●日本人の「お上意識」の上に、警察はあぐらをかいている。
というのが、私の言いたいことの根本です。
今回、酒井法子(本名:高相法子)さんが、プライベートな捜査情報を警察にリークされまくって、1週間以上にも渡って「清純派女優から一転シャブ中毒のアバズレへ」という、実に刺激的な警察の「警察は正義の味方であるキャンペーン」の餌食になった事に関しては、まったく腹が立って仕方ありません。
この構造、よくよく考えたら、完全に西松問題と同じです。
●警察(検察)が突然誰かを逮捕する。
↓
●逮捕されていない人間のイメージが悪くなる。
↓
●警察が本来漏らしてはいけない情報をマスコミに垂れ流す。(公的発表ではないので本当かどうかはわからない。)
↓
●新聞・テレビが独自取材する力がなく、それをそのまま垂れ流す。
です。
警察・マスコミ、どちらも最低ですな。
マスコミのチェック機能が働いていないからこそ、ここまで一気に大騒ぎになるわけです。
この事件で、もともと「覚醒剤取締法」というものは、警察のマッチポンプ用の悪辣なる法律なのだということが、だんだんにわかってきました。覚醒剤ブームで30万人もの常用者がいてるとかキャンペーンが張られていますが、そんなもの、
●警察が覚醒剤ルートを根絶できていない
ことの証明でしかありません。
それどころか、密売人が捕まったというようなニュースを見たことも聞いたことも、この数年ないですよね?
これはつまり、一般人にとって、何もしなくても「守れてしまう」法律であることが、奴らの狙いなんです。
誰にでも簡単に守れるから、平和や正義を守るために、何の努力もしていない普通の人間が「正しい人」「正義の人間」になれる。
で、覚醒剤を使った人間を極悪人として簡単に罵ることができる、というわけです。
で、極悪人を罵ることができるからこそ、そういう極悪人を捕まえた警察が偉い、正義の部署だ、ということになります。
これが「守れてしまう法律」による警察のマッチポンプ作戦です。
これによって警察の「お上」としての権威を高めようとしている。
同じような仕組みでひどいのが「守れない法律」です。
これは政治資金規正法でもそうでしたが、どう考えてもキチンと正確に守るのは難しい法律を作っておいて、それをわざと見過ごして「お目こぼし」を与えて、「権力を握る」というやり方です。
我々一般人に一番わかりやすいのは、クルマの制限速度でしょう。
どう考えても、この道路状況なら60km/hくらいで走るのが適正速度だ、というような道に、40kmとかの「守れない制限速度」を設定しておいて、「普段は取り締まらないですから安心してください。スピードは低いに越したことはないのですから。」と言って取り繕う。
で、実際にはどうなるかというと、警官の「気分」で取締が可能と言うことになるんですね。
たまたま見つかったら「えらいこっちゃ」という事になる。
警察の「恣意的(きまぐれ)」での取締が可能になるから、警察を「権威」としてあがめるしかなくなるわけです。
こんなもの、ちゃんと適正な60kmを制限速度にすれば、みんなその速度を守るんです。で、その速度を超えた奴がいたら、みんながその違反者のナンバーを覚えていて、「あいつを捕まえろ!」と警察に要求します。
で、それが捕まえられなかったら、「警察!何やっとんねん!」ということになります。
この時、警察は「法律の奴隷」になります。
法律を遵守するだけが役割になります。
「気分でお目こぼしをする、機嫌を取らねばならない権威筋」にはなりません。
で、
●警察は法律の奴隷であることこそが正しい。
のですよ。
官僚なのですから。役人なのですから。法律を運用するための、我々の使用人でしかないんです。
60km/hで走るのがちょうど良いところは制限速度を60km/hに我々の手(国民の代表者:政治家)が決めて、警察は、その「我々が決めた法律」を国民に代わって施行するだけの役割しか持っていない、というのが本来なんです。
しかし、日本ではどういうわけか、「法律を作る」と言う部分から官僚がやっている。
ここからすでに、とんでもない間違いをやってるわけです。
で、そういうことをほったらかしにしてきたからこそ、「警察官が、恣意的に犯罪者をチョイスする」ことのできるアホな仕組みがまかり通ってしまって、その結果、
●警察の権威を高めるため専用の覚醒剤取締法
まで生まれてしまったというわけです。
覚醒剤に関して言うなら、中毒に陥ってる患者は、覚醒剤密売ルートの「被害者」ですよ。
「逮捕」するのではなくて、即刻「保護」して、病院に入れ、禁断症状が抜ける1週間くらいを病院で過ごさせて、覚醒剤の常用がいかに良くないかなどの教育をキチンと行い、「常用患者」でなくさせることが一番重要なはずです。
そうすれば、覚醒剤密売人たちは「客」を失うわけですから、それが一番いい。
特に、そういう患者を「逮捕」するのではなく「保護」すれば、犯罪者にならずに済むわけですから、警察から逃げる必要もなくなります。
そうなれば、みんなすすんで「保護」してもらって、覚醒剤の密売ルートがどんどん明らかになっていきますって!!!!
こんな簡単なことが、どうしてみんなわからないんですか!!!
●「保護するべき人間」を「逮捕」するから、密売ルートも暴けない!
んですよ?
違いますか?
完全なるバカですがな。
●警察は、完全なるバカである。
ということですよ。覚醒剤取締法を、字面だけで見ていけば、そういう事になります。法律そのものがおかしい。
では、なぜ、そんなクソの役にも立たない法律が存在しているのか?
それは、
●警察はいつの時代も「お上」として君臨していたい。
からです。
ただそれだけです。
いらんっちゅうねん。
税金のムダやっちゅうねん。
そんな「権威」はいらん。
なんで税金払ってまで、そんな屁の役にも立たない「権威ごっこ」に付き合わなならんねん。
やめてくれ。
タレントであろうがなかろうが、覚醒剤中毒患者は逮捕なんかせずに強制的に入院させて禁断症状を抜いて、安心して密売ルートを話しするように教育しろっちゅうの。
逮捕するから逃げるんやんけ!
アホくさい。
ということなので、酒井法子のドタバタドラマは、まさに滑稽以外の何者でもない。
くだらん三文芝居であります。
自民党から民主党に代わる選挙前。
小沢一郎は、民主党政権になったら、
●各省庁のトップを、官僚ではなく民主党の政治家にすげ替える
と、昨年9月8日、小沢一郎が民主党党首としてではなく、政治家小沢一郎個人として出した、
●新しい政権の基本政策案(民主党HPより)
http://www.dpj.or.jp/news/files/080908ozawa2seiken.pdf
に、ちゃんとそう宣言している。
警察は、それが怖いだけです。
いままで寄りかかっていた、
●「守れてしまう法律」と「守れない法律」によって築き上げた「お上の権力」
が崩れ去るのを怖れているだけです。
で、そんなことしかできないから、選挙前にこういう「清純派タレント」を「シャブ中女優」へと突き落とすようなシナリオを書いて、日本国民を三文ドラマに巻き込んだ、というだけです。
ゆるすまじ!警察官僚!
絶対に許すな!
役職上知り得た情報は、秘匿義務があるやろ。リークするな!
有名タレントの実情は、公的に知らせるべきものやけど、それは「マスコミ独自の取材」でやるべきことやろ!
マスコミのバカども。リーク情報にしっぽを振って近づくな!ボケ!自分独自で取材しろ!マヌケ!
マスコミが自分で取材しなくてどうする?
本道を忘れるなっちゅうねん。
警察が法律を守らずにリークばっかりしやがって、この外道が。
クソが。
偉そうにさらすな。
そういう事です。
いいですかみなさん。酒井法子であろうが、上戸彩であろうが、清純派のタレントなら誰だって、今回のような「1週間にも渡る警察のリーク情報の洪水」によって「清純派からシャブ中のアバズレ女優」へと転落させることが可能なんですよ?
その恐ろしさの方にこそ気付いて欲しい。
しかも、最初の数日は「清純派の失踪」で、後半は「容疑者の逃走」と意味づけが変わってる。こんなもの、警察によるラベリングが変わっただけですがな。
なんてひどい話や。
警察がシナリオを書いて、見事なドラマを作り出したに過ぎない。
だいたい本当に現行の法律で「密売ルート」を暴く気があるのなら、摘発は一斉でないとまったく意味をなさないんです。尿検査でクロと出ない限り、証拠がない。証拠もなしに逮捕したら、それは見込み捜査です。絶対にクロと確信ができるまで外堀となる情報集めを徹底してやって、関係する人間を全部網にかけて「密売ルート」をあぶり出すというのが当然です。
ということは、です。
なんで酒井法子は逃げられたんや?
ちゅうことですがな。
なんでよ?
なんでよ?
下調べしてなかったのなら、それは最初からターゲットではなかったって事でしょ?
なら、酒井法子への捜査は「思いつきでやった」ということになる。
その段階で警察はアウトです。
そんな見込み捜査を連発されたら、たまったもんやない。
やめてくれっちゅう話です。
で、逆に、一斉逮捕のターゲットの中に酒井法子の名前もあったとしたら、それは「計画がうまくいかずに逃げられた」ということです。
これまた警察のとんでもないミスです。
だから、
●酒井法子が逃げられた
と言う事自体が、もともと、かなりおかしいんですよ。
なんで逃げられるねん?
わざと泳がしてるとしか思えない。
で、泳がせている間に、「逮捕された夫の悲劇の妻」から「逃走するシャブ中女優」へとシナリオを大転回させている。
その大転回をさせたのは、
●警察だ!
っちゅうことですよ。
普通は一斉逮捕が普通だから、「取り逃がす」と言うこと自体がありませんがな。そうでしょうが。
だから、今回のこの事件は、
●かなり、相当に、ものすごくおかしい。
んです。
最初から。
普通は、
●逮捕されたその日からタレント生命終わり
なんです。
一週間もひっぱりませんって。
なんでひっぱってるのか?
それは、選挙までの期間、とにかくわずかでも紙面を「警察がヒーロー」「官僚がヒーロー」という記事で埋めて、
●官僚はダメダメ!
という記事が出ないようにしたいからですよ。
ただそれだけです。
もう、それがはっきりしてるから、徹底して叩いてやる。
こんな事は許されることではない。
覚悟しろよ、警察!
というのが、私の言いたいことの根本です。
今回、酒井法子(本名:高相法子)さんが、プライベートな捜査情報を警察にリークされまくって、1週間以上にも渡って「清純派女優から一転シャブ中毒のアバズレへ」という、実に刺激的な警察の「警察は正義の味方であるキャンペーン」の餌食になった事に関しては、まったく腹が立って仕方ありません。
この構造、よくよく考えたら、完全に西松問題と同じです。
●警察(検察)が突然誰かを逮捕する。
↓
●逮捕されていない人間のイメージが悪くなる。
↓
●警察が本来漏らしてはいけない情報をマスコミに垂れ流す。(公的発表ではないので本当かどうかはわからない。)
↓
●新聞・テレビが独自取材する力がなく、それをそのまま垂れ流す。
です。
警察・マスコミ、どちらも最低ですな。
マスコミのチェック機能が働いていないからこそ、ここまで一気に大騒ぎになるわけです。
この事件で、もともと「覚醒剤取締法」というものは、警察のマッチポンプ用の悪辣なる法律なのだということが、だんだんにわかってきました。覚醒剤ブームで30万人もの常用者がいてるとかキャンペーンが張られていますが、そんなもの、
●警察が覚醒剤ルートを根絶できていない
ことの証明でしかありません。
それどころか、密売人が捕まったというようなニュースを見たことも聞いたことも、この数年ないですよね?
これはつまり、一般人にとって、何もしなくても「守れてしまう」法律であることが、奴らの狙いなんです。
誰にでも簡単に守れるから、平和や正義を守るために、何の努力もしていない普通の人間が「正しい人」「正義の人間」になれる。
で、覚醒剤を使った人間を極悪人として簡単に罵ることができる、というわけです。
で、極悪人を罵ることができるからこそ、そういう極悪人を捕まえた警察が偉い、正義の部署だ、ということになります。
これが「守れてしまう法律」による警察のマッチポンプ作戦です。
これによって警察の「お上」としての権威を高めようとしている。
同じような仕組みでひどいのが「守れない法律」です。
これは政治資金規正法でもそうでしたが、どう考えてもキチンと正確に守るのは難しい法律を作っておいて、それをわざと見過ごして「お目こぼし」を与えて、「権力を握る」というやり方です。
我々一般人に一番わかりやすいのは、クルマの制限速度でしょう。
どう考えても、この道路状況なら60km/hくらいで走るのが適正速度だ、というような道に、40kmとかの「守れない制限速度」を設定しておいて、「普段は取り締まらないですから安心してください。スピードは低いに越したことはないのですから。」と言って取り繕う。
で、実際にはどうなるかというと、警官の「気分」で取締が可能と言うことになるんですね。
たまたま見つかったら「えらいこっちゃ」という事になる。
警察の「恣意的(きまぐれ)」での取締が可能になるから、警察を「権威」としてあがめるしかなくなるわけです。
こんなもの、ちゃんと適正な60kmを制限速度にすれば、みんなその速度を守るんです。で、その速度を超えた奴がいたら、みんながその違反者のナンバーを覚えていて、「あいつを捕まえろ!」と警察に要求します。
で、それが捕まえられなかったら、「警察!何やっとんねん!」ということになります。
この時、警察は「法律の奴隷」になります。
法律を遵守するだけが役割になります。
「気分でお目こぼしをする、機嫌を取らねばならない権威筋」にはなりません。
で、
●警察は法律の奴隷であることこそが正しい。
のですよ。
官僚なのですから。役人なのですから。法律を運用するための、我々の使用人でしかないんです。
60km/hで走るのがちょうど良いところは制限速度を60km/hに我々の手(国民の代表者:政治家)が決めて、警察は、その「我々が決めた法律」を国民に代わって施行するだけの役割しか持っていない、というのが本来なんです。
しかし、日本ではどういうわけか、「法律を作る」と言う部分から官僚がやっている。
ここからすでに、とんでもない間違いをやってるわけです。
で、そういうことをほったらかしにしてきたからこそ、「警察官が、恣意的に犯罪者をチョイスする」ことのできるアホな仕組みがまかり通ってしまって、その結果、
●警察の権威を高めるため専用の覚醒剤取締法
まで生まれてしまったというわけです。
覚醒剤に関して言うなら、中毒に陥ってる患者は、覚醒剤密売ルートの「被害者」ですよ。
「逮捕」するのではなくて、即刻「保護」して、病院に入れ、禁断症状が抜ける1週間くらいを病院で過ごさせて、覚醒剤の常用がいかに良くないかなどの教育をキチンと行い、「常用患者」でなくさせることが一番重要なはずです。
そうすれば、覚醒剤密売人たちは「客」を失うわけですから、それが一番いい。
特に、そういう患者を「逮捕」するのではなく「保護」すれば、犯罪者にならずに済むわけですから、警察から逃げる必要もなくなります。
そうなれば、みんなすすんで「保護」してもらって、覚醒剤の密売ルートがどんどん明らかになっていきますって!!!!
こんな簡単なことが、どうしてみんなわからないんですか!!!
●「保護するべき人間」を「逮捕」するから、密売ルートも暴けない!
んですよ?
違いますか?
完全なるバカですがな。
●警察は、完全なるバカである。
ということですよ。覚醒剤取締法を、字面だけで見ていけば、そういう事になります。法律そのものがおかしい。
では、なぜ、そんなクソの役にも立たない法律が存在しているのか?
それは、
●警察はいつの時代も「お上」として君臨していたい。
からです。
ただそれだけです。
いらんっちゅうねん。
税金のムダやっちゅうねん。
そんな「権威」はいらん。
なんで税金払ってまで、そんな屁の役にも立たない「権威ごっこ」に付き合わなならんねん。
やめてくれ。
タレントであろうがなかろうが、覚醒剤中毒患者は逮捕なんかせずに強制的に入院させて禁断症状を抜いて、安心して密売ルートを話しするように教育しろっちゅうの。
逮捕するから逃げるんやんけ!
アホくさい。
ということなので、酒井法子のドタバタドラマは、まさに滑稽以外の何者でもない。
くだらん三文芝居であります。
自民党から民主党に代わる選挙前。
小沢一郎は、民主党政権になったら、
●各省庁のトップを、官僚ではなく民主党の政治家にすげ替える
と、昨年9月8日、小沢一郎が民主党党首としてではなく、政治家小沢一郎個人として出した、
●新しい政権の基本政策案(民主党HPより)
http://www.dpj.or.jp/news/files/080908ozawa2seiken.pdf
に、ちゃんとそう宣言している。
警察は、それが怖いだけです。
いままで寄りかかっていた、
●「守れてしまう法律」と「守れない法律」によって築き上げた「お上の権力」
が崩れ去るのを怖れているだけです。
で、そんなことしかできないから、選挙前にこういう「清純派タレント」を「シャブ中女優」へと突き落とすようなシナリオを書いて、日本国民を三文ドラマに巻き込んだ、というだけです。
ゆるすまじ!警察官僚!
