英語上達完全マップ―初級からTOEIC900点レベルまでの効果的勉強法
2006年4月11日 読書
ISBN:4860641027 単行本 森沢 洋介 ベレ出版 2005/10 ¥1,470
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4860641027/249-9767057-8485143
えー、今年の1月20日にも一度紹介してるんですが、
http://diarynote.jp/d/12917/20060120.html
また、再度紹介したくなったので書きます。
良い本は何度紹介しても良いと思うので。
というのも、私、この本を、最近ちょこちょこ読み直しというか、本のタイトルの通りに「マップ」のように自分の学習進度の確認のためにパラパラ開いているからなのです。
そう、この本は、まさにタイトルが示す通りに、「英語上達完全マップ」そのものなのです。
そこが実に素晴らしい。
英語を勉強するにあたって、どんな勉強をどんな段階でどのくらいやればいいのかを、キチンと「処方箋」として提示してくれているのです。それも、著者は英語の個人レッスンの教師の方で、たとえば音読なら一回に何度繰り返せば良いかという回数まで検証した上で「マップ」として提示してくれているのです。
ここまでていねいな学習書を、他に読んだことがない。
この本の内容はそうとうにレベルが高いです。
実は書籍の内容の80%はインターネットで公開されております。
http://homepage3.nifty.com/mutuno/
なので、上記のサイトを読めば、まぁほとんど、この本に書かれている勉強法の内容はわかってしまいます。
が、書籍版のほうには、実際にこの方の提唱する方法で学習した学習者の成長過程が著者によるレポート風に三人分紹介されていて、それが意外に役立つのと、
●手元に置いて地図のように繰り返し読む
という使い方を、本当に勉強しだすと、どうしてもしたくなるはずなので、書籍の購入をお勧めしたいのですね。
「音読パッケージ」という学習法だけを僕は三ヶ月毎日やってみただけですが、それでも二ヶ月半ほどしたら、「ええっと、これをやり終えたら、次は何をしなくちゃいけないのかな」とかは思うようになるわけですから。
実際僕は、英語の「学習法」に関する書籍は、それこそ山のように読んでいて、いままでに100冊をくだらない数の本を読んできてます。
しかし、いざ書いてある通りに学習をしようとすると、どれもこれも「言葉足らず」なんですね。どうやって勉強したらいいのかの、こまかい注意書きがない。
かと思えば、具体的なのはいいけれど、いきなり例文と音声データのCDだけ付いてきて「あとは勝手にやれ」とかのタイプの本も多いわけです。
そうではなくて、そういう教材を、どういう手順でどのくらいの回数繰り返して、次のステップに進む時の目安はどんなものでとか、そういうことが書いてないと実質勉強するのは無理なんですね。
TOEICで、600点なり、700点なり、900点なりを目指す。そこへたどり着くための方法・手順・目安がちゃんと書かれてないと、ただ迷うだけなんですね。
でも、この本には、その手順や目安がキチンと示されています。これは画期的なことです。
音読がいい、音読がいいと言われても、その音読が5回でいいのか、500回必要なのかそこがわからないわけですから。初心者は。
そこが書いてあるかどうかは、目的地への道のりが言葉でだけ伝えられているか地図になってビジュアライズされているかくらいに違います。
この本にはちゃんと「最低百回で、それを何度かに分けて読むサイクル法が良いです。そしてサイクルの一回目は最低30回。あとは徐々に減らしていきます。」という基準値が「マップ」として書かれてあるんですね。ここまで具体的に「道順」を示している書籍は、他になかったと思います。
また、TOEICの点数という客観的な基準値をもとに、何点まではこの学習をしてください、何点まではこういう事をしましょうという、おおまかなマッピングがなされているのです。
これが実に素晴らしい。
この本は、去年の10月の終わりに出ておりまして、ほぼ毎日のように本屋に出かけては何か良い新刊を探している私の目に止まり、その時点から読み始めて2週間ほどで練習を開始、そこから飽きずに音読練習を続けて三月の終わりにTOEICを受けて、自分自身で伸びを実感したという、そういう流れになってます。
まだ結果は届いてないですが、自分の内面的に、少なくとも50点やそこいらは伸びているという実感があります。(だって聞き取れた量が圧倒的に違ったんだもん。)
多分、ここからふたたびこの本の評価が上がって、再度平積みになってきたりするんじゃないかなぁ。実際に試して見た人の評価が出てくるから。この本は、まず間違いなく英語学習の定番書になります。ロングセラーになると思う。
僕なども、仕事をしながらの学習なので、どうしても一日に1時間前後の時間しか取れない訳ですが、それでも、そのわずかしかない時間だからこそ「役立つ」「実際に成績が伸びる」「機能する」学習法をチョイスすることが重要なわけです。
この本は、そのもっとも重要な点がキチンと押さえられているというのが素晴らしいわけです。
ここまで機能的に書かれてあると「もう10分なり20分なり、なんとか時間をひねり出して、勉強のスピードを上げたいなぁ」という気持ちも湧いてくるんですね。
課題が明示されているから、必要な時間見積りがそれなりに立てられるのです。
この本の場合はTOEICを基準値に採用して、その最低得点者(300点あたり)から、990点までの「マッピング」がされている。だから900点台に到達するまで、たぶんずっと参考にし続けることになると思うのですね。
まさに「マップ」です。
------------
学習においては、この「マップ」、全体観というものが、ものすごく重要なんです。
自分が北上しているつもりなのに、実際には西に向かってひたすら歩いていたとか、そういうことをしていると、永遠に望みの地点に到着できないわけです。
でも「マップ」、つまり全体観がキチンとあると、自分のモノの見方に歪みがないかどうかなどを確認していくことができるんですね。
簡単に言うと無駄がなくなるってことでもあります。
なので「全体観」はすごく重要なんです。
で、たとえば自分の人生の設計を行うには、人生の「全体観」が必要で、これを身につけるには歴史の勉強なんかが役に立ちます。
すでに歴史の流れというものは確定していますから、その流れの中で、誰がどんな判断をして、どう生きたかという話は、自分が生きる際の良い目安になります。
中年のおっちゃんたちが、やたらと司馬遼太郎の歴史小説を読んだりするのも、そういう全体マップを手に入れる作業なんですね。
まぁ司馬遼太郎の著作は、あくまでフィクションなので、マップとしては頼りないものではあるけれど、それでも何も読まずにいるよりは、はるかにマシでしょう。
しかし、この「全体マップを手に入れる」という事をせずに、自分の考えでなんとかしようとしてる人が多いですわね。
それって無駄だと思うんだよなぁ。
悪くすると堂々巡りにしかならないから。
東西南北が分ってない段階で、地図も持たずに現実をうろちょろしてても、そりゃ道に迷うだけでしょって思う。
でも、司馬遼太郎も読んでないような人の方が、世の中には多いのかも知れませんけどねぇ。
-----------
というくらいに「全体観」の把握は大切なので、実は「日本だけの見方」よりも「地球全体での大きなトレンド」をしっかり見据えるということがけっこう重要なことなんですよね。日本は地球の一部であって地域=リージョンにしかすぎないわけだから。
その意味でも英語の学習は大事だろうと、僕は思ってます。
あと西洋文化の歴史的流れの把握。
これが僕はまだまだできてないんだけど、まぁコツコツやるしかないしね。
----------------
ともあれ、まずは「全体像」、マップの把握。
それが大事なのです。
ということで、英語の学習に関しては、この本は、とってもお勧めです。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4860641027/249-9767057-8485143
えー、今年の1月20日にも一度紹介してるんですが、
http://diarynote.jp/d/12917/20060120.html
また、再度紹介したくなったので書きます。
良い本は何度紹介しても良いと思うので。
というのも、私、この本を、最近ちょこちょこ読み直しというか、本のタイトルの通りに「マップ」のように自分の学習進度の確認のためにパラパラ開いているからなのです。
そう、この本は、まさにタイトルが示す通りに、「英語上達完全マップ」そのものなのです。
そこが実に素晴らしい。
英語を勉強するにあたって、どんな勉強をどんな段階でどのくらいやればいいのかを、キチンと「処方箋」として提示してくれているのです。それも、著者は英語の個人レッスンの教師の方で、たとえば音読なら一回に何度繰り返せば良いかという回数まで検証した上で「マップ」として提示してくれているのです。
ここまでていねいな学習書を、他に読んだことがない。
この本の内容はそうとうにレベルが高いです。
実は書籍の内容の80%はインターネットで公開されております。
http://homepage3.nifty.com/mutuno/
なので、上記のサイトを読めば、まぁほとんど、この本に書かれている勉強法の内容はわかってしまいます。
が、書籍版のほうには、実際にこの方の提唱する方法で学習した学習者の成長過程が著者によるレポート風に三人分紹介されていて、それが意外に役立つのと、
●手元に置いて地図のように繰り返し読む
という使い方を、本当に勉強しだすと、どうしてもしたくなるはずなので、書籍の購入をお勧めしたいのですね。
「音読パッケージ」という学習法だけを僕は三ヶ月毎日やってみただけですが、それでも二ヶ月半ほどしたら、「ええっと、これをやり終えたら、次は何をしなくちゃいけないのかな」とかは思うようになるわけですから。
実際僕は、英語の「学習法」に関する書籍は、それこそ山のように読んでいて、いままでに100冊をくだらない数の本を読んできてます。
しかし、いざ書いてある通りに学習をしようとすると、どれもこれも「言葉足らず」なんですね。どうやって勉強したらいいのかの、こまかい注意書きがない。
かと思えば、具体的なのはいいけれど、いきなり例文と音声データのCDだけ付いてきて「あとは勝手にやれ」とかのタイプの本も多いわけです。
そうではなくて、そういう教材を、どういう手順でどのくらいの回数繰り返して、次のステップに進む時の目安はどんなものでとか、そういうことが書いてないと実質勉強するのは無理なんですね。
TOEICで、600点なり、700点なり、900点なりを目指す。そこへたどり着くための方法・手順・目安がちゃんと書かれてないと、ただ迷うだけなんですね。
でも、この本には、その手順や目安がキチンと示されています。これは画期的なことです。
音読がいい、音読がいいと言われても、その音読が5回でいいのか、500回必要なのかそこがわからないわけですから。初心者は。
そこが書いてあるかどうかは、目的地への道のりが言葉でだけ伝えられているか地図になってビジュアライズされているかくらいに違います。
この本にはちゃんと「最低百回で、それを何度かに分けて読むサイクル法が良いです。そしてサイクルの一回目は最低30回。あとは徐々に減らしていきます。」という基準値が「マップ」として書かれてあるんですね。ここまで具体的に「道順」を示している書籍は、他になかったと思います。
また、TOEICの点数という客観的な基準値をもとに、何点まではこの学習をしてください、何点まではこういう事をしましょうという、おおまかなマッピングがなされているのです。
これが実に素晴らしい。
この本は、去年の10月の終わりに出ておりまして、ほぼ毎日のように本屋に出かけては何か良い新刊を探している私の目に止まり、その時点から読み始めて2週間ほどで練習を開始、そこから飽きずに音読練習を続けて三月の終わりにTOEICを受けて、自分自身で伸びを実感したという、そういう流れになってます。
まだ結果は届いてないですが、自分の内面的に、少なくとも50点やそこいらは伸びているという実感があります。(だって聞き取れた量が圧倒的に違ったんだもん。)
多分、ここからふたたびこの本の評価が上がって、再度平積みになってきたりするんじゃないかなぁ。実際に試して見た人の評価が出てくるから。この本は、まず間違いなく英語学習の定番書になります。ロングセラーになると思う。
僕なども、仕事をしながらの学習なので、どうしても一日に1時間前後の時間しか取れない訳ですが、それでも、そのわずかしかない時間だからこそ「役立つ」「実際に成績が伸びる」「機能する」学習法をチョイスすることが重要なわけです。
この本は、そのもっとも重要な点がキチンと押さえられているというのが素晴らしいわけです。
ここまで機能的に書かれてあると「もう10分なり20分なり、なんとか時間をひねり出して、勉強のスピードを上げたいなぁ」という気持ちも湧いてくるんですね。
課題が明示されているから、必要な時間見積りがそれなりに立てられるのです。
この本の場合はTOEICを基準値に採用して、その最低得点者(300点あたり)から、990点までの「マッピング」がされている。だから900点台に到達するまで、たぶんずっと参考にし続けることになると思うのですね。
まさに「マップ」です。
------------
学習においては、この「マップ」、全体観というものが、ものすごく重要なんです。
自分が北上しているつもりなのに、実際には西に向かってひたすら歩いていたとか、そういうことをしていると、永遠に望みの地点に到着できないわけです。
でも「マップ」、つまり全体観がキチンとあると、自分のモノの見方に歪みがないかどうかなどを確認していくことができるんですね。
簡単に言うと無駄がなくなるってことでもあります。
なので「全体観」はすごく重要なんです。
で、たとえば自分の人生の設計を行うには、人生の「全体観」が必要で、これを身につけるには歴史の勉強なんかが役に立ちます。
すでに歴史の流れというものは確定していますから、その流れの中で、誰がどんな判断をして、どう生きたかという話は、自分が生きる際の良い目安になります。
中年のおっちゃんたちが、やたらと司馬遼太郎の歴史小説を読んだりするのも、そういう全体マップを手に入れる作業なんですね。
まぁ司馬遼太郎の著作は、あくまでフィクションなので、マップとしては頼りないものではあるけれど、それでも何も読まずにいるよりは、はるかにマシでしょう。
しかし、この「全体マップを手に入れる」という事をせずに、自分の考えでなんとかしようとしてる人が多いですわね。
それって無駄だと思うんだよなぁ。
悪くすると堂々巡りにしかならないから。
東西南北が分ってない段階で、地図も持たずに現実をうろちょろしてても、そりゃ道に迷うだけでしょって思う。
でも、司馬遼太郎も読んでないような人の方が、世の中には多いのかも知れませんけどねぇ。
-----------
というくらいに「全体観」の把握は大切なので、実は「日本だけの見方」よりも「地球全体での大きなトレンド」をしっかり見据えるということがけっこう重要なことなんですよね。日本は地球の一部であって地域=リージョンにしかすぎないわけだから。
その意味でも英語の学習は大事だろうと、僕は思ってます。
あと西洋文化の歴史的流れの把握。
これが僕はまだまだできてないんだけど、まぁコツコツやるしかないしね。
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ともあれ、まずは「全体像」、マップの把握。
それが大事なのです。
ということで、英語の学習に関しては、この本は、とってもお勧めです。
機能不全家族―「親」になりきれない親たち
2006年4月6日 読書 コメント (1)
ISBN:4062099306 単行本 西尾 和美 講談社 1999/10 ¥1,680
近く結婚して子供も作りたいと思っているので、親になるに際して学ぶべきことをいろいろ勉強している。
あるサイトを見ると「育児は育自だ」と言っている方がいて、見事だ!と思った。
自分の成長を忘れた時、人間はバカになる。そう思う。
いろいろ読んだり考えたりしたけど、ようは、
●自分が成長しよう
としていれば、子供も成長するんですね。
それを「私は大人だから、成長したり勉強したり、学習したりする必要はない」という、バカ丸出しの発想のままでいるから、すべてがおかしくなってしまう。
人間ね、生きてる限り勉強ですよ。
そんなもの。
当然じゃん。
何言ってるの。
「二十歳すぎたら大人」と法律ではなってるけど、それは他に目安がないからそう言ってるだけで、年齢的に大人でも、勉強してない奴をそれなりに勉強してる人間から見たら「バカじゃん、こいつ」でしかないわなぁ。「子供やね、これでは。」で終わり。
多少なりとも勉強している人間というのは、「俺、バカだよな。」と自覚したからこそ勉強しているわけで、そういう人間から見れば「俺、バカだよな」という自覚すらできてない人間など、評価の対象にすらならない。
そういうこと。
で、いまの世の中、子供が子供を育てているのだから始末が悪い。
で、この本は、タイトルこそ「機能不全家族」となっているが、内容的には「機能不全な家族から機能する家族へ変わるにはどうしたらいいか」という基本的な考え方の書かれている本だ。成長するためのステップが書かれている。
僕的にはアダルトチルドレンとかいろいろ調べたので、分っていることが多く、新味のない内容なんだけれど、「自分のやっていることが機能していない機能不全なのだ」とすら気づけていない、「自分が成長することの必要性」にすら気づけていない、一般の家庭の「親だと思いこんでる子供みたいなアホな親」には大きく役立つのかもしれない。
(あんまりキツイ書き方してないし。この手の人たちは本当に優しいよねぇ。そんなもの、「お前が無知なだけじゃアホ」で良いと僕は思うのだが、そうは書かない。ちゃんと手順を追って、分りやすく、納得できるように書いている。人格的に素晴らしいよなぁ。頭が下がる。私も見習わねばとは思う。なかなか真似はできないのだけども。)
ともあれ、納得しにくいところは、すぐに具体的なケーススタディになって説明されるし、それらが数多く載っているので「自分がダメ親であるということをわかってない親」にも、何が問題なのかが、わかりやすいだろう。
タイトルが良くないので地味な感じがしてしまうが、まぁ、まず自分が「機能してない親なのだ」と気づかないと親業はスタートしないだろうなとは思うので、こんなタイトルでもしかたないかなぁとは思う。
しかし、実際には、けっこう良く売れている本であるらしく文庫版も出ているし、大阪の書店でも、棚には一冊しか入っていないが、なくなったらすぐに補充されるポジションにある本である。ようするに数冊は在庫がされているってことだ。それだけ良く出ているって事です。
実際内容は、「自分が親として機能していない」人が「機能する」ようになるための考え方や方法論ばかりだし、読みやすくて説得力もあると思う。
でもなぁ、僕としては「そんなこと当然やろ」と思うことが多くてたいくつでした。
なので、読了まで時間がすごくかかった。
でもまぁ、良い本ではあるでしょう。
それより、「親業」に関して本の最後に紹介が載っていて、それをインターネットで検索して驚いたよ。
親業訓練協会なんてものがあるんだね。
http://www.oyagyo.or.jp/
このホームページ見て感心した。
自分が成長しようともしない、ダメ親は、即刻このページを見て、他の「成長しよう」としている親の方々と知り合って、自分がいかに「成長しようとしていないダメ親」であるかを知るべきですな。
ダメ親ってのは、あるんやなぁってこと。
まずそこを知らないとダメなので、それでこの本のタイトルは「機能不全家族」になってるんだよなぁってつくづく思う。
「親業」もまた、学ばないと身に付かない「ノウハウ」のひとつなんだよ。自転車の乗り方も学ばないと身に付かないし、車の運転も教習所で習わないと身に付かないのといっしょ。
で、世間一般の親は、教習所ではなく、いきなり無知なまま一般車道で運転を開始してるようなものなんだなぁ。考えたら無茶苦茶だよねぇ。
「親業」に関しては、高校あたりで正規の授業として教えてもいいくらいだと思うわ、私は。ほんとに。
ということで、まぁ、いろいろ参考にはなります。
すでに親になってしまってる人も読んでください。
僕みたいに「アホ!」とか叱り飛ばさない、優しい口調なので読みやすいはずです。
(この、「アホ!」と叱りとばされてスネるところが、まさにダメ親がダメ親である真の証拠なんだけど、まぁそれは言わないでおこう。ここでスネる親は、本当にダメだと思う。)
近く結婚して子供も作りたいと思っているので、親になるに際して学ぶべきことをいろいろ勉強している。
あるサイトを見ると「育児は育自だ」と言っている方がいて、見事だ!と思った。
自分の成長を忘れた時、人間はバカになる。そう思う。
いろいろ読んだり考えたりしたけど、ようは、
●自分が成長しよう
としていれば、子供も成長するんですね。
それを「私は大人だから、成長したり勉強したり、学習したりする必要はない」という、バカ丸出しの発想のままでいるから、すべてがおかしくなってしまう。
人間ね、生きてる限り勉強ですよ。
そんなもの。
当然じゃん。
何言ってるの。
「二十歳すぎたら大人」と法律ではなってるけど、それは他に目安がないからそう言ってるだけで、年齢的に大人でも、勉強してない奴をそれなりに勉強してる人間から見たら「バカじゃん、こいつ」でしかないわなぁ。「子供やね、これでは。」で終わり。
多少なりとも勉強している人間というのは、「俺、バカだよな。」と自覚したからこそ勉強しているわけで、そういう人間から見れば「俺、バカだよな」という自覚すらできてない人間など、評価の対象にすらならない。
そういうこと。
で、いまの世の中、子供が子供を育てているのだから始末が悪い。
で、この本は、タイトルこそ「機能不全家族」となっているが、内容的には「機能不全な家族から機能する家族へ変わるにはどうしたらいいか」という基本的な考え方の書かれている本だ。成長するためのステップが書かれている。
僕的にはアダルトチルドレンとかいろいろ調べたので、分っていることが多く、新味のない内容なんだけれど、「自分のやっていることが機能していない機能不全なのだ」とすら気づけていない、「自分が成長することの必要性」にすら気づけていない、一般の家庭の「親だと思いこんでる子供みたいなアホな親」には大きく役立つのかもしれない。
(あんまりキツイ書き方してないし。この手の人たちは本当に優しいよねぇ。そんなもの、「お前が無知なだけじゃアホ」で良いと僕は思うのだが、そうは書かない。ちゃんと手順を追って、分りやすく、納得できるように書いている。人格的に素晴らしいよなぁ。頭が下がる。私も見習わねばとは思う。なかなか真似はできないのだけども。)
ともあれ、納得しにくいところは、すぐに具体的なケーススタディになって説明されるし、それらが数多く載っているので「自分がダメ親であるということをわかってない親」にも、何が問題なのかが、わかりやすいだろう。
タイトルが良くないので地味な感じがしてしまうが、まぁ、まず自分が「機能してない親なのだ」と気づかないと親業はスタートしないだろうなとは思うので、こんなタイトルでもしかたないかなぁとは思う。
しかし、実際には、けっこう良く売れている本であるらしく文庫版も出ているし、大阪の書店でも、棚には一冊しか入っていないが、なくなったらすぐに補充されるポジションにある本である。ようするに数冊は在庫がされているってことだ。それだけ良く出ているって事です。
実際内容は、「自分が親として機能していない」人が「機能する」ようになるための考え方や方法論ばかりだし、読みやすくて説得力もあると思う。
でもなぁ、僕としては「そんなこと当然やろ」と思うことが多くてたいくつでした。
なので、読了まで時間がすごくかかった。
でもまぁ、良い本ではあるでしょう。
それより、「親業」に関して本の最後に紹介が載っていて、それをインターネットで検索して驚いたよ。
親業訓練協会なんてものがあるんだね。
http://www.oyagyo.or.jp/
このホームページ見て感心した。
自分が成長しようともしない、ダメ親は、即刻このページを見て、他の「成長しよう」としている親の方々と知り合って、自分がいかに「成長しようとしていないダメ親」であるかを知るべきですな。
ダメ親ってのは、あるんやなぁってこと。
まずそこを知らないとダメなので、それでこの本のタイトルは「機能不全家族」になってるんだよなぁってつくづく思う。
「親業」もまた、学ばないと身に付かない「ノウハウ」のひとつなんだよ。自転車の乗り方も学ばないと身に付かないし、車の運転も教習所で習わないと身に付かないのといっしょ。
で、世間一般の親は、教習所ではなく、いきなり無知なまま一般車道で運転を開始してるようなものなんだなぁ。考えたら無茶苦茶だよねぇ。
「親業」に関しては、高校あたりで正規の授業として教えてもいいくらいだと思うわ、私は。ほんとに。
ということで、まぁ、いろいろ参考にはなります。
すでに親になってしまってる人も読んでください。
僕みたいに「アホ!」とか叱り飛ばさない、優しい口調なので読みやすいはずです。
(この、「アホ!」と叱りとばされてスネるところが、まさにダメ親がダメ親である真の証拠なんだけど、まぁそれは言わないでおこう。ここでスネる親は、本当にダメだと思う。)
間違いに気付くまでには時間がかかる。
2006年3月11日 読書 コメント (1)
ISBN:4813311849 単行本(ソフトカバー) 国弘 正雄 たちばな出版 1999/12 ¥1,575
えー、久しぶりに、英語の習得に関する書籍に関して書きます。
馬鹿な話ですが、「英語の学び方」に関する書籍については、そうだなぁ、本棚を見ても、どう少なく見積もっても100冊以上、読んでるんですね。
30才を過ぎてから英語の勉強をはじめて、何をやってもうまく行かないから、「これはやり方が間違ってるのだろう」という感じで、読みあさったというのがあります。
部分的にはすごく役だったこととかあるし、いろんな良い書籍について、いろいろ話も書けるんですけど、今日はそういうこととは違って、「自分の気づき」のレベルということを、ちょっと書いてみたいのです。
表題の書籍は、同時通訳の神様と言われた國弘正雄さんの書籍でして、この方はアポロの月面着陸のテレビ放送の時に、同時通訳をされていた方です。
で、この本は、「只管朗読(しかんろうどく)」と言って、ただひたすら、英語の本を音読しなさい、そうすれば効果がありますよ、と言ってる本です。ある意味それしか言ってない本でもあります。
初版は1970年ごろに出たらしいのですが、平成11年、6年ほどまえに改訂版が出されまして私はその平成11年に購入しています。
で、その時にいちおう読んではいるのですが、「音読」そのものは、始めたのは去年からなんですね。
つまり、読んでいながら言うことを受け取ってやり始めるまでに6年もの時間がかかっているということなのです。
で、最近音読が面白くなってきたものだから、読み直してみてるんですが、ほんとに「俺って、あほやなぁ」と思いますね。
ちゃんと、いろんな事書いてあるのに、読み落し、読み間違いしてるやん!俺はなんてバカなんだ、です。
その読み落し、読み間違いのひどさは、実際に音読をちゃんとやり出して分る。それまではわからないわけです。音読は本当に効果高いですわ。こらすごい。いや、びっくりした。
で、そういう状態の、いま読むとそうかぁっっっってことが多くてですね、で、当時「ここが大切」と思って鉛筆でマルで囲んでる部分があったんですが、それを見て「どこ読んでるねん、お前わ!」って自分を叱りつけたくなってしまったのですわ。
音読のすごさについても、いろいろ書きたいのですが、それは、また書くことにして、それより、自分の馬鹿さ加減について語る方が、体験をシェアするという意味では、より良いかと思うので、そっちの方を書きます。
だいたい、私の英語の勉強意欲というのは、「海外の新聞を読んで、海外から見た日本というものがどういう具合に見えているのかを知りたい」というような欲求から始まってるんですね。
それと仕事の上でもインターネット活用が一般的になってきて、英語のページからも情報を得たいというのがあったわけです。
ということなので「読みたい」というのがメインの欲求であって、「話す」ということに関しては、実は全然興味がなかったのです。
ただ、「読むための勉強」だけでは片手落ちかなという意識はあって、それで「話す」ということに関しては権威者である國弘先生の本の改訂版(平成11年のは改訂版です)が出たときに買ったわけです。
で、当時の読み方を、本につけられたアンダーライン等から見るに、完全に「話すことは不要。概略、話すための練習法だけ頭に入れておけばいい。でもヒアリングはできるようになりたいし、そこは学ばせてもらおう。」という意識でしか読んでないというのが良くわかるわけです。
つまり「話すことは不要」と思いながら「話しかた」の本を読んでるわけで、実にバカというか、不遜と言うか、失礼というか、傲岸というか、カッチョ悪いわけですね。
ようするに、素晴らしい知識や、良い教えがあっても、受け取る側に「受け取らせていただきます」という心がなかったら、受け取れないってことです。
ああ、しかし、6年も無駄にしたんだなぁ。アホやなぁ俺。
「読めればいい」と思いこんでるから、「話すことは不要」となって、本の一部しかちゃんとできなくなってたわけです。
で、6年たって、やっと去年TOEICを受けに行きまして、自分の実力が客観的に、全然ダメで、でも、努力すれば多少はなんとかなりそうだ、というのも見えてきてはじめて、「音読をやろう」ということになったわけです。
話すことも読むことも、「言語の習得」というおおきなテーマの別の側面からの取り上げ方にしかすぎないので、実は同じことなんですね。
でも、それがわかってないからこそ、読むと話すを別のこととして、切り分けて、意識にフタをしていたわけです。
結局、実際には、現実どういう事だったかというと、「発音するのが苦手だから、苦手なことはしたくない」でしかなかったわけですね。
そういうありのままの自分に気付いてなくて、「発音が苦手」を正当化する理由として「話せなくてもよい」としていたわけです。
でも発音できなけりゃ、聞き取りできないし、聞き取りできないってことは読めもしないんですよ。だって言語習得という意味ではまったく同じことですから。
このあたり、僕は音読によって、ものすごくインパクトの大きい体験を、この半年でしておりまして、もうそれは日本語のあり方、言葉を学ぶということ、話すとはどういうことか、文法とはいったい何なのかにいたるまで、音読体験によって完全に覆ってしまったんですが、それはまたいずれ書くことにしましょう。
とにかく大事なことは「苦手だなぁ」と感じていた事を「苦手と思っている」と正しく認識できずに「話すことは必要ない。読めればいいのだ。」と屁理屈をつけていたのだと自覚するに至った、それに6年もかかってしまったんだ、ということであります。
たぶん、本当に自分の、こういう正当化されてしまった間違いに気付くまでにはすごく時間がかかるんでしょう。ようは「苦手」を直視するとかが人間は不得手だ、ということですね。
でも実際には「苦手を避けてる」だけなわけで。で、その「苦手」を実際にやってみると、ものすごい天地がひっくり返るほどの「学び」「気づき」が得られるのですわ。
結局、こういう本を読んで学ぶというのには、「気づき」の体勢が整っているかどうかが、本当に重要なんだなぁと思いましたね。
本は、
●気づきの体勢を整えて、ありのままに受け取る。
●書いてあることを正しく理解し、著者の意見をくみ取る
●書かれてあることを実践し、自分の人生の役に立てる。
の三段階の活用レベルがあると思うのですね。
で、たぶん多くの人間は、最初の「ありのままに受け取る」ということ自体ができてないんではないか? というのが最近ようやくわかってきたことです。
前から書いてますが、三色ボールペン読書法における「自分の興味が動いた箇所に緑線を引く」だけやってても、「よりよい知恵の受諾」はできてないんですよね。自分の成長はない。まぁ、読まないよりはマシですが。
やはり、「著者が言おうとしている、重要と思われるところ」に赤線を引く態度が重要で、これには「赤線を引くぞ」という決意がまず必要で、なおかつ、正しく赤線を引く「訓練」がないと、なかなか正しくは引けないわけです。
つまり、「書いてあることを、ありのまま受け取る」ということだけでも、これだけ大変だ、ということなんですね。
で、こういう具合に意識的に赤線を引く経験を増やしてはじめて、著者が言おうとしていることが、おぼろげながら見えてくる。
で、それを正しく受け取ったら、そこで自分の考え方に影響が生まれます。この「自分の考え方に変化が出る」という所まで、体の中に、その著者の言おうとしていることを入れるのが、著者の意見をくみ取るということでして、実は僕は、これを仕事の上では「テクニック」として活用しています。
どういうことかと言うと、たとえばビジネス文書などに誰かが何かメモしてたりすると「このメモの意味は何ですか?」とか質問するようにしてるんですね。どうでも良さそうに思われる、ちょっとしたメモに、その人の考えてる思考体系そのものが眠ってる場合があるので、打ち合わせなどで資料を出されたときに手書きのメモとかがわずかでも書いてあると、必ず確認します。
