ゲームをするな。本を読め。
2008年2月14日 読書
ISBN:4004308011 新書 斎藤 孝 岩波書店 2002/09 ¥735
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4004308011/249-9767057-8485143
このところずっと読書に力を入れてるのですが、そういう僕にとって「おおお、これは素晴らしい!」と感心した書籍を見つけました。
それがこの齋藤孝さんの「読書力」です。
齋藤孝さんは明治大学文学部の教授ですが、「本を読む読まないは自由なのだから、強制しないで欲しい」という学生が出てきたりしている現状を憂い、「読まないのは自由」という考え方に対する反論として書かれたものだそうです。
●本は読んでも読まなくても良いというものではない。読まなければいけないものだ。
と言い切っていて、ここが実に清々しい。
僕も前々から「本は読まなければいけないものだ」という意識があったのですが、世間の「読まないのは自由」みたいな風潮があって、断言まではしてなかったんです。
でも、斎藤さんは違う。はっきりと断言している。そこが素晴らしいのですよ。えらい!感動してしまう。
日本の大学は受験が厳しく入学してからはたいして勉強してない学生が多いようですが、欧米の大学はまったく違うそうです。キックアウト式と言って、勉強しないと卒業できない仕組みなのだそうです。(このあたりの日本と欧米の大学の違いについては、別に斎藤さんは何も言ってませんよ。これはあくまで僕の聞きかじりです。)
それもそう簡単な授業ではなく、本を3冊〜4冊指定されて、それを一週間くらいで読んで、まとめ、自分の意見をレポートにせよ、というものが多いのだそうです。で、その書かれたレポートの内容について基礎的な情報をキチンと把握した上で意見を述べているか、独自の視点があるかどうかを問われる。まさに論文を書く練習そのものですね。欧米の大学はみなそういう仕組みになっているそうです。
ですから、日本の大学生は圧倒的に勉強不足です。そういう状況なのですから、大人になってから誰かがまともに勉強しないと、この国は回っていかないんですね。現実問題として。だから本はどんどん読まなければなりません。
その当たり前の事を真正面から正しく指摘してくれてるのが、この本です。
しかし、「さすがは齋藤孝だなぁ」と感心するのは、その「読書力」というものを、客観的に判定できる基準を明確に提示しているところです。
読書せよ、と言ったところで何をどのくらい読めばいいのか? というのが問題になるわけで、それを斎藤さんは、
●文庫100冊
●新書50冊
と数字で定義してるんです。「何を読んでも良いが、とにかく、これだけの冊数はこなせ。」ということなんですね。
これだけこなせば、読む行為そのものに慣れてくる。そこが大切だと斎藤さんはおっしゃる。けだし名言!であります。まさに「読むことに慣れる」事こそが読書力そのものだと思うのですよ。
よく「速読」が話題になりますが、そういうテクニックを身につけるのも悪くないけれども、その前にテレビやゲームをする時間を削って本をまずは読むようにすればいいのです。まずは、とにかく本を読む習慣を身につける。そっちが先です。
まぁ、文庫100冊、新書50冊も読めば、いやでも習慣は身に付きます。週に一冊読めば、一年で50冊ですから、150冊なら3年です。そう無理な数字ではないでしょう。月に2冊くらいにして6年で力をつけてもいいし、週2冊にして1年半でこなしてもいい。このくらいの範囲なら、速読のテクニックを身につけてなくても充分可能です。(斎藤さんは文庫100冊を4年というのを有効期限として設定されてます。)
しかも、斎藤さんが素晴らしいのは、その「一冊を読んだ」という基準も、わかりやすく明確な言葉にしている点です。
その基準というのは、
●要約ができれば読んだことにしてもいい。
というものです。つまり斜め読みでも良いという事なんですね。
これ、なんでもないことのように見えて、超重要な事でもあります。上記で書いた欧米のキックアウト式の大学の授業でも、実は課題図書を精読したりはしないのですね。特に欧米の書籍や論文というのは、まず結論が書いてあって、その後に、その詳述があるという構成に、必ずなっているので、各章の最初の数ブロックずつ読んでいけば、著者の言いたい事だけはわかるという仕組みになってるんです。(その意味で、実は欧米式の速読術と、日本の速読術では意味がまったく異なるのですが。)
で、斎藤さんは、ようは「要約ができれば読んだことにしてもいい」と規範をゆるめてくれているのです。
ただ、これ、実は規範を緩めているようでいて、実はより本質的な読書力を必要とされる基準でもあるんですね。
斎藤さんは、この本では指摘してませんが、例の大ヒット作である「三色ボールペン情報活用術」で、読書力がない人間は、その書籍が何を言おうとしているのかを正しく読み取ることができていない。だから、内容を正しく読み取るのもひとつの技術として必要だ、という話を書いているからです。読書力がないからこそ、「読み取り方は自由だろ」という論点のすり替えに入り込んでしまうし、より広い視野を持つ「正しく読む」ができなくなるんですね。
(このあたりの話は、この日記でも、前に書きました。
http://diarynote.jp/d/12917/20051221.html)
三色ボールペン読書法というのは、この「自分の思いこみで書籍を自分勝手に解釈する」というのを防ぐ、良い方法なのです。本を読んでいて、
a)まぁ大事----------------青
b)とても大事--------------赤
c)個人的に面白いと思った--緑
という色分けで本に書き込みをしなさいと教えてくれているのであります。
ほんとにね、読書力のない人間は、上記の緑線しか引かないですからね。これが困ります。本を読むというのは、その著者と一対一で話をするようなものですから、まず相手の言っている事がどういうことであるのかの「大意」をつかめなければ意味などまったくないのであります。そこがつかめていないのならコミュニケーション自体が成立してないわけです。
ところが、これを平気で緑線の部分だけ読んで、読んだつもりになってる人間とかいてますからね。これが本当に困る。揚げ足ばっかり取るマスコミなんてのも同じようなものですが、そういう世の中の悪いところばっかり真似して、それで良いのだと思ってる人種がけっこう、かなりいてますからね。
●要約ができれば読んだことにしてもいい。
というのは、かなり本質をついた重要な指摘です。
逆に言えば、大意をキチンとくみ取れる力があれば、かなり読書力はあるのだ、とも言えます。
このあたりの話は、この日記の、去年の6月2日に「感じ方は自由なのか」で書きましたが、
http://diarynote.jp/d/12917/20070602.html
「感じ方は自由なんだから、国語のテスト自体おかしい」とか言う人間がいたりするのは、唖然とするしかないんですね。前も書いたかも、ですが、作者の意図も読めていないで、「自分の感じたままで良い」なんていうのは話にもなんにもなっていない。単なるパーなだけです。
自分で感じるというのは、三色ボールペンの緑ですから、どんどん感じ取ればいいのですが、赤線がまったくないのなら、それは作者の意図がまったく解っていないと言うことにしかならないわけです。
斎藤さんは、この読書力を、食べることになぞらえて、強い歯やあごを作るためにするべき事なのだとおっしゃる。アニメやゲームは軟らかい、自力で消化することを求めない食べ物であり、スープのようなもの。マンガはスナック菓子だと例えておられます。
「児童文学で離乳食。推理小説、歴史小説などで乳歯レベルだ。」とも言っておられて、三十代や四十代の大人でも、このレベルの読書に留まっている人も多いと嘆いてもおられるのですね。
この後に永久歯の読書、心地よい精神の緊張感ある読書の話が出てくるのですが、ともあれ、スープやスナック菓子ばっかり食していたら、どんどん歯が弱るだけです。それははっきりしてるんだけど、どうにも、いまの日本、スープやスナック菓子が多すぎる。
はっきり言いますが、ゲームしかしない人は、ゲーム好きではないですよね。単にゲームに依存してるだけで。本当にゲームを愛してる人は、本当に面白いゲームを、一発で見つけ出しますし、他のジャンル(書籍など)と比較した上で、その良さが語れる人です。本当に面白いものとか、有用なものとか、知るべき事、理解するべき事は世の中にあふれるほどにあるわけですから。そういうものと同等に発展して欲しいと願うのが、本物のファンですわね。ゲームしかしない人間に、そういう視点があるわけがない。だからオタクはダメなのです。(私ははっきりオタク否定派です。)
しかし、忘れてはいけません。斎藤さんも指摘してますが、
●日本は読書立国
なのですね。世の中を支えている人は、みなせっせと本を読んで、役立つ知識や、心にしみいる感動などを自分の生きていく糧としているのです。
この部分を斎藤さんは、かつての日本人の読書レベルが世界最高レベルだったことを出して説明してくれます。けっこう高齢の方々は世界文学全集などをせっせと読んでいたのです。いまでも高齢の方々の読書レベルはかなり高いんです。ドイツ・ロシアの作家も読んでいる。
そういえば、先日も、「ロシア文学の『カラマーゾフ兄弟』を「カラキョウ」と略して、かなりの人が読んでいる。」というようなニュースが出ていましたが、もともと日本人には、そういう「読書を糧とする」文化があるのです。
これは、この「読書力」に書かれていて僕も、「その通り!」と思った事ですが、日本には聖書にように「The Book」と言うべき、「読むべき、かの本」がないのです。日本人は敬典宗教ではないから、倫理観や精神的な基盤を特定の書籍から学ぶという事がないのです。だから、その代わりに幅広く数多く書籍を読んで倫理観やら精神的基盤を自ら養っていかざるを得なくなるという側面があるというのですね。もう、その通りだと思うのですよ。
日本では、年間4万種類、15億冊の本が生産・印刷されていて、出版社の数も約5000企業にのぼるのだそうです。
で、これだけの出版社・出版物があるというのは、まさに聖書がないからこそだろうと思うのです。
いま、若い人の間で、「自分探し」というような事がよく言われるわけですが、これも自分なんか探しててもどこにも見つからないよ、と、僕は言いたいわけです。だって、ちゃんと「自分づくり」ができてないわけですから。目の前の現実にキチンと対処して、日々の日常を愛し、さまざまな考え方を書物から学んで、日々自分の内面を豊かにしていく「自分作り」の過程を経ずして、探すべき自分が生まれるはずもないわけです。
読書力は、そういう意味で人生を豊かにします。
しかし、学歴社会・受験戦争なんてものが当たり前になってきたおかげで、ゆっくりと読書をする時間すらなく、いまの子供たちは、そういう豊かさをはぐくめていないのですな。
この本でも指摘してますけど、「相手の言ったこととまったく無関係に『ていうか』という始まりで、まったく自分だけに関心のある話をする」というような社会性のない子供たちが増えてるとは思いませんか?
これははっきり親が悪い。親が本を読んでないんです。読まなくはないのだろうけれど、自分の興味や考えに合致するものだけを読み、それと食い違う場合には「憎むべき悪書」として攻撃したりする。そうすることが強さと勘違いしてるのかも知れないけれど、それはしなやかさのない生き方で、思考停止をしているに過ぎないのです。
思考停止をするから強いのではなくて、それは堅くもろい自己のあり方なわけです。
このあたり、かなり斎藤さんの言葉を引用してるんですが。(笑)
でも、本当にこのあたりの意見は深くうなづいてしまいます。
ともあれ、この本はとても良い書籍です。
さすが読書人・齋藤孝。僕と同年代ですが、出版の世界では大活躍しているスーパースターとして、岩波新書という、王道中の王道たる出版社で、これだけしっかりした内容の本を出していたとは!
日本人の必読書として、超強力におすすめしたい一冊であります。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4004308011/249-9767057-8485143
このところずっと読書に力を入れてるのですが、そういう僕にとって「おおお、これは素晴らしい!」と感心した書籍を見つけました。
それがこの齋藤孝さんの「読書力」です。
齋藤孝さんは明治大学文学部の教授ですが、「本を読む読まないは自由なのだから、強制しないで欲しい」という学生が出てきたりしている現状を憂い、「読まないのは自由」という考え方に対する反論として書かれたものだそうです。
●本は読んでも読まなくても良いというものではない。読まなければいけないものだ。
と言い切っていて、ここが実に清々しい。
僕も前々から「本は読まなければいけないものだ」という意識があったのですが、世間の「読まないのは自由」みたいな風潮があって、断言まではしてなかったんです。
でも、斎藤さんは違う。はっきりと断言している。そこが素晴らしいのですよ。えらい!感動してしまう。
日本の大学は受験が厳しく入学してからはたいして勉強してない学生が多いようですが、欧米の大学はまったく違うそうです。キックアウト式と言って、勉強しないと卒業できない仕組みなのだそうです。(このあたりの日本と欧米の大学の違いについては、別に斎藤さんは何も言ってませんよ。これはあくまで僕の聞きかじりです。)
それもそう簡単な授業ではなく、本を3冊〜4冊指定されて、それを一週間くらいで読んで、まとめ、自分の意見をレポートにせよ、というものが多いのだそうです。で、その書かれたレポートの内容について基礎的な情報をキチンと把握した上で意見を述べているか、独自の視点があるかどうかを問われる。まさに論文を書く練習そのものですね。欧米の大学はみなそういう仕組みになっているそうです。
ですから、日本の大学生は圧倒的に勉強不足です。そういう状況なのですから、大人になってから誰かがまともに勉強しないと、この国は回っていかないんですね。現実問題として。だから本はどんどん読まなければなりません。
その当たり前の事を真正面から正しく指摘してくれてるのが、この本です。
しかし、「さすがは齋藤孝だなぁ」と感心するのは、その「読書力」というものを、客観的に判定できる基準を明確に提示しているところです。
読書せよ、と言ったところで何をどのくらい読めばいいのか? というのが問題になるわけで、それを斎藤さんは、
●文庫100冊
●新書50冊
と数字で定義してるんです。「何を読んでも良いが、とにかく、これだけの冊数はこなせ。」ということなんですね。
これだけこなせば、読む行為そのものに慣れてくる。そこが大切だと斎藤さんはおっしゃる。けだし名言!であります。まさに「読むことに慣れる」事こそが読書力そのものだと思うのですよ。
よく「速読」が話題になりますが、そういうテクニックを身につけるのも悪くないけれども、その前にテレビやゲームをする時間を削って本をまずは読むようにすればいいのです。まずは、とにかく本を読む習慣を身につける。そっちが先です。
まぁ、文庫100冊、新書50冊も読めば、いやでも習慣は身に付きます。週に一冊読めば、一年で50冊ですから、150冊なら3年です。そう無理な数字ではないでしょう。月に2冊くらいにして6年で力をつけてもいいし、週2冊にして1年半でこなしてもいい。このくらいの範囲なら、速読のテクニックを身につけてなくても充分可能です。(斎藤さんは文庫100冊を4年というのを有効期限として設定されてます。)
しかも、斎藤さんが素晴らしいのは、その「一冊を読んだ」という基準も、わかりやすく明確な言葉にしている点です。
その基準というのは、
●要約ができれば読んだことにしてもいい。
というものです。つまり斜め読みでも良いという事なんですね。
これ、なんでもないことのように見えて、超重要な事でもあります。上記で書いた欧米のキックアウト式の大学の授業でも、実は課題図書を精読したりはしないのですね。特に欧米の書籍や論文というのは、まず結論が書いてあって、その後に、その詳述があるという構成に、必ずなっているので、各章の最初の数ブロックずつ読んでいけば、著者の言いたい事だけはわかるという仕組みになってるんです。(その意味で、実は欧米式の速読術と、日本の速読術では意味がまったく異なるのですが。)
で、斎藤さんは、ようは「要約ができれば読んだことにしてもいい」と規範をゆるめてくれているのです。
ただ、これ、実は規範を緩めているようでいて、実はより本質的な読書力を必要とされる基準でもあるんですね。
斎藤さんは、この本では指摘してませんが、例の大ヒット作である「三色ボールペン情報活用術」で、読書力がない人間は、その書籍が何を言おうとしているのかを正しく読み取ることができていない。だから、内容を正しく読み取るのもひとつの技術として必要だ、という話を書いているからです。読書力がないからこそ、「読み取り方は自由だろ」という論点のすり替えに入り込んでしまうし、より広い視野を持つ「正しく読む」ができなくなるんですね。
(このあたりの話は、この日記でも、前に書きました。
http://diarynote.jp/d/12917/20051221.html)
三色ボールペン読書法というのは、この「自分の思いこみで書籍を自分勝手に解釈する」というのを防ぐ、良い方法なのです。本を読んでいて、
a)まぁ大事----------------青
b)とても大事--------------赤
c)個人的に面白いと思った--緑
という色分けで本に書き込みをしなさいと教えてくれているのであります。
ほんとにね、読書力のない人間は、上記の緑線しか引かないですからね。これが困ります。本を読むというのは、その著者と一対一で話をするようなものですから、まず相手の言っている事がどういうことであるのかの「大意」をつかめなければ意味などまったくないのであります。そこがつかめていないのならコミュニケーション自体が成立してないわけです。
ところが、これを平気で緑線の部分だけ読んで、読んだつもりになってる人間とかいてますからね。これが本当に困る。揚げ足ばっかり取るマスコミなんてのも同じようなものですが、そういう世の中の悪いところばっかり真似して、それで良いのだと思ってる人種がけっこう、かなりいてますからね。
●要約ができれば読んだことにしてもいい。
というのは、かなり本質をついた重要な指摘です。
逆に言えば、大意をキチンとくみ取れる力があれば、かなり読書力はあるのだ、とも言えます。
このあたりの話は、この日記の、去年の6月2日に「感じ方は自由なのか」で書きましたが、
http://diarynote.jp/d/12917/20070602.html
「感じ方は自由なんだから、国語のテスト自体おかしい」とか言う人間がいたりするのは、唖然とするしかないんですね。前も書いたかも、ですが、作者の意図も読めていないで、「自分の感じたままで良い」なんていうのは話にもなんにもなっていない。単なるパーなだけです。
自分で感じるというのは、三色ボールペンの緑ですから、どんどん感じ取ればいいのですが、赤線がまったくないのなら、それは作者の意図がまったく解っていないと言うことにしかならないわけです。
斎藤さんは、この読書力を、食べることになぞらえて、強い歯やあごを作るためにするべき事なのだとおっしゃる。アニメやゲームは軟らかい、自力で消化することを求めない食べ物であり、スープのようなもの。マンガはスナック菓子だと例えておられます。
「児童文学で離乳食。推理小説、歴史小説などで乳歯レベルだ。」とも言っておられて、三十代や四十代の大人でも、このレベルの読書に留まっている人も多いと嘆いてもおられるのですね。
この後に永久歯の読書、心地よい精神の緊張感ある読書の話が出てくるのですが、ともあれ、スープやスナック菓子ばっかり食していたら、どんどん歯が弱るだけです。それははっきりしてるんだけど、どうにも、いまの日本、スープやスナック菓子が多すぎる。
はっきり言いますが、ゲームしかしない人は、ゲーム好きではないですよね。単にゲームに依存してるだけで。本当にゲームを愛してる人は、本当に面白いゲームを、一発で見つけ出しますし、他のジャンル(書籍など)と比較した上で、その良さが語れる人です。本当に面白いものとか、有用なものとか、知るべき事、理解するべき事は世の中にあふれるほどにあるわけですから。そういうものと同等に発展して欲しいと願うのが、本物のファンですわね。ゲームしかしない人間に、そういう視点があるわけがない。だからオタクはダメなのです。(私ははっきりオタク否定派です。)
しかし、忘れてはいけません。斎藤さんも指摘してますが、
●日本は読書立国
なのですね。世の中を支えている人は、みなせっせと本を読んで、役立つ知識や、心にしみいる感動などを自分の生きていく糧としているのです。
この部分を斎藤さんは、かつての日本人の読書レベルが世界最高レベルだったことを出して説明してくれます。けっこう高齢の方々は世界文学全集などをせっせと読んでいたのです。いまでも高齢の方々の読書レベルはかなり高いんです。ドイツ・ロシアの作家も読んでいる。
そういえば、先日も、「ロシア文学の『カラマーゾフ兄弟』を「カラキョウ」と略して、かなりの人が読んでいる。」というようなニュースが出ていましたが、もともと日本人には、そういう「読書を糧とする」文化があるのです。
これは、この「読書力」に書かれていて僕も、「その通り!」と思った事ですが、日本には聖書にように「The Book」と言うべき、「読むべき、かの本」がないのです。日本人は敬典宗教ではないから、倫理観や精神的な基盤を特定の書籍から学ぶという事がないのです。だから、その代わりに幅広く数多く書籍を読んで倫理観やら精神的基盤を自ら養っていかざるを得なくなるという側面があるというのですね。もう、その通りだと思うのですよ。
日本では、年間4万種類、15億冊の本が生産・印刷されていて、出版社の数も約5000企業にのぼるのだそうです。
で、これだけの出版社・出版物があるというのは、まさに聖書がないからこそだろうと思うのです。
いま、若い人の間で、「自分探し」というような事がよく言われるわけですが、これも自分なんか探しててもどこにも見つからないよ、と、僕は言いたいわけです。だって、ちゃんと「自分づくり」ができてないわけですから。目の前の現実にキチンと対処して、日々の日常を愛し、さまざまな考え方を書物から学んで、日々自分の内面を豊かにしていく「自分作り」の過程を経ずして、探すべき自分が生まれるはずもないわけです。
読書力は、そういう意味で人生を豊かにします。
しかし、学歴社会・受験戦争なんてものが当たり前になってきたおかげで、ゆっくりと読書をする時間すらなく、いまの子供たちは、そういう豊かさをはぐくめていないのですな。
この本でも指摘してますけど、「相手の言ったこととまったく無関係に『ていうか』という始まりで、まったく自分だけに関心のある話をする」というような社会性のない子供たちが増えてるとは思いませんか?
これははっきり親が悪い。親が本を読んでないんです。読まなくはないのだろうけれど、自分の興味や考えに合致するものだけを読み、それと食い違う場合には「憎むべき悪書」として攻撃したりする。そうすることが強さと勘違いしてるのかも知れないけれど、それはしなやかさのない生き方で、思考停止をしているに過ぎないのです。
思考停止をするから強いのではなくて、それは堅くもろい自己のあり方なわけです。
このあたり、かなり斎藤さんの言葉を引用してるんですが。(笑)
でも、本当にこのあたりの意見は深くうなづいてしまいます。
ともあれ、この本はとても良い書籍です。
さすが読書人・齋藤孝。僕と同年代ですが、出版の世界では大活躍しているスーパースターとして、岩波新書という、王道中の王道たる出版社で、これだけしっかりした内容の本を出していたとは!
日本人の必読書として、超強力におすすめしたい一冊であります。
アジア人どうし戦わず。
2008年2月8日 読書
ISBN:482841407X ハードカバー 副島 隆彦 ビジネス社 2007/12/26 ¥1,680
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/482841407X/249-9767057-8485143
ここ数日、中国産餃子の話が良く話題になりますが、そういう話をする前に、この本を一冊読んで欲しいと思うのですよねぇ、私としては。
で、先に副島さんの結論を、ここでまとめてしまうと、ずっと「アジア人どうし戦わず」ということを副島さんは言っておられて、まさにそれだと思うのです。
この「アジア人どうし戦わず」って一言に、どれだけ深い意味があるか、というのは、この本が「中国とは恐ろしい国だ」「怖い国だ」「ゴキブリみたいな汚らしい国だ」という、日本人がつい抱いてしまう偏見から論を説き起こしているのを見ればすぐにわかります。口先だけの平和論ではないのです。
だいたい中国が恐ろしい国だと「感じる」事すらできていない日本人がいたとしたら、その段階で鈍感かつバカです。
中国人が起こした犯罪や、さまざまな文化摩擦などを、標準的な日本人の感覚で感じ取れば、「なんて残忍な」とか、「何を自分勝手な」と思わざるを得ません。
しかし、こういう「理解しがたい事がある」という事実を正しく見据えて、それでも、それはそれとして「異文化」として付き合うという態度が必要なんですね。
日本と中国では島国と大陸で、実は文化を支える根本的な理解とか、骨格そのものが違う。
副島さんが言ってた事ではなくて、これは僕が実際に中国に足を運んだり、いろいろな本を読んで自分なりに実感している事だけれども、まず宗教観から違います。
日本人は「死んだら仏様」であって、ちゃんとお葬式さえ出せば、どんな人間でも良い魂として現世は精算されると考えるんですけど、そういう文化規範自体が中国にはないわけです。
向こうはどうもね、歴史という空間の中にすべての生きた人間がずっと固定して生きてるという考え方をしてるんですよね。だから、いま現世で良い事が起きていて、その基礎を作った人がいれば、それはずっとあがめられるんですが、逆に、今の時代にデメリットのある人はずーっと永遠に悪人のままで無限に許されることはないのです。
無限ですよ、無限。恨みを永遠に抱き続けるのが当然という文化なわけです。上海とか、あっちの神社仏閣とかに行くと、この感覚っていうのは良く分かるはずです。みんなお寺参りとか熱心なんだよねぇ。それはまさに「歴史という空間の中で、生きている人に会いに行く」という感覚なんですね。
それに、僕は見てなくて本で読んだだけですけど、歴史上、「悪人」とされてる人は、わざわざ銅像を建てて、そこにツバを吐きかけたり何かをぶつけたりして「こらしめる」のが当たり前になってるんだそうです。ああ、さもありなんだなぁって思う。「歴史という空間に生きてる人をこらしめる」わけですよ。これは。もう、永遠にこらしめ続けるわけですね。
こういう事は日本人はできません。なんでできないかというと、日本人は実は中国人より未開の地に住んでいて、いまだに「死者のたたり」を怖れているからです。
あまりにむごたらしい人の殺し方をしたら、その人は成仏せずにこの世にとどまって、うらみを殺人者にはらすと考える。だからむごたらしい殺人の方法とかは採らないんですよね。
こういう死生観というのは、実はすごくプリミティブな原始宗教の考え方で、日本人というのは先進諸国の中では、飛抜けてプリミティブな宗教観を保存している民族なのだと自覚しなくちゃいけないんだと、僕自身は思ってます。(こういうことを副島さんが言ってるわけではないのであしからず。あくまで僕の意見。)
まぁ、日本は「宗教のガラパゴス島」なんだろうと、僕は思う。別にそれが悪い訳ではなくて、だからこそ、世界に冠たる「お人好し国家」でもあるし、なおかつ、お人好しであるがゆえに嫌われてもいない、という良さはあるのです。ここはかなり安心して良い部分だろうと思います。原始宗教のままなので、「根が善人」なんですな。
ただ、この原始宗教の殻の中にだけ閉じこもってると、まぁ騙されたり、被害を被ったり、ろくでもない目にあうって事になるわけです。
だから世界の常識とか、より進んだ宗教とかを、「概念」としてで良いから学んでおく必要はあるんです。
で、今回の餃子の件ですけど、まぁ殺虫剤とかの化学薬品はキチンと調べればどこで作られたかとかすぐわかっちゃうし、これはこれで様子を見てればいいのだけれど、仮に故意に入れたとしても、それが中国人なのか、日本人なのかどころか、アメリカ人なのかも知れないわけですよ。マジに。
帝国の運営者というのは属国を属国間でつねに争わせるものなのですね。それがいちばんコストのかからない管理方法だから。属国同士が手を組んで帝国本体に刃向かってきたら、こんなやっかいな事はないので。
(この考え方は「ルール&デバイド」と言って国際関係学=帝国と属国の関係を考える学問では当然の大ルールのようです。このあたりは副島さんの書籍から学んだ事です。副島さんから学んだのに、それを言わずに、口先でそのままマネして偉そうにしてる学者とかがテレビに出てたりして、「なんだかなぁ」とか思う。僕は副島さんから学んだと言っておきますね。)
ただ、まぁ、こんな事は徳川時代の幕府を見ていてもわかる事ですから、たぶん、まぁ世界の常識ではあるんだろうけど、そういう大きな枠組みでのモノの見方をしてないと、いきなり「だから中国人は」とか「だから日本文化を守らねば」という「アジア人どうし争う」というところにしか行かない。狭い、狭い視野でしか、こういう問題を見れなくなってしまう。「中国人を悪く言ってはいけない」とかの日本人的善人さで物事を推し量ろうとしたりね。
いや、そうじゃなくて、中国人は文化の違う、「恐ろしい隣人」なんですよ。日本人にとっては、どうしてもそうなっちゃうんだ。これはもうしょうがないのよ。違うんだから。話もかみ合わない、ゴキブリみたいな奴らなんだと、まず「自分の内心」を認めないといけない。
で、だからこそ、是は是、非は非として、きちんと話を詰めていくようにしないと、仲違いを喜ぶ人たちの思うつぼになるだけって事なのです。
で、その中国人の恐ろしさをキチンと説き起こしてるのが、この副島さんの御本だって事です。まぁ、日本人の「たたり」の宗教観のところは、副島さんはあんまり気にしてないというか無頓着でまったく言及はないんですけど、イソップ物語のカエルとサソリの寓話への言及があって、「ああ、それそれ、それよな」と思ったのです。
くわしくはこの本の97ページに書いてあるから立ち読みでもしてもらったらいいのですが、(前は本は買って読め!というスタンスだったので、こういうネタばらしもしなければ立ち読みも勧めなかったのですが、いまはいろいろ思うところあって平気でこういう事を言います。)やっぱりサソリはカエルを刺すんですよ。
寓話というのは、ようするに島から島へ渡るのに、サソリがカエルに「背中に乗せてくれ」と頼むのだけれど、カエルが「君は僕を刺すからイヤだ」と言って、それでサソリが「いや刺さない」と約束したから運んでやるんだけど、運んだ後でやっぱり刺されるわけです。で、カエルが「約束したのに何故刺す。どうしてウソをつくんだ?」と聞くと、「ウソをついたんじゃないんだよ。これが俺の本性(nature:ネイチャー)なんだからしょうがないんだ。」って答えるのです。
まぁ、そういう事なわけ。日本人と中国人の関係というのは、まさにこのカエルとサソリなんだけど、でもそれでもやっぱり、サソリに刺される可能性はあっても、カエルである日本人はサソリと付き合うしかないのですよ。だから、サソリは刺すと知って付き合わないといけない。
そして、文句は文句として正しく言って、でも戦争だけはしない、「アジア人どうし戦わず」って事を考えなくちゃいけないわけです。
でもなぁ、日本人は、この「中国人はサソリである」と言っただけで「なんて差別的な事を言うのか!」とかの批判が始まってしまって、そこで思考停止しちゃうんだよねぇ。アホか。相手がサソリやねんから、そこから論を説き起こす以外に手はないやないか。何考えとんねん。あ、何も考えてないんか。ほんまにアホやなぁ、こいつらは、ちゅうことなんですが。まぁ原始宗教のままだからしょうがないんだけど。根っからの善人ちゅうか、単なるアホというか。で、だからこそ刺されてしまうんですねぇ。
とにかく、仲良くするには、サソリをサソリと正しく知らないと話にならんのですよ。
でも、そこで「善人であろうとする」という原始宗教から一歩も出ようとはしない、かたくななバカが多くて困ります。それは単なる没交渉でしかないんやけどなぁ。ディスコミュニケーション。コミュニケーションが成立していない状況。
まぁ、このディスコミュニケーションが起きるのは、単に不勉強なだけって事なんですけどね。
日本人で海外と仕事をしてる人はみんな、こういう事を個別事例として頭を打ちながら学習し続けてるし、みなさんものすごくよく勉強してます。
なんで勉強してるのかっていうと、日本には「聖書」の文化がないから。「これさえ読んでおけば、倫理観はいちおう学べる。」という決定版の本がない。
だから山盛りたくさんの本を読む以外に方法がないわけです。いろんな立場のいろんな考え方を必死になって吸収するより他に方法がないのです。
だから本を読まなくてはいけないんですね。日本人は本を読まなくてはいけないのです。どうあっても。で、だからこそ、民族的意志として、出版社は小さいところが山のように国内にあって、有象無象の輩が、良い本から悪い本まで、これまた山のように出版を続けてるってわけです。
だから本を読まない奴は本当にバカだし、非国民なんだよ(笑)。
サラリーマンなら毎日電車に乗って、その電車の中でのわずか20分、往復で40分くらいだけを使って本を読んで、それで週に一冊、年間で50冊くらい読んで、それで視野を広めて、そういう人が社内で信用もされて、それでこの国は成り立ってる。ほんとうにそういう事なんです。それが現実です。
副島隆彦さんの、この本は、そういう意味で行くと、中国の本質みたいな事を、おおきくザクーっと、バクーっと、大づかみに紹介してくれているので、なかなかに素晴らしいですな。
中国人は「義」を大切にする。そしてそれは「法」を上回り、いわばヤクザの杯を交わすというのと、似たような絶対性の上になりたっている、というような精神面での根幹のところから説き起こしているので、実に有用であります。
勉強もせずに、うんたらかんたら、しょうもない事を言うより、まずは勉強であります。日本人には、そうするより他に道はないのであります。
ともあれ、「アジア人どうし戦わず」ってのは副島さんが、もう5年くらい言ってる政治思想なんだけど、この思想を一言でまとめてしまってるというところがスゴイのよなぁ。感心してします。
ま、このあたりは話が広がりすぎるので、また別の機会に。
ではでは。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/482841407X/249-9767057-8485143
ここ数日、中国産餃子の話が良く話題になりますが、そういう話をする前に、この本を一冊読んで欲しいと思うのですよねぇ、私としては。
で、先に副島さんの結論を、ここでまとめてしまうと、ずっと「アジア人どうし戦わず」ということを副島さんは言っておられて、まさにそれだと思うのです。
この「アジア人どうし戦わず」って一言に、どれだけ深い意味があるか、というのは、この本が「中国とは恐ろしい国だ」「怖い国だ」「ゴキブリみたいな汚らしい国だ」という、日本人がつい抱いてしまう偏見から論を説き起こしているのを見ればすぐにわかります。口先だけの平和論ではないのです。
だいたい中国が恐ろしい国だと「感じる」事すらできていない日本人がいたとしたら、その段階で鈍感かつバカです。
中国人が起こした犯罪や、さまざまな文化摩擦などを、標準的な日本人の感覚で感じ取れば、「なんて残忍な」とか、「何を自分勝手な」と思わざるを得ません。
しかし、こういう「理解しがたい事がある」という事実を正しく見据えて、それでも、それはそれとして「異文化」として付き合うという態度が必要なんですね。
日本と中国では島国と大陸で、実は文化を支える根本的な理解とか、骨格そのものが違う。
副島さんが言ってた事ではなくて、これは僕が実際に中国に足を運んだり、いろいろな本を読んで自分なりに実感している事だけれども、まず宗教観から違います。
日本人は「死んだら仏様」であって、ちゃんとお葬式さえ出せば、どんな人間でも良い魂として現世は精算されると考えるんですけど、そういう文化規範自体が中国にはないわけです。
向こうはどうもね、歴史という空間の中にすべての生きた人間がずっと固定して生きてるという考え方をしてるんですよね。だから、いま現世で良い事が起きていて、その基礎を作った人がいれば、それはずっとあがめられるんですが、逆に、今の時代にデメリットのある人はずーっと永遠に悪人のままで無限に許されることはないのです。
無限ですよ、無限。恨みを永遠に抱き続けるのが当然という文化なわけです。上海とか、あっちの神社仏閣とかに行くと、この感覚っていうのは良く分かるはずです。みんなお寺参りとか熱心なんだよねぇ。それはまさに「歴史という空間の中で、生きている人に会いに行く」という感覚なんですね。
それに、僕は見てなくて本で読んだだけですけど、歴史上、「悪人」とされてる人は、わざわざ銅像を建てて、そこにツバを吐きかけたり何かをぶつけたりして「こらしめる」のが当たり前になってるんだそうです。ああ、さもありなんだなぁって思う。「歴史という空間に生きてる人をこらしめる」わけですよ。これは。もう、永遠にこらしめ続けるわけですね。
こういう事は日本人はできません。なんでできないかというと、日本人は実は中国人より未開の地に住んでいて、いまだに「死者のたたり」を怖れているからです。
あまりにむごたらしい人の殺し方をしたら、その人は成仏せずにこの世にとどまって、うらみを殺人者にはらすと考える。だからむごたらしい殺人の方法とかは採らないんですよね。
こういう死生観というのは、実はすごくプリミティブな原始宗教の考え方で、日本人というのは先進諸国の中では、飛抜けてプリミティブな宗教観を保存している民族なのだと自覚しなくちゃいけないんだと、僕自身は思ってます。(こういうことを副島さんが言ってるわけではないのであしからず。あくまで僕の意見。)
まぁ、日本は「宗教のガラパゴス島」なんだろうと、僕は思う。別にそれが悪い訳ではなくて、だからこそ、世界に冠たる「お人好し国家」でもあるし、なおかつ、お人好しであるがゆえに嫌われてもいない、という良さはあるのです。ここはかなり安心して良い部分だろうと思います。原始宗教のままなので、「根が善人」なんですな。
ただ、この原始宗教の殻の中にだけ閉じこもってると、まぁ騙されたり、被害を被ったり、ろくでもない目にあうって事になるわけです。
だから世界の常識とか、より進んだ宗教とかを、「概念」としてで良いから学んでおく必要はあるんです。
で、今回の餃子の件ですけど、まぁ殺虫剤とかの化学薬品はキチンと調べればどこで作られたかとかすぐわかっちゃうし、これはこれで様子を見てればいいのだけれど、仮に故意に入れたとしても、それが中国人なのか、日本人なのかどころか、アメリカ人なのかも知れないわけですよ。マジに。
帝国の運営者というのは属国を属国間でつねに争わせるものなのですね。それがいちばんコストのかからない管理方法だから。属国同士が手を組んで帝国本体に刃向かってきたら、こんなやっかいな事はないので。
(この考え方は「ルール&デバイド」と言って国際関係学=帝国と属国の関係を考える学問では当然の大ルールのようです。このあたりは副島さんの書籍から学んだ事です。副島さんから学んだのに、それを言わずに、口先でそのままマネして偉そうにしてる学者とかがテレビに出てたりして、「なんだかなぁ」とか思う。僕は副島さんから学んだと言っておきますね。)
ただ、まぁ、こんな事は徳川時代の幕府を見ていてもわかる事ですから、たぶん、まぁ世界の常識ではあるんだろうけど、そういう大きな枠組みでのモノの見方をしてないと、いきなり「だから中国人は」とか「だから日本文化を守らねば」という「アジア人どうし争う」というところにしか行かない。狭い、狭い視野でしか、こういう問題を見れなくなってしまう。「中国人を悪く言ってはいけない」とかの日本人的善人さで物事を推し量ろうとしたりね。
いや、そうじゃなくて、中国人は文化の違う、「恐ろしい隣人」なんですよ。日本人にとっては、どうしてもそうなっちゃうんだ。これはもうしょうがないのよ。違うんだから。話もかみ合わない、ゴキブリみたいな奴らなんだと、まず「自分の内心」を認めないといけない。
で、だからこそ、是は是、非は非として、きちんと話を詰めていくようにしないと、仲違いを喜ぶ人たちの思うつぼになるだけって事なのです。
で、その中国人の恐ろしさをキチンと説き起こしてるのが、この副島さんの御本だって事です。まぁ、日本人の「たたり」の宗教観のところは、副島さんはあんまり気にしてないというか無頓着でまったく言及はないんですけど、イソップ物語のカエルとサソリの寓話への言及があって、「ああ、それそれ、それよな」と思ったのです。
くわしくはこの本の97ページに書いてあるから立ち読みでもしてもらったらいいのですが、(前は本は買って読め!というスタンスだったので、こういうネタばらしもしなければ立ち読みも勧めなかったのですが、いまはいろいろ思うところあって平気でこういう事を言います。)やっぱりサソリはカエルを刺すんですよ。
寓話というのは、ようするに島から島へ渡るのに、サソリがカエルに「背中に乗せてくれ」と頼むのだけれど、カエルが「君は僕を刺すからイヤだ」と言って、それでサソリが「いや刺さない」と約束したから運んでやるんだけど、運んだ後でやっぱり刺されるわけです。で、カエルが「約束したのに何故刺す。どうしてウソをつくんだ?」と聞くと、「ウソをついたんじゃないんだよ。これが俺の本性(nature:ネイチャー)なんだからしょうがないんだ。」って答えるのです。
まぁ、そういう事なわけ。日本人と中国人の関係というのは、まさにこのカエルとサソリなんだけど、でもそれでもやっぱり、サソリに刺される可能性はあっても、カエルである日本人はサソリと付き合うしかないのですよ。だから、サソリは刺すと知って付き合わないといけない。
そして、文句は文句として正しく言って、でも戦争だけはしない、「アジア人どうし戦わず」って事を考えなくちゃいけないわけです。
でもなぁ、日本人は、この「中国人はサソリである」と言っただけで「なんて差別的な事を言うのか!」とかの批判が始まってしまって、そこで思考停止しちゃうんだよねぇ。アホか。相手がサソリやねんから、そこから論を説き起こす以外に手はないやないか。何考えとんねん。あ、何も考えてないんか。ほんまにアホやなぁ、こいつらは、ちゅうことなんですが。まぁ原始宗教のままだからしょうがないんだけど。根っからの善人ちゅうか、単なるアホというか。で、だからこそ刺されてしまうんですねぇ。
とにかく、仲良くするには、サソリをサソリと正しく知らないと話にならんのですよ。
でも、そこで「善人であろうとする」という原始宗教から一歩も出ようとはしない、かたくななバカが多くて困ります。それは単なる没交渉でしかないんやけどなぁ。ディスコミュニケーション。コミュニケーションが成立していない状況。
まぁ、このディスコミュニケーションが起きるのは、単に不勉強なだけって事なんですけどね。
日本人で海外と仕事をしてる人はみんな、こういう事を個別事例として頭を打ちながら学習し続けてるし、みなさんものすごくよく勉強してます。
なんで勉強してるのかっていうと、日本には「聖書」の文化がないから。「これさえ読んでおけば、倫理観はいちおう学べる。」という決定版の本がない。
だから山盛りたくさんの本を読む以外に方法がないわけです。いろんな立場のいろんな考え方を必死になって吸収するより他に方法がないのです。
だから本を読まなくてはいけないんですね。日本人は本を読まなくてはいけないのです。どうあっても。で、だからこそ、民族的意志として、出版社は小さいところが山のように国内にあって、有象無象の輩が、良い本から悪い本まで、これまた山のように出版を続けてるってわけです。
だから本を読まない奴は本当にバカだし、非国民なんだよ(笑)。
サラリーマンなら毎日電車に乗って、その電車の中でのわずか20分、往復で40分くらいだけを使って本を読んで、それで週に一冊、年間で50冊くらい読んで、それで視野を広めて、そういう人が社内で信用もされて、それでこの国は成り立ってる。ほんとうにそういう事なんです。それが現実です。
副島隆彦さんの、この本は、そういう意味で行くと、中国の本質みたいな事を、おおきくザクーっと、バクーっと、大づかみに紹介してくれているので、なかなかに素晴らしいですな。
中国人は「義」を大切にする。そしてそれは「法」を上回り、いわばヤクザの杯を交わすというのと、似たような絶対性の上になりたっている、というような精神面での根幹のところから説き起こしているので、実に有用であります。
勉強もせずに、うんたらかんたら、しょうもない事を言うより、まずは勉強であります。日本人には、そうするより他に道はないのであります。
ともあれ、「アジア人どうし戦わず」ってのは副島さんが、もう5年くらい言ってる政治思想なんだけど、この思想を一言でまとめてしまってるというところがスゴイのよなぁ。感心してします。
ま、このあたりは話が広がりすぎるので、また別の機会に。
ではでは。
不機嫌なのは幼稚である。
2008年2月6日 読書
ISBN:4860811801 単行本 和田 秀樹 新講社 2007/11 ¥900
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4860811801/249-9767057-8485143
この数ヶ月、読んだ本の一覧を書いてますが、一冊一冊を取り上げて、というのが少なかったので、ちょっとまとめがてらやってみたいです。
著者の和田秀樹さんは精神科医ですが、最近はけっこうたくさんの本を書いておられます。1960年生まれで、私と同学年。
年が近いと気になる問題も同じだなぁと感じます。
この人の本では、前に
人は感情から老化する
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4396110529/glfclb-22/ref=nosim
を読んだのですが、ようは40過ぎあたりから、感情の老化が始まりまして、つい怒りっぽくなったりするから気をつけよ、という内容だったのですね。
これは欧米で言うところのミッドライフクライシスというものに近い。
あと、前にここの日記で紹介した
http://diarynote.jp/d/12917/20051112173817
●40歳の意味
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4804716300/249-9767057-8485143
って本にも通じるのだけれど、30代の終わりから、40代にかけてというのは、感情の老化がはじまっていて、怒りっぽくなったり、あるいは逆に「今しかない!」とあわてて、無茶をしたりしがちなのです。
そういう「危機」に対して敏感な年齢だ、って事なんだと思います。
和田秀樹さんの場合は、精神医学の現場からアプローチしているのですが、なにより現場での体験をベースにしているので、現実的かつ、取り入れやすい提案が多いので、良い本だと思います。
この本で書かれている事を一言で言うなら、
●不機嫌は幼稚だ
ってことでしょう。これはしっかり心に刻まないといけないなぁって思うのです。不機嫌は幼稚だ。
なんで幼稚なのかと言えば、それは自分の要望を明確にして、実現していないという事の証明だからです。
たいていの不機嫌人間は、自分の不機嫌の理由がいまいちわかってないって事が多いわけですね。
で、なんでそれがわからないかというと、自分の要望が何なのかがわかってないからなんです。
で、なんで自分の要望がわかってないのかというと、自分の感情を素直に表現せずにガマンしたり押さえ込んだりとひねくり回してるからなのですね。うまく上手に自己表現が出来ていれば、不機嫌にはならない、というかなりにくいのだそうです。
でも、悪感情(怒り・不満・不機嫌)から抜け出せない人は、そういう自分の「わかっていない部分」をわかろうとしません。相手が悪いと考えてしまうのです。
でも本当は違うのですね。自分の不満を明確に自覚して、その不満を解決する方法を編み出して、それを実際にやってみてチャレンジする過程、みたいな事を日々やってないから相手にその「問題」すら伝わらず、それで物事が解決しなくて不機嫌だ、という事が多いわけです。
相手に非があるとする限り、これは解決不能ですわね。解決不能なものはずっと問題なままだから、そりゃおもしろくないです。
この問題解決に対して、和田秀樹さんは、まず「自分の性格を認めなさい」というところから説き起こします。和田さん自身、短気で、相手のスローモーな対応にイライラしがちなんだそうです。
この「自分が短気である」という自分の個性を、自分の個性としてキチンと認識せず、「私が普通だ、標準だ」と思うから、相手がスローって事になってしまうわけですね。
だから、自分が短気であるって事をちゃんと認めないといけない。
回りの人間がバカに見える事が良くあるんだけど、それは自分が賢いからいけないのであって、相手が悪いんじゃないって事ですな。わははははは。いや、実際そうなのよ。そういう事なんだもん、しょうがないよ、それは。
頭のいい人、要領のいい人は、そこのところを気をつけないと、感情生活が貧しくなってしまうので気をつけましょう。
(でも、これも本当はウソであって、人間にそれほど違いっていうのは少ない。実は解決された問題というのは、ものすごく多様な要素がからまりあって解決されていて、その細かな要素をひとつひとつきちんとふり返って整理していないから、それを自分で自覚できず、相手に伝えられなくてノウハウの共有ができなくなってる、というのが本当のところなのです。自分が得たノウハウをキチンと整理してないのが、本当はいけないのですが、まぁこれは「感情の整理」とはまた別の話なので、またそのうち。)
自分の性格を認めるというのは、自分の感情に気付く、と言うことでもありまして、それは不機嫌な人は自分の感情に疎いのだ、という事でもあります。
たとえば、この本で出ている例でいうと日曜日の繁華街での親子連れで、不機嫌そうにしているお父さん、というのがあります。
「本当は家でやすみたいのに」という自分の感情を押し殺して、無理して家族サービスしてるわけですね。ここに不機嫌の源泉がある。休みたいんなら休めばいいのだ、と和田先生はおっしゃる。で、「家でカレーを作って待ってるよ」とかの自分の出来る、ラクな対応を考えれば良いのだとおっしゃるわけです。
でも、ここで「相手に嫌われたくない」と相手優先をやるから、そこから自分の不満が始まるわけですね。で、「こんなに無理してるのに、それを察してもくれない!」と相手の非難が始まってしまうわけです。
いや、だから、休みたいなら、やっぱり休まないとダメだよ、それは。そうしないと解決しないよ。それが自分の望みなんだから! って事ですね。
ここをごまかすと、おかしな事になるわけです。要は。
身を引く大人であるよりも我を通す子供になって、で、それでさっさと謝る。「すまんすまん。わがまま言うて。」と。
こういう事を和田秀樹さんは言ってるのですが、面白かったのは「精神科医もカウンセリングを受けているのですよ」という話でした。
つまり、体重計が正確かどうかを確かめるために、ハカリに正確な重りを載せて「ハカリを測る」という事をするように、精神科医も心のチェックを受けているのですよ、という話なのです。
で、それで何が言いたいのかというと、
●ものの見方のゆがみや、心の反応パターンは自分でもなかなか気付かない
という事なわけですね。
で、この「自分のゆがみに気付けない」というところから、いかに抜け出すか、という方法や考え方がいろいろ書かれてるんですが、僕的に「なるほどなぁ、そうだなぁ」と思えたところだけをいくつか抜き書きすると、
●自ら積極的に人に関わり、人との関係の中から自分の「レベル」をチェックする。(良いにつけ悪いにつけ)
●「あるべき自分」にフォーカスを当てるのではなく、「ありのままの自分」にフォーカスを当てて、まずありのままの自分をほめる。認める。そして背伸びをしない。(当然欠点も直視しなくてはなりませんが、そうしないと良い点も発見できません。)
●EQ(心・感情の知能指数)は放っておくと年と共に衰えるので、感情の活性化策は、どうしても必要だ、という事。不機嫌ではなく上機嫌を「ワザ」として磨かないといけないゾ、と言うこと。
●すべての人間を好きになろう!という話。それもみんなを大好きになる必要などサラサラなくて、関係に応じて、少しだけ好きになれば、それで良いってこと。
●より良い人間関係のためには、ほど良い距離感が必要、ということ。
となります。
特に心に沁みたのは、「ほどほどの距離感」の話でしたなぁ。相手を好きだと思っていられる程度に、距離感を持っておかないと、どうしても「気付いてくれない」式の不満が出てしまうもんなぁ。
そういう事なんだよなぁと思いました。
とにかく上機嫌で行こう! 上機嫌で!
