」という気がすごく感じられる。
まぁ、そこの思い込みが強すぎるというところもあるんだろうけど、実際に苦しんでる人をたくさん知ってると、岩月さんの真剣みもよくわかるんよなぁ。

やっぱりね、そういう現場を知らなきゃいかんと思う。
で、その現場がわからんなら、せめて本くらい読まないとなぁ。
逮捕された人をここまで「守る」と公言する人が多いというのもめずらしいかも。

まぁ岩月さんを訴えた人というのが、もともとテレビで「育てなおし」の現場を見た上で岩月さんのところを訪ねてる人ですからねぇ。スキンシップが前提の「治療」であることは納得済みだったはずなんですよ。
ただ、訴えてきたのがどうも、その父親らしいんでねぇ。
うーん。

やっぱり男が問題という気がするよなぁ。
女は自分の問題に気づけるのよなぁ。
治すために努力もするのよなぁ。
男はまず気づくことができないんよなぁ。
だから、この「父親」が気づいてない可能性が一番高いと私的には思うのですよ。

私も岩月さんの何冊もの本に救われてる人間なので、とにかくここは味方しとかないとまずいということなんですが、どうもこれ、やっぱり冤罪になる可能性が高いのか、テレビとかでもあんまり取り上げてないみたいですな。
だから逆にこんな風に味方するほうが事を荒立ててしまってるのかも、という気もしますが。

ともかく、親子関係が原因で人生に対して非常に暗い思いしか抱けなくて苦しんでいる女性と話をして、その話の内容が、岩月さんの書籍とあまりに内容がぴったり重なってたので、一冊(この本じゃないけどね。「思い残し症候群」のほうです。)プレゼントしたんだけど、パラパラと眺めただけで「私のことが書いてある!」とびっくりしてたもんなぁ。

やっぱりね、臨床というか、実際に苦しんでる人それぞれとキチンと向き合ってる人が整理して書いてることなんだから、説得力ありますよ。そういうことよなぁと思う。ほんと。

まぁ「育てなおし」に関しては、テレビで紹介された内容をネットで見て「うわぁ、これヤバイよなぁ」とは思ってたから、岩月さん自身、こういう訴えられ方をされる可能性も覚悟の上だったのかもしれないなぁとは思うのですよ。

苦しんでる人を救う。
マイナスをプラスにする。
本当にすごいことだと思いますよ。
やっぱり、それをやらないと。

で、実は自分のマイナスを自覚するっていうのが、一番辛いんだけどねぇ。
うーん、それはまた別の話か。

てなことで。
今年は阪神大震災から10年。

震災の日の日記にも書いたけど、大地震という人の手ではどうしようもない出来事に遭遇して、考え方や生き方は大きく変わったように思う。

その中でも、やっぱり一番大きいのは「勉強しなくちゃいけない」っていうことだった。

最初は「他の国から見て日本という国がどう見えるのか」というような発想だったけれど、たとえば英語ひとつ学んでみても、ひとつの単語の裏には日本とは異なる異質な文化があって、その文化を学ばない限り、言葉の意味がわからないというようなことが山のようにある。

英語なんてとくにそうだ。辞書を見て「日本語で●●は英語で○○」と単純にあてはめてそれでよしなどと思っていたら、ちょー恥ずかしいことになる。全然通じないどころか正反対になってしまうなんてことも多い。

結局、英語を学ぶというのは、相手の国の文化を知るということで、それは日本の文化とはまるで違うのだということを知ることだから、「日本語の●●は●●であって英語の○○とは似ているようでまったく違う」ということを学ぶ過程そのものだ、と言える。

基本的には「学ぶ」ということは、そういうことなんだよなぁとつくづく思うのだ。翻訳不能と知ることが相手のことを良く知るために必要というか、そういう矛盾があるってことですね。

でも、大切なのは、相手の文化を知れば「ああ、なるほど」とわかることはあるってことなわけです。

「ああ、そういうことやったんかい。」と納得することですね。言葉はわからなくても、この「ああ、そういうことか」というのはあるのですなぁ。

結局、これが楽しいのだと思う。

英語を学ぶことが大切なのではなくて、この「ああ、なるほど」とわかる感覚こそが大切で、この楽しさがあるからこそ、勉強は楽しいのだと思うのである。

この十年につくづく実感したことは、それだ。

「ああ、なるほど」と実感することは楽しい。
心から楽しい。

とくに特定のジャンルの本を数冊、できれば十冊くらい、入門編から一般書あたりまでをザザザっと読んでしまったりすると、複数の知識が、ある特定の一冊の本ですべて「ああ、なるほど」とわからせてくれる本に出合えたりする快感は最上だ。

この時の快感は実に大きい。

いままでわけも分からず、闇雲に読んでいただけの知識が、その「ああ、なるほど」という解説ひとつで、一気にすべてつながって納得できるような快感である。

これは実に楽しいし、気持ちいい。

学習するということの基本的な楽しさは、この「ああ、なるほど」という快感なのだと思う。

ひとつの言葉の意味を知るのではなく、背景全体が見える快感というか。そういう感覚ですね。

この快感を知れば、もっと「ああ、なるほど」という喜びを知りたいなぁという気持ちになるものなのです。
で、それがあれば勉強はどんどん続くと思うのですよ。

まぁ、仕事が忙しいとなかなか勉強もできないけど、基本はそういうことだよなぁと思います。

学習すれば考え方も変わるし生き方も変わるけど、この「ああ、なるほど」と感じる感じ方は変わらないなぁ。
たぶん、これは信じて良い感覚でしょう。
人間の持つ感覚の中でも、たぶんとても大事で最優先にするべき感覚だろうと思う。

人間、年齢を重ねるごとに思想も考え方もいろいろ変わるけれど、それでもやっぱり「ああ、なるほどなぁ」という感じ方は変わらない。

右や左や戦争賛成や反対や、考え方は変わっても、親子兄弟の関係は変わらないというのと同じです。

そのくらい「ああ、なるほど」という感覚は大切なものだと思います。

しかしながら。

この「ああ、なるほどなぁ」という感じ方というのは、キチンと学習していかない限り感じ取れない「感覚」なんでしょうね。

だから「ああ、なるほどなぁ」という喜び自体を、あまり感じずに生きてきてしまった人も、それなりにたくさんいてると思うのですよ。

それがやっかいだなぁと思うのです。

たとえば、「●●は○○ということになっている」という英語と日本語の割り当てだけで納得してる人ですね。そういう人のほうが多いし、当たり前でしょう。

でもなぁ、それじゃ勉強はどんどんつまらなくなるのよなぁ。何より「ああ、なるほど」という最上の快感は得られないんですよねぇ。

この数年で、いちばんやっかいだなぁと思ってきたのは、そういうことですね。
こればっかりは自分で学習しないと味わえないもんなぁ。
しょうがないと言えばしょうがないけど。

ためいきがでます。

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