絶対に許すな!
役職上知り得た情報は、秘匿義務があるやろ。リークするな!
有名タレントの実情は、公的に知らせるべきものやけど、それは「マスコミ独自の取材」でやるべきことやろ!
マスコミのバカども。リーク情報にしっぽを振って近づくな!ボケ!自分独自で取材しろ!マヌケ!
マスコミが自分で取材しなくてどうする?
本道を忘れるなっちゅうねん。
警察が法律を守らずにリークばっかりしやがって、この外道が。
クソが。
偉そうにさらすな。
そういう事です。
いいですかみなさん。酒井法子であろうが、上戸彩であろうが、清純派のタレントなら誰だって、今回のような「1週間にも渡る警察のリーク情報の洪水」によって「清純派からシャブ中のアバズレ女優」へと転落させることが可能なんですよ?
その恐ろしさの方にこそ気付いて欲しい。
しかも、最初の数日は「清純派の失踪」で、後半は「容疑者の逃走」と意味づけが変わってる。こんなもの、警察によるラベリングが変わっただけですがな。
なんてひどい話や。
警察がシナリオを書いて、見事なドラマを作り出したに過ぎない。
だいたい本当に現行の法律で「密売ルート」を暴く気があるのなら、摘発は一斉でないとまったく意味をなさないんです。尿検査でクロと出ない限り、証拠がない。証拠もなしに逮捕したら、それは見込み捜査です。絶対にクロと確信ができるまで外堀となる情報集めを徹底してやって、関係する人間を全部網にかけて「密売ルート」をあぶり出すというのが当然です。
ということは、です。
なんで酒井法子は逃げられたんや?
ちゅうことですがな。
なんでよ?
なんでよ?
下調べしてなかったのなら、それは最初からターゲットではなかったって事でしょ?
なら、酒井法子への捜査は「思いつきでやった」ということになる。
その段階で警察はアウトです。
そんな見込み捜査を連発されたら、たまったもんやない。
やめてくれっちゅう話です。
で、逆に、一斉逮捕のターゲットの中に酒井法子の名前もあったとしたら、それは「計画がうまくいかずに逃げられた」ということです。
これまた警察のとんでもないミスです。
だから、
●酒井法子が逃げられた
と言う事自体が、もともと、かなりおかしいんですよ。
なんで逃げられるねん?
わざと泳がしてるとしか思えない。
で、泳がせている間に、「逮捕された夫の悲劇の妻」から「逃走するシャブ中女優」へとシナリオを大転回させている。
その大転回をさせたのは、
●警察だ!
っちゅうことですよ。
普通は一斉逮捕が普通だから、「取り逃がす」と言うこと自体がありませんがな。そうでしょうが。
だから、今回のこの事件は、
●かなり、相当に、ものすごくおかしい。
んです。
最初から。
普通は、
●逮捕されたその日からタレント生命終わり
なんです。
一週間もひっぱりませんって。
なんでひっぱってるのか?
それは、選挙までの期間、とにかくわずかでも紙面を「警察がヒーロー」「官僚がヒーロー」という記事で埋めて、
●官僚はダメダメ!
という記事が出ないようにしたいからですよ。
ただそれだけです。
もう、それがはっきりしてるから、徹底して叩いてやる。
こんな事は許されることではない。
覚悟しろよ、警察!
昨日書いた
酒井法子? いやそれより、覚醒剤工場はどこやねん。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200908091454385623/
の続き。
とにかくみなさん、よく考えてくださいよ。
なんで、いまの時期に押尾くんと、のりピー旦那がつかまったのかを!
「わしら、ちゃんと仕事してまっせ」
という、実にイヤらしい、警察の自己保身アピールでしかないんですよ、これは。
そこをわかってもらいたい。
だいたいね、押尾くんなんか、多分、ずっと前から覚醒剤なんかやってますって。で、警察もずっとそれはしっぽを押さえてたはずです。
じゃぁなんでいまなのか?
もちろん、同室の女性の変死という事はあったにせよ、とにかく選挙前に「一般人に対して『警察はちゃんと仕事してまっせ』というのをアピールしたかった」というだけの話なんですよ。
押尾くんや酒井法子がダメなら、他のタレントでも良かったんでしょう。多分しっぽをつかまえてるタレントなんかわんさといるに違いないんです。
で、何より、今回の選挙では、官僚が日本社会を動かしていると言うことそのものがやり玉に挙げられます。それをなんとか封じ込めたいというのが、官僚の側の一番の思いなんです。
で、そう言う官僚のあり方自体が問われるようなとき、まともな役人なら、国民ひとりひとりに誠実に対応するとかを考えるだろうし、行動したりするわけですが、いまの警察のトップは、そういう基本を考えなかった。
そこを考えずに、「とりあえず有名なタレントで覚醒剤をやってる奴を捕まえろ。それがいちばん手柄になって手っ取り早い。」という判断しかしなかった、という事ですよ。
どんだけ姑息やねん! ちゅうことですがな。
一般人をバカにしてるっちゅうことですがな。
そこを怒らないとアカンっちゅうことですがな。
ここが、一番重要な事です。
ほんまに、騙されんとって欲しいんよなぁ。ここ。
麻薬取締法というのは、この10年くらいで、どんどん厳しくなってますが、それは「一般国民には守りやすく」、警察にとっては「手軽に成果を出しやすい」からです。
もともと売買自体が違法なのだから、ルートは限られます。それも違法ルートですから、ヤクザとか、もともと警察が良くわかってるルートを把握しておけば、それでいつでも「常習者」は捕まえられるわけです。
で、違法ルートなのだから、一般人には関係ありません。普通、手軽に買えるわけではないから、この法律は誰にでも簡単に守れます。
ですから、芸能人のように「良く知っている(という幻想)」のある人が常習者として捕まったら、一般人は「ルールを守った正義の人間」として、つかまえた警察を「正義の代理組織」と認識するようになるわけです。
この効果がすごく高いというのを分ってるからこそ、警察は芸能人の麻薬常習者ばっかりを捕まえるわけです。
こういう選挙前のように、「いますぐ社会からの信頼度を高めたい」と言うときに、すごく重宝するわけでしょ?違いますか?
そういう、「警察にとっての都合の良さ」で、この事件は起きている。
逆に言うと、そんな事しかできてないのが、いまの警察のダメダメダメダメさなのです。
おそらく、覚醒剤を流してるヤクザ組織の上の方とは、なんらかの交換条件でつながってるはずです。
そういう仕組みで、我々一般人の「お上はえらい」意識を、より大きくさせようという、実に姑息で、しみったれた、下品な事件が、この「押尾・酒井法子」事件です。
「酒井法子はあばずれだ」とか、そんなこたぁどうでもよろしい。
そんなことより、
「いまの警察は、こんなに姑息だ」
ということの方を、もっとしっかり、きっちり、強く強く、はっきりくっきりと、明確に意識していただきたいです。
少なくとも、私のページを読んでくださってる方には、そういう意識を持ってもらいたいと思いますね。
敵は酒井法子ではなくて、警察本丸です。
はっきりくっきりそうなんです。
●酒井法子のニュースは、全部警察によるリーク情報である。
ということは、要するにそういう事なんですよ!!!!
いいですか!!!
わかってくださいよ!!!!!
酒井法子? いやそれより、覚醒剤工場はどこやねん。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200908091454385623/
の続き。
とにかくみなさん、よく考えてくださいよ。
なんで、いまの時期に押尾くんと、のりピー旦那がつかまったのかを!
「わしら、ちゃんと仕事してまっせ」
という、実にイヤらしい、警察の自己保身アピールでしかないんですよ、これは。
そこをわかってもらいたい。
だいたいね、押尾くんなんか、多分、ずっと前から覚醒剤なんかやってますって。で、警察もずっとそれはしっぽを押さえてたはずです。
じゃぁなんでいまなのか?
もちろん、同室の女性の変死という事はあったにせよ、とにかく選挙前に「一般人に対して『警察はちゃんと仕事してまっせ』というのをアピールしたかった」というだけの話なんですよ。
押尾くんや酒井法子がダメなら、他のタレントでも良かったんでしょう。多分しっぽをつかまえてるタレントなんかわんさといるに違いないんです。
で、何より、今回の選挙では、官僚が日本社会を動かしていると言うことそのものがやり玉に挙げられます。それをなんとか封じ込めたいというのが、官僚の側の一番の思いなんです。
で、そう言う官僚のあり方自体が問われるようなとき、まともな役人なら、国民ひとりひとりに誠実に対応するとかを考えるだろうし、行動したりするわけですが、いまの警察のトップは、そういう基本を考えなかった。
そこを考えずに、「とりあえず有名なタレントで覚醒剤をやってる奴を捕まえろ。それがいちばん手柄になって手っ取り早い。」という判断しかしなかった、という事ですよ。
どんだけ姑息やねん! ちゅうことですがな。
一般人をバカにしてるっちゅうことですがな。
そこを怒らないとアカンっちゅうことですがな。
ここが、一番重要な事です。
ほんまに、騙されんとって欲しいんよなぁ。ここ。
麻薬取締法というのは、この10年くらいで、どんどん厳しくなってますが、それは「一般国民には守りやすく」、警察にとっては「手軽に成果を出しやすい」からです。
もともと売買自体が違法なのだから、ルートは限られます。それも違法ルートですから、ヤクザとか、もともと警察が良くわかってるルートを把握しておけば、それでいつでも「常習者」は捕まえられるわけです。
で、違法ルートなのだから、一般人には関係ありません。普通、手軽に買えるわけではないから、この法律は誰にでも簡単に守れます。
ですから、芸能人のように「良く知っている(という幻想)」のある人が常習者として捕まったら、一般人は「ルールを守った正義の人間」として、つかまえた警察を「正義の代理組織」と認識するようになるわけです。
この効果がすごく高いというのを分ってるからこそ、警察は芸能人の麻薬常習者ばっかりを捕まえるわけです。
こういう選挙前のように、「いますぐ社会からの信頼度を高めたい」と言うときに、すごく重宝するわけでしょ?違いますか?
そういう、「警察にとっての都合の良さ」で、この事件は起きている。
逆に言うと、そんな事しかできてないのが、いまの警察のダメダメダメダメさなのです。
おそらく、覚醒剤を流してるヤクザ組織の上の方とは、なんらかの交換条件でつながってるはずです。
そういう仕組みで、我々一般人の「お上はえらい」意識を、より大きくさせようという、実に姑息で、しみったれた、下品な事件が、この「押尾・酒井法子」事件です。
「酒井法子はあばずれだ」とか、そんなこたぁどうでもよろしい。
そんなことより、
「いまの警察は、こんなに姑息だ」
ということの方を、もっとしっかり、きっちり、強く強く、はっきりくっきりと、明確に意識していただきたいです。
少なくとも、私のページを読んでくださってる方には、そういう意識を持ってもらいたいと思いますね。
敵は酒井法子ではなくて、警察本丸です。
はっきりくっきりそうなんです。
●酒井法子のニュースは、全部警察によるリーク情報である。
ということは、要するにそういう事なんですよ!!!!
いいですか!!!
わかってくださいよ!!!!!
酒井法子? いやそれより、覚醒剤工場はどこやねん。
2009年8月9日コメント (3)タレントであろうが、なかろうが、ようは中毒患者。
逃亡しようが、つかまろうが、それは国民生活には直接の影響は少ない。
それより、おかしいのは、酒井法子の逃亡の話ばっかりが出て、今回の検挙による覚醒剤ルートの話が全然出てこないということです。
なんで?
検挙は、ルートを確かめ、工場をつきとめて、そういう悪いやからを根絶やしにするためと違うん?
検挙から何日たってるの?
で、なんで工場発見とかルートがどうだったという話が出てこない?
なんで酒井法子ばっかりなん?
しかも、みなさん、注意して、よく考えてくださいよ。
酒井法子が逃亡した前後の情報って、
●警察にしか知りようのない、秘匿義務のある情報。
ばっかりなんですよ!
おかしいでしょ、こんなこと!
リークですよ!リーク!
警察のリーク情報ですよ!
何?これ?
「我々は、ちゃんと仕事してます!」というカッコつけのためのキャンペーンですがな。
選挙前の。
でも、覚醒剤工場を握ってるワルのおおもとは潰れてない。
なんでか?
警察署長とつるんでるからですね。
そういう情報の読み方をしましょう。
だまされてはいけません。
酒井法子は、そういう大きな巨悪の生け贄です。
かわいそうに。
少なくとも、私は、そう読みます。
だってね、あなた、普通、覚醒剤の一斉検挙っていうのは、証拠隠滅を防ぐために一気に行くんですよ、一気に。
で、一気に行って、漏れたところはわざわざ追いかけないんですよ。2日で反応が体から消えちゃうんですから。しらを切り通されたら、それで終わりですからな。
なのに、一週間たってもまだ追いかけているという警察は、はっきり言います。
●税金の無駄遣い
です。
やめてくれ、そんなこと。
それより押尾君と、酒井旦那とをつかまえて、その供給ルートはどうなったんや?
おい!
それをこそ報道せんか!
ボケナス官僚どもめが。
だいたいリーク情報を流すと言う事自体、法律違反ですからな。
ええかげんにせいよ、このボケナス警官どもが。
まったく。
逃亡しようが、つかまろうが、それは国民生活には直接の影響は少ない。
それより、おかしいのは、酒井法子の逃亡の話ばっかりが出て、今回の検挙による覚醒剤ルートの話が全然出てこないということです。
なんで?
検挙は、ルートを確かめ、工場をつきとめて、そういう悪いやからを根絶やしにするためと違うん?
検挙から何日たってるの?
で、なんで工場発見とかルートがどうだったという話が出てこない?
なんで酒井法子ばっかりなん?
しかも、みなさん、注意して、よく考えてくださいよ。
酒井法子が逃亡した前後の情報って、
●警察にしか知りようのない、秘匿義務のある情報。
ばっかりなんですよ!
おかしいでしょ、こんなこと!
リークですよ!リーク!
警察のリーク情報ですよ!
何?これ?
「我々は、ちゃんと仕事してます!」というカッコつけのためのキャンペーンですがな。
選挙前の。
でも、覚醒剤工場を握ってるワルのおおもとは潰れてない。
なんでか?
警察署長とつるんでるからですね。
そういう情報の読み方をしましょう。
だまされてはいけません。
酒井法子は、そういう大きな巨悪の生け贄です。
かわいそうに。
少なくとも、私は、そう読みます。
だってね、あなた、普通、覚醒剤の一斉検挙っていうのは、証拠隠滅を防ぐために一気に行くんですよ、一気に。
で、一気に行って、漏れたところはわざわざ追いかけないんですよ。2日で反応が体から消えちゃうんですから。しらを切り通されたら、それで終わりですからな。
なのに、一週間たってもまだ追いかけているという警察は、はっきり言います。
●税金の無駄遣い
です。
やめてくれ、そんなこと。
それより押尾君と、酒井旦那とをつかまえて、その供給ルートはどうなったんや?
おい!
それをこそ報道せんか!
