「あたりまえ」という強さ。
5月の連休明けに、任天堂のWiiを買いまして。

操作性そのものの面白さには目をむいたというか「こりゃすごい!テレビMacや!」とか思ったものの、ゲーム自体は全然ちーとも面白くないので、いまやニュースと天気予報確認マシンにしかなってないんですが。

ただ、Wiiの機能の中に「みんなで投票チャンネル」というのがありまして、これだけがやたらとおもしろくて、ずーっと楽しんでおるのであります。

いったいどういうものかというと、Wiiのインターネット接続機能を使って、日常のなんでもないことについて、「どっちが多いと思う?」というのを、Wiiを持ってる人みんなで投票して、確かめるというそれだけの事なんですが、これがさすが任天堂だから日本全国版と、全世界版とがちゃんとできてしまってるのですよ。

ああ、やっぱり普及率が違うよなぁ、って思うわけですが。

で、最近おもしろかったのは、その「ワールド・アンケート」の方で、

●将来の夢はある?

っていうのがあったのであります。
この質問項目を見た時に思ったのは「アホちゃうん? 持ってるに決まってるやん! 聞くまでもないやん! なんや?この質問? あ、そうか、これは日本のスタッフが考えた質問だから、多分世界中の人がみんな将来の夢を持っているというのを、日本のスタッフだけ分ってないのかも。」と思ったわけです。

で、「将来の夢はある」に投票して、予想項目も「将来の夢はあるの方が多い」に投票したわけです。そんなもん、聞く方がおかしいというくらいに当然ですわな。

こういうアンケートは「どっちが多いかわからない」というものを尋ねるからこそ面白いと思うのだけど、これはあまりに答えが見えすぎていてつまらなかった。でも、なんでこんな設問を設定したのかなぁ?ってことなんですよ。

で、フタを開けてみたら、案の定80.3%対19.7%で、「将来の夢はある」が圧倒的に多い。

あたりまえやん!

とは思ったのですが、「でも、これ国ごとの細目はどうなってるのかな?」と思って確認してみたわけです。
この「みんなで投票チャンネル」は、そういう国別表示とかの機能も持ってますんでね。

この場合だと、「将来の夢はある」に投票した人が多い順に画面に全世界29か国(Wiiのサービスが提供されてる国ってことでしょうね。)がズラリとテレビ画面にならぶ、という訳です。(写真を掲載したので、ぜひご覧ください。)

で、見てみたら、これまた、あまりに予想通りに日本が下から二番目という低率。「あー、やっぱりそうかぁ…。」と予想していたとはいえ、あまりの「夢のなさ」にイヤになってしまいましたね。
(ちなみに最下位はオーストリア。どうなってるんやろ。オーストリア。日本よりひどいとなると、かなりひどかろう。他人事ながら心配になってしまう。)

これ、具体的数字は出なくて、国ごとに左右に伸びた棒グラフで示されるだけなんですが、最下位の3国、ドイツ・日本・オーストリアだけガクンといきなり率が下がるのが、これまたショックで。ヒトラーの影響のあったドイツとオーストリアであり、天皇の日本ですわなぁ。うーん。あまりに端的すぎる。

順位を見てると面白いのはブラジル・メキシコ・ペルーとか暖かい南米が上位で、まさにラテン系で、スウェーデン・アイルランドと寒い国ほど順位が低いっていう「温度差」がそのまま順位になってるような形になってるってことなんですね。面白いなぁ。

それでも、1位のブラジルが「持ってない人」10%くらいで、26位のスイスで20%強なのに、ドイツ・日本・オーストリアだけが、いきなり30%を超えてるし、日本・オーストリアは、40%に近いくらい「夢を持ってない」人が多い。

飛抜けて夢のない国だ、って事ですね。我々の国は。

ここのところをね、勘違いしないで欲しいよなぁって思うのですよ。「夢を持ってない」のがアブノーマルなのであって、夢があるのが圧倒的に「当たり前だ」って事なんです。

「夢なんかなくても当たり前」とか思わないで欲しいんですよね。

確かに日本は保護政策が充実「してた」し、その保護政策のおかげで何も考えなくても生きていけるようになって「ました」。(すでに過去形ですがね。残念ながら。)
僕はそういう保護政策そのものは日本らしいやり方として高く評価してるんですけど、それでも何がノーマルなのか、という事くらいは意識しておいて欲しいって思うわけです。

ひとりひとりの人間が国の体制などとは関係なく、力強く生きていて、その自分の生き方自体に活力があるから、「将来の夢がある」という事になるんだという事が、やはり、まず当たり前の事実なんだってことですね。

でも日本の場合はこのアンケートのように夢のあるなしの比率が6:4と、拮抗しているかのように見えてしまうわけです。日本国内の感覚だけを頼りにしてるとそうなってしまうんですね。

6:4に近い7:3という感じの結果だけを見ると「夢がある人もいて、ない人もいて、人間いろいろが当たり前やん」という気にもなってしまうわけです。だから「夢がなくても当たり前」とか思ってしまうんですね。

日本という国の状況は、そういう状況なんだと思う。

でも、それはやっぱり間違いで、「夢がないのはアブノーマル」と考えた方が良いわけです。日本のいまの状態は、やっぱりまともではないから。多分、日本では無宗教がふつうということになってたりするから、こういう結果になるんだと思うんだけど、そこは正しく認識して欲しいなぁって強く思いますね。

このあたりはまさに、

●幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである。
(トルストイ「アンナ・カレーニナ」)

