スピリチュアルな人生に目覚めるために―心に「人生の地図」を持つ
2005年1月3日 ■倫社の帝王
ISBN:4101189218 文庫 江原 啓之 新潮社 2003/10 ¥500
去年の春あたりからずっと「倫社の帝王」を書きかけのままにしてたので、その続きを書こうと思うんですが、どうにも基本的な「宗教」の話の入り口だけで話しが止まってしまうんですな。
なんでそうなるかというと、純粋に論理とか倫理という価値中立的なところで論議されずに、感情的というか、単なる反発心だけで「この人、変」とか言われそうな気がするからなんです。
で、どうしてそういうことになるのかが、いまいちよく分かってなかったんですが、この江原さんの本を読んで、自分の中でひとつの納得が生まれたのです。
一言で言うと、「宗教と霊の世界は全然別物」ということが、スキッと理解できたからです。
やはり宗教というのは宗教学というか、社会学とかの学問的に捉えないと日本人である僕には理解しにくいんです。
逆に言うと一神教の世界は、はっきりとは良く分からないですが、そうとうにキチンと「考え方の体系」として確立されている、ということなんですね。
でも、日本人には、この「考え方の体系として確立されている」ということ自体がわからない。
宗教が「考え方なのだ」という点で、もう理解不能だと思うのですよ。
逆に宗教について語った瞬間に「こいつは霊的なあやしい世界に首を突っ込んでいる人間か?」という色眼鏡で見られてしまう。
いや、違うんよ、それは。
と言いたい。
言いたいのだけども、日本人特有の多神教的考え方だと「宗教なんてええかげんでテキトーなもんや」程度の認識しかできなくなるので、やっぱり霊的な事柄と宗教とか不可分になってしまうんよなー。
ごっちゃまぜ。
ちゃうっちゅうに。
そこをごっちゃまぜにしてるからアカンのに。
ということで、その「あやしい」霊的体験の急先鋒というべき江原さんの本を読んでみたわけですわ。
すると、これが実に納得行く。
「ああそうか」とわかる。
江原さんも、この宗教と霊的体験のごっちゃまぜ状態に困ってる人だったわけです。
江原さん曰く「霊の世界は実在します。でもそれは外国みたいなもので、現世の人間には知覚できない。だから、霊界とのやりとりを一手に引き受ける商社みたいな存在が必要になってきて、それが宗教です。」と書いておられる。
あー、わかりやすいなー、これ。
って思うのよ。
江原さん曰く「だから霊的体験と宗教とは全然別のものです。」と言うわけ。霊的体験というのは直接海外に行くようなものなんだって話で。
そうよそうよ、それよそれ。
私はね、海外に直接行く話は全然する気はないんですよ。
そうではなくて、商社の違いを正しく知っておきましょうってことなわけです。
で、日本には、その「商社」の存在すらないに等しいというのが実際のところなんですから。
たとえばお笑いの話で言うと、関西のお笑いだとなんでもかんでも「ヨシモト」とか思われるけど、実際には吉本も松竹もあるわけですよ。だから「鶴瓶とかオセロとかアメリカザリガニとか、吉本は強いね」とか言われたら「それはみんな松竹じゃ」とか言いたくなるでしょ。
前に一度テレビのテレホンショッキングで、誰だか東京のタレントが「関西の吉本系のタレントさんはすごいですよね、鶴瓶さんとか上岡さんとかノックさんとか、みんな人気ありますし。」とか言ってた。全部吉本と違うやんけーって思った。なんやねんそれはと。
で、日本人の宗教観というのは、この吉本と松竹その他との区別もついてない関東のタレントよりひどいレベルなわけですよ。個々の宗教の基本的な違いもわかってない。
で、宗教はお笑いタレントとはわけが違うわけですよ。宗教観というのは、人間の生き方とか価値観の基礎の基礎の、そのまた基礎、大前提を決定しまくってるわけですから。
これを知らずして何を語ることもできゃせんのです。それこそ、世界レベルでの社会の動きを、それなりに理解しようと思ったら、まずこの宗教観をキチンと知るというところからはじめなきゃしょうがない。
そうしない限り、多分日本人の多神教的な素朴な感覚だけでは、世界のシビアな動向など理解したり読み取ったりできるはずもないわけなんですね。
いや別に「語る」とかまで行かなくてもいいのだ。
日本には世界の宗教の考え方が勝手に流れ込んできていて、それに一般人が翻弄されて精神的にダメージを受けているって部分もあるから、ちょっと他国の宗教について「客観的」に理解するだけで、そうとうに気持ちが楽になるし精神的な平安を得ることも可能なわけですよ。