ボケナス官僚どもめが。
だいたいリーク情報を流すと言う事自体、法律違反ですからな。
ええかげんにせいよ、このボケナス警官どもが。
まったく。
ネット経由で、取引先ができまして。
でもそれが、電車ではちと出かけにくい場所。
クルマじゃないと、打合せにもいけない。
でもクルマでの移動って好きじゃないんですよね。本も読めないですし。
片道で1時間とちょっとかかる遠い場所だし。
これまではずっと、一緒に出かける人のクルマに同乗させてもらってたんですが、とうとう1人で打合せに行かねばならなくなりまして。
どうしたもんかなーと、前から思ってたんですが、
「よし、ここは一発、輪行してみよう!」
と思い立ったのであります。
知らない方のために解説すると、「輪行」というのは、自転車を電車やクルマで運んで、目的地で自転車に乗る行為の事を言います。
日本の鉄道会社の場合、自転車はそのままで乗り込むことはできないんですが、(外国にはそのまま乗れる国もあります。)袋に入れれば、無料で持ち込み可能なんですね。
なので、折りたたみ自転車などを電車に持ち込んで、遠くの土地を自転車で楽しむ、なんてことをしてる人がたくさんいてるのでありますよ。
で、その得意先の場所までの経路をグーグルマップやらストリートビューやら各種時刻表やらでいろいろと確認してみると自転車で、せいぜい15分程度と判明。この程度なら自転車で楽勝なので、大急ぎで輪行袋を買ってきたのであります。
いや、というのは、実は。
去年の暮れからずっと自転車に乗ってるのですが、本当の事を言うと、前輪・後輪を外した事すらなかったのですね。
キチンとしたメンテナンスの腕も持ってないって事でして、いやー、これはかっこ悪い。いやほんま。
これまた、スポーツ自転車に関してあまりご存じない方のために説明しますと、最近のちゃんとした世界標準の自転車のほとんどは、前輪・後輪ともに「クィック・レバー」というもので止められておりまして、それを指でクィっと外すと、車輪が簡単に取り外せるようになってるんです。工具さえ不要なんですよ。
ママチャリの場合はボルトで留められてる事が多いので、「車輪を外す」なんて書くと「えええー大変なことをするのね」と思いがちなんですけど、実はそれほど大した手間ではないのです。
でも、その大した手間でもないことを、慣れていないものだから、なんとなくおっくうでやったことがなかったのであります。
ということで、まず車輪を外して、輪行袋に入れて、それをまた袋から出して組み立てて、ということを、自宅で数回練習してみたのであります。
最初は説明書を読みながら、あーでもない、こうでもないと、袋に入れるまで30分近くかかってしまったんですが、最終的には約8分で袋入れ作業ができるようになりました。
これでも、かなり遅い方だよなぁ。早い人は1~2分でやってしまうって言いますからねぇ。まぁ5分前後ってところではないでしょうか。
でもまぁ、自転車をバラして、車輪ふたつとフレームをヒモで固定して、輪行袋に入れるというのは、世間のみなさんが思っているよりは、すごく簡単でありました。
車輪を固定するヒモの位置を覚えるのにちょっと手間取った程度の事なのでありますよ。
ということで、写真は、目的地についたところで撮影した、袋に入った自転車と、打合せに出かけて帰ってきて、駅前でふたたびバラして車体をヒモでまとめたところの写真の2点なのであります。
しかし、ただこれだけのスキルを覚えるだけで、世界観が変わるなぁというのが、はじめて輪行をしてみた感想ですね。
自転車での移動は、一日10kmくらいは楽勝で往復できるわけです。せいぜい30分で移動できてしまうから。大阪の市内移動だったら、どこからどこまでであろうと45分以内で移動できてしまう。
そうすると、輪行の方法を覚えて、日本の電車ネットワークと自転車を両活用すれば、まぁほとんどの都市は、自分の思い通りにゆったり移動して楽しむことが可能なんだなぁと実感できたのでありますよ。
輪行を覚えたら、どこの街でも、自宅近所の感覚で「チャリンコ移動」ができる。
そういう事なんですねぇ。
それを、今回はつくづく感じました。
これは楽しい!
雨の日以外は、たいていどこの都市でも、輪行で制覇できるよなぁという実感を持った一日でありました。
たかだか、家の中で、クィック・レバーを外して車輪とフレームをヒモでしばり、袋に入れる練習をしただけで、世界が自分のものになるのであります。
いや、大げさに聞こえるでしょうけど、実際にやってみた感じとしては、そのくらいのインパクトのある体験でしたね。
あと、実際に輪行してみて感じたのは、
(1)輪行袋は必須
とにかく自動改札を通るのが難関。袋に入れないと多分、自転車にも自動改札機にも傷がつきます。
また、車内でも、他の人の服を汚したりする可能性が高いので輪行袋に入れないとダメというのは良く分かりますね。本当は自転車専用の改札と自転車専用の車両があるのが一番なんですけどね。
それから、慣れた人は段ボールとかプチプチのクッション材とかでくるんで持ち運ぶとかもしたりするらしいんですけど、やはり初心者は輪行袋でやるのが安心かつ安全ですな。肩からヒモでぶら下げるとかそういう事もできるように考えられてるので、そういうのは安心です。
(2)思っているより目立たない
最初、自転車なんかを電車の中に持ち込んだら、すごく目立つだろうなぁ、ちいと恥ずかしいかなぁと思ってたんですが、意外に誰も注目しませんでしたねぇ。こっちが驚くくらいに無視されました。
考えてみたら、黒い布で包んでしまったら何が入っているのかさっぱりわからないから、自転車なのだとすら気付かないわけです。
で、駅構内を見渡してみると、楽器のベースとかを担いでる人やら、旅行用のでっかいコマ付きカバンをガラゴロと引きずってる人もすごく多いわけで、そういう人たちの中では、ごくごく普通の風景として溶け込んでしまうんですな。
それはかなりの新発見でした。
まぁ、さすがにクーラーのきいた、狭い待合室に持ち込んだ時は、ちょっと注目されてしまいましたが。
(3)電車移動の気楽さは減る。
とは言うものの、なんと言っても10kgありますからね。軽い荷物ではありません。またコマ付き旅行鞄のように、携帯専用の形になっているわけでもありませんから、電車移動自体はやっぱりちょっとストレスフルです。
大阪駅の1番ホームから8番ホームまで移動しないといけない時とかは、さすがにちょっと気が萎えます。そういう面倒くささはありますな。
エスカレーターでも、いちおう手で支えておかないといけないし。
「エンド金具」というものがありまして、これは輪行の時とかにフレームの端、ギアのチェンジ機構部分などを守るためにとりつけるものなんですが、これは必須だなぁと思いました。
というのは、これがないと、折りたたんだ自転車を「ちょっと置く」という事ができないのです。バラしてたたむと「脚」がありませんからな。どこかに立てかけるしかないわけです。
でも電車待ちで並んでる時とか、ちょっとそこに置いてカバンのなかの地図を見るとか、そういう事もしたくなるわけで、そういうときに意外と不便なんですね。
まぁこれも慣れの問題でしょうけど。
あと、列車の座席に座れる可能性はガクンと落ちます。基本、立って移動するというつもりでないとダメです。そういう意味ではちょっと疲れます。でもまぁ、これはどこへ行くのか? とかどんな時間帯に移動するのか? で変わってくるから、どうとでもなる話ではありますが。
ま、気になったのはその程度。
実際に目的地に着いて自転車移動を始めると、その機動力の素晴らしさに感激してしまいますな。いままでクルマでしか行ったことがない土地を自転車で移動すると、もう、まったく別の世界になります。
「よそさまの土地」が「見知った近所」になる感覚の違いです。
いや、実際、はじめて自転車移動をしたので、道を間違えてしまって、かなり遠くまで行ってしまったんですがね。
「えらいことした!」と思って、引き返しても、それほど時間がかからなかったんですな。
クルマで移動していて、見覚えのある場所だったので、かなり遠くまで間違えて入り込んでしまったぞ!と思ってたんですけど、実際に自転車で移動してみたら、それほどの距離でもなかったんですね。都市部と違って信号が少ないし、移動がラクラク。
「そうかー、クルマ必須の土地では、自転車移動もラクなんだ。」と感じたと言うことであります。
後は坂かなぁ。
日本の宅地や都市開発は山を切り崩して街を作ってるので、坂道が多いんですよね。なので、自転車がもっとも不得意とする坂道が多い。地方とかに輪行したら、この問題にはきっと必ずぶち当たると思うんですよね。
でも、これも、実際に輪行してみた実感では、
●坂道は上りと下りは同数なのだから、いってこいでゼロである。
というのが真実だなぁと思いましたね。
駅から目的地まで、ちょっと長い坂が続いて「うわ」と思ったんですが、帰り道ではそれは長い下り坂ですからね。ペダルを回さなくても移動できてしまう。ラクラク。
夏だというのに、風が気持ちよくて、暑さも感じない、今回の輪行で最ラク状態が、この下り坂でしたから。
坂道はいってこいでチャラだなぁ、本当に。
ま、そんなことで、ものすごく新鮮で視野の広がった体験ではありました。
いやー、やっぱ自転車はいいわ。
ほんとに。
●自転車:ひとよみにっき内実用体験レポート-----------------(2009.09.29追記)
▼基礎的書籍紹介:自転車関連の情報をまとめておきます。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200909290836391467/
▼自転車本体:TREK クロスバイク 7.5FX
http://hitoyomi.diarynote.jp/200811231655512820/
▼地図:自転車とストリートビューと旧街道。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200811280158586303/
▼階段克服:道、間違えました。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200811291203343466/
▼ヘルメット:恥ずかしのヘルメット。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200812050904248688/
▼ライト:手回し充電ライト
http://hitoyomi.diarynote.jp/200812071125466947/
▼下着:【あったかい!】ミズノ ブレスサーモ アンダーウェア 半袖Vネック A92LN-502
http://hitoyomi.diarynote.jp/200901171257308230/
▼ブレーキ:衝突回避の秘密。(あ、自転車の話ですよ。)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200902190451325362/
▼天気予報サイト紹介:雨が降ると自転車に乗れない。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200903021357063086/
▼輪行:はじめての輪行。
--------------------------------------------------
●「ひとよみにっき」の自転車関連書き込みのみ表示
http://hitoyomi.diarynote.jp/?theme_id=7
でもそれが、電車ではちと出かけにくい場所。
クルマじゃないと、打合せにもいけない。
でもクルマでの移動って好きじゃないんですよね。本も読めないですし。
片道で1時間とちょっとかかる遠い場所だし。
これまではずっと、一緒に出かける人のクルマに同乗させてもらってたんですが、とうとう1人で打合せに行かねばならなくなりまして。
どうしたもんかなーと、前から思ってたんですが、
「よし、ここは一発、輪行してみよう!」
と思い立ったのであります。
知らない方のために解説すると、「輪行」というのは、自転車を電車やクルマで運んで、目的地で自転車に乗る行為の事を言います。
日本の鉄道会社の場合、自転車はそのままで乗り込むことはできないんですが、(外国にはそのまま乗れる国もあります。)袋に入れれば、無料で持ち込み可能なんですね。
なので、折りたたみ自転車などを電車に持ち込んで、遠くの土地を自転車で楽しむ、なんてことをしてる人がたくさんいてるのでありますよ。
で、その得意先の場所までの経路をグーグルマップやらストリートビューやら各種時刻表やらでいろいろと確認してみると自転車で、せいぜい15分程度と判明。この程度なら自転車で楽勝なので、大急ぎで輪行袋を買ってきたのであります。
いや、というのは、実は。
去年の暮れからずっと自転車に乗ってるのですが、本当の事を言うと、前輪・後輪を外した事すらなかったのですね。
キチンとしたメンテナンスの腕も持ってないって事でして、いやー、これはかっこ悪い。いやほんま。
これまた、スポーツ自転車に関してあまりご存じない方のために説明しますと、最近のちゃんとした世界標準の自転車のほとんどは、前輪・後輪ともに「クィック・レバー」というもので止められておりまして、それを指でクィっと外すと、車輪が簡単に取り外せるようになってるんです。工具さえ不要なんですよ。
ママチャリの場合はボルトで留められてる事が多いので、「車輪を外す」なんて書くと「えええー大変なことをするのね」と思いがちなんですけど、実はそれほど大した手間ではないのです。
でも、その大した手間でもないことを、慣れていないものだから、なんとなくおっくうでやったことがなかったのであります。
ということで、まず車輪を外して、輪行袋に入れて、それをまた袋から出して組み立てて、ということを、自宅で数回練習してみたのであります。
最初は説明書を読みながら、あーでもない、こうでもないと、袋に入れるまで30分近くかかってしまったんですが、最終的には約8分で袋入れ作業ができるようになりました。
これでも、かなり遅い方だよなぁ。早い人は1~2分でやってしまうって言いますからねぇ。まぁ5分前後ってところではないでしょうか。
でもまぁ、自転車をバラして、車輪ふたつとフレームをヒモで固定して、輪行袋に入れるというのは、世間のみなさんが思っているよりは、すごく簡単でありました。
車輪を固定するヒモの位置を覚えるのにちょっと手間取った程度の事なのでありますよ。
ということで、写真は、目的地についたところで撮影した、袋に入った自転車と、打合せに出かけて帰ってきて、駅前でふたたびバラして車体をヒモでまとめたところの写真の2点なのであります。
しかし、ただこれだけのスキルを覚えるだけで、世界観が変わるなぁというのが、はじめて輪行をしてみた感想ですね。
自転車での移動は、一日10kmくらいは楽勝で往復できるわけです。せいぜい30分で移動できてしまうから。大阪の市内移動だったら、どこからどこまでであろうと45分以内で移動できてしまう。
そうすると、輪行の方法を覚えて、日本の電車ネットワークと自転車を両活用すれば、まぁほとんどの都市は、自分の思い通りにゆったり移動して楽しむことが可能なんだなぁと実感できたのでありますよ。
輪行を覚えたら、どこの街でも、自宅近所の感覚で「チャリンコ移動」ができる。
そういう事なんですねぇ。
それを、今回はつくづく感じました。
これは楽しい!
雨の日以外は、たいていどこの都市でも、輪行で制覇できるよなぁという実感を持った一日でありました。
たかだか、家の中で、クィック・レバーを外して車輪とフレームをヒモでしばり、袋に入れる練習をしただけで、世界が自分のものになるのであります。
いや、大げさに聞こえるでしょうけど、実際にやってみた感じとしては、そのくらいのインパクトのある体験でしたね。
あと、実際に輪行してみて感じたのは、
(1)輪行袋は必須
とにかく自動改札を通るのが難関。袋に入れないと多分、自転車にも自動改札機にも傷がつきます。
また、車内でも、他の人の服を汚したりする可能性が高いので輪行袋に入れないとダメというのは良く分かりますね。本当は自転車専用の改札と自転車専用の車両があるのが一番なんですけどね。
それから、慣れた人は段ボールとかプチプチのクッション材とかでくるんで持ち運ぶとかもしたりするらしいんですけど、やはり初心者は輪行袋でやるのが安心かつ安全ですな。肩からヒモでぶら下げるとかそういう事もできるように考えられてるので、そういうのは安心です。
(2)思っているより目立たない
最初、自転車なんかを電車の中に持ち込んだら、すごく目立つだろうなぁ、ちいと恥ずかしいかなぁと思ってたんですが、意外に誰も注目しませんでしたねぇ。こっちが驚くくらいに無視されました。
考えてみたら、黒い布で包んでしまったら何が入っているのかさっぱりわからないから、自転車なのだとすら気付かないわけです。
で、駅構内を見渡してみると、楽器のベースとかを担いでる人やら、旅行用のでっかいコマ付きカバンをガラゴロと引きずってる人もすごく多いわけで、そういう人たちの中では、ごくごく普通の風景として溶け込んでしまうんですな。
それはかなりの新発見でした。
まぁ、さすがにクーラーのきいた、狭い待合室に持ち込んだ時は、ちょっと注目されてしまいましたが。
(3)電車移動の気楽さは減る。
とは言うものの、なんと言っても10kgありますからね。軽い荷物ではありません。またコマ付き旅行鞄のように、携帯専用の形になっているわけでもありませんから、電車移動自体はやっぱりちょっとストレスフルです。
大阪駅の1番ホームから8番ホームまで移動しないといけない時とかは、さすがにちょっと気が萎えます。そういう面倒くささはありますな。
エスカレーターでも、いちおう手で支えておかないといけないし。
「エンド金具」というものがありまして、これは輪行の時とかにフレームの端、ギアのチェンジ機構部分などを守るためにとりつけるものなんですが、これは必須だなぁと思いました。
というのは、これがないと、折りたたんだ自転車を「ちょっと置く」という事ができないのです。バラしてたたむと「脚」がありませんからな。どこかに立てかけるしかないわけです。
でも電車待ちで並んでる時とか、ちょっとそこに置いてカバンのなかの地図を見るとか、そういう事もしたくなるわけで、そういうときに意外と不便なんですね。
まぁこれも慣れの問題でしょうけど。
あと、列車の座席に座れる可能性はガクンと落ちます。基本、立って移動するというつもりでないとダメです。そういう意味ではちょっと疲れます。でもまぁ、これはどこへ行くのか? とかどんな時間帯に移動するのか? で変わってくるから、どうとでもなる話ではありますが。
ま、気になったのはその程度。
実際に目的地に着いて自転車移動を始めると、その機動力の素晴らしさに感激してしまいますな。いままでクルマでしか行ったことがない土地を自転車で移動すると、もう、まったく別の世界になります。
「よそさまの土地」が「見知った近所」になる感覚の違いです。
いや、実際、はじめて自転車移動をしたので、道を間違えてしまって、かなり遠くまで行ってしまったんですがね。
「えらいことした!」と思って、引き返しても、それほど時間がかからなかったんですな。
クルマで移動していて、見覚えのある場所だったので、かなり遠くまで間違えて入り込んでしまったぞ!と思ってたんですけど、実際に自転車で移動してみたら、それほどの距離でもなかったんですね。都市部と違って信号が少ないし、移動がラクラク。
「そうかー、クルマ必須の土地では、自転車移動もラクなんだ。」と感じたと言うことであります。
後は坂かなぁ。
日本の宅地や都市開発は山を切り崩して街を作ってるので、坂道が多いんですよね。なので、自転車がもっとも不得意とする坂道が多い。地方とかに輪行したら、この問題にはきっと必ずぶち当たると思うんですよね。
でも、これも、実際に輪行してみた実感では、
●坂道は上りと下りは同数なのだから、いってこいでゼロである。
というのが真実だなぁと思いましたね。
駅から目的地まで、ちょっと長い坂が続いて「うわ」と思ったんですが、帰り道ではそれは長い下り坂ですからね。ペダルを回さなくても移動できてしまう。ラクラク。
夏だというのに、風が気持ちよくて、暑さも感じない、今回の輪行で最ラク状態が、この下り坂でしたから。
坂道はいってこいでチャラだなぁ、本当に。
ま、そんなことで、ものすごく新鮮で視野の広がった体験ではありました。
いやー、やっぱ自転車はいいわ。
ほんとに。
●自転車:ひとよみにっき内実用体験レポート-----------------(2009.09.29追記)
▼基礎的書籍紹介:自転車関連の情報をまとめておきます。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200909290836391467/
▼自転車本体:TREK クロスバイク 7.5FX
http://hitoyomi.diarynote.jp/200811231655512820/
▼地図:自転車とストリートビューと旧街道。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200811280158586303/
▼階段克服:道、間違えました。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200811291203343466/
▼ヘルメット:恥ずかしのヘルメット。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200812050904248688/
▼ライト:手回し充電ライト
http://hitoyomi.diarynote.jp/200812071125466947/
▼下着:【あったかい!】ミズノ ブレスサーモ アンダーウェア 半袖Vネック A92LN-502
http://hitoyomi.diarynote.jp/200901171257308230/
▼ブレーキ:衝突回避の秘密。(あ、自転車の話ですよ。)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200902190451325362/
▼天気予報サイト紹介:雨が降ると自転車に乗れない。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200903021357063086/
▼輪行:はじめての輪行。
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●「ひとよみにっき」の自転車関連書き込みのみ表示
http://hitoyomi.diarynote.jp/?theme_id=7
またツイストリングノートの話なんですが。
●抜き差し簡単なリングノート:ツイストリング・ノート(LIHIT LAB)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200903181525509768/
手帳を使ってる場合は、けっこう電車の中でメモとかつけたりするわけですよ。私。
というか、世間的にも良く見ますよね。
意外に、電車の中で手帳にメモしてるのって、女性に多いんだよなぁ。なんででしょ? 男は少ないように思う。男で電車の中で手帳にメモしてる人って、何かマニアックに趣味的な事を追いかけてるような人が多い感じで、女性の場合は、どうも思い出を楽しみつつ手帳にメモしてるとか、次の予定までに何をすべきかを考えてるとか、そういう人が多い感じ。シールとかも貼ったりして。概して、女性の手帳はカラフルで可愛いですわね。男の手帳は、文字ばっかりで、みっちり書いてるって人が多いように思うなぁ。
それはともあれ。
手帳を使ってた時は、電車の中で開いてあれやこれやと書き込んだりも、けっこうしていたんですが、ツイストリングノートで手帳的な事もまとめるようになってから、電車の中で何か書くというような事を、ほとんどしなくなったんですね。
なんでかな? と思ったら、単に、
●「バインダーノートは電車の中では使いにくい」と思っていた。
というだけの話だと気づいたわけです。普通、バインダー式のノートだと、使うときは必ず左右に広がりが必要になりまして、いたずらに空間を必要とするわけです。
だから電車の中で使うには、普通のバインダーノートというのは、かなり不便なんですね。
A5サイズの20穴バインダーとかも、一時期使ってたんですが、やっぱり電車の中で開くってことはしなかった。
で、ツイストリングノートも、使い勝手がバインダーにかなり近いので「これはバインダーノートなのだ!」という印象がかなり強くなっていて、電車の中で使うという発想に全然ならなかったんですね。僕の意識の中で。アホなことに。
でも、この間、ふと思いついた事があって、電車の中で座ってたのですが、鞄の中からツイストリングノートを取りだそうという気になりまして、いろいろメモしてたのですが。
それがどうも、全然ストレスを感じない。
んんん? なんで?