の代表例ですから。

夢があるから幸せに感じるのだし、夢がなければ生きていて辛いんです。こんな事は当たり前で、わざわざアンケートを採るようなことでもないんだとおもいます。通常、「夢がない」という人を見たら「ああ、それは生きづらいやろね。なんか将来への夢を見つけないと不幸だよ。」という反応があたりまえなんです。で、それは夢がない人を蔑んでいるんではなくて心配してるわけですよ。夢を持ってるのが普通なんだから。

夢なんて、そんなに大それたものではなくて、たとえば「ちょっとおなかをへっこませたい」とか、「健康に、普通に生涯をまっとうしたい」とか、「日々できるだけ笑顔で毎日を過ごしたい」とかで充分なわけです。そういう、すぐに手に取れるような事をキチンと願うことこそが、本当に大事な夢なんですよ。

それこそ、ばくぜんと「ずっと幸福でいたい」でも充分だろうし。別に「納税額日本一になるくらいの大金持ちになりたい」とか「ホノルルマラソンで優勝したい」とかでもかまわないし、夢は大きい方が良いのは良いけど、まずは「幸せになりたい」とかでいいんだと思う。誰だってそう思ってるし、それを実現するために努力してるわけだから。

良くないのはやっぱり無気力だと思うのですよね。「子供も作ったし、残り人生絞りかすみたいなものだ」とかは、やっぱり「アブノーマル」です。

たしかに日本は、それが「アブノーマルである」と気づけないような環境ではあるんですよ。でも、アブノーマルはアブノーマルなんです。ノーマルではない。概略、それはちょっとおかしいと思わないといけない。

このあたり「茶封筒の論理」と僕が呼んでいるものと、とても重なるところが大きいと思うのです。

どういう事かというと、広告や販売促進の仕事をしていると、時折、「封筒を独自のサイズで格好良くデザインしてお客さまにアピールしたい」という事を考えるお客さんが出てくるんですが、「いやー、それは普通の茶封筒のままにしといた方が良いですよ。」と説得する事が多い事から名付けた法則なんです。

茶封筒というのは、専用の機械で大量に作ってるんですね。だから安いんです。で、お客さまとのやりとり、コミュニケーションというものが頻繁なほうが、商売としては順調ということなわけです。繰り返し行う事ですから。

だから、「個性的な封筒」なんてものを作ったら、茶封筒の30倍くらいの値段になって、とんでもない価格にはねあがって、肝心の得意先さまとのやりとりそのものがしにくくなってしまうわけです。

だからこそ、いろいろな企業で、あたりまえのように普通の茶封筒を普通に使っているし、大事なのはその中に書かれている「内容」なのだから、封筒を独自に作るなんてことは、あまりやらないのです。

普通の事というのは、ダサイとか、かっこ悪いとか思いがちだけど、そんなことは決して無くて、当たり前の出来事が、当たり前に存在するようになった、当たり前の確かな理由というものがあって、その「当たり前の強さ」こそが、この世の現実を動かしている強さなのです。

そういう「あたりまえの強さ」をわかっている人間から見ると、広い世間を分ってない人が「夢のある人もない人も半々くらいだろう」とか思ってる事自体に、「そんなアホな考え方はちょっと改めた方が良いんじゃない?」と忠告したくなってしまうわけですよ。

で、「夢がないのはアブノーマルだよ」って僕は思うし、そう教えてあげたりするんだけれど、たとえば「夢がある人もいて、ない人もいて、人間いろいろが当たり前やん」とか思ってる人や、「子供も作ったし、残り人生絞りかすみたいなものだ」とか平気で言う人は、僕が「そういう夢がないのはアブノーマルなんだよ」と言うと、バカにされたとか、個性を否定されたとか、蔑まれたとか、そういう風に感じてしまうのですよね。困ったことに。

いや、そうではなくて、「そういう考えに染まっていると言うこと自体がとても不幸な事なんだよ」「その考えこそを改めないと健康な幸福は手に入れにくいよ」っていう忠告なのだっていう事自体が見えないんですね。ほんと。困ったことです。

結局、「夢がある」と「夢がない」というのが6.5:3.5くらいの日本にいて、世界のこの圧倒的な状況を知らないままでいると、「6.5:3.5ならほとんど6:4だし、やっぱりまぁ夢があるのとないのとでは、半々とは言わないまでも、多様性のひとつと考えて良いよね。いろいろあるのが幸せだもの。」というおろかな判定にしか行き着かないわけです。

そういう考えは、「自社独自サイズの封筒を作れば、とても良い宣伝になる」と思ってる人と同じ種類の間違いをやってるって事なんです。ようは、

●誰もにとって幸せになる事は、みなが同じように実行する。

って事なんですよ。で、それはとても幸せなことで、ありがたいことで、うれしい事で、素敵な事なわけです。決してダサイ事でも、かっこ悪いことでもない。無個性なわけでもないし、非人間的な事でもない。

●誰もにとって幸せな事は、誰にとっても幸せである。

当たり前だけど、そういう事なんです。それが「当たり前の強さ」というものであって、それをバカにしていたら、決して幸せにはなれないんですね。
だからやっぱりトルストイの言う、

●幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである。

という言葉はとても強力だってことなんです。「私の知らない所に、私の知らない正しさがあるなんて信用できません。」と、つい思ってしまうかもしれないけれど、それは単に「知らない」からであって、それ以上でも以下でもないのです。知れば幸福になれるのでして、学習するというのは、そういう「当たり前を知る過程」でもあるのです。

実際、日本でだけ、「夢があるのも、夢がないのも半々だ」とか思ってるって、かなり異様な気がしませんか? 僕はします。
このグラフをしっかりと見つめて欲しいなぁと、僕は強く思うのでした。

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