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この数ヶ月、読んだ本の一覧を書いてますが、一冊一冊を取り上げて、というのが少なかったので、ちょっとまとめがてらやってみたいです。
著者の和田秀樹さんは精神科医ですが、最近はけっこうたくさんの本を書いておられます。1960年生まれで、私と同学年。
年が近いと気になる問題も同じだなぁと感じます。
この人の本では、前に
人は感情から老化する
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4396110529/glfclb-22/ref=nosim
を読んだのですが、ようは40過ぎあたりから、感情の老化が始まりまして、つい怒りっぽくなったりするから気をつけよ、という内容だったのですね。
これは欧米で言うところのミッドライフクライシスというものに近い。
あと、前にここの日記で紹介した
http://diarynote.jp/d/12917/20051112173817
●40歳の意味
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って本にも通じるのだけれど、30代の終わりから、40代にかけてというのは、感情の老化がはじまっていて、怒りっぽくなったり、あるいは逆に「今しかない!」とあわてて、無茶をしたりしがちなのです。
そういう「危機」に対して敏感な年齢だ、って事なんだと思います。
和田秀樹さんの場合は、精神医学の現場からアプローチしているのですが、なにより現場での体験をベースにしているので、現実的かつ、取り入れやすい提案が多いので、良い本だと思います。
この本で書かれている事を一言で言うなら、
●不機嫌は幼稚だ
ってことでしょう。これはしっかり心に刻まないといけないなぁって思うのです。不機嫌は幼稚だ。
なんで幼稚なのかと言えば、それは自分の要望を明確にして、実現していないという事の証明だからです。
たいていの不機嫌人間は、自分の不機嫌の理由がいまいちわかってないって事が多いわけですね。
で、なんでそれがわからないかというと、自分の要望が何なのかがわかってないからなんです。
で、なんで自分の要望がわかってないのかというと、自分の感情を素直に表現せずにガマンしたり押さえ込んだりとひねくり回してるからなのですね。うまく上手に自己表現が出来ていれば、不機嫌にはならない、というかなりにくいのだそうです。
でも、悪感情(怒り・不満・不機嫌)から抜け出せない人は、そういう自分の「わかっていない部分」をわかろうとしません。相手が悪いと考えてしまうのです。
でも本当は違うのですね。自分の不満を明確に自覚して、その不満を解決する方法を編み出して、それを実際にやってみてチャレンジする過程、みたいな事を日々やってないから相手にその「問題」すら伝わらず、それで物事が解決しなくて不機嫌だ、という事が多いわけです。
相手に非があるとする限り、これは解決不能ですわね。解決不能なものはずっと問題なままだから、そりゃおもしろくないです。
この問題解決に対して、和田秀樹さんは、まず「自分の性格を認めなさい」というところから説き起こします。和田さん自身、短気で、相手のスローモーな対応にイライラしがちなんだそうです。
この「自分が短気である」という自分の個性を、自分の個性としてキチンと認識せず、「私が普通だ、標準だ」と思うから、相手がスローって事になってしまうわけですね。
だから、自分が短気であるって事をちゃんと認めないといけない。
回りの人間がバカに見える事が良くあるんだけど、それは自分が賢いからいけないのであって、相手が悪いんじゃないって事ですな。わははははは。いや、実際そうなのよ。そういう事なんだもん、しょうがないよ、それは。
頭のいい人、要領のいい人は、そこのところを気をつけないと、感情生活が貧しくなってしまうので気をつけましょう。
(でも、これも本当はウソであって、人間にそれほど違いっていうのは少ない。実は解決された問題というのは、ものすごく多様な要素がからまりあって解決されていて、その細かな要素をひとつひとつきちんとふり返って整理していないから、それを自分で自覚できず、相手に伝えられなくてノウハウの共有ができなくなってる、というのが本当のところなのです。自分が得たノウハウをキチンと整理してないのが、本当はいけないのですが、まぁこれは「感情の整理」とはまた別の話なので、またそのうち。)
自分の性格を認めるというのは、自分の感情に気付く、と言うことでもありまして、それは不機嫌な人は自分の感情に疎いのだ、という事でもあります。
たとえば、この本で出ている例でいうと日曜日の繁華街での親子連れで、不機嫌そうにしているお父さん、というのがあります。
「本当は家でやすみたいのに」という自分の感情を押し殺して、無理して家族サービスしてるわけですね。ここに不機嫌の源泉がある。休みたいんなら休めばいいのだ、と和田先生はおっしゃる。で、「家でカレーを作って待ってるよ」とかの自分の出来る、ラクな対応を考えれば良いのだとおっしゃるわけです。
でも、ここで「相手に嫌われたくない」と相手優先をやるから、そこから自分の不満が始まるわけですね。で、「こんなに無理してるのに、それを察してもくれない!」と相手の非難が始まってしまうわけです。
いや、だから、休みたいなら、やっぱり休まないとダメだよ、それは。そうしないと解決しないよ。それが自分の望みなんだから! って事ですね。
ここをごまかすと、おかしな事になるわけです。要は。
身を引く大人であるよりも我を通す子供になって、で、それでさっさと謝る。「すまんすまん。わがまま言うて。」と。
こういう事を和田秀樹さんは言ってるのですが、面白かったのは「精神科医もカウンセリングを受けているのですよ」という話でした。
つまり、体重計が正確かどうかを確かめるために、ハカリに正確な重りを載せて「ハカリを測る」という事をするように、精神科医も心のチェックを受けているのですよ、という話なのです。
で、それで何が言いたいのかというと、
●ものの見方のゆがみや、心の反応パターンは自分でもなかなか気付かない
という事なわけですね。
で、この「自分のゆがみに気付けない」というところから、いかに抜け出すか、という方法や考え方がいろいろ書かれてるんですが、僕的に「なるほどなぁ、そうだなぁ」と思えたところだけをいくつか抜き書きすると、
●自ら積極的に人に関わり、人との関係の中から自分の「レベル」をチェックする。(良いにつけ悪いにつけ)
●「あるべき自分」にフォーカスを当てるのではなく、「ありのままの自分」にフォーカスを当てて、まずありのままの自分をほめる。認める。そして背伸びをしない。(当然欠点も直視しなくてはなりませんが、そうしないと良い点も発見できません。)
●EQ(心・感情の知能指数)は放っておくと年と共に衰えるので、感情の活性化策は、どうしても必要だ、という事。不機嫌ではなく上機嫌を「ワザ」として磨かないといけないゾ、と言うこと。
●すべての人間を好きになろう!という話。それもみんなを大好きになる必要などサラサラなくて、関係に応じて、少しだけ好きになれば、それで良いってこと。
●より良い人間関係のためには、ほど良い距離感が必要、ということ。
となります。
特に心に沁みたのは、「ほどほどの距離感」の話でしたなぁ。相手を好きだと思っていられる程度に、距離感を持っておかないと、どうしても「気付いてくれない」式の不満が出てしまうもんなぁ。
そういう事なんだよなぁと思いました。
とにかく上機嫌で行こう! 上機嫌で!
ISBN:4774300004 単行本 くもん出版 1996/02 ¥1,260
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4774300004/249-9767057-8485143
まえに、去年の10月20日の日記「後退する事が、実は進歩だったりする。」
http://diarynote.jp/d/12917/20071020.html
で紹介した英語トレーニングの書籍、
●どんどん話すための瞬間英作文トレーニング
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4860641345/249-9767057-8485143
が、そろそろ予定終了となりそうなのですが、この練習をする過程で、英文法の再学習の必要性を強く感じてきて、ちょこちょこと英文法の参考書の名著、
●総合英語Forest
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4342010208/249-9767057-8485143
を読み直していたんです。
が、どうにも分量が多すぎて、「学習が進んでいる実感」が湧きにくかったんですね。いやまぁフォレスト自体はすごく良い本で、まぁ英文法ならこれ一冊でオーケー!と言われるのもよく分かる感じなんですが、なんちゅうかとっつきにくい。
で、ふと書店で、この「くもんの中学英文法」を手にしてみたら、これが実に良いのでありました。もう、復習にばっちり。
何がよいかというと、「ひとつ前のステップに戻るマーク」がついてる事なんですね。
この本、すべての項目が一頁一項目にまとめられていて、かならず例文で文法項目を解説してくれてるんですが、「この項目を理解するためには、一つ前のこのステップが理解できてないとわからないよ」というステップ番号が振ってあるんですね。
だから、ステップ48がわからなかったらステップ11に戻ればいいとかがすぐにわかる。
これが、かなりありがたい。
ものごとがわからない、というのは、「なにがわからないのかがわからない」という、どうしたらいいのか、どうしようもないという状況があって、それでムダな事の繰り返しをするってな事にもなってしまうのですね。
で、実際、不定詞がよくわからんと思ったら、実は「句」の概念がいまいちわかってなかったとか、そういう事はあるわけですよ。で、それが解ると、そうとうに楽になるとかね。まさに「もどってよかった」なわけですけど。
なので、この「どこに戻れば良いのか」が必要に応じて書かれているというのは、相当にありがたいわけです。これがいかにありがたいか。いや、ほんとに。実にありがたい。
「ああ、そうか、ここがわかってなかったから、全部わからんかったんや」みたいな事なんですね。いきなり大きなパースペクティブが得られるのですな。
なんというか、今一度、大きな視点に立って基本に引き戻してくれる事が悠々たる自信を生み出す原泉につながっていくわけです。
アマゾンでの書評を見てみると、「学習者にだけでなく、教える側の人間にも役立つ」と言う人がいて、「ああ、なるほど!!!」と思うのですよ。
教える側だって、相手が基礎項目のどこができてないのかなんて、なかなかわからないものなんですから。
「くもん」というのはペーパーテストをたくさんやらせる学習塾ですけど、実は、あそこの学習メソッドの根幹が、この「前のステップに戻る」なんですよね。
どんどんペーパーテストを軽々とこなしていた子供が、ある時スランプにぶち当たるんです。勉強が面白くないとか、やる気が出なくなるという所まで行く。実際、ペーパーテストの成績も良くないわけです。
そういう時にくもんでは「じゃあ昔のテストやってみようか」と学年で言うと2年分くらい逆戻りさせるんですね。
これがすごく大事なんです。
なんでかと言うと、たとえば、算数なら、実は一桁の足し算の練習の量が足りなくて計算スピードが遅くて、難しい問題に取り組めなくなってるとか、そういう事が多いわけです。
そういう子供は、テストの問題の解き方はわかってはいるんだけど、解くのに時間がかかるわけです。だからやってて辛い。なので面白くない。と、こうなる。
先生もそういう子供の相談に乗るのだけれど、確認してみると、別に問題の解き方が理解ができてないわけではない。ちゃんとわかっている。だからなんで成績が下がってきたのか、原因がわからない。とまぁ、そういう状態になるわけですよ。
こういう時に基本に戻って、2学年分くらいステップバックすることは、すごく意味が大きいのですね。
というのは、ステップバックして昔やった基礎的な学習をもう一度やってみると、これが実にラクラクできるわけです。やっていても楽しい。だからモチベーションも下がらないんですね。
歯をくいしばって、ヒーコラ言って、必死になって、上のステップを目指しても、そんなものは付け焼き刃なんです。意味はほぼない。というか害悪の方が圧倒的に多いんですね。時間はムダになって、しかも進歩はなく、欠けているところは永遠に埋まらないわけですから。
この例で言うと、簡単な足し算を解くスピードが欠けていた、ということですけど、そのほかいろんなレベルでの「欠落」ってのはあるわけです。いろいろな学習項目が無意識・潜在意識レベルまで身に付いてるかどうかって事なんですね。
たとえばひらかなの書き順とかさ。こんなもの考えてやるような事でもないし。
だから、もう、欠けているものは、欠けているんだって事ですね。
それは、欠けていると自覚して、あるいは自覚できないのなら、「何かが欠けているのだろう」と仮定して、とにかく欠けているところを補えるだろうと思える作業をする以外に方法はないわけです。
で、その欠けている事を補うためには「ステップバックする」っていうのは、ものすごく良い方法なわけです。
できない事を無理してやるより、うんと楽しくて、ラクで、確実にできるし、そういうラクにできることを、より正確に、より上手に、よりすばやく、安定して、力強くやるって事は、メンタルな事まで含めて、実力を高める上で、おそろしく重要なわけですよ。
そういう基礎ができてないと、ホントに先に進むのがものすごくしんどいわけです。
だいたい自分のどこで何が欠けているのかすらわからないって感じにしかなりませんからな。不安でしかない。それは辛い。
辛いのは嫌だ。
思いません?
だから出来ることを、もっと上手にやる、というチャレンジが良いって事なんです。
そのための、一番良い方法が、何ステップも前に戻るって方法なわけです。これは本当にラクで、楽しみながら成長する秘訣なわけです。
この「くもんの中学英文法」には、その「何ステップも一気にバックする知恵」がつまってるんですな。無駄なくステップバックできる。本当にすばらしい。
ちょこっと戻る程度じゃダメの事もけっこう多いしねぇ。ドカーンと戻らないとダメだったりする。
一冊で中学3年分の文法がまとめられていて、ちょうど僕も中学3年分のトレーニングが終わりかけてるので、いま練習中の項目を参考に見てみようと思ったら、いきなり、もっと前のステップに引き戻されるわけです。
で、その戻ったところに「ああ、そうか!この用法はこういうことだったのか!」とか、新鮮な発見があったりするのですね。
復習をするにはとにかく、この本は良くできてます。読んでいて改めて思ったのは文法用語の概念の意味が、いままでいまいちわかってなかったよなぁって事ですね。
この半年かけて例文をずーっと音読してたので、実例が体に入っていて、かなり「感覚」でわかるようになってきたのも大きいのですが。実例なくして文法概念なんかわからんわなぁって事ですな。
ほんと、よくわかるのは、中学3年の課題がしんどいのは中学1年の課題ができてないからだという当たり前の事なんですよ。
で、中学3年の課題を難なくこなしてる人は、やっぱり中学1年の課題を、おそろしくたくさんこなしているって事ですね。
それはどんな分野でも、まず間違いなく絶対です。基本です。基本。基本ができていなくて、応用は絶対に無理。そういう事です。当たり前なんだけど。
でも、自分がそうだったからよくわかるけど、できない人間というのは「できないところ」をできるようにしようとするわけですね。「できる事をしっかり、みっちり」とは考えない。
でも、それが失敗の原因なんですよ。
で、ありとあらゆる分野で「できないことをできるようにしよう」として失敗する。
違うんよなぁ。まず「できることをキチンとする」のが大事なんよなぁ。それをもっとうまく上手にやってると、難しい事にもチャレンジしようという、腹から、心から、底からの「やる気」、チャレンジ精神が、ふつふつと湧いてくるのであって、無理して「できないこと」をやっても、まぁ意味はないわけです。
このあたり、昔、ブラインドタッチの練習ソフトの開発に関わっていたこともあって、同じような事を感じるのですね。
たとえばブラインドタッチだと簡単なキーと難しいキーというのがあります。ホームポジションの位置のキーは簡単なんですけど、遠い位置のキーは失敗しやすいわけです。TとかYとかは、はじめのうちは、よく打ち間違える。
で、この時に「苦手キーの練習」というのを、どうしても、つい人間はやってしまうのですね。Tが苦手ならTばっかり練習するとかするんです。
でも、実はこれはトータルに見ると、よけい能力が下がる、最も悪い練習の仕方なわけです。
なんでかというと、「まだキチンと位置を覚えていないキー」の練習を「明確な基準もないまま」、「カン」で打ち込むから、「いまなんとか打てている基本のキー」までがたついて、ミスが膨大に増え始めてしまうんですね。
じゃあ、どうしたら良いか、というと、苦手キーの事はいったん忘れて、まず、「いまなんとか打てているキー」を「絶対確実に間違わず高速で打てる」ようにすることなんですね。つまりラクに打てるキーを、もっと上手に打てるように高めることなんです。
そうすると、「キチンと打てているキーの位置」を「基準値」にして、「苦手キーの位置」を正確に測れるようになるんです。
だから苦手キーを正確に打つためには、得意キーをもっと上手にしないとダメなんですね。
これがブラインドタッチを習得するのに、もっとも効率的な練習方法なんです。
もう、こういう事はね、絶対なんですよ、絶対。絶対の法則と思ったらいい。
基礎ができてないところに応用はないわけです。
ピラミッドの底面の石を積まずに一番てっぺんの1個を積めるはずがないんですな。
もう絶対です。
一時期、歩く機会が減って、まともな普通の運動ができなくて、仕方ないからとランニングしだした事があったけど、「走る」は「歩く」の代替品にはならないんですよね。「歩く」は「歩く」として必要なわけで。それは一年生の勉強と三年生の勉強は課題が違う、というのと同じ事なのです。
だから、正しく努力する人は、ピラミッドの底面の石を、飽きもせず、ただひたすらコツコツと、えんえん一段目の高さを積み続けるのです。
はたからはバカに見えるし、あまりに変化がないので、どうしても飽きちゃうんだけど、それでもやっぱり、ピラミッドの底面をキチンと積み尽くした人だけが、無駄なく確実に2段目を積めるわけですよ。
ほんと、それだけの事なんだ、こういう学習とかトレーニングってことは。
ほんとうにそう思う。
ちゅうことで、この「くもんの中学英文法」は、そのピラミッドの底面から頂上の最後の1個までの設計図と通り道をザクーーーっと紹介してくれてるマップみたいな本なので、なかなか良いです。
お気に入り。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4774300004/249-9767057-8485143
まえに、去年の10月20日の日記「後退する事が、実は進歩だったりする。」
http://diarynote.jp/d/12917/20071020.html
で紹介した英語トレーニングの書籍、
●どんどん話すための瞬間英作文トレーニング
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4860641345/249-9767057-8485143
が、そろそろ予定終了となりそうなのですが、この練習をする過程で、英文法の再学習の必要性を強く感じてきて、ちょこちょこと英文法の参考書の名著、
●総合英語Forest
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4342010208/249-9767057-8485143
を読み直していたんです。
が、どうにも分量が多すぎて、「学習が進んでいる実感」が湧きにくかったんですね。いやまぁフォレスト自体はすごく良い本で、まぁ英文法ならこれ一冊でオーケー!と言われるのもよく分かる感じなんですが、なんちゅうかとっつきにくい。
で、ふと書店で、この「くもんの中学英文法」を手にしてみたら、これが実に良いのでありました。もう、復習にばっちり。
何がよいかというと、「ひとつ前のステップに戻るマーク」がついてる事なんですね。
この本、すべての項目が一頁一項目にまとめられていて、かならず例文で文法項目を解説してくれてるんですが、「この項目を理解するためには、一つ前のこのステップが理解できてないとわからないよ」というステップ番号が振ってあるんですね。
だから、ステップ48がわからなかったらステップ11に戻ればいいとかがすぐにわかる。
これが、かなりありがたい。
ものごとがわからない、というのは、「なにがわからないのかがわからない」という、どうしたらいいのか、どうしようもないという状況があって、それでムダな事の繰り返しをするってな事にもなってしまうのですね。
で、実際、不定詞がよくわからんと思ったら、実は「句」の概念がいまいちわかってなかったとか、そういう事はあるわけですよ。で、それが解ると、そうとうに楽になるとかね。まさに「もどってよかった」なわけですけど。
なので、この「どこに戻れば良いのか」が必要に応じて書かれているというのは、相当にありがたいわけです。これがいかにありがたいか。いや、ほんとに。実にありがたい。
「ああ、そうか、ここがわかってなかったから、全部わからんかったんや」みたいな事なんですね。いきなり大きなパースペクティブが得られるのですな。
なんというか、今一度、大きな視点に立って基本に引き戻してくれる事が悠々たる自信を生み出す原泉につながっていくわけです。
アマゾンでの書評を見てみると、「学習者にだけでなく、教える側の人間にも役立つ」と言う人がいて、「ああ、なるほど!!!」と思うのですよ。
教える側だって、相手が基礎項目のどこができてないのかなんて、なかなかわからないものなんですから。
「くもん」というのはペーパーテストをたくさんやらせる学習塾ですけど、実は、あそこの学習メソッドの根幹が、この「前のステップに戻る」なんですよね。
どんどんペーパーテストを軽々とこなしていた子供が、ある時スランプにぶち当たるんです。勉強が面白くないとか、やる気が出なくなるという所まで行く。実際、ペーパーテストの成績も良くないわけです。
そういう時にくもんでは「じゃあ昔のテストやってみようか」と学年で言うと2年分くらい逆戻りさせるんですね。
これがすごく大事なんです。
なんでかと言うと、たとえば、算数なら、実は一桁の足し算の練習の量が足りなくて計算スピードが遅くて、難しい問題に取り組めなくなってるとか、そういう事が多いわけです。
そういう子供は、テストの問題の解き方はわかってはいるんだけど、解くのに時間がかかるわけです。だからやってて辛い。なので面白くない。と、こうなる。
先生もそういう子供の相談に乗るのだけれど、確認してみると、別に問題の解き方が理解ができてないわけではない。ちゃんとわかっている。だからなんで成績が下がってきたのか、原因がわからない。とまぁ、そういう状態になるわけですよ。
こういう時に基本に戻って、2学年分くらいステップバックすることは、すごく意味が大きいのですね。
というのは、ステップバックして昔やった基礎的な学習をもう一度やってみると、これが実にラクラクできるわけです。やっていても楽しい。だからモチベーションも下がらないんですね。
歯をくいしばって、ヒーコラ言って、必死になって、上のステップを目指しても、そんなものは付け焼き刃なんです。意味はほぼない。というか害悪の方が圧倒的に多いんですね。時間はムダになって、しかも進歩はなく、欠けているところは永遠に埋まらないわけですから。
この例で言うと、簡単な足し算を解くスピードが欠けていた、ということですけど、そのほかいろんなレベルでの「欠落」ってのはあるわけです。いろいろな学習項目が無意識・潜在意識レベルまで身に付いてるかどうかって事なんですね。
たとえばひらかなの書き順とかさ。こんなもの考えてやるような事でもないし。
だから、もう、欠けているものは、欠けているんだって事ですね。
それは、欠けていると自覚して、あるいは自覚できないのなら、「何かが欠けているのだろう」と仮定して、とにかく欠けているところを補えるだろうと思える作業をする以外に方法はないわけです。
で、その欠けている事を補うためには「ステップバックする」っていうのは、ものすごく良い方法なわけです。
できない事を無理してやるより、うんと楽しくて、ラクで、確実にできるし、そういうラクにできることを、より正確に、より上手に、よりすばやく、安定して、力強くやるって事は、メンタルな事まで含めて、実力を高める上で、おそろしく重要なわけですよ。
そういう基礎ができてないと、ホントに先に進むのがものすごくしんどいわけです。
だいたい自分のどこで何が欠けているのかすらわからないって感じにしかなりませんからな。不安でしかない。それは辛い。
辛いのは嫌だ。
思いません?
だから出来ることを、もっと上手にやる、というチャレンジが良いって事なんです。
そのための、一番良い方法が、何ステップも前に戻るって方法なわけです。これは本当にラクで、楽しみながら成長する秘訣なわけです。
この「くもんの中学英文法」には、その「何ステップも一気にバックする知恵」がつまってるんですな。無駄なくステップバックできる。本当にすばらしい。
ちょこっと戻る程度じゃダメの事もけっこう多いしねぇ。ドカーンと戻らないとダメだったりする。
一冊で中学3年分の文法がまとめられていて、ちょうど僕も中学3年分のトレーニングが終わりかけてるので、いま練習中の項目を参考に見てみようと思ったら、いきなり、もっと前のステップに引き戻されるわけです。
で、その戻ったところに「ああ、そうか!この用法はこういうことだったのか!」とか、新鮮な発見があったりするのですね。
復習をするにはとにかく、この本は良くできてます。読んでいて改めて思ったのは文法用語の概念の意味が、いままでいまいちわかってなかったよなぁって事ですね。
この半年かけて例文をずーっと音読してたので、実例が体に入っていて、かなり「感覚」でわかるようになってきたのも大きいのですが。実例なくして文法概念なんかわからんわなぁって事ですな。
ほんと、よくわかるのは、中学3年の課題がしんどいのは中学1年の課題ができてないからだという当たり前の事なんですよ。
で、中学3年の課題を難なくこなしてる人は、やっぱり中学1年の課題を、おそろしくたくさんこなしているって事ですね。
それはどんな分野でも、まず間違いなく絶対です。基本です。基本。基本ができていなくて、応用は絶対に無理。そういう事です。当たり前なんだけど。
でも、自分がそうだったからよくわかるけど、できない人間というのは「できないところ」をできるようにしようとするわけですね。「できる事をしっかり、みっちり」とは考えない。
でも、それが失敗の原因なんですよ。
で、ありとあらゆる分野で「できないことをできるようにしよう」として失敗する。
違うんよなぁ。まず「できることをキチンとする」のが大事なんよなぁ。それをもっとうまく上手にやってると、難しい事にもチャレンジしようという、腹から、心から、底からの「やる気」、チャレンジ精神が、ふつふつと湧いてくるのであって、無理して「できないこと」をやっても、まぁ意味はないわけです。
このあたり、昔、ブラインドタッチの練習ソフトの開発に関わっていたこともあって、同じような事を感じるのですね。
たとえばブラインドタッチだと簡単なキーと難しいキーというのがあります。ホームポジションの位置のキーは簡単なんですけど、遠い位置のキーは失敗しやすいわけです。TとかYとかは、はじめのうちは、よく打ち間違える。
で、この時に「苦手キーの練習」というのを、どうしても、つい人間はやってしまうのですね。Tが苦手ならTばっかり練習するとかするんです。
でも、実はこれはトータルに見ると、よけい能力が下がる、最も悪い練習の仕方なわけです。
なんでかというと、「まだキチンと位置を覚えていないキー」の練習を「明確な基準もないまま」、「カン」で打ち込むから、「いまなんとか打てている基本のキー」までがたついて、ミスが膨大に増え始めてしまうんですね。
じゃあ、どうしたら良いか、というと、苦手キーの事はいったん忘れて、まず、「いまなんとか打てているキー」を「絶対確実に間違わず高速で打てる」ようにすることなんですね。つまりラクに打てるキーを、もっと上手に打てるように高めることなんです。
そうすると、「キチンと打てているキーの位置」を「基準値」にして、「苦手キーの位置」を正確に測れるようになるんです。
だから苦手キーを正確に打つためには、得意キーをもっと上手にしないとダメなんですね。
これがブラインドタッチを習得するのに、もっとも効率的な練習方法なんです。
もう、こういう事はね、絶対なんですよ、絶対。絶対の法則と思ったらいい。
基礎ができてないところに応用はないわけです。
ピラミッドの底面の石を積まずに一番てっぺんの1個を積めるはずがないんですな。
もう絶対です。
一時期、歩く機会が減って、まともな普通の運動ができなくて、仕方ないからとランニングしだした事があったけど、「走る」は「歩く」の代替品にはならないんですよね。「歩く」は「歩く」として必要なわけで。それは一年生の勉強と三年生の勉強は課題が違う、というのと同じ事なのです。
だから、正しく努力する人は、ピラミッドの底面の石を、飽きもせず、ただひたすらコツコツと、えんえん一段目の高さを積み続けるのです。
はたからはバカに見えるし、あまりに変化がないので、どうしても飽きちゃうんだけど、それでもやっぱり、ピラミッドの底面をキチンと積み尽くした人だけが、無駄なく確実に2段目を積めるわけですよ。
ほんと、それだけの事なんだ、こういう学習とかトレーニングってことは。
ほんとうにそう思う。
ちゅうことで、この「くもんの中学英文法」は、そのピラミッドの底面から頂上の最後の1個までの設計図と通り道をザクーーーっと紹介してくれてるマップみたいな本なので、なかなか良いです。
お気に入り。
「ガイジン」に日本の良さを教えられる。
2008年1月24日 読書
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4140882034/249-9767057-8485143
ISBN:4140882034 新書 コリン・ジョイス 谷岡 健彦:訳 日本放送出版協会 2006/12 ¥735
たまらなく好きだ。
というものがあります。で、この本がそれ。
なんなんだろう、この感情は。
とにかくたまらないものがあるんですねぇ。
日本人が日本人の感覚でなれ合っているのではなくて、イギリス人が、ある程度の世界普遍価値の判断のもと、「こういうところは日本人の素晴らしいところだ」と素直にほめてくれる。
そういうところがいいんでしょうね。
敬愛というのでしょうか。そういう普遍的な見地から物事を見る態度が備わっているという事自体に僕は敬服するのですが。
日本人にそういう視点や態度ってないからなぁ。だいたいワールドワイドに見て突出して「良い」のか「悪い」のかを判断する能力自体が、日本人には備わってないから。わからんもんなぁ、世界的な普遍的な標準的な価値観って。
(アメリカンな「グローバルスタンダード」ではありません。ワールド・バリューズ=世界普遍価値です。混同しないでね。このあたり平気で混同する人がいてるので。)
って、難しい話を書きましたが、内容はそんな堅苦しいところはひとつもないです。おちゃらけで楽しく、まさに抱腹絶倒。
いちばん笑ったのは、著者のコリンが神社にお参りに行って、日本人から「何かお願い事でもしたの?」と尋ねられたときの彼の返事。
「したよ。日本の神様はガイジンにもやさしいだろうから。」と言いたかったらしいのだけれど、「神」という発音は彼には難しく、どうしても「カマ」になってしまい、なおかつ「神」には何か敬称が必要なはずだと、頭に「お」をつけたのだそうです。
「オカマ」ですね。わははは。
まぁこれはくすぐり程度のお話しですが、異文化から見た日本のおかしみと、逆に素晴らしさがたくさんたくさん載っていて、どれもこれも本当に楽しい。
ニッポンのプールの整然としたルールの不思議さと、それを守る日本人の可愛らしさと、おかしなところ。
たった一本のネジを交換するために真摯に対応してくれる街の自転車屋さんの「紳士=ジェントルマン」加減。
銭湯という素敵な場所。
巣鴨のおばちゃんたちの平和な姿。
寒さがゆるんできて、表に出たくなってきたころに、日本中でいっせいにに開かれる「花見」というガーデンパーティーという文化の素敵さ。
とにかく見知った何もかもがガイジンという視点から見ると、ものすごく新鮮で素敵に見えるからたまらないのです。
著者のコリン・ジョイスは東京在住14年の新聞記者だけれど、はじめて日本に来たのは神戸の全寮制の学校に留学生として来日した時で、1年住んだらしい。で、その時の印象がまるまる1章使って書かれているのだけれど、これを読むと、関西人の僕としては、とても胸がキュンとしてしまうのだ。
なぜなのかよくわからないけれど、多分、ごく当たり前の日常が異邦人の目を通すことで、まるで自分が子供の時に感じていた感覚で見るように再発見できてしまうというか、そういう事なんだと思う。とにかくたまらなくて、胸がキュンとして、せつなくて、なつかしい気持ちでいっぱいになってしまう。
よかったなぁ、この星に生まれて。
そういう気持ちになってしまうのです。
読んでいて気付いたのだけれど、どうも僕はこういう「異邦人」ものが、とても好きであるらしいのですね。
もう長らく小説は読んでないのだけれど、いまだに好きで好きでたまらない小説がふたつあって、それはどちらもSFなのだけれど、それは、田中光二の「異星の人」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4894565986/249-9767057-8485143
と、筒井康隆の「旅のラゴス」。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4101171319/249-9767057-8485143
この二冊の小説を読んだ時のしみじみと染み入るような心豊かさが、このエッセイにもあって、本当に好きだなぁと感じるのです。
どれもこれも「異邦人」の旅の話なんだけれど、どうしてこんなに素敵なんだろう。
もし自分が小説を書くなら、こんなお話しをこそ書きたいなと思うのです。好きで好きでたまらない。たまらなく好きな世界です。
三冊とも、超がつくお勧め。つまらない小説を読むくらいなら、この三冊を繰り返し読んだ方がよっぽどマシ。ほんと。マジにそう思います。
ああ、良い本に出会えるっていうのは、本当に幸せだなぁ。
「ニッポン社会」入門でくやしいのは、大半が東京という都市を取り上げて描かれてる事。東京に住んでる人間だと、僕の8倍くらい感激して楽しめるに違いないのですよ。
ああ、くやしい! キー!!!(笑)
ともあれ、本当に面白くて良い本です。おすすめ。
ISBN:4140882034 新書 コリン・ジョイス 谷岡 健彦:訳 日本放送出版協会 2006/12 ¥735
たまらなく好きだ。
というものがあります。で、この本がそれ。
なんなんだろう、この感情は。
とにかくたまらないものがあるんですねぇ。
日本人が日本人の感覚でなれ合っているのではなくて、イギリス人が、ある程度の世界普遍価値の判断のもと、「こういうところは日本人の素晴らしいところだ」と素直にほめてくれる。
そういうところがいいんでしょうね。
敬愛というのでしょうか。そういう普遍的な見地から物事を見る態度が備わっているという事自体に僕は敬服するのですが。
日本人にそういう視点や態度ってないからなぁ。だいたいワールドワイドに見て突出して「良い」のか「悪い」のかを判断する能力自体が、日本人には備わってないから。わからんもんなぁ、世界的な普遍的な標準的な価値観って。
(アメリカンな「グローバルスタンダード」ではありません。ワールド・バリューズ=世界普遍価値です。混同しないでね。このあたり平気で混同する人がいてるので。)
って、難しい話を書きましたが、内容はそんな堅苦しいところはひとつもないです。おちゃらけで楽しく、まさに抱腹絶倒。
いちばん笑ったのは、著者のコリンが神社にお参りに行って、日本人から「何かお願い事でもしたの?」と尋ねられたときの彼の返事。
「したよ。日本の神様はガイジンにもやさしいだろうから。」と言いたかったらしいのだけれど、「神」という発音は彼には難しく、どうしても「カマ」になってしまい、なおかつ「神」には何か敬称が必要なはずだと、頭に「お」をつけたのだそうです。
「オカマ」ですね。わははは。
まぁこれはくすぐり程度のお話しですが、異文化から見た日本のおかしみと、逆に素晴らしさがたくさんたくさん載っていて、どれもこれも本当に楽しい。
ニッポンのプールの整然としたルールの不思議さと、それを守る日本人の可愛らしさと、おかしなところ。
たった一本のネジを交換するために真摯に対応してくれる街の自転車屋さんの「紳士=ジェントルマン」加減。
銭湯という素敵な場所。
巣鴨のおばちゃんたちの平和な姿。
寒さがゆるんできて、表に出たくなってきたころに、日本中でいっせいにに開かれる「花見」というガーデンパーティーという文化の素敵さ。
とにかく見知った何もかもがガイジンという視点から見ると、ものすごく新鮮で素敵に見えるからたまらないのです。
著者のコリン・ジョイスは東京在住14年の新聞記者だけれど、はじめて日本に来たのは神戸の全寮制の学校に留学生として来日した時で、1年住んだらしい。で、その時の印象がまるまる1章使って書かれているのだけれど、これを読むと、関西人の僕としては、とても胸がキュンとしてしまうのだ。
なぜなのかよくわからないけれど、多分、ごく当たり前の日常が異邦人の目を通すことで、まるで自分が子供の時に感じていた感覚で見るように再発見できてしまうというか、そういう事なんだと思う。とにかくたまらなくて、胸がキュンとして、せつなくて、なつかしい気持ちでいっぱいになってしまう。
よかったなぁ、この星に生まれて。
そういう気持ちになってしまうのです。
読んでいて気付いたのだけれど、どうも僕はこういう「異邦人」ものが、とても好きであるらしいのですね。
もう長らく小説は読んでないのだけれど、いまだに好きで好きでたまらない小説がふたつあって、それはどちらもSFなのだけれど、それは、田中光二の「異星の人」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4894565986/249-9767057-8485143
と、筒井康隆の「旅のラゴス」。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4101171319/249-9767057-8485143
この二冊の小説を読んだ時のしみじみと染み入るような心豊かさが、このエッセイにもあって、本当に好きだなぁと感じるのです。
どれもこれも「異邦人」の旅の話なんだけれど、どうしてこんなに素敵なんだろう。
もし自分が小説を書くなら、こんなお話しをこそ書きたいなと思うのです。好きで好きでたまらない。たまらなく好きな世界です。
三冊とも、超がつくお勧め。つまらない小説を読むくらいなら、この三冊を繰り返し読んだ方がよっぽどマシ。ほんと。マジにそう思います。
ああ、良い本に出会えるっていうのは、本当に幸せだなぁ。
「ニッポン社会」入門でくやしいのは、大半が東京という都市を取り上げて描かれてる事。東京に住んでる人間だと、僕の8倍くらい感激して楽しめるに違いないのですよ。
ああ、くやしい! キー!!!(笑)
ともあれ、本当に面白くて良い本です。おすすめ。
痛快!憲法学 ― Amazing Study of Constitution & Democracy
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4797670312/249-9767057-8485143
ふと、自分の日記を見てみると、どうもこの小室直樹の痛快!憲法学そのものの紹介をしてないようなのですね。
自分で驚きました。
なんせ、この10年でみても、もっとも感銘を受けたというか、勉強になった、エポックメイキングな書籍だったから。
アマゾンでの評価も非常に高いですし(38人の評価があって、星5点満点で4.5)、この本はその後に「日本人のための憲法原論」というタイトルで愛蔵版が出てます。実際、再販する価値は高いです。本当に良い内容ですから。
日本人のための憲法原論
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4797671459/249-9767057-8485143
で、再販されたこの「憲法原論」は、僕もこの「ひとよみにっき」で紹介してるんですよね。
http://diarynote.jp/d/12917/20070213.html
でも、どうも、肝心の自分が読んだ「痛快!憲法学」は紹介してなかったみたいなんです。いや、正確には買って読み始めた時には一度紹介してるんですけどね。
http://diarynote.jp/d/12917/20010515.html
でも、このころはまだ、ここに書籍紹介の機能とかなかったもんなぁ。
ともあれ、この本は読みやすくて面白くて、そのくせワールドワイドな「世界の常識」が、手に取るようにわかるので、超おすすめです。もちろん愛蔵版のほうの「憲法原論」も内容は同じなので、同じく超お勧め。どっちを読んでも良いです。
この本が読みやすいのは、「無知なる編集者シマジ」という対談相手が出てくるところですね。何かの雑誌連載だったのかなぁ?