と考えてみたら、結局、
●半分折りにできるから
なんですね。
「おおおお、そうか! 半分折りだと電車の中で邪魔にならんかったのだ!」
てなもんです。
なんでいままで気づかなかったのかね?
アホな話です。
バインダーでのメモ取りをしてたこととか、長年の経験が逆に邪魔してしまったわけですな。
で、使ってて思ったのが、この半分折りでのジャストB5サイズのメモを見るという感覚がどこかで体験したような感じがありまして、「なんだろうな?」と思うと、ようは手帳にメモしていた時の感覚と非常に近いわけであります。
で、何がそんなに感覚的に近いのか? と考えると、ようは横幅が普通の綴じ手帳の見開きサイズと、けっこう近いのだって事なんですね。
ツイストリングノートの半分折り状態のジャストB5サイズだと、タテの長さはちょっと長くて、手帳にくらべると取り回しが悪い感じはあるんですけど、横幅は、綴じタイプのビジネス手帳と非常に似通ってまして、使い勝手がけっこう似てるんですわ。
あー、そうなんやー。
これはけっこう良いなー。
などと改めて喜んでたりします。
もちろん、手帳のように胸ポケットに入れるとかスーツの内ポケットに入れる、なんてことはできませんから、利用の限界はあるんですけどね。それにページめくりも手帳よりは、電車の中での取り回しは悪いし。
でも、メモしたり読み直したりするのには、けっこう便利です。まぁまぁ、そこそこ使える。これぞ「半分折り」の威力だなぁと、改めて気づいたのです。
喫茶店で読み直しするとか、メモをつけるとかは良くやってるので、そういう時に便利なのはわかってたんですけど、電車の中で便利とは考えもしなかった。
で、あらためて思ったのは、たぶん、綴じ手帳のサイズというのは、「見開きで使った時に、B5の大学ノートくらいのサイズになるように」というのもあって、ああいうサイズになったんじゃないかなぁということでした。
B系のサイズというのは、もともと和紙の大きさが元になっていて、日本人の体にちょうど良いサイズなんですね。A系は洋モノなので、いまいちしっくりこないところがあります。きゃつら、図体でかいですからな。
A4ノートはでかすぎるし、A5ノートだとちょっと物足りないって感じが、みなさんあるんじゃないですかね? 学生時代の大学ノートにせよ、ルーズリーフのバインダーにせよ、B5サイズにやはり一番慣れ親しんでいるっていうのがあります。
その慣れ親しんだサイズを見開きで実現したのがビジネス用の綴じ手帳で、普通のリングノートは、半分折り・B5片面使いで、その慣れ親しんだ書き込み面を提供しているって事ではないかな?と思うわけです。
パソコンのプリントというとA4用紙がすごく多いんですけど、あれ、あんまり電車の中で参照したいと思わないんですよね。横幅・タテの長さともに、ちいと長い。やったことのある人なら実感してもらえると思うんですけど、A4用紙にプリントされた資料って、電車の中では、すごく取り回しが悪いんですよ。
ホチキス止めしてあって、「片面使い」であったとしても、まだ横幅が微妙に大きくてちょっと邪魔。タテの長さに関してはすごく邪魔です。ページめくりとかすると、ものすごくストレスフルです。
綴じ手帳の見開きサイズは、B5の紙の下三分の一を切り取ったくらいのサイズで、電車の中で見るには、このくらいが感覚としてちょうど良い感じなんですね。そのあたり、やっぱり定番のものは、よく考えられてると思います。
逆にバインダー式のシステム手帳は、片面使いしかできないから、面積的には狭くなっちゃうわけです。その割に横幅は普通の手帳なみ。要するにB5の横幅と変わらないのですね。
バインダーの「半分に折れない」という欠点が、ここに出てくるわけです。
バイブルサイズのシステム手帳が、普通の手帳よりちょっと大きめなのは、書き込み面を稼ぎたいからなわけでして。
そういう事を考えると、「書く・読む」という基本部分の事だけを考えると、リングノートを電車の中で使うというのは、意外に良いですな。
まぁちょっとタテの長さは多すぎる感じがあるし、あと、半分折りにして手で持つと、折った反対側は、周りの人に丸見えになっちゃうから、そこは注意しないと恥ずかしいんですけどね。
でも、意外に使える。
ああ、そういえば、頭の良さそうな女子学生とか、電車の中で授業のノートをまとめるのに、リングノートを使って、ヒザの上を机にして勉強してる子とか見かけるよなぁと、いまごろになって気づくのでした。
半分折りだと、ヒザを机にできるんだなぁ。そうだなぁ。
僕はリングノートは、仕事をし始めてから使うようになったので、学生時代にはリングノートを使うとか、ヒザの上を机にするとか、そういうことをやった経験がまるでないんです。いかに勉強してない学生だったか、ということですなぁ。
ということで、半分折りできるB5サイズのリングノートは、ツイストリングノートに限らず、意外に電車の中でも使いやすい、というのが発見でありました。
電車の中に限定すると、綴じ手帳が多分、一番使いやすいと思いますが、まぁ、その次くらいに、リングノートが便利なんじゃないの? って思いました。
(B6サイズのリングノートを使ってた時は、良く電車の中でメモを取ってましたけどね。
●大好きなノート
http://hitoyomi.diarynote.jp/200811071514419830/
これはこれで、また全然違う世界でかなり好きなんですが、まぁマニアックにメモ取りしたい人向けかもしれない。B6サイズのリングノートってのも、かなり良いです。)
ともあれ、いざ電車の中で取り出してみると、意外にツイストリングノートも使える。大満足!というほどではないけれども、半分折りだとかなり使える感じなのが、僕的にはけっこう新鮮な発見でした。
だって、これでバインダーノートの差し替え自由というメリットがあるんだぜ? ちょっとすごくない? 大満足の要素は少ないノートですが、いろんなシーンでかなり幅広く、そこそこ使えるのが、ツイストリングノートの一番の魅力ですな。「そこそこ満足」で、カバー出来る範囲が超広いって感じ。
かなり面白い存在です。
関連記事--------------------------------------
■抜き差し簡単なリングノート:ツイストリング・ノート(LIHIT LAB)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200903181525509768
■ツイストリング・ノート、その後。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200907130854311462/
■ツイストリングノート:用紙を八折りにして持ち歩く。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200909050152412990/
■ツイストリング・ノートやシステム手帳のインデックスには、マスキングテープが便利。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200907151040088991/
■ツイストリングノートはドキュメントスキャナと相性が良い。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200909131056294519/
----------------
■ノートは再読することが大事。(書評:脳を「見える化」する思考ノート)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200811041235101488/
■モレスキン・リングノート・普通のノートなど、綴じノートには、最初にページ番号を打つと良い。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200907171059448704/
■予備校に行くのではなく、授業をちゃんとノートすることが人生では大切だ。
(書評:東大合格生のノートはかならず美しい)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200810281406446294/
●抜き差し簡単なリングノート:ツイストリング・ノート(LIHIT LAB)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200903181525509768/
手帳を使ってる場合は、けっこう電車の中でメモとかつけたりするわけですよ。私。
というか、世間的にも良く見ますよね。
意外に、電車の中で手帳にメモしてるのって、女性に多いんだよなぁ。なんででしょ? 男は少ないように思う。男で電車の中で手帳にメモしてる人って、何かマニアックに趣味的な事を追いかけてるような人が多い感じで、女性の場合は、どうも思い出を楽しみつつ手帳にメモしてるとか、次の予定までに何をすべきかを考えてるとか、そういう人が多い感じ。シールとかも貼ったりして。概して、女性の手帳はカラフルで可愛いですわね。男の手帳は、文字ばっかりで、みっちり書いてるって人が多いように思うなぁ。
それはともあれ。
手帳を使ってた時は、電車の中で開いてあれやこれやと書き込んだりも、けっこうしていたんですが、ツイストリングノートで手帳的な事もまとめるようになってから、電車の中で何か書くというような事を、ほとんどしなくなったんですね。
なんでかな? と思ったら、単に、
●「バインダーノートは電車の中では使いにくい」と思っていた。
というだけの話だと気づいたわけです。普通、バインダー式のノートだと、使うときは必ず左右に広がりが必要になりまして、いたずらに空間を必要とするわけです。
だから電車の中で使うには、普通のバインダーノートというのは、かなり不便なんですね。
A5サイズの20穴バインダーとかも、一時期使ってたんですが、やっぱり電車の中で開くってことはしなかった。
で、ツイストリングノートも、使い勝手がバインダーにかなり近いので「これはバインダーノートなのだ!」という印象がかなり強くなっていて、電車の中で使うという発想に全然ならなかったんですね。僕の意識の中で。アホなことに。
でも、この間、ふと思いついた事があって、電車の中で座ってたのですが、鞄の中からツイストリングノートを取りだそうという気になりまして、いろいろメモしてたのですが。
それがどうも、全然ストレスを感じない。
んんん? なんで?
と考えてみたら、結局、
●半分折りにできるから
なんですね。
「おおおお、そうか! 半分折りだと電車の中で邪魔にならんかったのだ!」
てなもんです。
なんでいままで気づかなかったのかね?
