法とは何か。

2006年3月17日
ちょっと書く。

法律には刑法と民法があります。

刑法は、国家公務員をしばる法律で、これはもともと「国」というものが強大な力を持っているから、その制限のために安全弁として設けられたものです。
(憲法も国家公務員を縛る法律です。国民は別に憲法を守る必要はありません。ここ勘違いしないように。人間は生まれながらにして自由です。)

リヴァイアサンの話その他、西欧の歴史を学習すれば、このあたりは理解できます。(本当はウソ。市民とは何かとか王とは何かとか、国家が成立してきた成立史がわかってないと理解できないです。ほんとは。)

それから民法の方は、国民と国民の間の争いごとを、いつまでも長引かせたりしないように線引きのルールとして定められたもので慣習法に従うというのが大前提であり、現実問題としては、解決策として「お金」に変換できるかどうかが判断基準になることが多いでしょう。

こういう近代的な法律の仕組みを、日本は明治の時に海外から輸入してきました。なので、実はもともと、ものすごく無理があります。

民法などは慣習法なのですから、江戸時代の判例を元に細則を決めていけば民衆の納得する民法も作れたはずなのですが、いかんせん、江戸時代の判例では、資本主義の根幹を成す「所有」の概念がキチンと成立しないのですね。つまりお金で解決するという一つの近代的な線引きができなくなるわけです。

単純に言い切ってしまえば、国民間のもめごとのすべては、「損害賠償請求ができるかどうか」で判断するしかありません。実はそれが近代国家だ、ということなのです。

価値観は多様であり、その価値観のどれかに国なり裁判所なりが荷担することはできませんから、「常識や慣習に照らしあわせてみて、損害額はいくらになるか?」という判断をするというくらいしかできないのです。

これが法律の基本の基本です。

こういう事は学校では教えてくれませんが、社会に出ると、おぼろげながらに理解してきます。

で、人によっては自分の価値観と、世間の判断にズレが生じた時など、精神的に不安定になりますから、自分の心の安定のために、こういう大枠での概念をキチンと学ぶ、ということをします。

で、こういう大枠での概念を勉強してない人は、ずっと不安なままになってしまいます。

なんでずっと不安なままになってしまうかというと、たとえば民法なんかは、江戸時代の判例が使えなかったので、フランスだったかドイツだったかの民法をそのまま持ってきて、それを翻訳して使っているからなんですね。

本来「慣習」を法律として明文化していく、地道な積み重ねが必要な作業を、いきなり翻訳でごまかしたわけです。

なので、日本の民法、つまり明治以降の「法の裁き」というものは、国民生活の実感とすごくかけ離れていたわけです。

まぁさすがに100年以上経っているので、離婚とかそういう基本的なもめごとに関する判例はたくさん揃っていて、「現場処理」でそれなりにうまく行くようになってきた気はします。

「行列のできる法律相談所」なんかは、そういう積み重ねの結果でしょう。

ともあれ、日本においては、民法というものが「実感を伴わない法律」だったおかげで、法の活用という大事なことが全然理解されていないと思うのです。

民法などは、もともと生活に根ざした「判断集」であるべきものですから、とにかくなんでも法に照らして上手に活用すれば、やたらともめることなく利害の調整ができて良い、というものが法というものの良い側面なのです。

しかし、その民法が「外国の習慣の翻訳物」だったというとんでもなさのおかげで、日本においては法というのは、それこそお題目になってしまいまして、「法に訴えずに示談ですます」というのが正しいあり方、常識ある態度って感じになってしまった。

ここのところが、日本が近代化するにおいて不幸だった点です。

これに加えて、大学がキックアウト制(入学するのは簡単だが、試験・レポートが毎週のようにあって、卒業するのは至難の技という制度)を導入せずに、中国の科挙を真似て「入学するまでが大変」という仕組みにしてしまったのが日本の大学制度なので、こういう法の仕組みの基本理解をしている「大人」自体が非常に少ないですし、また正しい知識を持っている人を正しく判断する手段・方法そのものがなくなってしまったのです。