とにかく、無知なる人間が「よーわからん」と質問をするので、そこで碩学たる小室先生が「よろしい、ではわかるように教えてさしあげよう」と細かく解説をする、という構造になってるんですね。そこが、この本の価値を何倍にも高めてるんだと思います。
難しい話でも「ああ!そういう事だったのか!」と染み入るように頭に入ってきて、本当にね、「知るよろこび」というものを実感できるように作られてるんですよ。
「そうですか。知らないのですか。それなら仕方ないですね。わかるように教えて差し上げます。」
という感じです。
知り合いに、良く本を読まれる年長の先輩がおられて、ちゅうか私のコピーライティングの師匠っちゅうか、昔上司だった方なんですけど、毎週一冊は何かしら読んでおられるので、この本をお薦めしたら、やっぱりすごく高評価でした。「おもしろい!勉強になった!」と感激しておられた。ちょうど一回り上の方なんですけどね。偉いよなぁ、年下の人間から勧められた本を素直に読まれるのだから。敬服してしまう。
数ある小室直樹の書籍の中でも、おそらくこの本が最高傑作だろうと思われるのですね。タイトルの通り「憲法」について語ってるわけですけれど、憲法の概念やら意味を、それが生まれるに至った欧米の歴史やら宗教との関連やら、社会学の基本やらまでふまえて幅広い視点から、あますところなく語っておられる。
この一冊で、おそらく小室先生の書籍3冊から4冊分の内容が凝縮して入っていると言っても過言ではないと思うのです。
考えてみるに、小室直樹という人には、僕は、この本を含めて3回、仰天させられています。
一度目は、「ソビエト帝国の崩壊―瀕死のクマが世界であがく」という書籍。
ソビエト帝国の崩壊―瀕死のクマが世界であがく
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/B000J8688G/249-9767057-8485143
調べてみると1980年に出てるんですね、この本。しかも小室直樹のデビュー作だそうですが、これを僕は、出た時に読んでます。
1980年というと、ゴルバチョフ書記長の就任が1985年なので、ペレストロイカがはじまるはるか前です。、そういう時に「ソ連崩壊!」とやったわけですから、実に大胆だったのです。
確かソ連がいろんな国に侵攻したりして危険な感じがあったから、僕は書店で手にしたんだと思うのですね。
しかし、実際、1991年にソ連は崩壊しましたからね。それを小室先生は10年近く前に的確に予測してたんです。はっきり断言してたもんなぁ。すごいです。やっぱり小室直樹は。
ただ、この書籍を読んでから、ソ連が崩壊してロシアになるまでに随分とタイムラグがありましたので、僕としてはその凄さを完全には実感できなかったんです。「なんかソ連崩壊を予測してた人がいてたなぁ。誰だっけ? 小室直樹だっけ?」という程度の感じでしょうか。
その後も時たま小室先生の本は読んでたように思うのですが、あまり記憶がなく、次にびっくりしたのは、
「信長の呪い―かくて、近代日本は生まれた」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4334005179/249-9767057-8485143
でしたね。
僕の祖父という人が平成になる前、昭和の終わりになくなったのですが、その祖父がよく「徳川家康を読め。」と言ってたんですね。山岡荘八の「徳川家康」が全巻うちにはあったんです。
しかし、僕はとにかく「歴史」というのが苦手で苦手で、避けて通ってたところがあったのです。なので祖父が死んでから「ちょっとは歴史も学ばなくては」と思ったのですが、山岡荘八の徳川家康って全部で28巻くらいあったんですよね。「こらしんどい」と思ったので、短い方の「織田信長」をまず読んだわけです。山岡荘八版のを。
そしたら信長という人がやたらと面白くてですね、はまってしまったわけです。で、そこから信長に関する書籍を次から次へとどんどん読んだ。多分10冊以上だと思いますね。小説も司馬遼太郎の「国盗り物語」も津本陽の「下天は夢か」も読んだし、戦記としての資料本とかも読んだわけです。
その最後にたどりついたのが小室直樹の「信長の呪い」でした。
これは前に、この日記でも一度紹介してます。
http://diarynote.jp/d/12917/20050102.html
小室先生がこの本で言っていて「わ!すごい!」と驚かされたのは「桶狭間は『はざま』での戦いではないですよ。『山』の上の戦いですよ。」という事です。
桶狭間の戦いと言えば信長ものの定番ですから、いちばん華やかなトピックなわけですが、これを山岡荘八は、「桶狭間の谷で休んでいた今川義元を信長は山の上からの奇襲で射止めた」という描き方をしてるのです。で、多分、司馬遼太郎も津本陽もよく似たような描き方だったと思うのです。(このあたりはちょっと記憶があやふや。津本陽は違ったかもしれません。)
とにかく桶狭間と言えば「はざまに山から攻め込む信長」という感じで描かれる、表現されるのが普通だったんです。
でも、もっとも信用に足る一次資料である「信長公記」(しんちょうこうき)には、ちゃんと「おけはざまやま」と書いてあるわけです。「やま」ですね。明確に。「信長公記」というのは、信長が死んだ時に信長に仕えていた人だったかな? そういう人で、昔の事を思い出しながら(人に確認しながらかもしれない)書きつづったのが「信長公記」でして、もっとも信頼に足る資料なわけです。
で、それはもう有名で、いろんな資料本にも、必ず「信長公記」という名前は出てくるわけですよ。
なのにみんな、桶狭間と言えば「はざまに山から攻め込む信長」だったわけです。
一番大事な一次資料の読み込みをやってない。そういう事なんですね。でも小室さんは学者ですから、そういう基礎的な事を、まずキチンとやっている。それだけの事なんですけど、それが実はすごい。
「多くの方は『狭間』という単語から、義経のひよどり越えと勘違いされたのでしょう。」ってなもんです。
そうです。義経のひよどり越え。馬できつい傾斜の斜面を駆け下りて攻め込んだ「奇襲」です。それと区別がついてなかったわけです。なんてええかげんやねん!てなもんです。
でもまぁ山岡荘八とかは小説家だしねぇ。ドラマチックにするためには、多少誇張とかしないとどうしようもないし、それで筆がすべってしまったんでしょう。
でも小室先生は学者ですから。「歴史資料は、まず一次資料の読み込みです。」と、別に何の躊躇もなく、ストレートに世間の間違った常識をひょいとひっくり返してしまわれたわけで。
もう、それだけでも僕は目うろこでしたから。「そそそそ、そーだったのか!」です。まさに「知るよろこび」です。信長の時代では、野営は山の上に陣を取るのが常識だったそうです。そりゃそうですわね。敵がどこから来るかとか見張れるんだし。わざわざ谷間で休むわけがない。(笑)
「でも、だからこそ、桶狭間の戦いは信長の見事な奇襲だったのですよ。」と小室先生はおっしゃる。「そんな堅牢で攻めにくい山の上の敵陣に正面突破で突っ込んでいくなど、正気の沙汰ではないのです。そこが信長のすごいところだったのですよ。」と、こう解説をされるわけです。
山の下にいる信長は、自分たちの手勢がどの程度なのかも今川方にバレている。だから普通の武将なら攻め込むこと自体をしない。なのに平気で突っ込んでいった。そこが奇襲なのだと小室先生は分析される。今川方もあまりの非常識に虚をつかれて対応が後手に回ったのだ、という事なんですね。
「あああああ、なるほどー。」でありました。
いや実際しかし、「信長公記」を見ると、そうとしか読めない記述ばかりなんですよねぇ。読み手が勝手に「はざまやま」を「はざま=狭間=谷間」と誤解しただけの話でして。
とにかくこれに僕はもうびっくりしまして。「世間の常識がいかに怪しいか」「一次資料にあたる事がいかに重要か」という事を思い知らされたのであります。さすがは学者だなぁという、学者の真骨頂ですね。
で、小室先生は「信長の呪い」で、「近代日本が廃藩置県によって、すみやかに体制移行が行えたのも、実は信長の時代に天下統一を目指した政治体系を作り上げていたからである。明治政府の基礎を作ったのは信長である。」と結論づけているのですね。
ま、単純に言えば政治体制としては、徳川300年というのは、何の変化も進化もなかった空白の時代だったってだけの事なんですけどね。でも、それが我々の国のありのままの姿だって事です。
ま、そんな事で、「ソ連」「信長」と二度びっくりして、それからこの憲法学で三度目のびっくりに遭遇したわけですが、そんなこんなをひっくるめても、この「痛快!憲法学」は飛抜けて面白いし、「ソ連」「信長」を超える出来の良さなんです。
わかります? 「ソ連」「信長」を超えるんですよ? この「憲法学」は。そのくらい、この本は良い出来です。
先日から、「今月読んだ本」というのを紹介してますけど、そういう流れの中で「去年読んだ本の中からベストテンでも選ぼうかなぁ」とか考えてたら、「それよりも、この十年で感銘を受けた本を何冊か紹介した方がいいよなぁ」と思いまして、で、いろいろ考えていくと、どーーーーーーーしてもこの「憲法学」が1位になっちゃうんですよねぇ。
どーーーーーーーしても1位なんよなぁ。ほんとに。ほんとうに価値ある本だと思います。他の本は読まなくても、この本だけはぜひ、って感じですねぇ。
憲法とは何か? という学問的な基礎の部分から始まって、民主主義が生まれてきた欧米の体制変化の流れや、第二次大戦など大きな戦争が生まれてしまったその背景、経済の仕組みの基礎的知識、社会学の基礎、宗教に関する基礎知識などなど、欧米文化を日本人が「せめて骨格だけでも」理解するのに役立つ知識、補助線的解説が山盛り入っているわけです。この「憲法学」には。
この一冊を読むだけで、欧米文化理解における「狭間を谷間と思いこんで読み間違うような、無知や思いこみによる勘違い・間違い」をかなりのところまで矯正できるんですね。そこが本当に素晴らしいのです。本当に素晴らしいのであります。
だからやっぱり「十年に一冊の名著よなぁ」と思って、自分のブログでどう紹介してたかな? と検索してみると、驚くべき事に、あまりキチンと紹介してないわけですよ。この重要な本を。
「ああ、俺ってバカだなぁ」であります。
こんなに知るよろこび、「なるほどー」と精神の安定を与えてもらえた名著に関して、「自分の喜び」の部分をちゃんと記していないのが、けっこう恥ずかしい事だなと分ってきたので、それをどうしても書きたくなったのでありました。
とにかく名著です。読んで損はないです。「痛快!憲法学」の方は、たぶん絶版で、もう買えないと思うので、「日本人のための憲法原論」で良いですから、勉強したい方はぜひぜひに。
てなことでした。
2008/01/12 12:33 追加-------------------
ちょっと気になってmixiでの評価も見てみたら、みなさん実に的確にほめてる。ほめ方がすごく正しかったので、勝手に抜粋して紹介してしまいます。このくらい短ければ引用しても許される範囲でしょうし、みんな「読むべし!」って人だから引用しても「どうぞどうぞ」と認めてくれるでしょう。(シゲ)
(書評抜粋開始)---------------------
●今までの常識が覆る。 驚きの連発。
憲法学という難しさはなし。 明日を見る目が変わる。
●痛快です。(5点満点だけど)星、8つぐらいあげたいです。
●世に改憲、護憲と情緒的な論議ばかりが目につきますが、
そもそも憲法とは何か、民主主義とはどういうものかという基本的な
事柄の理解がなければ、考えたつもりでも
ステレオタイプな見方しか生まれません。
●すげぇ〜面白い本!
本格推理小説本みたいなナゾナゾ満載!
自分の無関心と無知のあり様にことさら懺悔。。
●とても解り易い憲法入門書。冗談も入れながら面白く、楽しく読めるぜ!
これを読めば憲法は大体理解出来る!
●読みやすさという点でも、高校生ぐらいの読解力があれば楽に読めるはず。
#個人的には、高校で学ぶ現代社会に取り入れて欲しいくらいの内容です。
●本当に面白いです!正直、この本読んだら法学部行きたくなると思う。
法律や憲法なんて難しくてわけわからんもの…そんな風に
考えてる人はゼッタイゼッタイ一読する価値がある本。
●憲法について知りたいなと思って、俺と同じように何の知識もないとこからはじめたい、という人には、最高におススメの一冊です!
●2007年度の現時点で読んだ中で もっとも面白い。
今までの「常識」が こんなにも「真実」と違っていたのか。
今まで、あまりに知らない自分がいた ことに気がついた。
●面白い。ギャグではなくいたって真面目な本なのですが、
この作者が天才すぎるのでしょうがないです。
●読みやすいし、面白い!
●これは憲法解釈の本ではありません。憲法そのものの本です。
結構面白いよ。憲法は私たちの味方であり、武器なんですね。
●わかりやすーい
公民の教科書にしませう
●憲法の本で唯一感動した。
小室さんの本を読むと間違いなく賢くなれる。
●小室直樹の著書の中では一番面白いと思う一冊です。
●「憲法を語るとは人類の歴史を語るに他ならない」
という大きな視点が魅力
●これまで読んだ本の中で、自分に与えた影響の大きさでは5本の指に入る。
●まず"憲法とは何なのか”っていうところから勉強しないと議論にならない。
●素晴らしい!
全ての日本人が読むべき本だと思う。
●学生時唯一三度読みかえし、これで 憲法は優取れました。
●憲法とは何か?民主主義とは何か?これほど分かりやすく、
面白い本はないだろう。憲法についてかかれる本の多くは、
何が言いたいかわからない本ばかりの中で、民主主義の誕生・
憲法の誕生・法の誕生を歴史を振り返って、一つずつ丹念に
論じてくれる。
●表紙はそれこそきわものだけど、思うに中身は今まで読んできた
どんな憲法の教科書よりも優れている。有名なエリート政治家養成所、
松下政経塾でも教科書に使われたとか。
●社会学は歴史(…もっと言うと成立した時期の思想)の
理解無くして体得できない
●私は憲法の解説本をたくさん読んだが、 この「痛快!憲法学」を
超える本はなかった。 断言できる。必読の本である。
(書評抜粋終わり)------------
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4797670312/249-9767057-8485143
ふと、自分の日記を見てみると、どうもこの小室直樹の痛快!憲法学そのものの紹介をしてないようなのですね。
自分で驚きました。
なんせ、この10年でみても、もっとも感銘を受けたというか、勉強になった、エポックメイキングな書籍だったから。
アマゾンでの評価も非常に高いですし(38人の評価があって、星5点満点で4.5)、この本はその後に「日本人のための憲法原論」というタイトルで愛蔵版が出てます。実際、再販する価値は高いです。本当に良い内容ですから。
日本人のための憲法原論
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4797671459/249-9767057-8485143
で、再販されたこの「憲法原論」は、僕もこの「ひとよみにっき」で紹介してるんですよね。
http://diarynote.jp/d/12917/20070213.html
でも、どうも、肝心の自分が読んだ「痛快!憲法学」は紹介してなかったみたいなんです。いや、正確には買って読み始めた時には一度紹介してるんですけどね。
http://diarynote.jp/d/12917/20010515.html
でも、このころはまだ、ここに書籍紹介の機能とかなかったもんなぁ。
ともあれ、この本は読みやすくて面白くて、そのくせワールドワイドな「世界の常識」が、手に取るようにわかるので、超おすすめです。もちろん愛蔵版のほうの「憲法原論」も内容は同じなので、同じく超お勧め。どっちを読んでも良いです。
この本が読みやすいのは、「無知なる編集者シマジ」という対談相手が出てくるところですね。何かの雑誌連載だったのかなぁ?
とにかく、無知なる人間が「よーわからん」と質問をするので、そこで碩学たる小室先生が「よろしい、ではわかるように教えてさしあげよう」と細かく解説をする、という構造になってるんですね。そこが、この本の価値を何倍にも高めてるんだと思います。
難しい話でも「ああ!そういう事だったのか!」と染み入るように頭に入ってきて、本当にね、「知るよろこび」というものを実感できるように作られてるんですよ。
「そうですか。知らないのですか。それなら仕方ないですね。わかるように教えて差し上げます。」
という感じです。
知り合いに、良く本を読まれる年長の先輩がおられて、ちゅうか私のコピーライティングの師匠っちゅうか、昔上司だった方なんですけど、毎週一冊は何かしら読んでおられるので、この本をお薦めしたら、やっぱりすごく高評価でした。「おもしろい!勉強になった!」と感激しておられた。ちょうど一回り上の方なんですけどね。偉いよなぁ、年下の人間から勧められた本を素直に読まれるのだから。敬服してしまう。
数ある小室直樹の書籍の中でも、おそらくこの本が最高傑作だろうと思われるのですね。タイトルの通り「憲法」について語ってるわけですけれど、憲法の概念やら意味を、それが生まれるに至った欧米の歴史やら宗教との関連やら、社会学の基本やらまでふまえて幅広い視点から、あますところなく語っておられる。
この一冊で、おそらく小室先生の書籍3冊から4冊分の内容が凝縮して入っていると言っても過言ではないと思うのです。
考えてみるに、小室直樹という人には、僕は、この本を含めて3回、仰天させられています。
一度目は、「ソビエト帝国の崩壊―瀕死のクマが世界であがく」という書籍。
ソビエト帝国の崩壊―瀕死のクマが世界であがく
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/B000J8688G/249-9767057-8485143
調べてみると1980年に出てるんですね、この本。しかも小室直樹のデビュー作だそうですが、これを僕は、出た時に読んでます。
1980年というと、ゴルバチョフ書記長の就任が1985年なので、ペレストロイカがはじまるはるか前です。、そういう時に「ソ連崩壊!」とやったわけですから、実に大胆だったのです。
確かソ連がいろんな国に侵攻したりして危険な感じがあったから、僕は書店で手にしたんだと思うのですね。
しかし、実際、1991年にソ連は崩壊しましたからね。それを小室先生は10年近く前に的確に予測してたんです。はっきり断言してたもんなぁ。すごいです。やっぱり小室直樹は。
ただ、この書籍を読んでから、ソ連が崩壊してロシアになるまでに随分とタイムラグがありましたので、僕としてはその凄さを完全には実感できなかったんです。「なんかソ連崩壊を予測してた人がいてたなぁ。誰だっけ? 小室直樹だっけ?」という程度の感じでしょうか。
その後も時たま小室先生の本は読んでたように思うのですが、あまり記憶がなく、次にびっくりしたのは、
「信長の呪い―かくて、近代日本は生まれた」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4334005179/249-9767057-8485143
でしたね。
僕の祖父という人が平成になる前、昭和の終わりになくなったのですが、その祖父がよく「徳川家康を読め。」と言ってたんですね。山岡荘八の「徳川家康」が全巻うちにはあったんです。
しかし、僕はとにかく「歴史」というのが苦手で苦手で、避けて通ってたところがあったのです。なので祖父が死んでから「ちょっとは歴史も学ばなくては」と思ったのですが、山岡荘八の徳川家康って全部で28巻くらいあったんですよね。「こらしんどい」と思ったので、短い方の「織田信長」をまず読んだわけです。山岡荘八版のを。
そしたら信長という人がやたらと面白くてですね、はまってしまったわけです。で、そこから信長に関する書籍を次から次へとどんどん読んだ。多分10冊以上だと思いますね。小説も司馬遼太郎の「国盗り物語」も津本陽の「下天は夢か」も読んだし、戦記としての資料本とかも読んだわけです。
その最後にたどりついたのが小室直樹の「信長の呪い」でした。
これは前に、この日記でも一度紹介してます。
http://diarynote.jp/d/12917/20050102.html
小室先生がこの本で言っていて「わ!すごい!」と驚かされたのは「桶狭間は『はざま』での戦いではないですよ。『山』の上の戦いですよ。」という事です。
桶狭間の戦いと言えば信長ものの定番ですから、いちばん華やかなトピックなわけですが、これを山岡荘八は、「桶狭間の谷で休んでいた今川義元を信長は山の上からの奇襲で射止めた」という描き方をしてるのです。で、多分、司馬遼太郎も津本陽もよく似たような描き方だったと思うのです。(このあたりはちょっと記憶があやふや。津本陽は違ったかもしれません。)
とにかく桶狭間と言えば「はざまに山から攻め込む信長」という感じで描かれる、表現されるのが普通だったんです。
でも、もっとも信用に足る一次資料である「信長公記」(しんちょうこうき)には、ちゃんと「おけはざまやま」と書いてあるわけです。「やま」ですね。明確に。「信長公記」というのは、信長が死んだ時に信長に仕えていた人だったかな? そういう人で、昔の事を思い出しながら(人に確認しながらかもしれない)書きつづったのが「信長公記」でして、もっとも信頼に足る資料なわけです。
で、それはもう有名で、いろんな資料本にも、必ず「信長公記」という名前は出てくるわけですよ。
なのにみんな、桶狭間と言えば「はざまに山から攻め込む信長」だったわけです。
一番大事な一次資料の読み込みをやってない。そういう事なんですね。でも小室さんは学者ですから、そういう基礎的な事を、まずキチンとやっている。それだけの事なんですけど、それが実はすごい。
「多くの方は『狭間』という単語から、義経のひよどり越えと勘違いされたのでしょう。」ってなもんです。
そうです。義経のひよどり越え。馬できつい傾斜の斜面を駆け下りて攻め込んだ「奇襲」です。それと区別がついてなかったわけです。なんてええかげんやねん!てなもんです。
でもまぁ山岡荘八とかは小説家だしねぇ。ドラマチックにするためには、多少誇張とかしないとどうしようもないし、それで筆がすべってしまったんでしょう。
でも小室先生は学者ですから。「歴史資料は、まず一次資料の読み込みです。」と、別に何の躊躇もなく、ストレートに世間の間違った常識をひょいとひっくり返してしまわれたわけで。
もう、それだけでも僕は目うろこでしたから。「そそそそ、そーだったのか!」です。まさに「知るよろこび」です。信長の時代では、野営は山の上に陣を取るのが常識だったそうです。そりゃそうですわね。敵がどこから来るかとか見張れるんだし。わざわざ谷間で休むわけがない。(笑)
「でも、だからこそ、桶狭間の戦いは信長の見事な奇襲だったのですよ。」と小室先生はおっしゃる。「そんな堅牢で攻めにくい山の上の敵陣に正面突破で突っ込んでいくなど、正気の沙汰ではないのです。そこが信長のすごいところだったのですよ。」と、こう解説をされるわけです。
山の下にいる信長は、自分たちの手勢がどの程度なのかも今川方にバレている。だから普通の武将なら攻め込むこと自体をしない。なのに平気で突っ込んでいった。そこが奇襲なのだと小室先生は分析される。今川方もあまりの非常識に虚をつかれて対応が後手に回ったのだ、という事なんですね。
「あああああ、なるほどー。」でありました。
いや実際しかし、「信長公記」を見ると、そうとしか読めない記述ばかりなんですよねぇ。読み手が勝手に「はざまやま」を「はざま=狭間=谷間」と誤解しただけの話でして。
とにかくこれに僕はもうびっくりしまして。「世間の常識がいかに怪しいか」「一次資料にあたる事がいかに重要か」という事を思い知らされたのであります。さすがは学者だなぁという、学者の真骨頂ですね。
で、小室先生は「信長の呪い」で、「近代日本が廃藩置県によって、すみやかに体制移行が行えたのも、実は信長の時代に天下統一を目指した政治体系を作り上げていたからである。明治政府の基礎を作ったのは信長である。」と結論づけているのですね。
ま、単純に言えば政治体制としては、徳川300年というのは、何の変化も進化もなかった空白の時代だったってだけの事なんですけどね。でも、それが我々の国のありのままの姿だって事です。
ま、そんな事で、「ソ連」「信長」と二度びっくりして、それからこの憲法学で三度目のびっくりに遭遇したわけですが、そんなこんなをひっくるめても、この「痛快!憲法学」は飛抜けて面白いし、「ソ連」「信長」を超える出来の良さなんです。
わかります? 「ソ連」「信長」を超えるんですよ? この「憲法学」は。そのくらい、この本は良い出来です。
先日から、「今月読んだ本」というのを紹介してますけど、そういう流れの中で「去年読んだ本の中からベストテンでも選ぼうかなぁ」とか考えてたら、「それよりも、この十年で感銘を受けた本を何冊か紹介した方がいいよなぁ」と思いまして、で、いろいろ考えていくと、どーーーーーーーしてもこの「憲法学」が1位になっちゃうんですよねぇ。
どーーーーーーーしても1位なんよなぁ。ほんとに。ほんとうに価値ある本だと思います。他の本は読まなくても、この本だけはぜひ、って感じですねぇ。
憲法とは何か? という学問的な基礎の部分から始まって、民主主義が生まれてきた欧米の体制変化の流れや、第二次大戦など大きな戦争が生まれてしまったその背景、経済の仕組みの基礎的知識、社会学の基礎、宗教に関する基礎知識などなど、欧米文化を日本人が「せめて骨格だけでも」理解するのに役立つ知識、補助線的解説が山盛り入っているわけです。この「憲法学」には。
この一冊を読むだけで、欧米文化理解における「狭間を谷間と思いこんで読み間違うような、無知や思いこみによる勘違い・間違い」をかなりのところまで矯正できるんですね。そこが本当に素晴らしいのです。本当に素晴らしいのであります。
だからやっぱり「十年に一冊の名著よなぁ」と思って、自分のブログでどう紹介してたかな? と検索してみると、驚くべき事に、あまりキチンと紹介してないわけですよ。この重要な本を。
「ああ、俺ってバカだなぁ」であります。
こんなに知るよろこび、「なるほどー」と精神の安定を与えてもらえた名著に関して、「自分の喜び」の部分をちゃんと記していないのが、けっこう恥ずかしい事だなと分ってきたので、それをどうしても書きたくなったのでありました。
とにかく名著です。読んで損はないです。「痛快!憲法学」の方は、たぶん絶版で、もう買えないと思うので、「日本人のための憲法原論」で良いですから、勉強したい方はぜひぜひに。
てなことでした。
2008/01/12 12:33 追加-------------------
ちょっと気になってmixiでの評価も見てみたら、みなさん実に的確にほめてる。ほめ方がすごく正しかったので、勝手に抜粋して紹介してしまいます。このくらい短ければ引用しても許される範囲でしょうし、みんな「読むべし!」って人だから引用しても「どうぞどうぞ」と認めてくれるでしょう。(シゲ)
(書評抜粋開始)---------------------
●今までの常識が覆る。 驚きの連発。
憲法学という難しさはなし。 明日を見る目が変わる。
●痛快です。(5点満点だけど)星、8つぐらいあげたいです。
●世に改憲、護憲と情緒的な論議ばかりが目につきますが、
そもそも憲法とは何か、民主主義とはどういうものかという基本的な
事柄の理解がなければ、考えたつもりでも
ステレオタイプな見方しか生まれません。
●すげぇ〜面白い本!
本格推理小説本みたいなナゾナゾ満載!
自分の無関心と無知のあり様にことさら懺悔。。
●とても解り易い憲法入門書。冗談も入れながら面白く、楽しく読めるぜ!
これを読めば憲法は大体理解出来る!
●読みやすさという点でも、高校生ぐらいの読解力があれば楽に読めるはず。
#個人的には、高校で学ぶ現代社会に取り入れて欲しいくらいの内容です。
●本当に面白いです!正直、この本読んだら法学部行きたくなると思う。
法律や憲法なんて難しくてわけわからんもの…そんな風に
考えてる人はゼッタイゼッタイ一読する価値がある本。
●憲法について知りたいなと思って、俺と同じように何の知識もないとこからはじめたい、という人には、最高におススメの一冊です!
●2007年度の現時点で読んだ中で もっとも面白い。
今までの「常識」が こんなにも「真実」と違っていたのか。
今まで、あまりに知らない自分がいた ことに気がついた。
●面白い。ギャグではなくいたって真面目な本なのですが、
この作者が天才すぎるのでしょうがないです。
●読みやすいし、面白い!
●これは憲法解釈の本ではありません。憲法そのものの本です。
結構面白いよ。憲法は私たちの味方であり、武器なんですね。
●わかりやすーい
公民の教科書にしませう
●憲法の本で唯一感動した。
小室さんの本を読むと間違いなく賢くなれる。
●小室直樹の著書の中では一番面白いと思う一冊です。
●「憲法を語るとは人類の歴史を語るに他ならない」
という大きな視点が魅力
●これまで読んだ本の中で、自分に与えた影響の大きさでは5本の指に入る。
●まず"憲法とは何なのか”っていうところから勉強しないと議論にならない。
●素晴らしい!
全ての日本人が読むべき本だと思う。
●学生時唯一三度読みかえし、これで 憲法は優取れました。
●憲法とは何か?民主主義とは何か?これほど分かりやすく、
面白い本はないだろう。憲法についてかかれる本の多くは、
何が言いたいかわからない本ばかりの中で、民主主義の誕生・
憲法の誕生・法の誕生を歴史を振り返って、一つずつ丹念に
論じてくれる。
●表紙はそれこそきわものだけど、思うに中身は今まで読んできた
どんな憲法の教科書よりも優れている。有名なエリート政治家養成所、
松下政経塾でも教科書に使われたとか。
●社会学は歴史(…もっと言うと成立した時期の思想)の
理解無くして体得できない
●私は憲法の解説本をたくさん読んだが、 この「痛快!憲法学」を
超える本はなかった。 断言できる。必読の本である。
(書評抜粋終わり)------------
日本人の精神史を考える。
2007年12月26日 読書
ISBN:4344980603 新書 島田 裕巳 幻冬舎 2007/11 ¥756
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4344980603/249-9767057-8485143
この本は、二週間ほど前に読んだ本ですが、かなり面白かったんですよね。
島田裕巳というと、オウム事件の時に、オウムを擁護してケッチン食らった人という印象しかないんですけど、そういう軽いところのある人だからこそ、日本の「新宗教」を総覧的にザザザザザーっと見るには最適の人なのかもな、という気がしました。
紹介されているのは、
●天理教
●大本
●生長の家
●天照皇大神宮教と璽宇
●立正佼成会と霊友会
●創価学会
●世界救世教、神慈秀明会と真光系教団
●PL教団
●真如苑
●GLA(ジー・エル・エー総合本部)
と、有名どころが過不足無く適切に並んでる感じ。
それと、いちおうあとがきに紙幅の都合上、「金光教」「阿含宗」「善隣教」を取り上げられなかったと断わり書きがあって、簡単な説明がありました。
ということで、これだけ並ぶと、本当に日本人の、この何十年かの精神のありようが、いかに変化してきたのかがわかるから面白いのであります。
ここに並ぶ「新」宗教は、古くは明治時代くらいに生まれて、現代まで生き残っているような宗教ばかりなんですね。
で、島田氏の紹介文を読んでいくと、海外からの文明がやってきて、日本人のライフスタイルが変化するのにあわせて、宗教というものの姿形も変化してきたのだな、というのが本当によくわかるんです。
まぁ言わば、「宗教のカタログ雑誌」という感じで、この本は面白いです。
でも、神道やら仏教やらキリスト教などの王道路線の話は全然出てきませんので、まさにファッション・カタログのノリなんですね。それぞれの宗教の個性の違いみたいなことがよくわかる。
で、やっている宗教的儀式とかを見ていくと、まさに日本の土着の文化から産まれてきているなぁというのがわかって、実に面白いのです。
たとえば、田舎から都会に出てきた若者が、村の寄り合いに集まるような感じで立正佼成会・霊友会の「法座」に集まってきたとか、島田氏はおおむね、これらの宗教を時代の変化の中でのニーズに位置づけた紹介をしているので読みやすいのです。
上に●で紹介した順で個々の宗教が紹介されているのですが、実は勃興した時代の古いものから順に並べられていて、日本人の精神史が明治から昭和にかけて、どのように変化してきたかという、「日本人の精神史」になっているところがグッジョブ! という感じなんですね、この本。
どうもこの間から、落語といい、力餅食堂といい、明治から昭和にかけての大衆文化というところに興味が行ってるので、とにかくやたらと面白くて仕方ないのであります。
僕自身、この数年、地球全体の捉え方からはじまって、世界の宗教の概略(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・仏教・儒教)学習をしてきてたのですけど、ここに来て、やっと日本の現代に近づいて来れた、という感じなのですね。あー、長かった。
個人的に「やっぱり面白いなぁ」と思ったのは、ひとつは何と言っても、「大本(おおもと)」ですね。
日本の宗教史において、この大本というのは、別格的に重要なんじゃないかなぁと思います。知ってる人は知ってるけど、出口なおと出口王仁三郎(おにざぶろう)の、あの「おおもと」です。
大本がやっぱり「おおもと」なんだなぁと思うのは、「手かざし」などのヒーリングですね。これがそのまま真光系の教団とかにも継承されてるんですな。ああ、やっぱりそうだったのかって思う。で、どうもこの「手かざし」の系統は、力餅食堂じゃないけど、「のれんわけ」で広がってるところがあって、すぐにみんな手かざしができるものだから、みんな勝手に新宗教を作ってしまってるというような印象があります。
このあたり、この島田さんの本には書いてないけど、「レイキ」の歴史と重ね合わせると、かなり面白いと思うんですよね。
「レイキ」は、ようするに「霊気」の事なんですけど、「手当」「てかざし」による病気の治療・ヒーリングというものが、実はハワイに渡ってそこから全世界に広がり、たとえばイギリスでは「レイキ」というのは一般名詞化してるほどの普通の治療法として定着してるんですよね。
驚くなかれ、アメリカにもレイキは渡っていて、病院によっては補助治療行為として認知されてるから、保険がきく場合すらあるんですよ。そのくらい「レイキ」は一般化してる。
で、レイキのテクニック修得法に関してはここでは語りませんけど、ようはレイキもこれら新宗教と同じ時代に広がっているわけなんです。
ただ、大本や真光の手かざしが宗教と一体化しているのに対して、レイキは宗教とは関係なかったというところが違うんですね。で、宗教と関係なくなったレイキは、国内では消滅に近いくらい小さくなって逆に世界に定着した。で、国内では大本やら真光系で宗教とともに生き延びたって事何じゃないかな?と僕は見ました。
このあたりは想像で書いてますす。でもまぁ、レイキと手かざしは多分同じものですよね。きっと。もともとそういうものがあるんだと思う。人間には。それが何らかの形で「師から弟子に伝えられる技術」として伝承されるようになったんだと思うんですね。まさに力餅食堂みたいに。
で、どうもそのおおもとが、やっぱり「大本」であるような気がするのであります。
大本というのは僕は妙な因縁がありまして、僕が若かりし頃、コピーライターになりたての頃に、ある印刷会社さんから、ある銀行の京都の綾部支店オープンに関するオープン企画の依頼が来たのですよ。
で、僕は当時、会社に入りたてで、やる気もあったものだから、「綾部という土地がわからないと、企画も立てようがないので、現場を見に行ってきてもいいですか?」と気軽に言ってしまったんですよね。
でも、京都の綾部なんて、大阪からでもかなり時間のかかる場所だったわけです。当時はとくに。
普通ならそういう事を言っても「なにもわざわざ行かなくてもいいよ」と言われそうなものなんですが、どういうわけかその時は、会社の僕のボスが僕のやる気を買ってくれて、わざわざ印刷会社さんにかけあって、「電車賃だけで良いですから取材費出してもらえませんかね」と予算枠を取ってくださって出かける事になったんです。
これねぇ、いまから考えると、どう考えてもおかしいんですよ。そんなもん、片田舎の銀行の支店のオープン企画なんだから、まぁポケットティッシュでも配りましょか? にしかならないんですよ。いくら考えたって良いアイディアが出るわけがない。
なのに、何故か僕は「綾部に行かないと」と思って、ボスは「行かせてやりたい」になって、そんでもって印刷会社さんも「ええですよ」になったんです。もう、ものすごく不思議で。
で、その綾部こそ、大本の発祥の地というか、本拠地というか、そういう場所なわけですよ。で、僕はその取材に行く日まで、大本の名前も出口王仁三郎の名前も知らなかったわけです。
で、とにかく現地に行って市役所で歴史を調べて、大本の本山の山の上まで昇って、とにかく、やたらと精神的な意味で気持ちが良かったんですね。何かに導かれるかのようなイメージが僕にはありまして、別にどうということのない出張ではあったんですけど、僕の人生の中ではかなり大きな出来事として印象に残ってるんです。
そういう事があってから、もうずっと大本が気になって気になって仕方なくなってしまっておりましたからねぇ。
で、実際、この本を読んでも、やっぱり大本の存在というのは、いろいろと大きいですな。
この本にはそのほかPL教団の事も書いてあるけど、高校・大学と南大阪に通ってた私としては、かの有名なPLタワーの正式名称(超宗派万国戦争犠牲者慰霊大平和祈念搭)がわかったり、高校の頃から読んでいたウルフガイの平井和正が関わったGLAが出てきたりと、自分とのからみで理解できるところも多くて、実に面白かったのであります。
それはともあれ、明治以降の西洋文明が入ってから後の「日本人の精神史」を考えるには、けっこう流れが分りやすくて面白い書籍だと思います。おすすめです。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4344980603/249-9767057-8485143
この本は、二週間ほど前に読んだ本ですが、かなり面白かったんですよね。
島田裕巳というと、オウム事件の時に、オウムを擁護してケッチン食らった人という印象しかないんですけど、そういう軽いところのある人だからこそ、日本の「新宗教」を総覧的にザザザザザーっと見るには最適の人なのかもな、という気がしました。
紹介されているのは、
●天理教
●大本
●生長の家
●天照皇大神宮教と璽宇
●立正佼成会と霊友会
●創価学会
●世界救世教、神慈秀明会と真光系教団
●PL教団
●真如苑
●GLA(ジー・エル・エー総合本部)
と、有名どころが過不足無く適切に並んでる感じ。
それと、いちおうあとがきに紙幅の都合上、「金光教」「阿含宗」「善隣教」を取り上げられなかったと断わり書きがあって、簡単な説明がありました。
ということで、これだけ並ぶと、本当に日本人の、この何十年かの精神のありようが、いかに変化してきたのかがわかるから面白いのであります。
ここに並ぶ「新」宗教は、古くは明治時代くらいに生まれて、現代まで生き残っているような宗教ばかりなんですね。
で、島田氏の紹介文を読んでいくと、海外からの文明がやってきて、日本人のライフスタイルが変化するのにあわせて、宗教というものの姿形も変化してきたのだな、というのが本当によくわかるんです。
まぁ言わば、「宗教のカタログ雑誌」という感じで、この本は面白いです。
でも、神道やら仏教やらキリスト教などの王道路線の話は全然出てきませんので、まさにファッション・カタログのノリなんですね。それぞれの宗教の個性の違いみたいなことがよくわかる。
で、やっている宗教的儀式とかを見ていくと、まさに日本の土着の文化から産まれてきているなぁというのがわかって、実に面白いのです。
たとえば、田舎から都会に出てきた若者が、村の寄り合いに集まるような感じで立正佼成会・霊友会の「法座」に集まってきたとか、島田氏はおおむね、これらの宗教を時代の変化の中でのニーズに位置づけた紹介をしているので読みやすいのです。
上に●で紹介した順で個々の宗教が紹介されているのですが、実は勃興した時代の古いものから順に並べられていて、日本人の精神史が明治から昭和にかけて、どのように変化してきたかという、「日本人の精神史」になっているところがグッジョブ! という感じなんですね、この本。
どうもこの間から、落語といい、力餅食堂といい、明治から昭和にかけての大衆文化というところに興味が行ってるので、とにかくやたらと面白くて仕方ないのであります。
僕自身、この数年、地球全体の捉え方からはじまって、世界の宗教の概略(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・仏教・儒教)学習をしてきてたのですけど、ここに来て、やっと日本の現代に近づいて来れた、という感じなのですね。あー、長かった。
個人的に「やっぱり面白いなぁ」と思ったのは、ひとつは何と言っても、「大本(おおもと)」ですね。
日本の宗教史において、この大本というのは、別格的に重要なんじゃないかなぁと思います。知ってる人は知ってるけど、出口なおと出口王仁三郎(おにざぶろう)の、あの「おおもと」です。
大本がやっぱり「おおもと」なんだなぁと思うのは、「手かざし」などのヒーリングですね。これがそのまま真光系の教団とかにも継承されてるんですな。ああ、やっぱりそうだったのかって思う。で、どうもこの「手かざし」の系統は、力餅食堂じゃないけど、「のれんわけ」で広がってるところがあって、すぐにみんな手かざしができるものだから、みんな勝手に新宗教を作ってしまってるというような印象があります。
このあたり、この島田さんの本には書いてないけど、「レイキ」の歴史と重ね合わせると、かなり面白いと思うんですよね。
「レイキ」は、ようするに「霊気」の事なんですけど、「手当」「てかざし」による病気の治療・ヒーリングというものが、実はハワイに渡ってそこから全世界に広がり、たとえばイギリスでは「レイキ」というのは一般名詞化してるほどの普通の治療法として定着してるんですよね。
驚くなかれ、アメリカにもレイキは渡っていて、病院によっては補助治療行為として認知されてるから、保険がきく場合すらあるんですよ。そのくらい「レイキ」は一般化してる。
で、レイキのテクニック修得法に関してはここでは語りませんけど、ようはレイキもこれら新宗教と同じ時代に広がっているわけなんです。
ただ、大本や真光の手かざしが宗教と一体化しているのに対して、レイキは宗教とは関係なかったというところが違うんですね。で、宗教と関係なくなったレイキは、国内では消滅に近いくらい小さくなって逆に世界に定着した。で、国内では大本やら真光系で宗教とともに生き延びたって事何じゃないかな?と僕は見ました。
このあたりは想像で書いてますす。でもまぁ、レイキと手かざしは多分同じものですよね。きっと。もともとそういうものがあるんだと思う。人間には。それが何らかの形で「師から弟子に伝えられる技術」として伝承されるようになったんだと思うんですね。まさに力餅食堂みたいに。
で、どうもそのおおもとが、やっぱり「大本」であるような気がするのであります。
大本というのは僕は妙な因縁がありまして、僕が若かりし頃、コピーライターになりたての頃に、ある印刷会社さんから、ある銀行の京都の綾部支店オープンに関するオープン企画の依頼が来たのですよ。
で、僕は当時、会社に入りたてで、やる気もあったものだから、「綾部という土地がわからないと、企画も立てようがないので、現場を見に行ってきてもいいですか?」と気軽に言ってしまったんですよね。
でも、京都の綾部なんて、大阪からでもかなり時間のかかる場所だったわけです。当時はとくに。
普通ならそういう事を言っても「なにもわざわざ行かなくてもいいよ」と言われそうなものなんですが、どういうわけかその時は、会社の僕のボスが僕のやる気を買ってくれて、わざわざ印刷会社さんにかけあって、「電車賃だけで良いですから取材費出してもらえませんかね」と予算枠を取ってくださって出かける事になったんです。
これねぇ、いまから考えると、どう考えてもおかしいんですよ。そんなもん、片田舎の銀行の支店のオープン企画なんだから、まぁポケットティッシュでも配りましょか? にしかならないんですよ。いくら考えたって良いアイディアが出るわけがない。
なのに、何故か僕は「綾部に行かないと」と思って、ボスは「行かせてやりたい」になって、そんでもって印刷会社さんも「ええですよ」になったんです。もう、ものすごく不思議で。