アホな話です。
バインダーでのメモ取りをしてたこととか、長年の経験が逆に邪魔してしまったわけですな。
で、使ってて思ったのが、この半分折りでのジャストB5サイズのメモを見るという感覚がどこかで体験したような感じがありまして、「なんだろうな?」と思うと、ようは手帳にメモしていた時の感覚と非常に近いわけであります。
で、何がそんなに感覚的に近いのか? と考えると、ようは横幅が普通の綴じ手帳の見開きサイズと、けっこう近いのだって事なんですね。
ツイストリングノートの半分折り状態のジャストB5サイズだと、タテの長さはちょっと長くて、手帳にくらべると取り回しが悪い感じはあるんですけど、横幅は、綴じタイプのビジネス手帳と非常に似通ってまして、使い勝手がけっこう似てるんですわ。
あー、そうなんやー。
これはけっこう良いなー。
などと改めて喜んでたりします。
もちろん、手帳のように胸ポケットに入れるとかスーツの内ポケットに入れる、なんてことはできませんから、利用の限界はあるんですけどね。それにページめくりも手帳よりは、電車の中での取り回しは悪いし。
でも、メモしたり読み直したりするのには、けっこう便利です。まぁまぁ、そこそこ使える。これぞ「半分折り」の威力だなぁと、改めて気づいたのです。
喫茶店で読み直しするとか、メモをつけるとかは良くやってるので、そういう時に便利なのはわかってたんですけど、電車の中で便利とは考えもしなかった。
で、あらためて思ったのは、たぶん、綴じ手帳のサイズというのは、「見開きで使った時に、B5の大学ノートくらいのサイズになるように」というのもあって、ああいうサイズになったんじゃないかなぁということでした。
B系のサイズというのは、もともと和紙の大きさが元になっていて、日本人の体にちょうど良いサイズなんですね。A系は洋モノなので、いまいちしっくりこないところがあります。きゃつら、図体でかいですからな。
A4ノートはでかすぎるし、A5ノートだとちょっと物足りないって感じが、みなさんあるんじゃないですかね? 学生時代の大学ノートにせよ、ルーズリーフのバインダーにせよ、B5サイズにやはり一番慣れ親しんでいるっていうのがあります。
その慣れ親しんだサイズを見開きで実現したのがビジネス用の綴じ手帳で、普通のリングノートは、半分折り・B5片面使いで、その慣れ親しんだ書き込み面を提供しているって事ではないかな?と思うわけです。
パソコンのプリントというとA4用紙がすごく多いんですけど、あれ、あんまり電車の中で参照したいと思わないんですよね。横幅・タテの長さともに、ちいと長い。やったことのある人なら実感してもらえると思うんですけど、A4用紙にプリントされた資料って、電車の中では、すごく取り回しが悪いんですよ。
ホチキス止めしてあって、「片面使い」であったとしても、まだ横幅が微妙に大きくてちょっと邪魔。タテの長さに関してはすごく邪魔です。ページめくりとかすると、ものすごくストレスフルです。
綴じ手帳の見開きサイズは、B5の紙の下三分の一を切り取ったくらいのサイズで、電車の中で見るには、このくらいが感覚としてちょうど良い感じなんですね。そのあたり、やっぱり定番のものは、よく考えられてると思います。
逆にバインダー式のシステム手帳は、片面使いしかできないから、面積的には狭くなっちゃうわけです。その割に横幅は普通の手帳なみ。要するにB5の横幅と変わらないのですね。
バインダーの「半分に折れない」という欠点が、ここに出てくるわけです。
バイブルサイズのシステム手帳が、普通の手帳よりちょっと大きめなのは、書き込み面を稼ぎたいからなわけでして。
そういう事を考えると、「書く・読む」という基本部分の事だけを考えると、リングノートを電車の中で使うというのは、意外に良いですな。
まぁちょっとタテの長さは多すぎる感じがあるし、あと、半分折りにして手で持つと、折った反対側は、周りの人に丸見えになっちゃうから、そこは注意しないと恥ずかしいんですけどね。
でも、意外に使える。
ああ、そういえば、頭の良さそうな女子学生とか、電車の中で授業のノートをまとめるのに、リングノートを使って、ヒザの上を机にして勉強してる子とか見かけるよなぁと、いまごろになって気づくのでした。
半分折りだと、ヒザを机にできるんだなぁ。そうだなぁ。
僕はリングノートは、仕事をし始めてから使うようになったので、学生時代にはリングノートを使うとか、ヒザの上を机にするとか、そういうことをやった経験がまるでないんです。いかに勉強してない学生だったか、ということですなぁ。
ということで、半分折りできるB5サイズのリングノートは、ツイストリングノートに限らず、意外に電車の中でも使いやすい、というのが発見でありました。
電車の中に限定すると、綴じ手帳が多分、一番使いやすいと思いますが、まぁ、その次くらいに、リングノートが便利なんじゃないの? って思いました。
(B6サイズのリングノートを使ってた時は、良く電車の中でメモを取ってましたけどね。
●大好きなノート
http://hitoyomi.diarynote.jp/200811071514419830/
これはこれで、また全然違う世界でかなり好きなんですが、まぁマニアックにメモ取りしたい人向けかもしれない。B6サイズのリングノートってのも、かなり良いです。)
ともあれ、いざ電車の中で取り出してみると、意外にツイストリングノートも使える。大満足!というほどではないけれども、半分折りだとかなり使える感じなのが、僕的にはけっこう新鮮な発見でした。
だって、これでバインダーノートの差し替え自由というメリットがあるんだぜ? ちょっとすごくない? 大満足の要素は少ないノートですが、いろんなシーンでかなり幅広く、そこそこ使えるのが、ツイストリングノートの一番の魅力ですな。「そこそこ満足」で、カバー出来る範囲が超広いって感じ。
かなり面白い存在です。
関連記事--------------------------------------
■抜き差し簡単なリングノート:ツイストリング・ノート(LIHIT LAB)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200903181525509768
■ツイストリング・ノート、その後。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200907130854311462/
■ツイストリングノート:用紙を八折りにして持ち歩く。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200909050152412990/
■ツイストリング・ノートやシステム手帳のインデックスには、マスキングテープが便利。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200907151040088991/
■ツイストリングノートはドキュメントスキャナと相性が良い。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200909131056294519/
----------------
■ノートは再読することが大事。(書評:脳を「見える化」する思考ノート)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200811041235101488/
■モレスキン・リングノート・普通のノートなど、綴じノートには、最初にページ番号を打つと良い。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200907171059448704/
■予備校に行くのではなく、授業をちゃんとノートすることが人生では大切だ。
(書評:東大合格生のノートはかならず美しい)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200810281406446294/
血液型AB型オンパレ漫画「めだかBOX」
2009年7月20日コメント (3)この7月20日という日は「海の日」という祝日で、全国的にお休みです。で、今年はたまたま月曜日が20日だったので、連休になっておりますが、「月曜日がお休み」というのが、この数年で次々に増えてきたのですね。
●国民の祝日に関する法律
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S23/S23HO178.html
●「国民の祝日に関する法律」Wikipedeia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E3%81%AE%E7%A5%9D%E6%97%A5%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%B3%95%E5%BE%8B
このあたり、ちょっといろいろ言いたいこともあるのですが、それは置いといて。
ようは、土日月と三連休になることがけっこう増えてきたということでして、そうなるとどうなるのか? というと、
●少年ジャンプが土曜日発売に変わる。
という事なのです。
通常少年ジャンプは月曜日発売でして、週の頭で、仕事をバリバリやらねば!という時に発売になるので、読む時間がうまくとれなかったりするんですね。
でも、この連休前発売の時は連休中にゆっくり読めるので、僕的には嬉しいのでして。どうせなら通常の発売日も、毎週金曜日発売とか毎週土曜日発売のほうがうれしいくらいなんですが。
ともあれ、そんなことで、ゆったりジャンプを読んでいて、あらためて、「この漫画は異常だよなぁ」と思うのが、数ヶ月ほど前から始まった「めだかBOX」という作品。
いや、別に面白いとかそういう事ではないのです。素晴らしい!と言ってほめたいのでもありません。ただ、あまりに登場人物が、
●AB型ばかり
というのが極端なので、感心しまくってしまう、というだけの話なんですね。
まぁ内容は、学園もので、「なんでもできるスーパーレディのめだかちゃんが、生徒会会長となって、学園のあれやこれやを問題解決する」というお話しなんですが。
でも、この主人公のめだかちゃんがAB型の設定で、その横に付いている幼なじみの男の子がAB型で、その二人を横で見ながらからかっているチビ女がAB型で…と、AB型ばかりが登場人物という形で始まった連載が、この2ヶ月ほどの間に10人以上のゲストキャラとか新キャラクターが登場しているのだけれど、ほぼ9割がAB型という異常さなんですねぇ。
ここで、血液型のおさらいをしておきますが、AB型はもともと10人に1人しかいないと言う「希少種」です。日本での血液型比率を考えるとA型4割O型3割B型2割ですので、普通に考えれば、いろいろな血液型同士の組み合わせが考えられる中で、AB型同士の出会いは、10分の1×10分の1ですから、100分の1ということになるわけで、ものすごく確率論的には低くなる話です。
が。
現実の社会は、別に確率論で動いてるわけではなくて、「なんとなくの相性」とかで動いている事も多くて、実はAB型同士すごく気があって、いろいろ話をしてみたら、後から「え、お前もAB型だったの?」ということはけっこうあるんです。
いや、かく言う僕がAB型なんですけどね。
で、実際、昨日も仕事仲間のデザイナー君の結婚披露パーティーだったんですが、その結婚した二人がAB型同士。なので、AB型の人間の回りには、やっぱりAB型がすごく多いし、群がってるものなのです。
確率論で言うと100分の1×100分の1×…とAB型がひとり増えるごとに確率は低くなるので、5人くらいのAB型同士の集まりがあったとしたら、それは天文学的な確率の低さである、という話になるわけですが、実際にはそうはならないんですな。
ようは「なんとなくウマが合う」というのがあって、似たもの同士つるんでるのが楽しいとかあったりするからです。
まぁ、そういう体験を日々しているので、「血液型と性格の相関関係に科学的根拠はない」とか言って、血液型と性格との関係性を無視しようとしてる人間がバカに見えて仕方ないんですが。
まぁ、それはそれとして。
この漫画は、とにかく出てくる登場人物が、ことごとくAB型で、今週はとうとう、どうやら「ワル者」の立場になりそうな「敵」が3人登場したんですが、この3人がまた全員AB型。
やるなぁ。
現実、ここまでAB型が多いって事はありえないんですが、AB型は、「Aの要素とBの要素を持っていて、なんでもできるスーパータイプ」という部分もあるので、漫画のキャラクター設定としては便利でよろしい。ちょっと極端な屁理屈とかを言っても「ああ、まぁAB型ならそういう事は言うよな」で通る。(通るのか?:笑)
どの登場人物もキャラ立ちがはっきりしていて(ようは変人)、それでいてAB型なら、さもありなんと思える。(ようはAB型は変人ということです。:笑)
で、また、AB型は「なんでもできるが、八方美人でバイタリティに欠ける」というところもあるので、適当にストーリーの目先を変えて多少話の流れにズレがあっても、これまた特におかしな感じもしない。というメリットもあったりするわけで。(かなり天気屋なので、けっこうえーかげんなのです。AB型は。)
ジャンプを開くたびに、「あ、こんな漫画も連載してたよなぁ」と思うという程度の印象しかない作品なのですが、しかしそれでも「AB型ばかりの登場人物」というのが、少なくとも私には心地よく、まぁイライラすることもなく読める漫画なのではあります。
特におすすめするべき作品というわけでもないんですが、学園モノとかスポーツ漫画とかは、だいたい登場人物の血液型はA、O、B、ABが、上記の4:3:2:1の比率で適度にばらけているのが普通で、AB型の私としては、いまいち応援できるキャラクターが少なく、なおかつ「AB型の生活実感」とかけ離れてることが多いので、この漫画は「おもしれーなー」と思う漫画なのであります。
AB型のまわりはAB型ばっかりだよ。ほんとに。なぜか気があっちゃうし。まさに、この漫画のような感じ。科学とか確率論とは全然異なる世界というのがあるのです。あるんだったらあるんだからしょうがないのだ。
ということで、AB型の世界に興味のある方は、まぁ読んでみてください。(そんな世界に興味のある人自体があんまりいてないと思うけど。)
ではでは。
●国民の祝日に関する法律
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S23/S23HO178.html
●「国民の祝日に関する法律」Wikipedeia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E3%81%AE%E7%A5%9D%E6%97%A5%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%B3%95%E5%BE%8B
このあたり、ちょっといろいろ言いたいこともあるのですが、それは置いといて。
ようは、土日月と三連休になることがけっこう増えてきたということでして、そうなるとどうなるのか? というと、
●少年ジャンプが土曜日発売に変わる。
という事なのです。
通常少年ジャンプは月曜日発売でして、週の頭で、仕事をバリバリやらねば!という時に発売になるので、読む時間がうまくとれなかったりするんですね。
でも、この連休前発売の時は連休中にゆっくり読めるので、僕的には嬉しいのでして。どうせなら通常の発売日も、毎週金曜日発売とか毎週土曜日発売のほうがうれしいくらいなんですが。
ともあれ、そんなことで、ゆったりジャンプを読んでいて、あらためて、「この漫画は異常だよなぁ」と思うのが、数ヶ月ほど前から始まった「めだかBOX」という作品。
いや、別に面白いとかそういう事ではないのです。素晴らしい!と言ってほめたいのでもありません。ただ、あまりに登場人物が、
●AB型ばかり
というのが極端なので、感心しまくってしまう、というだけの話なんですね。
まぁ内容は、学園もので、「なんでもできるスーパーレディのめだかちゃんが、生徒会会長となって、学園のあれやこれやを問題解決する」というお話しなんですが。
でも、この主人公のめだかちゃんがAB型の設定で、その横に付いている幼なじみの男の子がAB型で、その二人を横で見ながらからかっているチビ女がAB型で…と、AB型ばかりが登場人物という形で始まった連載が、この2ヶ月ほどの間に10人以上のゲストキャラとか新キャラクターが登場しているのだけれど、ほぼ9割がAB型という異常さなんですねぇ。
ここで、血液型のおさらいをしておきますが、AB型はもともと10人に1人しかいないと言う「希少種」です。日本での血液型比率を考えるとA型4割O型3割B型2割ですので、普通に考えれば、いろいろな血液型同士の組み合わせが考えられる中で、AB型同士の出会いは、10分の1×10分の1ですから、100分の1ということになるわけで、ものすごく確率論的には低くなる話です。
が。
現実の社会は、別に確率論で動いてるわけではなくて、「なんとなくの相性」とかで動いている事も多くて、実はAB型同士すごく気があって、いろいろ話をしてみたら、後から「え、お前もAB型だったの?」ということはけっこうあるんです。
いや、かく言う僕がAB型なんですけどね。
で、実際、昨日も仕事仲間のデザイナー君の結婚披露パーティーだったんですが、その結婚した二人がAB型同士。なので、AB型の人間の回りには、やっぱりAB型がすごく多いし、群がってるものなのです。
確率論で言うと100分の1×100分の1×…とAB型がひとり増えるごとに確率は低くなるので、5人くらいのAB型同士の集まりがあったとしたら、それは天文学的な確率の低さである、という話になるわけですが、実際にはそうはならないんですな。
ようは「なんとなくウマが合う」というのがあって、似たもの同士つるんでるのが楽しいとかあったりするからです。
まぁ、そういう体験を日々しているので、「血液型と性格の相関関係に科学的根拠はない」とか言って、血液型と性格との関係性を無視しようとしてる人間がバカに見えて仕方ないんですが。
まぁ、それはそれとして。
この漫画は、とにかく出てくる登場人物が、ことごとくAB型で、今週はとうとう、どうやら「ワル者」の立場になりそうな「敵」が3人登場したんですが、この3人がまた全員AB型。
やるなぁ。
現実、ここまでAB型が多いって事はありえないんですが、AB型は、「Aの要素とBの要素を持っていて、なんでもできるスーパータイプ」という部分もあるので、漫画のキャラクター設定としては便利でよろしい。ちょっと極端な屁理屈とかを言っても「ああ、まぁAB型ならそういう事は言うよな」で通る。(通るのか?:笑)
どの登場人物もキャラ立ちがはっきりしていて(ようは変人)、それでいてAB型なら、さもありなんと思える。(ようはAB型は変人ということです。:笑)
で、また、AB型は「なんでもできるが、八方美人でバイタリティに欠ける」というところもあるので、適当にストーリーの目先を変えて多少話の流れにズレがあっても、これまた特におかしな感じもしない。というメリットもあったりするわけで。(かなり天気屋なので、けっこうえーかげんなのです。AB型は。)
ジャンプを開くたびに、「あ、こんな漫画も連載してたよなぁ」と思うという程度の印象しかない作品なのですが、しかしそれでも「AB型ばかりの登場人物」というのが、少なくとも私には心地よく、まぁイライラすることもなく読める漫画なのではあります。
特におすすめするべき作品というわけでもないんですが、学園モノとかスポーツ漫画とかは、だいたい登場人物の血液型はA、O、B、ABが、上記の4:3:2:1の比率で適度にばらけているのが普通で、AB型の私としては、いまいち応援できるキャラクターが少なく、なおかつ「AB型の生活実感」とかけ離れてることが多いので、この漫画は「おもしれーなー」と思う漫画なのであります。
AB型のまわりはAB型ばっかりだよ。ほんとに。なぜか気があっちゃうし。まさに、この漫画のような感じ。科学とか確率論とは全然異なる世界というのがあるのです。あるんだったらあるんだからしょうがないのだ。
ということで、AB型の世界に興味のある方は、まぁ読んでみてください。(そんな世界に興味のある人自体があんまりいてないと思うけど。)
ではでは。
この間から、ツイストリング・ノートの使いこなしに関して書こう、書こうと思ってるのですが、どうにもうまく書けない。
なんでかなぁと考えてみると、それは、まず「普通の綴じノートのように使おうとすると難しい」という話の説明にとても手間取るからだったのです。
というのは、要はまず「普通の綴じノートをどういう風に使うと、どう便利なのか。」が分ってないと、「ツイストリング・ノートを綴じノートのように使う」という課題の困難さが理解できないという話なわけです。
で、この説明には、表題に書いた、「シーケンシャルなノートにはページ番号を打つと良い」というノウハウが密接にからんで来るんですね。
で、しかも、僕は「綴じノートにページ番号を打つ」というのは、比較的良く知られたノウハウなんだろう、と勝手に想像してたのですが、これがネットで検索してみると、意外に紹介されていないのですよ。
一度、このノウハウに目覚めてしまうと、もう絶対にノートを買ってすぐにページ番号を入れるけどなぁと思ってしまうんですが、世間一般ではどうもそうではないのだ、という事がおぼろげながらにわかってきたわけです。
とにかく、モレスキン(私はA5サイズの横罫の奴を使ってました)とか、普通のリングノート、あるいは、なんでもない、そこいらの大学ノートでも、シーケンシャルな順序固定のノートなら、
●全ページに先にページ番号を振るのが良い。
というのを、声を大にして言いたいのですよ。ネットでいろいろ検索してみたら「メーカーは綴じノートにページ番号を入れて販売して欲しい」という要望があったりして、「おおおお、その通りだ!」と思ったくらいでして。
ページ番号が振ってあると、とにかく何をするにも便利なんです。目次を作ったり索引を作ったりできる。で、そういう目次や索引は、「自分が考えてきたことのインデックス」になるわけで、ノートを読み返して思索を深める、ということにそのまま直結するんですね。ものすごく効果が高いんです。これはほんとに、一度やってみないとわからないことです。
このあたりの話は、
■ノートは再読することが大事。(書評:脳を「見える化」する思考ノート)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200811041235101488/