ま、ちょっと、これは余談でしたが。
で、この「正しく理解」した後に「書いてあることの実践」があるわけですが、実は、ここまで行く人というのは、ほとんどおりません。書籍に「こうすると良いよ」と書いてあって、その通りに実行する人は、まぁ3%が良いところだそうです。
読むだけ読んで、「ああ、わかった、わかった」と思って、何もしない。この本で言うと「とにかく何度でも音読をするのが良いのだ」と書いてあるのに、しない。本当に人間は行動しないですな。
で、自分自身の体験を踏まえてみて、行動以前に、書かれてあることを、正しく読み取ることが難しいわけですよ。何冊もの書籍を読んで基礎知識が頭に入ってないと理解できない事というのも多いし、「赤線」を引く訓練ができてないと、理解力が身に付いてない、ということもあるし。
しかし、なによりそれより以前に、「苦手」を「必要ない」としているような、自分勝手な言い訳をしている事のほうが、人間ははるかに多いわけです。
もう、そらね、こんな自分勝手な言い訳をそのままにしてたら、何にも学べていないわけですよ。そらもう、全然意味ない。
自分をごまかして、何の得もないってことです。
繰り返して書くと
●気づきの体勢を整えて、ありのままに受け取る。
●書いてあることを正しく理解し、著者の意見をくみ取る
●書かれてあることを実践し、自分の人生の役に立てる。
というのが大事だって書いたわけですが、こうして書くと、すごく普通のことしか書いてないように見えると思いますが、これを「できてない人間」に焦点をあてて書き直すと、
●言い訳して逃げて、事実を受け取る事自体を拒否する。
●書いてあることを曲解して、著者の意見を無視する
●良いことが書いてあるのに実践せず、人生が役立たずのままである。
ということなわけです。
まぁ、役立たずってことですな。
そういうことなんです。
とにかく、6年前に読んだ本を読み直して、そういう事をすごく感じましたねぇ。
と、言ってますが、じゃあ、この「英語の話しかた」が良い本でおすすめかというと、うーんと唸る。実際に「只管朗読」をやってみて、中学の英語の教科書を一ページあたり100回以上音読して、一冊、二冊、仕上げてから後でないと、この本に書いてあることは、実感を持って「おもしろい!」「なるほど!」ってならないですからなぁ。うーん。
まぁあれです、実行までに6年もかかった自分を「アホ」と思うと同時に、曲解しまくりであろうとも、6年前に、「読もう」と思って、曲がりなりにも、いちおう「読んだ」自分を偉いと思いますわな。6年前のその体験なくして、いまの「実行」は絶対にないわけですから。
なんせ、この本「只管朗読が良い」とは書いてあるけど、音読の手順とか、回数の目安とか、そういうのは全然書いてないし。そういうところが不親切なのがよろしくない。
そういう意味では、
「英語上達完全マップ」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4860641027/qid%3D1134706702/sr%3D1-1/ref%3Dsr%5F1%5F2%5F1/250-6415135-5021859
の方が、ノウハウ本としては、はるかにお勧めなわけですが。
でもやっぱり、英語の音読なら國弘先生ですわねぇ。平気で「中学の英語の教科書を500回も朗読すれば、それが実力になります」とか書いてますからなぁ。
500回ってどんだけ猛練習やねん。ほんまに。
さらっと書いてあるから読み落としてしまうけど、一ページの音読に30秒から1分はかかりますからな。中学英語の教科書を、朝から晩まで8時間ずっと朗読して、やっと一ページってことですから。
ま、それをしなさいと、この人は言っておられるわけです。
いや、まぁ、そういうことなんだけどね。実際。
ともあれ、去年の11月から、毎日一時間ずつくらい音読をするようにし始めましたが、違うね、これは。中学英語の二年生用を一冊、100回朗読を終えましたが、実感出てきた。いまは続いて中学三年生用をやっております。最近面白くなってきた。うん。
いや、ともあれ、音読はええよ。ほんま。
もっと早くに「実践」までたどりついておけば良かったなぁ。
でも、そういうものかもしれない。
間違いに気付くまでには、時間がかかるのだ。やっぱり。
えー、久しぶりに、英語の習得に関する書籍に関して書きます。
馬鹿な話ですが、「英語の学び方」に関する書籍については、そうだなぁ、本棚を見ても、どう少なく見積もっても100冊以上、読んでるんですね。
30才を過ぎてから英語の勉強をはじめて、何をやってもうまく行かないから、「これはやり方が間違ってるのだろう」という感じで、読みあさったというのがあります。
部分的にはすごく役だったこととかあるし、いろんな良い書籍について、いろいろ話も書けるんですけど、今日はそういうこととは違って、「自分の気づき」のレベルということを、ちょっと書いてみたいのです。
表題の書籍は、同時通訳の神様と言われた國弘正雄さんの書籍でして、この方はアポロの月面着陸のテレビ放送の時に、同時通訳をされていた方です。
で、この本は、「只管朗読(しかんろうどく)」と言って、ただひたすら、英語の本を音読しなさい、そうすれば効果がありますよ、と言ってる本です。ある意味それしか言ってない本でもあります。
初版は1970年ごろに出たらしいのですが、平成11年、6年ほどまえに改訂版が出されまして私はその平成11年に購入しています。
で、その時にいちおう読んではいるのですが、「音読」そのものは、始めたのは去年からなんですね。
つまり、読んでいながら言うことを受け取ってやり始めるまでに6年もの時間がかかっているということなのです。
で、最近音読が面白くなってきたものだから、読み直してみてるんですが、ほんとに「俺って、あほやなぁ」と思いますね。
ちゃんと、いろんな事書いてあるのに、読み落し、読み間違いしてるやん!俺はなんてバカなんだ、です。
その読み落し、読み間違いのひどさは、実際に音読をちゃんとやり出して分る。それまではわからないわけです。音読は本当に効果高いですわ。こらすごい。いや、びっくりした。
で、そういう状態の、いま読むとそうかぁっっっってことが多くてですね、で、当時「ここが大切」と思って鉛筆でマルで囲んでる部分があったんですが、それを見て「どこ読んでるねん、お前わ!」って自分を叱りつけたくなってしまったのですわ。
音読のすごさについても、いろいろ書きたいのですが、それは、また書くことにして、それより、自分の馬鹿さ加減について語る方が、体験をシェアするという意味では、より良いかと思うので、そっちの方を書きます。
だいたい、私の英語の勉強意欲というのは、「海外の新聞を読んで、海外から見た日本というものがどういう具合に見えているのかを知りたい」というような欲求から始まってるんですね。
それと仕事の上でもインターネット活用が一般的になってきて、英語のページからも情報を得たいというのがあったわけです。
ということなので「読みたい」というのがメインの欲求であって、「話す」ということに関しては、実は全然興味がなかったのです。
ただ、「読むための勉強」だけでは片手落ちかなという意識はあって、それで「話す」ということに関しては権威者である國弘先生の本の改訂版(平成11年のは改訂版です)が出たときに買ったわけです。
で、当時の読み方を、本につけられたアンダーライン等から見るに、完全に「話すことは不要。概略、話すための練習法だけ頭に入れておけばいい。でもヒアリングはできるようになりたいし、そこは学ばせてもらおう。」という意識でしか読んでないというのが良くわかるわけです。
つまり「話すことは不要」と思いながら「話しかた」の本を読んでるわけで、実にバカというか、不遜と言うか、失礼というか、傲岸というか、カッチョ悪いわけですね。
ようするに、素晴らしい知識や、良い教えがあっても、受け取る側に「受け取らせていただきます」という心がなかったら、受け取れないってことです。
ああ、しかし、6年も無駄にしたんだなぁ。アホやなぁ俺。
「読めればいい」と思いこんでるから、「話すことは不要」となって、本の一部しかちゃんとできなくなってたわけです。
で、6年たって、やっと去年TOEICを受けに行きまして、自分の実力が客観的に、全然ダメで、でも、努力すれば多少はなんとかなりそうだ、というのも見えてきてはじめて、「音読をやろう」ということになったわけです。
話すことも読むことも、「言語の習得」というおおきなテーマの別の側面からの取り上げ方にしかすぎないので、実は同じことなんですね。
でも、それがわかってないからこそ、読むと話すを別のこととして、切り分けて、意識にフタをしていたわけです。
結局、実際には、現実どういう事だったかというと、「発音するのが苦手だから、苦手なことはしたくない」でしかなかったわけですね。
そういうありのままの自分に気付いてなくて、「発音が苦手」を正当化する理由として「話せなくてもよい」としていたわけです。
でも発音できなけりゃ、聞き取りできないし、聞き取りできないってことは読めもしないんですよ。だって言語習得という意味ではまったく同じことですから。
このあたり、僕は音読によって、ものすごくインパクトの大きい体験を、この半年でしておりまして、もうそれは日本語のあり方、言葉を学ぶということ、話すとはどういうことか、文法とはいったい何なのかにいたるまで、音読体験によって完全に覆ってしまったんですが、それはまたいずれ書くことにしましょう。
とにかく大事なことは「苦手だなぁ」と感じていた事を「苦手と思っている」と正しく認識できずに「話すことは必要ない。読めればいいのだ。」と屁理屈をつけていたのだと自覚するに至った、それに6年もかかってしまったんだ、ということであります。
たぶん、本当に自分の、こういう正当化されてしまった間違いに気付くまでにはすごく時間がかかるんでしょう。ようは「苦手」を直視するとかが人間は不得手だ、ということですね。
でも実際には「苦手を避けてる」だけなわけで。で、その「苦手」を実際にやってみると、ものすごい天地がひっくり返るほどの「学び」「気づき」が得られるのですわ。
結局、こういう本を読んで学ぶというのには、「気づき」の体勢が整っているかどうかが、本当に重要なんだなぁと思いましたね。
本は、
●気づきの体勢を整えて、ありのままに受け取る。
●書いてあることを正しく理解し、著者の意見をくみ取る
●書かれてあることを実践し、自分の人生の役に立てる。
の三段階の活用レベルがあると思うのですね。
で、たぶん多くの人間は、最初の「ありのままに受け取る」ということ自体ができてないんではないか? というのが最近ようやくわかってきたことです。
前から書いてますが、三色ボールペン読書法における「自分の興味が動いた箇所に緑線を引く」だけやってても、「よりよい知恵の受諾」はできてないんですよね。自分の成長はない。まぁ、読まないよりはマシですが。
やはり、「著者が言おうとしている、重要と思われるところ」に赤線を引く態度が重要で、これには「赤線を引くぞ」という決意がまず必要で、なおかつ、正しく赤線を引く「訓練」がないと、なかなか正しくは引けないわけです。
つまり、「書いてあることを、ありのまま受け取る」ということだけでも、これだけ大変だ、ということなんですね。
で、こういう具合に意識的に赤線を引く経験を増やしてはじめて、著者が言おうとしていることが、おぼろげながら見えてくる。
で、それを正しく受け取ったら、そこで自分の考え方に影響が生まれます。この「自分の考え方に変化が出る」という所まで、体の中に、その著者の言おうとしていることを入れるのが、著者の意見をくみ取るということでして、実は僕は、これを仕事の上では「テクニック」として活用しています。
どういうことかと言うと、たとえばビジネス文書などに誰かが何かメモしてたりすると「このメモの意味は何ですか?」とか質問するようにしてるんですね。どうでも良さそうに思われる、ちょっとしたメモに、その人の考えてる思考体系そのものが眠ってる場合があるので、打ち合わせなどで資料を出されたときに手書きのメモとかがわずかでも書いてあると、必ず確認します。
ま、ちょっと、これは余談でしたが。
で、この「正しく理解」した後に「書いてあることの実践」があるわけですが、実は、ここまで行く人というのは、ほとんどおりません。書籍に「こうすると良いよ」と書いてあって、その通りに実行する人は、まぁ3%が良いところだそうです。
読むだけ読んで、「ああ、わかった、わかった」と思って、何もしない。この本で言うと「とにかく何度でも音読をするのが良いのだ」と書いてあるのに、しない。本当に人間は行動しないですな。
で、自分自身の体験を踏まえてみて、行動以前に、書かれてあることを、正しく読み取ることが難しいわけですよ。何冊もの書籍を読んで基礎知識が頭に入ってないと理解できない事というのも多いし、「赤線」を引く訓練ができてないと、理解力が身に付いてない、ということもあるし。
しかし、なによりそれより以前に、「苦手」を「必要ない」としているような、自分勝手な言い訳をしている事のほうが、人間ははるかに多いわけです。
もう、そらね、こんな自分勝手な言い訳をそのままにしてたら、何にも学べていないわけですよ。そらもう、全然意味ない。
自分をごまかして、何の得もないってことです。
繰り返して書くと
●気づきの体勢を整えて、ありのままに受け取る。
●書いてあることを正しく理解し、著者の意見をくみ取る
●書かれてあることを実践し、自分の人生の役に立てる。
というのが大事だって書いたわけですが、こうして書くと、すごく普通のことしか書いてないように見えると思いますが、これを「できてない人間」に焦点をあてて書き直すと、
●言い訳して逃げて、事実を受け取る事自体を拒否する。
●書いてあることを曲解して、著者の意見を無視する
●良いことが書いてあるのに実践せず、人生が役立たずのままである。
ということなわけです。
まぁ、役立たずってことですな。
そういうことなんです。
とにかく、6年前に読んだ本を読み直して、そういう事をすごく感じましたねぇ。
と、言ってますが、じゃあ、この「英語の話しかた」が良い本でおすすめかというと、うーんと唸る。実際に「只管朗読」をやってみて、中学の英語の教科書を一ページあたり100回以上音読して、一冊、二冊、仕上げてから後でないと、この本に書いてあることは、実感を持って「おもしろい!」「なるほど!」ってならないですからなぁ。うーん。
まぁあれです、実行までに6年もかかった自分を「アホ」と思うと同時に、曲解しまくりであろうとも、6年前に、「読もう」と思って、曲がりなりにも、いちおう「読んだ」自分を偉いと思いますわな。6年前のその体験なくして、いまの「実行」は絶対にないわけですから。
なんせ、この本「只管朗読が良い」とは書いてあるけど、音読の手順とか、回数の目安とか、そういうのは全然書いてないし。そういうところが不親切なのがよろしくない。
そういう意味では、
「英語上達完全マップ」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4860641027/qid%3D1134706702/sr%3D1-1/ref%3Dsr%5F1%5F2%5F1/250-6415135-5021859
の方が、ノウハウ本としては、はるかにお勧めなわけですが。
でもやっぱり、英語の音読なら國弘先生ですわねぇ。平気で「中学の英語の教科書を500回も朗読すれば、それが実力になります」とか書いてますからなぁ。
500回ってどんだけ猛練習やねん。ほんまに。
さらっと書いてあるから読み落としてしまうけど、一ページの音読に30秒から1分はかかりますからな。中学英語の教科書を、朝から晩まで8時間ずっと朗読して、やっと一ページってことですから。
ま、それをしなさいと、この人は言っておられるわけです。
いや、まぁ、そういうことなんだけどね。実際。
ともあれ、去年の11月から、毎日一時間ずつくらい音読をするようにし始めましたが、違うね、これは。中学英語の二年生用を一冊、100回朗読を終えましたが、実感出てきた。いまは続いて中学三年生用をやっております。最近面白くなってきた。うん。
いや、ともあれ、音読はええよ。ほんま。
もっと早くに「実践」までたどりついておけば良かったなぁ。
でも、そういうものかもしれない。
間違いに気付くまでには、時間がかかるのだ。やっぱり。
やっぱりどうしてもウォイティツ
2006年2月25日 読書
ISBN:4772405615 単行本 白根 伊登恵 金剛出版 1997/10 ¥2,100
一度読んで、また読み直してるのですが、やっぱりウォイティツがいいなぁ。
もう一度紹介したいです。
で、その中にあるアダルト・チルドレンの親が子供にしてやれること、という項目を取り出します。
■親がこどものためにできること
1.親自身が人間として成長するよう努力する
2.子供の話に耳を傾ける
3.子供にウソをつかない
4.アルコール依存症について教える
5.アラティーンへの参加を勧める
6.否認をやめる
7.アルコール依存症の惨害を隠さない
8.子供に愛情を示すのをためらわない
9.子供に明確な限界を教える
10.子供に自分の行動の責任を取らせる
ってものですが。
もうね、これね、一番最初に「親自身が人間として成長するよう努力する」が来てるのを見て、「我が意を得たり!」って思ったねぇ。そうやんなぁ。これが大原則よ。簡単に言ってしまえば、人間は、いついかなる場合においても、常に成長しようとしていれば、問題は起きないはずだと思うのですよ。
●自分のあやまちを認める
●間違った行動・考え方を修正する
●そうやって成長した自分を自分でほめる
まぁ、これさえやってれば、基本、問題はないと思う。
これに加えて
●目標をかかげて実現に努力する
というのが入るんだけど、まぁ、これは成長に不可欠なモチベーション管理のための道具ってところがあるから、またちょっと別の話かな。
(目標が達成されるかどうかは、実はあまり大きな目的ではないのです。目的を達成しようとしている過程でのモチベーション管理こそが「よい気分」「達成感」などを生み出してくれて、幸せ感を感じられるのが良いのです。)
この子供のためにできること10項目のうちわかりにくいところもあると思うので少し解説。
まず用語ですね。「アラティーン」ってのがわからんでしょうから説明します。これを理解するにはAA、アラノンも理解しないとしんどいので、まとめて以下のようになります。
●AA(Alcoholics Anonymous:アルコホリックス・アノニマス)
アルコール依存症自助グループの一つで、アルコール依存症者の匿名(アノニマス)の会
●アラノン(Al-Anon)
Al-AnonはA.A.をもじった語であり、アルコール依存症に影響された家族や友人のための自助グループ
●アラティーン
家族にアルコール依存症を持つ子どもたちの自助グループを指す。原則的には十代の集まりで、アラノンのメンバーによって指導されている。
ということですな。要するに自助グループです。子供が大きくなってるのなら、親と子が一緒に回復を目指すのが効果的でしょう。なんせ「共依存」っていうくらいですから。
何らかの依存症が発症した場合、それは家族全員に大きなインパクトをもたらします。うちの場合で言うと、父がギャンブル依存症でしたが、母は更年期障害がうつ病に出てしまい、一年ぐらいは毎日自殺しないかの心配をしていなければなりませんでしたし、私は40過ぎても良い人のいない恋愛恐怖症になってしまった。ものすごい重症ですわ。いやほんま。
私には弟がおりますが、まぁここにも影響があって当然です。甥っ子にも影響が出るだろう。心配だってことですね。自分が鳥になったつもりで、この世を空から見渡すと、日本中のあらゆる家庭にACがいて、これを時間軸までさかのぼれる鳥になって見ていくと「うわお、あのACのおじいちゃんはアルコール依存症やんか」とか、そういうことになっていく。
依存症関係の書物を読めば読むほど、アルコール依存症やギャンブル依存症の人間とともに暮らしていた家族には、確実すぎるほど確実に「共依存」の兆候が出てしまうのです。依存症治療をしている医師や、現場でカウンセリングしている人の間では常識になっています。
しかも!です。仮に父親がギャンブル依存症だったとしても、たとえばカウンセラーに「あなたのお父さんはどんな方でしたか?」と聞かれても、たいていの場合「別に、普通です。普通のサラリーマンでした」とかいう答えになってしまうんですね。
ここがこのアダルト・チルドレン問題の恐ろしいところです。依存症という障害でさんざん苦しんでたのに、それを自覚すること自体ができてないことが多いんです。自分がそうだったからよくわかる。
「もう済んだことだから、関係ないよ」とか思ってしまう。
違うんだなぁ、それは。問題ないと思いこみたいだけであって、問題は山積してるんです。
で、どんな問題かというと「ごく普通の子供や親しい人に自然な愛情表現ができない」というようなことになるわけです。親しい関係を築きにくい。
なんでか?
簡単な話で、「表現の仕方を知らないから」なんですね。
で、そういう事を何も知らないままずーっと過ごしてきたから「豊かな愛情表現を知らない」ことを普通と勘違いしたままなんですね。アダルト・チルドレンというのは、そういう問題なのです。
で、アダルト・チルドレンの子供たちは愛情不足に陥って、何かと精神的な飢えを感じる生き方になってしまう。変な男にばかり熱をあげるとか、貢いでばかりの女の子とか、何歳になっても彼女も作れないおっさんとかね。愛情表現の仕方を学んでないのだからしょうがないけど。
さて、ウォイティツの10項目の解説を続けましょう。
二番目の「子供の話に耳を傾ける」というのも、実はアダルト・チルドレンはあんまりやらない。子供の頃に親に「気持ちを聞いてもらう」ということをしてもらったことがほとんどないというのが原因なんだけれども、それよりも重要なのは、ACはたいていの場合「私が、この子をキチンと育ててみせる」という意志の力に頼りすぎているか、あるいは「世の中の常識にあわせてキチンとやるぞ」と考えすぎているか、そういうことがあるからでしょうな。
そういう「自分の力」や「世間との調和」のことはとにかく忘れて、子供の心の中に何が起きているのかを、常に確認すること。そういう意識が欠けがちなのがACなのだと自覚しないといけない。
それと、子供が子供らしく理不尽なことを言った時に「そういうことをしてはいけないよ」と、聞いた上でたしなめられる豊かな常識・知識・哲学も、親の側がキチンと持ってないとダメでしょうね。これは1番目の「親が成長する」に含まれる要素だ。勉強してなきゃ「なぜダメ」なのかも説明できないから愛情ある「叱り」もできない。
それができなくても、せめて「私にもよくわからないけれども、それはよくないように感じる」と言うくらいの正直さは持たないとダメでしょうね。その「ダメ」はAC特有の理由のない衝動である場合も多くありますからね。そういう「衝動」を子供に押しつけないためにも「説明はできないけれでも、そんな感じがする」というような項目には注意すべし! でしょうね。
ここまでのことをひっくるめているから、「子供にウソをつかない」という項目がでてくるのでしょう。ウォイティツは、この項目に対して「ACは現実に対してひどく歪んだ感覚を持っている」と言っています。アルコール依存症の親の場合だと、ウソをつくつもりじゃなくても「今度どこそこに連れて行ってやるからな」と言っておいて、それがまったく実現しないということがザラにあるわけです。これをACは「ウソ」と認識してない場合がありますからね。「連れて行くつもりだったのは本当だ」とか思うし。
ここから「連れて行ってやると意志表示すれば、それで愛情を示したことになる」とかの勘違いが発生していたりもするんですね。いやーそれは単にウソですよってことですが。
あと、逆に、子供が行きたいと思っているわけでもない場所に「幸せな家族」のかたちを証拠作りするために出かけて、子供がちっとも喜んでない、とかね。そういうこと全部ひっくるめて、「ウソをつくな」ですから、ACからすれば、よほど注意深く自己表現をしないといけないってことになります。
それから6番目の「否認」。
これ。
これが大変なんだなぁ。
「否認」、というのは、事実を事実として認めない態度ですね。間違ったことをしてるのに、それを認めない。もう全然認めない。代わりに屁理屈を出してくる。言い訳をする。虚勢を張る。あかんやろ、それ。って奴ですね。
だいたい、ACが最初にやる「否認」は、自分がAC特有の問題点を持っているということを「否認」します。もう、これが大変。世間様とずいぶんズレてまっせ、というのがわからない。というかわかりたくないのか? いや、たぶん「わかってない」だけなんだろうなぁ。体験したことがないから「わからない」わけで、その「わかってない自分」を認識できてないってことでしょう。
それが「否認」ですな。
これも、結局は1番目の「親が自分を成長させる」というのが一番効果的だと僕は思いますね。なにかを学ぶためには、否認は邪魔にしかならないんですね。自分が成長しようと思ったら、嫌でもありのままの自分を認識するしかなくなりますから。
だから、勉強でもいいし、スポーツでもいいし、芸術や音楽でもいいから、習い事を親が自らするというのは、意外に効果高いんじゃないの? と僕は思ってます。僕自身、恋愛恐怖症の克服にウクレレの習得はすごく大きな効果を発揮しましたからね。
自分の下手くそさをありのままに認識しないと、一曲まともに弾く事自体ができませんしね。
あと合奏で「他者と手間を分け合ってハーモニーを奏でる」素晴らしさを実際に味わうと、それがいろんな意味で実生活にも染みこんでいきますわね。無意識領域で他者との共存が楽しくなったというのがあります。
9番目の「限界」っていうのは、ウォイティツの文章だと朝食時間を守らせるというような規律の話が中心になってるんですが、親子間での役割の境界線における「限界」の明確さも、この中に含めるべきだと思いますねぇ。
「親と子が対等であるのがいい」とか思ってしまう人もいてるからねぇ。「親と子が対等」と言われると、子供はものすごく緊張することにしかならないんですよね。だってまだ社会に出たことないんだから。実地体験なしだもん。そんなことわかんねーよ、です。
でも親が子供に「お母さん悩んじゃった。どうしたらいいと思う。」とか聞いたりしたら、子供は恐怖心を押さえこんで「大人のフリ」をしなくてはならなくなるのですね。だって頼ってる大人が崩れそうなわけですから、それだけでも怖いのに、そこを自分がなんとかしなくちゃならなくなる。本末転倒ですからね。ものすごいストレスですよ。でも、その恐怖を押さえ込むしかないわけでね。
この時の「押さえ込み」が大変な抑圧になるのであって、そこは注意しないといけないんですがねぇ。そういうことに気付いてない母親を、これまた私はたくさん見ました。っていうか、これはものすごくいま増えていて危険な状態なんじゃないかって思う。子供が本当に可哀想だ。
って、こういう事を書くと「私、あなたにそういう押さえ込みをさせてたかしら?」って子供にまた聞く、信じられない親もいたりするから、あんまりこういう事は書けないんですが。アカンって。親は親として、いくら辛くても「親としての態度」を維持すること。それが子供の安心感につながるんだから。ほんまに。
このへん、ごく普通のことだと思うんだけどなぁ。違うの?
限界ってのは親と子の境界線を明確にするってことでもあるし、役割と責任を自覚するってことでもあります。線引きというのは、責任の所在の線引きですね。
そういうことです。
で、子供に自分の行動に責任を取らせるといのは、まぁこれは当たり前のことですけど、ウォイティツが出している例でいうと、アメリカでは小学校から毎朝スクールバスが来るみたいなんですけども、それに乗り遅れたら、自分の足で小学校まで行かせる、とかですね。親が車で送って行ったりしない。子供に自分の責任を取らせる。
これは「自分が悪い」のだから受け入れ可能です。歩いているうちに「僕が悪かったんだ」とちゃんと反省できます。けじめ、ですね。
先日少し書いたかも知れませんが、アイデアマラソンの樋口さんの子育て本に、こういう話が載ってました。
ある日、樋口さんが、たまたま平日が自宅にいてる休日になったときに、小学生のお子様から「粘土忘れたから持ってきて」と電話を受けます。その日はたまたま母親が外出中。なので自転車を走らせて小学校まで樋口さんは出かけますが、教室で粘土を子供に手渡す時に「腕を出せ」と言って、手をピシリ!と叩きます。で、「忘れ物をしたらダメじゃないか。みんなに迷惑をかけるだろう」と他の子供もいてる前で実行します。
すばらしい。これこそ親だよなぁ。かっこいいと思う。こういうことが「限界」「境界線」ということですね。そのときお子様は涙目になって、樋口さん自身すごく心が痛んだそうですが、子供はすぐにけろりとしてたそうですし「おまえの父ちゃんカッコいいな」と他の子供にもうけが良かったそうで。いやほんま、かっこいいですよ。
まぁ、そういうことでしょう。
ま、というようなことでウォイティツはやっぱり素晴らしいです。ご一読あれ。
一度読んで、また読み直してるのですが、やっぱりウォイティツがいいなぁ。
もう一度紹介したいです。
で、その中にあるアダルト・チルドレンの親が子供にしてやれること、という項目を取り出します。
■親がこどものためにできること
1.親自身が人間として成長するよう努力する
2.子供の話に耳を傾ける
3.子供にウソをつかない
4.アルコール依存症について教える
5.アラティーンへの参加を勧める
6.否認をやめる
7.アルコール依存症の惨害を隠さない
8.子供に愛情を示すのをためらわない
9.子供に明確な限界を教える
10.子供に自分の行動の責任を取らせる
ってものですが。
もうね、これね、一番最初に「親自身が人間として成長するよう努力する」が来てるのを見て、「我が意を得たり!」って思ったねぇ。そうやんなぁ。これが大原則よ。簡単に言ってしまえば、人間は、いついかなる場合においても、常に成長しようとしていれば、問題は起きないはずだと思うのですよ。
●自分のあやまちを認める
●間違った行動・考え方を修正する
●そうやって成長した自分を自分でほめる
まぁ、これさえやってれば、基本、問題はないと思う。
これに加えて
●目標をかかげて実現に努力する
というのが入るんだけど、まぁ、これは成長に不可欠なモチベーション管理のための道具ってところがあるから、またちょっと別の話かな。
(目標が達成されるかどうかは、実はあまり大きな目的ではないのです。目的を達成しようとしている過程でのモチベーション管理こそが「よい気分」「達成感」などを生み出してくれて、幸せ感を感じられるのが良いのです。)
この子供のためにできること10項目のうちわかりにくいところもあると思うので少し解説。
まず用語ですね。「アラティーン」ってのがわからんでしょうから説明します。これを理解するにはAA、アラノンも理解しないとしんどいので、まとめて以下のようになります。
●AA(Alcoholics Anonymous:アルコホリックス・アノニマス)
アルコール依存症自助グループの一つで、アルコール依存症者の匿名(アノニマス)の会
●アラノン(Al-Anon)
Al-AnonはA.A.をもじった語であり、アルコール依存症に影響された家族や友人のための自助グループ
●アラティーン
家族にアルコール依存症を持つ子どもたちの自助グループを指す。原則的には十代の集まりで、アラノンのメンバーによって指導されている。
ということですな。要するに自助グループです。子供が大きくなってるのなら、親と子が一緒に回復を目指すのが効果的でしょう。なんせ「共依存」っていうくらいですから。
何らかの依存症が発症した場合、それは家族全員に大きなインパクトをもたらします。うちの場合で言うと、父がギャンブル依存症でしたが、母は更年期障害がうつ病に出てしまい、一年ぐらいは毎日自殺しないかの心配をしていなければなりませんでしたし、私は40過ぎても良い人のいない恋愛恐怖症になってしまった。ものすごい重症ですわ。いやほんま。
私には弟がおりますが、まぁここにも影響があって当然です。甥っ子にも影響が出るだろう。心配だってことですね。自分が鳥になったつもりで、この世を空から見渡すと、日本中のあらゆる家庭にACがいて、これを時間軸までさかのぼれる鳥になって見ていくと「うわお、あのACのおじいちゃんはアルコール依存症やんか」とか、そういうことになっていく。
依存症関係の書物を読めば読むほど、アルコール依存症やギャンブル依存症の人間とともに暮らしていた家族には、確実すぎるほど確実に「共依存」の兆候が出てしまうのです。依存症治療をしている医師や、現場でカウンセリングしている人の間では常識になっています。
しかも!です。仮に父親がギャンブル依存症だったとしても、たとえばカウンセラーに「あなたのお父さんはどんな方でしたか?」と聞かれても、たいていの場合「別に、普通です。普通のサラリーマンでした」とかいう答えになってしまうんですね。
ここがこのアダルト・チルドレン問題の恐ろしいところです。依存症という障害でさんざん苦しんでたのに、それを自覚すること自体ができてないことが多いんです。自分がそうだったからよくわかる。
「もう済んだことだから、関係ないよ」とか思ってしまう。
違うんだなぁ、それは。問題ないと思いこみたいだけであって、問題は山積してるんです。
で、どんな問題かというと「ごく普通の子供や親しい人に自然な愛情表現ができない」というようなことになるわけです。親しい関係を築きにくい。
なんでか?