で、その綾部こそ、大本の発祥の地というか、本拠地というか、そういう場所なわけですよ。で、僕はその取材に行く日まで、大本の名前も出口王仁三郎の名前も知らなかったわけです。
で、とにかく現地に行って市役所で歴史を調べて、大本の本山の山の上まで昇って、とにかく、やたらと精神的な意味で気持ちが良かったんですね。何かに導かれるかのようなイメージが僕にはありまして、別にどうということのない出張ではあったんですけど、僕の人生の中ではかなり大きな出来事として印象に残ってるんです。
そういう事があってから、もうずっと大本が気になって気になって仕方なくなってしまっておりましたからねぇ。
で、実際、この本を読んでも、やっぱり大本の存在というのは、いろいろと大きいですな。
この本にはそのほかPL教団の事も書いてあるけど、高校・大学と南大阪に通ってた私としては、かの有名なPLタワーの正式名称(超宗派万国戦争犠牲者慰霊大平和祈念搭)がわかったり、高校の頃から読んでいたウルフガイの平井和正が関わったGLAが出てきたりと、自分とのからみで理解できるところも多くて、実に面白かったのであります。
それはともあれ、明治以降の西洋文明が入ってから後の「日本人の精神史」を考えるには、けっこう流れが分りやすくて面白い書籍だと思います。おすすめです。
ISBN:4022503610 単行本 桂 米朝 朝日新聞社 2007/12/07 ¥1,365
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4022503610/249-9767057-8485143
この間、いつもどおり本屋を探索に出かけたら、こんな本がでておりまして。ついつい買ってしまいました。
よく知らなかったのですが、いま米朝さん、ラジオ番組をレギュラーで持ってるんですねぇ。最近はもう落語ができなくなって、昔のこととか思い出しながらいろいろしゃべったり、ゲストを招いて話をしたりするらしいのですが、それを一冊の本にまとめたものだそうです。
で、これが実に面白い。
米朝さんの弟子というと、なんと言っても枝雀さんと吉朝さんなんだけど、この二人の天才が二人ともに早くにお亡くなりになってるわけですね。師匠の米朝さんより先に、あちらへお引っ越しになってしまわれた。
で、そういう話もいろいろ読めるかな? と思ったら、枝雀、吉朝さんの話はほとんどなし。逆に、いま生きてる弟子の話がすごく多い。
たぶん、ゲストがそういう生きてる弟子達だったんでしょうね。なので、ざこば師匠とかの話がけっこうあったり、千朝さん(この人はうまい!)とかの話の方が多かったりする。
で、それより面白いのは、米朝さんが若かった頃のお話がけっこうたくさん出てくるって事です。つまり、米朝さんの師匠とか、先輩落語家の話ですね。
あるいは、もうすでに消えてしまった大阪の風習の話とか、とにかく今みんなが知らない昔の大阪の姿をいろいろとお話されていて、ここがまたやたらと面白いのであります。
読んでいて、ははぁそういう訳だったのか!と新発見したのは、昔の職人の話でした。
昔の職人さんは、植木屋さんにしても大工にしても、とにかく日当をいただいて仕事をするわけですが、朝から仕事にかかって、いかに早く仕上げてしまうかが腕の見せ所であり、自慢でもあったのだそうです。
なので、腕の良い職人ほど、仕事は午前中で終わらせてしまって、午後はゆっくり講釈を聞きに出かけたりするという、そういう感じだったらしい。
ああ、そういうことやったんか! なんですね。
いやいや、というのは、「青菜」という落語を、まるまる一席覚えてしまったんですが、やってるうちにどうにもこうにも、時間の流れがよくわからんところがあったからなんです。
「青菜」は、仕事が終わった植木屋を旦那さんが酒でもてなして、その時の様子を家に帰ってから真似てみるというお話なわけです。
で、これを私は、いまの勤め人の感覚で解釈してたから、旦那さんから柳陰だの鯉の洗いだのをふるまってもらう時間を夕方4時くらいと考えてたわけです。
でもそうすると、帰ってからの話がどうにもつながらないんですね。帰ってから友達が「風呂いこけ」と訪ねてくるし、だいたい嫁さんのお咲きさん自体、旦那に向かって「何寝とぼけてなはんの、まだ日も高いうちから」とかのセリフがけっこうあるわけですよ。
おかしいなぁ? いったい何時に帰ったのよ? とか思ってしゃべってたんですが、結局、旦那さんと飲んでた時間が多分、昼の2時とかそんな時間なわけですな。で、だからこそ冷えた柳陰を飲むんだわ。
うーむ。なるほど。と思いました。
米朝さんの話によれば、職人は昼からは講釈場で講釈を聞いてたって事ですけど、これも言うならいまでいう連続テレビ小説みたいなもので、毎日少しずつ「続き物」で話しをしてたんですってねぇ。だから講釈場には、ひと月券とかの「定期券」とかあったらしい。昼間の講釈場なんて職人だらけだったみたいですな。
で、またこの講釈場というのが、ありとあらゆる事をネタにしていて、歴史の面白いところをつまみ語りしたり、話題はとても豊富だったみたいで、たぶん時事ネタとか、あるいは、町のうわさ話や、ちょっとした物知り知識みたいなネタとか山のようにやってたんだろうと想像されるんですね。
で、どうも、米朝さんの幅広い知識というのは、そういう講釈場からの知識も、けっこう大きな背骨として入ってる感じなんですよねぇ。
なるほどなぁと。
昔の人はいまみたいにいろんなメディアがなかったから話芸を通じて教養を高めていたんだろうなぁと、すごく勉強になったのであります。
この本、なかなかに面白かったでありますね。
昔の職人は、仕事をさっさと切り上げて、講釈場で森羅万象のことを楽しみながら学習してたんだなぁという感じが解って実に面白く感じたのであります。いや、自分がライターという職人であり、現代版講釈士でもあるというような事が重なって、そう感じるんですけどね。
おもしろい本でした。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4022503610/249-9767057-8485143
この間、いつもどおり本屋を探索に出かけたら、こんな本がでておりまして。ついつい買ってしまいました。
よく知らなかったのですが、いま米朝さん、ラジオ番組をレギュラーで持ってるんですねぇ。最近はもう落語ができなくなって、昔のこととか思い出しながらいろいろしゃべったり、ゲストを招いて話をしたりするらしいのですが、それを一冊の本にまとめたものだそうです。
で、これが実に面白い。
米朝さんの弟子というと、なんと言っても枝雀さんと吉朝さんなんだけど、この二人の天才が二人ともに早くにお亡くなりになってるわけですね。師匠の米朝さんより先に、あちらへお引っ越しになってしまわれた。
で、そういう話もいろいろ読めるかな? と思ったら、枝雀、吉朝さんの話はほとんどなし。逆に、いま生きてる弟子の話がすごく多い。
たぶん、ゲストがそういう生きてる弟子達だったんでしょうね。なので、ざこば師匠とかの話がけっこうあったり、千朝さん(この人はうまい!)とかの話の方が多かったりする。
で、それより面白いのは、米朝さんが若かった頃のお話がけっこうたくさん出てくるって事です。つまり、米朝さんの師匠とか、先輩落語家の話ですね。
あるいは、もうすでに消えてしまった大阪の風習の話とか、とにかく今みんなが知らない昔の大阪の姿をいろいろとお話されていて、ここがまたやたらと面白いのであります。
読んでいて、ははぁそういう訳だったのか!と新発見したのは、昔の職人の話でした。
昔の職人さんは、植木屋さんにしても大工にしても、とにかく日当をいただいて仕事をするわけですが、朝から仕事にかかって、いかに早く仕上げてしまうかが腕の見せ所であり、自慢でもあったのだそうです。
なので、腕の良い職人ほど、仕事は午前中で終わらせてしまって、午後はゆっくり講釈を聞きに出かけたりするという、そういう感じだったらしい。
ああ、そういうことやったんか! なんですね。
いやいや、というのは、「青菜」という落語を、まるまる一席覚えてしまったんですが、やってるうちにどうにもこうにも、時間の流れがよくわからんところがあったからなんです。
「青菜」は、仕事が終わった植木屋を旦那さんが酒でもてなして、その時の様子を家に帰ってから真似てみるというお話なわけです。
で、これを私は、いまの勤め人の感覚で解釈してたから、旦那さんから柳陰だの鯉の洗いだのをふるまってもらう時間を夕方4時くらいと考えてたわけです。
でもそうすると、帰ってからの話がどうにもつながらないんですね。帰ってから友達が「風呂いこけ」と訪ねてくるし、だいたい嫁さんのお咲きさん自体、旦那に向かって「何寝とぼけてなはんの、まだ日も高いうちから」とかのセリフがけっこうあるわけですよ。
おかしいなぁ? いったい何時に帰ったのよ? とか思ってしゃべってたんですが、結局、旦那さんと飲んでた時間が多分、昼の2時とかそんな時間なわけですな。で、だからこそ冷えた柳陰を飲むんだわ。
うーむ。なるほど。と思いました。
米朝さんの話によれば、職人は昼からは講釈場で講釈を聞いてたって事ですけど、これも言うならいまでいう連続テレビ小説みたいなもので、毎日少しずつ「続き物」で話しをしてたんですってねぇ。だから講釈場には、ひと月券とかの「定期券」とかあったらしい。昼間の講釈場なんて職人だらけだったみたいですな。
で、またこの講釈場というのが、ありとあらゆる事をネタにしていて、歴史の面白いところをつまみ語りしたり、話題はとても豊富だったみたいで、たぶん時事ネタとか、あるいは、町のうわさ話や、ちょっとした物知り知識みたいなネタとか山のようにやってたんだろうと想像されるんですね。
で、どうも、米朝さんの幅広い知識というのは、そういう講釈場からの知識も、けっこう大きな背骨として入ってる感じなんですよねぇ。
なるほどなぁと。
昔の人はいまみたいにいろんなメディアがなかったから話芸を通じて教養を高めていたんだろうなぁと、すごく勉強になったのであります。
この本、なかなかに面白かったでありますね。
昔の職人は、仕事をさっさと切り上げて、講釈場で森羅万象のことを楽しみながら学習してたんだなぁという感じが解って実に面白く感じたのであります。いや、自分がライターという職人であり、現代版講釈士でもあるというような事が重なって、そう感じるんですけどね。
おもしろい本でした。
田んぼの生き物図鑑 (ヤマケイ情報箱)
2007年12月23日 読書
ISBN:4635062597 単行本 内山 りゅう 山と溪谷社 2005/07 ¥3,360
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4635062597/249-9767057-8485143
またmixiからの転載。最近こればっかしですな。
--------------------------------------------------
毎月読んだ本を紹介してますが、考えたら、この素晴らしい本を紹介してなかったので、紹介しておきます。
田んぼの生き物図鑑(内山りゅう)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4635062597/249-9767057-8485143
写真家の内山りゅうさんが撮影された、日本の「田んぼ」を中心とした生き物(植物も含みます)の写真図鑑です。
図鑑なので、机の上に置いて、ときおりパラパラと眺めるというような読み方しかしてなくて「読了」したわけではないので「今月読んだ本」には入れてなかったんですが、まぁほんとに素晴らしい本であります。
田んぼというのは、春から収穫のある秋までは水を張ってお米を育てていますが、晩秋から冬にかけては水を抜いた更地になります。
お正月の凧揚げなどというのは、まさにそういう更地になった田んぼなどでやるもので、風物詩というものはちゃんと背景のありますし、僕自身、子供の頃に母方の田舎で水の抜かれた田んぼで走り回った記憶があります。
しかし、この水が張ってあったりなかったりする、という環境があることによって、生き物の生態系は大きくごろっと変るわけですね。端的に言うと、水がしばらくなくても生き残れるような生き物だけが残る。そういう人間との関わりの中で自然が変化していって、日本の田園風景は形作られてきたのだ、という事がとても良く分かる一冊です。
自然、自然と言いますが、人間も自然のひとつであり、そこには自然への「関わり方」というものがあります。何らかの形で影響を与えずにはおれないわけです。
この本には外来種がどのように自然環境に影響していくのか? という事についてもいろいろ豊富に書かれていて、それもまた面白い点です。
外来種の影響など、人間の関わりがなくて生まれる事はないので、このあたり、本当に慎重にして欲しいなぁと僕は思います。
ともあれ、田んぼというのは、人間が自然に積極的に関わってきて生まれている小宇宙なのだなぁという事がとても良く分かる一冊で、大変お勧めであります。
----------
ちなみに、なんでこの本を知ったのか? というと、実はお仕事で、この作者の内山りゅうさんのインタビューをしたからなんですね。
もう、ちょうど一年前になりますが、内山さんのお宅におうかがいして、いろいろお話しをさせていただいたのです。
もともと内山さんは水中写真家という肩書きを持っておられるのですが、水中は水中でも「海」ではなく「川」。淡水専門で潜っておられるカメラマンで、実はそういうカメラマンというのは、とても珍しいのだそうです。
内山さんいわく、日本ほど川の水が綺麗な国も珍しいのだそうで、外国では川の水をそのまま飲める国なんてほとんどないのだそうです。内山さんは、海外へでかけての撮影もたくさんされていて、その日本独自の河川の美しさに気付かれたのだそうです。
日本でも、いまでは川の水をそのまま飲むなんて考えられないですけど、本の数十年前までは、そういう川が当たり前だったのだからちょっと考えさせられます。
最近落語に興味が湧いてきてるので、過去の大阪についてもいろいろ読んだりするのですが、大阪はもともと埋め立て地で、井戸が出にくい。だから水壷を各家庭において水を買ってたらしいのですが、それをどこで汲んできたかと言うと、上流の水ほど値段が高くてけっこう山に近い場所からくみ出してたようですが、一番安いところでは、長堀で汲んだ水を道頓堀で売るというような事もあったらしいのですね。歩いて15分の距離ですよ!
そういう水と親しんでいた環境というのが、自分の祖父とか曾祖父の時代にはキチンとあったのだから、ちょっとちゃんと考えないといけないなと思います。ちゃんと戻さないとなぁ。
内山さんは、淡水の水中写真家として、良い仕事がしたいからと、東京から和歌山の白浜にある和歌山空港のそばに移り住まれておられるんですね。和歌山にはまだまだ自然の残った川や田んぼがたくさんあるので、それを撮影したい、という事なんだそうです。
和歌山空港のそばなら出版社などのある東京へもすっと行けると言うことで、生活と仕事の拠点としてうまく機能しているご様子でした。家の中に水槽がたくさんあって、それもまた圧巻だったのです。
ずっとすごい人が世の中にはいてるよなぁと感心してたのですけれど、肝心のご著書を読んでなかったので、まずはやっぱりこの本だろうと思って買って読んでみたら圧倒された、というような事であります。
自分の興味を活かして、世の中の役に立つことをしていくという生き方の部分でもとても良い刺激を受けた方です。
こうありたいな、と思って、そっちの方に動いていこうとすると言うこと。それがとても大切だなぁと思うのですね。
で、しかもそれは、やってて楽しいって事なんですね。そのやってて楽しいを仕事にしていて、それで世の中との関わり、影響というものが成り立っている。そういうところが素晴らしいなぁと思うのであります。
そういう方向に生きていきたいと思います。
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またmixiからの転載。最近こればっかしですな。
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毎月読んだ本を紹介してますが、考えたら、この素晴らしい本を紹介してなかったので、紹介しておきます。
田んぼの生き物図鑑(内山りゅう)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4635062597/249-9767057-8485143
写真家の内山りゅうさんが撮影された、日本の「田んぼ」を中心とした生き物(植物も含みます)の写真図鑑です。
図鑑なので、机の上に置いて、ときおりパラパラと眺めるというような読み方しかしてなくて「読了」したわけではないので「今月読んだ本」には入れてなかったんですが、まぁほんとに素晴らしい本であります。
田んぼというのは、春から収穫のある秋までは水を張ってお米を育てていますが、晩秋から冬にかけては水を抜いた更地になります。
お正月の凧揚げなどというのは、まさにそういう更地になった田んぼなどでやるもので、風物詩というものはちゃんと背景のありますし、僕自身、子供の頃に母方の田舎で水の抜かれた田んぼで走り回った記憶があります。
しかし、この水が張ってあったりなかったりする、という環境があることによって、生き物の生態系は大きくごろっと変るわけですね。端的に言うと、水がしばらくなくても生き残れるような生き物だけが残る。そういう人間との関わりの中で自然が変化していって、日本の田園風景は形作られてきたのだ、という事がとても良く分かる一冊です。
自然、自然と言いますが、人間も自然のひとつであり、そこには自然への「関わり方」というものがあります。何らかの形で影響を与えずにはおれないわけです。
この本には外来種がどのように自然環境に影響していくのか? という事についてもいろいろ豊富に書かれていて、それもまた面白い点です。
外来種の影響など、人間の関わりがなくて生まれる事はないので、このあたり、本当に慎重にして欲しいなぁと僕は思います。
ともあれ、田んぼというのは、人間が自然に積極的に関わってきて生まれている小宇宙なのだなぁという事がとても良く分かる一冊で、大変お勧めであります。
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ちなみに、なんでこの本を知ったのか? というと、実はお仕事で、この作者の内山りゅうさんのインタビューをしたからなんですね。
もう、ちょうど一年前になりますが、内山さんのお宅におうかがいして、いろいろお話しをさせていただいたのです。
もともと内山さんは水中写真家という肩書きを持っておられるのですが、水中は水中でも「海」ではなく「川」。淡水専門で潜っておられるカメラマンで、実はそういうカメラマンというのは、とても珍しいのだそうです。
内山さんいわく、日本ほど川の水が綺麗な国も珍しいのだそうで、外国では川の水をそのまま飲める国なんてほとんどないのだそうです。内山さんは、海外へでかけての撮影もたくさんされていて、その日本独自の河川の美しさに気付かれたのだそうです。
日本でも、いまでは川の水をそのまま飲むなんて考えられないですけど、本の数十年前までは、そういう川が当たり前だったのだからちょっと考えさせられます。
最近落語に興味が湧いてきてるので、過去の大阪についてもいろいろ読んだりするのですが、大阪はもともと埋め立て地で、井戸が出にくい。だから水壷を各家庭において水を買ってたらしいのですが、それをどこで汲んできたかと言うと、上流の水ほど値段が高くてけっこう山に近い場所からくみ出してたようですが、一番安いところでは、長堀で汲んだ水を道頓堀で売るというような事もあったらしいのですね。歩いて15分の距離ですよ!
そういう水と親しんでいた環境というのが、自分の祖父とか曾祖父の時代にはキチンとあったのだから、ちょっとちゃんと考えないといけないなと思います。ちゃんと戻さないとなぁ。
内山さんは、淡水の水中写真家として、良い仕事がしたいからと、東京から和歌山の白浜にある和歌山空港のそばに移り住まれておられるんですね。和歌山にはまだまだ自然の残った川や田んぼがたくさんあるので、それを撮影したい、という事なんだそうです。
和歌山空港のそばなら出版社などのある東京へもすっと行けると言うことで、生活と仕事の拠点としてうまく機能しているご様子でした。家の中に水槽がたくさんあって、それもまた圧巻だったのです。
ずっとすごい人が世の中にはいてるよなぁと感心してたのですけれど、肝心のご著書を読んでなかったので、まずはやっぱりこの本だろうと思って買って読んでみたら圧倒された、というような事であります。
自分の興味を活かして、世の中の役に立つことをしていくという生き方の部分でもとても良い刺激を受けた方です。
こうありたいな、と思って、そっちの方に動いていこうとすると言うこと。それがとても大切だなぁと思うのですね。
で、しかもそれは、やってて楽しいって事なんですね。そのやってて楽しいを仕事にしていて、それで世の中との関わり、影響というものが成り立っている。そういうところが素晴らしいなぁと思うのであります。
そういう方向に生きていきたいと思います。
良書は意外に素顔を隠す。
2007年12月2日 読書
ISBN:483795670X 単行本 本田 健 三笠書房 2006/11 ¥1,470
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/483795670X/249-9767057-8485143
う〜ん、そうだったのか! とうなってしまった一冊。
ずっとアダルトチルドレンの知識をもとに、いろいろ書いてきてましたが、ずっとNLP(神経言語プログラミング)に関してだけは、いまひとつ良い印象がなかったので、あんまり読まずにいたのですね。
というのも、NLPの立場の人は、つねに「トラウマに問題解決の原因を求めても問題は解決しない」という事を言ってたから。
いやー、それはおかしい、根本問題に気付いてなかったから、私は苦しかったし、それに気付いてから随分ラクになったのだよ、と思ってたので、どうにもNLPというのは信用ならなかったんですね。
でも、これもまたアダルトチルドレン関連の書籍と同じで、現場臨床に基づいてテクニックをまとめたものがNLPなので、NLPとタイトルの付いてる書籍はどうしても総花的になってしまい、その結論・総論として「トラウマに注目しても解決にならない」になっているのだと、この本を読んでわかりましたね。
ずっとNLPは気になっていてNLPと名の付いた書籍は立ち読みでサラッと流し読みはしてきたんですけど、テクニックの総まとめみたいな本ばかりで心に響かなかったのですよ。
でもどうも、NLPの本質をちゃんと受け止めて整理してる本っていうのは、タイトルにNLPというような総花的な文言は入らないみたいですな。
という事で、この本ですが、訳者が「幸せな小金持ちシリーズ」
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や「ユダヤ人大富豪の教え」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4479790764/249-9767057-8485143
を書いた本田健さんなので、多少は気にはしてた本だったのですが、タイトルがあまりに軽くて敬遠していたんですね。
ただ先日、たまたま、この「一瞬で自分を変える法」の続編である「一瞬で「自分の夢」を実現する法」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/483795684X/249-9767057-8485143
が、いつもはあまり行かない書店にどーんと並んでいて、少し気になったので前作である、この「自分を変える法」を手にとってみた、という事なのであります。
読むまで、NLPの概念に沿って展開されている本だとは知らなかったのですが、いざ読み出すと、これがやたらと面白いんですねぇ。
「一瞬で自分を変える」などと書いてあるから眉唾に感じるわけですけど、でも実際、自分の感情というのは、回りの出来事に敏感に反応していて、一瞬一瞬変化し続けているわけです。
で、マイナス思考になるとか、物事を悪い方に考えるというのは、一種の「クセ」のようなもので、自分の中に悪いクセが何個も何十個も入っているというだけの話で、それをどんどん良く捉えるように書き換えてやれば良いわけです。
それは「悪い捉え方をした、その一瞬」にこそ修正の必要があるわけで、まさにタイトル通り「一瞬で自分を変える法」なんですね。これはなかなかに面白いです。
テクニックはいろいろ書いてありますが、その概念を学ぶだけでも役に立ちます。
良く言われる「コップ半分の水は、『半分しか入ってない』のか『半分も入っている』のかと、捉え方で意味がまったく変ってしまう」という話も、まさにNLPのテクニックそのものだったんですね。
この本、アメリカでの初版がなんと1986年でして、20年も前の本なんですよ。「そうかぁ、こういう事を、すでに20年も前からやってたのか」と感慨深いものがあります。
日本では、NLPのいろいろなテクニックのわかりやすいところだけが、いろんな書籍のいろんな部分に掲載されたりしてきたって事なんだろうなという気がしました。
それに、テクニックだけではダメなんですよね。NLPの技法は汎用的に役立つけど、それらはあくまでテクニックで、個別事情に応じて最適のテクニックを活用してくれるようなカウンセラーにつかないと、あまりに深く根付いてしまった「クセ」には難しいのかも知れないし、やはりNLPに長けたカウンセラーにつくのが、ベストなんでしょうけど、でも、この書籍に紹介されているテクニックや考え方を知るだけでも、そうとうに面白いのです。
たとえば、自分の悪いクセの解消に、悪いクセの原因行動と、それが解消されてうまく行くようになった自分のイメージとをワンセットでイメージする手法、なんていうのは「あ!なるほど!」と目ウロコでした。
悪いクセを持っているという事を、逆に力として利用するわけですね。悪い考え方や行動が出てきた時に、理想の姿もセットで思い出すようにイメージングして、で、頭のスクリーンの中で悪いクセを縮小し、良いクセを拡大する。で、その良い状態をしっかりと味わう。(どれだけ臨場感を持って味わうかがポイントなようですね。色・匂い・音などなど。)
これだけでも相当に現実的に役立つテクニックであります。
すでに自分がアルコール依存症になりかけているという人が、飲みたいなと思った瞬間に、二日酔いではない、快適な目覚めをイメージするようにセットしておくとかね。こういう「瞬間」を日々積み重ねて、イメージ練習していく、というものなわけです。
これはあくまでテクニックのひとつではありますけど、発想として、ものすごく新鮮でした。悪癖の力を逆に活用させてしまうわけですから。実に面白い。
まぁもちろん、これは自分の悪癖を自覚してないと、全然効果がないテクニックで、酒を飲む事自体を問題視してない場合には役に立たないわけですけど、その場合でも「何が嫌で、どうなりたいか」というのは、みんな考えてるわけで、その「嫌」と「ありたい自分」をワンセットでイメージングすれば、かなり効果があるって事ですわ。
これねぇ、ブラインドタッチの練習とそっくりなんですよね。実は一時期ブラインドタッチの練習ソフト(シェアウェア)の開発をやってた時期がありまして、いろいろ調べてたんですが、練習する過程で、「苦手なキー」というのが出てくるんです。「Y」とか「?」はかなり打ちにくく感じたりします。でも、その時、「Y」とか「?」を打つ練習したらダメなんですよね。そうではなくて、打ちやすいキーを、もっと素早く正確に打てるようにする。つまり、苦手キー以外の能力をもっと磨く、という事をするのです。これが正解なんですね。
なんでかというと、キーの数は決まってますから、他のキーが完全に打てるようになったら、苦手キーは「それら得意キーとは異なる指の動かし方をするキー」として、必然的に間違わなくなるからなわけです。
たとえば、「Y」は、たいてい「U」と打ち間違うんです。あるいは「T」とか。それなら「U」や「T」を正確に練習すれば、「そうではない打ち方がYだ」と必然的に体が覚えてくれるんですね。
これと結局は同じ事だなぁと思うのです。一日は24時間ですから、「良いことを考える時間」を増やせば、嫌でも「悪く捉えてしまう時間」は減っていくわけです。だから得意な所を、うまく伸ばせば良い訳です。
まぁ実際には、こういうテクニックだけでは「良い生き方」が身に付くわけでもないのだろうとは思いますが、アダルトチルドレンの概念だけでは、どうにもうまくいかないなぁという部分も多々ありましたので、僕的には大発見だったのでありますよ。
特に、ここをご覧になっている方には、けっこう面白い書籍かもしれませんなぁと思ってご紹介した次第であります。ご一読あれ。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/483795670X/249-9767057-8485143
う〜ん、そうだったのか! とうなってしまった一冊。
ずっとアダルトチルドレンの知識をもとに、いろいろ書いてきてましたが、ずっとNLP(神経言語プログラミング)に関してだけは、いまひとつ良い印象がなかったので、あんまり読まずにいたのですね。
というのも、NLPの立場の人は、つねに「トラウマに問題解決の原因を求めても問題は解決しない」という事を言ってたから。
いやー、それはおかしい、根本問題に気付いてなかったから、私は苦しかったし、それに気付いてから随分ラクになったのだよ、と思ってたので、どうにもNLPというのは信用ならなかったんですね。
でも、これもまたアダルトチルドレン関連の書籍と同じで、現場臨床に基づいてテクニックをまとめたものがNLPなので、NLPとタイトルの付いてる書籍はどうしても総花的になってしまい、その結論・総論として「トラウマに注目しても解決にならない」になっているのだと、この本を読んでわかりましたね。
ずっとNLPは気になっていてNLPと名の付いた書籍は立ち読みでサラッと流し読みはしてきたんですけど、テクニックの総まとめみたいな本ばかりで心に響かなかったのですよ。
でもどうも、NLPの本質をちゃんと受け止めて整理してる本っていうのは、タイトルにNLPというような総花的な文言は入らないみたいですな。
という事で、この本ですが、訳者が「幸せな小金持ちシリーズ」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4763184237/249-9767057-8485143
や「ユダヤ人大富豪の教え」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4479790764/249-9767057-8485143
を書いた本田健さんなので、多少は気にはしてた本だったのですが、タイトルがあまりに軽くて敬遠していたんですね。
ただ先日、たまたま、この「一瞬で自分を変える法」の続編である「一瞬で「自分の夢」を実現する法」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/483795684X/249-9767057-8485143
が、いつもはあまり行かない書店にどーんと並んでいて、少し気になったので前作である、この「自分を変える法」を手にとってみた、という事なのであります。
読むまで、NLPの概念に沿って展開されている本だとは知らなかったのですが、いざ読み出すと、これがやたらと面白いんですねぇ。
「一瞬で自分を変える」などと書いてあるから眉唾に感じるわけですけど、でも実際、自分の感情というのは、回りの出来事に敏感に反応していて、一瞬一瞬変化し続けているわけです。
で、マイナス思考になるとか、物事を悪い方に考えるというのは、一種の「クセ」のようなもので、自分の中に悪いクセが何個も何十個も入っているというだけの話で、それをどんどん良く捉えるように書き換えてやれば良いわけです。
それは「悪い捉え方をした、その一瞬」にこそ修正の必要があるわけで、まさにタイトル通り「一瞬で自分を変える法」なんですね。これはなかなかに面白いです。
テクニックはいろいろ書いてありますが、その概念を学ぶだけでも役に立ちます。
良く言われる「コップ半分の水は、『半分しか入ってない』のか『半分も入っている』のかと、捉え方で意味がまったく変ってしまう」という話も、まさにNLPのテクニックそのものだったんですね。
この本、アメリカでの初版がなんと1986年でして、20年も前の本なんですよ。「そうかぁ、こういう事を、すでに20年も前からやってたのか」と感慨深いものがあります。
日本では、NLPのいろいろなテクニックのわかりやすいところだけが、いろんな書籍のいろんな部分に掲載されたりしてきたって事なんだろうなという気がしました。
それに、テクニックだけではダメなんですよね。NLPの技法は汎用的に役立つけど、それらはあくまでテクニックで、個別事情に応じて最適のテクニックを活用してくれるようなカウンセラーにつかないと、あまりに深く根付いてしまった「クセ」には難しいのかも知れないし、やはりNLPに長けたカウンセラーにつくのが、ベストなんでしょうけど、でも、この書籍に紹介されているテクニックや考え方を知るだけでも、そうとうに面白いのです。
たとえば、自分の悪いクセの解消に、悪いクセの原因行動と、それが解消されてうまく行くようになった自分のイメージとをワンセットでイメージする手法、なんていうのは「あ!なるほど!」と目ウロコでした。
悪いクセを持っているという事を、逆に力として利用するわけですね。悪い考え方や行動が出てきた時に、理想の姿もセットで思い出すようにイメージングして、で、頭のスクリーンの中で悪いクセを縮小し、良いクセを拡大する。で、その良い状態をしっかりと味わう。(どれだけ臨場感を持って味わうかがポイントなようですね。色・匂い・音などなど。)
これだけでも相当に現実的に役立つテクニックであります。
すでに自分がアルコール依存症になりかけているという人が、飲みたいなと思った瞬間に、二日酔いではない、快適な目覚めをイメージするようにセットしておくとかね。こういう「瞬間」を日々積み重ねて、イメージ練習していく、というものなわけです。
これはあくまでテクニックのひとつではありますけど、発想として、ものすごく新鮮でした。悪癖の力を逆に活用させてしまうわけですから。実に面白い。
まぁもちろん、これは自分の悪癖を自覚してないと、全然効果がないテクニックで、酒を飲む事自体を問題視してない場合には役に立たないわけですけど、その場合でも「何が嫌で、どうなりたいか」というのは、みんな考えてるわけで、その「嫌」と「ありたい自分」をワンセットでイメージングすれば、かなり効果があるって事ですわ。
これねぇ、ブラインドタッチの練習とそっくりなんですよね。実は一時期ブラインドタッチの練習ソフト(シェアウェア)の開発をやってた時期がありまして、いろいろ調べてたんですが、練習する過程で、「苦手なキー」というのが出てくるんです。「Y」とか「?」はかなり打ちにくく感じたりします。でも、その時、「Y」とか「?」を打つ練習したらダメなんですよね。そうではなくて、打ちやすいキーを、もっと素早く正確に打てるようにする。つまり、苦手キー以外の能力をもっと磨く、という事をするのです。これが正解なんですね。
なんでかというと、キーの数は決まってますから、他のキーが完全に打てるようになったら、苦手キーは「それら得意キーとは異なる指の動かし方をするキー」として、必然的に間違わなくなるからなわけです。
たとえば、「Y」は、たいてい「U」と打ち間違うんです。あるいは「T」とか。それなら「U」や「T」を正確に練習すれば、「そうではない打ち方がYだ」と必然的に体が覚えてくれるんですね。
これと結局は同じ事だなぁと思うのです。一日は24時間ですから、「良いことを考える時間」を増やせば、嫌でも「悪く捉えてしまう時間」は減っていくわけです。だから得意な所を、うまく伸ばせば良い訳です。
まぁ実際には、こういうテクニックだけでは「良い生き方」が身に付くわけでもないのだろうとは思いますが、アダルトチルドレンの概念だけでは、どうにもうまくいかないなぁという部分も多々ありましたので、僕的には大発見だったのでありますよ。
特に、ここをご覧になっている方には、けっこう面白い書籍かもしれませんなぁと思ってご紹介した次第であります。ご一読あれ。
粗食のすすめ (新潮文庫)
2007年11月10日 読書
ISBN:4101056218 文庫 幕内 秀夫 新潮社 2003/04 ¥500
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4101056218/249-9767057-8485143
今年は健康な生活というのが自分にとって重要なテーマになっていて、毎日1万歩歩くとか、食べる量を減らしてダイエットするとか、いろいろやっております。
まぁおかげさまで、7キロほど痩せてちょうどいい感じかなとは思ってるわけですが、テレビや新聞などでの、最近の食に関する話題を聞いていて、すごくおかしな気分になってしまいます。
たとえば、赤福の話とかで言うと、まぁ赤福自体、僕はけっこう好きで、ちょくちょく買っては食べてたわけです。
で、その原材料名とか見ると「小豆、餅粉、砂糖」だったかな? それはもう、ものすごくシンプルで添加物のたぐいが全然入ってなかったわけですよ。
まぁ、比較的、良心的な商品とは言えるんですね。
でも、あんこのついた餅に関して言うと、好きな人なら知っていると思いますが、おいしいのは一日だけです。
たぶん浸透圧の関係で一日以上経つと餅がかたくなってしまってぜんぜんおいしくなくなってしまうんです。
これは別に、腐ったとかなんとか、そういう「食えない・危険」な状態になったわけではないのですが、まぁ商品としては、もう全然ダメって事になるわけです。
こんな餅のかたくなった商品を店頭に並べていたら、「まずい餅だ」という事で会社が潰れてしまう。
だから「賞味期限」というものが設定されていて、「これを過ぎて食べたら、おいしさは保証しまへんで。」という事なわけです。
このあたりの「賞味期限問題」はやたらと最近話題になってますが、ようは賞味期限というのは「おいしさ」の問題で食の安全とか健康とかとは、ちょっとまた違う話なんですね。
でも、たとえばエッセイストの神足裕二とかは、「昔は匂いをかいで食えるかどうか自分で判断してたものだ。自分の体で判断せよ。」とか言う話をする。いやまぁ意見としては、すごく正しいと思うんだけど、なんか問題の本質から遠ざかってるような気がするわけです。
お菓子としてのアンコ餅や大福のたぐいなんて、大量生産されているものなら、各種の増粘多糖類とかで、「何日たっても柔らかい餅」のものが、赤福の半値以下でスーパーに並んでるわけです。
そういう薬だらけの餅は、たぶん匂いをかいでも古いかどうかわからないし、そういう餅をまた、平気でみんな食べてるわけですよ。
そういう僕だって、もともとアンコ類が好きなこともあって、けっこう食ってるわけです。
このあたりの食品添加物の話に関しては、
食品の裏側―みんな大好きな食品添加物 (単行本)
安部 司 (著)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4492222669/249-9767057-8485143
が事情をよく表していて、すごく面白かったんです。ずーっと売れてますよね、この本。
だから、そんな事を考えていくと、赤福はけっこう「まし」な存在なんです。
でも、しかし!
本当の問題は、実はそんなところにはないわけです。
問題の本質は、「なんで、甘いお菓子をそんなに欲しがるのか?」ってところにある。
何より、もっと問題は、「上白糖くらいまで、精製してしまった白い砂糖なんて、実は薬物と同じなんじゃないの?」という、本質的な問題があるわけですよ。
これは、あんまり世間で問題にはしませんわね。
だって「砂糖」なんて、普通に料理で使ってるし。
ねぇ?
でも、正直、赤福を食べる時でも、僕は「この砂糖、というもの自体が大問題なんだよなぁ。」と思いつつ食べていたわけです。
黒糖とかなら、まぁ良いのですが、砂糖はかなり問題だと思うのですよね。
なんていうのかな、砂糖を口にすると、食に対する自分の欲求そのものが狂ってしまう感覚を覚えるのです。
やたらと何個も赤福を食べたくなるとかですね、あるいはお茶が欲しくてしょうがなくなるとかです。
「おいしくて、つい、もう一個食べちゃうのよね」とか、「おまんじゅうにはお茶が良くあうのよ。」とか、普通に言ってるけど、どうもそれは違うんじゃないか? って思えてきたんですね。
それは砂糖の中毒症状なだけなんじゃないか? って。
いやまぁ、ここまで言い切ってしまうと問題発言になってしまうんでしょう、多分。でもやっぱり、あまりに精製度の高い食品というのは、「おかしい」と思ったほうがいいんだと思うのです。
化学調味料だって、サトウキビからできてるから自然由来の製品だ、とか無茶な事を言ってたりするけど、精製度を高めてしまったら、なんだって薬剤と一緒ですわなぁ。
塩だって、電気的に取り出す方法だと、ほとんど塩化ナトリウムであって、にがり分のない不自然な「薬剤」だと考えてもおかしくはないと思う。
で、です。
こういう「精製度が高すぎる」って事の根本はどこから来たのか?って事を考えていくと、ようは「白米」に行き着くんですよね。
玄米を精製したものが白米ですから。
で、やっと、この表題の本の幕内さんの話になるんですが、この方は、精製して落としてしまったヌカの部分に、どんな微量元素が入っていたのかを人間はまだ発見してないんじゃないのか? みたいな事を言っておられるわけです。
ビタミンがどうとか言うけど、それはたまたま人間が発見したから名前がついてるだけで、もっと大事なものを失ってしまってるのかも知れないわけです。
その代表例が繊維質ね。繊維質なんて不要なものだと思われていたんだけど、実はこれが、体内の余分なものを掃除してくれる重要な機能を持っていて、そういう機能の大切さを発見したのは、つい最近なんだって話ですわね。
そういう具合に考えていくと、昔ながらの玄米食とか、あるいは3分つき、5分つきのお米、あるいは、胚芽米とかをキチンとたべて、それにわずかな野菜と魚を中心とした少量の動物性タンパク質があれば、健康維持には問題がないはずだ、としてるわけです。
昔からの伝統食は、その地域の人間の体にあった食べ物で、それで、その地域の人種が種族を長らえさせてきたのだから、そこに重要な知恵があるはずだ、という考え方をされてるわけです。
これにねぇ、僕は大賛成なんですよ。
なんちゅか「おいしい」ものを食べるとか、すごくウソくせぇ!って思うわけです。砂糖にしろ化学調味料にしろ、そういうものに慣れてしまった体が「おいしい」と思う感覚こそが、実は「薬剤依存の中毒体質」なのではないか? って思う。
不自然なものを「おいしい」と勘違いする生活に、日本人は慣れすぎたんじゃないか? って思うんですね。
だから、こと食に関しては、僕は「おいしさ」をベースにした考え方は、あまり重視しない事にしてるんです。「ほんとうのおいしさとは何か?」なら考えるけど。
幕内さんのたとえ話で面白いのは、「日本人が欧米風の食生活をするのは、石炭ストーブに石油を入れるようなもの」というくだりですね。
伝統的な食生活(=石炭)をしていれば、キチンとカロリーも燃焼されるけれど、石炭ストーブに石油(パンや肉類など)を入れてるから不完全燃焼を起こしていて、うまく燃えない状態になって太ってしまうと。
食物繊維や、まだ発見されていないかも知れない微量元素やらはストーブで言うなら「空気」みたいなもので、(実際ビタミンB2とかはタンパク質の吸収に関わる栄養素ですから、説明として合理的です。)そういう微量元素も適量に取るべきだと。
で、そういう微量元素を「主食」以外で取るから、たくさんの量が必要になって、ストーブの中で空気も足りず、不完全燃焼になってしまう、体に残るっていう悪循環になっていく、という話です。
キチンとご飯でカロリーを補給していれば、ちゃんと燃えていくのに、ご飯を押さえて副食でバランスを取ろうとするから、肉も食い、油を取り、砂糖を取りというところへ行ってしまうんだということですね。
子供や若い人には、まず主食たるご飯をちゃんと食べさせなさいと。そうすれば、カロリーが足りて、甘いものを欲しがったりはしないと。まず、そこが間違ってるんだって話なんですね。
この本を読んで、僕なりにすごく実感したのは、「●●健康法」とか言って、そういうのを読んだとたんに「●●」ばっかり食べて、他を食べない人って言うのが続出するじゃないですか?
あれって結局「これさえ食べておけば大丈夫」という完全食品を求めてる行動ですよね? で、その発想そのものが、考えたらすごくおかしいと思いません? なんで「これさえ食べとけば大丈夫」というような超偏り思考に、「みんな」がなるのか?
ふと思ったんですが、それって「米」の事と違うの?