ここが一番重要なんだよねー。
でも、これがわかってないって人が、これまた多い。
で、不安だから「バカの壁」に走る。「多神教が良いんだ」という「自分の文化にひきこもれ」という内容ですわな、あれ。
アカンってそれでは。
いつまでたっても心の平安は得られんっちゅうに。
自国の文化と他国の文化を冷静にちゃんと見極められる目を持たないと。なんでもごちゃまぜで、それで「多神教でござい」では日本人の心の不安定はいつまでたっても治らん。
ちゃんと多神教と一神教くらいは区別して理解せんと。
一神教の人間は多神教なんて原始的で未整理な遅れた宗教としか思ってないし、事実そうなのですよ。それは一神教でないと、商社として成立しないというか、そういうことなわけです。
で、そりゃまぁ確かに霊的体験で言えば、海外まで直接行けば何事でも真実はわかるかも知れませんが、そんなものは特殊な人にしか体験できないし、何も現世にいながら霊界のことを知らなければならなということもないわけですよ。
心が平安に暮らせればそれでいいんだから。
だからちゃんとした商社がある国は、まぁ押しなべて多くの人が安定した心の平和を供給してもらえてるというようなことなわけです。
日本には、この商社がない。それは多神教だから。家庭内手工業でとどまっているのが日本の宗教だから、です。
だから何です。国を司る政治を「心の外の政治」とするなら、宗教というものは「心の内面を司る政治」と考えてもいいわけです。
そういう捉え方をしないと全然駄目なわけ。
「イスラム教は目には目を歯には歯をとか言うやん。あーこわいこわい」とか言うてても、何の意味もあれへん。なんでそういう言葉が生まれてきたかの背景を「知識」として知っておかないと。
そういう根本的なことが、みんなわかってないと思うのよねー。
で、そういう「霊と宗教の完全分離」というのを、キチンと指し示してくれた、という意味で、この江原さんの本はなかなかおもしろかったんですね。
私的には去年読んだ中でも、そうとうに影響力の大きかった本でした。
ちなみに、「霊」の世界においても日本は遅れてるのよなー。江原さん、イギリスで霊媒師修行してきてるんよな。で、「ははぁ、なるほど。霊そのものの存在証明をするという、そういうやり方があったのか。」と感心してしまいました。
駄目駄目よ、ほんと。日本の内側だけ見てても。ほんと。
去年の春あたりからずっと「倫社の帝王」を書きかけのままにしてたので、その続きを書こうと思うんですが、どうにも基本的な「宗教」の話の入り口だけで話しが止まってしまうんですな。
なんでそうなるかというと、純粋に論理とか倫理という価値中立的なところで論議されずに、感情的というか、単なる反発心だけで「この人、変」とか言われそうな気がするからなんです。
で、どうしてそういうことになるのかが、いまいちよく分かってなかったんですが、この江原さんの本を読んで、自分の中でひとつの納得が生まれたのです。
一言で言うと、「宗教と霊の世界は全然別物」ということが、スキッと理解できたからです。
やはり宗教というのは宗教学というか、社会学とかの学問的に捉えないと日本人である僕には理解しにくいんです。
逆に言うと一神教の世界は、はっきりとは良く分からないですが、そうとうにキチンと「考え方の体系」として確立されている、ということなんですね。
でも、日本人には、この「考え方の体系として確立されている」ということ自体がわからない。
宗教が「考え方なのだ」という点で、もう理解不能だと思うのですよ。
逆に宗教について語った瞬間に「こいつは霊的なあやしい世界に首を突っ込んでいる人間か?」という色眼鏡で見られてしまう。
いや、違うんよ、それは。
と言いたい。
言いたいのだけども、日本人特有の多神教的考え方だと「宗教なんてええかげんでテキトーなもんや」程度の認識しかできなくなるので、やっぱり霊的な事柄と宗教とか不可分になってしまうんよなー。
ごっちゃまぜ。
ちゃうっちゅうに。
そこをごっちゃまぜにしてるからアカンのに。
ということで、その「あやしい」霊的体験の急先鋒というべき江原さんの本を読んでみたわけですわ。
すると、これが実に納得行く。
「ああそうか」とわかる。
江原さんも、この宗教と霊的体験のごっちゃまぜ状態に困ってる人だったわけです。
江原さん曰く「霊の世界は実在します。でもそれは外国みたいなもので、現世の人間には知覚できない。だから、霊界とのやりとりを一手に引き受ける商社みたいな存在が必要になってきて、それが宗教です。」と書いておられる。