簡単な話で、「表現の仕方を知らないから」なんですね。
で、そういう事を何も知らないままずーっと過ごしてきたから「豊かな愛情表現を知らない」ことを普通と勘違いしたままなんですね。アダルト・チルドレンというのは、そういう問題なのです。
で、アダルト・チルドレンの子供たちは愛情不足に陥って、何かと精神的な飢えを感じる生き方になってしまう。変な男にばかり熱をあげるとか、貢いでばかりの女の子とか、何歳になっても彼女も作れないおっさんとかね。愛情表現の仕方を学んでないのだからしょうがないけど。
さて、ウォイティツの10項目の解説を続けましょう。
二番目の「子供の話に耳を傾ける」というのも、実はアダルト・チルドレンはあんまりやらない。子供の頃に親に「気持ちを聞いてもらう」ということをしてもらったことがほとんどないというのが原因なんだけれども、それよりも重要なのは、ACはたいていの場合「私が、この子をキチンと育ててみせる」という意志の力に頼りすぎているか、あるいは「世の中の常識にあわせてキチンとやるぞ」と考えすぎているか、そういうことがあるからでしょうな。
そういう「自分の力」や「世間との調和」のことはとにかく忘れて、子供の心の中に何が起きているのかを、常に確認すること。そういう意識が欠けがちなのがACなのだと自覚しないといけない。
それと、子供が子供らしく理不尽なことを言った時に「そういうことをしてはいけないよ」と、聞いた上でたしなめられる豊かな常識・知識・哲学も、親の側がキチンと持ってないとダメでしょうね。これは1番目の「親が成長する」に含まれる要素だ。勉強してなきゃ「なぜダメ」なのかも説明できないから愛情ある「叱り」もできない。
それができなくても、せめて「私にもよくわからないけれども、それはよくないように感じる」と言うくらいの正直さは持たないとダメでしょうね。その「ダメ」はAC特有の理由のない衝動である場合も多くありますからね。そういう「衝動」を子供に押しつけないためにも「説明はできないけれでも、そんな感じがする」というような項目には注意すべし! でしょうね。
ここまでのことをひっくるめているから、「子供にウソをつかない」という項目がでてくるのでしょう。ウォイティツは、この項目に対して「ACは現実に対してひどく歪んだ感覚を持っている」と言っています。アルコール依存症の親の場合だと、ウソをつくつもりじゃなくても「今度どこそこに連れて行ってやるからな」と言っておいて、それがまったく実現しないということがザラにあるわけです。これをACは「ウソ」と認識してない場合がありますからね。「連れて行くつもりだったのは本当だ」とか思うし。
ここから「連れて行ってやると意志表示すれば、それで愛情を示したことになる」とかの勘違いが発生していたりもするんですね。いやーそれは単にウソですよってことですが。
あと、逆に、子供が行きたいと思っているわけでもない場所に「幸せな家族」のかたちを証拠作りするために出かけて、子供がちっとも喜んでない、とかね。そういうこと全部ひっくるめて、「ウソをつくな」ですから、ACからすれば、よほど注意深く自己表現をしないといけないってことになります。
それから6番目の「否認」。
これ。
これが大変なんだなぁ。
「否認」、というのは、事実を事実として認めない態度ですね。間違ったことをしてるのに、それを認めない。もう全然認めない。代わりに屁理屈を出してくる。言い訳をする。虚勢を張る。あかんやろ、それ。って奴ですね。
だいたい、ACが最初にやる「否認」は、自分がAC特有の問題点を持っているということを「否認」します。もう、これが大変。世間様とずいぶんズレてまっせ、というのがわからない。というかわかりたくないのか? いや、たぶん「わかってない」だけなんだろうなぁ。体験したことがないから「わからない」わけで、その「わかってない自分」を認識できてないってことでしょう。
それが「否認」ですな。
これも、結局は1番目の「親が自分を成長させる」というのが一番効果的だと僕は思いますね。なにかを学ぶためには、否認は邪魔にしかならないんですね。自分が成長しようと思ったら、嫌でもありのままの自分を認識するしかなくなりますから。
だから、勉強でもいいし、スポーツでもいいし、芸術や音楽でもいいから、習い事を親が自らするというのは、意外に効果高いんじゃないの? と僕は思ってます。僕自身、恋愛恐怖症の克服にウクレレの習得はすごく大きな効果を発揮しましたからね。
自分の下手くそさをありのままに認識しないと、一曲まともに弾く事自体ができませんしね。
あと合奏で「他者と手間を分け合ってハーモニーを奏でる」素晴らしさを実際に味わうと、それがいろんな意味で実生活にも染みこんでいきますわね。無意識領域で他者との共存が楽しくなったというのがあります。
9番目の「限界」っていうのは、ウォイティツの文章だと朝食時間を守らせるというような規律の話が中心になってるんですが、親子間での役割の境界線における「限界」の明確さも、この中に含めるべきだと思いますねぇ。
「親と子が対等であるのがいい」とか思ってしまう人もいてるからねぇ。「親と子が対等」と言われると、子供はものすごく緊張することにしかならないんですよね。だってまだ社会に出たことないんだから。実地体験なしだもん。そんなことわかんねーよ、です。
でも親が子供に「お母さん悩んじゃった。どうしたらいいと思う。」とか聞いたりしたら、子供は恐怖心を押さえこんで「大人のフリ」をしなくてはならなくなるのですね。だって頼ってる大人が崩れそうなわけですから、それだけでも怖いのに、そこを自分がなんとかしなくちゃならなくなる。本末転倒ですからね。ものすごいストレスですよ。でも、その恐怖を押さえ込むしかないわけでね。
この時の「押さえ込み」が大変な抑圧になるのであって、そこは注意しないといけないんですがねぇ。そういうことに気付いてない母親を、これまた私はたくさん見ました。っていうか、これはものすごくいま増えていて危険な状態なんじゃないかって思う。子供が本当に可哀想だ。
って、こういう事を書くと「私、あなたにそういう押さえ込みをさせてたかしら?」って子供にまた聞く、信じられない親もいたりするから、あんまりこういう事は書けないんですが。アカンって。親は親として、いくら辛くても「親としての態度」を維持すること。それが子供の安心感につながるんだから。ほんまに。
このへん、ごく普通のことだと思うんだけどなぁ。違うの?
限界ってのは親と子の境界線を明確にするってことでもあるし、役割と責任を自覚するってことでもあります。線引きというのは、責任の所在の線引きですね。
そういうことです。
で、子供に自分の行動に責任を取らせるといのは、まぁこれは当たり前のことですけど、ウォイティツが出している例でいうと、アメリカでは小学校から毎朝スクールバスが来るみたいなんですけども、それに乗り遅れたら、自分の足で小学校まで行かせる、とかですね。親が車で送って行ったりしない。子供に自分の責任を取らせる。
これは「自分が悪い」のだから受け入れ可能です。歩いているうちに「僕が悪かったんだ」とちゃんと反省できます。けじめ、ですね。
先日少し書いたかも知れませんが、アイデアマラソンの樋口さんの子育て本に、こういう話が載ってました。
ある日、樋口さんが、たまたま平日が自宅にいてる休日になったときに、小学生のお子様から「粘土忘れたから持ってきて」と電話を受けます。その日はたまたま母親が外出中。なので自転車を走らせて小学校まで樋口さんは出かけますが、教室で粘土を子供に手渡す時に「腕を出せ」と言って、手をピシリ!と叩きます。で、「忘れ物をしたらダメじゃないか。みんなに迷惑をかけるだろう」と他の子供もいてる前で実行します。
すばらしい。これこそ親だよなぁ。かっこいいと思う。こういうことが「限界」「境界線」ということですね。そのときお子様は涙目になって、樋口さん自身すごく心が痛んだそうですが、子供はすぐにけろりとしてたそうですし「おまえの父ちゃんカッコいいな」と他の子供にもうけが良かったそうで。いやほんま、かっこいいですよ。
まぁ、そういうことでしょう。
ま、というようなことでウォイティツはやっぱり素晴らしいです。ご一読あれ。
やっぱりウォイティッツだなぁ。
2006年2月21日 読書 コメント (2)
ISBN:4772405615 単行本 白根 伊登恵 金剛出版 1997/10 ¥2,100
AC(アダルトチルドレン)の家族・兄弟は確実にみんなACだし、AC同士は惹きあうから、AC同士で友達になってしまって、ACの回りにはACがいっぱいいる。そういうものなのです。
そして、そのACたちとどう付き合えばいいのかが、ここ数年の私の大きな悩みでもあったのです。
私は回復の途上にある人間だから、もとからまともな人より、うんと敏感にAC的発想を感じ取れてしまう。「その発想はまずい!」とどうしても注意したくなってしまう。それも過激に。なんせ、回復途上にある人間ですからね。まずい発想がいかにまずいのかというのが、「自分の痛み」としてわかってしまう。他人事ではないわけです。
やっと「健全な考え方」に沿って生きるということを学びはじめたのに、身の回りに不健全な発想が散見されるとえらく気になってくるわけですね。
そんなこともあって、アダルトチルドレンに関して、もう少し幅広い知識が必要かも知れないと思って、いろいろまた読みあさっていたのですが、結局、とどのつまりは、もっとも原典ともいうべき
「アダルト・チルドレン―アルコール問題家族で育った子供たち」
という本に戻りました。
これは前に紹介した
「なぜいつも、あなたの恋愛はうまくいかないのか―アダルト・チルドレンの恋愛と結婚の神話」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4313860053/ref=lm_lb_1/503-2108546-9436706
(私の紹介日記)
http://diarynote.jp/d/12917/20051224.html
を書いたジャネット・G. ウォイティツ の本。
やっぱりこの人が素晴らしいなぁ。
もともと「アダルト・チルドレン」に注目すべしと言い出した言い出しっぺなんだねぇ。やっぱりそうだったんだと思う。日本で「アダルトチルドレン」というと、どうしても齋藤学が有名で、この人の本ばかりが書店にあふれてるけど、やっぱりウォイティツだよなぁと思う。
齋藤学さんはあくまで学者の立場をくずさない人で、ウォイティツはあくまでソーシャルワーカーとして現場からのスタンスをくずさない人っていう違いでしょうね。でも本当に苦しんでる人間には、未整理な情報であっても現場からの意見の方がしっくりくると僕は思う。
で、ウォイティツの本を読んでいると、まさに、いまの僕にぴったりあてはまることが書いてありました。それは、「回復中の人が注意すべき事。」と題された数項目なのですが、そらもう、ぴったり。「そうよなぁ」とうなるしか無かった。
とくに、六項目ある「回復中の人への注意点」の中でも、この指摘にはまいった。
(引用開始)--------------------------
回復中の人が注意すべき事。
●二
他の人にこのプロセスを教えて回復させてやりたいと思うのは「もっと良い生き方がありますよ」と言っているだけではなく「あなたの全人生を逆さまに、あるいは裏返しにしなさい」と言っているのと等価だと言うことを忘れてはならない。これは他人に対する要求としては相当の物だ。
だから誰かを無知から救ってやりたいという気持ちになった時には、次のように自問することだ。
・私には、この人の回復のプロセスに最後まで付き合う覚悟があるか。
・もしこの人が変わらないことを選ぶなら、私はそれを選ぶこの人の権利を受け入れることが出来るか。
もしその自信がないなら、相手の方からやって来るまで待った方がよい。
(引用終わり)-------------------------
う〜んと唸った。そうか。そうなのか。
ACの回復のためには、回復過程であるAC同士の集まりである自助グループへの参加が効果的なんだそうだ。当然ウォイティツもそう言うグループの活動のことも良く知っているはずだから、これは想像だけれど、そういう場で「他のACに注意するAC」のことを良く見聞きしてきたということなんだと思う。そうでなければ、この「注意点」は書けないよなぁ。
そうなんだ。ACからの回復というのは、まさに、
●全人生を逆さまに、あるいは裏返しにしなさい。
と言うのと同じことなんだよねぇ。いったん「気づき」があれば「そのとおり」と思えるんだけど、その気づきが起きる前では、人格の完全否定にしか思えない、というか、まさに「自分を支えている(偽の)人格の完全否定」をしないといけなくなるのだから、そら辛いわな。
だから、
●その人の人生に最後まで付き合う覚悟
●相手が「気づかない」のも相手の権利
ということを、心にとめよ、と言っておられるわけですわ。なるほどなぁ。
この言葉の深さを実感するのは、この「注意点」の一番目が、以下のようなものだから、なおさらなのです。
(引用開始)--------------------------
回復中の人が注意すべき事。
●一
回復とは、アダルトチルドレンにとって非常に破壊的なプロセスである。それは自分が今までずっと維持してきた世界観や自己の見方をガラリと変えるからだ。
(中略)
しかし、いったん爆発した火山を元通りの円錐形に戻すことが出来ないのと同じように、あなたは回復前の状態に戻ることはできない。このことは注意しなければならない。自分が自分でないような感じがしても驚いてはいけない。そういうことは当然起こりうることなのだ。
(引用終わり)-------------------------
これ、僕にはすごく意味が良く分かるんですけど、そうでない人にはさっぱりだと思うので、簡単に説明します。
まずアダルトチルドレンにとって「回復」というのは、まさに「自己崩壊」とも言える巨大な衝撃をともなうということなんです。人によるとは思うけど、大きな意味でそういうことです。それはもう大転回ですから。とんでもないんです。まずそこがわからないと思いますね。アダルトチルドレンの人にも、もともとまともな人にも。
で、この回復基調に一度入ってしまったら、二度とACだった時の狂った状態に戻ることはありえない、ということです。だっていまの方が絶対に幸せだもの。もう、あんな苦しい精神状態に戻りたいとは思わないですよ。いまの方が圧倒的に楽しくて快適で機能的だもの。とてもじゃないけれど、もう「親の呪縛から生まれた精神状態」になんて戻りたいとは思いもしない。
で、確かに回復プロセスというのは始まりは瞬間なんだけど、終わりというものはなくて、一生かけて自分育てをしていくことそのものが回復プロセスになっていくわけです。
ですから、時間はかかるし、とにかくゆっくりとしか進まないわけですけれども、嫌な事から逃げない、人生と向き合って取っ組み合いをする、成長する、というプロセスはずっと続けることになるし、自分の人生なんだから、そこからは逃げられないし、逃げる気も出ないということですね。それがこのウォイティッツが言っていることの「自分が自分でないような感じがしても」の意味なんです。
それは「始めての体験」なので、いままでの自分からすれば「全然自分らしい感じ」はしないということですね。いやまぁ、いままで自分が知らなかったことを知っていくプロセスなのだから、それが当たり前ってことなんですが。
たとえるなら、まだなじんでない服とか靴と同じです。体にぴったりとは来ない。慣れるまで着続けるしかない。
ここまでがウォイティツの言ってることなわけです。
もう、まさにその通り、なんです。
ところが、です。
こういう具合に回復中のACのことを、いまだにアダルトチルドレンのままの人から見ると「この人は無理して変わってしまおうとしている。変だ!」というように見えてしまうわけです。そらそうですわね、新しい服に慣れようとしてるとこなんだから、なんとなくぎこちなく見えるでしょうよ。
う〜ん、でもそれはしょうがないんだよなぁ。成長するってのは新しい服を着るってことなんだし、そういうぎこちなさを体験していくってことそのものなんだから。
それが変わるってことなんだし、いつまでも変われないってことが問題なんだし、結局そういうことなんだもんなぁ。
ということで、基本として、もう身の回りのACには、できるだけ「全人生を逆さまにしなさい」と直接言うようなことはしないようにしようと思いましたね。当人が気づこうとしない限り無理なんだし。
「そんな苦しみの中で生きるようなことは、やめなよ。」って言いたいんだけどねぇ。でもそれもまた人生なんだし、しょうがないよなぁ。
ウォイティツもまた私の心の師匠のひとりなので、師匠の言葉を支えにするしかないなぁって思う。
ちなみに、ウォイティツは女性で、旦那がアルコール依存症だった人なんですね。で、子どもも産んだ人。だからこそ、アルコール依存症の親を持つ、子どもの行く末が気になって仕方なかったわけです。
この本が出た当時というのは、誰もそういう心の問題までは考えもせず「アル中さえなおせばいい」と、アル中を抱えてる家族の心のケアなんてほったらかしだったってことです。
でも違うんだよな。世代間連鎖こそが問題なんだよ。アル中の子はACになってしまって、孫がまたアル中になったりするんだ。それはアルコールが問題なんだけど、アルコールを必要とする心の問題こそが重要なんだ、ということがポイントなんだ。
アルコールだけでなく、ギャンブルも、児童虐待も嗜癖も、共依存、とくに子どもへの無意識の依存も、なんだかんだいろいろある各種依存症すべてに通じることなんだ。
「世代間連鎖を絶て!」
ようはこれがポイントなんだってことなんだけど、その微妙な違いを、最初にキチンと解き明かしたのが、この本なんでしょうね。
あんまり書店では見かけないんだけど、やっぱりこれが原典だと思うなぁ。
齋藤学さんも良いし、ブラックやらWスミスやらいろいろいてるけど、僕にはやっぱりウォイティツだ。まず、ここが原典だと思います。
ご一読あれ。
AC(アダルトチルドレン)の家族・兄弟は確実にみんなACだし、AC同士は惹きあうから、AC同士で友達になってしまって、ACの回りにはACがいっぱいいる。そういうものなのです。
そして、そのACたちとどう付き合えばいいのかが、ここ数年の私の大きな悩みでもあったのです。
私は回復の途上にある人間だから、もとからまともな人より、うんと敏感にAC的発想を感じ取れてしまう。「その発想はまずい!」とどうしても注意したくなってしまう。それも過激に。なんせ、回復途上にある人間ですからね。まずい発想がいかにまずいのかというのが、「自分の痛み」としてわかってしまう。他人事ではないわけです。
やっと「健全な考え方」に沿って生きるということを学びはじめたのに、身の回りに不健全な発想が散見されるとえらく気になってくるわけですね。
そんなこともあって、アダルトチルドレンに関して、もう少し幅広い知識が必要かも知れないと思って、いろいろまた読みあさっていたのですが、結局、とどのつまりは、もっとも原典ともいうべき
「アダルト・チルドレン―アルコール問題家族で育った子供たち」
という本に戻りました。
これは前に紹介した
「なぜいつも、あなたの恋愛はうまくいかないのか―アダルト・チルドレンの恋愛と結婚の神話」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4313860053/ref=lm_lb_1/503-2108546-9436706
(私の紹介日記)
http://diarynote.jp/d/12917/20051224.html
を書いたジャネット・G. ウォイティツ の本。
やっぱりこの人が素晴らしいなぁ。
もともと「アダルト・チルドレン」に注目すべしと言い出した言い出しっぺなんだねぇ。やっぱりそうだったんだと思う。日本で「アダルトチルドレン」というと、どうしても齋藤学が有名で、この人の本ばかりが書店にあふれてるけど、やっぱりウォイティツだよなぁと思う。
齋藤学さんはあくまで学者の立場をくずさない人で、ウォイティツはあくまでソーシャルワーカーとして現場からのスタンスをくずさない人っていう違いでしょうね。でも本当に苦しんでる人間には、未整理な情報であっても現場からの意見の方がしっくりくると僕は思う。
で、ウォイティツの本を読んでいると、まさに、いまの僕にぴったりあてはまることが書いてありました。それは、「回復中の人が注意すべき事。」と題された数項目なのですが、そらもう、ぴったり。「そうよなぁ」とうなるしか無かった。
とくに、六項目ある「回復中の人への注意点」の中でも、この指摘にはまいった。
(引用開始)--------------------------
回復中の人が注意すべき事。
●二
他の人にこのプロセスを教えて回復させてやりたいと思うのは「もっと良い生き方がありますよ」と言っているだけではなく「あなたの全人生を逆さまに、あるいは裏返しにしなさい」と言っているのと等価だと言うことを忘れてはならない。これは他人に対する要求としては相当の物だ。
だから誰かを無知から救ってやりたいという気持ちになった時には、次のように自問することだ。
・私には、この人の回復のプロセスに最後まで付き合う覚悟があるか。
・もしこの人が変わらないことを選ぶなら、私はそれを選ぶこの人の権利を受け入れることが出来るか。
もしその自信がないなら、相手の方からやって来るまで待った方がよい。
(引用終わり)-------------------------
う〜んと唸った。そうか。そうなのか。
ACの回復のためには、回復過程であるAC同士の集まりである自助グループへの参加が効果的なんだそうだ。当然ウォイティツもそう言うグループの活動のことも良く知っているはずだから、これは想像だけれど、そういう場で「他のACに注意するAC」のことを良く見聞きしてきたということなんだと思う。そうでなければ、この「注意点」は書けないよなぁ。
そうなんだ。ACからの回復というのは、まさに、
●全人生を逆さまに、あるいは裏返しにしなさい。
と言うのと同じことなんだよねぇ。いったん「気づき」があれば「そのとおり」と思えるんだけど、その気づきが起きる前では、人格の完全否定にしか思えない、というか、まさに「自分を支えている(偽の)人格の完全否定」をしないといけなくなるのだから、そら辛いわな。
だから、
●その人の人生に最後まで付き合う覚悟
●相手が「気づかない」のも相手の権利
ということを、心にとめよ、と言っておられるわけですわ。なるほどなぁ。
この言葉の深さを実感するのは、この「注意点」の一番目が、以下のようなものだから、なおさらなのです。
(引用開始)--------------------------
回復中の人が注意すべき事。
●一
回復とは、アダルトチルドレンにとって非常に破壊的なプロセスである。それは自分が今までずっと維持してきた世界観や自己の見方をガラリと変えるからだ。
(中略)
しかし、いったん爆発した火山を元通りの円錐形に戻すことが出来ないのと同じように、あなたは回復前の状態に戻ることはできない。このことは注意しなければならない。自分が自分でないような感じがしても驚いてはいけない。そういうことは当然起こりうることなのだ。
(引用終わり)-------------------------
これ、僕にはすごく意味が良く分かるんですけど、そうでない人にはさっぱりだと思うので、簡単に説明します。
まずアダルトチルドレンにとって「回復」というのは、まさに「自己崩壊」とも言える巨大な衝撃をともなうということなんです。人によるとは思うけど、大きな意味でそういうことです。それはもう大転回ですから。とんでもないんです。まずそこがわからないと思いますね。アダルトチルドレンの人にも、もともとまともな人にも。
で、この回復基調に一度入ってしまったら、二度とACだった時の狂った状態に戻ることはありえない、ということです。だっていまの方が絶対に幸せだもの。もう、あんな苦しい精神状態に戻りたいとは思わないですよ。いまの方が圧倒的に楽しくて快適で機能的だもの。とてもじゃないけれど、もう「親の呪縛から生まれた精神状態」になんて戻りたいとは思いもしない。
で、確かに回復プロセスというのは始まりは瞬間なんだけど、終わりというものはなくて、一生かけて自分育てをしていくことそのものが回復プロセスになっていくわけです。
ですから、時間はかかるし、とにかくゆっくりとしか進まないわけですけれども、嫌な事から逃げない、人生と向き合って取っ組み合いをする、成長する、というプロセスはずっと続けることになるし、自分の人生なんだから、そこからは逃げられないし、逃げる気も出ないということですね。それがこのウォイティッツが言っていることの「自分が自分でないような感じがしても」の意味なんです。
それは「始めての体験」なので、いままでの自分からすれば「全然自分らしい感じ」はしないということですね。いやまぁ、いままで自分が知らなかったことを知っていくプロセスなのだから、それが当たり前ってことなんですが。
たとえるなら、まだなじんでない服とか靴と同じです。体にぴったりとは来ない。慣れるまで着続けるしかない。
ここまでがウォイティツの言ってることなわけです。
もう、まさにその通り、なんです。
ところが、です。
こういう具合に回復中のACのことを、いまだにアダルトチルドレンのままの人から見ると「この人は無理して変わってしまおうとしている。変だ!」というように見えてしまうわけです。そらそうですわね、新しい服に慣れようとしてるとこなんだから、なんとなくぎこちなく見えるでしょうよ。
う〜ん、でもそれはしょうがないんだよなぁ。成長するってのは新しい服を着るってことなんだし、そういうぎこちなさを体験していくってことそのものなんだから。
それが変わるってことなんだし、いつまでも変われないってことが問題なんだし、結局そういうことなんだもんなぁ。
ということで、基本として、もう身の回りのACには、できるだけ「全人生を逆さまにしなさい」と直接言うようなことはしないようにしようと思いましたね。当人が気づこうとしない限り無理なんだし。
「そんな苦しみの中で生きるようなことは、やめなよ。」って言いたいんだけどねぇ。でもそれもまた人生なんだし、しょうがないよなぁ。
ウォイティツもまた私の心の師匠のひとりなので、師匠の言葉を支えにするしかないなぁって思う。
ちなみに、ウォイティツは女性で、旦那がアルコール依存症だった人なんですね。で、子どもも産んだ人。だからこそ、アルコール依存症の親を持つ、子どもの行く末が気になって仕方なかったわけです。
この本が出た当時というのは、誰もそういう心の問題までは考えもせず「アル中さえなおせばいい」と、アル中を抱えてる家族の心のケアなんてほったらかしだったってことです。
でも違うんだよな。世代間連鎖こそが問題なんだよ。アル中の子はACになってしまって、孫がまたアル中になったりするんだ。それはアルコールが問題なんだけど、アルコールを必要とする心の問題こそが重要なんだ、ということがポイントなんだ。
アルコールだけでなく、ギャンブルも、児童虐待も嗜癖も、共依存、とくに子どもへの無意識の依存も、なんだかんだいろいろある各種依存症すべてに通じることなんだ。
「世代間連鎖を絶て!」
ようはこれがポイントなんだってことなんだけど、その微妙な違いを、最初にキチンと解き明かしたのが、この本なんでしょうね。
あんまり書店では見かけないんだけど、やっぱりこれが原典だと思うなぁ。
齋藤学さんも良いし、ブラックやらWスミスやらいろいろいてるけど、僕にはやっぱりウォイティツだ。まず、ここが原典だと思います。
ご一読あれ。
ISBN:4091573312 コミック 島本 和彦 小学館 2005/04 ¥560
敬愛する作家(?)の飯田史彦さんが昨年暮れに倒れられた。脳内出血で、あわやという所、たまたま偶然、入院した先の当直の先生が脳外科の権威。それも、いつもは当直なんかしないのに、この日に限って当直していたという危機一髪。
やっぱ、使命のある人は、そう簡単には死ねないんだと思う。ほんと。
で、年末はファンがみんなやきもきしてたのだけれど、二月に入って無事仕事にも復帰。ホームページを見てみると、いろいろ自分で書いておられて、ほんとうにホッとする。
(あ、飯田さんは、「経営学者」が本業です。前に私「経済学」とか書きましたけど間違い。経「営」学です。人間のモチベーション管理ってことが専門ね。)
そしたら、そのホームページで、この「逆境ナイン」の映画版のDVDのことを書いておられた。そうとうに気に入っておられるご様子。
ふむふむ。と気になったので、昨日ちょっとマンガ喫茶にでかけて原作を読んでみた。全六巻。三時間とかからずに読み終えた。
まず出だしが「逆境とは思うようにならない境遇や不運な境遇のことをいう!!」から始まり、いきなり「廃部だー!」と校長から申し渡される弱小野球部の物語。
廃部を逃れるために甲子園を目指すというギャグマンガなのだ。
「そこの、校長室の隅に、甲子園の優勝旗を飾りたいとは思いませんか?」と野球部キャプテンが校長を説得するという展開。
いやまぁギャグマンガなんだけどね。でも、言わんとしてることがいいんだよなぁ。ようは「いかに逆境を乗り越えるか」ですから。
そらもう、信じられないほどの逆境ばかりが、彼らを襲う。チームのメンバーがラジオ工作していて間違ってハンダごてを素手で握ってしまってバットが持てなくなるとか。(なんじゃそりゃー!)
主人公が一回の表で倒れて、気がつくと9回の表になっていて、112点差とかね。
そんな無茶な逆境を、これまた無茶な熱意で次々乗り越えていくのが主人公の「不屈闘志(ふくつ・とうし)」。
部員達に無茶な練習をさせていることを問われて、こう答える。
「おれが無茶をさせているのではない。しいていえば3つの条件、男の3つの条件がおれたちに無茶をさせているのさ!!