みんな「米」を求めて「これさえ食っておけば大丈夫」思想を無意識に発動させてるんと違うの?って思うわけです。
結局、日本人という体に、そういう文化が染みついてるんだと思うわけですよ。
で、おそらく「白米」ではない、玄米とか胚芽米とかは、そういう「完全食」に近い存在なんでしょう。日本人にとっては。
だって「主食」と「副食」という考え方自体が、日本独特の考え方なんだもん。
お米は水田の技術で、同じ田んぼで毎年米を作れるけど、麦はそういうわけにはいかないのよな。連作障害が起きるから。だから、「ずーっとパンばっかり食う」とかができないわけですよ、欧米の環境では。
で、しょうがないから肉を食ったり、そのほかの食材で穴埋めしてるわけ。地域ごとで、食文化は違っていて当たり前だって話です。
こういう大前提から、キチンと考えないとダメよなぁって、つくづく思うのです。
あんまり長々書くのもあれなので、このあたりでやめますが、食に関しては1980年あたりだったか、アメリカで出た「マクガバン報告」ってのがあって、この報告に触れてない書籍は、基本的には信用しないというのが僕のスタンスなんですが、さすがにこの本ではそういうところはキチンと押えてる。さすがです。
牛肉の狂牛病騒ぎの時にも「全頭検査しないとダメだ」とか、「国産ならいい」とか、「オーストラリアの牛ならいい」とか、いろいろ言ってた人がわんさといたけど、もっと大事なことは、「肉なんか食っていて良いのか?」っちゅう話なわけですよ。
牛乳も最近すごく人気が落ちましたよね。やっぱり牛乳なんて、日本人の体にあんまり合ってないんだと思うよ、それは。たぶん。
もっともっといろいろ紹介したい内容がわんさと入っていて、すごく良い本でして、いろいろ書きたいのですが、まぁ、ここまで。文庫だし、多くの方に読んでいただきたいと僕は思いました。
で、この本をどこで知ったかというと、食とは全然関係ない「年収10倍アップ時間投資法」(勝間和代・著)だったりするわけですよ。
だから本は多読しないといけないんですね。
どこにどんな基礎的な良書の紹介があるやらわかったもんじゃないから。いやほんと。
こんなに良い本があるなんて、ちーとも知らなかったもの。私。
多読しないと、こういう本にはなかなか出会えないっていうのが、これまたこの国の不幸なところよなぁ。
うーむ。
まぁそんなことで。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4101056218/249-9767057-8485143
今年は健康な生活というのが自分にとって重要なテーマになっていて、毎日1万歩歩くとか、食べる量を減らしてダイエットするとか、いろいろやっております。
まぁおかげさまで、7キロほど痩せてちょうどいい感じかなとは思ってるわけですが、テレビや新聞などでの、最近の食に関する話題を聞いていて、すごくおかしな気分になってしまいます。
たとえば、赤福の話とかで言うと、まぁ赤福自体、僕はけっこう好きで、ちょくちょく買っては食べてたわけです。
で、その原材料名とか見ると「小豆、餅粉、砂糖」だったかな? それはもう、ものすごくシンプルで添加物のたぐいが全然入ってなかったわけですよ。
まぁ、比較的、良心的な商品とは言えるんですね。
でも、あんこのついた餅に関して言うと、好きな人なら知っていると思いますが、おいしいのは一日だけです。
たぶん浸透圧の関係で一日以上経つと餅がかたくなってしまってぜんぜんおいしくなくなってしまうんです。
これは別に、腐ったとかなんとか、そういう「食えない・危険」な状態になったわけではないのですが、まぁ商品としては、もう全然ダメって事になるわけです。
こんな餅のかたくなった商品を店頭に並べていたら、「まずい餅だ」という事で会社が潰れてしまう。
だから「賞味期限」というものが設定されていて、「これを過ぎて食べたら、おいしさは保証しまへんで。」という事なわけです。
このあたりの「賞味期限問題」はやたらと最近話題になってますが、ようは賞味期限というのは「おいしさ」の問題で食の安全とか健康とかとは、ちょっとまた違う話なんですね。
でも、たとえばエッセイストの神足裕二とかは、「昔は匂いをかいで食えるかどうか自分で判断してたものだ。自分の体で判断せよ。」とか言う話をする。いやまぁ意見としては、すごく正しいと思うんだけど、なんか問題の本質から遠ざかってるような気がするわけです。
お菓子としてのアンコ餅や大福のたぐいなんて、大量生産されているものなら、各種の増粘多糖類とかで、「何日たっても柔らかい餅」のものが、赤福の半値以下でスーパーに並んでるわけです。
そういう薬だらけの餅は、たぶん匂いをかいでも古いかどうかわからないし、そういう餅をまた、平気でみんな食べてるわけですよ。
そういう僕だって、もともとアンコ類が好きなこともあって、けっこう食ってるわけです。
このあたりの食品添加物の話に関しては、
食品の裏側―みんな大好きな食品添加物 (単行本)
安部 司 (著)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4492222669/249-9767057-8485143
が事情をよく表していて、すごく面白かったんです。ずーっと売れてますよね、この本。
だから、そんな事を考えていくと、赤福はけっこう「まし」な存在なんです。
でも、しかし!
本当の問題は、実はそんなところにはないわけです。
問題の本質は、「なんで、甘いお菓子をそんなに欲しがるのか?」ってところにある。
何より、もっと問題は、「上白糖くらいまで、精製してしまった白い砂糖なんて、実は薬物と同じなんじゃないの?」という、本質的な問題があるわけですよ。
これは、あんまり世間で問題にはしませんわね。
だって「砂糖」なんて、普通に料理で使ってるし。
ねぇ?
でも、正直、赤福を食べる時でも、僕は「この砂糖、というもの自体が大問題なんだよなぁ。」と思いつつ食べていたわけです。
黒糖とかなら、まぁ良いのですが、砂糖はかなり問題だと思うのですよね。
なんていうのかな、砂糖を口にすると、食に対する自分の欲求そのものが狂ってしまう感覚を覚えるのです。
やたらと何個も赤福を食べたくなるとかですね、あるいはお茶が欲しくてしょうがなくなるとかです。
「おいしくて、つい、もう一個食べちゃうのよね」とか、「おまんじゅうにはお茶が良くあうのよ。」とか、普通に言ってるけど、どうもそれは違うんじゃないか? って思えてきたんですね。
それは砂糖の中毒症状なだけなんじゃないか? って。
いやまぁ、ここまで言い切ってしまうと問題発言になってしまうんでしょう、多分。でもやっぱり、あまりに精製度の高い食品というのは、「おかしい」と思ったほうがいいんだと思うのです。
化学調味料だって、サトウキビからできてるから自然由来の製品だ、とか無茶な事を言ってたりするけど、精製度を高めてしまったら、なんだって薬剤と一緒ですわなぁ。
塩だって、電気的に取り出す方法だと、ほとんど塩化ナトリウムであって、にがり分のない不自然な「薬剤」だと考えてもおかしくはないと思う。
で、です。
こういう「精製度が高すぎる」って事の根本はどこから来たのか?って事を考えていくと、ようは「白米」に行き着くんですよね。
玄米を精製したものが白米ですから。
で、やっと、この表題の本の幕内さんの話になるんですが、この方は、精製して落としてしまったヌカの部分に、どんな微量元素が入っていたのかを人間はまだ発見してないんじゃないのか? みたいな事を言っておられるわけです。
ビタミンがどうとか言うけど、それはたまたま人間が発見したから名前がついてるだけで、もっと大事なものを失ってしまってるのかも知れないわけです。
その代表例が繊維質ね。繊維質なんて不要なものだと思われていたんだけど、実はこれが、体内の余分なものを掃除してくれる重要な機能を持っていて、そういう機能の大切さを発見したのは、つい最近なんだって話ですわね。
そういう具合に考えていくと、昔ながらの玄米食とか、あるいは3分つき、5分つきのお米、あるいは、胚芽米とかをキチンとたべて、それにわずかな野菜と魚を中心とした少量の動物性タンパク質があれば、健康維持には問題がないはずだ、としてるわけです。
昔からの伝統食は、その地域の人間の体にあった食べ物で、それで、その地域の人種が種族を長らえさせてきたのだから、そこに重要な知恵があるはずだ、という考え方をされてるわけです。
これにねぇ、僕は大賛成なんですよ。
なんちゅか「おいしい」ものを食べるとか、すごくウソくせぇ!って思うわけです。砂糖にしろ化学調味料にしろ、そういうものに慣れてしまった体が「おいしい」と思う感覚こそが、実は「薬剤依存の中毒体質」なのではないか? って思う。
不自然なものを「おいしい」と勘違いする生活に、日本人は慣れすぎたんじゃないか? って思うんですね。
だから、こと食に関しては、僕は「おいしさ」をベースにした考え方は、あまり重視しない事にしてるんです。「ほんとうのおいしさとは何か?」なら考えるけど。
幕内さんのたとえ話で面白いのは、「日本人が欧米風の食生活をするのは、石炭ストーブに石油を入れるようなもの」というくだりですね。
伝統的な食生活(=石炭)をしていれば、キチンとカロリーも燃焼されるけれど、石炭ストーブに石油(パンや肉類など)を入れてるから不完全燃焼を起こしていて、うまく燃えない状態になって太ってしまうと。
食物繊維や、まだ発見されていないかも知れない微量元素やらはストーブで言うなら「空気」みたいなもので、(実際ビタミンB2とかはタンパク質の吸収に関わる栄養素ですから、説明として合理的です。)そういう微量元素も適量に取るべきだと。
で、そういう微量元素を「主食」以外で取るから、たくさんの量が必要になって、ストーブの中で空気も足りず、不完全燃焼になってしまう、体に残るっていう悪循環になっていく、という話です。
キチンとご飯でカロリーを補給していれば、ちゃんと燃えていくのに、ご飯を押さえて副食でバランスを取ろうとするから、肉も食い、油を取り、砂糖を取りというところへ行ってしまうんだということですね。
子供や若い人には、まず主食たるご飯をちゃんと食べさせなさいと。そうすれば、カロリーが足りて、甘いものを欲しがったりはしないと。まず、そこが間違ってるんだって話なんですね。
この本を読んで、僕なりにすごく実感したのは、「●●健康法」とか言って、そういうのを読んだとたんに「●●」ばっかり食べて、他を食べない人って言うのが続出するじゃないですか?
あれって結局「これさえ食べておけば大丈夫」という完全食品を求めてる行動ですよね? で、その発想そのものが、考えたらすごくおかしいと思いません? なんで「これさえ食べとけば大丈夫」というような超偏り思考に、「みんな」がなるのか?
ふと思ったんですが、それって「米」の事と違うの?
みんな「米」を求めて「これさえ食っておけば大丈夫」思想を無意識に発動させてるんと違うの?って思うわけです。
結局、日本人という体に、そういう文化が染みついてるんだと思うわけですよ。
で、おそらく「白米」ではない、玄米とか胚芽米とかは、そういう「完全食」に近い存在なんでしょう。日本人にとっては。
だって「主食」と「副食」という考え方自体が、日本独特の考え方なんだもん。
お米は水田の技術で、同じ田んぼで毎年米を作れるけど、麦はそういうわけにはいかないのよな。連作障害が起きるから。だから、「ずーっとパンばっかり食う」とかができないわけですよ、欧米の環境では。
で、しょうがないから肉を食ったり、そのほかの食材で穴埋めしてるわけ。地域ごとで、食文化は違っていて当たり前だって話です。
こういう大前提から、キチンと考えないとダメよなぁって、つくづく思うのです。
あんまり長々書くのもあれなので、このあたりでやめますが、食に関しては1980年あたりだったか、アメリカで出た「マクガバン報告」ってのがあって、この報告に触れてない書籍は、基本的には信用しないというのが僕のスタンスなんですが、さすがにこの本ではそういうところはキチンと押えてる。さすがです。
牛肉の狂牛病騒ぎの時にも「全頭検査しないとダメだ」とか、「国産ならいい」とか、「オーストラリアの牛ならいい」とか、いろいろ言ってた人がわんさといたけど、もっと大事なことは、「肉なんか食っていて良いのか?」っちゅう話なわけですよ。
牛乳も最近すごく人気が落ちましたよね。やっぱり牛乳なんて、日本人の体にあんまり合ってないんだと思うよ、それは。たぶん。
もっともっといろいろ紹介したい内容がわんさと入っていて、すごく良い本でして、いろいろ書きたいのですが、まぁ、ここまで。文庫だし、多くの方に読んでいただきたいと僕は思いました。
で、この本をどこで知ったかというと、食とは全然関係ない「年収10倍アップ時間投資法」(勝間和代・著)だったりするわけですよ。
だから本は多読しないといけないんですね。
どこにどんな基礎的な良書の紹介があるやらわかったもんじゃないから。いやほんと。
こんなに良い本があるなんて、ちーとも知らなかったもの。私。
多読しないと、こういう本にはなかなか出会えないっていうのが、これまたこの国の不幸なところよなぁ。
うーむ。
まぁそんなことで。
後退する事が、実は進歩だったりする。
2007年10月20日 読書
ISBN:4860641345 単行本 森沢 洋介 ベレ出版 2006/10 ¥1,890
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4860641345/249-9767057-8485143
5月から表題の書籍で英語の練習を続けております。
内容は中学英語の復習。
そらもう、ものすごく簡単。むずかしい単語なんかひとつも出てこない。
で、中学1年から3年までの基礎的な文法項目を一見開きに一項目、10個の例文を左に日本語、右にその英文という形でならべて、79見開きにまとめただけのものです。
まさに「中学校3年分の例文集」でしかありません。
(あ、もちろん全文の音源CDはついてますが。)
で、これをどうするかというと、左の日本文を見て、すぐさま右の英文が出てくるように、ひたすら練習、トレーニングするという、それだけであります。
それだけなんですけど、これがかなり難しい。文章を頭の中で組み立てるのに時間がかかるし、すらっとくちに出して言えない。頭では分かっていることを、口でスッと言えるようにするまでというのが大変なわけです。
もうね、ひたすら練習あるのみです。5月から毎日せっせと練習してますが、いつまで経っても終わりませんねぇ。5か月かかって、やっと半分を超えたあたりです。ひ〜っ! 大変だわ、これは。
一般動詞とbe動詞の使い分けなんか、いつまで経っても体に入らないことはなはだしいですな。do で言うべき所を is で言ってしまって、「どうすんねん!」ってなってつまるとか。そんなんばっかし。
しかし、半分を超えたところで、少し実感できる事がありました。
というのは、ウクレレとの関連性を感じてきたのであります。
なんちゅうかね、ギターやウクレレのコード(和音)を覚えるのと、ちょっと似てるかもなぁって。
ウクレレやらギターをやったことのある人なら分かると思うのですが、コードを弾くためには、複数の指を同時に弦の上に置いて和音を出さねばならないので、指の形をしっかりと体に覚えさせないとだめなわけです。
人差し指で押さえてる弦は、隣に中指で押さえてる弦があるわけですけど、指の形がちゃんとしてないと中指が人差し指で押さえている弦にあたってしまって、人差し指で押さえてる弦が鳴らない、なんてことが起こります。これは初心者はみんなやる失敗。
だから指の形をしっかり整えないとちゃんと音が出ないわけですが、その「形」に持って行くまでが大変なんですね、最初は。
中学の時にギターを買って、コードを覚えようと四苦八苦したことが昨日のように思い出されます。荘村清志さんがNHKでギター講座とかやっていて、必死に練習したものです。
でも、この指の形がキチンとできたからとて、それだけじゃ全然ダメなんですね。曲を弾くという場合は、この「キチンとした指の形」を、リズムに沿って、パシ!パシ!とチェンジしていかないといけない。
それはもう、考えるとかなんとかではなくて、リズムに合わせて指がヒョンヒョンと形を変えていかないといけないわけで、最初は「こんな曲芸みたいなことが出来るか!」とか思ったものです。
でも、それをやって弾いてる人がちゃんといてるわけですからねぇ。ようは自分が出来てないってだけの話で。いやホント。
で、この「瞬間英作文」を頭からやってると、自分がいかに「指の形を整える」ことすらできてなかったかが嫌でもわかる。
で、ちゃんと文法に沿った文章をスラッと言えるようになるためには、表題の文法項目を、ちゃんと文法の参考書とか読んで学習のし直ししないと、やっぱり納得して覚える事はできないんですね。なので、平行して文法の復習もして…。
そういや、ギターのコードを覚える時でも、和音の理論とか勉強したら、一気に覚えやすくなったもんなぁって思うわけです。トニック、ドミナント、サブドミナントとかの和音の種類ね。
あとマイナーコードとメジャーコードとか。
なので、いまやってるこの本の、自分のレベルが、ウクレレやギターで言えば、どのくらい低い位置であるのかというのが、ものすごーーーく良く分かってきた。
コードの指の形も、まだちゃんとできてないレベルやんかってことなんですけどね。
まぁ文章で書かれた英文とかなら、ゆっくり読めるから、まだマシなんですけど、でもそれでは、実戦ではまったく役に立ちませんしね。
結局、中学の時からいっこうに進歩してなかっただけってことなんですけどね。
で、表題に戻るのです。
●後退する事が、実は進歩だったりする。
です。
というのは、もう10年も前に一念発起して英語を身につけよう!と思い立ちまして、それで最初に手を出したのが、天声人語の英語版だったのですね。
英語が苦手で苦手でどうしようもなかったから、とにかく急いで追いつかねば、という気持ちがあって、新聞とかで普通に出てくる単語から言い回しから、どんどん身につけていかねば、とか思ったわけです。
でも当時は「it の複数形は it’s ?」というレベルだったわけで、まぁ、手始めの教材としてはとんでもなく高尚すぎたわけですよ。
で、その後、初心者向きの教材にどんどんレベルを下げていったのですが、本当に中学レベルの復習は流す程度で、またすぐに単語の暗記とか、文章課題の読み解きとか、そっちに走ってたわけで。
で、その変転変化の歴史をたどると、もう正直、
●実務英語レベル
↓
●大学受験レベル
↓
●高校の授業レベル
↓
●中学の授業レベル
という具合にやってる課題がどんどん後退してきてるのですよ。
「これやってみよ! んん? あれ? 難しいな。どうしよ。ちょっとレベル下げてみよか。」
というのを半年から1年単位くらいでやってきた感じですね。
で、何年もかけて、課題を下げてきた。
まさにアホです。
それなら最初から基礎からキチンとやっとけよって話なんですね。
でも、基礎は時間がかかるんです。だから、ついすっ飛ばしてしまう。できてないのに、できてることにしてしまうんです。それで何年も何年もムダにすることになります。
本当に賢い人は、多少時間がかかっても、基礎を徹底的にやるんでしょうね。それが一番の近道だということをよく知っている。
「Cのコードは、こことここを押さえたらいいんでしょ、知ってるよ。」
なんて言うのは知識として知ってるだけで、それはもう、何の役にも立たない。パッ、パッとコードチェンジができて、なおかつ全弦の音がちゃんと鳴ってないと音楽にすらなっていないって事です。
やっぱり基礎なんですね。
実務英語より、中学英語。
走るより、歩く。
基礎を身につけるために、簡単な事を嫌と言うほどやらなくてはいけない。もう、出来た! と思ったところから、もう一度定着のために10回繰り返してやっておくという、そういう執念深さが必要なわけです。
しつこく、しつこく、しつこく、しつこく基礎なんですね。やっぱり。どこまで行っても基礎。ひたすら基礎。何があっても基礎。そのくらいで行かないといけない。
この本、いまの調子で行くと、終わるのは来年の1月くらいになりそうなんですけど、いまはそれを遅らせてでも、もう一度復習のために、この本の最初の方から苦手なところをもう一回おさらいしていこうかなと思ってるくらいです。
-------------------------------
で、そういうスキル習得について、ちょっと、別の勉強法の本を読んでいて、「ああ、それはあるかもなぁ」と思ったのが、TVゲームの悪影響の話なのです。
テレビゲームばっかりやってると、スキル習得のこらえ性が身に付かなくなるのではないか? という批判なんですね。
前に、「ゲーム脳の恐怖」とか、まるっきり検討違いで、検証性すらない、パァなゲーム批判がありましたが、ああいうゲーム批判ではなくて、「この意見には一理あるなぁ」と思った批判が、
●ゲームの主人公は、あまりにお手軽にレベルアップしすぎる。しかし、現実のスキル習得はそんなに簡単ではない。そこが問題だ。
と言う点なんですね。
TVゲームやビデオゲームであまりに簡単に「レベルアップの快感」になれてしまうと、現実のスキル習得の単調で時間のかかるところを耐えて身につけて行くという事ができなくなってしまうのではないか? という指摘なんですが、これ、当たってると思うのですよね。
その言葉を言った人曰く、
●現実のスキル習得に挫折して、またゲームのレベルアップのお手軽さに逃げるというゲーム依存体質になってしまう。
との事でした。
ああ、言えてる!!
すごく言えてる!
って思うのです。
僕はゲーム好きではあるんですけど、ゲームオタクとどうも肌が合わないのは、このあたりの違いなんですね。
ゲームばっかりして、全然勉強しない人間っていうのが、よくわからない。
ゲームでスキルアップの面白さを体感したら、その感覚を現実社会にも応用して、学習することで武器をレベルアップしてヒットポイントを上げようとか考えたら、人生面白くなるのにって思うんですが、そういう健全な「ゲームの応用」に行かないんですよね、ゲームオタクは。ひたすらテレビゲームをしてるだけで。
それはなぁ、違うよなぁって思うんですが。
ビデオゲームなんて、まぁひと月もあれば、ゲームクリアに必要な「スキル」なんて身に付いてしまいます。で、その「スキル」は、ゲームの中だけでしか役に立ちませんからな。ああ、もったいない。
面白いゲームは楽しめばいいと思うんだけど、次から次にゲームしてるってのは、やっぱり僕はおかしいと思うんですけどねぇ。
どうなんやろ。ゲームは本当に面白いと思えるものだけ遊べば、それで充分ですわ。僕は。
--------------------
という事で、この本一冊終えるのに、10か月では無理という感じになってきてるんですが、実は、この本には続刊として
「スラスラ話すための瞬間英作文シャッフルトレーニング 」
という本も出てまして、これも練習する予定なんですよね。そうなると、この2冊をやるだけで20か月以上かかることになるので、丸二年を費やすことになります。
うげー。膨大な時間だなぁ。うーむ。
でもウクレレでの学習過程をあてはめると、まぁそのくらいかかって当たり前なんだよね。しゃーないわな。
という事でテレビゲームもテレビを見る事も、ちょっと控えて、ひたすら練習の日々ですな。
うむ。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4860641345/249-9767057-8485143
5月から表題の書籍で英語の練習を続けております。
内容は中学英語の復習。
そらもう、ものすごく簡単。むずかしい単語なんかひとつも出てこない。
で、中学1年から3年までの基礎的な文法項目を一見開きに一項目、10個の例文を左に日本語、右にその英文という形でならべて、79見開きにまとめただけのものです。
まさに「中学校3年分の例文集」でしかありません。
(あ、もちろん全文の音源CDはついてますが。)
で、これをどうするかというと、左の日本文を見て、すぐさま右の英文が出てくるように、ひたすら練習、トレーニングするという、それだけであります。
それだけなんですけど、これがかなり難しい。文章を頭の中で組み立てるのに時間がかかるし、すらっとくちに出して言えない。頭では分かっていることを、口でスッと言えるようにするまでというのが大変なわけです。
もうね、ひたすら練習あるのみです。5月から毎日せっせと練習してますが、いつまで経っても終わりませんねぇ。5か月かかって、やっと半分を超えたあたりです。ひ〜っ! 大変だわ、これは。
一般動詞とbe動詞の使い分けなんか、いつまで経っても体に入らないことはなはだしいですな。do で言うべき所を is で言ってしまって、「どうすんねん!」ってなってつまるとか。そんなんばっかし。
しかし、半分を超えたところで、少し実感できる事がありました。
というのは、ウクレレとの関連性を感じてきたのであります。
なんちゅうかね、ギターやウクレレのコード(和音)を覚えるのと、ちょっと似てるかもなぁって。
ウクレレやらギターをやったことのある人なら分かると思うのですが、コードを弾くためには、複数の指を同時に弦の上に置いて和音を出さねばならないので、指の形をしっかりと体に覚えさせないとだめなわけです。
人差し指で押さえてる弦は、隣に中指で押さえてる弦があるわけですけど、指の形がちゃんとしてないと中指が人差し指で押さえている弦にあたってしまって、人差し指で押さえてる弦が鳴らない、なんてことが起こります。これは初心者はみんなやる失敗。
だから指の形をしっかり整えないとちゃんと音が出ないわけですが、その「形」に持って行くまでが大変なんですね、最初は。
中学の時にギターを買って、コードを覚えようと四苦八苦したことが昨日のように思い出されます。荘村清志さんがNHKでギター講座とかやっていて、必死に練習したものです。
でも、この指の形がキチンとできたからとて、それだけじゃ全然ダメなんですね。曲を弾くという場合は、この「キチンとした指の形」を、リズムに沿って、パシ!パシ!とチェンジしていかないといけない。
それはもう、考えるとかなんとかではなくて、リズムに合わせて指がヒョンヒョンと形を変えていかないといけないわけで、最初は「こんな曲芸みたいなことが出来るか!」とか思ったものです。
でも、それをやって弾いてる人がちゃんといてるわけですからねぇ。ようは自分が出来てないってだけの話で。いやホント。
で、この「瞬間英作文」を頭からやってると、自分がいかに「指の形を整える」ことすらできてなかったかが嫌でもわかる。
で、ちゃんと文法に沿った文章をスラッと言えるようになるためには、表題の文法項目を、ちゃんと文法の参考書とか読んで学習のし直ししないと、やっぱり納得して覚える事はできないんですね。なので、平行して文法の復習もして…。
そういや、ギターのコードを覚える時でも、和音の理論とか勉強したら、一気に覚えやすくなったもんなぁって思うわけです。トニック、ドミナント、サブドミナントとかの和音の種類ね。
あとマイナーコードとメジャーコードとか。
なので、いまやってるこの本の、自分のレベルが、ウクレレやギターで言えば、どのくらい低い位置であるのかというのが、ものすごーーーく良く分かってきた。
コードの指の形も、まだちゃんとできてないレベルやんかってことなんですけどね。
まぁ文章で書かれた英文とかなら、ゆっくり読めるから、まだマシなんですけど、でもそれでは、実戦ではまったく役に立ちませんしね。
結局、中学の時からいっこうに進歩してなかっただけってことなんですけどね。
で、表題に戻るのです。
●後退する事が、実は進歩だったりする。
です。
というのは、もう10年も前に一念発起して英語を身につけよう!と思い立ちまして、それで最初に手を出したのが、天声人語の英語版だったのですね。
英語が苦手で苦手でどうしようもなかったから、とにかく急いで追いつかねば、という気持ちがあって、新聞とかで普通に出てくる単語から言い回しから、どんどん身につけていかねば、とか思ったわけです。
でも当時は「it の複数形は it’s ?」というレベルだったわけで、まぁ、手始めの教材としてはとんでもなく高尚すぎたわけですよ。
で、その後、初心者向きの教材にどんどんレベルを下げていったのですが、本当に中学レベルの復習は流す程度で、またすぐに単語の暗記とか、文章課題の読み解きとか、そっちに走ってたわけで。
で、その変転変化の歴史をたどると、もう正直、
●実務英語レベル
↓
●大学受験レベル
↓
●高校の授業レベル
↓
●中学の授業レベル
という具合にやってる課題がどんどん後退してきてるのですよ。
「これやってみよ! んん? あれ? 難しいな。どうしよ。ちょっとレベル下げてみよか。」
というのを半年から1年単位くらいでやってきた感じですね。
で、何年もかけて、課題を下げてきた。
まさにアホです。
それなら最初から基礎からキチンとやっとけよって話なんですね。
でも、基礎は時間がかかるんです。だから、ついすっ飛ばしてしまう。できてないのに、できてることにしてしまうんです。それで何年も何年もムダにすることになります。
本当に賢い人は、多少時間がかかっても、基礎を徹底的にやるんでしょうね。それが一番の近道だということをよく知っている。
「Cのコードは、こことここを押さえたらいいんでしょ、知ってるよ。」
なんて言うのは知識として知ってるだけで、それはもう、何の役にも立たない。パッ、パッとコードチェンジができて、なおかつ全弦の音がちゃんと鳴ってないと音楽にすらなっていないって事です。
やっぱり基礎なんですね。
実務英語より、中学英語。
走るより、歩く。
基礎を身につけるために、簡単な事を嫌と言うほどやらなくてはいけない。もう、出来た! と思ったところから、もう一度定着のために10回繰り返してやっておくという、そういう執念深さが必要なわけです。
しつこく、しつこく、しつこく、しつこく基礎なんですね。やっぱり。どこまで行っても基礎。ひたすら基礎。何があっても基礎。そのくらいで行かないといけない。
この本、いまの調子で行くと、終わるのは来年の1月くらいになりそうなんですけど、いまはそれを遅らせてでも、もう一度復習のために、この本の最初の方から苦手なところをもう一回おさらいしていこうかなと思ってるくらいです。
-------------------------------
で、そういうスキル習得について、ちょっと、別の勉強法の本を読んでいて、「ああ、それはあるかもなぁ」と思ったのが、TVゲームの悪影響の話なのです。
テレビゲームばっかりやってると、スキル習得のこらえ性が身に付かなくなるのではないか? という批判なんですね。
前に、「ゲーム脳の恐怖」とか、まるっきり検討違いで、検証性すらない、パァなゲーム批判がありましたが、ああいうゲーム批判ではなくて、「この意見には一理あるなぁ」と思った批判が、
●ゲームの主人公は、あまりにお手軽にレベルアップしすぎる。しかし、現実のスキル習得はそんなに簡単ではない。そこが問題だ。
と言う点なんですね。
TVゲームやビデオゲームであまりに簡単に「レベルアップの快感」になれてしまうと、現実のスキル習得の単調で時間のかかるところを耐えて身につけて行くという事ができなくなってしまうのではないか? という指摘なんですが、これ、当たってると思うのですよね。
その言葉を言った人曰く、
●現実のスキル習得に挫折して、またゲームのレベルアップのお手軽さに逃げるというゲーム依存体質になってしまう。
との事でした。
ああ、言えてる!!
すごく言えてる!
って思うのです。
僕はゲーム好きではあるんですけど、ゲームオタクとどうも肌が合わないのは、このあたりの違いなんですね。
ゲームばっかりして、全然勉強しない人間っていうのが、よくわからない。
ゲームでスキルアップの面白さを体感したら、その感覚を現実社会にも応用して、学習することで武器をレベルアップしてヒットポイントを上げようとか考えたら、人生面白くなるのにって思うんですが、そういう健全な「ゲームの応用」に行かないんですよね、ゲームオタクは。ひたすらテレビゲームをしてるだけで。
それはなぁ、違うよなぁって思うんですが。
ビデオゲームなんて、まぁひと月もあれば、ゲームクリアに必要な「スキル」なんて身に付いてしまいます。で、その「スキル」は、ゲームの中だけでしか役に立ちませんからな。ああ、もったいない。
面白いゲームは楽しめばいいと思うんだけど、次から次にゲームしてるってのは、やっぱり僕はおかしいと思うんですけどねぇ。
どうなんやろ。ゲームは本当に面白いと思えるものだけ遊べば、それで充分ですわ。僕は。
--------------------
という事で、この本一冊終えるのに、10か月では無理という感じになってきてるんですが、実は、この本には続刊として
「スラスラ話すための瞬間英作文シャッフルトレーニング 」
という本も出てまして、これも練習する予定なんですよね。そうなると、この2冊をやるだけで20か月以上かかることになるので、丸二年を費やすことになります。
うげー。膨大な時間だなぁ。うーむ。
でもウクレレでの学習過程をあてはめると、まぁそのくらいかかって当たり前なんだよね。しゃーないわな。
という事でテレビゲームもテレビを見る事も、ちょっと控えて、ひたすら練習の日々ですな。
うむ。
イメージ、妄想、心の態度。
2007年8月1日 読書 コメント (2)
ISBN:489451267X 単行本(ソフトカバー) 石井裕之 フォレスト出版 2007/06/27 ¥1,365
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/489451267X/249-9767057-8485143
この石井裕之さんの本は何冊読んだだろう? 6冊目か7冊目だと思う。
肩書きが「パーソナル・モチベーター」となっていて、なんじゃそりゃ? と思ってしまうのだけど、ようは「やる気をださせる人」って事ですね。
石井さんはもともとカウンセリングとかを本来の職業として持っている人で、多くの心を病んだ人、あるいはそこまで行かなくても引きこもりになってしまった人を社会復帰させたり、心の内面をサポートする仕事を本気でやっている人で、僕はとても好きな方です。
で、どの本も面白くて、人間関係における単純なテクニックとか、いろいろあるけれど、もう本当に、目からウロコという事が多いのです。
で、この「心のDNA」はどうかというと、これが「書籍としては」すごくつまらない。いや、いいこともたくさん書いてあるんだけど、いままでの著作に比べると格段に落ちる。
っちゅうか、内容的にはすごい事も書いてるんだけど(集合無意識の時代ごとでの変化の話とかはすごいと思う。)でも、新しすぎて、実例を実感できない僕には、いまひとつ迫って来ないのであります。
ところが!!
付録でついてるCDがいい!!
すごくいい!!
石井裕之さんの講演を、そのままCDに収めたものだけど、「71分で幸せになる話」と言って、ほんとに1時間10分くらいしかないんだけど、とっても良いのです。
僕はいろいろな意味で、涙が出て困りました。
数年前に仕事の上で発注してきた人と感情的なトラブルになって、少なく見積もっても数十万円という仕事の支払い拒否にあった事があるんですが、その時、もう怒りが収まらなかったのですね。どう考えても許せない。で、いつまでたっても、怒りが収まらない。
で、その時に、この「怒りがおさまらない自分」というものそのものが、とても悲しかったんですよ。
どうにも止らないわけです。あんまり怒ると、自分が苦しいだけなのに、なのに止らない。その止められない自分が悲しかった。自分の考え方や生き方があって、それを大切にしているから、理不尽な扱いをされると、どうしても許せなくなってしまうんですね。そういう偏狭な自分自身が悲しかったわけです。
でも実際、そういう時に、自分の心をどうコントロールすればいいのかが、さーーーーっぱりわからなかったんですが、前に紹介した「怒らないこと」という本で、ひとつの光明を感じ、「ああ、こういう心持ちになればいいのか!」という感覚を得てたのですが、今回のこの石井さんのCDで「憎しみを置く」というテクニックを得られたように感じたのです。
やっぱり深いよなぁ、石井さん。すごい。
あんまり中身を語ってしまうといけないので、このくらいにしておきますが、とにかくCDの方はもう、大収穫。これはいいなぁ。かなり感激してます。
で、この石井さんは言うのです。「考え方がすべてです。」と。悪い考えを持っている人は悪くなって行くし、良い考えを持っている人は良くなっていく。それは昨日・今日という短い期間では分らないけれど、5年とか10年とかのロングスパンでは、結果がはっきりと出てきてしまうそうです。
カウンセリングをしておられるから、極端に幸せになる人と、極端に不幸になる人の両方をサンプルとして見ておられて、だからこそ、その幸せと不幸を分ける「条件」がはっきりと分るんだそうです。
断言しておられるのは、不幸になる人は100%、誰かを憎んでいるのだそうです。自分で気付かずに憎んでいるかも知れないし、はっきりと自覚して憎んでいる場合もあるけれど、誰かを憎んでる人は、幸せになれない。100%断言できるそうです。
石井さんは仕事柄長期にカウンセリングをされる事もあるから、よけいにはっきりわかるんでしょうね。で、僕らのような普通人は、幸せになる要素と不幸になる要素が混ざり合ってしまってるから、そのあたりがはっきりとは見えないんだそうです。良いことを考えたり、悪いことを考えたりごちゃまぜなのが普通人なんだそうです。
だからつまり、幸せになるかどうかは、結局「考え方」が全てを決めるって事なんですね。
ああ、そうか、なるほどって思うわけです。
アダルトチルドレンの問題も同じ事なんですね。子供の頃に、親子関係で不満な出来事が起きたと。それを、子供の側が、「どう解釈したか」が重要なんです。親はあんまり深く考えてなかったかもしれないし、親の問題はまぁどうでもいいのですが、問題は子供の側です。
「いやな事」が親によって強制されたら、それは不幸な事なので、それを無理矢理「幸福な事」と、自分を騙して生きていくわけです。「だめんずうぉーかー」なんかもそうですわね。子供の頃に嫌な仕打ちを受けた、まさにそういう態度を持っている人を「好き」になってしまうという不幸。
これなんか、完全に「考え方」がおかしくなってるわけです。
いやな事はいやな事として、しっかり現実直視しないといけないんですね。でも、子供だからそれができなくて、自分の心の中で印象変換器を作り上げて、「悪い事でもなかった」とか「良い事だった」とか、無理矢理印象操作をしてしまうわけです。
それで全てをひっくり返して判断するとかしてしまう。そうやって、心の痛みから逃げてるわけですね。これは子供なんだから仕方ない。でも、結果として、大人になっても現実を直視できない心の態度になっちゃうと、これが大問題なわけです。
そういう現実をひん曲げて見るクセとか、考え方を持ってしまったら、そりゃ幸福になれるわけがないですわね。自分の心が痛むのを避けて、現実を素直に現実そのままとして読まないわけです。自分の妄想をこそ現実とみなして生きる。
でも、それは「現実を歪めて解釈」してるだけだから、そりゃ現実が思い通りにならないのは当たり前なんですよ。
ちょっと痛い思いをしてでも、現実をちゃんと直視すれば、現実を素直に現実のままに理解できるようになるので、自分の「考え」と現実が一致して、これは幸せになっていきます。
でも妄想でごまかすと、現実と自分の考えがズレが出てきて整合性が取れなくなって、また「妄想」の追加をするってことになっていくわけです。どんどん現実とのギャップが大きくなって、どんどん思いが実現しない、不幸な状況になっていく。
だから「妄想」で、勝手な解釈をするというのは、非常にまずいわけです。弓矢で、手元が二ミリずれたら、的のところで何メートルものズレになるように、長期の人生を考えると、この「妄想」はかなりまずい。
(でも、現実には妄想やイメージだけで物事を判断する人がものすごく多いんですけど。小泉君のイメージ戦略なんか、まさにそれですから。現実の問題を直視せずに「改革だぁ」というかけ声だけで、世の中をひっぱって行ってしまった。そら日本人が不幸になるのも当たり前だわ。)
前の彼女がケアマネをやっていて、お年寄りの生活をずっと見ていた人だったので、この「考え方のズレによる長期的不幸」という事を、実感を持って僕は感じるのです。
彼女曰く「人は生きたように、死ぬよ」って事なんです。生きたように死ぬんです。回りを大切にして生きた人は大切に看取られて死ぬし、回りに悪態をついてた人は看取られないだけでなく、たとえば、お風呂が大好きで、死ぬ前に体をきれいにしてあげようと介護してる人たちが思っていても、いろいろな事情から入れないままに亡くなってしまったとかね。そういう事になるんだそうです。それはもう見事に「生きてきたように、死ぬ」んだそうです。
これは、まさに「考え方がすべてです」という事を表しているのですね。
だから、現実を直視せずに「妄想」でごまかすってのは良くないんです。確かに現実を直視すると心は痛むけれど、そのちょっとの痛みに慣れて行くことが、弓矢の位置を二ミリ修正する事なんですね。
小さな痛みで済むものを、放置しておくと、後で修正するには、ものすごく大きな痛みを伴うという事も、おうおうにして起こります。
たとえるなら、虫歯の治療と同じですね。
虫歯というのは、基本、治りません。初期の軽いものなら、最近は人間の自己修復機能を活用して、薬だけで治すというのも出てきているけど、基本的に虫食いになったら削るしかない。だから大きくなる前に、小さいうちに削ってしまわないといけないんです。
心の態度も同じ事で、小さいズレをほったらかしにして、「妄想」でごまかす、なんて事をしてると、後の修正がどんどん大変になって行くのです。
で、石井さんは、「40くらいの大人になると、イメージしてから、それが実現するまでの時間が短くなってるはずです。」と言うのです。イメージから実現までの時間が短くなってると。で、だから悪いことを考えたら、悪いことが起きるまでのスパンも短くなってるんだとおっしゃる。
うむ。それは言えてるかもしれないと僕は思うのです。石井さんの言い方とはちょっと違うけれど、仕事においても、何事においても、ムダで効果のないやり方とかは最初から考えなくなってますからね。実現能力というものは、年齢が高くなるほどに高まるんだと思う。で、人間は無意識的に行動している部分も大きいから、悪いことを考えたら、それが実現するまでの時間も短くなってるだろうし、より大きな幸せや不幸を実現してしまう能力も身に付いてしまってるだろうと思う。
「僕の人生なんて、不幸だらけさ」と思えば、即刻不幸だらけの人生になるし、「なんて幸せいっぱいの人生なんだろう」と思えば即刻そうなる。というか、そうなるまでの時間が年々短くなっているってことですね。
で、だからこそと僕は思うのですよ。
結局、それは、子供の頃の二ミリのズレが、40くらいで一番大きくズレてきてるって事なんだろうなって。長年の蓄積で悪い方にも良い方にも実現能力が高まってしまっている。
そういう事に40代で気付いて、子供のころのサバイバルのために無理矢理「妄想」でごまかしてた部分を修正しないと、後半の人生が辛いのだろうと。
ミッドライフクライシスとか40代の危機とかの話もけっこうこの日記では書いてきたと思うのですが、ようは、そういう事なんだと思う。
考え方がすべて。
妄想が人生を誤らせる。
痛みは小さいうちに対処すべし。
人間は生きてきたように死ぬ。
って事だと思うのですよ。人間をイメージで判断しちゃいけません。内容で見るのです。他人を揶揄したりせずに、幸せを願うのです。みんなが幸せになってくれたらいいなって思う。ほんとに。
僕は、まだまだ人間ができてないので、「許し」とかはできないけれど、まぁ「怒りを置く」くらいはやれるようになってきたし、(自分の中に怒りや憎しみがあるのだと、気づけないという人も多いです。そういう人は、まずそっちを先にやらないとダメです。自分の心の溝掃除が先。順番は間違えないように。)世の中すべての人の幸せを願うほどの強力なイメージ力はまだまだ身に付いてないけれど、少なくとも身の回りの友人や仕事仲間、近親者の幸せについては、ほんとうに心から願えるようになってきました。
ほんと。幸せになって欲しいよなぁって思うんです。不幸な状態っていうのは、本当に辛い。本当に辛いんんです。で、本当に辛いから「感じない」ようにしてる人も多いんだよなぁ。
そういう人には「痛いだろうけど、感じて!自分の痛みを感じて!」って言いたい。それを避けると、よけいにズレが大きくなるだけだから。
虫歯治療を好きって人はいてないもんなぁ。
でも全部治療が済んだら、あとは定期検診だけでなんとかなるんだし。とにかく、そっちの方向に行く事を考えないと人生辛いだけだと思う。
ほんとに。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/489451267X/249-9767057-8485143
この石井裕之さんの本は何冊読んだだろう? 6冊目か7冊目だと思う。
肩書きが「パーソナル・モチベーター」となっていて、なんじゃそりゃ? と思ってしまうのだけど、ようは「やる気をださせる人」って事ですね。
石井さんはもともとカウンセリングとかを本来の職業として持っている人で、多くの心を病んだ人、あるいはそこまで行かなくても引きこもりになってしまった人を社会復帰させたり、心の内面をサポートする仕事を本気でやっている人で、僕はとても好きな方です。
で、どの本も面白くて、人間関係における単純なテクニックとか、いろいろあるけれど、もう本当に、目からウロコという事が多いのです。
で、この「心のDNA」はどうかというと、これが「書籍としては」すごくつまらない。いや、いいこともたくさん書いてあるんだけど、いままでの著作に比べると格段に落ちる。
っちゅうか、内容的にはすごい事も書いてるんだけど(集合無意識の時代ごとでの変化の話とかはすごいと思う。)でも、新しすぎて、実例を実感できない僕には、いまひとつ迫って来ないのであります。
ところが!!
付録でついてるCDがいい!!
すごくいい!!