でも書いているので、参照してみてください。
で、ページ番号ですが、自分で書いていくのなら、
●ページ番号は見開き単位で1個、にしても良い。
というノウハウもあります。モレスキンとかだと240頁くらいあるので手書きでページ番号を打つだけでも、かなりの手間なんです。でも、見開き単位で1個なら、いきなり半分で良いという事になるのでかなりラクです。
で、実際には、目次や索引を作る時に「P40L」とか、「P40R」とかライト・レフトを付け加えて、右頁の項目か、左ページの項目かを明示してやっても良いわけです。
もっと簡単にしようと思ったら、
●ナンバリングマシンを使う
という手もあります。日付スタンプのでっかい奴で、打つたびに番号が増える番号スタンプですね。あれを使う。僕も持ってるはずなんですけど、どこにいったのか見あたらないのです。トホホ。
で、もうひとつ突っ込んだノウハウを書くなら、
●ページ番号は目立たせるべし
ということになります。書籍のページ番号は、位置も正確でページ番号のまわりにはキチンと余白もあるので目に入りやすく工夫がされてますが、手書きで書くとそのあたりがかなりアバウトになるので見にくいのですね。
なので、たとえば見開き単位で一個だけ番号を振る場合などは、右上とかに大きめにドカーンと書いてしまった方が良いです。太いペンで書いても良いですし、赤ペンで書いてもいいです。
とくに僕がおすすめするのは赤色で書くページ番号ですね。色を変えてあると嫌でも目立ちますから検索性がかなり高まります。
●ページ番号は赤色で書くべし。
です。
こういう事を言ってる人は、あんまりいないみたいなんですけど、超便利なのでおすすめしたいです。
というのは、ノートというのは、あまりページをまたがずに、見開き単位で完結している方が、何かと使いやすいので、時折ギュッと詰め込んで書きたい時が出てくるわけですよ。
その時に、ページ番号が黒色だと、「手書きの黒色文字」と完全に重なってしまうので、ページ番号の近くには文字が書けないということになるんです。
でも、ページ番号が赤色だと、
●ページ番号の上にメモしても大丈夫。
だったりするんですよ。ページの効率が高まる。それでいて、ページ番号の検索機能は、まったく落ちないのです。
これはとても快適なので、ぜひお試しいただきたいと、僕は思っております。
で、ページ番号さえ、しっかり連番が振ってあれば、シーケンシャルなノートはもう、いくらでもワープができるんです。
●「P104の●●参照」
とか、書くことができる。
これが、どれほど便利か。
あ、もひとつ言うなら、この「P104の●●参照」というのも赤色ペンで書くと良いのです。あくまで検索用のインデックスなのだなと、本文を読む時も無視して読めますし、ノート全体をザクッと見ていくときには逆に良い目印になります。
こういう風に、ページ番号さえ振ってやれば、シーケンシャルなノートというものは、かなり有用な効果の高いツールになるんです。
でも、ツイストリングノートには、この手法が通用しない。
なんせページの組み替えができますから。
さぁ、これをどうするか? というのが、いまの僕の課題で、これがなかなに難しいのだ、という話なんですね。
ああ、やっと書きたいことのスタート地点に立てた。
ああ、面倒だなぁ、この話。
まぁいいや。
またいずれ、この続きを書きます。
これだけ書いたら疲れてしまいました。
ではでは。
関連記事-----------------------
抜き差し簡単なリングノート:ツイストリング・ノート(LIHIT LAB)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200903181525509768/
なんでかなぁと考えてみると、それは、まず「普通の綴じノートのように使おうとすると難しい」という話の説明にとても手間取るからだったのです。
というのは、要はまず「普通の綴じノートをどういう風に使うと、どう便利なのか。」が分ってないと、「ツイストリング・ノートを綴じノートのように使う」という課題の困難さが理解できないという話なわけです。
で、この説明には、表題に書いた、「シーケンシャルなノートにはページ番号を打つと良い」というノウハウが密接にからんで来るんですね。
で、しかも、僕は「綴じノートにページ番号を打つ」というのは、比較的良く知られたノウハウなんだろう、と勝手に想像してたのですが、これがネットで検索してみると、意外に紹介されていないのですよ。
一度、このノウハウに目覚めてしまうと、もう絶対にノートを買ってすぐにページ番号を入れるけどなぁと思ってしまうんですが、世間一般ではどうもそうではないのだ、という事がおぼろげながらにわかってきたわけです。
とにかく、モレスキン(私はA5サイズの横罫の奴を使ってました)とか、普通のリングノート、あるいは、なんでもない、そこいらの大学ノートでも、シーケンシャルな順序固定のノートなら、
●全ページに先にページ番号を振るのが良い。
というのを、声を大にして言いたいのですよ。ネットでいろいろ検索してみたら「メーカーは綴じノートにページ番号を入れて販売して欲しい」という要望があったりして、「おおおお、その通りだ!」と思ったくらいでして。
ページ番号が振ってあると、とにかく何をするにも便利なんです。目次を作ったり索引を作ったりできる。で、そういう目次や索引は、「自分が考えてきたことのインデックス」になるわけで、ノートを読み返して思索を深める、ということにそのまま直結するんですね。ものすごく効果が高いんです。これはほんとに、一度やってみないとわからないことです。
このあたりの話は、
■ノートは再読することが大事。(書評:脳を「見える化」する思考ノート)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200811041235101488/
でも書いているので、参照してみてください。
で、ページ番号ですが、自分で書いていくのなら、
●ページ番号は見開き単位で1個、にしても良い。
というノウハウもあります。モレスキンとかだと240頁くらいあるので手書きでページ番号を打つだけでも、かなりの手間なんです。でも、見開き単位で1個なら、いきなり半分で良いという事になるのでかなりラクです。
で、実際には、目次や索引を作る時に「P40L」とか、「P40R」とかライト・レフトを付け加えて、右頁の項目か、左ページの項目かを明示してやっても良いわけです。
もっと簡単にしようと思ったら、
●ナンバリングマシンを使う
という手もあります。日付スタンプのでっかい奴で、打つたびに番号が増える番号スタンプですね。あれを使う。僕も持ってるはずなんですけど、どこにいったのか見あたらないのです。トホホ。
で、もうひとつ突っ込んだノウハウを書くなら、
●ページ番号は目立たせるべし
ということになります。書籍のページ番号は、位置も正確でページ番号のまわりにはキチンと余白もあるので目に入りやすく工夫がされてますが、手書きで書くとそのあたりがかなりアバウトになるので見にくいのですね。
なので、たとえば見開き単位で一個だけ番号を振る場合などは、右上とかに大きめにドカーンと書いてしまった方が良いです。太いペンで書いても良いですし、赤ペンで書いてもいいです。
とくに僕がおすすめするのは赤色で書くページ番号ですね。色を変えてあると嫌でも目立ちますから検索性がかなり高まります。
●ページ番号は赤色で書くべし。
です。
こういう事を言ってる人は、あんまりいないみたいなんですけど、超便利なのでおすすめしたいです。
というのは、ノートというのは、あまりページをまたがずに、見開き単位で完結している方が、何かと使いやすいので、時折ギュッと詰め込んで書きたい時が出てくるわけですよ。
その時に、ページ番号が黒色だと、「手書きの黒色文字」と完全に重なってしまうので、ページ番号の近くには文字が書けないということになるんです。
でも、ページ番号が赤色だと、
●ページ番号の上にメモしても大丈夫。
だったりするんですよ。ページの効率が高まる。それでいて、ページ番号の検索機能は、まったく落ちないのです。
これはとても快適なので、ぜひお試しいただきたいと、僕は思っております。
で、ページ番号さえ、しっかり連番が振ってあれば、シーケンシャルなノートはもう、いくらでもワープができるんです。
●「P104の●●参照」
とか、書くことができる。
これが、どれほど便利か。
あ、もひとつ言うなら、この「P104の●●参照」というのも赤色ペンで書くと良いのです。あくまで検索用のインデックスなのだなと、本文を読む時も無視して読めますし、ノート全体をザクッと見ていくときには逆に良い目印になります。
こういう風に、ページ番号さえ振ってやれば、シーケンシャルなノートというものは、かなり有用な効果の高いツールになるんです。
でも、ツイストリングノートには、この手法が通用しない。
なんせページの組み替えができますから。
さぁ、これをどうするか? というのが、いまの僕の課題で、これがなかなに難しいのだ、という話なんですね。
ああ、やっと書きたいことのスタート地点に立てた。
ああ、面倒だなぁ、この話。
まぁいいや。
またいずれ、この続きを書きます。
これだけ書いたら疲れてしまいました。
ではでは。
関連記事-----------------------
抜き差し簡単なリングノート:ツイストリング・ノート(LIHIT LAB)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200903181525509768/
(冒頭追加:2009.10.16)-------------------
マスキングテープより、もっと良い商品を見つけましたので、この記事に関しては前言撤回。以下の記事を読んでください。
■丈夫なインデックス 686S は、バインダーノートの「新規フォルダ作成ツール」だ。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200910161118038728/
(追加部分終了)------------------------------------
またツイストリング・ノートのお話し。
●抜き差し簡単なリングノート:ツイストリング・ノート(LIHIT LAB)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200903181525509768/
このノートがバインダーノート的特徴が色濃い、という話はちょろっとしましたけど、その続きです。
今回は
●バインダーノートにはインデックスが必須である。
という事と、
●インデックスにはマスキングテープがすごく便利
という話を書きます。
マスキングテープに関しては、まずこちらをどうぞ。
●マスキングテープの本
http://hitoyomi.diarynote.jp/200811171434261436/
まず、バインダーノートと普通の綴じノート(大学ノートやリングノート)とで、大きく違うのは、「検索性」なんですね。
で、一般的には「綴じノートは頁の組み替えができず検索性が低く、バインダーノートは頁の組み替えができて検索性が高い」と言われているわけですが、そんなものは大嘘でして。(笑)
実は綴じノートは、頁が固定されているので、頭から順番に書いていけば、時系列でキチンと情報が並びます。なので、実際にはかなり検索性は良いのです。人間はおおまかには時系列で物事を考えているからです。「あの打合せをしたのは2ヶ月くらい前だよな」とかけっこう覚えてるんです。
で、綴じノートは「頭から順番に書いていき、日付とタイトルも必ず書く」というルールさえ守っていれば、まぁさほど不便ではありません。「どこに書いたっけ?」と何度か頁をめくっていれば、まぁだいたい自分のメモなのだから、出てきます。
で、この「何度か頁をめくる」という事で、「この頁の次にこの項目があって、あの項目はノート全体の真ん中くらいで」とかいう、自分なりの「インデックス」が頭の中に出来上がるんですね。まぁ、一冊の本を読むのと同じようなものです。
綴じノートだと、そういう「シーケンシャルなインデックス」というものが、必然的にできあがります。要は頭から書いていくだけで、そういうインデックスが出来上がる。だから「普通のノート」は、「普通に使いやすい」わけです。
しかし、バインダーノートは、そういうわけには行きません。
なんせ、組み替え自由ですから。「あのどうでも良いいたずら書きを描いた、その裏側に書いておいたはずだ」とか、そういう記憶の手法がまったく役に立たないんですね。
綴じノートが持っている「順番は不変」というルールが壊れているわけです。
だから、バインダーノートを上手に使おうと思ったら、インデックスをいかに付けるのか? と言うことが活用のキモになります。
もちろん、組み替え・差し替えを出来る限りせずに、ほとんど綴じノートと同じように使うという使い方をバインダーノートでやることもできます。それは「組み替えはよっぽどの事がない限りしない」というようなルールを自分で確定するという事でして、そういうルールを守る方が好きという人はその方が快適だと思います。
でも、せっかくバインダーノートを使うのなら、やっぱり組み替え・差し替えをして、トライアンドエラーをしてみたいじゃないですか? そうなると、やっぱり何らかのインデックスがないと使いにくいというのがバインダーノートの宿命になってくるんですね。時系列でまとめられない、というのはそういう事なんです。
で。
実は、この「インデックス」というのがくせ者で、かなり相当に難しい問題なんですよね。
従来のシステム手帳やB5・26穴バインダーなどでは、「見出し用紙」などが売られておりました。厚紙等で飛び出す耳のついた区切り頁を作ってあるわけです。
はじめのうちは、この区切り用の「見出し用紙」がけっこう便利なんですけど、そのうち不満が出てくるんです。要は「厚くて、重くて邪魔」って事なんですね。単に区切りに利用しているだけですから。ムダにノートが厚くなって、本当に邪魔なんです。
しかも「耳」を飛び出させているがゆえに、その「耳」を保護する意味でも厚紙でつくらなきゃいけなかったりするわけです。なので、どんどんバインダーの厚みを厚紙が浸食してくるわけです。バインダーに挟めるリフィルの枚数には限りがありますから、この厚紙の区切りシートである「見出し用紙」ってのは、「必要だけど邪魔」という、なんともアンビバレンツな感情を引き起こす宿命があったわけです。
で、結局、バインダーノート類を活用するためには、ポストイット等の「付箋紙」を使うのが便利、という事になるんですね。
この付箋紙をどんどん貼付けて、「耳」にして、ノートをパッと開くようにするという事を、僕はもう随分前からやってきましたし、そういうことをやってる人も多いと思います。
ただ。
このポストイット等を使った付箋紙による見出しというのは、いかんせん、
●薄い
という問題があるんですね。
頁から「耳」を飛び出させて目立たせるわけですから、カバンの中などに入れると、どうしても飛び出した部分が折れたり、擦れたりして傷むんです。そうなると、見にくかったり見つけにくかったりしてインデックスとしての役割を果たさなくなってくるんですね。まぁ、すぐに新しい付箋に変えればいいだけの話なんですが。
ただ、付箋紙は、単なる「耳」にするには、ちょっと長さが長くて、ノートに書いた文字を隠してしまう嫌いがあるんですね。
これがまた問題で。
で、そういう事を解決するために飛び出し部分にだけ色がついていて、そのほかは透明になっている付箋紙も登場してますが、あれは厚みが薄すぎて、すぐに折れ曲がってしまって全然、まったく話になりません。(一刀両断。あれは売るのをやめた方がいいと思う。ちゃんと使いやすいかどうかの検証がされてないんよなぁ。)
ということで、この問題はかなり気になってたことなんですよ。僕的には。
普通の紙のポストイットの飛び出し部分をセロハンテープ等で補強して「耳」にしたインデックスを自作するとかまでしてたんです。これはあまりに手間がかかりすぎるのが大欠点。でも、ほんとうに必要で長く使う「耳」の場合は、必ず自作してました。
でも、最近は、この問題が表題にも書いた「マスキングテープ」によってかなり解決してきたんですね。
写真にあるように、ツイストリング・ノートにつけるインデックスには、最近登場してきた、カラフルなマスキングテープを使って「耳」をつけるようにしてるんです。
作り方も超簡単で、マスキングテープを2~3cmちぎって、先を半分に折って、ノートから飛び出るように貼るだけ。
それだけなんですが、厚さの問題も解決するし、飛び出しによる「傷み」の問題も、マスキングテープを折って二重にしている事で、かなり解消されます。それに、傷んできても、新しい「耳」を、すぐに手軽に作れますしね。ここがとても良いところです。色も豊富にあるので、分類にも便利なんです。
マスキングテープは、貼ってはがしてという作業が簡単にできるので、インデックスの付け替えもすごく簡単ですし、インデックスの位置の微調整も簡単です。見た目にも可愛いし、女性にもおすすめできます。
また、必要ならマーカーを使って「耳」のところに文字を書いて見出しにしてやっても良いわけです。飛び出した耳の部分に、「住所録」とか書いて使うって事ですね。
バインダーノートにはインデックスが必須なわけですが、そのインデックス道具としては、いまのところ、このマスキングテープによる「耳」がベストの解決法でして、僕的には、もう他の手法を使う事は考えてないくらいです。
マスキングテープは、たとえば名刺でも良いのですが、そういう小さなメモ用紙等を、ノートに貼付ける作業とかにも便利なので、1巻だけは、いつもカバンに入れてますし、テープの色が分類等に便利なので、何色ものテープを10cmくらいずつちぎって、ツイストリングノートのいちばん最後の頁に貼付けてあります。
メモを取っていくうちに、あらたなテーマや分類を思いついた時に、さっと「耳」を作って、そこにテーマのキーワードでも書いてしまうと、ノートを見るたびに「耳」のキーワードが目に飛び込んでくるので、継続的にメモを取るとかしやすくなってくるんですよ。
そんなこんながありますので、バインダーノートにはマスキングテープはすごく便利です。
もちろんツイストリング・ノートにも必須。たいへんおすすめできますので、ぜひご活用くださいませ。
09年9月5日追記----------------------------------------
関連記事-------------------------------
■抜き差し簡単なリングノート:ツイストリング・ノート(LIHIT LAB)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200903181525509768/
■ツイストリング・ノート、その後。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200907130854311462/
■ツイストリングノート:用紙を八折りにして持ち歩く。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200909050152412990/
■ツイストリングノートはドキュメントスキャナと相性が良い。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200909131056294519/
■ツイストリングノートを半分折りにしたB5の横幅は、手帳の見開きサイズとあまり変わらない。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200907290827471613/
--------------------
■モレスキン・リングノート・普通のノートなど、綴じノートには、最初にページ番号を打つと良い。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200907171059448704/
■ノートは再読することが大事。(書評:脳を「見える化」する思考ノート)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200811041235101488/
■予備校に行くのではなく、授業をちゃんとノートすることが人生では大切だ。
(書評:東大合格生のノートはかならず美しい)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200810281406446294/
マスキングテープより、もっと良い商品を見つけましたので、この記事に関しては前言撤回。以下の記事を読んでください。
■丈夫なインデックス 686S は、バインダーノートの「新規フォルダ作成ツール」だ。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200910161118038728/
(追加部分終了)------------------------------------
またツイストリング・ノートのお話し。
●抜き差し簡単なリングノート:ツイストリング・ノート(LIHIT LAB)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200903181525509768/
このノートがバインダーノート的特徴が色濃い、という話はちょろっとしましたけど、その続きです。
今回は
●バインダーノートにはインデックスが必須である。
という事と、
●インデックスにはマスキングテープがすごく便利
という話を書きます。
マスキングテープに関しては、まずこちらをどうぞ。
●マスキングテープの本
http://hitoyomi.diarynote.jp/200811171434261436/
まず、バインダーノートと普通の綴じノート(大学ノートやリングノート)とで、大きく違うのは、「検索性」なんですね。
で、一般的には「綴じノートは頁の組み替えができず検索性が低く、バインダーノートは頁の組み替えができて検索性が高い」と言われているわけですが、そんなものは大嘘でして。(笑)
実は綴じノートは、頁が固定されているので、頭から順番に書いていけば、時系列でキチンと情報が並びます。なので、実際にはかなり検索性は良いのです。人間はおおまかには時系列で物事を考えているからです。「あの打合せをしたのは2ヶ月くらい前だよな」とかけっこう覚えてるんです。