その条件とは、
ひとつ 男はイザというときにはやらなければならない!!
ふたつ 今がイザというときである。
そしてみっつ おれは……おれたちは男なんだッ」
わはははは。いいねぇ。
でもホント、「いまがイザという時」なんだよなぁ。ほんと。
基本は「でっかい目標を持て」ってことですね。廃部だ!と言われて「甲子園優勝」ですから。このギャップがいい。
でもホント、これこそがモチベーション管理の真髄なんだよなぁ。目標がない、あるいは低すぎるから「やる気」が出なくて落ち込んでしまうんだもの。それは本当にそうなんだもの。
そういう意味では「ドラゴン桜」も同じ。あれは受験の物語だけれど、目標管理も重視していて、やっぱりいきなり「東大合格!」から始まる。
おなじ種類の話なんだよなぁ。
でもね、高校で大学受験をするなら、究極は東大が一番上の目標なんだというのはみんな知ってるわけですよ。野球なら甲子園です。だから、そのナンバーワンを目指す手法は、ナンバーツー以下をクリアするのにも効果的であることは間違いないわけです。
ここが大切なんですねぇ。
いま私は、5年くらいかけてTOEIC900点以上を取ろうと思っておりますが、もうね、「TOEIC600点突破のかんどころ」みたいな本とか読まないもの。時間の無駄ですわ。そんなもん。
「逆境ナイン」を読んでいると、西田文郎(にしだ・ふみお)の「ツキを超える成功力」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4774506931/503-5482659-9385529
あたりと、言ってることがそっくりなんですな。
西田さんはプロスポーツアスリートの顧問とかもされている方で、この人もモチベーションの維持管理のプロだけど、この人のお話も大好きで。
で、「逆境ナイン」で語られていることが、実に似ている。そっくりなのです。
これは想像だけど、西田文郎も島本和彦も飯田史彦も、みんなB型だと思うのよな。たぶんきっと、ほぼ間違いなくそうだ。
B型っていうと突拍子もない変人とか思ってる人も多いかもしれないけど、この人たちの本とか読むと、その精神構造がよくわかっていい。実に立派な人たちなので(あー、島本和彦はちょっと違うかも知れない。:笑)、ぜひ多くの人が感化されて欲しいものだと思う。
「逆境ナイン」のチームメンバーなんて、物語の最後には、困難が立ちはだかった時に「来た来た来た来た。これが逆境だー!」と目をランランと輝かせるくらいでしてね。
いやまぁ、そんな逆境が来ないと燃えられないって方が本当は問題なんだけどね。普段から燃えておけよってことなんですが。
ともあれ、逆境であろうとなかろうと、幸せであったり充実感であったり、そういう内面的な豊かさみたいなものは「自分の責任」において、いかようにでもコントロールできるのだ、ということが、この本を読めばわかる。(これは本当。)
やる気が出ないだの、幸せを感じられないだの、欲求不満を発散させねばだの、ちんたらぽんたら文句ばーっかり言ってる奴は、ようするに「自己管理」が出来てないだけだっつーことですな。ようは。
いやまぁ「自己管理」っていうのが一番難しいんだけどさ。ま、目標を大きくすると、自己管理も、こまかな修正の手間無く、長続きしてラクだよな、っていうのは思う。
小さな目標をいくつも持つと、それごとにやることが全部バラバラで大変なんだよね。挫折もしやすいし。
目標は大きいほうが管理は簡単だわ。ホント。
「逆境ナイン」映画版のホームページはこちら。
http://www.gk9.jp/
全力でないものは死すべし! だよ。
ま、そんなことで。
敬愛する作家(?)の飯田史彦さんが昨年暮れに倒れられた。脳内出血で、あわやという所、たまたま偶然、入院した先の当直の先生が脳外科の権威。それも、いつもは当直なんかしないのに、この日に限って当直していたという危機一髪。
やっぱ、使命のある人は、そう簡単には死ねないんだと思う。ほんと。
で、年末はファンがみんなやきもきしてたのだけれど、二月に入って無事仕事にも復帰。ホームページを見てみると、いろいろ自分で書いておられて、ほんとうにホッとする。
(あ、飯田さんは、「経営学者」が本業です。前に私「経済学」とか書きましたけど間違い。経「営」学です。人間のモチベーション管理ってことが専門ね。)
そしたら、そのホームページで、この「逆境ナイン」の映画版のDVDのことを書いておられた。そうとうに気に入っておられるご様子。
ふむふむ。と気になったので、昨日ちょっとマンガ喫茶にでかけて原作を読んでみた。全六巻。三時間とかからずに読み終えた。
まず出だしが「逆境とは思うようにならない境遇や不運な境遇のことをいう!!」から始まり、いきなり「廃部だー!」と校長から申し渡される弱小野球部の物語。
廃部を逃れるために甲子園を目指すというギャグマンガなのだ。
「そこの、校長室の隅に、甲子園の優勝旗を飾りたいとは思いませんか?」と野球部キャプテンが校長を説得するという展開。
いやまぁギャグマンガなんだけどね。でも、言わんとしてることがいいんだよなぁ。ようは「いかに逆境を乗り越えるか」ですから。
そらもう、信じられないほどの逆境ばかりが、彼らを襲う。チームのメンバーがラジオ工作していて間違ってハンダごてを素手で握ってしまってバットが持てなくなるとか。(なんじゃそりゃー!)
主人公が一回の表で倒れて、気がつくと9回の表になっていて、112点差とかね。
そんな無茶な逆境を、これまた無茶な熱意で次々乗り越えていくのが主人公の「不屈闘志(ふくつ・とうし)」。
部員達に無茶な練習をさせていることを問われて、こう答える。
「おれが無茶をさせているのではない。しいていえば3つの条件、男の3つの条件がおれたちに無茶をさせているのさ!!
その条件とは、
ひとつ 男はイザというときにはやらなければならない!!
ふたつ 今がイザというときである。
そしてみっつ おれは……おれたちは男なんだッ」
わはははは。いいねぇ。
でもホント、「いまがイザという時」なんだよなぁ。ほんと。
基本は「でっかい目標を持て」ってことですね。廃部だ!と言われて「甲子園優勝」ですから。このギャップがいい。
でもホント、これこそがモチベーション管理の真髄なんだよなぁ。目標がない、あるいは低すぎるから「やる気」が出なくて落ち込んでしまうんだもの。それは本当にそうなんだもの。
そういう意味では「ドラゴン桜」も同じ。あれは受験の物語だけれど、目標管理も重視していて、やっぱりいきなり「東大合格!」から始まる。
おなじ種類の話なんだよなぁ。
でもね、高校で大学受験をするなら、究極は東大が一番上の目標なんだというのはみんな知ってるわけですよ。野球なら甲子園です。だから、そのナンバーワンを目指す手法は、ナンバーツー以下をクリアするのにも効果的であることは間違いないわけです。
ここが大切なんですねぇ。
いま私は、5年くらいかけてTOEIC900点以上を取ろうと思っておりますが、もうね、「TOEIC600点突破のかんどころ」みたいな本とか読まないもの。時間の無駄ですわ。そんなもん。
「逆境ナイン」を読んでいると、西田文郎(にしだ・ふみお)の「ツキを超える成功力」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4774506931/503-5482659-9385529
あたりと、言ってることがそっくりなんですな。
西田さんはプロスポーツアスリートの顧問とかもされている方で、この人もモチベーションの維持管理のプロだけど、この人のお話も大好きで。
で、「逆境ナイン」で語られていることが、実に似ている。そっくりなのです。
これは想像だけど、西田文郎も島本和彦も飯田史彦も、みんなB型だと思うのよな。たぶんきっと、ほぼ間違いなくそうだ。
B型っていうと突拍子もない変人とか思ってる人も多いかもしれないけど、この人たちの本とか読むと、その精神構造がよくわかっていい。実に立派な人たちなので(あー、島本和彦はちょっと違うかも知れない。:笑)、ぜひ多くの人が感化されて欲しいものだと思う。
「逆境ナイン」のチームメンバーなんて、物語の最後には、困難が立ちはだかった時に「来た来た来た来た。これが逆境だー!」と目をランランと輝かせるくらいでしてね。
いやまぁ、そんな逆境が来ないと燃えられないって方が本当は問題なんだけどね。普段から燃えておけよってことなんですが。
ともあれ、逆境であろうとなかろうと、幸せであったり充実感であったり、そういう内面的な豊かさみたいなものは「自分の責任」において、いかようにでもコントロールできるのだ、ということが、この本を読めばわかる。(これは本当。)
やる気が出ないだの、幸せを感じられないだの、欲求不満を発散させねばだの、ちんたらぽんたら文句ばーっかり言ってる奴は、ようするに「自己管理」が出来てないだけだっつーことですな。ようは。
いやまぁ「自己管理」っていうのが一番難しいんだけどさ。ま、目標を大きくすると、自己管理も、こまかな修正の手間無く、長続きしてラクだよな、っていうのは思う。
小さな目標をいくつも持つと、それごとにやることが全部バラバラで大変なんだよね。挫折もしやすいし。
目標は大きいほうが管理は簡単だわ。ホント。
「逆境ナイン」映画版のホームページはこちら。
http://www.gk9.jp/
全力でないものは死すべし! だよ。
ま、そんなことで。
「出来の悪い自分」を知る大事さ。
2006年2月2日 読書
ISBN:4088599012 コミック 井上 雄彦 集英社 2002/04/25 ¥23,512
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4088599012/249-9767057-8485143
とーとつではあるのですが、急にどうしてもスラムダンクを紹介したくなりました。
それは表題にもある「出来の悪い自分」を知る大事さについて語りたかったからであります。
このコミックスにおいて、主人公、桜木花道が、まさにそれを地でやっていて、僕的にとても好きな話だからなのです。
主人公の桜木花道(さくらぎ・はなみち)は髪の毛がもともと赤っぽい色をしているせいで、中学の時から不良扱いされてしまった粗暴な男です。腕力だけは自信があってケンカばかりしている。
それが高校に入って、可愛らしいハルコさんに誘われてバスケットをするに至ります。女目当て。向上心なんかさらさらない。
ところがここに恋のライバルとして、バスケットのプリンスとも言うべき流川楓(るかわ・かえで)という男が出てくる。まずシュートがうまい。しかもハルコさんがあこがれる。
花道は焦りますが、周りから「でかい体を利用してダンクをしろ」と言われて、その「ダンク」とやらの練習をします。これはジャンプ力がある花道ならでは。ボールを投げてリングに入れるのではなく、リングの下でジャンプして、手で直接ボールをリングにたたき込むやりかたです。
身体能力の高い花道は、ずっとこのダンク一本で勝負を続けるのです。それでなんとかなったから。(フンフンディフェンスというのもあったが、それはまぁオマケ。)
点取れるしね。もう、これ一本で「天才!桜木花道」と自分で言う。バカだから。
そして、もうずっと流川楓と張り合い続けるわけです。同じチームなのに。ひたすら流川を敵視する。
でまぁ、ずっとそのまま話は続くんだけど、途中で、練習の過程で、「ロングシュートのフォームをビデオに撮る」って言うのが出てくるんですよね。選手それぞれの。
で、それを花道は見るわけだ。花道はダンクはできても、ロングシュートとか全然できませんからね。
これがひどいわけです。
もう、型になってない。
どうしようもないわけ。
それを、花道はガーーーーンと、ショックとともに知るわけですよ。「なんだ、俺のフォームは!!!」って思うわけ。
ずっと流川を敵視してたから、流川の美しいロングシュートのフォームをよーく知ってるわけですよ、花道は。
それと自分の姿を比べて、あまりの違いに愕然とするわけ。(まねごと程度はやっていたりはするわけ。でも入らない。当然ですね。練習してないもん。入るわけない。)
で、実は流川という男は、もともとバスケットに対する才能がすごくあるうえに、キチンと練習もこなし続けてきてる正当派のバスケ人間なわけです。だから当然フォームも美しい。
で、花道は自分のシュートの姿も、その流川なみに美しくなっていると思ってたわけですよ。普段見てるフォームが真の天才流川が努力して身につけた最上のフォームだったから、それが「普通」と思ってたわけですね。
で、「ヤツと俺は、そんなに変わらんわい」と思ってたわけです。
でもビデオに撮って見ると、その差は歴然なわけ。どうしようもないくらいの差。あたりまえだけど。
花道にすれば、ショック。ショック。大ショックなわけです。自分の出来の悪さを、嫌でも知るしかなかったわけ。
で、ここで花道は「負けたくない」と思った。で、どうすればいいのかをコーチの安西先生に聞く(んだったと思う。うろ覚え。)。
そしたら、「練習です」って言われる。うんと練習しなさいって。追いつけるかどうかわからんが、とにかく練習せよと。
で、花道の偉いところは、ここからシュートの練習を始めるわけです。題して二万本シュート。
いやまぁマンガだからね。いきなり二万本とかの話になっちゃうけど、ようはここで、花道は「出来の悪い自分」の「受け入れ」をやってる訳です。
はっきり言ってね、この「出来の悪い自分の受け入れ」ができない人は成長はありえないんですよ。
もうずーーーーーっとダンクだけでどうにかしようとしてしまう。
もし自分のレベルを上げようと思ったら、この「出来の悪い自分の受け入れ」をするしか他に方法はないんですね。
ガーンと落ち込んで「わしが間違ってた」と自分の愚かさに気づく他に道はないわけです。こればっかりはしょうがないんです。
で、この「わしが間違ってた」と思えない人は、もうずっと身体能力にかまけたダンク狙いしかできず、敵チームにダンクを防がれただけで「能なし」になるわけです。もうそれはしょうがない。
ハルコさんの気持ちを動かそうにも、ハルコさんは「地道な練習の結果としての楓のシュートフォームの素晴らしさ」に心を奪われてるのだから、ダンクしかできない花道には同情はしてもらえても、あこがれてもらうことはできない。
だから花道は二万本シュートをするわけです。それは、ビデオが示す「出来の悪い自分」を、進んで受け入れるということです。
それはケンカで勝つことしか頭になかった花道にとっては、すごい屈辱なわけです。嫌で嫌でたまらない。
でも、花道は受け入れた。二万本シュートをした。
だから最後の盛り上がりのところで、シュートを決めるんだよなぁ。まぁ、これは付け足しみたいなもんで、本当に重要なのは「出来の悪い自分を受け入れる」というところ。
ここが本当にいい。
素晴らしい。
スラムダンクってマンガは、ようはこのシーンだけだと僕は思ってる。
ここにすべてがある。
他の話は、まぁどうでもいいや。山王とか敵チームの人間描写とかどうでもいい。
もうひたすら花道の「出来の悪い自分の受け入れ」、これにすべてがあると思う。
ここではたまたま完全版を紹介しましたが、もともとのジャンプコミックスは全31巻でね。連載されてた時も、ほぼ最初からずっとリアルタイムに読んでたのだけれど、あとで一度漫画喫茶で全巻通して読み直したら、「なんてすごいマンガなんだ」とあらためて思ったわけです。
で、その一番すばらしい、核となる話が、この「出来の悪い自分の受け入れ」って話だよなぁって思うわけで。
この後、作者の井上健彦は、宮本武蔵を題材にした「バガボンド」に行くわけですけど、そらもう、絵といい表現といい、神が宿ったかというほどにすごい。それはやっぱりこの「出来の悪い自分を受け入れる」ということの大切さを井上健彦が良く知っているからこそなんだと思うのよなー。
たぶん井上健彦も、自分なりの「二万本シュート」をしているはずなんだよ。で、それはどこかで「出来の悪い自分」の受け入れをしたからなんだよなー、きっと、って思う。
「出来の悪い自分の受け入れ」というのは、それほど重要なことなのだ。「受け入れ」だから、「否定」ではないのだよ。わかる?
「いまは出来が悪い」だ。
「でも明日はわからん」だ。
だから練習なのだよ。勉強なのだよ。そこが重要なのだ。
「出来が悪いからダメだ」は自己否定にしかすぎないので、意味ない。「出来の悪い自分の受け入れ」は、事実を事実として認識した上で、頑張るのか頑張らないのかを自己決定するってことで、これが「幸せ」につながる。
「出来が悪いから、もう練習はせず、バスケを辞める」というのも選択肢ではある。それでもいい。でも「二万本シュートをする」という選択肢もある。そこは自己責任、自己決定をするしかない。
で、その決定を責任持ってできるかどうかは、まず「出来の悪い自分」を認めてやることが先なわけです。愛情持って自分の現実を受け入れる。ありのままの自分を知り、それを愛するということです。
これこそがすべての成長の基本の基本だと思うのだ。
だから「君は間違っている」と指摘された時などは、大飛躍の大チャンスなのだから、素直に受け入れないとダメ。
ここで「受け入れ」もできないのは、単なるガキ。話にならない。バカです。
僕が本を読むというのは、結局いつも「自分の間違った認識をいかに修正していくのか」のために読む。勘違いしてるんだよ。人間は。花道みたいに「俺のフォームは素晴らしい」とか、勝手な妄想だけを頼りに生きてたりするんだ。
その「妄想」を修正するためにこそ、本を読むのだ。そこにこそ本を読む意味がある。で、そういう修正を正しく行うためには先にも書いたけど、「大事なところは赤線で。個人的に面白いと思ったところは緑線で」という区別が必要なわけです。
これはまさに「自分の妄想」と「ビデオの視点」の区別をちゃんとやるってことだ。それなしに本を読んでも意味ない。
実際花道だって妄想だけじゃダメだもん。「俺はきっとシュートフォームも素晴らしいに違いない」だけじゃだめってことです。
「じゃ、花道、お前、試合でロングシュート決めたことあるか?」と言われたら「ない」と答えるしかないわけでね。で、それは、もうシュートの型がなってないということそのものなわけ。
で、なにより重要なことは、その型がなってないということは、自分以外の他の人たちは、もう、みんな知ってるってことなわけ。「こいつにロングシュートはできねぇよな。」ってわかる。当人より周りがわかってる。チョンばれ。当人だけがわかってないんだよなぁ。
なのに、自分だけが「俺のシュートのフォームは素晴らしい」と思いこんでいて、それに気がつかない。
まさにバカです。かっこ悪いことこの上ない。恥ずかしくないのかねってことでして。いやまぁ気づいてないから恥ずかしくないんだろうけど。周りは気づいてるから、周りが恥ずかしいよなぁ。
で、その自分が気づいてないことを、教えてくれるのが、「叱ってくれる人」なわけなんだけど、バカはそこで気づくことができないのよなぁ。フォームの汚さを言われてもわからない。それこそビデオで自分で見るまで、全然気づけないわけだ。まぁ可愛らしいっちゃぁ可愛らしいが、迷惑この上ないわね、これ。
関係ない他人なら、「しゃーない」で済むけど、たぶん一緒に試合するチームの仲間だったら、ものすごく怒るよな。現実では。スラムダンクはマンガだから周りに叱る人が出てこないけど。
ほんと、叱られているうちが花ってやつです。
人間、誰にでも「出来の悪いところ」というのは永遠に存在し続けるのだから、一生、日々「出来の悪いところ」を愛して受け入れて、修正したいところは修正する、伸ばさないところはさっさと諦めるとか、日々自己決定していかないと、そら幸せにはなれないって思うのですよ。
だからまず、自分のありのままの姿、「出来の悪い自分」を認識するってことが大事だと思うのよなー、ほんとに。
これのできない人はダメだと思う。本当にだめだ。
僕的には、そういう人とは、付き合いたくないのですよ。だってずっと「俺のシュートは素晴らしい」みたいな妄想につきあうとかしないといけないってことだから。それ、時間の無駄だもん。ものすごーーーーいムダ。人生を棒に振る。そんなことやってられんもんなぁ。
「お前、それ間違ってるん違うん?」「何々どこが? ああ、ここか。自分ではわからんかったわ。さんきゅ。」「おうよ。俺も間違ってたら教えてな。」「わかった。まかせて。」
こういう関係の人としかつきあいたくないわけですよ。少なくとも、いま身の回りにいる人はそういう人ばっかりなので楽しいですが。
でもこれが「お前、それまちがってるん違うん?」「間違ってないよ。」「いや、間違ってるって。こっちから見たらようわかるもん」「そっちから見た言い方だけされても、こっちからは間違っているとは感じられないんだから間違ってないよ。」とか言われると、もう匙を投げるしかない。
勝手にやっててちょ、って思う。親切で花道における「ビデオの役目」をやってやってるというのにさ。まったく。
どうでもいいやって思う。
とにかく花道君は偉かった。自分の「出来の悪さ」を即受け入れ、それの修正に努力した。で、そういう努力は、経験から言っても、まぁ成功する。正しく自己認識できれば、努力のあり方も正しくなるものなのだ。自己認識もできてなくて修正努力をあれやこれや、いろいろやっても、すごーく遠回りなだけだ。
英語でもそうなんよなぁ。TOEIC受けるまでは、なんだかんだいろいろやってたけど遠回りばっかりだった気がする。まぁ、これはまだ結果でてないからなぁ。まだわからんけど、でも点数という「ビデオ」があるのはいいね。ほんとにそう思うわ。
ともあれ、スラムダンクは、ひたすら、このビデオのエピソードが好き。ひたすら好き。素晴らしいと思います。これぞ人生というものの縮図だと思う。
ま、そんなことで。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4088599012/249-9767057-8485143
とーとつではあるのですが、急にどうしてもスラムダンクを紹介したくなりました。
それは表題にもある「出来の悪い自分」を知る大事さについて語りたかったからであります。
このコミックスにおいて、主人公、桜木花道が、まさにそれを地でやっていて、僕的にとても好きな話だからなのです。
主人公の桜木花道(さくらぎ・はなみち)は髪の毛がもともと赤っぽい色をしているせいで、中学の時から不良扱いされてしまった粗暴な男です。腕力だけは自信があってケンカばかりしている。
それが高校に入って、可愛らしいハルコさんに誘われてバスケットをするに至ります。女目当て。向上心なんかさらさらない。
ところがここに恋のライバルとして、バスケットのプリンスとも言うべき流川楓(るかわ・かえで)という男が出てくる。まずシュートがうまい。しかもハルコさんがあこがれる。
花道は焦りますが、周りから「でかい体を利用してダンクをしろ」と言われて、その「ダンク」とやらの練習をします。これはジャンプ力がある花道ならでは。ボールを投げてリングに入れるのではなく、リングの下でジャンプして、手で直接ボールをリングにたたき込むやりかたです。
身体能力の高い花道は、ずっとこのダンク一本で勝負を続けるのです。それでなんとかなったから。(フンフンディフェンスというのもあったが、それはまぁオマケ。)
点取れるしね。もう、これ一本で「天才!桜木花道」と自分で言う。バカだから。
そして、もうずっと流川楓と張り合い続けるわけです。同じチームなのに。ひたすら流川を敵視する。
でまぁ、ずっとそのまま話は続くんだけど、途中で、練習の過程で、「ロングシュートのフォームをビデオに撮る」って言うのが出てくるんですよね。選手それぞれの。
で、それを花道は見るわけだ。花道はダンクはできても、ロングシュートとか全然できませんからね。
これがひどいわけです。
もう、型になってない。
どうしようもないわけ。
それを、花道はガーーーーンと、ショックとともに知るわけですよ。「なんだ、俺のフォームは!!!」って思うわけ。
ずっと流川を敵視してたから、流川の美しいロングシュートのフォームをよーく知ってるわけですよ、花道は。
それと自分の姿を比べて、あまりの違いに愕然とするわけ。(まねごと程度はやっていたりはするわけ。でも入らない。当然ですね。練習してないもん。入るわけない。)
で、実は流川という男は、もともとバスケットに対する才能がすごくあるうえに、キチンと練習もこなし続けてきてる正当派のバスケ人間なわけです。だから当然フォームも美しい。
で、花道は自分のシュートの姿も、その流川なみに美しくなっていると思ってたわけですよ。普段見てるフォームが真の天才流川が努力して身につけた最上のフォームだったから、それが「普通」と思ってたわけですね。
で、「ヤツと俺は、そんなに変わらんわい」と思ってたわけです。
でもビデオに撮って見ると、その差は歴然なわけ。どうしようもないくらいの差。あたりまえだけど。
花道にすれば、ショック。ショック。大ショックなわけです。自分の出来の悪さを、嫌でも知るしかなかったわけ。
で、ここで花道は「負けたくない」と思った。で、どうすればいいのかをコーチの安西先生に聞く(んだったと思う。うろ覚え。)。
そしたら、「練習です」って言われる。うんと練習しなさいって。追いつけるかどうかわからんが、とにかく練習せよと。
で、花道の偉いところは、ここからシュートの練習を始めるわけです。題して二万本シュート。
いやまぁマンガだからね。いきなり二万本とかの話になっちゃうけど、ようはここで、花道は「出来の悪い自分」の「受け入れ」をやってる訳です。
はっきり言ってね、この「出来の悪い自分の受け入れ」ができない人は成長はありえないんですよ。
もうずーーーーーっとダンクだけでどうにかしようとしてしまう。
もし自分のレベルを上げようと思ったら、この「出来の悪い自分の受け入れ」をするしか他に方法はないんですね。
ガーンと落ち込んで「わしが間違ってた」と自分の愚かさに気づく他に道はないわけです。こればっかりはしょうがないんです。
で、この「わしが間違ってた」と思えない人は、もうずっと身体能力にかまけたダンク狙いしかできず、敵チームにダンクを防がれただけで「能なし」になるわけです。もうそれはしょうがない。
ハルコさんの気持ちを動かそうにも、ハルコさんは「地道な練習の結果としての楓のシュートフォームの素晴らしさ」に心を奪われてるのだから、ダンクしかできない花道には同情はしてもらえても、あこがれてもらうことはできない。
だから花道は二万本シュートをするわけです。それは、ビデオが示す「出来の悪い自分」を、進んで受け入れるということです。
それはケンカで勝つことしか頭になかった花道にとっては、すごい屈辱なわけです。嫌で嫌でたまらない。
でも、花道は受け入れた。二万本シュートをした。
だから最後の盛り上がりのところで、シュートを決めるんだよなぁ。まぁ、これは付け足しみたいなもんで、本当に重要なのは「出来の悪い自分を受け入れる」というところ。
ここが本当にいい。
素晴らしい。
スラムダンクってマンガは、ようはこのシーンだけだと僕は思ってる。
ここにすべてがある。
他の話は、まぁどうでもいいや。山王とか敵チームの人間描写とかどうでもいい。
もうひたすら花道の「出来の悪い自分の受け入れ」、これにすべてがあると思う。
ここではたまたま完全版を紹介しましたが、もともとのジャンプコミックスは全31巻でね。連載されてた時も、ほぼ最初からずっとリアルタイムに読んでたのだけれど、あとで一度漫画喫茶で全巻通して読み直したら、「なんてすごいマンガなんだ」とあらためて思ったわけです。
で、その一番すばらしい、核となる話が、この「出来の悪い自分の受け入れ」って話だよなぁって思うわけで。
この後、作者の井上健彦は、宮本武蔵を題材にした「バガボンド」に行くわけですけど、そらもう、絵といい表現といい、神が宿ったかというほどにすごい。それはやっぱりこの「出来の悪い自分を受け入れる」ということの大切さを井上健彦が良く知っているからこそなんだと思うのよなー。
たぶん井上健彦も、自分なりの「二万本シュート」をしているはずなんだよ。で、それはどこかで「出来の悪い自分」の受け入れをしたからなんだよなー、きっと、って思う。
「出来の悪い自分の受け入れ」というのは、それほど重要なことなのだ。「受け入れ」だから、「否定」ではないのだよ。わかる?