石井裕之さんの講演を、そのままCDに収めたものだけど、「71分で幸せになる話」と言って、ほんとに1時間10分くらいしかないんだけど、とっても良いのです。
僕はいろいろな意味で、涙が出て困りました。
数年前に仕事の上で発注してきた人と感情的なトラブルになって、少なく見積もっても数十万円という仕事の支払い拒否にあった事があるんですが、その時、もう怒りが収まらなかったのですね。どう考えても許せない。で、いつまでたっても、怒りが収まらない。
で、その時に、この「怒りがおさまらない自分」というものそのものが、とても悲しかったんですよ。
どうにも止らないわけです。あんまり怒ると、自分が苦しいだけなのに、なのに止らない。その止められない自分が悲しかった。自分の考え方や生き方があって、それを大切にしているから、理不尽な扱いをされると、どうしても許せなくなってしまうんですね。そういう偏狭な自分自身が悲しかったわけです。
でも実際、そういう時に、自分の心をどうコントロールすればいいのかが、さーーーーっぱりわからなかったんですが、前に紹介した「怒らないこと」という本で、ひとつの光明を感じ、「ああ、こういう心持ちになればいいのか!」という感覚を得てたのですが、今回のこの石井さんのCDで「憎しみを置く」というテクニックを得られたように感じたのです。
やっぱり深いよなぁ、石井さん。すごい。
あんまり中身を語ってしまうといけないので、このくらいにしておきますが、とにかくCDの方はもう、大収穫。これはいいなぁ。かなり感激してます。
で、この石井さんは言うのです。「考え方がすべてです。」と。悪い考えを持っている人は悪くなって行くし、良い考えを持っている人は良くなっていく。それは昨日・今日という短い期間では分らないけれど、5年とか10年とかのロングスパンでは、結果がはっきりと出てきてしまうそうです。
カウンセリングをしておられるから、極端に幸せになる人と、極端に不幸になる人の両方をサンプルとして見ておられて、だからこそ、その幸せと不幸を分ける「条件」がはっきりと分るんだそうです。
断言しておられるのは、不幸になる人は100%、誰かを憎んでいるのだそうです。自分で気付かずに憎んでいるかも知れないし、はっきりと自覚して憎んでいる場合もあるけれど、誰かを憎んでる人は、幸せになれない。100%断言できるそうです。
石井さんは仕事柄長期にカウンセリングをされる事もあるから、よけいにはっきりわかるんでしょうね。で、僕らのような普通人は、幸せになる要素と不幸になる要素が混ざり合ってしまってるから、そのあたりがはっきりとは見えないんだそうです。良いことを考えたり、悪いことを考えたりごちゃまぜなのが普通人なんだそうです。
だからつまり、幸せになるかどうかは、結局「考え方」が全てを決めるって事なんですね。
ああ、そうか、なるほどって思うわけです。
アダルトチルドレンの問題も同じ事なんですね。子供の頃に、親子関係で不満な出来事が起きたと。それを、子供の側が、「どう解釈したか」が重要なんです。親はあんまり深く考えてなかったかもしれないし、親の問題はまぁどうでもいいのですが、問題は子供の側です。
「いやな事」が親によって強制されたら、それは不幸な事なので、それを無理矢理「幸福な事」と、自分を騙して生きていくわけです。「だめんずうぉーかー」なんかもそうですわね。子供の頃に嫌な仕打ちを受けた、まさにそういう態度を持っている人を「好き」になってしまうという不幸。
これなんか、完全に「考え方」がおかしくなってるわけです。
いやな事はいやな事として、しっかり現実直視しないといけないんですね。でも、子供だからそれができなくて、自分の心の中で印象変換器を作り上げて、「悪い事でもなかった」とか「良い事だった」とか、無理矢理印象操作をしてしまうわけです。
それで全てをひっくり返して判断するとかしてしまう。そうやって、心の痛みから逃げてるわけですね。これは子供なんだから仕方ない。でも、結果として、大人になっても現実を直視できない心の態度になっちゃうと、これが大問題なわけです。
そういう現実をひん曲げて見るクセとか、考え方を持ってしまったら、そりゃ幸福になれるわけがないですわね。自分の心が痛むのを避けて、現実を素直に現実そのままとして読まないわけです。自分の妄想をこそ現実とみなして生きる。
でも、それは「現実を歪めて解釈」してるだけだから、そりゃ現実が思い通りにならないのは当たり前なんですよ。
ちょっと痛い思いをしてでも、現実をちゃんと直視すれば、現実を素直に現実のままに理解できるようになるので、自分の「考え」と現実が一致して、これは幸せになっていきます。
でも妄想でごまかすと、現実と自分の考えがズレが出てきて整合性が取れなくなって、また「妄想」の追加をするってことになっていくわけです。どんどん現実とのギャップが大きくなって、どんどん思いが実現しない、不幸な状況になっていく。
だから「妄想」で、勝手な解釈をするというのは、非常にまずいわけです。弓矢で、手元が二ミリずれたら、的のところで何メートルものズレになるように、長期の人生を考えると、この「妄想」はかなりまずい。
(でも、現実には妄想やイメージだけで物事を判断する人がものすごく多いんですけど。小泉君のイメージ戦略なんか、まさにそれですから。現実の問題を直視せずに「改革だぁ」というかけ声だけで、世の中をひっぱって行ってしまった。そら日本人が不幸になるのも当たり前だわ。)
前の彼女がケアマネをやっていて、お年寄りの生活をずっと見ていた人だったので、この「考え方のズレによる長期的不幸」という事を、実感を持って僕は感じるのです。
彼女曰く「人は生きたように、死ぬよ」って事なんです。生きたように死ぬんです。回りを大切にして生きた人は大切に看取られて死ぬし、回りに悪態をついてた人は看取られないだけでなく、たとえば、お風呂が大好きで、死ぬ前に体をきれいにしてあげようと介護してる人たちが思っていても、いろいろな事情から入れないままに亡くなってしまったとかね。そういう事になるんだそうです。それはもう見事に「生きてきたように、死ぬ」んだそうです。
これは、まさに「考え方がすべてです」という事を表しているのですね。
だから、現実を直視せずに「妄想」でごまかすってのは良くないんです。確かに現実を直視すると心は痛むけれど、そのちょっとの痛みに慣れて行くことが、弓矢の位置を二ミリ修正する事なんですね。
小さな痛みで済むものを、放置しておくと、後で修正するには、ものすごく大きな痛みを伴うという事も、おうおうにして起こります。
たとえるなら、虫歯の治療と同じですね。
虫歯というのは、基本、治りません。初期の軽いものなら、最近は人間の自己修復機能を活用して、薬だけで治すというのも出てきているけど、基本的に虫食いになったら削るしかない。だから大きくなる前に、小さいうちに削ってしまわないといけないんです。
心の態度も同じ事で、小さいズレをほったらかしにして、「妄想」でごまかす、なんて事をしてると、後の修正がどんどん大変になって行くのです。
で、石井さんは、「40くらいの大人になると、イメージしてから、それが実現するまでの時間が短くなってるはずです。」と言うのです。イメージから実現までの時間が短くなってると。で、だから悪いことを考えたら、悪いことが起きるまでのスパンも短くなってるんだとおっしゃる。
うむ。それは言えてるかもしれないと僕は思うのです。石井さんの言い方とはちょっと違うけれど、仕事においても、何事においても、ムダで効果のないやり方とかは最初から考えなくなってますからね。実現能力というものは、年齢が高くなるほどに高まるんだと思う。で、人間は無意識的に行動している部分も大きいから、悪いことを考えたら、それが実現するまでの時間も短くなってるだろうし、より大きな幸せや不幸を実現してしまう能力も身に付いてしまってるだろうと思う。
「僕の人生なんて、不幸だらけさ」と思えば、即刻不幸だらけの人生になるし、「なんて幸せいっぱいの人生なんだろう」と思えば即刻そうなる。というか、そうなるまでの時間が年々短くなっているってことですね。
で、だからこそと僕は思うのですよ。
結局、それは、子供の頃の二ミリのズレが、40くらいで一番大きくズレてきてるって事なんだろうなって。長年の蓄積で悪い方にも良い方にも実現能力が高まってしまっている。
そういう事に40代で気付いて、子供のころのサバイバルのために無理矢理「妄想」でごまかしてた部分を修正しないと、後半の人生が辛いのだろうと。
ミッドライフクライシスとか40代の危機とかの話もけっこうこの日記では書いてきたと思うのですが、ようは、そういう事なんだと思う。
考え方がすべて。
妄想が人生を誤らせる。
痛みは小さいうちに対処すべし。
人間は生きてきたように死ぬ。
って事だと思うのですよ。人間をイメージで判断しちゃいけません。内容で見るのです。他人を揶揄したりせずに、幸せを願うのです。みんなが幸せになってくれたらいいなって思う。ほんとに。
僕は、まだまだ人間ができてないので、「許し」とかはできないけれど、まぁ「怒りを置く」くらいはやれるようになってきたし、(自分の中に怒りや憎しみがあるのだと、気づけないという人も多いです。そういう人は、まずそっちを先にやらないとダメです。自分の心の溝掃除が先。順番は間違えないように。)世の中すべての人の幸せを願うほどの強力なイメージ力はまだまだ身に付いてないけれど、少なくとも身の回りの友人や仕事仲間、近親者の幸せについては、ほんとうに心から願えるようになってきました。
ほんと。幸せになって欲しいよなぁって思うんです。不幸な状態っていうのは、本当に辛い。本当に辛いんんです。で、本当に辛いから「感じない」ようにしてる人も多いんだよなぁ。
そういう人には「痛いだろうけど、感じて!自分の痛みを感じて!」って言いたい。それを避けると、よけいにズレが大きくなるだけだから。
虫歯治療を好きって人はいてないもんなぁ。
でも全部治療が済んだら、あとは定期検診だけでなんとかなるんだし。とにかく、そっちの方向に行く事を考えないと人生辛いだけだと思う。
ほんとに。
拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる
2007年6月28日 読書
ISBN:4166603760 新書 関岡 英之 文藝春秋 2004/04/21 ¥735
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4166603760/249-9767057-8485143
今日、今年の3月31日に書いた「テレビを見ない生活」にコメントをいただきまして、ハッと気付いたのですが、ドタバタしていて、こちらの日記には、この大事な大事な本の紹介をしていなかったのですね。mixiの方では紹介してたので、こっちでも紹介したつもりになってました。なので、あわてて紹介することにしました。
先に紹介した
「最高支配層だけが知っている日本の真実」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/488086210X/249-9767057-8485143
と同じで、我々が住んでいるこの国の裏側にある問題点を、くっきり浮き彫りにしている、日本人全員の必読の書です。ぜひ読んでいただきたいです。
反米を形だけ言っていても、意味はなく、まず自分たちの足下がどうなっているのかをキチンと見据えることが大事で、それは遠くの国で戦争が起きている事を、テレビのお祭り騒ぎにあわせて合唱するより、この書籍のように、まず自分達の国がいかに被害を被っているのかを知ることの方が先なのです。
しかし、この肝心の事実を知っている人の方が少ない。そこが一番問題です。
みんな身の回りの問題に鈍感なんですよねぇ。うーむ。
まぁ、とにかく、この本だけは必読の書です。ぜひお読みください。
以下、mixiからの私の書評の転載です。
----------------------------------------------------------
●日本人必読の書。
前から、ずっと「読まなければ」と思いながら、読まずにおいた、この本を、やっと読み終えました。
拒否できない日本 〜アメリカの日本改造が進んでいる〜
関岡 英之 (著)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4166603760/249-9767057-8485143
「年次改革要望書」という、アメリカが日本に突きつけてくる、「日本改造計画」について、徹底的に読み込んで、その危険な本質をキチンと解説してくれている良書です。
これからの日本がどうなっていくのか(良いか悪いかは、あえて問わない。)は、この「年次改革要望書」を読めば、全部分ってしまう。言わば、この要望書はアメリカ(経済・産業界)からの「命令書」なのであります。
そういう嫌な書面の存在を明らかにした最初の書籍ですね。
前から「年次改革要望書」の存在は聞いていて、「なんで日本はここまでアメリカの属国に成り下がらねばならんのだ」と思っていたのですが、そういう事のすべてが、この「拒否できない日本」に書かれてあります。思っていた以上にヒドイですね。内政干渉なんてもんじゃないです。日本を、アメリカの州のひとつと勘違いしてる、というレベルですね。日本人独特の考え方や地域的文化というものが存在しているのだ、という事は一切考慮されていない内容です。
で、情けないのが、こういう文書の存在を、日本の政治家、とくに権力の中枢にいる人ほど、隠そうとすることです。小泉純一郎君なんかは完全にそのタイプ。自分が「アメリカの雇われ首相」であることを、国民に見透かされたくないからか、とにかく隠すし、すっとぼける。
実際、一昨年の郵政改革選挙の時に、俗に言う「郵政改革反対派」の議員さんたちが、この「拒否できない日本」という書籍を取り上げて、小泉さんに、「あなた、このアメリカからの要望書のとおりに改革をやってるだけじゃないか」とつっこんだら、小泉のヤローは「そんな書類は知りません」とかすっとぼけたわけでねぇ。みっともない奴やなぁ、小泉は。
そういう国会でのやりとりが議事録に残っているというのに、選挙の最中には、その議事録の参照ができないようになってたんですよ。知ってました? みなさん。
ほんまにとんでもない話で。
で、別にこの「年次改革要望書」って、秘密のウラ取引でもなんでもなくて、アメリカの側からしたら、「言うたもん勝ち」って感じで、各産業界からの要望をとりまとめて、堂々と「これだけの改革を日本に呑ませてやったのだ!」とネット上で自慢げに、大公開されているわけですよ。「ロビィ活動の成果報告」みたいな気分なんでしょうね。
て、ですね。おどろくなかれ、この「要望書」は、キチンと日本語訳までされていてですね、アメリカの政府ホームページに掲載されているのです。「どうだ!ここまで日本に命令してやったのだぞ!」みたいな感じで。
なので、小泉君はひた隠しにしてましたけど、秘密でもなんでもありません。以下の文章は、あなたにも読めますので、どうぞ読んでください。日本語ですから。
●2004年版
http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-j20041020-50.html
●2005年版
http://tokyo.usembassy.gov/pdfs/wwwfj-regref20051207.pdf
●2006年版
http://tokyo.usembassy.gov/pdfs/wwwfj-20061205-regref.pdf
読めば分りますが、もうほんとに事細かく、重箱の隅をつつくかのように「日本の仕組みを、こういう具合に変えなさい」とウダウダ書き連ねた内容です。
で、しかも、そのほとんどが実際に採用されて、日本の経済・産業の仕組みがどんどん変えられていってるわけです。
どういうことやねん! という事ですわな。
国民の意見を反映させるより前に、この要望書の意見ばっかり聞いてる。それはもう、ほんまにひどいものなわけです。
「ひどい」代表例は建築基準法の改正(つーか、改悪)の話ですね。この改正があったのは、1998年の6月。あの阪神淡路大震災の三年後でして、この改正は「半世紀ぶりの大改正」と言われたものなわけです。
日本人の誰しもが、「阪神淡路大震災を教訓に基準法が強化されたのだろう」と思ってたわけです。というか、いちおう建前としては、教訓にしたとかなんとかは書いてあるわけですが、実際には違う。
海外のデベロッパーが参入しやすいように、強度計算とか、そういう耐久性に関するチェックが「甘く」なるように改正されているわけです。
いや、いや、いや、それは逆やろ! と思うわけですが、でも、「年次改革要望書」で、前から「日本の建築業は強度とか小うるさいこと言い過ぎ」とつつかれていたから、そこを簡素化したっつーことなわけです。
だから姉羽(だっけ?字忘れた)さんがどうとかこうとか、そんなことは些末な事なわけです。
地震という災害に鈍感な国民であるアメリカの産業界から「規制がきつすぎるから、甘くしろ」と言われて、甘くした結果が、あのアネハさんの問題という結果につながってるわけです。
そらね、アネハさんがカツラやからうんぬんとか言ってる場合やないわけですよ。
問題はこの「年次改革要望書」の方ですよ。
こんなもの、そのまま鵜呑みにして、改革やったらアカンがな!
ちゅう話です。
ちょっとだけ、この「拒否できない日本」の内容を目次で紹介しますと、
1.北京・シカゴ枢軸の怪
2.対日圧力の不可解なメカニズム
3.この世はアングロ・サクソンの楽園
4.万人が訴訟する社会へ
5.キョーソーという名の民族宗教
という5つのブロックで構成されています。
1.の「北京・シカゴ」の項目は、まさにイントロという内容で、この1.のブロックから読んでいくと、上質の推理小説を読むように、いかに小さな疑問を積み重ね、解き明かすことで、一番の本丸である「年次改革要望書」にたどりつくことになったのか、までを、著者の関岡さんの視点で読めて、大変面白いのです。
面白いのですが、しかし、この1.のブロックは、正直「イントロ」ですので、お急ぎの方は飛ばしてもいいと思います。
真に重要なのは、2.の「対日圧力の不可解なメカニズム」です。このブロックさえ読めば、まぁ、「年次改革要望書」という存在の薄気味悪さと、うっとおしさ、怪しさが分ります。
なので、「とりあえず本論だけ知りたい」という方は、この2.のブロックだけでも、読んでください。
作者の関岡さんには申し訳ないですけども、この2.のブロックだけ立ち読みで読まれてもいいと思います。
とにかく、ひとりでも多くの人が、この「年次改革要望書」という存在の問題に気付いて、論議の対象にすることです。それこそが「日本人の国益を守る」という論点から、非常に重要です。
一刻も早く、お読みください。ほんとうに。2.のブロックだけでもいいから。
続く、3.4.5.のブロックは、さまざまな論文、文書などを駆使して、日本とアメリカの文化の違い、いや、それどころか、ヨーロッパの「大陸系」の国々と、アメリカ・イギリスの文化がいかに異なるのか。(先の私のフラガールの感想文にも書きましたが、地政学的な違いですね。それそのものです。)
いかに訴訟社会で、競争を良しとする「特異」な文化をアメリカが持っているのか、という「アメリカは文化的に異常であるのに、その異常を世界に押しつけてる論」を徹底して展開していて、実に読み応えがあります。
読み応えはあるのですが、これもまた、関岡さんの「持論の展開」の部分で、実に深い洞察力のある、すばらしい内容ではあるのですが、ここもまた、お急ぎの方は飛ばしてもらってもかまわないかと思います。
とりあえずは、2.の「対日圧力の不可解なメカニズム」だけは、どうしても読んで欲しいなぁ、日本人なら。と思うわけです。
っていうか、阪神淡路大震災を体験した関西人として、建築基準法の「改悪」がアメリカの差し金でしかないっていう事実が、もう心から情けない。悲しい。許せない。わけです。
だから、この2.の「対日圧力の不可解なメカニズム」だけは読んでください。ほんとに。
立ち読みでもいいです。
(できれば、ちゃんと買って、全部読んでください。)
本当に「日本人全員必読の書」です。
ぜひとも読んでください。
この本を読んだ後で、この2月13日の予算委員会で、亀井静香がやった「代表質問の時間を利用した、大演説」の動画を見ると、この演説が、いかに内実をともなったものであるかが実感としてよくわかります。
http://www.shugiintv.go.jp/jp/video_lib3.cfm?deli_id=33410&;;media_type=wb
まぁ、実に見事な大演説です。
後半の安部君への質問攻勢は、「すごい」という人もいるけど、まぁどっちでもいいや。出だしの20分くらいがとか、すごい。
東国原知事が談合をなくして…とか言ってるけど、談合もまた、地方経済のバランス調整行為なのだ、ということも、ちょっとは考えなきゃダメだよって思う。
いやまぁ、昔ながらのやり方が全部良いとも言わないけどさ。
ともあれ、この「拒否できない日本」は必読です。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4166603760/249-9767057-8485143
今日、今年の3月31日に書いた「テレビを見ない生活」にコメントをいただきまして、ハッと気付いたのですが、ドタバタしていて、こちらの日記には、この大事な大事な本の紹介をしていなかったのですね。mixiの方では紹介してたので、こっちでも紹介したつもりになってました。なので、あわてて紹介することにしました。
先に紹介した
「最高支配層だけが知っている日本の真実」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/488086210X/249-9767057-8485143
と同じで、我々が住んでいるこの国の裏側にある問題点を、くっきり浮き彫りにしている、日本人全員の必読の書です。ぜひ読んでいただきたいです。
反米を形だけ言っていても、意味はなく、まず自分たちの足下がどうなっているのかをキチンと見据えることが大事で、それは遠くの国で戦争が起きている事を、テレビのお祭り騒ぎにあわせて合唱するより、この書籍のように、まず自分達の国がいかに被害を被っているのかを知ることの方が先なのです。
しかし、この肝心の事実を知っている人の方が少ない。そこが一番問題です。
みんな身の回りの問題に鈍感なんですよねぇ。うーむ。
まぁ、とにかく、この本だけは必読の書です。ぜひお読みください。
以下、mixiからの私の書評の転載です。
----------------------------------------------------------
●日本人必読の書。
前から、ずっと「読まなければ」と思いながら、読まずにおいた、この本を、やっと読み終えました。
拒否できない日本 〜アメリカの日本改造が進んでいる〜
関岡 英之 (著)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4166603760/249-9767057-8485143
「年次改革要望書」という、アメリカが日本に突きつけてくる、「日本改造計画」について、徹底的に読み込んで、その危険な本質をキチンと解説してくれている良書です。
これからの日本がどうなっていくのか(良いか悪いかは、あえて問わない。)は、この「年次改革要望書」を読めば、全部分ってしまう。言わば、この要望書はアメリカ(経済・産業界)からの「命令書」なのであります。
そういう嫌な書面の存在を明らかにした最初の書籍ですね。
前から「年次改革要望書」の存在は聞いていて、「なんで日本はここまでアメリカの属国に成り下がらねばならんのだ」と思っていたのですが、そういう事のすべてが、この「拒否できない日本」に書かれてあります。思っていた以上にヒドイですね。内政干渉なんてもんじゃないです。日本を、アメリカの州のひとつと勘違いしてる、というレベルですね。日本人独特の考え方や地域的文化というものが存在しているのだ、という事は一切考慮されていない内容です。
で、情けないのが、こういう文書の存在を、日本の政治家、とくに権力の中枢にいる人ほど、隠そうとすることです。小泉純一郎君なんかは完全にそのタイプ。自分が「アメリカの雇われ首相」であることを、国民に見透かされたくないからか、とにかく隠すし、すっとぼける。
実際、一昨年の郵政改革選挙の時に、俗に言う「郵政改革反対派」の議員さんたちが、この「拒否できない日本」という書籍を取り上げて、小泉さんに、「あなた、このアメリカからの要望書のとおりに改革をやってるだけじゃないか」とつっこんだら、小泉のヤローは「そんな書類は知りません」とかすっとぼけたわけでねぇ。みっともない奴やなぁ、小泉は。
そういう国会でのやりとりが議事録に残っているというのに、選挙の最中には、その議事録の参照ができないようになってたんですよ。知ってました? みなさん。
ほんまにとんでもない話で。
で、別にこの「年次改革要望書」って、秘密のウラ取引でもなんでもなくて、アメリカの側からしたら、「言うたもん勝ち」って感じで、各産業界からの要望をとりまとめて、堂々と「これだけの改革を日本に呑ませてやったのだ!」とネット上で自慢げに、大公開されているわけですよ。「ロビィ活動の成果報告」みたいな気分なんでしょうね。
て、ですね。おどろくなかれ、この「要望書」は、キチンと日本語訳までされていてですね、アメリカの政府ホームページに掲載されているのです。「どうだ!ここまで日本に命令してやったのだぞ!」みたいな感じで。
なので、小泉君はひた隠しにしてましたけど、秘密でもなんでもありません。以下の文章は、あなたにも読めますので、どうぞ読んでください。日本語ですから。
●2004年版
http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-j20041020-50.html
●2005年版
http://tokyo.usembassy.gov/pdfs/wwwfj-regref20051207.pdf
●2006年版
http://tokyo.usembassy.gov/pdfs/wwwfj-20061205-regref.pdf
読めば分りますが、もうほんとに事細かく、重箱の隅をつつくかのように「日本の仕組みを、こういう具合に変えなさい」とウダウダ書き連ねた内容です。
で、しかも、そのほとんどが実際に採用されて、日本の経済・産業の仕組みがどんどん変えられていってるわけです。
どういうことやねん! という事ですわな。
国民の意見を反映させるより前に、この要望書の意見ばっかり聞いてる。それはもう、ほんまにひどいものなわけです。
「ひどい」代表例は建築基準法の改正(つーか、改悪)の話ですね。この改正があったのは、1998年の6月。あの阪神淡路大震災の三年後でして、この改正は「半世紀ぶりの大改正」と言われたものなわけです。
日本人の誰しもが、「阪神淡路大震災を教訓に基準法が強化されたのだろう」と思ってたわけです。というか、いちおう建前としては、教訓にしたとかなんとかは書いてあるわけですが、実際には違う。
海外のデベロッパーが参入しやすいように、強度計算とか、そういう耐久性に関するチェックが「甘く」なるように改正されているわけです。
いや、いや、いや、それは逆やろ! と思うわけですが、でも、「年次改革要望書」で、前から「日本の建築業は強度とか小うるさいこと言い過ぎ」とつつかれていたから、そこを簡素化したっつーことなわけです。
だから姉羽(だっけ?字忘れた)さんがどうとかこうとか、そんなことは些末な事なわけです。
地震という災害に鈍感な国民であるアメリカの産業界から「規制がきつすぎるから、甘くしろ」と言われて、甘くした結果が、あのアネハさんの問題という結果につながってるわけです。
そらね、アネハさんがカツラやからうんぬんとか言ってる場合やないわけですよ。
問題はこの「年次改革要望書」の方ですよ。
こんなもの、そのまま鵜呑みにして、改革やったらアカンがな!
ちゅう話です。
ちょっとだけ、この「拒否できない日本」の内容を目次で紹介しますと、
1.北京・シカゴ枢軸の怪
2.対日圧力の不可解なメカニズム
3.この世はアングロ・サクソンの楽園
4.万人が訴訟する社会へ
5.キョーソーという名の民族宗教
という5つのブロックで構成されています。
1.の「北京・シカゴ」の項目は、まさにイントロという内容で、この1.のブロックから読んでいくと、上質の推理小説を読むように、いかに小さな疑問を積み重ね、解き明かすことで、一番の本丸である「年次改革要望書」にたどりつくことになったのか、までを、著者の関岡さんの視点で読めて、大変面白いのです。
面白いのですが、しかし、この1.のブロックは、正直「イントロ」ですので、お急ぎの方は飛ばしてもいいと思います。
真に重要なのは、2.の「対日圧力の不可解なメカニズム」です。このブロックさえ読めば、まぁ、「年次改革要望書」という存在の薄気味悪さと、うっとおしさ、怪しさが分ります。
なので、「とりあえず本論だけ知りたい」という方は、この2.のブロックだけでも、読んでください。
作者の関岡さんには申し訳ないですけども、この2.のブロックだけ立ち読みで読まれてもいいと思います。
とにかく、ひとりでも多くの人が、この「年次改革要望書」という存在の問題に気付いて、論議の対象にすることです。それこそが「日本人の国益を守る」という論点から、非常に重要です。
一刻も早く、お読みください。ほんとうに。2.のブロックだけでもいいから。
続く、3.4.5.のブロックは、さまざまな論文、文書などを駆使して、日本とアメリカの文化の違い、いや、それどころか、ヨーロッパの「大陸系」の国々と、アメリカ・イギリスの文化がいかに異なるのか。(先の私のフラガールの感想文にも書きましたが、地政学的な違いですね。それそのものです。)
いかに訴訟社会で、競争を良しとする「特異」な文化をアメリカが持っているのか、という「アメリカは文化的に異常であるのに、その異常を世界に押しつけてる論」を徹底して展開していて、実に読み応えがあります。
読み応えはあるのですが、これもまた、関岡さんの「持論の展開」の部分で、実に深い洞察力のある、すばらしい内容ではあるのですが、ここもまた、お急ぎの方は飛ばしてもらってもかまわないかと思います。
とりあえずは、2.の「対日圧力の不可解なメカニズム」だけは、どうしても読んで欲しいなぁ、日本人なら。と思うわけです。
っていうか、阪神淡路大震災を体験した関西人として、建築基準法の「改悪」がアメリカの差し金でしかないっていう事実が、もう心から情けない。悲しい。許せない。わけです。
だから、この2.の「対日圧力の不可解なメカニズム」だけは読んでください。ほんとに。
立ち読みでもいいです。
(できれば、ちゃんと買って、全部読んでください。)
本当に「日本人全員必読の書」です。
ぜひとも読んでください。
この本を読んだ後で、この2月13日の予算委員会で、亀井静香がやった「代表質問の時間を利用した、大演説」の動画を見ると、この演説が、いかに内実をともなったものであるかが実感としてよくわかります。
http://www.shugiintv.go.jp/jp/video_lib3.cfm?deli_id=33410&;;media_type=wb
まぁ、実に見事な大演説です。
後半の安部君への質問攻勢は、「すごい」という人もいるけど、まぁどっちでもいいや。出だしの20分くらいがとか、すごい。
東国原知事が談合をなくして…とか言ってるけど、談合もまた、地方経済のバランス調整行為なのだ、ということも、ちょっとは考えなきゃダメだよって思う。
いやまぁ、昔ながらのやり方が全部良いとも言わないけどさ。
ともあれ、この「拒否できない日本」は必読です。
ちょっと気になって、アマゾンで検索したのですが、僕のお気に入りの、「東洋体育の本」って、あんまり売れてない感じですね。増刷もかかってないみたいだし。
うーん。困った。
しょうがないから、アマゾンの頁だけリンクしておきましょう。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4796638911/249-9767057-8485143
この本、作者は津村喬さんと言って、関西気功協会を立ち上げた人としても知る人ぞ知る。書籍はムック形式で、いくつものエッセイをまとめたような本なのですが、日本や中国など、アジア圏で、親しまれている体操や健康法などを網羅的に紹介してくれている本で、実は隠れた名著なのです。
まず、医食同源にたとえられる、中国や日本に流れる「東洋の生命観」という大枠の考え方から説き起こして、西洋風の「体育(たいいく)」というよりは、「体育(からだそだて)」の発想で自分の体とのつきあいを考えようと提案している本でして、僕は随分この本の影響を受けています。
内容としては、太極拳からはじまって、日本の操体道、西式健康法、リンパマッサージ、経絡指圧、気功法、自発動功、綜統医学、真向法、野口整体、などなど東洋医学・体育の「かんたん体操」やマッサージ、考え方などの総カタログになっていまして、西洋の「競い合うスポーツ」とは一線を画した、「生活の中の、いますぐできる健康体操」の解説本になっているのです。(イラストも豊富で、ソワイショウとか金魚運動とか、基本的な体操の仕方も手に取るようにわかります。素晴らしい!)
この一冊で考え方や、自分の体とのつきあい方、世界の捉え方まで大きく学習することができて、とても実りの多い本です。まさに名著と言えましょう。
この本に出会ったのは、ちょうど僕が始めて働きだして二年ほどした頃で、原稿書きのために、夜遅くまで仕事をして、全然運動もせず、いろいろな意味で精神的にまいってしまって、会社をクビになる前後の事だったのです。
心の危機に、「からだそだて」の考え方がしみいるように入ってきて、次の仕事を見つけるまでの間に楊式の太極拳を習いに行って、とてもおだやかな安らぎを得たことが忘れられません。
僕が働いていた時は、ちょうどワープロが出始めの頃で、個人的にNECのPC-9801Fあたりを買ったというような頃でした。
で、コンピュータというのは、まさに西洋文化の塊のようなもので、これはこれで実に便利なもので、素晴らしい!とは思ったのですが、こと、体のことに関しては、どうにも西洋的なアプローチである「競争」が前提になったような捉え方や、競技としてのスポーツ、あるいは、人間を全体で捉えるのではなく、部位ごとに分析的に捉える考え方が「体というものを考えるには、あまり適していないアプローチだよな」と思ったのですね。
で、当時の僕の印象としてあったのは、
●頭脳のターボチャージャーがPC(西洋文化)
●心のターボチャージャーが太極拳(東洋文化)
というポジショニングだったんですね。
とにかく西洋風の、
・競技/競争/数値/分析的
というやり方が、「からだ」というものに関しては、全然向いてない気がしてしょうがなかったわけです。
デジタル化によるパソコンやワープロでの知的分野の合理化手法というのは、「さすがは西洋文化!」という感じで、たいしたものだ、という感じがあったのですが、「パソコンで自分の能力をパワーアップしたら、それとバランスを取るために、こころのパワーアップも必要だよな。で、それは多分西洋的なアプローチでは病気になるだけだわ。やっぱ心のパワーアップを図るなら、それは東洋の太極拳のようなものなのではないか?」というのが、僕的には結論だったのです。
特にアジア人の場合、パソコンという機械の設計思想の中に内在している「キャリアアップの思想」「自己責任の緊張感」みたいなものは、ちょっとそのままそれだけを受け取ったら、精神的に耐えられないって気がするのですね。
だって、パソコンのデータって、「消えてしまうように設計されている」んですよ? 違います? もともと「自由に消せる」という権利・自由度が与えられているのだけれども、それは「自己責任」でバックアップを取っておかないと、自分の努力の結果が、この世から跡形もなく消えても、誰にも文句言えない、という仕組み・考え方で作られているんですよね、PCって。
この「自己責任」の発想こそ、欧米の文化なわけでして。
日本の家電メーカーがパソコンを作ってたら、データ削除のコマンドなんて、「管理メニュー」の、一番奥の、特殊な操作方法をした時にだけでてくる「特殊操作メニュー」の中に押し込められてるはずです。ユーザーに責任の重さを感じさせない、責任はメーカーの側が取るってのが、日本文化の基礎ですからな。
でもパソコンは違う。設計思想から欧米ですから。精神的に疲れるんですよ、もともと。だから、結局、欧米の「自己責任」の思想で貫き通されたパソコンという道具においては、
●気を抜いたら、あなたの作ったデータも消えちゃうよ。
というのが当たり前の大前提であり、そこが便利でもあるけど、面倒なところでもあるわけです。
「データ消えちゃうかもよ。」
という、この緊張しまくりの構造こそ、まさに欧米文化なわけです。
なので。
緊張すると体も硬くなりますからな。「からだそだて」に関しては、もう、リラックスするために、絶対、東洋文化が良いなぁと、私は思ったわけです。
特に、若くてパソコンの可能性を実感すればするほどに、心や体の問題に関しては、どんどん東洋志向が強まりまして、ほんとに、「からだ」の問題に関しては、全然西洋文化に興味が持てなくなってしまってるのですねぇ。
だから太極拳をそれなりにやってた人間としては、たとえば、マラソンとか「バカじゃねぇの?」とか思ってしまう。時間かかりすぎやん。その割に効果ないし。つまらねぇって思う。
実際、ジョギングですら、僕はちょっとクビをひねるんですよね。
ジョギングの創始者であるジェームス・フィックスという人は、52歳の若さで亡くなったのですが、どうも、ジョギング中に心臓マヒで死んだらしい。ジョギングですらこれです。「はげしく動かないとスポーツじゃない」とでも思ってるんでしょうね。アホな話です。
この十数年で言うと、やっと欧米のスポーツ理論も東洋の考え方に近づいてきたらしくマフェトン理論あたりは、けっこうまともだと思うのですよ。いわく、「心拍数で180-年齢を超えない程度の緩い運動をこそベースにせよ」というもので、これは単純に言ってしまえば、「早歩き以上の運動は体を壊すので注意せよ」ということなのです。
体を壊さずに競技の成績を伸ばそうと思ったら、まず基礎体力として、「早歩き程度の運動を、まずやりなさい」ということです。で、そこがキチンとできていないのに、走るとかの強度の強い運動をすると、体調が悪くなったり、健康をそこなったりするということなんですね。
食べ物においても、似たようなことがあります。
それは、これまた有名な「マクガバン報告」であります。
アメリカでは、1960年代に国民一人当たりの医療費が世界一高くなってしまい、医療費によって国政が破綻しかねないというところまで行った訳です。
なので、いったい健康というものを実現するには何が必要なのかなどを調査した「マクガバン報告」というものがまとめられたのです。確か1970年くらいのことだったはずです。
だいたい健康について語るにおいて、この「マクガバン報告」を知らないというのは話にならないわけでして。
マクガバン報告においては、有名な話ですが日本食が高く評価されました。
「ガンや心臓病などの増加は食生活の誤り」という、まさに東洋の医食同源の考え方がマクガバン議員によって、アメリカ国政に報告されたわけですよ。そして「肉ばっかり食ってたらアカン。日本人みたいにシーベジタブルを食え!」ってなった。
たぶん。おそらくは、この報告がアメリカ人の食生活を大きく変容させて、アメリカ国内で牛肉の売れ行きが多少落ちて、その影響で、米国産の牛肉が日本に流れてきたんだと思うのですよ。
それが1985年頃の「牛肉オレンジ交渉」ってものになったのだろうと思われます。
この後、日本では焼き肉屋がいきなり急増したわけでね。ほんとに。それまでそんなにたくさん牛肉なんて食ってなかったんだし。で、吉野屋が伸びたのも、この「牛肉オレンジ交渉」の後です。
つまりは、アメリカ人がマクガバン報告で「和食が健康に良いのだ!」と気付いたが故に、日本人は牛肉を食わされたって事なんですよ。大きく、20年くらいのスパンで物事を捉えるとね。
だいぶ話ははずれてしまいましたが…。
という事で、こういう大枠の事は分っていながらも、まともなダイエットもしてこなかった馬鹿な私は、腹が出まくりまして、「これはイカン!」と、最近はひたすら歩いております。まぁ、一日1万5千歩くらいですな。そのくらいは歩かないと。それがベース。基礎。下支え、であります。
(また太極拳を始めようかなぁ、とかも思ってたりするのですが。)
ともあれ、やはり日本人には東洋の健康スタイルが性に合うわけで、そういう意味では、石原結實(いしはら・ゆうみ)さんあたりも、たいした医者だと思うのですよね。あの人、漢方の人だしねぇ。実践的で優れてると思う。
まだまだ、いろいろ書きたいことはあるんですけど、それより何より、この「東洋体育の本」という名著が、あまり手軽には入手できないのだという事実の方が、僕的には残念至極だし、くやしいし、寂しいですねぇ。
なんかね、津村喬さん、ムックという事で、雑誌と同じく売り切りで原稿を書いてしまったらしいんですよねぇ。
だから、この本が売れても、著者の津村さんには一銭も入らないし、出版社も力が入ってないわけですよ。内容の良さを理解してないから。
困った事だよなぁ。ほんとに良い本なのに。
うーむむむむ。
うーん。困った。
しょうがないから、アマゾンの頁だけリンクしておきましょう。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4796638911/249-9767057-8485143
この本、作者は津村喬さんと言って、関西気功協会を立ち上げた人としても知る人ぞ知る。書籍はムック形式で、いくつものエッセイをまとめたような本なのですが、日本や中国など、アジア圏で、親しまれている体操や健康法などを網羅的に紹介してくれている本で、実は隠れた名著なのです。
まず、医食同源にたとえられる、中国や日本に流れる「東洋の生命観」という大枠の考え方から説き起こして、西洋風の「体育(たいいく)」というよりは、「体育(からだそだて)」の発想で自分の体とのつきあいを考えようと提案している本でして、僕は随分この本の影響を受けています。
内容としては、太極拳からはじまって、日本の操体道、西式健康法、リンパマッサージ、経絡指圧、気功法、自発動功、綜統医学、真向法、野口整体、などなど東洋医学・体育の「かんたん体操」やマッサージ、考え方などの総カタログになっていまして、西洋の「競い合うスポーツ」とは一線を画した、「生活の中の、いますぐできる健康体操」の解説本になっているのです。(イラストも豊富で、ソワイショウとか金魚運動とか、基本的な体操の仕方も手に取るようにわかります。素晴らしい!)