大学がキックアウト制であれば、「●●大学卒」という言葉は、非常に大きな重みを持ちますので、その人が「これこれのルールはこういう過程と目的のために作られた」などと言えばそれは社会全体に認められ、キチンと定着するのです。つまり権威主義が正しく成立する。「権威」ある人に実力がちゃんと伴うってことですね。

なので、キックアウト制を入れている欧米では大学で政治学を学んだ人が政治家になるのは当然で、そういう人が「法」を作っていくわけです。
実にわかりやすくまっとうな仕組みでしょう。

しかし日本においては、大学がキックアウト制でないがゆえに、「学者ごときに何がわかるねん」と民衆が学問を「権威」として認めない。社会的拘束力がないんですね。
(何より実際、大学の教授の多くが全然「実力」がないという側面もまたあって、それが困りものではあるんですが。)

なので、日本では学者で政治家というのは、あまり民衆から信用されない。あまつさえ「学者に政治は無理だよ」とかの暴言が出まくり、かつ説得力を持ったりするわけです。

日本で学者出身の政治家が選挙で通るというのは、よっぽどのことなのです。(そういう意味でいくと、あの竹中のヘイ公は、本来日本人からは支持されないはずなんだがなぁ。なぜか大臣にまでなっちまってる。アメリカの裏工作があったとしか思えないのよ、私には。)

ということなので、平均的日本人の場合、あまり勉強もせずに法を守るとかルールを遵守するということの正しい判断を、キチンと考えるということに関しては、まぁ基本、「無理」と考えたほうがいいんですな。

我々にできるのは、そういう事とは別に、我々日本人にもともと備わっている日本文化(和=輪の文化で、回りに合わせるのを良しとする文化)を頼りに、中国で生まれて、もう何百年にもなる儒教の「礼節」あたりを、判断基準にするぐらいしか実感のともなった判断はできないわけです。

で、これがまた、儒教と欧米のルールとは、ある程度互換性もあるんだけど、日本文化の中に溶け込んだ「儒教」は、それこそ骨抜きですから、これまた形骸化していて「基本方針」みたいなものはないんですね。

なので、まぁ「礼儀・しきたり」とかそういうことくらいしか、日本には守るべき生活に根ざしたルールがない。

誰かが、日本の現実の法は「冠婚葬祭入門だ」とか言ってましたが、言い得て妙なんですね。
裁判所や弁護士とかでも、多少は「冠婚葬祭入門」を参考にするんじゃないかしらん。

日本には新約聖書もタルムードもコーランもない、明文化された倫理書がないので、そういう事になるわけです。

とまぁ、ここまで大枠の理解をまずやっていただいて、ですね。

それから法や犯罪、その予防・防止、ってことを考えないと、日本においてはまともな発言っていうのはできないわけですよ。

ちゅうのは、法律の体系自体、欧米からいきなり移植しただけのものを、なんとか100年くらいかけてえっちらおっちら応用してきた程度でしかないから、なんですね。
裁判官も警察官も、とにかくそういうわけのわからん、実感のない法律をどんどこ頭に入れて、それで動いていくしかないわけです。

まぁ、江戸時代に300年、海外との交流を絶っていたわけですから、正直言って、いまの日本人自身、欧米の文化のほんの上っ面しか知らないわけです。

なので、そういう事もわかってないのに犯罪がどうとかうんぬん言うのは、あんまり賢くないわけですよ。

特にコンピュータ関係の問題は日本人に判定することすら無理だと思うね。パソコンの生産は地球規模ですから、これはどうしても世界の常識を、まず「規範」として学ばないとしょうがないんです。どうせ、それに合わせてしかPCの世界は動かないから。

ということなんで、たとえばウィルス対策ソフトなんかに関しては、私はまだまだ、まだまだ、まだまだ様子見ですね。ウィルス対策ソフトを作っている会社もほとんどはアジアの会社でアメリカではノートンくらい。

なによりあれは、本来「自分で対応策を取る」のが本来の姿であるPCのセキュリティを、専門家にまかせて、それでお金を支払う、運転手を雇うようなサービスですから、どこまで行っても「特別サービス」なんですね。