「いまは出来が悪い」だ。
「でも明日はわからん」だ。
だから練習なのだよ。勉強なのだよ。そこが重要なのだ。
「出来が悪いからダメだ」は自己否定にしかすぎないので、意味ない。「出来の悪い自分の受け入れ」は、事実を事実として認識した上で、頑張るのか頑張らないのかを自己決定するってことで、これが「幸せ」につながる。
「出来が悪いから、もう練習はせず、バスケを辞める」というのも選択肢ではある。それでもいい。でも「二万本シュートをする」という選択肢もある。そこは自己責任、自己決定をするしかない。
で、その決定を責任持ってできるかどうかは、まず「出来の悪い自分」を認めてやることが先なわけです。愛情持って自分の現実を受け入れる。ありのままの自分を知り、それを愛するということです。
これこそがすべての成長の基本の基本だと思うのだ。
だから「君は間違っている」と指摘された時などは、大飛躍の大チャンスなのだから、素直に受け入れないとダメ。
ここで「受け入れ」もできないのは、単なるガキ。話にならない。バカです。
僕が本を読むというのは、結局いつも「自分の間違った認識をいかに修正していくのか」のために読む。勘違いしてるんだよ。人間は。花道みたいに「俺のフォームは素晴らしい」とか、勝手な妄想だけを頼りに生きてたりするんだ。
その「妄想」を修正するためにこそ、本を読むのだ。そこにこそ本を読む意味がある。で、そういう修正を正しく行うためには先にも書いたけど、「大事なところは赤線で。個人的に面白いと思ったところは緑線で」という区別が必要なわけです。
これはまさに「自分の妄想」と「ビデオの視点」の区別をちゃんとやるってことだ。それなしに本を読んでも意味ない。
実際花道だって妄想だけじゃダメだもん。「俺はきっとシュートフォームも素晴らしいに違いない」だけじゃだめってことです。
「じゃ、花道、お前、試合でロングシュート決めたことあるか?」と言われたら「ない」と答えるしかないわけでね。で、それは、もうシュートの型がなってないということそのものなわけ。
で、なにより重要なことは、その型がなってないということは、自分以外の他の人たちは、もう、みんな知ってるってことなわけ。「こいつにロングシュートはできねぇよな。」ってわかる。当人より周りがわかってる。チョンばれ。当人だけがわかってないんだよなぁ。
なのに、自分だけが「俺のシュートのフォームは素晴らしい」と思いこんでいて、それに気がつかない。
まさにバカです。かっこ悪いことこの上ない。恥ずかしくないのかねってことでして。いやまぁ気づいてないから恥ずかしくないんだろうけど。周りは気づいてるから、周りが恥ずかしいよなぁ。
で、その自分が気づいてないことを、教えてくれるのが、「叱ってくれる人」なわけなんだけど、バカはそこで気づくことができないのよなぁ。フォームの汚さを言われてもわからない。それこそビデオで自分で見るまで、全然気づけないわけだ。まぁ可愛らしいっちゃぁ可愛らしいが、迷惑この上ないわね、これ。
関係ない他人なら、「しゃーない」で済むけど、たぶん一緒に試合するチームの仲間だったら、ものすごく怒るよな。現実では。スラムダンクはマンガだから周りに叱る人が出てこないけど。
ほんと、叱られているうちが花ってやつです。
人間、誰にでも「出来の悪いところ」というのは永遠に存在し続けるのだから、一生、日々「出来の悪いところ」を愛して受け入れて、修正したいところは修正する、伸ばさないところはさっさと諦めるとか、日々自己決定していかないと、そら幸せにはなれないって思うのですよ。
だからまず、自分のありのままの姿、「出来の悪い自分」を認識するってことが大事だと思うのよなー、ほんとに。
これのできない人はダメだと思う。本当にだめだ。
僕的には、そういう人とは、付き合いたくないのですよ。だってずっと「俺のシュートは素晴らしい」みたいな妄想につきあうとかしないといけないってことだから。それ、時間の無駄だもん。ものすごーーーーいムダ。人生を棒に振る。そんなことやってられんもんなぁ。
「お前、それ間違ってるん違うん?」「何々どこが? ああ、ここか。自分ではわからんかったわ。さんきゅ。」「おうよ。俺も間違ってたら教えてな。」「わかった。まかせて。」
こういう関係の人としかつきあいたくないわけですよ。少なくとも、いま身の回りにいる人はそういう人ばっかりなので楽しいですが。
でもこれが「お前、それまちがってるん違うん?」「間違ってないよ。」「いや、間違ってるって。こっちから見たらようわかるもん」「そっちから見た言い方だけされても、こっちからは間違っているとは感じられないんだから間違ってないよ。」とか言われると、もう匙を投げるしかない。
勝手にやっててちょ、って思う。親切で花道における「ビデオの役目」をやってやってるというのにさ。まったく。
どうでもいいやって思う。
とにかく花道君は偉かった。自分の「出来の悪さ」を即受け入れ、それの修正に努力した。で、そういう努力は、経験から言っても、まぁ成功する。正しく自己認識できれば、努力のあり方も正しくなるものなのだ。自己認識もできてなくて修正努力をあれやこれや、いろいろやっても、すごーく遠回りなだけだ。
英語でもそうなんよなぁ。TOEIC受けるまでは、なんだかんだいろいろやってたけど遠回りばっかりだった気がする。まぁ、これはまだ結果でてないからなぁ。まだわからんけど、でも点数という「ビデオ」があるのはいいね。ほんとにそう思うわ。
ともあれ、スラムダンクは、ひたすら、このビデオのエピソードが好き。ひたすら好き。素晴らしいと思います。これぞ人生というものの縮図だと思う。
ま、そんなことで。
ああ、これか、と思った。
2006年1月20日 読書
英語上達完全マップ―初級からTOEIC900点レベルまでの効果的勉強法
ISBN:4860641027 単行本 森沢 洋介 ベレ出版 2005/10 ¥1,470
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4860641027/249-9767057-8485143
去年の六月くらいから、また英語の虫がうずき出して、いろいろやっておりまして。
で、夏にはじめてTOEIC受けてみて「ん?これならちょっと努力すれば、けっこういけるんでないかい?」という感触を得たのですね。
いやまぁ、点数は400点すら行かなかったのだけれど、とにかく会場で流れる英語音声が、けっこう遅いというのがわかっただけでも収穫でありました。
ただ、いったい何をどう勉強すればいいのかが全然わからなくて、あっちへうろうろ、こっちへうろうろしていて、英語に関する勉強本を、またまた何冊も読むという、いつも通りのパターンになってたんですね。
ま、いちおう「TOEIC900点以上を取った人」の本に限って読んでたんですが。
いや、というのが、実際にTOEICを受けてみて、「あ、こら、900点以上取れなければ、実用上役に立たないね」というのがよーーーーくわかったから。
で、読んだ本。
●英語嫌いの東大卒が教える私の英語学習法
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4756908624/250-2770463-4966657
●英語勉強力―成功する超効率学習
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4887244045/ref=pd_ecc_rvi_1/250-2770463-4966657
このほかにもあと一冊二冊は読んだかな?
で、最終的に表題の「英語上達完全マップ」にたどりついたのであります。
上記二冊の本とも、内容的には優れてたんですが、僕的には、この「英語上達マップ」に書かれていた勉強法が納得できた。
基本は音読なんですね。お手本の音データを聞いて、お手本をストップさせて真似てしゃべる「リピーティング」。単にテキストを読むだけの「音読」。お手本に少し遅れて読む「シャドーイング」。
これらをまとめてやりなさいと。そういう提案のある本です。(まとめてやりなさいというのが良い。変化があって飽きないのです。)
中学英語の教科書を、ひたすら一ページ百回くらい音読しろと。ただ飽きるから、30回、20回、15回と、少しずつの単位にわけて、一冊の教科書を何回も回せってことなんですね。
あと瞬間英作文とか、例文を音読しながらの文法とか、いろいろ面白いことは書いてあるんですが、ようは「音読」なんです。
音読はね、去年の六月くらいにも
●英会話・ぜったい・音読 【続・入門編】
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4770025246/qid=1134706869/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/250-2770463-4966657
というのをひと月くらいはやってたわけです。
でも、この本に書いてある方法だと音読の回数が少ないんだよなぁ。一回あたり五回とかだった。それじゃダメなんだよなぁ。実感としてそれじゃダメなんだというのが感じられてたのですね。
簡単なところはそれでもいいんだけど、ちょっと早口なとことか、構文的にちょっと複雑なところとかは、絶対もっとたくさん音読しないとダメだってわかってた。だからこの本のやり方はどうも続かなかったのですね。
苦手な部分だけ何度も読めばいいかなぁとも思ったけど、それもなんだか違うんだよなぁ。何か違う。そういうことではない。流れが失われてしまう感じがあって嫌なわけで。
でも、単純にワンセクションの音読回数を一気に30とかに増やすというところに行き着かなかったんですね。僕の発想では。
で、この「完全マップ」に「最初のワンサイクルは必ず30回以上の音読をしてください。そうでないとうまく行きません。これは何人もの人に教えてきて体得した数字です。」てなことが書かれていて、「おおー!」って思ったわけです。
「そうか、そうか、30回音読か。なるほど!」ってなもんです。
これは納得がいった。そのくらいの回数を最初にやらないと、流れに乗って音読する「おもしろさ」がなくなっちゃうんですね。やってて楽しくならない。不完全燃焼になっちゃう。で、この本が気に入ったわけです。
で、この本に「良い教材」として紹介されていた、
中学英語で言いたいことが24時間話せる!
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4523263752/250-9558994-3478634
も手に入れてやってるんですが、なんとこっちには「各文80回音読しなさい」ってなってる。
どひゃー。
って感じなんですが。
これはもう、何も考えずに、ひたすら音読だよなーって感じになっていて。
で、この感覚は、実はウクレレの練習にすごく近い。
別に何も考えなくていいわけですよ。
ただ楽譜見てそのとおりに弾こうと努力するだけ。
それと同じ。
ようは「勉強」ではなくて「練習」なんですな。
そう考えると、一気にラクになってきまして。
「なんや、練習かい。それやったらウクレレでずーっとやってるやん。一緒やん。」って感じになってきたわけで。
で、そんなこんなで11月の中頃からずーっとヒマな時には音読するようにして「練習」してきたわけですが、この間文法の練習問題を解いているときに、穴埋め問題の答えが、それこそバネ仕掛けみたいに出てきた。
「選択項目のなかから一つ選びなさい」と言うタイプの問題だったんだけど、その選択肢なんか読みもしなかったもんね。
「ああ、これか。」って思ったわけで。
「バネ仕掛けのように反射的にでてくるようでないとダメ」と、この本に書かれていたのだけれど、その意味がようやくわかった。
で、実際日本語だって、そういう「反射」で書いてるし、しゃべってるんだよなーって、改めて思った。
いやー、そういうことなんだよねー。
うむうむ。
なんでもないことなんだけれど、この「あ、いま着実に伸びてる」という感じこそが大事なんだよなーってことなんです。
こういう感じがなければ、やっぱ、「生きてる」って実感が得られないって思う。極端な言い方ですけど。でも、そうなんだよなー。やっぱり、日々なにか「練習、練習」って感じで何かにチャレンジしてないと生き生きできないんじゃないかなぁ。そう思う。
サハラ砂漠は、世界最大の砂漠で、そこを横断しようとして、何百人もの人が命を落としているそうなんだけれど、それを防ぐために、55ガロン入りの大きな樽を5キロごとに置くという措置が取られたんだそうです。
砂漠には道も造れないですしね。単に「目印」だけ。
で、この樽は後ろに一個、目の前に一個だけ見える。
やることは単純で、ただ次の樽めがけて歩くだけ。
そういうことなんですよ。生きていくということは。
目標を目指して、一個一個、樽に近づくだけ。
それだけでいいんだよなぁって思う。
これが樽もなしに歩くと彷徨うだけになっちゃう。それでどこに行ったらいいのかわからなくなって、道に迷ってのたれ死にするってことですわ。
自分のやってきたことを反省し、その結果としていまの自分があるということを認める。いいところも悪いところも、両方ね。両方とも自分なんだ。それが後ろにある樽。
で、じゃあ、自分はどうなりたいんだろう。自分にとって、何を幸せとするのか、どんな人になろうとしているのかをキチンとイメージして、そっちの方向に「行くんだ!」と決意して歩き出すこと。それが次の樽。
結局はそれだけでいいんだろうなぁってことなんですね。
この自分の中の樽をちゃんと目印にしておかないと、酒におぼれたり、ギャンブルに走ったり、子供だけが生きがいになったりという「依存症」になってしまうんだと思うのですよ。
特に言いたいのが「周りに頼るな」ですねー。周りに合わせていては幸せにはなれない。「樽」がなくなっちゃう。
仲良くすることは必要だから、周りに合わせていくこともしなくちゃいけないけど、それで「樽」をなくしたらダメなんだよね。
だから、他者と関わりを持つ前に、まず「自分の心の中をしっかりと覗いて、自分の行きたい場所を明確にする」って作業が必要だよなーって思う。
これがないと、心が空っぽになって、「樽」の位置を見失って、周りとの関係を「樽」と勘違いして、関係の維持だけが人生みたいになっていく。で、そんなことしてると、どんどん人生がつまらなくなるんだよね。
いわく。
何より「恋人」が大事とか、
何より「家族」が大事とか、
何より「子供」が大事とか。
いや確かにそれは大事なんだけど、それより先に大事なのが「樽を置く自分」なんだよ。それなくして「家族優先」とかにするのは「依存症」なんだ。
まず「自分」が大事なんです。「自分」。
みんな、誰だって「自分」こそが大事に決まっているんだから。
で、自分を大事にしてはじめて、「自分を大事にするように、他者を大事にする」ができるんだもんな。なにをしてもらったらうれしいのか? ということを、自分で実感してなけりゃ、誰かを喜ばすことは永遠に不可能なのですよ。
そういうことが、なんか良くわかったなぁって思う。
そんなもの、英語の穴埋め問題がパッとわかったからって、別に大したことじゃないんだけど、「TOEICでいずれは900点以上を取りたいなぁ」という大目標があるから、パッとわかった時に、「あ、ひとつ次の樽までたどりついた」って思えるわけでね。
理想の大目標は想像できる範囲でできるだけ大きくして、後は小さな達成感を、自分でキチンと味わうように小目標を設定するってことだと思う。
これが長く続けるコツなんだと思う。
このあたりの話も、この「完全マップ」には少しは書いてあるので、そこがうれしかったりもするのです。
いわく、著者の森本さんがジョギングで失敗ばかりしていた時の話。いきなり高い目標を持って長距離を走ろうとするから、ちょっと雨が降ったら「今日はやめよう」となって、結局続かなくなる、という話。
ジョギングの一日目は、ウェアに着替えて、表に出て、ちょっと小走りして、10分もたたずに家に帰ってくる。それが大事なんだそうです。
そして、走る距離を少しずつ伸ばす。
今日は10分走った。明日は15分走ろう。
そういうことを続けて、自分の「樽」に順番にたどりつくようにする。そうすることがコツなんですね。
目標設定を自分でやって、達成できたら「やったー!」と叫ぶ。
で、「やったー!」と叫ぶことが楽しみなのだから、目標はあまり大きくしない。
(あ、理想は高く掲げないとダメですよ。高い目標は、小分けにするといくらでも小さな目標に分割できるからいいのです。無限に達成する喜びを得られるってわけです。ここ、重要なポイントね。)
結局、大切なのはそういう事なのだ。
樽を置こう。自分で置こう。
で、その樽を目指そう。
そうすれば、何だって出来る。
しかも楽しみながら、生き生きと。
ほんと、これこそが一番大切な考え方だと、僕は思うよ。うむ。
ISBN:4860641027 単行本 森沢 洋介 ベレ出版 2005/10 ¥1,470
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4860641027/249-9767057-8485143
去年の六月くらいから、また英語の虫がうずき出して、いろいろやっておりまして。
で、夏にはじめてTOEIC受けてみて「ん?これならちょっと努力すれば、けっこういけるんでないかい?」という感触を得たのですね。
いやまぁ、点数は400点すら行かなかったのだけれど、とにかく会場で流れる英語音声が、けっこう遅いというのがわかっただけでも収穫でありました。
ただ、いったい何をどう勉強すればいいのかが全然わからなくて、あっちへうろうろ、こっちへうろうろしていて、英語に関する勉強本を、またまた何冊も読むという、いつも通りのパターンになってたんですね。
ま、いちおう「TOEIC900点以上を取った人」の本に限って読んでたんですが。
いや、というのが、実際にTOEICを受けてみて、「あ、こら、900点以上取れなければ、実用上役に立たないね」というのがよーーーーくわかったから。
で、読んだ本。
●英語嫌いの東大卒が教える私の英語学習法
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4756908624/250-2770463-4966657
●英語勉強力―成功する超効率学習
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4887244045/ref=pd_ecc_rvi_1/250-2770463-4966657
このほかにもあと一冊二冊は読んだかな?
で、最終的に表題の「英語上達完全マップ」にたどりついたのであります。
上記二冊の本とも、内容的には優れてたんですが、僕的には、この「英語上達マップ」に書かれていた勉強法が納得できた。
基本は音読なんですね。お手本の音データを聞いて、お手本をストップさせて真似てしゃべる「リピーティング」。単にテキストを読むだけの「音読」。お手本に少し遅れて読む「シャドーイング」。
これらをまとめてやりなさいと。そういう提案のある本です。(まとめてやりなさいというのが良い。変化があって飽きないのです。)
中学英語の教科書を、ひたすら一ページ百回くらい音読しろと。ただ飽きるから、30回、20回、15回と、少しずつの単位にわけて、一冊の教科書を何回も回せってことなんですね。
あと瞬間英作文とか、例文を音読しながらの文法とか、いろいろ面白いことは書いてあるんですが、ようは「音読」なんです。
音読はね、去年の六月くらいにも
●英会話・ぜったい・音読 【続・入門編】
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4770025246/qid=1134706869/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/250-2770463-4966657
というのをひと月くらいはやってたわけです。
でも、この本に書いてある方法だと音読の回数が少ないんだよなぁ。一回あたり五回とかだった。それじゃダメなんだよなぁ。実感としてそれじゃダメなんだというのが感じられてたのですね。
簡単なところはそれでもいいんだけど、ちょっと早口なとことか、構文的にちょっと複雑なところとかは、絶対もっとたくさん音読しないとダメだってわかってた。だからこの本のやり方はどうも続かなかったのですね。
苦手な部分だけ何度も読めばいいかなぁとも思ったけど、それもなんだか違うんだよなぁ。何か違う。そういうことではない。流れが失われてしまう感じがあって嫌なわけで。
でも、単純にワンセクションの音読回数を一気に30とかに増やすというところに行き着かなかったんですね。僕の発想では。
で、この「完全マップ」に「最初のワンサイクルは必ず30回以上の音読をしてください。そうでないとうまく行きません。これは何人もの人に教えてきて体得した数字です。」てなことが書かれていて、「おおー!」って思ったわけです。
「そうか、そうか、30回音読か。なるほど!」ってなもんです。
これは納得がいった。そのくらいの回数を最初にやらないと、流れに乗って音読する「おもしろさ」がなくなっちゃうんですね。やってて楽しくならない。不完全燃焼になっちゃう。で、この本が気に入ったわけです。
で、この本に「良い教材」として紹介されていた、
中学英語で言いたいことが24時間話せる!
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4523263752/250-9558994-3478634
も手に入れてやってるんですが、なんとこっちには「各文80回音読しなさい」ってなってる。
どひゃー。
って感じなんですが。
これはもう、何も考えずに、ひたすら音読だよなーって感じになっていて。
で、この感覚は、実はウクレレの練習にすごく近い。
別に何も考えなくていいわけですよ。
ただ楽譜見てそのとおりに弾こうと努力するだけ。
それと同じ。
ようは「勉強」ではなくて「練習」なんですな。
そう考えると、一気にラクになってきまして。
「なんや、練習かい。それやったらウクレレでずーっとやってるやん。一緒やん。」って感じになってきたわけで。
で、そんなこんなで11月の中頃からずーっとヒマな時には音読するようにして「練習」してきたわけですが、この間文法の練習問題を解いているときに、穴埋め問題の答えが、それこそバネ仕掛けみたいに出てきた。
「選択項目のなかから一つ選びなさい」と言うタイプの問題だったんだけど、その選択肢なんか読みもしなかったもんね。
「ああ、これか。」って思ったわけで。
「バネ仕掛けのように反射的にでてくるようでないとダメ」と、この本に書かれていたのだけれど、その意味がようやくわかった。
で、実際日本語だって、そういう「反射」で書いてるし、しゃべってるんだよなーって、改めて思った。
いやー、そういうことなんだよねー。
うむうむ。
なんでもないことなんだけれど、この「あ、いま着実に伸びてる」という感じこそが大事なんだよなーってことなんです。
こういう感じがなければ、やっぱ、「生きてる」って実感が得られないって思う。極端な言い方ですけど。でも、そうなんだよなー。やっぱり、日々なにか「練習、練習」って感じで何かにチャレンジしてないと生き生きできないんじゃないかなぁ。そう思う。
サハラ砂漠は、世界最大の砂漠で、そこを横断しようとして、何百人もの人が命を落としているそうなんだけれど、それを防ぐために、55ガロン入りの大きな樽を5キロごとに置くという措置が取られたんだそうです。
砂漠には道も造れないですしね。単に「目印」だけ。
で、この樽は後ろに一個、目の前に一個だけ見える。
やることは単純で、ただ次の樽めがけて歩くだけ。
そういうことなんですよ。生きていくということは。
目標を目指して、一個一個、樽に近づくだけ。
それだけでいいんだよなぁって思う。
これが樽もなしに歩くと彷徨うだけになっちゃう。それでどこに行ったらいいのかわからなくなって、道に迷ってのたれ死にするってことですわ。
自分のやってきたことを反省し、その結果としていまの自分があるということを認める。いいところも悪いところも、両方ね。両方とも自分なんだ。それが後ろにある樽。
で、じゃあ、自分はどうなりたいんだろう。自分にとって、何を幸せとするのか、どんな人になろうとしているのかをキチンとイメージして、そっちの方向に「行くんだ!」と決意して歩き出すこと。それが次の樽。
結局はそれだけでいいんだろうなぁってことなんですね。
この自分の中の樽をちゃんと目印にしておかないと、酒におぼれたり、ギャンブルに走ったり、子供だけが生きがいになったりという「依存症」になってしまうんだと思うのですよ。
特に言いたいのが「周りに頼るな」ですねー。周りに合わせていては幸せにはなれない。「樽」がなくなっちゃう。
仲良くすることは必要だから、周りに合わせていくこともしなくちゃいけないけど、それで「樽」をなくしたらダメなんだよね。
だから、他者と関わりを持つ前に、まず「自分の心の中をしっかりと覗いて、自分の行きたい場所を明確にする」って作業が必要だよなーって思う。
これがないと、心が空っぽになって、「樽」の位置を見失って、周りとの関係を「樽」と勘違いして、関係の維持だけが人生みたいになっていく。で、そんなことしてると、どんどん人生がつまらなくなるんだよね。
いわく。
何より「恋人」が大事とか、
何より「家族」が大事とか、
何より「子供」が大事とか。
いや確かにそれは大事なんだけど、それより先に大事なのが「樽を置く自分」なんだよ。それなくして「家族優先」とかにするのは「依存症」なんだ。
まず「自分」が大事なんです。「自分」。
みんな、誰だって「自分」こそが大事に決まっているんだから。
で、自分を大事にしてはじめて、「自分を大事にするように、他者を大事にする」ができるんだもんな。なにをしてもらったらうれしいのか? ということを、自分で実感してなけりゃ、誰かを喜ばすことは永遠に不可能なのですよ。
そういうことが、なんか良くわかったなぁって思う。
そんなもの、英語の穴埋め問題がパッとわかったからって、別に大したことじゃないんだけど、「TOEICでいずれは900点以上を取りたいなぁ」という大目標があるから、パッとわかった時に、「あ、ひとつ次の樽までたどりついた」って思えるわけでね。
理想の大目標は想像できる範囲でできるだけ大きくして、後は小さな達成感を、自分でキチンと味わうように小目標を設定するってことだと思う。
これが長く続けるコツなんだと思う。
このあたりの話も、この「完全マップ」には少しは書いてあるので、そこがうれしかったりもするのです。
いわく、著者の森本さんがジョギングで失敗ばかりしていた時の話。いきなり高い目標を持って長距離を走ろうとするから、ちょっと雨が降ったら「今日はやめよう」となって、結局続かなくなる、という話。
ジョギングの一日目は、ウェアに着替えて、表に出て、ちょっと小走りして、10分もたたずに家に帰ってくる。それが大事なんだそうです。
そして、走る距離を少しずつ伸ばす。
今日は10分走った。明日は15分走ろう。
そういうことを続けて、自分の「樽」に順番にたどりつくようにする。そうすることがコツなんですね。
目標設定を自分でやって、達成できたら「やったー!」と叫ぶ。
で、「やったー!」と叫ぶことが楽しみなのだから、目標はあまり大きくしない。
(あ、理想は高く掲げないとダメですよ。高い目標は、小分けにするといくらでも小さな目標に分割できるからいいのです。無限に達成する喜びを得られるってわけです。ここ、重要なポイントね。)
結局、大切なのはそういう事なのだ。
樽を置こう。自分で置こう。
で、その樽を目指そう。
そうすれば、何だって出来る。
しかも楽しみながら、生き生きと。
ほんと、これこそが一番大切な考え方だと、僕は思うよ。うむ。
積み重ねたら、大事なことはだいたい一緒。
2005年12月21日 読書
三色ボールペン情報活用術
ISBN:4047041351 新書 齋藤 孝 角川書店 2003/06 ¥800
えーっと、三色ボールペン活用術です。知ってる人は知ってますが、赤・緑・青の三色のボールペンで、線を引きながら本を読んでいこう、という提案の勉強術本です。
で、実は今日は本の紹介ではありません。先日の「幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである」という言葉の別の側面からの証明をしたいと思って書いてます。
三色ボールペン活用術において、赤は「文脈上、大事と思われたところ」青は「まぁ大事かな、というようなところ」緑は「文章の内容とは関係なく自分が面白いと思ったところ」の意味を持たせて、本に傍線を引いていくということをします。
こうすると、後で読み直しをしたりするときも読みやすくて良いです。僕は抜き書き派なので、あんまり書き込みはしませんけど、良い提案だと思います。(最近は自分の書いたものに三色ボールペンでチェックを入れてます。)
で、です。
大事なのは、「赤」です。
本を読みながら大事なところに線を入れるという行為を続けていくと、赤線を引く場所が、まぁだいたい同じ本なら、多くの人が同じ場所に赤線を引くようになるということです。
たとえば、あんまり読書になじんでない人、あるいは本を読むことは良くやっていても、線を入れるということはやったことがない人だったりすると、「大事だ」と入れる赤線の位置が、他の人とは違うのだそうです。
ちょっとずれる。
それはやっぱり、キチンと読み解く、ということができてないからなんですね。書物が伝えようとすることをキチンと受け取ろうとしてない、あるいは、それだけの素養がない、ということなんです。
しかし、齋藤孝さんの教え子たちは、誰であれ「文章の趣旨をくみ取る」という練習をしていけば、自然と赤線を引く位置は決まってくる、同じになるのだそうです。
こういうのを普遍性といいます。
これ、本当は当たり前なんです。作者が何かを伝えようとして書いているのだから、その伝わる部分は同じなのが当たり前で、赤線の位置が、ずれるというのは、たぶん「自分勝手な読み解き方」をしているのですよ。
でも、最初のうちは、自分が自分勝手な読み解き方をしているのだということに気づけないんです。少しずつ練習していって、「みんなと同じところを大事と思える」ようになってくるんです。
これは文章の読み方、ということに対するひとつの例ですが、これは何事においても同じ。幸せについても同じ。
「幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである」
というのと同じ。大事なことは同じ。そういうことなんです。
そういう当たり前に大事なことに逆らってもしょうがない。大事なことは大事なんです。
目的地を決めないとそこには行けない。それを決めないのは、ただ、漂流してるだけってことです。
別にそれで悪くもないけど、やっぱり目的地を決めて、そっちへいくぞと思う方がいい。
で、理想の姿を求めて「そっちへいくぞ」と決めればそっちへ行けるというのは、それこそ成功哲学とか書いてる多くの人が、ほとんど一言一句変わらずに書いているようなことで、まさに「幸福な家庭は一様だ」を体現するかのようなのです。
これは別に僕が「そう思いなさい」と命令してることではなくて、「そういうものなんだからそうなんだ」ってことなんですよ。
なんでもかんでもわかる人間なんていてやしないけど、誰が考えても、キチンと考えたら同じ答えにしかならないって事柄は意外に多く、そして、それらの「みんなが言うこと」は、やっぱり大事な事柄であることが多い。
で、上の三色ボールペンでの線の引き方のように、その線の引き方がズレてる人は、ようするに「自分勝手な曲解がある」というだけのことなんだね。
それはやっぱりそうなんだよ。
それはどう言ったって、そうなんだからしょうがないよ。
積み重ねて行ったら、結局、大事なことはだいたい一緒になるってのはあるんだよ。そういう「だいたい一緒」に抵抗しても、まぁ意味はない。それは赤じゃなくて緑。緑の線はいくらでも引いたらいいんだし、それはどんどんやればいいけど、赤の線は「大事なこと」であり、他の人と共有すべきこと、であり、他の人と一緒になるのが当然なのだ。
このあいだからの「人間性バトン」のこともひっくるめて、そう書いておきます。
大事なことは、まぁ、だいたいみんな一緒で、そこがうまく重ならないのは、どこかに曲解があるってことだよなぁ。それは。やっぱり。
ISBN:4047041351 新書 齋藤 孝 角川書店 2003/06 ¥800
えーっと、三色ボールペン活用術です。知ってる人は知ってますが、赤・緑・青の三色のボールペンで、線を引きながら本を読んでいこう、という提案の勉強術本です。
で、実は今日は本の紹介ではありません。先日の「幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである」という言葉の別の側面からの証明をしたいと思って書いてます。
三色ボールペン活用術において、赤は「文脈上、大事と思われたところ」青は「まぁ大事かな、というようなところ」緑は「文章の内容とは関係なく自分が面白いと思ったところ」の意味を持たせて、本に傍線を引いていくということをします。
こうすると、後で読み直しをしたりするときも読みやすくて良いです。僕は抜き書き派なので、あんまり書き込みはしませんけど、良い提案だと思います。(最近は自分の書いたものに三色ボールペンでチェックを入れてます。)
で、です。
大事なのは、「赤」です。
本を読みながら大事なところに線を入れるという行為を続けていくと、赤線を引く場所が、まぁだいたい同じ本なら、多くの人が同じ場所に赤線を引くようになるということです。
たとえば、あんまり読書になじんでない人、あるいは本を読むことは良くやっていても、線を入れるということはやったことがない人だったりすると、「大事だ」と入れる赤線の位置が、他の人とは違うのだそうです。
ちょっとずれる。
それはやっぱり、キチンと読み解く、ということができてないからなんですね。書物が伝えようとすることをキチンと受け取ろうとしてない、あるいは、それだけの素養がない、ということなんです。
しかし、齋藤孝さんの教え子たちは、誰であれ「文章の趣旨をくみ取る」という練習をしていけば、自然と赤線を引く位置は決まってくる、同じになるのだそうです。
こういうのを普遍性といいます。
これ、本当は当たり前なんです。作者が何かを伝えようとして書いているのだから、その伝わる部分は同じなのが当たり前で、赤線の位置が、ずれるというのは、たぶん「自分勝手な読み解き方」をしているのですよ。
でも、最初のうちは、自分が自分勝手な読み解き方をしているのだということに気づけないんです。少しずつ練習していって、「みんなと同じところを大事と思える」ようになってくるんです。
これは文章の読み方、ということに対するひとつの例ですが、これは何事においても同じ。幸せについても同じ。
「幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである」
というのと同じ。大事なことは同じ。そういうことなんです。
そういう当たり前に大事なことに逆らってもしょうがない。大事なことは大事なんです。
目的地を決めないとそこには行けない。それを決めないのは、ただ、漂流してるだけってことです。
別にそれで悪くもないけど、やっぱり目的地を決めて、そっちへいくぞと思う方がいい。
で、理想の姿を求めて「そっちへいくぞ」と決めればそっちへ行けるというのは、それこそ成功哲学とか書いてる多くの人が、ほとんど一言一句変わらずに書いているようなことで、まさに「幸福な家庭は一様だ」を体現するかのようなのです。
これは別に僕が「そう思いなさい」と命令してることではなくて、「そういうものなんだからそうなんだ」ってことなんですよ。
なんでもかんでもわかる人間なんていてやしないけど、誰が考えても、キチンと考えたら同じ答えにしかならないって事柄は意外に多く、そして、それらの「みんなが言うこと」は、やっぱり大事な事柄であることが多い。
で、上の三色ボールペンでの線の引き方のように、その線の引き方がズレてる人は、ようするに「自分勝手な曲解がある」というだけのことなんだね。
それはやっぱりそうなんだよ。
それはどう言ったって、そうなんだからしょうがないよ。
積み重ねて行ったら、結局、大事なことはだいたい一緒になるってのはあるんだよ。そういう「だいたい一緒」に抵抗しても、まぁ意味はない。それは赤じゃなくて緑。緑の線はいくらでも引いたらいいんだし、それはどんどんやればいいけど、赤の線は「大事なこと」であり、他の人と共有すべきこと、であり、他の人と一緒になるのが当然なのだ。
このあいだからの「人間性バトン」のこともひっくるめて、そう書いておきます。
大事なことは、まぁ、だいたいみんな一緒で、そこがうまく重ならないのは、どこかに曲解があるってことだよなぁ。それは。やっぱり。
わははは。久しぶりの本格的バカ登場。その2。
2005年12月17日 読書
人類の月面着陸はあったんだ論―と学会レポートISBN:4903063011 単行本 志水 一夫 楽工社 2005/11 ¥1,680
ということで、この本がなんで生まれてきたかという背景をちょっと書いておきます。
最初はわが尊敬する副島隆彦さんが「人類の月面着陸はなかったろう論」という本を出したというところからはじまります。
副島さんはアメリカ政治の分析を主たる言論活動の中心に持ってきてますから、その流れからの著作です。
で、まぁ言論活動も商売ですから、副島さんはドーンと「なかった」側に意見を集中して言論を通した。あるていどあざとくないと売れないもん。それはまぁしょうがない。
で、この「政治社会本」に、あほな事に「と学会」の連中がかみついた。政治社会の分野で噛みついたのならいいんですが、自然科学的なところから「トンデモ本だ」ということにしちゃった。
(このトンデモ本という言い方も実に気持ち悪い言い方で、僕はあんまり好きじゃないんですけどね。言論界では批判は当たり前で、いままで著名な作家や学者がそれぞれにいろいろな批判合戦をキチンとやってきている。だからわざわざ「トンデモ本」とか中途半端な言い方をせずに、真正面切って批判すりゃぁいいんだ。でもそういう正当なやりかたをしないんだよなぁ。まぁ、よこやり入れるのも、おもしろくはあるから、それはそれで別にいいけど。でも作家としては、トンデモ本的言い方しかしない作家って、やっぱり二流三流のそしりはまぬがれないと僕は思う。)
で、またこんな腰の据わってない人たちの意見なんか無視すりゃいいのに(批判の矛先はNASAに向いてるのであって、他はどうでもいいのだ。)副島さんはこの「と学会」の人たちにも色々言っちゃったんだなぁ。無視すりゃいいのに。このへん、副島さんもムダな力使うからいけない。ほっときゃいいのに、バカなんだから、こいつら。
で、いろいろ反論されたもんだから、こんな本を出したってことでしょう。ようするに「副島、きらい」だけで本を出してるのが、タイトルからだけでもよく分かる。
で、ここで一番重要なのは、この書き込みの冒頭に戻る。
「この本を見た一般人はどう思うのか」ということですね。
だって、「人類は月に行ってないのではないか?」という問いかけ自体がマイナーもマイナー、よっぽど変人しか言わないことじゃないですか。
普通は「え? 人類は月には行ったよ。つーか、行ったんでしょ? 違うの?」としか思わないって。
そういう普通人のことは全然頭に入ってないのよね、この人たち。要するに、そういう、当たり前の豊かな常識みたいなことが欠けている、ちょっと発想に問題のある人間が書いてるってことです。そうとしか受け取れないよなぁ、このタイトルだと。
だから、「月に行ったのがあたりまえ」と思ってる人が「行ってなかったのかな?」と新たな疑問を持ってくれるので、この本の紹介はするのです。ふふふふふ。バカだなぁこいつら。
つまり、こんな本を出すということ自体が、くしくも、この本を書いている人たち自身も「もしかしたら行ってないんじゃないの?」と思い始めたという意味以外に解釈のしようがないってことなわけですよ。
そういう本にしかなってない。ああ、おもろい。
何も言わないでおけば、常識というものはそのままずっと常識のままとどまると言うのにねぇ。
広く世間を見ずに、バカにされたとか、そういうような感情だけで本を書くと、こういう具合に自分たちの意図とは反対のことにしかならないという、まさにバカの見本のような本です。
ここまでアホ・バカな本も、まぁないよなぁ。この滑稽さを、書いた当人たちだけがわかってないような気がする。この本が出ることで、間違いなく副島さんの「人類の月面着陸はなかったろう論」も良く売れることになる。あんまり売れてなかったらしいから、願ったりかなったりかも知れない。(あ、そこまで計算して、と学会批判したんかしら、副島さんは。んー、それも違うと思うが。)
ちなみに「と学会」というのは、まぁ「トンデモ本批判本ファンの集まり」でして、「トンデモ本批判本を読んでおけば、いろいろな本をたくさん読まなくて済むからいいや。」という「本読まない集団」のことですので、正しくご理解くださいませ。
どういうわけか、この「読まないことで批判する」という言語道断の風潮が、世の中の一部のバカを中心に考え方として世の中に存在しているというのは、本当に嘆かわしいことだとおもいますなぁ。
いわく「あの本はトンデモ本なんだってさ、良かったぁ読まなくて」ってとらえ方です。「と学会」の会員ってそんな人ばっかし。ちょっとちょっと、それはおかしいんじゃないの?