この一冊で考え方や、自分の体とのつきあい方、世界の捉え方まで大きく学習することができて、とても実りの多い本です。まさに名著と言えましょう。
この本に出会ったのは、ちょうど僕が始めて働きだして二年ほどした頃で、原稿書きのために、夜遅くまで仕事をして、全然運動もせず、いろいろな意味で精神的にまいってしまって、会社をクビになる前後の事だったのです。
心の危機に、「からだそだて」の考え方がしみいるように入ってきて、次の仕事を見つけるまでの間に楊式の太極拳を習いに行って、とてもおだやかな安らぎを得たことが忘れられません。
僕が働いていた時は、ちょうどワープロが出始めの頃で、個人的にNECのPC-9801Fあたりを買ったというような頃でした。
で、コンピュータというのは、まさに西洋文化の塊のようなもので、これはこれで実に便利なもので、素晴らしい!とは思ったのですが、こと、体のことに関しては、どうにも西洋的なアプローチである「競争」が前提になったような捉え方や、競技としてのスポーツ、あるいは、人間を全体で捉えるのではなく、部位ごとに分析的に捉える考え方が「体というものを考えるには、あまり適していないアプローチだよな」と思ったのですね。
で、当時の僕の印象としてあったのは、
●頭脳のターボチャージャーがPC(西洋文化)
●心のターボチャージャーが太極拳(東洋文化)
というポジショニングだったんですね。
とにかく西洋風の、
・競技/競争/数値/分析的
というやり方が、「からだ」というものに関しては、全然向いてない気がしてしょうがなかったわけです。
デジタル化によるパソコンやワープロでの知的分野の合理化手法というのは、「さすがは西洋文化!」という感じで、たいしたものだ、という感じがあったのですが、「パソコンで自分の能力をパワーアップしたら、それとバランスを取るために、こころのパワーアップも必要だよな。で、それは多分西洋的なアプローチでは病気になるだけだわ。やっぱ心のパワーアップを図るなら、それは東洋の太極拳のようなものなのではないか?」というのが、僕的には結論だったのです。
特にアジア人の場合、パソコンという機械の設計思想の中に内在している「キャリアアップの思想」「自己責任の緊張感」みたいなものは、ちょっとそのままそれだけを受け取ったら、精神的に耐えられないって気がするのですね。
だって、パソコンのデータって、「消えてしまうように設計されている」んですよ? 違います? もともと「自由に消せる」という権利・自由度が与えられているのだけれども、それは「自己責任」でバックアップを取っておかないと、自分の努力の結果が、この世から跡形もなく消えても、誰にも文句言えない、という仕組み・考え方で作られているんですよね、PCって。
この「自己責任」の発想こそ、欧米の文化なわけでして。
日本の家電メーカーがパソコンを作ってたら、データ削除のコマンドなんて、「管理メニュー」の、一番奥の、特殊な操作方法をした時にだけでてくる「特殊操作メニュー」の中に押し込められてるはずです。ユーザーに責任の重さを感じさせない、責任はメーカーの側が取るってのが、日本文化の基礎ですからな。
でもパソコンは違う。設計思想から欧米ですから。精神的に疲れるんですよ、もともと。だから、結局、欧米の「自己責任」の思想で貫き通されたパソコンという道具においては、
●気を抜いたら、あなたの作ったデータも消えちゃうよ。
というのが当たり前の大前提であり、そこが便利でもあるけど、面倒なところでもあるわけです。
「データ消えちゃうかもよ。」
という、この緊張しまくりの構造こそ、まさに欧米文化なわけです。
なので。
緊張すると体も硬くなりますからな。「からだそだて」に関しては、もう、リラックスするために、絶対、東洋文化が良いなぁと、私は思ったわけです。
特に、若くてパソコンの可能性を実感すればするほどに、心や体の問題に関しては、どんどん東洋志向が強まりまして、ほんとに、「からだ」の問題に関しては、全然西洋文化に興味が持てなくなってしまってるのですねぇ。
だから太極拳をそれなりにやってた人間としては、たとえば、マラソンとか「バカじゃねぇの?」とか思ってしまう。時間かかりすぎやん。その割に効果ないし。つまらねぇって思う。
実際、ジョギングですら、僕はちょっとクビをひねるんですよね。
ジョギングの創始者であるジェームス・フィックスという人は、52歳の若さで亡くなったのですが、どうも、ジョギング中に心臓マヒで死んだらしい。ジョギングですらこれです。「はげしく動かないとスポーツじゃない」とでも思ってるんでしょうね。アホな話です。
この十数年で言うと、やっと欧米のスポーツ理論も東洋の考え方に近づいてきたらしくマフェトン理論あたりは、けっこうまともだと思うのですよ。いわく、「心拍数で180-年齢を超えない程度の緩い運動をこそベースにせよ」というもので、これは単純に言ってしまえば、「早歩き以上の運動は体を壊すので注意せよ」ということなのです。
体を壊さずに競技の成績を伸ばそうと思ったら、まず基礎体力として、「早歩き程度の運動を、まずやりなさい」ということです。で、そこがキチンとできていないのに、走るとかの強度の強い運動をすると、体調が悪くなったり、健康をそこなったりするということなんですね。
食べ物においても、似たようなことがあります。
それは、これまた有名な「マクガバン報告」であります。
アメリカでは、1960年代に国民一人当たりの医療費が世界一高くなってしまい、医療費によって国政が破綻しかねないというところまで行った訳です。
なので、いったい健康というものを実現するには何が必要なのかなどを調査した「マクガバン報告」というものがまとめられたのです。確か1970年くらいのことだったはずです。
だいたい健康について語るにおいて、この「マクガバン報告」を知らないというのは話にならないわけでして。
マクガバン報告においては、有名な話ですが日本食が高く評価されました。
「ガンや心臓病などの増加は食生活の誤り」という、まさに東洋の医食同源の考え方がマクガバン議員によって、アメリカ国政に報告されたわけですよ。そして「肉ばっかり食ってたらアカン。日本人みたいにシーベジタブルを食え!」ってなった。
たぶん。おそらくは、この報告がアメリカ人の食生活を大きく変容させて、アメリカ国内で牛肉の売れ行きが多少落ちて、その影響で、米国産の牛肉が日本に流れてきたんだと思うのですよ。
それが1985年頃の「牛肉オレンジ交渉」ってものになったのだろうと思われます。
この後、日本では焼き肉屋がいきなり急増したわけでね。ほんとに。それまでそんなにたくさん牛肉なんて食ってなかったんだし。で、吉野屋が伸びたのも、この「牛肉オレンジ交渉」の後です。
つまりは、アメリカ人がマクガバン報告で「和食が健康に良いのだ!」と気付いたが故に、日本人は牛肉を食わされたって事なんですよ。大きく、20年くらいのスパンで物事を捉えるとね。
だいぶ話ははずれてしまいましたが…。
という事で、こういう大枠の事は分っていながらも、まともなダイエットもしてこなかった馬鹿な私は、腹が出まくりまして、「これはイカン!」と、最近はひたすら歩いております。まぁ、一日1万5千歩くらいですな。そのくらいは歩かないと。それがベース。基礎。下支え、であります。
(また太極拳を始めようかなぁ、とかも思ってたりするのですが。)
ともあれ、やはり日本人には東洋の健康スタイルが性に合うわけで、そういう意味では、石原結實(いしはら・ゆうみ)さんあたりも、たいした医者だと思うのですよね。あの人、漢方の人だしねぇ。実践的で優れてると思う。
まだまだ、いろいろ書きたいことはあるんですけど、それより何より、この「東洋体育の本」という名著が、あまり手軽には入手できないのだという事実の方が、僕的には残念至極だし、くやしいし、寂しいですねぇ。
なんかね、津村喬さん、ムックという事で、雑誌と同じく売り切りで原稿を書いてしまったらしいんですよねぇ。
だから、この本が売れても、著者の津村さんには一銭も入らないし、出版社も力が入ってないわけですよ。内容の良さを理解してないから。
困った事だよなぁ。ほんとに良い本なのに。
うーむむむむ。
ISBN:4844062042 単行本 岡本 浩一 ライオン社 2006/09 ¥830
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4844062042/249-9767057-8485143
ちょっと、「はてな」にもブログを持っていて、そっちで書いた内容をこっちにも転載しておきます。
もう半年も前の書き込みですけども、けっこう精神的にしんどかった時の日記なのに、冷静に自己分析していて、自分で感心してしまった。
ま、書籍紹介でもありますので、その意味でも一部修正してお送りします。
--------------------
ここしばらく、精神的に辛いと言うか、学びの大きい事とかあったので、その反動というのがあって、最近連続して書いてるんですが。
まぁ、それはそれとして、精神的に落ち着いてる人なら、仕事をして、お休みを取って、また仕事をしてというパターンで毎日を過ごされると思うのです。
で、これが大脳生理学的には、けっこう重要な事らしいんですね。
たとえば「勉強をしてからテレビを見る」のか、「テレビを見てから勉強する」のかとか、どういう順番で勉強するのがいいのかとかを、よく考えないといけないようです。
そんなこと、どっちでも同じように思えるんですけど、記憶の定着という意味からは、しっかり勉強してからリラックスする方が、勉強の記憶が定着しやすいらしいんですね。
このあたり、
「上達の型」を身につける―能力アップの実践心理学
という本をいま読んでいて、とても面白いです。
この岡本浩一さんの本はどれを読んでも、本当に面白くて好きなんですが、もう、何度も紹介していますが、上記の本とともに、
「上達の法則」―効率のよい努力を科学する
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4569621988/249-9767057-8485143
という書籍も、とてもおもしろかったので、おすすめしておきます。(この「ひとよみにっき」でも何度も紹介してます。)
で、この岡本さんのご本によれば、せいいっぱい頑張ったら、その後はすぐに休む、というのが良いみたいなんですね。
だから本当はここの日記も一週間書いたら一日休む、くらいの方がいいんだと思うんですね。運動なんかもマフェトン理論とか見ると3週間トレーニングして一週間を調整期間にするとか普通にありますしね。(マフェトン理論も面白いのですが。)
で、このあたり、「成長する」という事を頭に置いておきたいと思うのですよ。
勉強しても、忘れてしまっては単なる娯楽と変わりません。定着するから長期記憶になって人生に対する収穫になるわけです。
たとえば恋愛やら、仕事での人間関係のトラブルやらでも同じ事だと思うのですよ。何かうまくいかなかった出来事にぶつかる。そしたらそれをキチンと整理して記憶して、次の機会に活かす。
それが「成長する」ということで、つまりは「体験した出来事から学ぶ」って事なわけですね。
ということは、体験した出来事は、つねに自分なりに整理して、長期記憶として保管し、次の機会に活かせないと「学んだ」ことにはならないってことなんです。
自分の失敗をキチンと直視して、そこから逃げない。自分の「弱いところ」「弱点」「嫌なところ」を抑圧せずに、勇気を持って直視して、ありのままの「ダメな自分」を自覚して、そしてそれを受け入れる。
そういう事をした上でないと、自分の失敗の原因を把握できないし、そうやって、ありのままの原因把握さえすれば、そうそう同じ失敗を繰り返すこともないわけです。
で、この自己をありのままに見て整理するとかをせず、次の機会に活かせないのが「依存」なんですね。
たとえば、自分の嫌な現実を直視したくないから、お酒に逃げるとか、ギャンブルにはまるとか。自分を直視しないわけですよ。自分から逃げる。自分の弱点や弱みを直視しないためには、どんなごまかしでも活用してやるぞ! てなもんで、お酒やギャンブルだけじゃなく、恋愛(らしきもの)に逃げたり、子供に逃げたりという人間関係へ逃げたりする。
これ、実は当人は「休んでる」つもりなんですけど、全然休んでなくて、パンツのゴムひもみたいなユル〜いストレスをヒタヒタと感じながら、それを直視せずに代償行為でごまかしてるわけですよ。
でもやっぱり勉強するというのと同じで、心に少し負荷はかかるけれども、現実をはっきりと見つめて、それを受け入れる、という事をしないといけない。そうしてはじめて、自分というものがわかるわけで。
で、そういうしんどい事をしたら、やっぱりちょっと「休む」ってのが必要なんですね。その休み方は人それぞれでしょうけど、とにかく「判断の停止」=「アポケー」の状態に、いったんは自分を置かないとダメなんだろうなぁと思うのです。
ちょっとボーっとするというか。
無意識に身をゆだねるというか。
そういう、ある意味「考える事の放棄」とか「意志の遺棄」みたいな状態、ちゅうぶらりんの状態を、計画的に自分の生活に入れておかないとダメだよなぁと思うんです。
そういう「休み」があってはじめて、自分の現実を直視する力も復活するわけですしね。
なので、休んでない人は酒とかギャンブルとか、そういう代償行為に走りやすいと思う。依存して代償行為をするっていうのは、ようは、朝から晩まで、月月火水木金金、ストレスにさらされたままの状態って事だろうと思うし。
結局、休むっていうのは、自分を直視してるかどうか、って事なんだと思うんですよ。疲れている自分を、客観的に実感する、みたいな事だと思う。
それはもう、「全部お休み」でないとおかしいのよね。
酒も休む。ギャンブルも休む。子供依存も休む。全部休む。何もしない。わざと何もしない。考えない。ただ、この世に自分ひとりきりが存在している。そういう感覚かなぁ。そういうのを、まず感じないと休みにならないし、辛いことを乗り切る力にもならないって思う。
みんな、うまく休んでね。
いやほんと。
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4844062042/249-9767057-8485143
ちょっと、「はてな」にもブログを持っていて、そっちで書いた内容をこっちにも転載しておきます。
もう半年も前の書き込みですけども、けっこう精神的にしんどかった時の日記なのに、冷静に自己分析していて、自分で感心してしまった。
ま、書籍紹介でもありますので、その意味でも一部修正してお送りします。
--------------------
ここしばらく、精神的に辛いと言うか、学びの大きい事とかあったので、その反動というのがあって、最近連続して書いてるんですが。
まぁ、それはそれとして、精神的に落ち着いてる人なら、仕事をして、お休みを取って、また仕事をしてというパターンで毎日を過ごされると思うのです。
で、これが大脳生理学的には、けっこう重要な事らしいんですね。
たとえば「勉強をしてからテレビを見る」のか、「テレビを見てから勉強する」のかとか、どういう順番で勉強するのがいいのかとかを、よく考えないといけないようです。
そんなこと、どっちでも同じように思えるんですけど、記憶の定着という意味からは、しっかり勉強してからリラックスする方が、勉強の記憶が定着しやすいらしいんですね。
このあたり、
「上達の型」を身につける―能力アップの実践心理学
という本をいま読んでいて、とても面白いです。
この岡本浩一さんの本はどれを読んでも、本当に面白くて好きなんですが、もう、何度も紹介していますが、上記の本とともに、
「上達の法則」―効率のよい努力を科学する
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4569621988/249-9767057-8485143
という書籍も、とてもおもしろかったので、おすすめしておきます。(この「ひとよみにっき」でも何度も紹介してます。)
で、この岡本さんのご本によれば、せいいっぱい頑張ったら、その後はすぐに休む、というのが良いみたいなんですね。
だから本当はここの日記も一週間書いたら一日休む、くらいの方がいいんだと思うんですね。運動なんかもマフェトン理論とか見ると3週間トレーニングして一週間を調整期間にするとか普通にありますしね。(マフェトン理論も面白いのですが。)
で、このあたり、「成長する」という事を頭に置いておきたいと思うのですよ。
勉強しても、忘れてしまっては単なる娯楽と変わりません。定着するから長期記憶になって人生に対する収穫になるわけです。
たとえば恋愛やら、仕事での人間関係のトラブルやらでも同じ事だと思うのですよ。何かうまくいかなかった出来事にぶつかる。そしたらそれをキチンと整理して記憶して、次の機会に活かす。
それが「成長する」ということで、つまりは「体験した出来事から学ぶ」って事なわけですね。
ということは、体験した出来事は、つねに自分なりに整理して、長期記憶として保管し、次の機会に活かせないと「学んだ」ことにはならないってことなんです。
自分の失敗をキチンと直視して、そこから逃げない。自分の「弱いところ」「弱点」「嫌なところ」を抑圧せずに、勇気を持って直視して、ありのままの「ダメな自分」を自覚して、そしてそれを受け入れる。
そういう事をした上でないと、自分の失敗の原因を把握できないし、そうやって、ありのままの原因把握さえすれば、そうそう同じ失敗を繰り返すこともないわけです。
で、この自己をありのままに見て整理するとかをせず、次の機会に活かせないのが「依存」なんですね。
たとえば、自分の嫌な現実を直視したくないから、お酒に逃げるとか、ギャンブルにはまるとか。自分を直視しないわけですよ。自分から逃げる。自分の弱点や弱みを直視しないためには、どんなごまかしでも活用してやるぞ! てなもんで、お酒やギャンブルだけじゃなく、恋愛(らしきもの)に逃げたり、子供に逃げたりという人間関係へ逃げたりする。
これ、実は当人は「休んでる」つもりなんですけど、全然休んでなくて、パンツのゴムひもみたいなユル〜いストレスをヒタヒタと感じながら、それを直視せずに代償行為でごまかしてるわけですよ。
でもやっぱり勉強するというのと同じで、心に少し負荷はかかるけれども、現実をはっきりと見つめて、それを受け入れる、という事をしないといけない。そうしてはじめて、自分というものがわかるわけで。
で、そういうしんどい事をしたら、やっぱりちょっと「休む」ってのが必要なんですね。その休み方は人それぞれでしょうけど、とにかく「判断の停止」=「アポケー」の状態に、いったんは自分を置かないとダメなんだろうなぁと思うのです。
ちょっとボーっとするというか。
無意識に身をゆだねるというか。
そういう、ある意味「考える事の放棄」とか「意志の遺棄」みたいな状態、ちゅうぶらりんの状態を、計画的に自分の生活に入れておかないとダメだよなぁと思うんです。
そういう「休み」があってはじめて、自分の現実を直視する力も復活するわけですしね。
なので、休んでない人は酒とかギャンブルとか、そういう代償行為に走りやすいと思う。依存して代償行為をするっていうのは、ようは、朝から晩まで、月月火水木金金、ストレスにさらされたままの状態って事だろうと思うし。
結局、休むっていうのは、自分を直視してるかどうか、って事なんだと思うんですよ。疲れている自分を、客観的に実感する、みたいな事だと思う。
それはもう、「全部お休み」でないとおかしいのよね。
酒も休む。ギャンブルも休む。子供依存も休む。全部休む。何もしない。わざと何もしない。考えない。ただ、この世に自分ひとりきりが存在している。そういう感覚かなぁ。そういうのを、まず感じないと休みにならないし、辛いことを乗り切る力にもならないって思う。
みんな、うまく休んでね。
いやほんと。
真実はやがて世の中にじわじわと広がる。
2007年2月25日 読書
最高支配層だけが知っている日本の真実
ISBN:488086210X 単行本(ソフトカバー) 副島国家戦略研究所 成甲書房 2007/02/15 ¥1,890
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売れているのだそうである。この本。
と言っても別に驚かない。
少なくとも梅田のブックファーストあたりでは、一番人のよく見る一階の棚で平積みどころか、棚にドドンと十冊くらい平積みで並んでいる。
やっと世の中が副島さん一派の知性に追いついてきた感じがして感慨深い。
もともと、世に言う「陰謀論」というのは、よほどの裏付けがない限り、語るべきではないと私は考えていたのだけれど、副島さんと、そのお弟子さんたちは、コツコツ、コツコツと公開情報や海外の文献などをたんねんに読み込んで、とうとうここまでの本、というか論文ですな、そういう業績を築き上げてくれました。
ずっと副島さんところの会員制サイトで会員を続けていて、応援してきたかいがあったというものです。
簡単に師弟関係を紹介すると、先日紹介した憲法言論の小室直樹先生が、副島隆彦の先生にあたります。小室先生は僕も大尊敬していますが、それは副島さんも同じ事。「学恩」というものを感じています。
この「学恩」というものは、「そうか!そうだったのか!」というアハ体験なしには感じる事ができないもので、結局いろいろなことに継続的・持続的に疑問を持ちつつ学習していかないと実感できないのかも知れませんが、一度そういう体験を得ると視野の広大な広がりや考え方の大転換が行われるだけに、ものすごく大きな喜びを感じられるものなのですね。なので「学恩」というのは大きい。
それはそれとして、この「日本の真実」という本は、副島さんのお弟子さん達が書いた本です。
副島隆彦さんも重要な一編を載せてますが、一編だけです。主役はお弟子さんたちでしょう。
で、そのお弟子さん達の書いている内容が充実している。そこが素晴らしい。
これで、小室-副島-その弟子という三代の流れができたことになります。僕としては、この流れが存在しているということがとてもうれしい。
ここで紹介しているアマゾンの書籍の画像には「オビ」がついていないので、わからないですけれども、実際の本には「真実はやがて世の中にじわじわと広がる。」というキャッチコピーが添えられているんですね。そのじわじわというのはまさに、師弟関係の教えあい、切磋琢磨しあう過程を含めた「時間という熟成装置」のことだよな、と思うのです。
この二三年で言うと、僕としては、副島さんの原稿とかより、そのお弟子さんである「アルルの男・ヒロシ」こと、中田安彦さんのブログ
http://amesei.exblog.jp/
のほうを、けっこう楽しみにしていたりする。実に視点が現実的で、なおかつ物事の「ウラ」読みもキチンと押さえていて面白いのだ。
いやまぁ、基本的には副島さんのファンなんですけどね。
でも、こうしてお弟子さん達が育っているというのが、実にすばらしい。あえてたいそうに言うなら、まぁ日本の宝です。いや、ほんとに。
最近では、ベンジャミン・フルフォードの一連の書籍や発言とか、小林よしのりのインタビューを目玉に持ってきて、けっこう書店でアピールした、「アメリカの日本改造計画」
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%94%B9%E9%80%A0%E8%A8%88%E7%94%BB%E2%80%95%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%81%8C%E6%9B%B8%E3%81%91%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8C%E6%97%A5%E7%B1%B3%E8%AB%96%E3%80%8D-%E9%96%A2%E5%B2%A1-%E8%8B%B1%E4%B9%8B/dp/4872577442/sr=8-1/qid=1172353988/ref=pd_bbs_sr_1/503-3036704-0344765?ie=UTF8&s=books
とか、かの重要書籍と言える「拒否できない日本」
http://www.amazon.co.jp/%E6%8B%92%E5%90%A6%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%AA%E3%81%84%E6%97%A5%E6%9C%AC-%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%94%B9%E9%80%A0%E3%81%8C%E9%80%B2%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%84%E3%82%8B-%E9%96%A2%E5%B2%A1-%E8%8B%B1%E4%B9%8B/dp/4166603760/sr=8-1/qid=1172354152/ref=pd_bbs_sr_1/503-3036704-0344765?ie=UTF8&s=books
とかの注目度も上がってきているようで、大変よろこばしいことであります。(この本も遅ればせながら、やっと最近読み始めました。)
僕は単なる「嫌米」というのは、嫌いでして、これらの書籍のように、キチンとした裏付けを持って「ここが良くない」と、誰が見てもグゥの音も出ないような「論破」をすることこそが大切だと思うのです。
そう言う意味では、ちゃんと根拠となる情報の出どころを開示し、引用は引用としてつまびらかにするやり方(そういうやりかたが本来、当たり前でして、自分の感覚や妄想をごちゃごちゃ語るのは、最初から話にならないんですが、土人の国、日本では、そういう妄想論議も別に間違った事ではない、みたいな風潮になっているので困ってしまいます。)が、主流になっていきそうな感じがあってうれしいものです。
すでに、日本においては、新聞やテレビというマスメディアにおいて「言論の自由」は完全になくなっております。それはもう、あの「郵政解散」の時にはっきりわかった。マスメディアが小泉に荷担した。話にならない。
なので、いま日本における「言論」というものは、書籍を中心にした出版文化においてのみ成立しているという、実にあやうい状況なのです。
正直言って、インターネットもダメです。キチンとした「体系」を頭に入れた上で検索すれば、かなりの事が分るのですが、テレビの白痴的内容を見ただけでキーワード検索しても、電通あたりが雇った、アルバイトの書き込みによる大量コメントにしかたどりつけないのです。
自分で勉強してない人は、真実にたどりつけない。
そういう世の中になってしまってるわけです。
日本の出版社というのは、それこそ中小の小さな会社がひしめきあって、いろいろな書籍を、いろいろに出しているので、なんとか「言論統制」から逃れられていると言えます。
しかし、この部分も、たとえばアマゾンとかで、一括して押さえられてしまう可能性もないことはないわけで、本当に意識して「真実」を探すスタンスで物事を見ていかないと、何もわからないってことにしかならなくなってしまうなぁと思うのです。
とは言うものの、この「日本の真実」が売れていたり、ベンジャミン・フルフォードが頑張っていたり、「拒否できない日本」がちゃんと売れていたり、「年次改革要望書」の話が、普通に世の中に出てきたりする状況は、実に良いことだと思うのであります。
もっとちゃんと理解しないといけないですよね。
そういう意味では、いま公開中の映画「バブルへGO」という奴も、アメリカによる金融コントロールによりバブル→バブル崩壊へ進んだという認識のもとにコメディ映画にしたてあげて「俺たち騙されちゃったんだよ。」をちゃんと描いてるらしく、実に興味深い。あの映画も見に行かなくっちゃ。
昔の「私をスキーに連れてって」の馬場さんが監督してるらしいけど、馬場さんも学習したってことだよね。やっぱり勉強しなきゃなぁ。
で、勉強するなら、「書籍」で、なおかつ、「ひとつのジャンルで複数冊(最低10冊)は読む」という「体系を押さえる」というやり方が正しいし、賢いだろうって思う。
(なので、このレビューも関連書籍をいくつも紹介してるのですが。)
こういう日本・アメリカの関係性を、日本が収奪されてしまっている側なのだ、というように捉えている流れは、やっぱり副島隆彦さんの「属国・日本論」
http://www.amazon.co.jp/%E5%B1%9E%E5%9B%BD%E3%83%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AB%96-%E5%89%AF%E5%B3%B6-%E9%9A%86%E5%BD%A6/dp/4772704302/sr=8-1/qid=1172355598/ref=sr_1_1/503-3036704-0344765?ie=UTF8&s=books
からこそ始まっている訳で、そういう意味では、この「属国・日本論」の「政治・経済・文化のすべてを帝国と属国の関係で読み解く」という大きな枠組みでの視点を提供した書籍の存在意義は、とても大きいと言わざるを得ないわけです。
まず我々が、「属国に暮らしていて、帝国からの縛りを受けている」という事実を直視しない事には、なにも始まらないわけです。「日本には日本独自の文化がある!」とかなんとか、自国の文化のカラの中に閉じこもっていても、何の意味もない。
敵を知れば百戦あやうからず、という事で、まず敵の文化ややり方を「正しく」学習した上で、対抗策を考えないといけないわけです。
しかし、いまの日本、自分たちが「属国である」という事実を認める事すらできない、情けない感情論の方が「普通」なわけです。
はっきり言って「帝国」の方が、人材も豊かだし、高度な情報も山盛り集まっているのです。だから、その事実を正しく把握して、相手側の知識を分捕ってこないといけない。そうでなきゃ対抗できるわけがないのです。
まぁ、そんなこんなをひっくるめて、小室-副島-その弟子という流れから、こういう書籍が生まれて、しかもそれが支持されているという事に、大いに安心感を感じておる私ではあります。
ISBN:488086210X 単行本(ソフトカバー) 副島国家戦略研究所 成甲書房 2007/02/15 ¥1,890
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売れているのだそうである。この本。
と言っても別に驚かない。
少なくとも梅田のブックファーストあたりでは、一番人のよく見る一階の棚で平積みどころか、棚にドドンと十冊くらい平積みで並んでいる。
やっと世の中が副島さん一派の知性に追いついてきた感じがして感慨深い。
もともと、世に言う「陰謀論」というのは、よほどの裏付けがない限り、語るべきではないと私は考えていたのだけれど、副島さんと、そのお弟子さんたちは、コツコツ、コツコツと公開情報や海外の文献などをたんねんに読み込んで、とうとうここまでの本、というか論文ですな、そういう業績を築き上げてくれました。
ずっと副島さんところの会員制サイトで会員を続けていて、応援してきたかいがあったというものです。
簡単に師弟関係を紹介すると、先日紹介した憲法言論の小室直樹先生が、副島隆彦の先生にあたります。小室先生は僕も大尊敬していますが、それは副島さんも同じ事。「学恩」というものを感じています。
この「学恩」というものは、「そうか!そうだったのか!」というアハ体験なしには感じる事ができないもので、結局いろいろなことに継続的・持続的に疑問を持ちつつ学習していかないと実感できないのかも知れませんが、一度そういう体験を得ると視野の広大な広がりや考え方の大転換が行われるだけに、ものすごく大きな喜びを感じられるものなのですね。なので「学恩」というのは大きい。
それはそれとして、この「日本の真実」という本は、副島さんのお弟子さん達が書いた本です。
副島隆彦さんも重要な一編を載せてますが、一編だけです。主役はお弟子さんたちでしょう。
で、そのお弟子さん達の書いている内容が充実している。そこが素晴らしい。
これで、小室-副島-その弟子という三代の流れができたことになります。僕としては、この流れが存在しているということがとてもうれしい。
ここで紹介しているアマゾンの書籍の画像には「オビ」がついていないので、わからないですけれども、実際の本には「真実はやがて世の中にじわじわと広がる。」というキャッチコピーが添えられているんですね。そのじわじわというのはまさに、師弟関係の教えあい、切磋琢磨しあう過程を含めた「時間という熟成装置」のことだよな、と思うのです。
この二三年で言うと、僕としては、副島さんの原稿とかより、そのお弟子さんである「アルルの男・ヒロシ」こと、中田安彦さんのブログ
http://amesei.exblog.jp/
のほうを、けっこう楽しみにしていたりする。実に視点が現実的で、なおかつ物事の「ウラ」読みもキチンと押さえていて面白いのだ。
いやまぁ、基本的には副島さんのファンなんですけどね。
でも、こうしてお弟子さん達が育っているというのが、実にすばらしい。あえてたいそうに言うなら、まぁ日本の宝です。いや、ほんとに。
最近では、ベンジャミン・フルフォードの一連の書籍や発言とか、小林よしのりのインタビューを目玉に持ってきて、けっこう書店でアピールした、「アメリカの日本改造計画」
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%94%B9%E9%80%A0%E8%A8%88%E7%94%BB%E2%80%95%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%81%8C%E6%9B%B8%E3%81%91%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8C%E6%97%A5%E7%B1%B3%E8%AB%96%E3%80%8D-%E9%96%A2%E5%B2%A1-%E8%8B%B1%E4%B9%8B/dp/4872577442/sr=8-1/qid=1172353988/ref=pd_bbs_sr_1/503-3036704-0344765?ie=UTF8&s=books
とか、かの重要書籍と言える「拒否できない日本」
http://www.amazon.co.jp/%E6%8B%92%E5%90%A6%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%AA%E3%81%84%E6%97%A5%E6%9C%AC-%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%94%B9%E9%80%A0%E3%81%8C%E9%80%B2%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%84%E3%82%8B-%E9%96%A2%E5%B2%A1-%E8%8B%B1%E4%B9%8B/dp/4166603760/sr=8-1/qid=1172354152/ref=pd_bbs_sr_1/503-3036704-0344765?ie=UTF8&s=books
とかの注目度も上がってきているようで、大変よろこばしいことであります。(この本も遅ればせながら、やっと最近読み始めました。)
僕は単なる「嫌米」というのは、嫌いでして、これらの書籍のように、キチンとした裏付けを持って「ここが良くない」と、誰が見てもグゥの音も出ないような「論破」をすることこそが大切だと思うのです。
そう言う意味では、ちゃんと根拠となる情報の出どころを開示し、引用は引用としてつまびらかにするやり方(そういうやりかたが本来、当たり前でして、自分の感覚や妄想をごちゃごちゃ語るのは、最初から話にならないんですが、土人の国、日本では、そういう妄想論議も別に間違った事ではない、みたいな風潮になっているので困ってしまいます。)が、主流になっていきそうな感じがあってうれしいものです。
すでに、日本においては、新聞やテレビというマスメディアにおいて「言論の自由」は完全になくなっております。それはもう、あの「郵政解散」の時にはっきりわかった。マスメディアが小泉に荷担した。話にならない。
なので、いま日本における「言論」というものは、書籍を中心にした出版文化においてのみ成立しているという、実にあやうい状況なのです。
正直言って、インターネットもダメです。キチンとした「体系」を頭に入れた上で検索すれば、かなりの事が分るのですが、テレビの白痴的内容を見ただけでキーワード検索しても、電通あたりが雇った、アルバイトの書き込みによる大量コメントにしかたどりつけないのです。
自分で勉強してない人は、真実にたどりつけない。
そういう世の中になってしまってるわけです。
日本の出版社というのは、それこそ中小の小さな会社がひしめきあって、いろいろな書籍を、いろいろに出しているので、なんとか「言論統制」から逃れられていると言えます。
しかし、この部分も、たとえばアマゾンとかで、一括して押さえられてしまう可能性もないことはないわけで、本当に意識して「真実」を探すスタンスで物事を見ていかないと、何もわからないってことにしかならなくなってしまうなぁと思うのです。
とは言うものの、この「日本の真実」が売れていたり、ベンジャミン・フルフォードが頑張っていたり、「拒否できない日本」がちゃんと売れていたり、「年次改革要望書」の話が、普通に世の中に出てきたりする状況は、実に良いことだと思うのであります。
もっとちゃんと理解しないといけないですよね。
そういう意味では、いま公開中の映画「バブルへGO」という奴も、アメリカによる金融コントロールによりバブル→バブル崩壊へ進んだという認識のもとにコメディ映画にしたてあげて「俺たち騙されちゃったんだよ。」をちゃんと描いてるらしく、実に興味深い。あの映画も見に行かなくっちゃ。
昔の「私をスキーに連れてって」の馬場さんが監督してるらしいけど、馬場さんも学習したってことだよね。やっぱり勉強しなきゃなぁ。
で、勉強するなら、「書籍」で、なおかつ、「ひとつのジャンルで複数冊(最低10冊)は読む」という「体系を押さえる」というやり方が正しいし、賢いだろうって思う。
(なので、このレビューも関連書籍をいくつも紹介してるのですが。)
こういう日本・アメリカの関係性を、日本が収奪されてしまっている側なのだ、というように捉えている流れは、やっぱり副島隆彦さんの「属国・日本論」
http://www.amazon.co.jp/%E5%B1%9E%E5%9B%BD%E3%83%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AB%96-%E5%89%AF%E5%B3%B6-%E9%9A%86%E5%BD%A6/dp/4772704302/sr=8-1/qid=1172355598/ref=sr_1_1/503-3036704-0344765?ie=UTF8&s=books
からこそ始まっている訳で、そういう意味では、この「属国・日本論」の「政治・経済・文化のすべてを帝国と属国の関係で読み解く」という大きな枠組みでの視点を提供した書籍の存在意義は、とても大きいと言わざるを得ないわけです。
まず我々が、「属国に暮らしていて、帝国からの縛りを受けている」という事実を直視しない事には、なにも始まらないわけです。「日本には日本独自の文化がある!」とかなんとか、自国の文化のカラの中に閉じこもっていても、何の意味もない。
敵を知れば百戦あやうからず、という事で、まず敵の文化ややり方を「正しく」学習した上で、対抗策を考えないといけないわけです。
しかし、いまの日本、自分たちが「属国である」という事実を認める事すらできない、情けない感情論の方が「普通」なわけです。
はっきり言って「帝国」の方が、人材も豊かだし、高度な情報も山盛り集まっているのです。だから、その事実を正しく把握して、相手側の知識を分捕ってこないといけない。そうでなきゃ対抗できるわけがないのです。
まぁ、そんなこんなをひっくるめて、小室-副島-その弟子という流れから、こういう書籍が生まれて、しかもそれが支持されているという事に、大いに安心感を感じておる私ではあります。
日本人のための憲法原論
2007年2月13日 読書
ISBN:4797671459 単行本 小室 直樹 集英社インターナショナル ¥1,890
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ふっと、このロングセラーというか、非常に評判の良い、素晴らしい書籍のことを、キチンと紹介したくなったので、書いてみたいと思います。
この本は、数年前に「痛快!憲法学」というタイトルで発売された書籍の愛蔵版で内容は全く同じ。
小室直樹さんの憲法に関する基礎知識を欧米の歴史とともに解説していて、「編集者シマジ」という無知なる対談相手を生徒役に、授業のような形式で書かれている書籍であります。
痛快!憲法学
http://www.amazon.co.jp/%E6%86%B2%E6%B3%95%E5%AD%A6-Amazing-Study-Constitution-Democracy/dp/4797670312
読みやすく、わかりやすく、日本人が学ぶべき欧米の文化と歴史を説明した上で、その文化体系の上に成り立っている「憲法」というものを、あくまで学問的立場から、過不足無く解説している書籍です。
僕はこの本を、現代ビジネスマンが通読するべき書籍のNo1として推薦したいのですね。
この10年、いろいろな本を読んで勉強してきたわけですが、その10年の中でもっとも役に立った、ベスト1を選べ、と言われたときに、この本を選ぶ事になるよなぁ、ということなんです。
こういう想いは、別に僕だけのものではなくて、アマゾンでの評価を見ても、この本、(特に元になった「痛快!憲法学」の方の評価ですが。)誰もが☆五つの最高評価をしています。
それだけの価値はある本だと言えるでしょう。
で、その「痛快!憲法学」が素晴らしかったので、この「日本人のための憲法原論」が出たときは、一瞬続編か?と思ったのですが、なんのことはない、「痛快!憲法学」が内容が素晴らしかった割に、ムック風のあざとい装丁だったので(なんせ集英社だったから、表紙は江口寿司の描く女性イラストだったし、中面には北斗の拳のケンシロウがバンバンに出ているというキワもの的装丁だったのです。)それを改めて、きちんとした普通の単行本の形に直した、というだけだったのですね。
ようするに装丁と判型が変わっただけで、内容はそのまま、という事なんですが、逆に言えば、それだけ内容が良い、という事でもあります。
小室直樹という人はアメリカに留学して、あらゆる学問を学んで日本に帰ってきて、東大の学長候補とまで言われたのだけれど、結局は学者としてこういう書籍を書いて糊口を稼ぐ在野の知識人として生きる道を選んだ人です。
まぁ、そういう長になるような権力闘争に向いてなかったんでしょうね、純粋に学者なんだな、という評価が多いようです。
しかし、在野の知識人とはいえ、この多くの人がまともに書籍を読まなくなってしまった日本の書籍界で、ずっと本を書くだけで生きてきた人ですから、その内容の深さ、確かさは折り紙付きです。
で、数ある小室本の中でも、この「痛快!憲法学」は出色の出来。最高傑作と言っても良いほどの内容なのです。
このあたりの事は、小室先生の少々ウケを狙ったあざとい表現の仕方(出版界で生きて行くには、多少のフカシも必要ですからなぁ)に批判的な人達ですら、この本に関してはナンクセをつけてないんですね。
そのくらい内容の良い本だ、という事です。
アマゾンの評価をていねいに読んでいくとわかりますが、この本に対して低い評価をしてる人というのは、相当、かなり、よっぽどの知識の持ち主なんです。
この本の内容を批判しようとしたら、そりゃもう、この本と同等の厚みのある古今東西の名著を読み調べした上でないと批判ができない。(でも、それを実際にやってる人がいてたりします。すごいね、世の中というのは。まさに上には上がいる。あ、すごくトンチンカンな評価をして☆一つとか書いてる人もいてますが、ちょっと恥ずかしいですね。下には下がいるということか。)
ともあれ、ごく普通の一般的な日本人なら、まぁそこまで深い知識は必要ないので、とりあえずこの本を読んでおけば、世界的な歴史的名著10冊分くらいの知識を、コンパクトに短時間に学べるというような本なわけです。
最初の「痛快憲法学」が出たのが2001年の4月。読んですぐに僕は「すごい!」と思ってたわけですが、世間的にどうなのかがわからない。でも、とにかくもう、本当にすごいと感心したのでありました。
そうこうしているうちに、アマゾンを見てみれば、この6年でレビューが36本ついていて、平均評価が☆5個中4.5。
ものすごい高さです。
この一冊に感激した人が、やっぱりそれだけはいた、ということですね。
読みやすくて、面白くて、それでいてタメになる。
しかも、こういう愛蔵版まで出るほどに評価が上がってきた、という事なわけです。
小室先生のご著書というと、この本以外の数多くの本は、僕が知る限りでは「中小企業の社長」というような人が、相互に教えあって「読め」「読め」とやっているというのが、一番印象的です。
中小企業の社長というのは、あまり実利のない読書というのはやってるヒマがありません。経営とか資金繰りとか、やらないといけない事が山のようにあるからです。
しかし、そういう人達の多くは、国内市場だけでなく、海外市場にも手を伸ばして、自社の展開を世界に広げなくてはならず、そう言うときに「世界の常識」を、とにかく手軽に簡単に素速く手に入れることが必要なわけですね。
で、そういう世界の常識を入手するための羅針盤として、小室先生のご著書が、とても役立つということなわけです。
法律の仕組みにせよ、学問の体系にせよ、日本国内にあるものは、その多くが海外の「真似っこ」であって、正しく真似るならまだしも、気分・雰囲気だけを真似ていて、その本質を何も学ばないまま日常を過ごしている、というのが我々一般人の姿なので、国内学問だけやっていても、ちーとも役に立たないわけです。
中小企業の社長なんかは、海外の海千山千のビジネスマンとも対等に丁々発止の交渉をすることが必要ですから、そういう場で小室先生のさまざまな著書が好んで読まれている、という事でもあるわけです。
それはつまり、小室先生が書いておられる内容が、世界の法体系であったり、文化であったりを、特段誇張することもなく、ストレートにわかりやすく、歴史や基本概念から解説していて、ウソ・間違いが少ないという事の証しでもあります。実際にそういう交渉や相互理解のために大きく大きく役立つからこそ、社長同士の間で「読め」「読んだか?」という声がかけられるわけですね。
実は、このあたりの社長たちの事情というのは、僕は知らなかったのですが、知り合いのコピーライターが一人いまして、その男に僕は、会うたびに「小室直樹はすごい。読むべきだよ」とずっと言ってたんですが、全然そいつは読まなくて、で、その男が、ある中小企業の社長ばかりが集まる勉強会に定期的に参加するようになってから、それらの社長さんから「君、小室直樹くらい読んでおかないとアカンよ。」と手渡されたという話を聞いて、はじめて知った、というような事なんですけどね。
「そやから言うたやろが。小室直樹は読めって。ほんまにもう!」と文句を言ってたわけなんですがね。なんでワシの言うことは信用せんと、そういう社長の言うことなら信用すんねん!みたいな話ですが。
まぁ、ともあれ、小室先生の本は、どれもこれも一定の水準は超えていて、そのくらい素晴らしいという話なんですけど、そういう各種ある小室本の中でも、この本に関しては、やっぱりアタマひとつ抜け出ていると思うのですね。
●よみやすさ
●おもしろさ
●内容の重要度
この三つが、実にうまくマッチしたと言えると思うのです。
だから、この10年で、僕が読んだ書籍の中でベスト1であって、まずはこの本を読みなされとお勧めすることになるんですね。
昨年、うちの事務所では、5年一緒にやっていたデザイナーの女の子が、広い世間をもっと見てみたいという事で退社して出ていったんですが、本当に前向きで、よく勉強する子だったんで、次の事務所への就職祝いも兼ねて、この本をプレゼントしたんですね。
「この10年読んだ本の中で、いちばん役に立つ本やと思う。それも、そこいらの部課長クラスのビジネスマンやなくて、中小企業とかの社長さんクラスの人が読んでる本やから、小さな企業のトップとも対等に話をするのに役に立つよ。」と言って手渡したわけです。
まぁ、その後、最後まで読んだかどうかは知らないんですけどね。
ともあれ、出版から5年たって愛蔵版が出るほどの評価を受けたというのは、「ああ、この国もまだ、見捨てたものではないな。ちゃんと読書人階級というものが、正しい知性を支えるべく頑張っているし、それを伝え広めようとしているんだなぁ」というのを感じた出来事ではあったわけです。
憲法というのは、ひとつの国の文化を反映していて、それは字句だけを追いかけていてもわかるものではなくて、欧米の歴史(その歴史の中には権力者の首をはねた流血革命もあれば、100年にわたって戦争をし続けた悲しい教訓も含まれているということであり、あまり生半可な表面的知識だけで物事を見てはいけないという事なんですが。)基礎から知ることが不可欠なんですね。
そして、日本の国というのは、法体系や文化体系を欧米と中国から接ぎ木のようにその場その場で組み合わせて輸入してきただけだから「知の体系」というものがおおざっぱに捉えきれていないわけです。
でも、欧米化の波はインターネットをはじめとして、向こうのほうから勝手にやってきて、それに対して「体系」も知らないままに場当たり的に断片的知識だけで対処していると、それはどうしても「なるほど!」という納得を得られなくてイライラしたり、ストレスが溜まってしまったりするものなのです。
しかし、欧米の歴史の概略から押さえていれば、そこまでのイライラを感じる必要はない。「ああ、欧米人なら、こういう考え方をしよるよなぁ。でも日本人のワシとしては、こう考えるよなぁ、さてどのへんでバランスしたものやろか。」とゆったりと構えていられるわけです。まさに心の栄養になるんですね。
そういう意味で、この本は多くの人に読んでもらいたいと思うし、おそらく愛蔵版が出たというのも、この本のそういう側面を出版者側が自覚して、それで出したものだろうと思うのです。