あー、わかりやすいなー、これ。
って思うのよ。
江原さん曰く「だから霊的体験と宗教とは全然別のものです。」と言うわけ。霊的体験というのは直接海外に行くようなものなんだって話で。
そうよそうよ、それよそれ。
私はね、海外に直接行く話は全然する気はないんですよ。
そうではなくて、商社の違いを正しく知っておきましょうってことなわけです。
で、日本には、その「商社」の存在すらないに等しいというのが実際のところなんですから。
たとえばお笑いの話で言うと、関西のお笑いだとなんでもかんでも「ヨシモト」とか思われるけど、実際には吉本も松竹もあるわけですよ。だから「鶴瓶とかオセロとかアメリカザリガニとか、吉本は強いね」とか言われたら「それはみんな松竹じゃ」とか言いたくなるでしょ。
前に一度テレビのテレホンショッキングで、誰だか東京のタレントが「関西の吉本系のタレントさんはすごいですよね、鶴瓶さんとか上岡さんとかノックさんとか、みんな人気ありますし。」とか言ってた。全部吉本と違うやんけーって思った。なんやねんそれはと。
で、日本人の宗教観というのは、この吉本と松竹その他との区別もついてない関東のタレントよりひどいレベルなわけですよ。個々の宗教の基本的な違いもわかってない。
で、宗教はお笑いタレントとはわけが違うわけですよ。宗教観というのは、人間の生き方とか価値観の基礎の基礎の、そのまた基礎、大前提を決定しまくってるわけですから。
これを知らずして何を語ることもできゃせんのです。それこそ、世界レベルでの社会の動きを、それなりに理解しようと思ったら、まずこの宗教観をキチンと知るというところからはじめなきゃしょうがない。
そうしない限り、多分日本人の多神教的な素朴な感覚だけでは、世界のシビアな動向など理解したり読み取ったりできるはずもないわけなんですね。
いや別に「語る」とかまで行かなくてもいいのだ。
日本には世界の宗教の考え方が勝手に流れ込んできていて、それに一般人が翻弄されて精神的にダメージを受けているって部分もあるから、ちょっと他国の宗教について「客観的」に理解するだけで、そうとうに気持ちが楽になるし精神的な平安を得ることも可能なわけですよ。
ここが一番重要なんだよねー。
でも、これがわかってないって人が、これまた多い。
で、不安だから「バカの壁」に走る。「多神教が良いんだ」という「自分の文化にひきこもれ」という内容ですわな、あれ。
アカンってそれでは。
いつまでたっても心の平安は得られんっちゅうに。
自国の文化と他国の文化を冷静にちゃんと見極められる目を持たないと。なんでもごちゃまぜで、それで「多神教でござい」では日本人の心の不安定はいつまでたっても治らん。
ちゃんと多神教と一神教くらいは区別して理解せんと。
一神教の人間は多神教なんて原始的で未整理な遅れた宗教としか思ってないし、事実そうなのですよ。それは一神教でないと、商社として成立しないというか、そういうことなわけです。
で、そりゃまぁ確かに霊的体験で言えば、海外まで直接行けば何事でも真実はわかるかも知れませんが、そんなものは特殊な人にしか体験できないし、何も現世にいながら霊界のことを知らなければならなということもないわけですよ。
心が平安に暮らせればそれでいいんだから。
だからちゃんとした商社がある国は、まぁ押しなべて多くの人が安定した心の平和を供給してもらえてるというようなことなわけです。
日本には、この商社がない。それは多神教だから。家庭内手工業でとどまっているのが日本の宗教だから、です。
だから何です。国を司る政治を「心の外の政治」とするなら、宗教というものは「心の内面を司る政治」と考えてもいいわけです。
そういう捉え方をしないと全然駄目なわけ。
「イスラム教は目には目を歯には歯をとか言うやん。あーこわいこわい」とか言うてても、何の意味もあれへん。なんでそういう言葉が生まれてきたかの背景を「知識」として知っておかないと。
そういう根本的なことが、みんなわかってないと思うのよねー。
で、そういう「霊と宗教の完全分離」というのを、キチンと指し示してくれた、という意味で、この江原さんの本はなかなかおもしろかったんですね。
私的には去年読んだ中でも、そうとうに影響力の大きかった本でした。
ちなみに、「霊」の世界においても日本は遅れてるのよなー。江原さん、イギリスで霊媒師修行してきてるんよな。で、「ははぁ、なるほど。霊そのものの存在証明をするという、そういうやり方があったのか。」と感心してしまいました。
駄目駄目よ、ほんと。日本の内側だけ見てても。ほんと。