本はキチンと読んで、自分の頭で判定するべし、です。
それこそが「自由」ってことなんだよ。わかってる?
会長が「この本はトンデモ本です」と言ったら読まないってのは、思考停止だよなぁ。
ちゅうことで、何にせよ、「トンデモ本だから読まない」というのは「私はバカです」と宣言しているのと、まーーーーったく同じです。はい。
読んでない本は「わからない」。あたりまえでしょうが。どうして「わからない」ことを「わからない」と普通に言えないのか、ってことですけどね。
まったく、この国はどうなっておるのだか、ですなぁ。
ということで、この本がなんで生まれてきたかという背景をちょっと書いておきます。
最初はわが尊敬する副島隆彦さんが「人類の月面着陸はなかったろう論」という本を出したというところからはじまります。
副島さんはアメリカ政治の分析を主たる言論活動の中心に持ってきてますから、その流れからの著作です。
で、まぁ言論活動も商売ですから、副島さんはドーンと「なかった」側に意見を集中して言論を通した。あるていどあざとくないと売れないもん。それはまぁしょうがない。
で、この「政治社会本」に、あほな事に「と学会」の連中がかみついた。政治社会の分野で噛みついたのならいいんですが、自然科学的なところから「トンデモ本だ」ということにしちゃった。
(このトンデモ本という言い方も実に気持ち悪い言い方で、僕はあんまり好きじゃないんですけどね。言論界では批判は当たり前で、いままで著名な作家や学者がそれぞれにいろいろな批判合戦をキチンとやってきている。だからわざわざ「トンデモ本」とか中途半端な言い方をせずに、真正面切って批判すりゃぁいいんだ。でもそういう正当なやりかたをしないんだよなぁ。まぁ、よこやり入れるのも、おもしろくはあるから、それはそれで別にいいけど。でも作家としては、トンデモ本的言い方しかしない作家って、やっぱり二流三流のそしりはまぬがれないと僕は思う。)
で、またこんな腰の据わってない人たちの意見なんか無視すりゃいいのに(批判の矛先はNASAに向いてるのであって、他はどうでもいいのだ。)副島さんはこの「と学会」の人たちにも色々言っちゃったんだなぁ。無視すりゃいいのに。このへん、副島さんもムダな力使うからいけない。ほっときゃいいのに、バカなんだから、こいつら。
で、いろいろ反論されたもんだから、こんな本を出したってことでしょう。ようするに「副島、きらい」だけで本を出してるのが、タイトルからだけでもよく分かる。
で、ここで一番重要なのは、この書き込みの冒頭に戻る。
「この本を見た一般人はどう思うのか」ということですね。
だって、「人類は月に行ってないのではないか?」という問いかけ自体がマイナーもマイナー、よっぽど変人しか言わないことじゃないですか。
普通は「え? 人類は月には行ったよ。つーか、行ったんでしょ? 違うの?」としか思わないって。
そういう普通人のことは全然頭に入ってないのよね、この人たち。要するに、そういう、当たり前の豊かな常識みたいなことが欠けている、ちょっと発想に問題のある人間が書いてるってことです。そうとしか受け取れないよなぁ、このタイトルだと。
だから、「月に行ったのがあたりまえ」と思ってる人が「行ってなかったのかな?」と新たな疑問を持ってくれるので、この本の紹介はするのです。ふふふふふ。バカだなぁこいつら。
つまり、こんな本を出すということ自体が、くしくも、この本を書いている人たち自身も「もしかしたら行ってないんじゃないの?」と思い始めたという意味以外に解釈のしようがないってことなわけですよ。
そういう本にしかなってない。ああ、おもろい。
何も言わないでおけば、常識というものはそのままずっと常識のままとどまると言うのにねぇ。
広く世間を見ずに、バカにされたとか、そういうような感情だけで本を書くと、こういう具合に自分たちの意図とは反対のことにしかならないという、まさにバカの見本のような本です。
ここまでアホ・バカな本も、まぁないよなぁ。この滑稽さを、書いた当人たちだけがわかってないような気がする。この本が出ることで、間違いなく副島さんの「人類の月面着陸はなかったろう論」も良く売れることになる。あんまり売れてなかったらしいから、願ったりかなったりかも知れない。(あ、そこまで計算して、と学会批判したんかしら、副島さんは。んー、それも違うと思うが。)
ちなみに「と学会」というのは、まぁ「トンデモ本批判本ファンの集まり」でして、「トンデモ本批判本を読んでおけば、いろいろな本をたくさん読まなくて済むからいいや。」という「本読まない集団」のことですので、正しくご理解くださいませ。
どういうわけか、この「読まないことで批判する」という言語道断の風潮が、世の中の一部のバカを中心に考え方として世の中に存在しているというのは、本当に嘆かわしいことだとおもいますなぁ。
いわく「あの本はトンデモ本なんだってさ、良かったぁ読まなくて」ってとらえ方です。「と学会」の会員ってそんな人ばっかし。ちょっとちょっと、それはおかしいんじゃないの?
本はキチンと読んで、自分の頭で判定するべし、です。
それこそが「自由」ってことなんだよ。わかってる?
会長が「この本はトンデモ本です」と言ったら読まないってのは、思考停止だよなぁ。
ちゅうことで、何にせよ、「トンデモ本だから読まない」というのは「私はバカです」と宣言しているのと、まーーーーったく同じです。はい。
読んでない本は「わからない」。あたりまえでしょうが。どうして「わからない」ことを「わからない」と普通に言えないのか、ってことですけどね。
まったく、この国はどうなっておるのだか、ですなぁ。
わははは。久しぶりの本格的バカ登場。その1
2005年12月17日 読書
人類の月面着陸はあったんだ論―と学会レポート
ISBN:4903063011 単行本 志水 一夫 楽工社 2005/11 ¥1,680
いやぁ、実にバカだねぇ、こいつら。
わははははは。
おもろい。
「人類の月面着陸はあったんだ論」だってさ。
あほか。
そんなもの、「人類の月面着陸はあった」というコトになってるんだから、わざわざ「論」とか言うこと自体が滑稽なこととは、考えもしなかったんだろうか?
普通に一般人が見たら、「?????なんだこいつら?何が言いたいんだ」としか思わんじゃないか。
ここまでのバカな本を私は見たことがない。
いやー、存在自体が自己矛盾を起こしている、こんなアホな本を書くバカがこの世にいたとは。実におもしろい。
天然記念物なみのバカだなぁ、こいつら。
共著なので、ちょっと名前を列挙しておきます。
山本 弘 (著), 江藤 巌 (著), 皆神 龍太郎 (著), 植木 不等式 (著), 志水 一夫 (著)
ふはははは。バカだ、こいつら。
書籍というのは、名前も出して世に問うのだから、このように「おまーらバカ」と言われることも覚悟しておけ。
私は、ごく普通の一般人なので、アポロの月面着陸に関しては「あったとアメリカが言ってるから、あったことになっている。なかったという人の意見も聞くべき点は非常に多い。が、とどのつまり行ったかどうかはNASAなどの『行った』というキチンとした証明をするまでは、わからない。だから、わからないという立場です。」と答えることにしている。
まぁ豊かな常識がある人なら、こう言うのが当たり前である。
で、その「証明」は、科学の範疇のことなのだから、「再現性」こそが重要。2回でも3回でも繰り返し人類が月面に着陸することで証明されるのだ。
科学的に再現可能であれば、そのノウハウを他国が盗むとか、あるいはなんらかの出来事から漏れるとかして、他の国にも伝わる気がするんだが。でも三十年にも渡って、アメリカ以外の国で人類の月面着陸を成功させた国はない。それどころか、宇宙空間に本格的な宇宙ステーションを建造するというようなことすら行われていない。
そんなことを考え合わせると「人類は月には行ってないのではないか?」という疑惑が出ても、別におかしくはないでしょう。
NASAが行うべきことが「月に行ったことの証明」であれば、そうではない一般人がやるべきことは、「ほんまに行ったのか?」と疑うところまで、である。
で、この「疑う」ということすら、実は私はしない。「疑っているという人もいてるが、とりあえず世の中は行ったことになってるから、まぁ特段自分の損にも得にもならないから、わからないでいいや」という立場である。
ええやん、べつに。「わからない」で。「わからん」ことはわからんのだ。もしかしたら月面着陸は地球で撮影したフィルムでしかなくても、別にいいよ。で、本当に月まで出かけていたとしても、現実問題、月に親戚ができたわけでもなし、どうでもいいや。
そのくらいが、豊かな常識なのではないか?
で、この問題に決着をつけられるのは、唯一NASAだけである。当時のロケットから宇宙服から月面着陸船まで、すべての設計図面を公開して、「どうぞ他国のみなさん、月までお出かけください、これで行けます。」とやればいいのだ。
そら、ものすごい資金がアメリカになだれこみますぜ、お父さん。
だから証明責任は、NASAにしかないのである。だからいくら「あったんだ」と信じたとしても、いえるのは「あったんだろう」までなのだ。
絶対に「あったんだ」とは言えないのである。
そんな当たり前のことも、こいつらはわかってなくて、平気で「あったんだ論」なる珍妙なものを書いているわけです。
バカだなぁ。本当にバカだなぁ。
これが「あったんだろう論」なら、おもしろい! とほめてやっても良かったんだけど。
この馬鹿さ加減をわかりやすく説明しますと、記録を作ったイチロー選手が、どうやってそれだけの記録を作ったのかをイチロー自身が一言も言ってないのに、トレーナーでもなんでもないひとが、「腕の振りをああしてこうして」と必死に解説して「こうすれば記録が作れるのだ」と力説している滑稽さなのです。
ちゅうか、そういう滑稽さにしかならないということを、まったく考えもしなかったんだろうか、こいつらは。
おまえらが月に行ったんじゃないだろう!
ちゅう事ですわ。
まぁ、人類の月面着陸というのは、夢といえば夢だから、それはそれで「達成されたんだ」としておく方が、理系の人たちのモチベーションは高まるし、そのままにしておいても僕は別にいいと思う。
けど、この本はあまりにバカだなぁ。
信じられないくらい程度が低いわ。
「あったんだろう論」ならまともだけど「あったんだ論」となると教祖様の言うことは絶対でございます、科学は万能でございますという言い方にしかなってないよなぁ。社会科学的な見方が全然できてない。
月面着陸というのは「政治的にあの時期に達成されてないとマズかったから大嘘の映像を流したのではないのか」という、政治や社会構造の面から「疑問」が提出されてるってのに、それを自然科学の範疇だけで説明しても意味はないよなぁ。
ことほどさように、日本人は「社会科学」に弱いのであります。政治学とか社会学とか全然ダメだもん。しょうがないけど。
(この項続く。あー、また3000字超えたよ。)
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ISBN:4903063011 単行本 志水 一夫 楽工社 2005/11 ¥1,680
いやぁ、実にバカだねぇ、こいつら。
わははははは。
おもろい。
「人類の月面着陸はあったんだ論」だってさ。
あほか。
そんなもの、「人類の月面着陸はあった」というコトになってるんだから、わざわざ「論」とか言うこと自体が滑稽なこととは、考えもしなかったんだろうか?
普通に一般人が見たら、「?????なんだこいつら?何が言いたいんだ」としか思わんじゃないか。
ここまでのバカな本を私は見たことがない。
いやー、存在自体が自己矛盾を起こしている、こんなアホな本を書くバカがこの世にいたとは。実におもしろい。
天然記念物なみのバカだなぁ、こいつら。
共著なので、ちょっと名前を列挙しておきます。
山本 弘 (著), 江藤 巌 (著), 皆神 龍太郎 (著), 植木 不等式 (著), 志水 一夫 (著)
ふはははは。バカだ、こいつら。
書籍というのは、名前も出して世に問うのだから、このように「おまーらバカ」と言われることも覚悟しておけ。
私は、ごく普通の一般人なので、アポロの月面着陸に関しては「あったとアメリカが言ってるから、あったことになっている。なかったという人の意見も聞くべき点は非常に多い。が、とどのつまり行ったかどうかはNASAなどの『行った』というキチンとした証明をするまでは、わからない。だから、わからないという立場です。」と答えることにしている。
まぁ豊かな常識がある人なら、こう言うのが当たり前である。
で、その「証明」は、科学の範疇のことなのだから、「再現性」こそが重要。2回でも3回でも繰り返し人類が月面に着陸することで証明されるのだ。
科学的に再現可能であれば、そのノウハウを他国が盗むとか、あるいはなんらかの出来事から漏れるとかして、他の国にも伝わる気がするんだが。でも三十年にも渡って、アメリカ以外の国で人類の月面着陸を成功させた国はない。それどころか、宇宙空間に本格的な宇宙ステーションを建造するというようなことすら行われていない。
そんなことを考え合わせると「人類は月には行ってないのではないか?」という疑惑が出ても、別におかしくはないでしょう。
NASAが行うべきことが「月に行ったことの証明」であれば、そうではない一般人がやるべきことは、「ほんまに行ったのか?」と疑うところまで、である。
で、この「疑う」ということすら、実は私はしない。「疑っているという人もいてるが、とりあえず世の中は行ったことになってるから、まぁ特段自分の損にも得にもならないから、わからないでいいや」という立場である。
ええやん、べつに。「わからない」で。「わからん」ことはわからんのだ。もしかしたら月面着陸は地球で撮影したフィルムでしかなくても、別にいいよ。で、本当に月まで出かけていたとしても、現実問題、月に親戚ができたわけでもなし、どうでもいいや。
そのくらいが、豊かな常識なのではないか?
で、この問題に決着をつけられるのは、唯一NASAだけである。当時のロケットから宇宙服から月面着陸船まで、すべての設計図面を公開して、「どうぞ他国のみなさん、月までお出かけください、これで行けます。」とやればいいのだ。
そら、ものすごい資金がアメリカになだれこみますぜ、お父さん。
だから証明責任は、NASAにしかないのである。だからいくら「あったんだ」と信じたとしても、いえるのは「あったんだろう」までなのだ。
絶対に「あったんだ」とは言えないのである。
そんな当たり前のことも、こいつらはわかってなくて、平気で「あったんだ論」なる珍妙なものを書いているわけです。
バカだなぁ。本当にバカだなぁ。
これが「あったんだろう論」なら、おもしろい! とほめてやっても良かったんだけど。
この馬鹿さ加減をわかりやすく説明しますと、記録を作ったイチロー選手が、どうやってそれだけの記録を作ったのかをイチロー自身が一言も言ってないのに、トレーナーでもなんでもないひとが、「腕の振りをああしてこうして」と必死に解説して「こうすれば記録が作れるのだ」と力説している滑稽さなのです。
ちゅうか、そういう滑稽さにしかならないということを、まったく考えもしなかったんだろうか、こいつらは。
おまえらが月に行ったんじゃないだろう!
ちゅう事ですわ。
まぁ、人類の月面着陸というのは、夢といえば夢だから、それはそれで「達成されたんだ」としておく方が、理系の人たちのモチベーションは高まるし、そのままにしておいても僕は別にいいと思う。
けど、この本はあまりにバカだなぁ。
信じられないくらい程度が低いわ。
「あったんだろう論」ならまともだけど「あったんだ論」となると教祖様の言うことは絶対でございます、科学は万能でございますという言い方にしかなってないよなぁ。社会科学的な見方が全然できてない。
月面着陸というのは「政治的にあの時期に達成されてないとマズかったから大嘘の映像を流したのではないのか」という、政治や社会構造の面から「疑問」が提出されてるってのに、それを自然科学の範疇だけで説明しても意味はないよなぁ。
ことほどさように、日本人は「社会科学」に弱いのであります。政治学とか社会学とか全然ダメだもん。しょうがないけど。
(この項続く。あー、また3000字超えたよ。)
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「嫌われないようにする」は、致命的な間違いだ。
2005年12月8日 読書
ISBN:4835615123 単行本 『夢をつかむイチロー262のメッセージ』編集委員会 ぴあ 2005/03/11 ¥1,050
しばらく前に買った本なのだけど。
これが、どういうわけか時たまパラパラと読みたくなる。
一ページに一メッセージ。イチローがインタビューを受けたときなどに発した言葉を一二行でまとめてあるだけ。
横に小さく小さく、どういう状況の時に言った言葉なのかが紹介されている。
これがねぇ。
深いのだ。
イチローという選手のメンタル面での意識が、いかに高いかというのが、本当によくわかる。
だから、時たま読み返したくなる。
いや、別に全ページを読破したわけでもないんですがね。気になった時にパラパラってやるだけ。
たとえば、
------------
「そう思わないようにする」ということなら、
「そう思ってしまっている」ということです。
------------
なんていう言葉がある。
いやー深い。
これは、あと一本で200本安打が達成されるという時に「意識しますか」と問われての言葉。
その質問に対して、ここまでの答えができるということがすごい。
イチローにとっては、記録を作るということは、やるべきことではなくて付随することでしかないということなのだ。
イチローにとって必要なことは、自分のイメージした通りに「打つ」ことであって、「記録」なんかは付随することにしかすぎない。「イメージした通りに打つこと」、それこそが、彼の最も気にしていること。成功イメージはそこにある。
「意識するとはどういうことか」ということと、「自分が平常心で良い成績を残せること」とのメンタルの部分での本質的な違いを、常に自問自答しているということが良く分かる。
すごいなぁって思う。
で、この言葉は深く考えているが故に汎用性というか、より大きな真実につながっているとも言えると思うのだ。
最近よく思うのが、「幸せになるぞ」と決めることと、「不幸にならないようにするぞ」と考えることは、似ているようでいて、全く逆だなと思うのだ。
幸せになるためには、幸せになろうとすることが大事であって、不幸にならないようにしていても、永遠に幸福にはなれないのである。
「不幸にならないでおこう」と考えるということは、ようするに「不幸」のことを考えているということなのだ。その状態は幸せになろうとすることでは決してない。
幸せになるための行動をまったくしていないなら、いくら不幸を避けていたとしても、幸せには絶対になれないのである。
これは、自分がどこかに行くことを考えて見ればよくわかる。
大阪から東京に行くときは東京を目指すのだ。「乗り換え間違いをして、名古屋に行かないようにする」と考えることは、さほど大きな意味はもたない。ましてや、「東京に行く」という目標意識なしに、「名古屋に行かないようにする」ということを考えていても、意味などまったくないのだ。
この事実に気づいている人は存外少ない。
しかし、イチローの上の言葉は、こういうことまで一気に解説してしまっている言葉なのだ。
人の意識というもののナイーブなところを、実に的確にチョイスしているなと感じる。
ちょっと話はずれるが、「不幸にならないように」というのが、「幸せになる」ための方法としてまったく見当はずれであるのと同じく、「人に嫌われないように生きる」という考えも、まったくの見当はずれなのである。
時たま「他の人に嫌われないように…」とか言う人がいてるんだけど、そういう考えはやめなさい。そうではなくて人を好きになればいいんだって思う。
好いてくれる人のことを嫌ったりはできないんだから。
(「ストーカーみたいなのに好かれたらどうする」とかはそれこそ、もともと「好き」とはどういうことかがわかってない状態なので論外。まずキチンと好きになることが基本だし、先にやるべきことなんだと思う。)
「嫌われないように」ということは結局「嫌い」と思ってるってことの直接的な意見表明なんだよなぁ。周りを嫌えば、そら嫌われる。つまり、「嫌われないようにする」から「嫌われる」のである。
で、やっぱり大切なのは、「好きになる」ということだなぁって思うのだ。
「好きになる」ということと、「嫌われないようにする」というのは、似ているように見えて、まったく逆の態度なのだってことなのですよ。
イチローの言葉は、結局、このあたりまでの事まで包含してしまってる言葉だと思う。「記録より、まず打つことだ」ってことでしょ? 嫌われないようにするヒマがあったら、キチンと人を好きにならないとダメだよな。
だから「世間の皆様に嫌われないようにする」って言う人は、ようするに「世間」が大嫌いなんだなぁってすぐに直感でわかってしまう。かわいそうだなぁ。嫌ったら嫌われるのは当たり前だよなぁ。だから苦しくなるんだ。そう思う人が、随分いる。
多分、「自分」のことも好きじゃないんだろうなって思う。自己評価が低いから、周りのことも愛せない。自分を愛するようにしか、他者を好きになったりできないよな。自分を嫌うから、どんどん苦しくなるのだって思う。
それってメンタル面で、ものすごく低いレベルになってるってことなんだけど、そこにも気づいけてないんだろう。
イチローの言葉でアメリカの小学校を訪れた時の言葉がある。
-------------------
この中で、将来なにかになりたいという人はいますか。
今日ぼくが言いたいのは目標を持ってもらいたいということです。
-------------------
これ。
なんてことない言葉のようだけど、これも子供に対して述べる言葉として、実に適切なんだよなぁ。人生を通して役立つ言葉だよ、これって。実は。
いつだって人間は、行きたい場所を決めるから、そこに行けるんだよって言ってるわけで、そこがすばらしいと思う。
幸せになるためには、幸せを目指すこと。つまりは「幸せになるぞ」と決意することが、一番重要なのであって、「不幸にならないようにする」ではないのだ。「××にならないようにする」ってのは本当にムダ。意味なし。
まず目標を決める。つまり何が成功であるのかを決める。そしてそっちへ行く。それだけでいいんだと思う。人生は。
東京へ行くためには東京へ行こうとしなくては無理。「名古屋で間違えて降りないように」とか考えても意味はない。そういうことなんですよ。
まぁ、読む側に、こういう「読み解く意志」がないと、あんまり面白くはない本かもしれないので、誰もにお勧めはしませんが。
「嫌われないように」生きてる人が読んでも、全然、ちーとも、何にも学べないでしょうなぁ。
ともあれ、イチローはやっぱりすごいと思います。うむ。
しばらく前に買った本なのだけど。
これが、どういうわけか時たまパラパラと読みたくなる。
一ページに一メッセージ。イチローがインタビューを受けたときなどに発した言葉を一二行でまとめてあるだけ。
横に小さく小さく、どういう状況の時に言った言葉なのかが紹介されている。
これがねぇ。
深いのだ。
イチローという選手のメンタル面での意識が、いかに高いかというのが、本当によくわかる。
だから、時たま読み返したくなる。
いや、別に全ページを読破したわけでもないんですがね。気になった時にパラパラってやるだけ。
たとえば、
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「そう思わないようにする」ということなら、
「そう思ってしまっている」ということです。
------------
なんていう言葉がある。
いやー深い。
これは、あと一本で200本安打が達成されるという時に「意識しますか」と問われての言葉。
その質問に対して、ここまでの答えができるということがすごい。
イチローにとっては、記録を作るということは、やるべきことではなくて付随することでしかないということなのだ。
イチローにとって必要なことは、自分のイメージした通りに「打つ」ことであって、「記録」なんかは付随することにしかすぎない。「イメージした通りに打つこと」、それこそが、彼の最も気にしていること。成功イメージはそこにある。
「意識するとはどういうことか」ということと、「自分が平常心で良い成績を残せること」とのメンタルの部分での本質的な違いを、常に自問自答しているということが良く分かる。
すごいなぁって思う。
で、この言葉は深く考えているが故に汎用性というか、より大きな真実につながっているとも言えると思うのだ。
最近よく思うのが、「幸せになるぞ」と決めることと、「不幸にならないようにするぞ」と考えることは、似ているようでいて、全く逆だなと思うのだ。
幸せになるためには、幸せになろうとすることが大事であって、不幸にならないようにしていても、永遠に幸福にはなれないのである。
「不幸にならないでおこう」と考えるということは、ようするに「不幸」のことを考えているということなのだ。その状態は幸せになろうとすることでは決してない。
幸せになるための行動をまったくしていないなら、いくら不幸を避けていたとしても、幸せには絶対になれないのである。
これは、自分がどこかに行くことを考えて見ればよくわかる。
大阪から東京に行くときは東京を目指すのだ。「乗り換え間違いをして、名古屋に行かないようにする」と考えることは、さほど大きな意味はもたない。ましてや、「東京に行く」という目標意識なしに、「名古屋に行かないようにする」ということを考えていても、意味などまったくないのだ。
この事実に気づいている人は存外少ない。
しかし、イチローの上の言葉は、こういうことまで一気に解説してしまっている言葉なのだ。
人の意識というもののナイーブなところを、実に的確にチョイスしているなと感じる。
ちょっと話はずれるが、「不幸にならないように」というのが、「幸せになる」ための方法としてまったく見当はずれであるのと同じく、「人に嫌われないように生きる」という考えも、まったくの見当はずれなのである。
時たま「他の人に嫌われないように…」とか言う人がいてるんだけど、そういう考えはやめなさい。そうではなくて人を好きになればいいんだって思う。
好いてくれる人のことを嫌ったりはできないんだから。
(「ストーカーみたいなのに好かれたらどうする」とかはそれこそ、もともと「好き」とはどういうことかがわかってない状態なので論外。まずキチンと好きになることが基本だし、先にやるべきことなんだと思う。)
「嫌われないように」ということは結局「嫌い」と思ってるってことの直接的な意見表明なんだよなぁ。周りを嫌えば、そら嫌われる。つまり、「嫌われないようにする」から「嫌われる」のである。
で、やっぱり大切なのは、「好きになる」ということだなぁって思うのだ。
「好きになる」ということと、「嫌われないようにする」というのは、似ているように見えて、まったく逆の態度なのだってことなのですよ。
イチローの言葉は、結局、このあたりまでの事まで包含してしまってる言葉だと思う。「記録より、まず打つことだ」ってことでしょ? 嫌われないようにするヒマがあったら、キチンと人を好きにならないとダメだよな。
だから「世間の皆様に嫌われないようにする」って言う人は、ようするに「世間」が大嫌いなんだなぁってすぐに直感でわかってしまう。かわいそうだなぁ。嫌ったら嫌われるのは当たり前だよなぁ。だから苦しくなるんだ。そう思う人が、随分いる。
多分、「自分」のことも好きじゃないんだろうなって思う。自己評価が低いから、周りのことも愛せない。自分を愛するようにしか、他者を好きになったりできないよな。自分を嫌うから、どんどん苦しくなるのだって思う。
それってメンタル面で、ものすごく低いレベルになってるってことなんだけど、そこにも気づいけてないんだろう。
イチローの言葉でアメリカの小学校を訪れた時の言葉がある。
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この中で、将来なにかになりたいという人はいますか。
今日ぼくが言いたいのは目標を持ってもらいたいということです。
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これ。
なんてことない言葉のようだけど、これも子供に対して述べる言葉として、実に適切なんだよなぁ。人生を通して役立つ言葉だよ、これって。実は。
いつだって人間は、行きたい場所を決めるから、そこに行けるんだよって言ってるわけで、そこがすばらしいと思う。
幸せになるためには、幸せを目指すこと。つまりは「幸せになるぞ」と決意することが、一番重要なのであって、「不幸にならないようにする」ではないのだ。「××にならないようにする」ってのは本当にムダ。意味なし。
まず目標を決める。つまり何が成功であるのかを決める。そしてそっちへ行く。それだけでいいんだと思う。人生は。
東京へ行くためには東京へ行こうとしなくては無理。「名古屋で間違えて降りないように」とか考えても意味はない。そういうことなんですよ。
まぁ、読む側に、こういう「読み解く意志」がないと、あんまり面白くはない本かもしれないので、誰もにお勧めはしませんが。
「嫌われないように」生きてる人が読んでも、全然、ちーとも、何にも学べないでしょうなぁ。
ともあれ、イチローはやっぱりすごいと思います。うむ。
ISBN:4063289095 コミック 三田 紀房 講談社 2003/10/23 ¥540
どうにも「勉強法」という意味で気になる存在だったのだ。
それで読んでみた。
うむ、確かに正しい。
TOEIC/TOEFLとかの話もその通りだよなー。
TOEIC/TOEFLの平均点はアジアで最低なのだが、本来、こんなテストを受けるのは超エリートだけなのだ。他国では。
日本では一般人がたくさん受けている。で、それでもそれなりの点数にはなっている。(ちなみに私も受けましたが。400点すら行かなかった。お恥ずかしい。)