このあたりの基礎知識なしに、法律の問題や、個人の責任の話や、これからの日本社会のあり方などなどは、何をどう論議をしても、それは正しい知識をふまえていない、単なる妄想でしかないんですね。だって我々は欧米人ではないのだから。
そういう意味で、この本は必読です。本当に大事だと思います。
超お勧め。
うーむ、しかし、なんでこの当たり前の「お勧め」をいままで普通に書いてこなかったのかなぁ。うーん。まぁいいや。
ま、ええもんはええんや、ごちゃごちゃ言わずに読まんかい! っちゅうことですわ。
しかし「痛快!憲法学」のユーズド版(中古・古本)が、2400円とか、6800円とかしてるのにはびっくりだなぁ。
良い本はこういう形で読み継がれるわけです。
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ふっと、このロングセラーというか、非常に評判の良い、素晴らしい書籍のことを、キチンと紹介したくなったので、書いてみたいと思います。
この本は、数年前に「痛快!憲法学」というタイトルで発売された書籍の愛蔵版で内容は全く同じ。
小室直樹さんの憲法に関する基礎知識を欧米の歴史とともに解説していて、「編集者シマジ」という無知なる対談相手を生徒役に、授業のような形式で書かれている書籍であります。
痛快!憲法学
http://www.amazon.co.jp/%E6%86%B2%E6%B3%95%E5%AD%A6-Amazing-Study-Constitution-Democracy/dp/4797670312
読みやすく、わかりやすく、日本人が学ぶべき欧米の文化と歴史を説明した上で、その文化体系の上に成り立っている「憲法」というものを、あくまで学問的立場から、過不足無く解説している書籍です。
僕はこの本を、現代ビジネスマンが通読するべき書籍のNo1として推薦したいのですね。
この10年、いろいろな本を読んで勉強してきたわけですが、その10年の中でもっとも役に立った、ベスト1を選べ、と言われたときに、この本を選ぶ事になるよなぁ、ということなんです。
こういう想いは、別に僕だけのものではなくて、アマゾンでの評価を見ても、この本、(特に元になった「痛快!憲法学」の方の評価ですが。)誰もが☆五つの最高評価をしています。
それだけの価値はある本だと言えるでしょう。
で、その「痛快!憲法学」が素晴らしかったので、この「日本人のための憲法原論」が出たときは、一瞬続編か?と思ったのですが、なんのことはない、「痛快!憲法学」が内容が素晴らしかった割に、ムック風のあざとい装丁だったので(なんせ集英社だったから、表紙は江口寿司の描く女性イラストだったし、中面には北斗の拳のケンシロウがバンバンに出ているというキワもの的装丁だったのです。)それを改めて、きちんとした普通の単行本の形に直した、というだけだったのですね。
ようするに装丁と判型が変わっただけで、内容はそのまま、という事なんですが、逆に言えば、それだけ内容が良い、という事でもあります。
小室直樹という人はアメリカに留学して、あらゆる学問を学んで日本に帰ってきて、東大の学長候補とまで言われたのだけれど、結局は学者としてこういう書籍を書いて糊口を稼ぐ在野の知識人として生きる道を選んだ人です。
まぁ、そういう長になるような権力闘争に向いてなかったんでしょうね、純粋に学者なんだな、という評価が多いようです。
しかし、在野の知識人とはいえ、この多くの人がまともに書籍を読まなくなってしまった日本の書籍界で、ずっと本を書くだけで生きてきた人ですから、その内容の深さ、確かさは折り紙付きです。
で、数ある小室本の中でも、この「痛快!憲法学」は出色の出来。最高傑作と言っても良いほどの内容なのです。
このあたりの事は、小室先生の少々ウケを狙ったあざとい表現の仕方(出版界で生きて行くには、多少のフカシも必要ですからなぁ)に批判的な人達ですら、この本に関してはナンクセをつけてないんですね。
そのくらい内容の良い本だ、という事です。
アマゾンの評価をていねいに読んでいくとわかりますが、この本に対して低い評価をしてる人というのは、相当、かなり、よっぽどの知識の持ち主なんです。
この本の内容を批判しようとしたら、そりゃもう、この本と同等の厚みのある古今東西の名著を読み調べした上でないと批判ができない。(でも、それを実際にやってる人がいてたりします。すごいね、世の中というのは。まさに上には上がいる。あ、すごくトンチンカンな評価をして☆一つとか書いてる人もいてますが、ちょっと恥ずかしいですね。下には下がいるということか。)
ともあれ、ごく普通の一般的な日本人なら、まぁそこまで深い知識は必要ないので、とりあえずこの本を読んでおけば、世界的な歴史的名著10冊分くらいの知識を、コンパクトに短時間に学べるというような本なわけです。
最初の「痛快憲法学」が出たのが2001年の4月。読んですぐに僕は「すごい!」と思ってたわけですが、世間的にどうなのかがわからない。でも、とにかくもう、本当にすごいと感心したのでありました。
そうこうしているうちに、アマゾンを見てみれば、この6年でレビューが36本ついていて、平均評価が☆5個中4.5。
ものすごい高さです。
この一冊に感激した人が、やっぱりそれだけはいた、ということですね。
読みやすくて、面白くて、それでいてタメになる。
しかも、こういう愛蔵版まで出るほどに評価が上がってきた、という事なわけです。
小室先生のご著書というと、この本以外の数多くの本は、僕が知る限りでは「中小企業の社長」というような人が、相互に教えあって「読め」「読め」とやっているというのが、一番印象的です。
中小企業の社長というのは、あまり実利のない読書というのはやってるヒマがありません。経営とか資金繰りとか、やらないといけない事が山のようにあるからです。
しかし、そういう人達の多くは、国内市場だけでなく、海外市場にも手を伸ばして、自社の展開を世界に広げなくてはならず、そう言うときに「世界の常識」を、とにかく手軽に簡単に素速く手に入れることが必要なわけですね。
で、そういう世界の常識を入手するための羅針盤として、小室先生のご著書が、とても役立つということなわけです。
法律の仕組みにせよ、学問の体系にせよ、日本国内にあるものは、その多くが海外の「真似っこ」であって、正しく真似るならまだしも、気分・雰囲気だけを真似ていて、その本質を何も学ばないまま日常を過ごしている、というのが我々一般人の姿なので、国内学問だけやっていても、ちーとも役に立たないわけです。
中小企業の社長なんかは、海外の海千山千のビジネスマンとも対等に丁々発止の交渉をすることが必要ですから、そういう場で小室先生のさまざまな著書が好んで読まれている、という事でもあるわけです。
それはつまり、小室先生が書いておられる内容が、世界の法体系であったり、文化であったりを、特段誇張することもなく、ストレートにわかりやすく、歴史や基本概念から解説していて、ウソ・間違いが少ないという事の証しでもあります。実際にそういう交渉や相互理解のために大きく大きく役立つからこそ、社長同士の間で「読め」「読んだか?」という声がかけられるわけですね。
実は、このあたりの社長たちの事情というのは、僕は知らなかったのですが、知り合いのコピーライターが一人いまして、その男に僕は、会うたびに「小室直樹はすごい。読むべきだよ」とずっと言ってたんですが、全然そいつは読まなくて、で、その男が、ある中小企業の社長ばかりが集まる勉強会に定期的に参加するようになってから、それらの社長さんから「君、小室直樹くらい読んでおかないとアカンよ。」と手渡されたという話を聞いて、はじめて知った、というような事なんですけどね。
「そやから言うたやろが。小室直樹は読めって。ほんまにもう!」と文句を言ってたわけなんですがね。なんでワシの言うことは信用せんと、そういう社長の言うことなら信用すんねん!みたいな話ですが。
まぁ、ともあれ、小室先生の本は、どれもこれも一定の水準は超えていて、そのくらい素晴らしいという話なんですけど、そういう各種ある小室本の中でも、この本に関しては、やっぱりアタマひとつ抜け出ていると思うのですね。
●よみやすさ
●おもしろさ
●内容の重要度
この三つが、実にうまくマッチしたと言えると思うのです。
だから、この10年で、僕が読んだ書籍の中でベスト1であって、まずはこの本を読みなされとお勧めすることになるんですね。
昨年、うちの事務所では、5年一緒にやっていたデザイナーの女の子が、広い世間をもっと見てみたいという事で退社して出ていったんですが、本当に前向きで、よく勉強する子だったんで、次の事務所への就職祝いも兼ねて、この本をプレゼントしたんですね。
「この10年読んだ本の中で、いちばん役に立つ本やと思う。それも、そこいらの部課長クラスのビジネスマンやなくて、中小企業とかの社長さんクラスの人が読んでる本やから、小さな企業のトップとも対等に話をするのに役に立つよ。」と言って手渡したわけです。
まぁ、その後、最後まで読んだかどうかは知らないんですけどね。
ともあれ、出版から5年たって愛蔵版が出るほどの評価を受けたというのは、「ああ、この国もまだ、見捨てたものではないな。ちゃんと読書人階級というものが、正しい知性を支えるべく頑張っているし、それを伝え広めようとしているんだなぁ」というのを感じた出来事ではあったわけです。
憲法というのは、ひとつの国の文化を反映していて、それは字句だけを追いかけていてもわかるものではなくて、欧米の歴史(その歴史の中には権力者の首をはねた流血革命もあれば、100年にわたって戦争をし続けた悲しい教訓も含まれているということであり、あまり生半可な表面的知識だけで物事を見てはいけないという事なんですが。)基礎から知ることが不可欠なんですね。
そして、日本の国というのは、法体系や文化体系を欧米と中国から接ぎ木のようにその場その場で組み合わせて輸入してきただけだから「知の体系」というものがおおざっぱに捉えきれていないわけです。
でも、欧米化の波はインターネットをはじめとして、向こうのほうから勝手にやってきて、それに対して「体系」も知らないままに場当たり的に断片的知識だけで対処していると、それはどうしても「なるほど!」という納得を得られなくてイライラしたり、ストレスが溜まってしまったりするものなのです。
しかし、欧米の歴史の概略から押さえていれば、そこまでのイライラを感じる必要はない。「ああ、欧米人なら、こういう考え方をしよるよなぁ。でも日本人のワシとしては、こう考えるよなぁ、さてどのへんでバランスしたものやろか。」とゆったりと構えていられるわけです。まさに心の栄養になるんですね。
そういう意味で、この本は多くの人に読んでもらいたいと思うし、おそらく愛蔵版が出たというのも、この本のそういう側面を出版者側が自覚して、それで出したものだろうと思うのです。
このあたりの基礎知識なしに、法律の問題や、個人の責任の話や、これからの日本社会のあり方などなどは、何をどう論議をしても、それは正しい知識をふまえていない、単なる妄想でしかないんですね。だって我々は欧米人ではないのだから。
そういう意味で、この本は必読です。本当に大事だと思います。
超お勧め。
うーむ、しかし、なんでこの当たり前の「お勧め」をいままで普通に書いてこなかったのかなぁ。うーん。まぁいいや。
ま、ええもんはええんや、ごちゃごちゃ言わずに読まんかい! っちゅうことですわ。
しかし「痛快!憲法学」のユーズド版(中古・古本)が、2400円とか、6800円とかしてるのにはびっくりだなぁ。
良い本はこういう形で読み継がれるわけです。
怒りは猛毒だそうです。
2006年12月28日 読書 コメント (7)
怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉
ISBN:4901679201 新書 Alubomulle Sumanasara サンガ ¥735
前々から「怒り」のコントロールがうまくいかなくて困っておりました。
理不尽な扱いをされたり、コミュニケーション相手が怒ってたりすると、どうしてもこちらも怒ってしまって、それが抑えられなかったりするわけです。
でも最近読んだ本で、その「コントロール不能感」を、大きく低減できる考え方に触れる事ができました。
それが、この本「怒らないこと」
怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉
作者: アルボムッレスマナサーラ, Alubomulle Sumanasara
出版社/メーカー: サンガ
メディア: 新書
です。
前々から、「怒り」をどう扱うかには困っていて、人によっては「怒りこそが戦うパワーだ」という人もいてたりするので、「必要なもの」と考えていたんですが、この仏教の入門書では、その部分を完全に否定して、怒りの感情そのものが悪なのだと規定してるんですね。
いわく、「怒りは猛毒である」ということなんです。
少し極論に聞こえるかも知れませんが、自分の経験を顧みるに、怒りを「猛毒」として注意深く扱う方が、現実的には物事がうまく運ぶように思えます。
実際、「怒り」にとらわれていると、物事の判断が甘くなったり偏ったりしがちですし、良い発想も出にくくなりますし、怒ってる間は同じ事を何度も頭の中で繰り返し考えていて何の発展性もないんですね。
何より重要なのは、その「怒っている時間」は、自分にとって「幸せでない」という事です。怒ってる間は「自分が不幸」なんですよ。
だから「怒り」はすべて「なくす」ようにしなくてはいけない。
この「なくす」という考え方が、非常に重要でして、「怒りを抑える」では、まったく意味がないわけです。「抑えて」しまうと抑圧されて、よけいに「なくし」にくくなる。
「怒りは抑えるものだ」と考えてしまうのは、「怒りは必要なものだから、力は残して、コントロールしよう」という発想なわけですが、ここが怒りのコントロールを難しくしてしまう根本的な、捉え方の過ちなんだろうと思うのですね。
抑えただけでは、消えていないから危険なだけなのです。
怒りは不幸そのものであり、猛毒なのだから、「なくす」「消滅」させなければいけないって事なんですね。
ここのところが論理的にすっきりしてなくて、僕は困っていたし、混乱していたんだと思うのです。やはり「怒り」そのものは、なくすべきものなのですね。
たとえば、ストレスの発散に車の運転をしてスピードを出して気晴らしをするとかも、本来的には間違いなのだと、この本では説いています。怒りのコントロール法の本などでは、こういうのが多いんですよ。いわく「誰もいないところでクッションをなぐって気晴らしすればいい」とかです。
でも、それも間違いだと、この本では説いていますし、僕も間違いだと思う。それは「怒りの再生産」であり、「怒りの拡大」であり、「抑圧された不満の増大」でしかないと思う。そうではなくて、怒りそのものを「なくす」、消滅させる事こそが重要なんだと思うのですね。
もちろん、すべての出来事がこの考え方だけで説明がつくわけではないのです。たとえば、あまりに理不尽だと思えることなどには、正しく自己主張して、正当な権利は得なければなりません。そういう自己主張は当然の権利なのだから行動し発言しなければならないのですが、別にそれを「怒り」とともに行う必要はないわけです。
そういう時は、怒りを交えずに「私はこうして欲しいです。」と心穏やかに主張すればそれで良いわけです。
実際、多くの場合、こういう主張を「怒って」行う必要はサラサラないわけです。心穏やかに主張したほうが意見として通りやすくなるくらいです。
しかし人間というものは視野の狭いもので、完璧な人間など存在しているはずもないのに、「私は正しい、あいつは間違っている。」という前提からスタートしてしまうので「怒り」がどうしても生まれてしまうわけです。
それと、その「主張すべき時にしなかった」場合も、怒りになりやすいなと、この本を読んで思いました。自分の表現力のなさによって自己主張ができなかった時には自己主張できなかった不満が抑圧されてしまって、それが「怒り」に転化してしまう時が往々にしてあるように思います。
アダルトチルドレンの問題は、まさに子供の頃の「不満の抑圧」が怒りに転化してしまった典型だろうと思います。自分の感情のつながりが論理的に整理されていない状態ですね。だから、何か特定の「悪」に対して異様に腹が立ったりするとかになる。そのくせ、なぜ「怒りの感情」がわき起こっているのかは、自覚できていないとかですね。
どうも、必要以上に立腹してしまうとかの感情の変異は、子供の頃の経験に原因があることが多いようです。子供はつねに「表現力不足」ですからね。欲求不満になってしまうことも多いと思いますし、自分の「感情の歴史」の中で、スタート地点がゆがんでしまているというのは、往々にしてあることだろうと言う気がしています。
それともうひとつ注意したいのは、40を過ぎると、「感情の固定化」が起きやすい、ということでしょうね。つまりは「老い」でして、怒ったら怒りっぱなしというのは、感情の切り替えスイッチが錆び付きはじめているという事でもあるようなのです。
「頑固ジジイ」などと言う言葉がありますが、あれなどまさにそれで、「感情の切り替えスイッチが鈍っている」という視点をキチンと持たねばならないなと、いまは感じております。
この感情の切り替えスイッチの話しは、いま読んでいる、
人は「感情」から老化する―前頭葉の若さを保つ習慣術 (新書)
和田 秀樹 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%80%8C%E6%84%9F%E6%83%85%E3%80%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E8%80%81%E5%8C%96%E3%81%99%E3%82%8B%E2%80%95%E5%89%8D%E9%A0%AD%E8%91%89%E3%81%AE%E8%8B%A5%E3%81%95%E3%82%92%E4%BF%9D%E3%81%A4%E7%BF%92%E6%85%A3%E8%A1%93-%E5%92%8C%E7%94%B0-%E7%A7%80%E6%A8%B9/dp/4396110529
からの受け売りです。
この本も、またキチンとレビューしたいですね。「40代の心の危機」というテーマそのものに関する重要な書籍だと思いますので。
とりあえずそんなことで、「怒りは猛毒である」と、とりあえずは考えておくこと。それがとても重要だと思っております。
ISBN:4901679201 新書 Alubomulle Sumanasara サンガ ¥735
前々から「怒り」のコントロールがうまくいかなくて困っておりました。
理不尽な扱いをされたり、コミュニケーション相手が怒ってたりすると、どうしてもこちらも怒ってしまって、それが抑えられなかったりするわけです。
でも最近読んだ本で、その「コントロール不能感」を、大きく低減できる考え方に触れる事ができました。
それが、この本「怒らないこと」
怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉
作者: アルボムッレスマナサーラ, Alubomulle Sumanasara
出版社/メーカー: サンガ
メディア: 新書
です。
前々から、「怒り」をどう扱うかには困っていて、人によっては「怒りこそが戦うパワーだ」という人もいてたりするので、「必要なもの」と考えていたんですが、この仏教の入門書では、その部分を完全に否定して、怒りの感情そのものが悪なのだと規定してるんですね。
いわく、「怒りは猛毒である」ということなんです。
少し極論に聞こえるかも知れませんが、自分の経験を顧みるに、怒りを「猛毒」として注意深く扱う方が、現実的には物事がうまく運ぶように思えます。
実際、「怒り」にとらわれていると、物事の判断が甘くなったり偏ったりしがちですし、良い発想も出にくくなりますし、怒ってる間は同じ事を何度も頭の中で繰り返し考えていて何の発展性もないんですね。
何より重要なのは、その「怒っている時間」は、自分にとって「幸せでない」という事です。怒ってる間は「自分が不幸」なんですよ。
だから「怒り」はすべて「なくす」ようにしなくてはいけない。
この「なくす」という考え方が、非常に重要でして、「怒りを抑える」では、まったく意味がないわけです。「抑えて」しまうと抑圧されて、よけいに「なくし」にくくなる。
「怒りは抑えるものだ」と考えてしまうのは、「怒りは必要なものだから、力は残して、コントロールしよう」という発想なわけですが、ここが怒りのコントロールを難しくしてしまう根本的な、捉え方の過ちなんだろうと思うのですね。
抑えただけでは、消えていないから危険なだけなのです。
怒りは不幸そのものであり、猛毒なのだから、「なくす」「消滅」させなければいけないって事なんですね。
ここのところが論理的にすっきりしてなくて、僕は困っていたし、混乱していたんだと思うのです。やはり「怒り」そのものは、なくすべきものなのですね。
たとえば、ストレスの発散に車の運転をしてスピードを出して気晴らしをするとかも、本来的には間違いなのだと、この本では説いています。怒りのコントロール法の本などでは、こういうのが多いんですよ。いわく「誰もいないところでクッションをなぐって気晴らしすればいい」とかです。
でも、それも間違いだと、この本では説いていますし、僕も間違いだと思う。それは「怒りの再生産」であり、「怒りの拡大」であり、「抑圧された不満の増大」でしかないと思う。そうではなくて、怒りそのものを「なくす」、消滅させる事こそが重要なんだと思うのですね。
もちろん、すべての出来事がこの考え方だけで説明がつくわけではないのです。たとえば、あまりに理不尽だと思えることなどには、正しく自己主張して、正当な権利は得なければなりません。そういう自己主張は当然の権利なのだから行動し発言しなければならないのですが、別にそれを「怒り」とともに行う必要はないわけです。
そういう時は、怒りを交えずに「私はこうして欲しいです。」と心穏やかに主張すればそれで良いわけです。
実際、多くの場合、こういう主張を「怒って」行う必要はサラサラないわけです。心穏やかに主張したほうが意見として通りやすくなるくらいです。
しかし人間というものは視野の狭いもので、完璧な人間など存在しているはずもないのに、「私は正しい、あいつは間違っている。」という前提からスタートしてしまうので「怒り」がどうしても生まれてしまうわけです。
それと、その「主張すべき時にしなかった」場合も、怒りになりやすいなと、この本を読んで思いました。自分の表現力のなさによって自己主張ができなかった時には自己主張できなかった不満が抑圧されてしまって、それが「怒り」に転化してしまう時が往々にしてあるように思います。
アダルトチルドレンの問題は、まさに子供の頃の「不満の抑圧」が怒りに転化してしまった典型だろうと思います。自分の感情のつながりが論理的に整理されていない状態ですね。だから、何か特定の「悪」に対して異様に腹が立ったりするとかになる。そのくせ、なぜ「怒りの感情」がわき起こっているのかは、自覚できていないとかですね。
どうも、必要以上に立腹してしまうとかの感情の変異は、子供の頃の経験に原因があることが多いようです。子供はつねに「表現力不足」ですからね。欲求不満になってしまうことも多いと思いますし、自分の「感情の歴史」の中で、スタート地点がゆがんでしまているというのは、往々にしてあることだろうと言う気がしています。
それともうひとつ注意したいのは、40を過ぎると、「感情の固定化」が起きやすい、ということでしょうね。つまりは「老い」でして、怒ったら怒りっぱなしというのは、感情の切り替えスイッチが錆び付きはじめているという事でもあるようなのです。
「頑固ジジイ」などと言う言葉がありますが、あれなどまさにそれで、「感情の切り替えスイッチが鈍っている」という視点をキチンと持たねばならないなと、いまは感じております。
この感情の切り替えスイッチの話しは、いま読んでいる、
人は「感情」から老化する―前頭葉の若さを保つ習慣術 (新書)
和田 秀樹 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%80%8C%E6%84%9F%E6%83%85%E3%80%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E8%80%81%E5%8C%96%E3%81%99%E3%82%8B%E2%80%95%E5%89%8D%E9%A0%AD%E8%91%89%E3%81%AE%E8%8B%A5%E3%81%95%E3%82%92%E4%BF%9D%E3%81%A4%E7%BF%92%E6%85%A3%E8%A1%93-%E5%92%8C%E7%94%B0-%E7%A7%80%E6%A8%B9/dp/4396110529
からの受け売りです。
この本も、またキチンとレビューしたいですね。「40代の心の危機」というテーマそのものに関する重要な書籍だと思いますので。
とりあえずそんなことで、「怒りは猛毒である」と、とりあえずは考えておくこと。それがとても重要だと思っております。
少子化のほんとうの秘密。
2006年8月27日 読書 コメント (7)
「人口減少経済」の新しい公式―「縮む世界」の発想とシステム
ISBN:4532350956 単行本 松谷 明彦 日本経済新聞社 2004/05 ¥1,995
もう一年くらい前に読んだのですが、僕的にとてもショックを受けた本なので、少し書いておきたくなりました。
この本の趣旨は、まぁ良くある「人口が減少してGNPが下がっても、一人あたりの社会資本そのものは充実するから、とても豊かな世界がやってくるんだよ。」という人口減少肯定派の意見そのままでして、私的には「まぁそういう側面もあるけれど、年寄りばっかりってのは楽しくないなぁ」というのが感想。
で、実は、書籍として紹介することより、この本で明確に書いてあって、「あ!」とびっくりして、「そうや、その通りや! なんでいままで気付かなかったのか!」と思ったことの方を紹介したいのであります。
それは「少子化の原因」なんです。
誰も本当の原因を言わない。
これほど明確な原因があるのに、気付いてすらいない。
それはいったい何か?
「優生保護法」なんですね。
わかります?
優生保護法というのは、「赤ちゃんを殺して良い」という法律です。一言で言うなら。
こういう法律を、日本は持っている。それこそが、人口減少の、少子化の本当の原因で、他に原因なんかあるわけなかったんです。
でも、この本の著者は、もともとお役人で、この事を「戦後の日本が急速に豊かになった良い法律だった」と肯定してます。
いや、まぁ、経済面だけを見れば、確かにそうなんだろうけど、ちょっと待ってくれ、なんかワシ、釈然とせんわ、なんやこれ?
と、とても頭が混乱してショックを受けたのです。
サラッと書いてあるだけに、逆にショックだった。
つまり、一言で言ってしまうなら、「日本人の豊かさは、子殺しで成り立っている」ということだったんですね。
若いときの過ちを「子殺し」で解決して、それでそれが正しいとする社会。それが日本の文化の本質だったんだと気付いたのです。
日本人が「一億総中流だ」てなことを平気で言えたのは、戦後ずーーーーっと、今に至ってもまだ「自分の失敗を省みず、もっとも弱い赤ちゃんという命を殺す事で成り立たせている」社会なわけです。
僕やあなたが、おいしい食事をできるのも、ようは社会的に子供を踏みつけにしてきたから、なんですね。そういう社会の中に自分が身を置いているのだと知って、実に嫌な気がしたのです。
でも、冷静に考えると、その通りなんです。我々は、子供を踏みつけにして平気という、おそろしい文化を持っている。それが厳然とした事実だったんです。
前に、「世にも不思議な偶然」の話が好きで、よく読んでいるという事を書いたことがありますが、海外の不思議話を読んでいると、とにかく子供の頃に親子が離ればなれになったのが不思議な偶然で出会えたとか、兄弟が離ればなれになったのに偶然出会えたとかいう話がとても多いんですね。
でも、この手の話は日本には少ない。というか、ほぼ皆無。
そこで気付いたのですよ。「ああ、そうか」と。
ようするに海外では「子殺し」をしていないのです。「捨て子」だとか「養子に出す」という事はしても、「子殺し」はない。
貧困の中で子供が出来てしまったら、泣く泣く「裕福な人の所で育ててもらってくれ」と施設にあずけたり、宗教施設に捨て子したりする事は多いのでしょうけれど、そして、それが貧困層を作るという事は、あるにはあるのでしょうけれど、基本的に「殺し」はしない。
このあたりはたぶんキリスト教のプロテスタントもカソリックも、イスラム教とかでも同じなのではないかと思うのです。
いや、中国の儒教や道教、インドの仏教においても、「子殺し」を標準の文化として持っている国なんて、そうそうないのではないかしらん。
日本の文化は「和」を中心に「みんな一緒」を大切にして「一億総中流」を標榜してたわけですけど、その本質って冷静に考えると、貧困層の切り捨て、それも、いちばん弱い「赤ん坊を殺すこと」で成立していたわけです。
赤ちゃんは文句言わないからね。世の中の矛盾を赤ちゃんに押しつけるのが、この国では普通なわけですよ。恐ろしいことに。
あまりに当たり前になっていて、みんな気付いてないですけど、「水子供養」なんて言葉が、町なかのポスターとかに堂々と書いてあったりします。考えたら相当にゆがんだ文化を我々は持っていたのではないかと僕は思ったわけです。
というのも、僕自身がアダルトチルドレンであると気付けたのも、「親に捨てられたけれども、幸せな家庭を気付いた人」の存在を知ったからこそ、なんですね。
海外の成功者の中には貧困層から這い上がってきた人というのがけっこうたくさんいます。で、そういう人は本当に愛情豊かな発言をすることが多くて、僕はけっこう信用するのですが、そういう立派な人と、自分の父親とを比べると全然違うよなぁ、というのが、アダルトチルドレンから抜け出す大きなきっかけになっているのです。
親がいないのに、正しく愛情豊かな家庭生活を築いた人がいる。
これほど僕を勇気づけた事実はないわけです。
アダルトチルドレンの問題は、親にされた虐待を、自分が大人になった時に子供にもしてしまうという仕組みなわけです。
親からの正しい愛情を受け取れなかった私も、同じ間違いをしてしまうのではないか? それは避けられないのではないか? とすら思ってたわけです。まぁ、一種の強迫観念になっていた。
でも、親のない成功者の姿勢とかを見て、親からの愛情を受け取ってなくても、社会に揉まれながら愛ある行為を学んで行くことは可能なんだ、という事がはっきりとわかりました。
「親はいないが幸せな人」の存在を知ることで、正しい幸せというものが、自らの意志で学習可能なのだ、ということが証明されてるわけです。
だから、大丈夫なんだと。
愛ある行為は、後天的学習で、キチンと身につけられるのだと。
それがわかったわけです。
アダルトチルドレンのくびきから逃げ出せたのは、まさにこの一点にかかっていたわけです。
日本以外の多くの国は、子殺しをしません。だから貧困層は多いです。子供に手間を取られて豊かになれないのでしょう。でも、そこに愛はある。
また、子捨てという事はするだろうけれど、そういう人が成功した時に、本当に誰もにとって希望になる。救いになる。安心感を生むというのがあります。
そして、お金持ちが捨て子を育てると言うことも頻繁に行われているわけです。ごく普通に。そういう仕組みもおそらくはあるのでしょう。だから「お金持ちを尊敬する」という社会通念も生まれやすいのです。
インドなどでは逆にお金持ちは「施しをしなければならない」ですしね。アメリカでは「儲けた金の10%を必ず寄付に回せ」が金持ちになるための基本ルールと言われているし、国の法律としても「寄付は無税」になっている。
でも日本では「金持ちは、なんか悪いことしたから金持ちなんだ」という揶揄のほうが強い。はっきり言ってホリエモンがつかまったのは、それが原因でしょう。(いやまぁ政治的にそうとう複雑な裏がありそうなので、あの問題にはアンタッチャブルですが)概略、検察が「行ける!」と踏んだのは、世間が金持ちは悪いことしてるから金持ちなんだと思っているという大前提があってのことなわけですよ。基本はね。
で、その「金持ちは、なんか悪いコトしてるから金持ちなんだ」というひきずりおろし感覚というのは「子殺しをして、やっと生活を安定させてる人がたくさんいてる」からなんですね。そこから生まれた感覚なんだろうと思います。
もうね、この本に書いてあった「優生保護法による子殺し」という観点で日本社会を見渡すと、もうすべてが全部、きれいに見えてしまうのですよ。
結局、日本人の文化は、「自分の経済的安定のために子殺しをする文化」でして、基本的に常に弱者に問題点をおっかぶせて、それで自分の責任はほおかむりする社会構造から生まれているんです。それがすべてと言ってもいいかもしれない。
望まない子供が出来た。その責任は誰にあるのか? 親にあるに決まってるではないですか。
でも、日本という国は、そこで責任を、その個人に取らせない。生まれてきた子供に取らせる。それが「当たり前」になっている。
この基本構造があるからこそ「児童虐待」は生まれるわけです。
「都合の悪いことは子供のせいにしておけ」という風潮が生まれる。
だいたい儒教が日本で受け入れられたのも、この「子供の人権無視」という文化がもともとあったからではないか? と僕は思っているのです。「子は親に仕えよ」です。それが儒教ということになっている。
そらね、中国の本場の儒教は徹底して「親孝行は美しい」を強調しますからね。ものすごく強調する。たぶん老人虐待が、かの国ではひどかったんでしょう。姥捨て山とかが普通にあったんだと思う。というか、姥捨て山の話って海外では多いですよね。
でも、そういう事とは別に「親孝行は美徳」という儒教の考え方が、日本人に支持されてしまったのは、その裏に「児童虐待」が普通に行われてきたからなわけです。
親が子供の気持ちを踏みつけにしてかまわない。それを保証してくれるから「親孝行は美徳」が支持されている。そういう構造でしょう。
逆に言うと、「親孝行は美徳」という社会通念が強すぎるから児童虐待が起こりやすいという側面も大きいのですね。「子は親に従うのは当たり前」と、理由も示さずに子供を親に従わせるのが教育だと勘違いしてる親のなんと多いことか。
それは教育ではなくて虐待なんですよ。
でも、そうは感じないのですよね。日本人の多くの人は。子供の頃から虐待され続けてきたから、親が理由もなく子供を叱り、子供を親に従わせるのが当たり前だと思ってしまっている。
そんなこんなのいろんなことをひっくるめて、この国の文化の根幹のところで問題なのが「水子供養」だってことだと思う。
でも、もう文化として定着してるもんなぁ。水子供養とか。
僕は日本文化の中でも、この水子供養だけはちょっと問題だなぁと思っているのです。
でも、こんな問題意識を持って、世の中を見てる人の方が少ないでしょう。
だってテレビとかで、堂々と「少子化対策として新婚家庭の免税が」とか平気でやってるし。
そんなもん、出生率に関してだけなら、優生保護法を変えて、子殺しできないようにすれば、一発で解決ですよ。で、再チャレンジ政策がどうたら、本質のわかってない論議がされてるけど、貧困層のための養子縁組促進システムとかキチンと整えなきゃいけないんだってーの。本気で少子化問題に取り組むなら。それだけのことじゃん。
でも、そのあたりの本質的構造が「水子供養は当たり前」「親孝行は美徳」という児童虐待あたりまえ文化によって、きれいに隠されてしまってるんですね。
とにかく、日本の少子化は世界的に見ても異常で突出してます。で、それは「優生保護法」が主原因なのであって、最優先で考えるべきは、そういう社会の底辺層の人たちのバックアップシステムが整っているかどうか、ということなんです。養子縁組を促進する。孤児院を社会的に認めて国家運営する。そういうような事を法的に実施していかないと変わるわけがない。
でもそれは日本の文化にそぐわないし、経験がないから、なかなか世の中に意見として出てこないわけです。
だいたい子を持つ親が「子育てしたことのない人に教育問題を語ってもらいたくない」とかアホなことしか言えない人が多いので、こういう問題が見えにくくなるのです。
養子縁組、捨て子を救う、孤児院などなど。そういう「子供は社会の宝」として見る視点なしに、この問題は解決しない。
「子育てしたことのない人に教育問題を語ってもらいたくない」みたいな閉じた、視野の狭い、つまらない発想しか持てないから、子育て問題が、子供から大人まで含めた誰もが考えるべき問題にならないのですね。
妊婦が移動しやすい街にならないし、優先座席も妊婦より老人が代表例になってしまう。子育てしやすい社会というものが生まれない。そういうことです。
でもまぁ、そういうアホなことしか言えない人が出てくるのもしゃーないわなぁって思うのですよ。いまだに優生保護法で水子供養してるのが、この国なわけですから。優生保護法なんて、国が児童虐待してるわけですからね。本質的に矛盾してますよ。ほんとに。
でも多分、大きくは日本も欧米化して行かざるを得ないのだから、数十年とかの時間はかかるけれども、そういう仕組みを作って行く方がいいようには思いますね。
インターネットの時代なんだし、水子供養よりは養子縁組だと思う。ほんと、子供のいてなくてうまくいってない夫婦も多いっすから。そういう夫婦が子育てしたほうが「子は親に従うのが当たり前」と児童虐待してる家庭に育つよりかはマシな気がします。
いや、これはマジに。
ともあれ、少子化の本当の秘密は「優生保護法しいては、それを許している我々の鈍感な感受性」にあるんだというのは僕自身の自戒を込めて思いますね。
ISBN:4532350956 単行本 松谷 明彦 日本経済新聞社 2004/05 ¥1,995
もう一年くらい前に読んだのですが、僕的にとてもショックを受けた本なので、少し書いておきたくなりました。
この本の趣旨は、まぁ良くある「人口が減少してGNPが下がっても、一人あたりの社会資本そのものは充実するから、とても豊かな世界がやってくるんだよ。」という人口減少肯定派の意見そのままでして、私的には「まぁそういう側面もあるけれど、年寄りばっかりってのは楽しくないなぁ」というのが感想。
で、実は、書籍として紹介することより、この本で明確に書いてあって、「あ!」とびっくりして、「そうや、その通りや! なんでいままで気付かなかったのか!」と思ったことの方を紹介したいのであります。
それは「少子化の原因」なんです。
誰も本当の原因を言わない。
これほど明確な原因があるのに、気付いてすらいない。
それはいったい何か?
「優生保護法」なんですね。
わかります?
優生保護法というのは、「赤ちゃんを殺して良い」という法律です。一言で言うなら。
こういう法律を、日本は持っている。それこそが、人口減少の、少子化の本当の原因で、他に原因なんかあるわけなかったんです。
でも、この本の著者は、もともとお役人で、この事を「戦後の日本が急速に豊かになった良い法律だった」と肯定してます。
いや、まぁ、経済面だけを見れば、確かにそうなんだろうけど、ちょっと待ってくれ、なんかワシ、釈然とせんわ、なんやこれ?
と、とても頭が混乱してショックを受けたのです。
サラッと書いてあるだけに、逆にショックだった。
つまり、一言で言ってしまうなら、「日本人の豊かさは、子殺しで成り立っている」ということだったんですね。
若いときの過ちを「子殺し」で解決して、それでそれが正しいとする社会。それが日本の文化の本質だったんだと気付いたのです。
日本人が「一億総中流だ」てなことを平気で言えたのは、戦後ずーーーーっと、今に至ってもまだ「自分の失敗を省みず、もっとも弱い赤ちゃんという命を殺す事で成り立たせている」社会なわけです。
僕やあなたが、おいしい食事をできるのも、ようは社会的に子供を踏みつけにしてきたから、なんですね。そういう社会の中に自分が身を置いているのだと知って、実に嫌な気がしたのです。
でも、冷静に考えると、その通りなんです。我々は、子供を踏みつけにして平気という、おそろしい文化を持っている。それが厳然とした事実だったんです。
前に、「世にも不思議な偶然」の話が好きで、よく読んでいるという事を書いたことがありますが、海外の不思議話を読んでいると、とにかく子供の頃に親子が離ればなれになったのが不思議な偶然で出会えたとか、兄弟が離ればなれになったのに偶然出会えたとかいう話がとても多いんですね。
でも、この手の話は日本には少ない。というか、ほぼ皆無。
そこで気付いたのですよ。「ああ、そうか」と。
ようするに海外では「子殺し」をしていないのです。「捨て子」だとか「養子に出す」という事はしても、「子殺し」はない。
貧困の中で子供が出来てしまったら、泣く泣く「裕福な人の所で育ててもらってくれ」と施設にあずけたり、宗教施設に捨て子したりする事は多いのでしょうけれど、そして、それが貧困層を作るという事は、あるにはあるのでしょうけれど、基本的に「殺し」はしない。
このあたりはたぶんキリスト教のプロテスタントもカソリックも、イスラム教とかでも同じなのではないかと思うのです。
いや、中国の儒教や道教、インドの仏教においても、「子殺し」を標準の文化として持っている国なんて、そうそうないのではないかしらん。
日本の文化は「和」を中心に「みんな一緒」を大切にして「一億総中流」を標榜してたわけですけど、その本質って冷静に考えると、貧困層の切り捨て、それも、いちばん弱い「赤ん坊を殺すこと」で成立していたわけです。
赤ちゃんは文句言わないからね。世の中の矛盾を赤ちゃんに押しつけるのが、この国では普通なわけですよ。恐ろしいことに。
あまりに当たり前になっていて、みんな気付いてないですけど、「水子供養」なんて言葉が、町なかのポスターとかに堂々と書いてあったりします。考えたら相当にゆがんだ文化を我々は持っていたのではないかと僕は思ったわけです。
というのも、僕自身がアダルトチルドレンであると気付けたのも、「親に捨てられたけれども、幸せな家庭を気付いた人」の存在を知ったからこそ、なんですね。
海外の成功者の中には貧困層から這い上がってきた人というのがけっこうたくさんいます。で、そういう人は本当に愛情豊かな発言をすることが多くて、僕はけっこう信用するのですが、そういう立派な人と、自分の父親とを比べると全然違うよなぁ、というのが、アダルトチルドレンから抜け出す大きなきっかけになっているのです。
親がいないのに、正しく愛情豊かな家庭生活を築いた人がいる。
これほど僕を勇気づけた事実はないわけです。
アダルトチルドレンの問題は、親にされた虐待を、自分が大人になった時に子供にもしてしまうという仕組みなわけです。
親からの正しい愛情を受け取れなかった私も、同じ間違いをしてしまうのではないか? それは避けられないのではないか? とすら思ってたわけです。まぁ、一種の強迫観念になっていた。
でも、親のない成功者の姿勢とかを見て、親からの愛情を受け取ってなくても、社会に揉まれながら愛ある行為を学んで行くことは可能なんだ、という事がはっきりとわかりました。
「親はいないが幸せな人」の存在を知ることで、正しい幸せというものが、自らの意志で学習可能なのだ、ということが証明されてるわけです。
だから、大丈夫なんだと。
愛ある行為は、後天的学習で、キチンと身につけられるのだと。
それがわかったわけです。
アダルトチルドレンのくびきから逃げ出せたのは、まさにこの一点にかかっていたわけです。
日本以外の多くの国は、子殺しをしません。だから貧困層は多いです。子供に手間を取られて豊かになれないのでしょう。でも、そこに愛はある。
また、子捨てという事はするだろうけれど、そういう人が成功した時に、本当に誰もにとって希望になる。救いになる。安心感を生むというのがあります。
そして、お金持ちが捨て子を育てると言うことも頻繁に行われているわけです。ごく普通に。そういう仕組みもおそらくはあるのでしょう。だから「お金持ちを尊敬する」という社会通念も生まれやすいのです。
インドなどでは逆にお金持ちは「施しをしなければならない」ですしね。アメリカでは「儲けた金の10%を必ず寄付に回せ」が金持ちになるための基本ルールと言われているし、国の法律としても「寄付は無税」になっている。
でも日本では「金持ちは、なんか悪いことしたから金持ちなんだ」という揶揄のほうが強い。はっきり言ってホリエモンがつかまったのは、それが原因でしょう。(いやまぁ政治的にそうとう複雑な裏がありそうなので、あの問題にはアンタッチャブルですが)概略、検察が「行ける!」と踏んだのは、世間が金持ちは悪いことしてるから金持ちなんだと思っているという大前提があってのことなわけですよ。基本はね。
で、その「金持ちは、なんか悪いコトしてるから金持ちなんだ」というひきずりおろし感覚というのは「子殺しをして、やっと生活を安定させてる人がたくさんいてる」からなんですね。そこから生まれた感覚なんだろうと思います。
もうね、この本に書いてあった「優生保護法による子殺し」という観点で日本社会を見渡すと、もうすべてが全部、きれいに見えてしまうのですよ。
結局、日本人の文化は、「自分の経済的安定のために子殺しをする文化」でして、基本的に常に弱者に問題点をおっかぶせて、それで自分の責任はほおかむりする社会構造から生まれているんです。それがすべてと言ってもいいかもしれない。
望まない子供が出来た。その責任は誰にあるのか? 親にあるに決まってるではないですか。
でも、日本という国は、そこで責任を、その個人に取らせない。生まれてきた子供に取らせる。それが「当たり前」になっている。
この基本構造があるからこそ「児童虐待」は生まれるわけです。
「都合の悪いことは子供のせいにしておけ」という風潮が生まれる。
だいたい儒教が日本で受け入れられたのも、この「子供の人権無視」という文化がもともとあったからではないか? と僕は思っているのです。「子は親に仕えよ」です。それが儒教ということになっている。
そらね、中国の本場の儒教は徹底して「親孝行は美しい」を強調しますからね。ものすごく強調する。たぶん老人虐待が、かの国ではひどかったんでしょう。姥捨て山とかが普通にあったんだと思う。というか、姥捨て山の話って海外では多いですよね。
でも、そういう事とは別に「親孝行は美徳」という儒教の考え方が、日本人に支持されてしまったのは、その裏に「児童虐待」が普通に行われてきたからなわけです。
親が子供の気持ちを踏みつけにしてかまわない。それを保証してくれるから「親孝行は美徳」が支持されている。そういう構造でしょう。
逆に言うと、「親孝行は美徳」という社会通念が強すぎるから児童虐待が起こりやすいという側面も大きいのですね。「子は親に従うのは当たり前」と、理由も示さずに子供を親に従わせるのが教育だと勘違いしてる親のなんと多いことか。
それは教育ではなくて虐待なんですよ。
でも、そうは感じないのですよね。日本人の多くの人は。子供の頃から虐待され続けてきたから、親が理由もなく子供を叱り、子供を親に従わせるのが当たり前だと思ってしまっている。
そんなこんなのいろんなことをひっくるめて、この国の文化の根幹のところで問題なのが「水子供養」だってことだと思う。
でも、もう文化として定着してるもんなぁ。水子供養とか。
僕は日本文化の中でも、この水子供養だけはちょっと問題だなぁと思っているのです。
でも、こんな問題意識を持って、世の中を見てる人の方が少ないでしょう。
だってテレビとかで、堂々と「少子化対策として新婚家庭の免税が」とか平気でやってるし。
そんなもん、出生率に関してだけなら、優生保護法を変えて、子殺しできないようにすれば、一発で解決ですよ。で、再チャレンジ政策がどうたら、本質のわかってない論議がされてるけど、貧困層のための養子縁組促進システムとかキチンと整えなきゃいけないんだってーの。本気で少子化問題に取り組むなら。それだけのことじゃん。
でも、そのあたりの本質的構造が「水子供養は当たり前」「親孝行は美徳」という児童虐待あたりまえ文化によって、きれいに隠されてしまってるんですね。
とにかく、日本の少子化は世界的に見ても異常で突出してます。で、それは「優生保護法」が主原因なのであって、最優先で考えるべきは、そういう社会の底辺層の人たちのバックアップシステムが整っているかどうか、ということなんです。養子縁組を促進する。孤児院を社会的に認めて国家運営する。そういうような事を法的に実施していかないと変わるわけがない。
でもそれは日本の文化にそぐわないし、経験がないから、なかなか世の中に意見として出てこないわけです。
だいたい子を持つ親が「子育てしたことのない人に教育問題を語ってもらいたくない」とかアホなことしか言えない人が多いので、こういう問題が見えにくくなるのです。
養子縁組、捨て子を救う、孤児院などなど。そういう「子供は社会の宝」として見る視点なしに、この問題は解決しない。
「子育てしたことのない人に教育問題を語ってもらいたくない」みたいな閉じた、視野の狭い、つまらない発想しか持てないから、子育て問題が、子供から大人まで含めた誰もが考えるべき問題にならないのですね。
妊婦が移動しやすい街にならないし、優先座席も妊婦より老人が代表例になってしまう。子育てしやすい社会というものが生まれない。そういうことです。
でもまぁ、そういうアホなことしか言えない人が出てくるのもしゃーないわなぁって思うのですよ。いまだに優生保護法で水子供養してるのが、この国なわけですから。優生保護法なんて、国が児童虐待してるわけですからね。本質的に矛盾してますよ。ほんとに。
でも多分、大きくは日本も欧米化して行かざるを得ないのだから、数十年とかの時間はかかるけれども、そういう仕組みを作って行く方がいいようには思いますね。
インターネットの時代なんだし、水子供養よりは養子縁組だと思う。ほんと、子供のいてなくてうまくいってない夫婦も多いっすから。そういう夫婦が子育てしたほうが「子は親に従うのが当たり前」と児童虐待してる家庭に育つよりかはマシな気がします。
いや、これはマジに。
ともあれ、少子化の本当の秘密は「優生保護法しいては、それを許している我々の鈍感な感受性」にあるんだというのは僕自身の自戒を込めて思いますね。