で、綴じノートは「頭から順番に書いていき、日付とタイトルも必ず書く」というルールさえ守っていれば、まぁさほど不便ではありません。「どこに書いたっけ?」と何度か頁をめくっていれば、まぁだいたい自分のメモなのだから、出てきます。
で、この「何度か頁をめくる」という事で、「この頁の次にこの項目があって、あの項目はノート全体の真ん中くらいで」とかいう、自分なりの「インデックス」が頭の中に出来上がるんですね。まぁ、一冊の本を読むのと同じようなものです。
綴じノートだと、そういう「シーケンシャルなインデックス」というものが、必然的にできあがります。要は頭から書いていくだけで、そういうインデックスが出来上がる。だから「普通のノート」は、「普通に使いやすい」わけです。
しかし、バインダーノートは、そういうわけには行きません。
なんせ、組み替え自由ですから。「あのどうでも良いいたずら書きを描いた、その裏側に書いておいたはずだ」とか、そういう記憶の手法がまったく役に立たないんですね。
綴じノートが持っている「順番は不変」というルールが壊れているわけです。
だから、バインダーノートを上手に使おうと思ったら、インデックスをいかに付けるのか? と言うことが活用のキモになります。
もちろん、組み替え・差し替えを出来る限りせずに、ほとんど綴じノートと同じように使うという使い方をバインダーノートでやることもできます。それは「組み替えはよっぽどの事がない限りしない」というようなルールを自分で確定するという事でして、そういうルールを守る方が好きという人はその方が快適だと思います。
でも、せっかくバインダーノートを使うのなら、やっぱり組み替え・差し替えをして、トライアンドエラーをしてみたいじゃないですか? そうなると、やっぱり何らかのインデックスがないと使いにくいというのがバインダーノートの宿命になってくるんですね。時系列でまとめられない、というのはそういう事なんです。
で。
実は、この「インデックス」というのがくせ者で、かなり相当に難しい問題なんですよね。
従来のシステム手帳やB5・26穴バインダーなどでは、「見出し用紙」などが売られておりました。厚紙等で飛び出す耳のついた区切り頁を作ってあるわけです。
はじめのうちは、この区切り用の「見出し用紙」がけっこう便利なんですけど、そのうち不満が出てくるんです。要は「厚くて、重くて邪魔」って事なんですね。単に区切りに利用しているだけですから。ムダにノートが厚くなって、本当に邪魔なんです。
しかも「耳」を飛び出させているがゆえに、その「耳」を保護する意味でも厚紙でつくらなきゃいけなかったりするわけです。なので、どんどんバインダーの厚みを厚紙が浸食してくるわけです。バインダーに挟めるリフィルの枚数には限りがありますから、この厚紙の区切りシートである「見出し用紙」ってのは、「必要だけど邪魔」という、なんともアンビバレンツな感情を引き起こす宿命があったわけです。
で、結局、バインダーノート類を活用するためには、ポストイット等の「付箋紙」を使うのが便利、という事になるんですね。
この付箋紙をどんどん貼付けて、「耳」にして、ノートをパッと開くようにするという事を、僕はもう随分前からやってきましたし、そういうことをやってる人も多いと思います。
ただ。
このポストイット等を使った付箋紙による見出しというのは、いかんせん、
●薄い
という問題があるんですね。
頁から「耳」を飛び出させて目立たせるわけですから、カバンの中などに入れると、どうしても飛び出した部分が折れたり、擦れたりして傷むんです。そうなると、見にくかったり見つけにくかったりしてインデックスとしての役割を果たさなくなってくるんですね。まぁ、すぐに新しい付箋に変えればいいだけの話なんですが。
ただ、付箋紙は、単なる「耳」にするには、ちょっと長さが長くて、ノートに書いた文字を隠してしまう嫌いがあるんですね。
これがまた問題で。
で、そういう事を解決するために飛び出し部分にだけ色がついていて、そのほかは透明になっている付箋紙も登場してますが、あれは厚みが薄すぎて、すぐに折れ曲がってしまって全然、まったく話になりません。(一刀両断。あれは売るのをやめた方がいいと思う。ちゃんと使いやすいかどうかの検証がされてないんよなぁ。)
ということで、この問題はかなり気になってたことなんですよ。僕的には。
普通の紙のポストイットの飛び出し部分をセロハンテープ等で補強して「耳」にしたインデックスを自作するとかまでしてたんです。これはあまりに手間がかかりすぎるのが大欠点。でも、ほんとうに必要で長く使う「耳」の場合は、必ず自作してました。
でも、最近は、この問題が表題にも書いた「マスキングテープ」によってかなり解決してきたんですね。
写真にあるように、ツイストリング・ノートにつけるインデックスには、最近登場してきた、カラフルなマスキングテープを使って「耳」をつけるようにしてるんです。
作り方も超簡単で、マスキングテープを2~3cmちぎって、先を半分に折って、ノートから飛び出るように貼るだけ。
それだけなんですが、厚さの問題も解決するし、飛び出しによる「傷み」の問題も、マスキングテープを折って二重にしている事で、かなり解消されます。それに、傷んできても、新しい「耳」を、すぐに手軽に作れますしね。ここがとても良いところです。色も豊富にあるので、分類にも便利なんです。
マスキングテープは、貼ってはがしてという作業が簡単にできるので、インデックスの付け替えもすごく簡単ですし、インデックスの位置の微調整も簡単です。見た目にも可愛いし、女性にもおすすめできます。
また、必要ならマーカーを使って「耳」のところに文字を書いて見出しにしてやっても良いわけです。飛び出した耳の部分に、「住所録」とか書いて使うって事ですね。
バインダーノートにはインデックスが必須なわけですが、そのインデックス道具としては、いまのところ、このマスキングテープによる「耳」がベストの解決法でして、僕的には、もう他の手法を使う事は考えてないくらいです。
マスキングテープは、たとえば名刺でも良いのですが、そういう小さなメモ用紙等を、ノートに貼付ける作業とかにも便利なので、1巻だけは、いつもカバンに入れてますし、テープの色が分類等に便利なので、何色ものテープを10cmくらいずつちぎって、ツイストリングノートのいちばん最後の頁に貼付けてあります。
メモを取っていくうちに、あらたなテーマや分類を思いついた時に、さっと「耳」を作って、そこにテーマのキーワードでも書いてしまうと、ノートを見るたびに「耳」のキーワードが目に飛び込んでくるので、継続的にメモを取るとかしやすくなってくるんですよ。
そんなこんながありますので、バインダーノートにはマスキングテープはすごく便利です。
もちろんツイストリング・ノートにも必須。たいへんおすすめできますので、ぜひご活用くださいませ。
09年9月5日追記----------------------------------------
関連記事-------------------------------
■抜き差し簡単なリングノート:ツイストリング・ノート(LIHIT LAB)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200903181525509768/
■ツイストリング・ノート、その後。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200907130854311462/
■ツイストリングノート:用紙を八折りにして持ち歩く。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200909050152412990/
■ツイストリングノートはドキュメントスキャナと相性が良い。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200909131056294519/
■ツイストリングノートを半分折りにしたB5の横幅は、手帳の見開きサイズとあまり変わらない。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200907290827471613/
--------------------
■モレスキン・リングノート・普通のノートなど、綴じノートには、最初にページ番号を打つと良い。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200907171059448704/
■ノートは再読することが大事。(書評:脳を「見える化」する思考ノート)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200811041235101488/
■予備校に行くのではなく、授業をちゃんとノートすることが人生では大切だ。
(書評:東大合格生のノートはかならず美しい)
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ツイストリング・ノート、その後。
2009年7月13日 ●ノート・文具この7/10の、この日記のアクセスが、いきなり244に跳ね上がったのであります。
普段はまぁ100前後なんですが。最近は130くらいかな?
なんでそんなにアクセスがあったのか? と思ってアクセス解析のページのキーワードを見てみると、表題のツイストリング・ノートがやたらと多かったわけです。
実は、この間の、ツイストリング・ノートについて書いた頁も、googleとかで1位とか2位とからしいんですよね。
●抜き差し簡単なリングノート:ツイストリング・ノート(LIHIT LAB)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200903181525509768
なので普段からちょろちょろアクセスはあるんですが、7/10は異様に多かったわけです。
で、なんでなのかなぁ? といろいろ検索していると、どうやらテレビでツイストリング・ノートが紹介されたらしいんですよね。「おはよう日本」かなんかのコーナーで。
やっぱりテレビはすごいなぁと思いまして。
で、どうせついでなので、その後のツイストリング・ノートに関する報告などを少し。
まず、大前提として言いたいのは、使ってみてはっきり感じましたが、このノートは、
●綴じノートというよりかはバインダーノートに近い
ということですね。
いや、綴じノートとして使えないわけではないんですよ。充分に使えますし、それがこのノートの魅力のかなり大きい部分なんです。「普通の綴じノートとして使える」というのが。
でも、それでもやっぱり、「抜き差し自由」という部分をちょっとでも活かそうとしたら、どうしてもバインダーノート寄りの使い方をせざるを得なくなるわけですよ。
このあたり、ある程度システム手帳の使い方に慣れてる人の方が上手に使えるかもしれません。
思うに、
●かなりの潜在的ポテンシャルがあるノートだ。
というのが、3ヶ月使ってみての感想ですね。
まだ、上手にレポートとしてまとめられないんですけど、一時期システムダイアリーのホームページとか作ってたこともあって、なんだかんだと工夫したくなるノートではあります。
で、もっともシンプルかつ重要な発見が一つありまして、それは、
●リフィルの1枚単位使いと、半分折りできる機能は相性がいい。
ということですね。
システム手帳とか使ったことがある人ならわかると思いますが、抜き差しして組み替え自由なシステム手帳などの場合は、基本単位が「一枚の用紙の表裏」になるわけです。
普通の大学ノートとかの綴じノートだと、この基本単位は「見開き単位」になるんですね。
この「基本単位」の違いが、抜き差し・差し替え自在なバインダーノートと、シーケンシャルな綴じノートとの根本的な違いなんです。
(で、実は、この根本的に違うふたつの考え方を両立させないと、このノートは面白くないわけですが、その当りの話は、またいずれ。)
で、バインダー型の抜き差し自由なノートを使っておりますと、リフィル1枚の表裏での活用になって、見開き単位での使い方がしにくくなるんですね。
なので、見開きの片方のページは無関係なデータであるということが多くなります。
で、こういう時、バインダーノートだと、ノート自体を「半分に折る」ということができないんですね。ようするに見開き状態でしかノートを見れないわけです。
でも、そのくせ、リフィルは片面しか見れないので、半分以上のスペースはムダ、ということになります。
しかし、このツイストリング・ノートだとそれがないんですよね。
とにかく片ページ半分に折ってしまって、必要なところだけを出しておくということができますから。
半分に折れる! ということがすごく生きてくるんです。
これがけっこう快適なんです。
あまりに自然なので、しばらく気付かなかったんですが、3ヶ月使っていて、なんか使いやすいなと思ったら、「ああ、そうか、バインダーノートなのに半分に折れるからだ!」と、やっと気付いたような次第でして。
これはねぇ、なんちゅうか、とても基本的なところで、システム手帳的使い方に非常に向いている構造なような気がします。
だから、
●綴じノートというよりかはバインダーノートに近い
って事になるわけですが。
他にもいろいろ書きたいことは山のようにあるんですが、とりあえずは、大きな大きな特徴の再確認ということで。
この件は、また書きます。
ではでは。
関連記事--------------------------------------
■抜き差し簡単なリングノート:ツイストリング・ノート(LIHIT LAB)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200903181525509768
■ツイストリングノート:用紙を八折りにして持ち歩く。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200909050152412990/
■ツイストリング・ノートやシステム手帳のインデックスには、マスキングテープが便利。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200907151040088991/
■ツイストリングノートはドキュメントスキャナと相性が良い。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200909131056294519/
■ツイストリングノートを半分折りにしたB5の横幅は、手帳の見開きサイズとあまり変わらない。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200907290827471613/
----------------
■ノートは再読することが大事。(書評:脳を「見える化」する思考ノート)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200811041235101488/
■モレスキン・リングノート・普通のノートなど、綴じノートには、最初にページ番号を打つと良い。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200907171059448704/
■予備校に行くのではなく、授業をちゃんとノートすることが人生では大切だ。
(書評:東大合格生のノートはかならず美しい)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200810281406446294/
普段はまぁ100前後なんですが。最近は130くらいかな?
なんでそんなにアクセスがあったのか? と思ってアクセス解析のページのキーワードを見てみると、表題のツイストリング・ノートがやたらと多かったわけです。
実は、この間の、ツイストリング・ノートについて書いた頁も、googleとかで1位とか2位とからしいんですよね。
●抜き差し簡単なリングノート:ツイストリング・ノート(LIHIT LAB)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200903181525509768
なので普段からちょろちょろアクセスはあるんですが、7/10は異様に多かったわけです。
で、なんでなのかなぁ? といろいろ検索していると、どうやらテレビでツイストリング・ノートが紹介されたらしいんですよね。「おはよう日本」かなんかのコーナーで。
やっぱりテレビはすごいなぁと思いまして。
で、どうせついでなので、その後のツイストリング・ノートに関する報告などを少し。
まず、大前提として言いたいのは、使ってみてはっきり感じましたが、このノートは、
●綴じノートというよりかはバインダーノートに近い
ということですね。
いや、綴じノートとして使えないわけではないんですよ。充分に使えますし、それがこのノートの魅力のかなり大きい部分なんです。「普通の綴じノートとして使える」というのが。
でも、それでもやっぱり、「抜き差し自由」という部分をちょっとでも活かそうとしたら、どうしてもバインダーノート寄りの使い方をせざるを得なくなるわけですよ。
このあたり、ある程度システム手帳の使い方に慣れてる人の方が上手に使えるかもしれません。
思うに、
●かなりの潜在的ポテンシャルがあるノートだ。
というのが、3ヶ月使ってみての感想ですね。
まだ、上手にレポートとしてまとめられないんですけど、一時期システムダイアリーのホームページとか作ってたこともあって、なんだかんだと工夫したくなるノートではあります。
で、もっともシンプルかつ重要な発見が一つありまして、それは、
●リフィルの1枚単位使いと、半分折りできる機能は相性がいい。
ということですね。
システム手帳とか使ったことがある人ならわかると思いますが、抜き差しして組み替え自由なシステム手帳などの場合は、基本単位が「一枚の用紙の表裏」になるわけです。
普通の大学ノートとかの綴じノートだと、この基本単位は「見開き単位」になるんですね。
この「基本単位」の違いが、抜き差し・差し替え自在なバインダーノートと、シーケンシャルな綴じノートとの根本的な違いなんです。
(で、実は、この根本的に違うふたつの考え方を両立させないと、このノートは面白くないわけですが、その当りの話は、またいずれ。)
で、バインダー型の抜き差し自由なノートを使っておりますと、リフィル1枚の表裏での活用になって、見開き単位での使い方がしにくくなるんですね。
なので、見開きの片方のページは無関係なデータであるということが多くなります。
で、こういう時、バインダーノートだと、ノート自体を「半分に折る」ということができないんですね。ようするに見開き状態でしかノートを見れないわけです。
でも、そのくせ、リフィルは片面しか見れないので、半分以上のスペースはムダ、ということになります。
しかし、このツイストリング・ノートだとそれがないんですよね。
とにかく片ページ半分に折ってしまって、必要なところだけを出しておくということができますから。
半分に折れる! ということがすごく生きてくるんです。
これがけっこう快適なんです。
あまりに自然なので、しばらく気付かなかったんですが、3ヶ月使っていて、なんか使いやすいなと思ったら、「ああ、そうか、バインダーノートなのに半分に折れるからだ!」と、やっと気付いたような次第でして。
これはねぇ、なんちゅうか、とても基本的なところで、システム手帳的使い方に非常に向いている構造なような気がします。
だから、
●綴じノートというよりかはバインダーノートに近い
って事になるわけですが。
他にもいろいろ書きたいことは山のようにあるんですが、とりあえずは、大きな大きな特徴の再確認ということで。
この件は、また書きます。
ではでは。
関連記事--------------------------------------
■抜き差し簡単なリングノート:ツイストリング・ノート(LIHIT LAB)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200903181525509768
■ツイストリングノート:用紙を八折りにして持ち歩く。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200909050152412990/
■ツイストリング・ノートやシステム手帳のインデックスには、マスキングテープが便利。
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■ツイストリングノートはドキュメントスキャナと相性が良い。
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■ツイストリングノートを半分折りにしたB5の横幅は、手帳の見開きサイズとあまり変わらない。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200907290827471613/
----------------
■ノートは再読することが大事。(書評:脳を「見える化」する思考ノート)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200811041235101488/
■モレスキン・リングノート・普通のノートなど、綴じノートには、最初にページ番号を打つと良い。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200907171059448704/
■予備校に行くのではなく、授業をちゃんとノートすることが人生では大切だ。
(書評:東大合格生のノートはかならず美しい)
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自転車は四つ足走行に似ている。
2009年7月12日 自転車 コメント (2)このあいだ紹介した、
●脱「ひとり勝ち」文明論
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4903908135
に、すごくおもしろい事が書いてあったんですよ。
曰く、「人類はクルマを捨てられない」と言う話なんですが。
引用します。
(引用開始)-------------------------------
実際のところ、文明は逆行できにくいものです。
「クルマ」というのは、とくに、人間が捨てにくいものです。
なぜでしょうか?