ものすごく層の厚い国なのである。
ま「東大」が目標ですからな、関連する教科の勉強方法が次々に紹介されるというそれだけのマンガですが、どれもこれも勉強法として実に正しい。
嫌になっちゃうなぁ。こんなこと書かれると。
だってこうすれば学力はつくって正論が書かれてるわけで、勉強してないほうがダメなんだっていうのがはっきりしちゃうんだよねー。そこは正直つらい。
まだまだ勉強不足だもんね、私。
がんばらねば。
そういうマンガです。
どうにも「勉強法」という意味で気になる存在だったのだ。
それで読んでみた。
うむ、確かに正しい。
TOEIC/TOEFLとかの話もその通りだよなー。
TOEIC/TOEFLの平均点はアジアで最低なのだが、本来、こんなテストを受けるのは超エリートだけなのだ。他国では。
日本では一般人がたくさん受けている。で、それでもそれなりの点数にはなっている。(ちなみに私も受けましたが。400点すら行かなかった。お恥ずかしい。)
ものすごく層の厚い国なのである。
ま「東大」が目標ですからな、関連する教科の勉強方法が次々に紹介されるというそれだけのマンガですが、どれもこれも勉強法として実に正しい。
嫌になっちゃうなぁ。こんなこと書かれると。
だってこうすれば学力はつくって正論が書かれてるわけで、勉強してないほうがダメなんだっていうのがはっきりしちゃうんだよねー。そこは正直つらい。
まだまだ勉強不足だもんね、私。
がんばらねば。
そういうマンガです。
仏教・神道・儒教集中講座
2005年7月5日 読書
ISBN:4198620202 単行本 井沢 元彦 徳間書店 2005/06/30 ¥1,575
いやー、おもしろかった。
これはもう日本人全員、必読の書だなぁ。
こういう本が読みたかったのですよ私は。
このクソ忙しいのに実質二日くらいで読み終えてしまった。
いやまぁ知ってる事もすごく多かったので読みやすかったというのもあるんだけど、とにかく日本人の「宗教心」や「道徳心」の中核を成す原理「仏教」「神道」「儒教」のことが、一気に一度に整理された形で、たった一冊で、しかもたかだか250頁程度でわかってしまうってのはすごいのではないかと思う。
井沢さんの書く本は、昔は過激な表現とかけっこうしていたので、そこをおもしろがってたところもあったんだけど、最近は僕自身も考え方がいろいろと多面的になってきたので、「井沢さん、内容はいいけど言い方がキツイからなぁ」とか思って、ちょっと敬遠してたところがあった。
でもこの本を読んでみると、昔とはずいぶん違う。
へー。
と思った。
なんて言うんでしょうか、「伝えなくちゃいけないことがあるから、とにかくそれから順に書く。あんまりカッカしてるヒマはない」って感じだ。内容は濃いんだけど、とにかく無駄なくさらりと日本人に関わる各種宗教の全体をザーッと解説してくれてます。
実にわかりやすい。
良いです。とても。
仏教にしても、インドの仏陀の教えのその前のインド哲学あたりから、中国を通って日本に渡って、日本国内で最澄やら空海、日蓮などにより、いかに「変質」してきたのかをバーーーーッと概観できていい。
阿弥陀如来信仰とはなにかとか、実によくわかった。私、自分ちが「浄土真宗」なのに、どういう教えの宗教なのか良くわかってなかったですよ。いやまぁ「浄土真宗」だから、そうなるんだけど。そうか、私は阿弥陀様の「浄土」へと「往生」する宗教に属してたんだ。
こういうことに気づくことすら、しないで済むというのが、いまの日本の宗教の危機的状況そのものなんだと思うのだけども、まぁあ、それはいい。
それより実はもっと大きな問題が、いまの日本人、なにが「仏教」で、何が「神道」で、何が「儒教」なのかすら、さーっぱりわかってないってことです。
考え方の違い自体を区別する知識すらない。そういうことですわ。
わかってない。というかわかる術がないんですがね。
もともと日本の歴史において仏教と神道はごちゃ混ぜにされてきてたしね。それに加えて儒教まで一緒くたに食べてしまってるんだから、そら食い合わせの悪いところもでるわなぁ。
だから、こうして、考え方の違いを明確に記述してくれてる本はありがたいのですよ。何せ無意識のレベルにまで刷り込まれてるのが、「宗教」って奴のやっかいなところですからなぁ。
ちゃんとこんがらがってる糸をていねいに解きほぐして、それぞれの色の糸としてキチンと対応するべきですわ。
もうずっと前から、日本の自殺者がやたらと増えていて、それは欧米のさまざまな考え方をいきなりわかったつもりで取り入れては消化しきれず、個人の心の中で矛盾が起きてしまっていることというのが、そうとうに大きいと私は思っていたのだけれど、考えてみれば、自分たちの生活の中に根付いてしまってる「仏教」と「神道」と「儒教」の違いもわかってないんだから、そら混乱するわなぁ。
僕はもともとずーっと「シントイスト」だと思ってたんだけど、それを自覚するためには、神道にある祟りや穢れの概念がいかに強烈に自分の意識の中に刷り込まれてしまっているのかを客観的に捉えなきゃ無理なわけですね。
で、僕はそれを自覚するためにキリスト教(プロテスタントやカソリック)やらユダヤ教やら、日本の葬式仏教ではない本来の仏教の基礎やらを、ちょっとずつ学んできたんですが。(自論の正しさを証明するには、適切な反論がどうしても必要なんです。ここがわかってない人が多いからなぁ。日本人は。)
いや、こういう本が最初からあれば、そんな手間なことしなくて済んだんじゃないかって思うなぁ。
ホントは井沢さんみたいな作家が論じるのではなくて、それこそ「葬式仏教」しかやれてない、腐った「日本仏教界」がトータルな「宗教学」でも構築するのが筋なわけですよ。本来は。
ところが宗教家の誰もそういうことを、しやがらない。
なめとんか、おまえらは、と僕は思うのですよ。
自殺者が3万人も毎年出てるのに、それをなんとかしようとは思わないのか、この怠け者が。と思う。本当にひどい。
しかしまぁ、それも徳川300年の檀家制度が悪いのか。しゃーないかなぁ。と、わからせてくれるのも、この本なわけです。ははぁ本地垂迹説ですか。はいはい。ははぁ廃仏毀釈ね。ああなるほど。てなもんで。
ま、私的には自分の心の問題の袋小路度合いが、いかにこんがらがってしまってるのかがハッキリわかった分、逆に「うぇー、どないしよ。」と頭を抱えて座り込みたくなってしまいますが、まぁ、普通の人は「そういうことやったんか、なるほどぉ。」とハッキリスッキリして心の澱みがグンと減ること請け合いです。
いま、もめてる靖国問題のことだって、問題の本質が、一気にパッとわかっちゃうよー。この本読まずにゴチャゴチャ言っててもだめでしょ、って感じ。ほんと。マジに。
おすすめします。
ぜひぜひ、多くの方に読んでもらいたい本ですな。
いやー、おもしろかった。
これはもう日本人全員、必読の書だなぁ。
こういう本が読みたかったのですよ私は。
このクソ忙しいのに実質二日くらいで読み終えてしまった。
いやまぁ知ってる事もすごく多かったので読みやすかったというのもあるんだけど、とにかく日本人の「宗教心」や「道徳心」の中核を成す原理「仏教」「神道」「儒教」のことが、一気に一度に整理された形で、たった一冊で、しかもたかだか250頁程度でわかってしまうってのはすごいのではないかと思う。
井沢さんの書く本は、昔は過激な表現とかけっこうしていたので、そこをおもしろがってたところもあったんだけど、最近は僕自身も考え方がいろいろと多面的になってきたので、「井沢さん、内容はいいけど言い方がキツイからなぁ」とか思って、ちょっと敬遠してたところがあった。
でもこの本を読んでみると、昔とはずいぶん違う。
へー。
と思った。
なんて言うんでしょうか、「伝えなくちゃいけないことがあるから、とにかくそれから順に書く。あんまりカッカしてるヒマはない」って感じだ。内容は濃いんだけど、とにかく無駄なくさらりと日本人に関わる各種宗教の全体をザーッと解説してくれてます。
実にわかりやすい。
良いです。とても。
仏教にしても、インドの仏陀の教えのその前のインド哲学あたりから、中国を通って日本に渡って、日本国内で最澄やら空海、日蓮などにより、いかに「変質」してきたのかをバーーーーッと概観できていい。
阿弥陀如来信仰とはなにかとか、実によくわかった。私、自分ちが「浄土真宗」なのに、どういう教えの宗教なのか良くわかってなかったですよ。いやまぁ「浄土真宗」だから、そうなるんだけど。そうか、私は阿弥陀様の「浄土」へと「往生」する宗教に属してたんだ。
こういうことに気づくことすら、しないで済むというのが、いまの日本の宗教の危機的状況そのものなんだと思うのだけども、まぁあ、それはいい。
それより実はもっと大きな問題が、いまの日本人、なにが「仏教」で、何が「神道」で、何が「儒教」なのかすら、さーっぱりわかってないってことです。
考え方の違い自体を区別する知識すらない。そういうことですわ。
わかってない。というかわかる術がないんですがね。
もともと日本の歴史において仏教と神道はごちゃ混ぜにされてきてたしね。それに加えて儒教まで一緒くたに食べてしまってるんだから、そら食い合わせの悪いところもでるわなぁ。
だから、こうして、考え方の違いを明確に記述してくれてる本はありがたいのですよ。何せ無意識のレベルにまで刷り込まれてるのが、「宗教」って奴のやっかいなところですからなぁ。
ちゃんとこんがらがってる糸をていねいに解きほぐして、それぞれの色の糸としてキチンと対応するべきですわ。
もうずっと前から、日本の自殺者がやたらと増えていて、それは欧米のさまざまな考え方をいきなりわかったつもりで取り入れては消化しきれず、個人の心の中で矛盾が起きてしまっていることというのが、そうとうに大きいと私は思っていたのだけれど、考えてみれば、自分たちの生活の中に根付いてしまってる「仏教」と「神道」と「儒教」の違いもわかってないんだから、そら混乱するわなぁ。
僕はもともとずーっと「シントイスト」だと思ってたんだけど、それを自覚するためには、神道にある祟りや穢れの概念がいかに強烈に自分の意識の中に刷り込まれてしまっているのかを客観的に捉えなきゃ無理なわけですね。
で、僕はそれを自覚するためにキリスト教(プロテスタントやカソリック)やらユダヤ教やら、日本の葬式仏教ではない本来の仏教の基礎やらを、ちょっとずつ学んできたんですが。(自論の正しさを証明するには、適切な反論がどうしても必要なんです。ここがわかってない人が多いからなぁ。日本人は。)
いや、こういう本が最初からあれば、そんな手間なことしなくて済んだんじゃないかって思うなぁ。
ホントは井沢さんみたいな作家が論じるのではなくて、それこそ「葬式仏教」しかやれてない、腐った「日本仏教界」がトータルな「宗教学」でも構築するのが筋なわけですよ。本来は。
ところが宗教家の誰もそういうことを、しやがらない。
なめとんか、おまえらは、と僕は思うのですよ。
自殺者が3万人も毎年出てるのに、それをなんとかしようとは思わないのか、この怠け者が。と思う。本当にひどい。
しかしまぁ、それも徳川300年の檀家制度が悪いのか。しゃーないかなぁ。と、わからせてくれるのも、この本なわけです。ははぁ本地垂迹説ですか。はいはい。ははぁ廃仏毀釈ね。ああなるほど。てなもんで。
ま、私的には自分の心の問題の袋小路度合いが、いかにこんがらがってしまってるのかがハッキリわかった分、逆に「うぇー、どないしよ。」と頭を抱えて座り込みたくなってしまいますが、まぁ、普通の人は「そういうことやったんか、なるほどぉ。」とハッキリスッキリして心の澱みがグンと減ること請け合いです。
いま、もめてる靖国問題のことだって、問題の本質が、一気にパッとわかっちゃうよー。この本読まずにゴチャゴチャ言っててもだめでしょ、って感じ。ほんと。マジに。
おすすめします。
ぜひぜひ、多くの方に読んでもらいたい本ですな。
魔法の発音 カタカナ英語
2005年6月10日 読書
ISBN:4062124963 単行本 池谷 裕二 講談社 2004/10/23 ¥1,470
最近すごく英語づいておりますが、またまた英語の学習本です。
この本は、先日お知らせした「通じりゃいい」と、まったく逆のアプローチの本ですな。
「通じりゃいい」の方は「こっちが日本人なのだということを強調するためにも発音は日本語発音でなければならない」とする内容だったのですが、この「魔法の発音」の方は、
「日本語発音じゃ全然通じねぇよ」
とする立場ですな。
「通じりゃいい」のほうは「だからそこで洒落た言い回しを使おうと思うな。意味の良くわかってる単語だけを組み合わせてなんとかしろ」というやり方なんですが、こっちは「聞こえたとおりに発音するためにネイティブ発音をカタカナで表記して相手にわかる発音にしよう」という考え方です。
「通じりゃいい」が商談をまとめるための自分の経験に基づいた実用英語の本だったように、こっちの「魔法本」は研究者がアメリカまで研修に出かけて「日常生活をなんとかする」ために四苦八苦して身につけた方法論なので、これまたすごく役立つやりかたで、これはこれで面白いのであります。
たとえば、落とし物して拾ってもらったら、
「テンクサラーッ」
落としたモノを拾ってあげたら
「ナラローウ」
と言うというもの。
これ、「何語?」って思いますけど、英語なんですよ。
至極簡単な。
ようは
Thanks a lot.
Not at all.
のことなんです。でもこれ、米語だと確かにこんな風に聞こえる。リエゾン(連接:単語と単語がくっついて発音されること)とかあるから、実際の英語、米語ってこんな感じですわね、確かに。
とにかく、そんな感じで日常でよく使いそうなフレーズを、とにかくカタカナでどんどん「リアルに聞こえるカタカナ語」に訳してある本なのです。
で、まぁそれだけの本です。例文も実用度は高いと思うけど、これではあまりにちょっと少ない。そういう意味で、ちょっと肩すかしの本ではあります。
ただね。
どうも概念を解説している前半なんかを読んでると、単に、「カタカナ表記でけっこう近い音まで表記できるやん。」と気づいただけの人の、思いつき本ではないよなぁ、と感じてしまったわけです。
なんかね理屈の立て方がとても自信に満ちたアカデミックな感じ、格調の高さを感じてしまったのですね。
で、なんだこれは?と思って著者の略歴を見てみたら、なな、なんとこの著者って、糸井重里との対談で脳の生理について話した「海馬」って本の、池谷裕二さんではないかと、驚いたのでありました。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4255001545/249-3565583-9721926
(「海馬」自体は大した本じゃないけどね〜。糸井さんの台詞が全部邪魔。糸井さんによって実に薄い内容になってしまっている。でも、しかし、その「薄さ」が読みやすさにつながっていて、それで支持されてるってところはあります。僕はひたすら池谷氏の現場主義的な発想が好きです。実験とか研究が基本なわけですな。)
ありゃなんだ、そうなのかいって感じです。
そうかぁ、この本は英語の本ではなくて、大脳生理学の理論書・研究報告書としての側面があるのかぁ、なるほどなぁ。ってことなんですね。「あんた、こんなところで何書いてるのよ」って気はするけど、ま、池谷さん、自分の体を使って大脳の学習過程の実験をしてみたってことでして、いやーこれはおもしろいわ。
池谷さんいわく言語中枢の根っこの部分は子供の頃に書き込まれた音の記憶があるから変更は困難が大きいと。しかし発音というのは口を動かす、「運動能力」だから、大人になってから自転車に乗れるようになった人がいるみたいに、後天的な習得が可能なんだと。
だからカタカナ発音を何度もくりかえす事で運動能力によって、認識を変容させるのが効果的かつ簡単で良いのだという話でして。
バックボーンにしっかりとした大脳生理学の基礎研究の成果があるから自信持って語りきっておられるわけでね。そこがすごく面白いのですよ。
「通じりゃいい」もそうだったけど、やっぱ現場を持ってる人は強いね。ホントに。それをつくづく感じた。
うむ。
最近すごく英語づいておりますが、またまた英語の学習本です。
この本は、先日お知らせした「通じりゃいい」と、まったく逆のアプローチの本ですな。
「通じりゃいい」の方は「こっちが日本人なのだということを強調するためにも発音は日本語発音でなければならない」とする内容だったのですが、この「魔法の発音」の方は、
「日本語発音じゃ全然通じねぇよ」
とする立場ですな。
「通じりゃいい」のほうは「だからそこで洒落た言い回しを使おうと思うな。意味の良くわかってる単語だけを組み合わせてなんとかしろ」というやり方なんですが、こっちは「聞こえたとおりに発音するためにネイティブ発音をカタカナで表記して相手にわかる発音にしよう」という考え方です。
「通じりゃいい」が商談をまとめるための自分の経験に基づいた実用英語の本だったように、こっちの「魔法本」は研究者がアメリカまで研修に出かけて「日常生活をなんとかする」ために四苦八苦して身につけた方法論なので、これまたすごく役立つやりかたで、これはこれで面白いのであります。
たとえば、落とし物して拾ってもらったら、
「テンクサラーッ」
落としたモノを拾ってあげたら
「ナラローウ」
と言うというもの。
これ、「何語?」って思いますけど、英語なんですよ。
至極簡単な。
ようは
Thanks a lot.
Not at all.
のことなんです。でもこれ、米語だと確かにこんな風に聞こえる。リエゾン(連接:単語と単語がくっついて発音されること)とかあるから、実際の英語、米語ってこんな感じですわね、確かに。
とにかく、そんな感じで日常でよく使いそうなフレーズを、とにかくカタカナでどんどん「リアルに聞こえるカタカナ語」に訳してある本なのです。
で、まぁそれだけの本です。例文も実用度は高いと思うけど、これではあまりにちょっと少ない。そういう意味で、ちょっと肩すかしの本ではあります。
ただね。
どうも概念を解説している前半なんかを読んでると、単に、「カタカナ表記でけっこう近い音まで表記できるやん。」と気づいただけの人の、思いつき本ではないよなぁ、と感じてしまったわけです。
なんかね理屈の立て方がとても自信に満ちたアカデミックな感じ、格調の高さを感じてしまったのですね。
で、なんだこれは?と思って著者の略歴を見てみたら、なな、なんとこの著者って、糸井重里との対談で脳の生理について話した「海馬」って本の、池谷裕二さんではないかと、驚いたのでありました。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4255001545/249-3565583-9721926
(「海馬」自体は大した本じゃないけどね〜。糸井さんの台詞が全部邪魔。糸井さんによって実に薄い内容になってしまっている。でも、しかし、その「薄さ」が読みやすさにつながっていて、それで支持されてるってところはあります。僕はひたすら池谷氏の現場主義的な発想が好きです。実験とか研究が基本なわけですな。)
ありゃなんだ、そうなのかいって感じです。
そうかぁ、この本は英語の本ではなくて、大脳生理学の理論書・研究報告書としての側面があるのかぁ、なるほどなぁ。ってことなんですね。「あんた、こんなところで何書いてるのよ」って気はするけど、ま、池谷さん、自分の体を使って大脳の学習過程の実験をしてみたってことでして、いやーこれはおもしろいわ。
池谷さんいわく言語中枢の根っこの部分は子供の頃に書き込まれた音の記憶があるから変更は困難が大きいと。しかし発音というのは口を動かす、「運動能力」だから、大人になってから自転車に乗れるようになった人がいるみたいに、後天的な習得が可能なんだと。
だからカタカナ発音を何度もくりかえす事で運動能力によって、認識を変容させるのが効果的かつ簡単で良いのだという話でして。
バックボーンにしっかりとした大脳生理学の基礎研究の成果があるから自信持って語りきっておられるわけでね。そこがすごく面白いのですよ。
「通じりゃいい」もそうだったけど、やっぱ現場を持ってる人は強いね。ホントに。それをつくづく感じた。
うむ。
英語なんか通じりゃいい!―目覚めよ!日本人
2005年6月8日 読書
ISBN:4774505560 単行本 斎藤 哲之進 現代書林 2003/10 ¥1,260
いやー、面白かった。
いままで英語の本も山のように読んできたけど、これは相当にすごい。
なんせ、多分、この一冊を読んだだけで、いきなり英語がしゃべれるようになる日本人が、わんさか生まれるに違いないと実感できるからである。
本当にすごい。
いやまぁ、語学学習というのはおしなべてすべて、「目的を定めてそれにあわせて学習量を決める」のが正解で、正しい学習方法なんて目的によってまったく違うというのはわかってはいたんですけどね。
それでも、「日本人は中学で必要な英語はすべて学んでいる、だからすぐにしゃべれるのだ。」とする著者の方法論は、実に素敵かつ大胆で、うきうきしてしまう。
だいたいあなた、「英語なんて第二言語なんだから文法なんて出来なくていいのだよ。」という主張までは理解できるにしても、「日本語と同じ語順で単語を並べりゃ、まぁ通じる。」という具体案まで言う人がいたであろうか。
で、なおかつ、「ビジネスもそれでやればいいのだ。」という大胆さ。しかも「そうやって国際ビジネスをどんどこやってきた人間を何人も知っている。」という実例付きで、実際この著者も海外でのビジネスをいくつも立ち上げて来た人なのだから頼もしい。
いやまぁ、ちょっと極端過ぎる意見も多々見受けられるんだけど、「実践の場での英語」をつきつめて考えていくと、この態度こそが、まずは基本だなぁというのを感じる。
すごく納得したのは「ケンカするときには絶対英語を使うな」という意見。ああそりゃそうだよなと思った。ケンカしてるのに、なんで相手のために相手国の言葉を使ってやらねばならんのだ。と思いましたね。
国際間の裁判だって「自国語での弁護にするか、当事国での言語を使うか」がまず最初に問われるんだもんなぁ。どなるなら外人に向かって「ばかやろー」と大声ださないと意味ないよなぁ。なんだっていいんだから。怒ってるということを伝えるためには。
神田昌典氏の「英語とお金の非常識な関係」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4894511711/249-0991773-5652358
も面白かったけど、こと英語とビジネスということに絞って考えるなら、こっちの「通じりゃいい」のほうがはるかに面白い。
いやまぁ、たぶんこの「通じりゃいい」の方法だけではうまくいかない部分も多々あるとは思うんだけど、でも、まず「英語と取り組む心構え」という意味では実に正しいよなぁと思いました。
態度・心がけという意味では「英語とお金の非常識な関係」も同じようなスタンスですね。英語なんか道具にしかすぎないのだから、とにかく「使って」自分の目的を達成することを優先せよという発想。
「通じりゃ」の斉藤さんも神田さんも言ってるのは、ようするに「日本人よ世界に出でよ」という事なんですね。
「内側ばっかり見てたらダメだぞ。もっと外にでていけ」
って事です。
これねぇ、正しいけどビビるんですよ日本人は。それをビビるなって言ってるのが「通じりゃ」であり「お金と英語の非常識な関係」なわけです。もうとにかくメッセージは共通して一言。「ビビるな」ですわ。
「通じりゃ」の方は、「難しい単語は使わず単純な単語でなんとかしろ」とか書いてあって、本当は言語学者オグデンがとなえたBasic Englishに通ずるアカデミックな「外国語学習」の考え方に近い側面も、入ってるなぁと僕は思うし、それって言語学的には非常に高度な内容なんですが、まぁそんなむずかしいことは考えなくていいから、まず読め、って本ですな。
きちんとした価値基準があるから小気味よいです。
おすすめ。
いやー、面白かった。
いままで英語の本も山のように読んできたけど、これは相当にすごい。
なんせ、多分、この一冊を読んだだけで、いきなり英語がしゃべれるようになる日本人が、わんさか生まれるに違いないと実感できるからである。
本当にすごい。
いやまぁ、語学学習というのはおしなべてすべて、「目的を定めてそれにあわせて学習量を決める」のが正解で、正しい学習方法なんて目的によってまったく違うというのはわかってはいたんですけどね。
それでも、「日本人は中学で必要な英語はすべて学んでいる、だからすぐにしゃべれるのだ。」とする著者の方法論は、実に素敵かつ大胆で、うきうきしてしまう。
だいたいあなた、「英語なんて第二言語なんだから文法なんて出来なくていいのだよ。」という主張までは理解できるにしても、「日本語と同じ語順で単語を並べりゃ、まぁ通じる。」という具体案まで言う人がいたであろうか。
で、なおかつ、「ビジネスもそれでやればいいのだ。」という大胆さ。しかも「そうやって国際ビジネスをどんどこやってきた人間を何人も知っている。」という実例付きで、実際この著者も海外でのビジネスをいくつも立ち上げて来た人なのだから頼もしい。
いやまぁ、ちょっと極端過ぎる意見も多々見受けられるんだけど、「実践の場での英語」をつきつめて考えていくと、この態度こそが、まずは基本だなぁというのを感じる。
すごく納得したのは「ケンカするときには絶対英語を使うな」という意見。ああそりゃそうだよなと思った。ケンカしてるのに、なんで相手のために相手国の言葉を使ってやらねばならんのだ。と思いましたね。
国際間の裁判だって「自国語での弁護にするか、当事国での言語を使うか」がまず最初に問われるんだもんなぁ。どなるなら外人に向かって「ばかやろー」と大声ださないと意味ないよなぁ。なんだっていいんだから。怒ってるということを伝えるためには。
神田昌典氏の「英語とお金の非常識な関係」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4894511711/249-0991773-5652358
も面白かったけど、こと英語とビジネスということに絞って考えるなら、こっちの「通じりゃいい」のほうがはるかに面白い。
いやまぁ、たぶんこの「通じりゃいい」の方法だけではうまくいかない部分も多々あるとは思うんだけど、でも、まず「英語と取り組む心構え」という意味では実に正しいよなぁと思いました。
態度・心がけという意味では「英語とお金の非常識な関係」も同じようなスタンスですね。英語なんか道具にしかすぎないのだから、とにかく「使って」自分の目的を達成することを優先せよという発想。
「通じりゃ」の斉藤さんも神田さんも言ってるのは、ようするに「日本人よ世界に出でよ」という事なんですね。
「内側ばっかり見てたらダメだぞ。もっと外にでていけ」
って事です。
これねぇ、正しいけどビビるんですよ日本人は。それをビビるなって言ってるのが「通じりゃ」であり「お金と英語の非常識な関係」なわけです。もうとにかくメッセージは共通して一言。「ビビるな」ですわ。
「通じりゃ」の方は、「難しい単語は使わず単純な単語でなんとかしろ」とか書いてあって、本当は言語学者オグデンがとなえたBasic Englishに通ずるアカデミックな「外国語学習」の考え方に近い側面も、入ってるなぁと僕は思うし、それって言語学的には非常に高度な内容なんですが、まぁそんなむずかしいことは考えなくていいから、まず読め、って本ですな。
きちんとした価値基準があるから小気味よいです。
おすすめ。
座右の諭吉 才能より決断
2005年5月29日 読書
ISBN:4334032761 新書 齋藤 孝 光文社 2004/11/13 ¥735
今をときめく齋藤孝さんの本。
福沢諭吉について書かれているので一気に読めた。
齋藤孝さんの本は何冊も買っていて、子育て論にせよ、三色ボールペン読書法にせよ、素晴らしいと感激するんだけど、どういうわけか、いつも途中で読まなくなる。読了できたのは、この本がはじめて。
なんでなんかなぁと考えてみるに、基本的に私、この人と考え方がとても近いのだと思うのですね。だからあんまり新鮮に感じないんだと思う。
でも、この本は違った。
福沢諭吉という人に齋藤さんはあこがれていて、その気持ちの持ち方が楽しかったのだ。
だから最後まで読めた。
あこがれる力の重要性は、齋藤孝さんの他の書籍にも出てくるからそれはそれでいいのだけれど、この本では、そのあこがれが素直に、かつ冷静で論理的に語られているのが飽きなかったところかもしれない。
人間は生きている。
当たり前だが、生きている。
であるなら、やはり日々成長するのが楽しい。
何かが上手になるとか、自分独自の哲学を深めるとか、いや、単に同じ失敗をしなくなるというだけでもいい。
少し成長できると毎日が楽しくなるし、うんと自分を好きになれる。
で、「あこがれ」があると、その力はもっと大きくなる。今日より明日自分はもっと素敵に、素晴らしい人になれる。そう思える力がたくさん湧いてくる。それが「あこがれ」の人がいてる良さで、こういう気持ちはとても大切なものだ。
あこがれる対象が父親だったり母親だったりする人はとても幸せだと思う。そこに超えるべき「良き目標」があるのだから。
しかし不幸にして両親を上手に尊敬できない人もいるだろうし、どっちかというと「そんなの尊敬できないよ」という人のほうが多いというのが現実なのかもしれない。
でもそう言うときにこそ、「偉人伝」は重要なんだと思う。「いかに生きるか」なんてことは10代や20代では簡単には考えを深められないと思うのだ。本当に素晴らしい両親を持った人以外は。
だからこの齋藤孝さんの「座右の諭吉」は良い本なんだと思う。人は「偉人伝」によって良い目標を手に入れることができるのだ。なんと素敵なことだろうか。誰だって良い生き方を簡単に手に入れられるのだから。
自分の不幸を嘆くのは簡単で、たいていの人は何の努力もしないで嘆きの中で人生を終える。
しかし、偉人伝とか、素敵だなと思える人の話をよく、しっかりと聞けば、同じような不幸の星のもとに生まれながら、その逆境を乗り越える人もいればただ逆境に流されるだけの人もいてるのだ、というのがはっきりとわかるようになる。
同じように不幸に生まれてきたのに、なんで、この人は、こんなに立派なん?