パソコンのセキュリティの大基本は「自分のデータは自己責任でバックアップを取っておく」です。バックアップを取れるようにコピーが自由にできる「仕組み」が用意されてるわけですから。

また、「データが消える」というのも、勘違いしてはいけませんが、もともと「消えるように作ってある」わけですね。メモ用紙で不要なメモはちぎって捨てられるのと同じ仕組みです。

なので、データが消えても、それは「自分の責任」で、誰に損害賠償請求もできません。一切無理ですから。つまり「法」として取り扱えないのです。

あまりに勘違いがはげしい人が時折いますので、はっきり書いておきますが、ウィルスに感染して自分のパソコンが「踏み台」にされた場合は、感染した人は「被害者」であって「加害者」ではありません。ここを勘違いしてる雑誌とか多いんだけど、これも上記のような日本特有の「法事情」があるからでしょうね。

まぁ、ウィルスが蔓延すると、たとえばネットワーク負荷が落ちてしまって社会的に大きな迷惑をこうむりますから、その責任のすべては、他者のパソコンを「踏み台」にしてまで感染していくようなプログラムを作った作成者に責任があります。

社会的な迷惑のすべての責任は、そのプログラム単体にあるわけで、たとえばウィルス作者が逮捕されるというのは、「社会的に大きな不利益を発生させた」ということから、「そういう作者を放置しておくとみんなの迷惑になる」ということで、国民の利益を守らねばならない国が国民を代表して逮捕する、ということでしょう。刑法の範囲ですね。

しかし、この「刑法」としての罪が成立するためには、たとえばウィルスが勝手にだれかのパソコンにとりついて、自己増殖するということの「責任」を、すべて、その一切合切を、犯人に持たせないと、取り締まれませんわね。一億台に感染したから、一億台の被害。これは民法みたいに個人が損害賠償請求するような事柄ではありません。だから国とかが動いてもらわないといけない。

これを「利用者がウィルス対策ソフトを入れれば拡大は防げた」としてしまったら、「ウィルス拡大の責任は一人一人にある」ってことになってしまって、民法の話になってしまって、警察は民事不介入、犯人逮捕ができません。

そんなアホな! なんですよ。
そんなアホなことがあってたまるかってことですね。
まず、ウィルス作った奴を捕まえてくれってことですわ。

だから、雑誌とかで時たま「加害者にならないためにもウィルス対策ソフトを入れましょう」とか書いてるのがありますけど、あれは単なる勘違いなんです。

でも、そう勘違いするのよなぁ。「回りに迷惑かけないでおこう」というのが日本人の美しい文化だし、それは守りたいし。だから「礼儀」としてウィルス対策ソフトを入れるというのは、まぁ有りかなぁとは思うんだけど、でもまぁ「礼儀」までの範囲ですわなぁ。

なんと言っても、日本は東洋の片隅の、まだ一神教すら生まれていないガラパゴス島みたいな国ですから。「倫理」とか「宗教」とか、そういう「判断の根っこ」みたいなところの「実感」がね。普通人のレベルが世界の標準と全然違う。

そこを頭に置いておけるかどうか、なんだよなぁ。

そうでないといろんなことに対して「日本独自の礼儀」をあてはめて理解して、イライラするとかしなくてはならなくなるんですね。

これが高ずると、「中高年の自殺」にまで行ってしまうし、そのイライラは、ともすると子供に対する抑圧だとか虐待とかに形を変えて噴出してしまったりするんですね。

しかしこれが、ちゃんと勉強して、物事の仕組みを理解した上で「私は日本文化をこのあたりまで大切にし、ここからは世界標準の世界ルールに従おう」とかの自分なりの哲学にまで咀嚼できれば、イライラが起こることはないわけです。

逆に言うならイライラしてるのは勉強不足であり、自分が悪いってことです。

で、勉強すると、そういう仕組みが見えてきますからイライラも減ります。自分の成長がまず大事、というのはそういうことなんですね。

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