そう疑問に思う事が多いのだけど、結局はそれは、自分の決断一つなんだよね。
「良い方に行くぞ」
そう思う事だけだと思う。その気持ちがあるかどうかだと思う。
で、その気持ちさえ持てれば、実は人生はあっという間に好転するのだ、という気がしてる。
それはとどのつまり、「正しい目標値」を探したかどうかだけなんじゃないの? という気がするのだ。その人が「よく生きよう」と思ったかどうか。それだけだよなぁ。
齋藤孝さんは、その「正しい目標値」をキチンと探して、しっかりと自分のものとして持ち得た人で、その「正しい目標値」を持つということが、どんな感じなのかを書いてくれているのが、この本なのだ、ということなんだと思う。
「学問のすすめ」は数百円で売られているわけです。その数百円で齋藤さんは「正しい目標値」を獲得しちゃったわけですよね。それはやっぱりすごいことなんじゃないかなーって思う。
なんだかんだ言っても、日本というこの国を支えているのは1%の大企業ではなくて99%の中小企業なわけですよ。
で、その中小企業の社長のような地べたをはいずり回りながら生きているような人は、やっぱり正しく本を読んでると思う。
だって安いもん。本。
日本は大学がキックアウト制になってないから、「大卒」なんて本当に飾りでしかない。欧米のように勉強しないからおん出されるってことがないからね。
でも、現実の社会で何かをしようと思ったら、とにかく圧倒的な知識がものをいうわけですよ。そうなると、実は大学出てからが勝負なわけです。
だから大卒に限らず「できる人」は軒並み勉強しているのが、この日本という国の面白いところなわけです。
本当に正しく勉強している人はそれほど多くはないのだと思うけれど、それでも組織の長より現場にいてる人がキチンと必要な知識を深めているというのがこの国の大きな特長だと思うわけで。
そういう環境を考えた時、この「座右の諭吉」という本は二重の意味で面白いんですな。「正しい目標」を指し示すとともに「あこがれる力」の楽しさと効率の良さを伝えてくれているわけで。
いや、実は内容的にはあんまり感動しなかったんだけどさ。
でも、諭吉の生涯が勉強できたのと、「あこがれる」事の楽しさを伝えていると言う意味では、なかなかに良いのではないかと、私は思うわけです。
興味のある方は、ぜひ。
今をときめく齋藤孝さんの本。
福沢諭吉について書かれているので一気に読めた。
齋藤孝さんの本は何冊も買っていて、子育て論にせよ、三色ボールペン読書法にせよ、素晴らしいと感激するんだけど、どういうわけか、いつも途中で読まなくなる。読了できたのは、この本がはじめて。
なんでなんかなぁと考えてみるに、基本的に私、この人と考え方がとても近いのだと思うのですね。だからあんまり新鮮に感じないんだと思う。
でも、この本は違った。
福沢諭吉という人に齋藤さんはあこがれていて、その気持ちの持ち方が楽しかったのだ。
だから最後まで読めた。
あこがれる力の重要性は、齋藤孝さんの他の書籍にも出てくるからそれはそれでいいのだけれど、この本では、そのあこがれが素直に、かつ冷静で論理的に語られているのが飽きなかったところかもしれない。
人間は生きている。
当たり前だが、生きている。
であるなら、やはり日々成長するのが楽しい。
何かが上手になるとか、自分独自の哲学を深めるとか、いや、単に同じ失敗をしなくなるというだけでもいい。
少し成長できると毎日が楽しくなるし、うんと自分を好きになれる。
で、「あこがれ」があると、その力はもっと大きくなる。今日より明日自分はもっと素敵に、素晴らしい人になれる。そう思える力がたくさん湧いてくる。それが「あこがれ」の人がいてる良さで、こういう気持ちはとても大切なものだ。
あこがれる対象が父親だったり母親だったりする人はとても幸せだと思う。そこに超えるべき「良き目標」があるのだから。
しかし不幸にして両親を上手に尊敬できない人もいるだろうし、どっちかというと「そんなの尊敬できないよ」という人のほうが多いというのが現実なのかもしれない。
でもそう言うときにこそ、「偉人伝」は重要なんだと思う。「いかに生きるか」なんてことは10代や20代では簡単には考えを深められないと思うのだ。本当に素晴らしい両親を持った人以外は。
だからこの齋藤孝さんの「座右の諭吉」は良い本なんだと思う。人は「偉人伝」によって良い目標を手に入れることができるのだ。なんと素敵なことだろうか。誰だって良い生き方を簡単に手に入れられるのだから。
自分の不幸を嘆くのは簡単で、たいていの人は何の努力もしないで嘆きの中で人生を終える。
しかし、偉人伝とか、素敵だなと思える人の話をよく、しっかりと聞けば、同じような不幸の星のもとに生まれながら、その逆境を乗り越える人もいればただ逆境に流されるだけの人もいてるのだ、というのがはっきりとわかるようになる。
同じように不幸に生まれてきたのに、なんで、この人は、こんなに立派なん?
そう疑問に思う事が多いのだけど、結局はそれは、自分の決断一つなんだよね。
「良い方に行くぞ」
そう思う事だけだと思う。その気持ちがあるかどうかだと思う。
で、その気持ちさえ持てれば、実は人生はあっという間に好転するのだ、という気がしてる。
それはとどのつまり、「正しい目標値」を探したかどうかだけなんじゃないの? という気がするのだ。その人が「よく生きよう」と思ったかどうか。それだけだよなぁ。
齋藤孝さんは、その「正しい目標値」をキチンと探して、しっかりと自分のものとして持ち得た人で、その「正しい目標値」を持つということが、どんな感じなのかを書いてくれているのが、この本なのだ、ということなんだと思う。
「学問のすすめ」は数百円で売られているわけです。その数百円で齋藤さんは「正しい目標値」を獲得しちゃったわけですよね。それはやっぱりすごいことなんじゃないかなーって思う。
なんだかんだ言っても、日本というこの国を支えているのは1%の大企業ではなくて99%の中小企業なわけですよ。
で、その中小企業の社長のような地べたをはいずり回りながら生きているような人は、やっぱり正しく本を読んでると思う。
だって安いもん。本。
日本は大学がキックアウト制になってないから、「大卒」なんて本当に飾りでしかない。欧米のように勉強しないからおん出されるってことがないからね。
でも、現実の社会で何かをしようと思ったら、とにかく圧倒的な知識がものをいうわけですよ。そうなると、実は大学出てからが勝負なわけです。
だから大卒に限らず「できる人」は軒並み勉強しているのが、この日本という国の面白いところなわけです。
本当に正しく勉強している人はそれほど多くはないのだと思うけれど、それでも組織の長より現場にいてる人がキチンと必要な知識を深めているというのがこの国の大きな特長だと思うわけで。
そういう環境を考えた時、この「座右の諭吉」という本は二重の意味で面白いんですな。「正しい目標」を指し示すとともに「あこがれる力」の楽しさと効率の良さを伝えてくれているわけで。
いや、実は内容的にはあんまり感動しなかったんだけどさ。
でも、諭吉の生涯が勉強できたのと、「あこがれる」事の楽しさを伝えていると言う意味では、なかなかに良いのではないかと、私は思うわけです。
興味のある方は、ぜひ。
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学問のすすめ―自分の道を自分で切りひらくために
2005年4月29日 読書
ISBN:4569636438 単行本 岬 龍一郎 PHP研究所 2004/05 ¥1,155
この数年、ことあるごとに「勉強せい」「勉強せなあきませんわ」「勉強してるかどうかよなぁ」ということを言い続けております。
なんでそうなったのかなぁと思うと、やっぱり、まず人間は「個人」として独立して、自分の意見を言い、堂々と自分の生き方を通していくことが幸せだと思うからなんですね。
まちがったことは「まちがってました」と反省し、また次の新しい知識を身につけていく。それこそが学ぶ姿勢であり、その時に「なるほど」と納得できることが精神の平安、心のゆとりにもなると僕は思う。
で、間違ってるのかどうかとかは、先人がいろいろと学問としてまとめてくれているのだから、そういうものをキチンと学習すれば良いと思うのですよ。そのまま素直に受け取って、そこからまた新たに発展・展開していくというような、そういう人であらねばと思うわけですよ。
知りもしないで勝手なことをグチグチと文句言うのが一番かっこ悪いし、社会の迷惑だし、世の中のためにもならないし、そんな奴こそが不幸せを世の中にまき散らすのだと思っているわけです。
で、そういうようなことをずっと思っていて、ふと気づくと、この福沢諭吉の「学問のすすめ」を私は未読であったことに気づいたわけです。
で、読んでみたら、なんてこたぁない。そらもう僕が口やかましく言ってることとか、主張したいこととか、こんな風に考えなくちゃいかんよなというようなことが、もうまるまる、「学問のすすめ」の中に、僕が書くよりはるかにわかりやすく伝わりやすく書かれているわけです。
それに平易に書かれてますけど、欧米の知識を、相当に深いレベルまで身につけた上で、自分の哲学とすり合わせて、かみ砕いた上で、わかりやすい日本語に直しているというのが、一発でよく分かる。
とくに僕は、欧米の「自由」やら権利概念やらを翻訳書とか、多様な書籍から少しずつヒーコラ言いながら学習してきたので、この福沢諭吉のかみ砕き方がいかにこなれているかに舌をまくのであります。このこなれ方はすごいです。
おそらく、福沢諭吉自身が原書を直接読んで、悪戦苦闘しながら概念理解をして、それで自分の言葉に置き換えたからこそ、ここまで日本語としてこなれているんだと思う。(なにより「自由」という言葉をフリーダム・リバティの訳語として創造したのが諭吉グループだそうですからなぁ。そらこなれてるわなぁ。)
ほんとうにすごいことをやってると思います。
これは、明治5年くらいの本ですが、いまの時代にも通用する。マジに。
というか、いまこそ、この明治の精神を真摯に受け止めるべきやで、って思う。
国民が独立していなくて、国が独立するわけない。私自身が誰に頼らず、勉強(実学です。経営学も歴史も政治も法律も何もかもひっくるめて。それもワールドワイドな視点でって意味です。国内文化に浸った国内権威を守るような学問では意味ないです。世界の列強と居並ぶことこそが重要って意味での勉強、です。)すべしってことです。
これなんよなぁ。これ。
ひとりひとりがキチンと「個人」にならずして、国の成り立つわけがない。
だって法律も借り物だし、自由や権利や義務の概念も、全部欧米からの借り物なんだもの。その借り物が自分の体に合うように慣らしていくのは個人の責任ですよ。
それができてなくて、日本の未来なんかあり得ない。個人が努力しなくて未来が来るなんてことはあり得ない。さぼって遊んでるだけの人間は時代の流れも読めず、中世的な古来の風習の中で苦しんでのたうち回るだけです。苦しいのなんて嫌だ。だから勉強する。
そういうことなんよなぁとつくづく思う。
この本は岩波文庫でも出てたと思うんですが、岩波版はかなづかいこそ現代かなづかいに直ってるらしいんですが、文章自体は文語体のままで現代語訳されてないそうなんです。(よく知らないですが。)でも、この本は現代語訳されてるので、大変読みやすい。
勉強はせにゃならんのですが、手間がかかったり面倒だったりするのはしんどいので、僕は現代語訳を選んだわけですが、これは本当に良い仕事ですわね。
良い作品をつねに現代語訳して、受け継いで古典にしていかないといけない。つくづくそう思わされました。
で、岩波の文庫版の方はアマゾンのレビューでも星五つの最高評価ばっかり。啓蒙書としての「学問のすすめ」はほんとうにすばらしいのです。もっともっとみんなに読んでもらいたいと思いますね。
まぁ一冊まるまる読まなくても、一番最初の「初編」の部分だけでも、みんなが読んで欲しいと思うなぁ。ほんと。
ひとりでも多く、個人が個人として目覚めて欲しい。
いたずらに周りにあわせて、ずるずると個を捨ててイライラしたりしないで欲しい。
まず自己責任で自分の生き方を引き受けて、独立精神で真剣に知識の獲得に本気になって欲しいです。
ひとりでもそういう人が増えたら、その波及効果はすごく大きいですしね。一人の周りに何十人という人間がいてますから。
まず日本人は「学問のすすめ」の精神にこそ、立ち帰るべきだと僕は思います。
いやほんと。
ほんとのほんとに、とてつもなく重要なことだと思う。
ずーっと「勉強勉強」って言い続けてきたけど、僕なんかが言うより、やっぱり福沢諭吉に言ってもらう方が信用してもらえるもんなぁ。同じこと言ってても福沢諭吉なら信用するというしょーもない人が、この国には多いし、やっぱりそういう意味でもこの本は意義深いです。
すばらしいです。
この数年、ことあるごとに「勉強せい」「勉強せなあきませんわ」「勉強してるかどうかよなぁ」ということを言い続けております。
なんでそうなったのかなぁと思うと、やっぱり、まず人間は「個人」として独立して、自分の意見を言い、堂々と自分の生き方を通していくことが幸せだと思うからなんですね。
まちがったことは「まちがってました」と反省し、また次の新しい知識を身につけていく。それこそが学ぶ姿勢であり、その時に「なるほど」と納得できることが精神の平安、心のゆとりにもなると僕は思う。
で、間違ってるのかどうかとかは、先人がいろいろと学問としてまとめてくれているのだから、そういうものをキチンと学習すれば良いと思うのですよ。そのまま素直に受け取って、そこからまた新たに発展・展開していくというような、そういう人であらねばと思うわけですよ。
知りもしないで勝手なことをグチグチと文句言うのが一番かっこ悪いし、社会の迷惑だし、世の中のためにもならないし、そんな奴こそが不幸せを世の中にまき散らすのだと思っているわけです。
で、そういうようなことをずっと思っていて、ふと気づくと、この福沢諭吉の「学問のすすめ」を私は未読であったことに気づいたわけです。
で、読んでみたら、なんてこたぁない。そらもう僕が口やかましく言ってることとか、主張したいこととか、こんな風に考えなくちゃいかんよなというようなことが、もうまるまる、「学問のすすめ」の中に、僕が書くよりはるかにわかりやすく伝わりやすく書かれているわけです。
それに平易に書かれてますけど、欧米の知識を、相当に深いレベルまで身につけた上で、自分の哲学とすり合わせて、かみ砕いた上で、わかりやすい日本語に直しているというのが、一発でよく分かる。
とくに僕は、欧米の「自由」やら権利概念やらを翻訳書とか、多様な書籍から少しずつヒーコラ言いながら学習してきたので、この福沢諭吉のかみ砕き方がいかにこなれているかに舌をまくのであります。このこなれ方はすごいです。
おそらく、福沢諭吉自身が原書を直接読んで、悪戦苦闘しながら概念理解をして、それで自分の言葉に置き換えたからこそ、ここまで日本語としてこなれているんだと思う。(なにより「自由」という言葉をフリーダム・リバティの訳語として創造したのが諭吉グループだそうですからなぁ。そらこなれてるわなぁ。)
ほんとうにすごいことをやってると思います。
これは、明治5年くらいの本ですが、いまの時代にも通用する。マジに。
というか、いまこそ、この明治の精神を真摯に受け止めるべきやで、って思う。
国民が独立していなくて、国が独立するわけない。私自身が誰に頼らず、勉強(実学です。経営学も歴史も政治も法律も何もかもひっくるめて。それもワールドワイドな視点でって意味です。国内文化に浸った国内権威を守るような学問では意味ないです。世界の列強と居並ぶことこそが重要って意味での勉強、です。)すべしってことです。
これなんよなぁ。これ。
ひとりひとりがキチンと「個人」にならずして、国の成り立つわけがない。
だって法律も借り物だし、自由や権利や義務の概念も、全部欧米からの借り物なんだもの。その借り物が自分の体に合うように慣らしていくのは個人の責任ですよ。
それができてなくて、日本の未来なんかあり得ない。個人が努力しなくて未来が来るなんてことはあり得ない。さぼって遊んでるだけの人間は時代の流れも読めず、中世的な古来の風習の中で苦しんでのたうち回るだけです。苦しいのなんて嫌だ。だから勉強する。
そういうことなんよなぁとつくづく思う。
この本は岩波文庫でも出てたと思うんですが、岩波版はかなづかいこそ現代かなづかいに直ってるらしいんですが、文章自体は文語体のままで現代語訳されてないそうなんです。(よく知らないですが。)でも、この本は現代語訳されてるので、大変読みやすい。
勉強はせにゃならんのですが、手間がかかったり面倒だったりするのはしんどいので、僕は現代語訳を選んだわけですが、これは本当に良い仕事ですわね。
良い作品をつねに現代語訳して、受け継いで古典にしていかないといけない。つくづくそう思わされました。
で、岩波の文庫版の方はアマゾンのレビューでも星五つの最高評価ばっかり。啓蒙書としての「学問のすすめ」はほんとうにすばらしいのです。もっともっとみんなに読んでもらいたいと思いますね。
まぁ一冊まるまる読まなくても、一番最初の「初編」の部分だけでも、みんなが読んで欲しいと思うなぁ。ほんと。
ひとりでも多く、個人が個人として目覚めて欲しい。
いたずらに周りにあわせて、ずるずると個を捨ててイライラしたりしないで欲しい。
まず自己責任で自分の生き方を引き受けて、独立精神で真剣に知識の獲得に本気になって欲しいです。
ひとりでもそういう人が増えたら、その波及効果はすごく大きいですしね。一人の周りに何十人という人間がいてますから。
まず日本人は「学問のすすめ」の精神にこそ、立ち帰るべきだと僕は思います。
いやほんと。
ほんとのほんとに、とてつもなく重要なことだと思う。
ずーっと「勉強勉強」って言い続けてきたけど、僕なんかが言うより、やっぱり福沢諭吉に言ってもらう方が信用してもらえるもんなぁ。同じこと言ってても福沢諭吉なら信用するというしょーもない人が、この国には多いし、やっぱりそういう意味でもこの本は意義深いです。
すばらしいです。
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眠っているあいだにすべては解決できる
2005年1月21日 読書
ISBN:4072364061 単行本 ナターリャ・メイゼル 主婦の友社 2003/11/27 ¥1,680
「他人の話に本気で耳を傾けたりするより、銃撃戦のさなか匍匐前進するほうがはるかに簡単である」
という一節が、この本の後半に載っていて、「そうよなぁ、その通りよなぁ」と思うのであります。
戦場に行くよりも、うんとはるかに、「自分と向き合う」ということの方が難しいというタイプの人間は世の中にいてるものです。
かくいう私もそのくちだったかも知れませんが。
えーっとですね、先に本の紹介しますと、
「睡眠中に、ひらめいた考えによってその後の人生をも変えてしまう力をもつ思考法、スリープシンキング。あなたも睡眠時間をもっと有効に活用してみませんか? 寝ているあいだに脳が問題を解決してくれるプログラムを紹介。」
ということになります。
で、前半の一章から六章までは、そのスリープシンキングのやり方がごちゃごちゃと書いてあるわけですが、実は、そんなものちーとも面白くない。
この本の真骨頂は七章以降に出てくるスリープシンキングを利用して自分と向き合った人たちの実例のほうであります。
読むならまず第七章から読み始めていただきたい。
●自分はゲイなのにそれに気づこうとせずに生きている男
●ソロを弾こうとすると弾けなくなるギタリスト
●歴史小説を書くために仕事をやめたいのにやめられない女
●借金を支払わなければいけないのに、銀行口座のパスワードがどうしても思い出せない女
●ロデオでスターになりロデオ引退後はビジネスウーマンとして頭角をあらわしているのに、趣味の絵画をはじめるのが怖くて仕方ない女
●「まじめ」な歌手であるために楽しんで歌を歌えなくなってしまっている女
そういう話がいっぱい載ってます。
どれもこれも「自分を精一杯生きている」人の話で、僕的には非常に共感するんですなぁ。
思うに人間がこの世に生まれてきた使命は、究極「自分らしくイキイキと生きること」なんだと思うのです。
もし自分が自分らしく生きてないと実感するなら、それは自分の責任です。生き方の再調整をしないと仕方ない。それは結局、自分と向き合うという作業をするしかないってことなんですね。
これは水路にゴミがたまっているようなものだと僕は思うのです。複雑でどこがどうつながっているかもわからないような水路に水が流れていない。どこかでゴミが詰まってるのだけれど、それがどこなのかわからない。
調べだしたら大変な作業になるから、ついついほおりだしてしまいがちなんですが、それでも結局、いつかは溝掃除をするしかないわけです。
長く生きているとゴミもたまるよ。
そう思う。
一度ゴミ掃除さえしてしまえば、あとは水路を自由に水が流れると思うんだよなぁ。
スリープシンキングというのは睡眠前に、そのゴミのありかを自分に聞くというようなやり方ですが、この後半部分を読むと、別にスリープシンキングのやり方がすべてにあてはまるわけでもない。多少効率的という程度のことで、結局は問題を抱えている当人が「自分と向き合うぞ」と思わない限り、何もはじまらない、ということに関しては同じなんですね。
そこがまた面白い。
人間が生きているという不思議。
その一番大きな不思議に気づかずに、何を考えても、結局は遠回りでしかないと思うのですよ。
そんなことを考えたら、まずは自分の中の心の水路の溝掃除を、まず最初に行うというのが一番大事だよなぁと、つくづく思うのであります。
人類全員が溝掃除したら、それこそ戦争も起こらない理想の世界がやってくるのかもしれないとかも思いますけどね。
あー、でも「自分と向き合う」というのは、一番辛いしなぁ。できねぇよなぁやっぱし。なかなかねぇ。
うむ。
「他人の話に本気で耳を傾けたりするより、銃撃戦のさなか匍匐前進するほうがはるかに簡単である」
という一節が、この本の後半に載っていて、「そうよなぁ、その通りよなぁ」と思うのであります。
戦場に行くよりも、うんとはるかに、「自分と向き合う」ということの方が難しいというタイプの人間は世の中にいてるものです。
かくいう私もそのくちだったかも知れませんが。
えーっとですね、先に本の紹介しますと、
「睡眠中に、ひらめいた考えによってその後の人生をも変えてしまう力をもつ思考法、スリープシンキング。あなたも睡眠時間をもっと有効に活用してみませんか? 寝ているあいだに脳が問題を解決してくれるプログラムを紹介。」
ということになります。
で、前半の一章から六章までは、そのスリープシンキングのやり方がごちゃごちゃと書いてあるわけですが、実は、そんなものちーとも面白くない。
この本の真骨頂は七章以降に出てくるスリープシンキングを利用して自分と向き合った人たちの実例のほうであります。
読むならまず第七章から読み始めていただきたい。
●自分はゲイなのにそれに気づこうとせずに生きている男
●ソロを弾こうとすると弾けなくなるギタリスト
●歴史小説を書くために仕事をやめたいのにやめられない女
●借金を支払わなければいけないのに、銀行口座のパスワードがどうしても思い出せない女
●ロデオでスターになりロデオ引退後はビジネスウーマンとして頭角をあらわしているのに、趣味の絵画をはじめるのが怖くて仕方ない女
●「まじめ」な歌手であるために楽しんで歌を歌えなくなってしまっている女
そういう話がいっぱい載ってます。
どれもこれも「自分を精一杯生きている」人の話で、僕的には非常に共感するんですなぁ。
思うに人間がこの世に生まれてきた使命は、究極「自分らしくイキイキと生きること」なんだと思うのです。
もし自分が自分らしく生きてないと実感するなら、それは自分の責任です。生き方の再調整をしないと仕方ない。それは結局、自分と向き合うという作業をするしかないってことなんですね。
これは水路にゴミがたまっているようなものだと僕は思うのです。複雑でどこがどうつながっているかもわからないような水路に水が流れていない。どこかでゴミが詰まってるのだけれど、それがどこなのかわからない。
調べだしたら大変な作業になるから、ついついほおりだしてしまいがちなんですが、それでも結局、いつかは溝掃除をするしかないわけです。
長く生きているとゴミもたまるよ。
そう思う。
一度ゴミ掃除さえしてしまえば、あとは水路を自由に水が流れると思うんだよなぁ。
スリープシンキングというのは睡眠前に、そのゴミのありかを自分に聞くというようなやり方ですが、この後半部分を読むと、別にスリープシンキングのやり方がすべてにあてはまるわけでもない。多少効率的という程度のことで、結局は問題を抱えている当人が「自分と向き合うぞ」と思わない限り、何もはじまらない、ということに関しては同じなんですね。
そこがまた面白い。
人間が生きているという不思議。
その一番大きな不思議に気づかずに、何を考えても、結局は遠回りでしかないと思うのですよ。
そんなことを考えたら、まずは自分の中の心の水路の溝掃除を、まず最初に行うというのが一番大事だよなぁと、つくづく思うのであります。
人類全員が溝掃除したら、それこそ戦争も起こらない理想の世界がやってくるのかもしれないとかも思いますけどね。
あー、でも「自分と向き合う」というのは、一番辛いしなぁ。できねぇよなぁやっぱし。なかなかねぇ。
うむ。
マンガの深読み、大人読み
2005年1月8日 読書
ISBN:4872574818 単行本 夏目 房之介 イーストプレス 2004/09 ¥1,355
1/8付けになってますけど、読んだのは多分去年の暮れ。
いやー、さすがに夏目房之介さんですなぁ。実におもしろいし、内容が深い。
というか、現実の姿を冷静に思慮深くチェックして推論しているところがとても良いです。
まぁあんまり売れないんでしょうけどなぁ。
僕的に「そそそ、そうか、そうだったのか」と感心したのが、マンガの「フキダシ」。
ありますわね、マンガのキャラクターの横についてるセリフ用の風船みたいな奴。
この本、あれの起源についてけっこう地道にていねいに調べようとしてるんですね。夏目さん独特の知的なアプローチで。
黄表紙と呼ばれる江戸時代の絵物語のようなものの中にフキダシに近いものがあるからと、夏目さんはこれがフキダシの起源なのかと調べるわけです。
しかし、どうも違うらしい。文章の区切りとして曲線で分けられていることはあっても、誰かのセリフを囲むという発想ではないらしいんですね。
だからストレートなフキダシの起源とは考えられないわけです。
で、ここからはちょっとわかる人にしかわからんからさらっと流しますが、マンガはようするに虐げられた下級文化なんですよ、現代日本以外では。
なのでまともな資料というのがあんまりないわけです。
で、パッと飛んで明治の中ごろになると、どうもアメリカンコミックスが日本にも入ってきてたらしいんですね。
それで夏目さんは「どうもフキダシというのは、海外文化を日本に取り込んだものであるようだ」と言ってるんです。
そそそそ、そうだったのか!
だったんですなぁ、私的には。
そうやったんや。アメコミの真似やったんや。うーん。そうやったんかぁ。です。
日本人はマンガのようなファンタジーに関しては先進国なんですけど、でも肝心のフキダシみたいな表現技術とかは、けっこう海外のものを真似てたんだなぁと。
あ、あと、この本を読むと「あしたのジョー」と「巨人の星」がいかにすごいマンガであったのかが、あらためてわかりますです。主人公が成長するマンガというものが、いかに日本のマンガ文化を変えたのか、世界に影響を与えたのかとかですね。
とにかくマンガというものをキチンと考えたい人には実に面白い、良い著作だと思いました。
おすすめ。
1/8付けになってますけど、読んだのは多分去年の暮れ。
いやー、さすがに夏目房之介さんですなぁ。実におもしろいし、内容が深い。
というか、現実の姿を冷静に思慮深くチェックして推論しているところがとても良いです。
まぁあんまり売れないんでしょうけどなぁ。
僕的に「そそそ、そうか、そうだったのか」と感心したのが、マンガの「フキダシ」。
ありますわね、マンガのキャラクターの横についてるセリフ用の風船みたいな奴。
この本、あれの起源についてけっこう地道にていねいに調べようとしてるんですね。夏目さん独特の知的なアプローチで。
黄表紙と呼ばれる江戸時代の絵物語のようなものの中にフキダシに近いものがあるからと、夏目さんはこれがフキダシの起源なのかと調べるわけです。
しかし、どうも違うらしい。文章の区切りとして曲線で分けられていることはあっても、誰かのセリフを囲むという発想ではないらしいんですね。
だからストレートなフキダシの起源とは考えられないわけです。
で、ここからはちょっとわかる人にしかわからんからさらっと流しますが、マンガはようするに虐げられた下級文化なんですよ、現代日本以外では。
なのでまともな資料というのがあんまりないわけです。
で、パッと飛んで明治の中ごろになると、どうもアメリカンコミックスが日本にも入ってきてたらしいんですね。
それで夏目さんは「どうもフキダシというのは、海外文化を日本に取り込んだものであるようだ」と言ってるんです。
そそそそ、そうだったのか!
だったんですなぁ、私的には。
そうやったんや。アメコミの真似やったんや。うーん。そうやったんかぁ。です。
日本人はマンガのようなファンタジーに関しては先進国なんですけど、でも肝心のフキダシみたいな表現技術とかは、けっこう海外のものを真似てたんだなぁと。
あ、あと、この本を読むと「あしたのジョー」と「巨人の星」がいかにすごいマンガであったのかが、あらためてわかりますです。主人公が成長するマンガというものが、いかに日本のマンガ文化を変えたのか、世界に影響を与えたのかとかですね。
とにかくマンガというものをキチンと考えたい人には実に面白い、良い著作だと思いました。
おすすめ。