人間は、四足歩行から二足歩行に進化することによって、ものすごくたくさんのことも獲得しましたが、二足歩行によって失ったものは何か、を考えればわかります。
それは、「移動のスピード」です。
これだけは、二足歩行によって喪失してしまったわけです。
犬と競争して勝てますか?
勝てないです。
100メートルを九秒六九、スゴイ!とぼくたちは騒いでいますけど、動物の世界の記録は、そんなレベルではありません。
つまり、アタマがよくなったり、道具が使えるようになったり、いいものばかりの二足歩行の中で、唯一、人間が喪失したものこそ、「移動」なのです。
ですから、移動の道具は、人間が捨てられない大切な技術なんですね。
クルマは、足の代わりをする道具ですが、それは、目の代わりをするテレビだとか、耳の代わりをするオーディオだとかの道具に比べて、「捨てにくい」ものです。
渋滞などの不自由なことをクルマは引き起こすけれども、それでも、どうしても乗り続けてしまうのも、「時速四キロ」の自分の足のスピードの遅さに、耐えられないからなんです。
これは根源的な欲求なのです。
ですから、環境問題を考える際、クルマを規制したり、と言う方向で考えるよりも、スピードへの欲求をさらに満たしていく形で、環境の解決をしていくべきです。
ということで「時速四00キロ」に象徴されるクルマを目指した電気自動車の開発をやってきたわけです。
(引用終了)-------------------------------
というご意見。
なるほどなぁ、確かに! と思うのですよ。
この間、テレビでやってましたが、あの動物のチータという奴は時速120キロで走りますからね。四つ足、すごいです。
人間は二足歩行に移行したことで、頭の位置が上がりまして脳みそが水平位置に来ることで、脳の容量拡大が簡単になったんですね。
だから、頭が良くなって、言葉も使えるようになったし、直立の微妙なコントロールも巨大な脳でコントロールできるようになりました。
走るために必要だった前足を、よりこまやかに脳でコントロールして「手」という、全然別目的の道具として進化させることもできたわけです。二足歩行のおかげで、人間は、ものすごく大きな恩恵を得ているわけです。
ここまでは、そうよなぁ~と、前から思ってたんですが、「代わりに失ったもの」については意識したことがありませんでしたね。
そうか、確かに「走る」という行為には向かない体になってるよなぁと、つくづく思うのです。
人間の体は、あんまり走るためには適切な構造じゃないよなぁ。実際。
脳みそを大きくするために、そっとそっと、時速4キロで歩いてきたからこそ、人類は発展してきたんだよなぁと改めて思ったのですね。
で、それと同時に思ったのが自転車の、とくにスポーツ自転車のライディングポジションのことなのです。
これが、すごく四つ足走行に似ているよなぁと。
まぁ、自転車で走っても、僕なんかだと、せいぜい40km/hです。
(最近、とうとう40km/hが出せるようになってきたのであります。スゴイ!)
チータには負けますけど、まぁ普段は25km/hくらいで走ってまして、それでもすごく気持ちよいのは、やっぱりライディングポジションが四つ足走行、つまり、太古の昔に動物として大地を走り回ってたであろう姿で、都市を駆けめぐっているからだろうなぁと思うのであります。
なんていうのか、ほんとうに自転車で走っていると気持ちが良くて、これはいったい何だろうか? と思ってたわけですが、上記の四つ足走行の話を読んで、「あ、そうか、四つ足走行への先祖返りだから楽しいんだ!」と気付いたような次第です。
なんちゅうか、すごく自然な気がするわけですね。
都市部はどこでもたいてい舗装されてますし、二足で走るランニングには、振動やら腰への負担やらで、向かない環境です。でも自転車だとショックがない。まさにチータが走っている感覚と似たような自然な体の動きで移動できるわけで、実に気持ちが良いわけです。
そのテレビでは、チータの動きをハイスピードカメラで撮影してたんですけど、120km/hで走ってても、アタマと体の高さはずっと一定なんですよね。上下に移動していないわけです。
四つの足で、体全体をクッションのように支えながら、120km/hで走ってるわけでして、「いやー、これはすごいなー」と改めて思ったのであります。
自転車のライディングポジションは、まさにそういう四つ足走行への自然回帰だよなぁと実感しているわけであります。
ま、電気自動車は電気自動車でこれから発展していかないといけないものだとは思うのですが、道路の面積というのはもともと限界があるので、あんまり都市部でクルマを増やしても渋滞するだけよなぁと言うのがあって、全面的に、この著者の清水浩さんの意見を支持してるわけでもないんですが、それでも、「人類は二足歩行で高速移動するメリットを失ったのだ」という視点にはハッとさせられました。
しかし、それを言うなら、やっぱりクルマより自転車ですぜ。旦那。ちょっと自転車の事も考えてやっておくんなせぇ! という気はする。
自転車で四つ足の動物のように、都市を走り回ろう!
楽しいですぞ。
●脱「ひとり勝ち」文明論
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4903908135
に、すごくおもしろい事が書いてあったんですよ。
曰く、「人類はクルマを捨てられない」と言う話なんですが。
引用します。
(引用開始)-------------------------------
実際のところ、文明は逆行できにくいものです。
「クルマ」というのは、とくに、人間が捨てにくいものです。
なぜでしょうか?
人間は、四足歩行から二足歩行に進化することによって、ものすごくたくさんのことも獲得しましたが、二足歩行によって失ったものは何か、を考えればわかります。
それは、「移動のスピード」です。
これだけは、二足歩行によって喪失してしまったわけです。
犬と競争して勝てますか?
勝てないです。
100メートルを九秒六九、スゴイ!とぼくたちは騒いでいますけど、動物の世界の記録は、そんなレベルではありません。
つまり、アタマがよくなったり、道具が使えるようになったり、いいものばかりの二足歩行の中で、唯一、人間が喪失したものこそ、「移動」なのです。
ですから、移動の道具は、人間が捨てられない大切な技術なんですね。
クルマは、足の代わりをする道具ですが、それは、目の代わりをするテレビだとか、耳の代わりをするオーディオだとかの道具に比べて、「捨てにくい」ものです。
渋滞などの不自由なことをクルマは引き起こすけれども、それでも、どうしても乗り続けてしまうのも、「時速四キロ」の自分の足のスピードの遅さに、耐えられないからなんです。
これは根源的な欲求なのです。
ですから、環境問題を考える際、クルマを規制したり、と言う方向で考えるよりも、スピードへの欲求をさらに満たしていく形で、環境の解決をしていくべきです。
ということで「時速四00キロ」に象徴されるクルマを目指した電気自動車の開発をやってきたわけです。
(引用終了)-------------------------------
というご意見。
なるほどなぁ、確かに! と思うのですよ。
この間、テレビでやってましたが、あの動物のチータという奴は時速120キロで走りますからね。四つ足、すごいです。
人間は二足歩行に移行したことで、頭の位置が上がりまして脳みそが水平位置に来ることで、脳の容量拡大が簡単になったんですね。
だから、頭が良くなって、言葉も使えるようになったし、直立の微妙なコントロールも巨大な脳でコントロールできるようになりました。
走るために必要だった前足を、よりこまやかに脳でコントロールして「手」という、全然別目的の道具として進化させることもできたわけです。二足歩行のおかげで、人間は、ものすごく大きな恩恵を得ているわけです。
ここまでは、そうよなぁ~と、前から思ってたんですが、「代わりに失ったもの」については意識したことがありませんでしたね。
そうか、確かに「走る」という行為には向かない体になってるよなぁと、つくづく思うのです。
人間の体は、あんまり走るためには適切な構造じゃないよなぁ。実際。
脳みそを大きくするために、そっとそっと、時速4キロで歩いてきたからこそ、人類は発展してきたんだよなぁと改めて思ったのですね。
で、それと同時に思ったのが自転車の、とくにスポーツ自転車のライディングポジションのことなのです。
これが、すごく四つ足走行に似ているよなぁと。
まぁ、自転車で走っても、僕なんかだと、せいぜい40km/hです。
(最近、とうとう40km/hが出せるようになってきたのであります。スゴイ!)
チータには負けますけど、まぁ普段は25km/hくらいで走ってまして、それでもすごく気持ちよいのは、やっぱりライディングポジションが四つ足走行、つまり、太古の昔に動物として大地を走り回ってたであろう姿で、都市を駆けめぐっているからだろうなぁと思うのであります。
なんていうのか、ほんとうに自転車で走っていると気持ちが良くて、これはいったい何だろうか? と思ってたわけですが、上記の四つ足走行の話を読んで、「あ、そうか、四つ足走行への先祖返りだから楽しいんだ!」と気付いたような次第です。
なんちゅうか、すごく自然な気がするわけですね。
都市部はどこでもたいてい舗装されてますし、二足で走るランニングには、振動やら腰への負担やらで、向かない環境です。でも自転車だとショックがない。まさにチータが走っている感覚と似たような自然な体の動きで移動できるわけで、実に気持ちが良いわけです。
そのテレビでは、チータの動きをハイスピードカメラで撮影してたんですけど、120km/hで走ってても、アタマと体の高さはずっと一定なんですよね。上下に移動していないわけです。
四つの足で、体全体をクッションのように支えながら、120km/hで走ってるわけでして、「いやー、これはすごいなー」と改めて思ったのであります。
自転車のライディングポジションは、まさにそういう四つ足走行への自然回帰だよなぁと実感しているわけであります。
ま、電気自動車は電気自動車でこれから発展していかないといけないものだとは思うのですが、道路の面積というのはもともと限界があるので、あんまり都市部でクルマを増やしても渋滞するだけよなぁと言うのがあって、全面的に、この著者の清水浩さんの意見を支持してるわけでもないんですが、それでも、「人類は二足歩行で高速移動するメリットを失ったのだ」という視点にはハッとさせられました。
しかし、それを言うなら、やっぱりクルマより自転車ですぜ。旦那。ちょっと自転車の事も考えてやっておくんなせぇ! という気はする。
自転車で四つ足の動物のように、都市を走り回ろう!
楽しいですぞ。
今日は、思い切り抽象的な話を。
人間の行動の動機には、2つの理由しかないそうです。
それは「愛」と「怖れ」。
何かを愛していて、そのために行動する、というのと、何かを怖れていて、それを避けようと行動するというもの。
この二つは似ているようでいて全然違います。
それは結果に表れます。
愛を動機としての行動は、失敗がなく、より大きな広がりが生まれます。
しかし、怖れを動機とした行動は多くが失敗にさらされます。
おおむね、
「~しないようにする」
というような目標の立て方は失敗するということですね。
前にどこかで書いたかも知れないのですが、交通事故の話があります。
交通事故で意外に多いのが電信柱に激突している事故なんです。
なんでそんな事故が多いかというと、緊急事態に陥った時に、クルマの運転手の目に電信柱が目に入って、「電信柱にぶつかってはいけない!」と思うからなんですね。
で、こういう瞬間の判断が必要な時に「電子柱にぶつからないように」などと考えていると、手足は、無意識に、「まず、電信柱に照準をあわせて」から、「それとは違う方向に動こう」とするわけですね。
でも、そういう事をしてると、「まず電信柱に照準をあわせ」たところで、タイムリミットがくるわけですよ。
それでぶつかる。
だから、こういう場合は「あの隙間を通り抜ければ助かる!」というような目標設定をしておかないとダメなんですね。
で。
そういう目標を、その瞬間にパッと立てられるかどうかは、ふだんの考え方のクセがすべてを定めるよな、と僕は思うのです。
つねに、自分にとって良い事、良い方、幸せな選択について考えるクセをつける。
これが大事だよなぁって思います。
いつもそれを考えていないと、こういう瞬間の判断が必要な時、咄嗟の時に「頭の指向性」が狂ってしまうわけです。
で、
人生というのは、実は、そういう「瞬間」の連続なわけです。つねに「咄嗟の時」なわけです。だからこそ、いつも自分の幸せにフォーカスをした発想を保ち続けておくほうが良いわけです。
スターウォーズという映画がすごく好きなんですけど、あの映画のエピソード1~3までのアナキン・スカイウォーカー(後のダースベイダー)がすごく「怖れ」の人間で、どんどん不幸になって行くのが悲しいんですね。
そして、その兄弟子であり、師匠でもあるオビワンが、これまたすごく「愛」の人で、ほんとにまぁ、脳天気というか、テキトーなのに、なぜか失敗することなく任務をこなしていくのです。なんだかとても象徴的だなぁって思います。
オビワンは、「怖れ」の淵に引きずり込まれてしまったアナキンがダースベイダーになってしまうのを、とても悲しく思い、なげくんですね。それはやっぱり「電信柱なんか見なければ、ぶつかることもなかったのに!」という悲しさなんですね。そういうのを僕はとても感じます。
大事なのは、やっぱり、どこまで行っても「愛」なんですよ。
良いところを見る。
いつも、そちらを意識する。
つい電信柱を見てしまいがちだけれど、そうではなくて、やっぱり通り抜けられる安全なスペースを見ないといけないわけです。
危険な電信柱というのは、いつも電信柱の形をしているんですけど、「安全なスペース」というのは、その時その時で方向も形も目標も全部違うわけです。
だからその目標を察知して目標として設定するのは少し手間がかかります。
でも、その目標設置をする努力をこそしないとダメなわけです。それも普段から、ですね。
「電信柱は危ない」だけを考えるのは簡単なんです。いつも同じ事を考えてるだけだから。でも、「安全なスペースを見つける」というのは普段からいつもやってないと無理なわけですね。
練習が必要です。
だからつねに「愛」の立場で、物事は見ないといけないよなぁって思うのです。
うーん。
何が言いたいのかよくわからんようになってきた。
でもとにかく、オビワンがすごく好きです。なんちゅうてもオビワンだなぁ。うむ。
人間の行動の動機には、2つの理由しかないそうです。
それは「愛」と「怖れ」。
何かを愛していて、そのために行動する、というのと、何かを怖れていて、それを避けようと行動するというもの。
この二つは似ているようでいて全然違います。
それは結果に表れます。
愛を動機としての行動は、失敗がなく、より大きな広がりが生まれます。
しかし、怖れを動機とした行動は多くが失敗にさらされます。
おおむね、
「~しないようにする」
というような目標の立て方は失敗するということですね。
前にどこかで書いたかも知れないのですが、交通事故の話があります。
交通事故で意外に多いのが電信柱に激突している事故なんです。
なんでそんな事故が多いかというと、緊急事態に陥った時に、クルマの運転手の目に電信柱が目に入って、「電信柱にぶつかってはいけない!」と思うからなんですね。
で、こういう瞬間の判断が必要な時に「電子柱にぶつからないように」などと考えていると、手足は、無意識に、「まず、電信柱に照準をあわせて」から、「それとは違う方向に動こう」とするわけですね。
でも、そういう事をしてると、「まず電信柱に照準をあわせ」たところで、タイムリミットがくるわけですよ。
それでぶつかる。
だから、こういう場合は「あの隙間を通り抜ければ助かる!」というような目標設定をしておかないとダメなんですね。
で。
そういう目標を、その瞬間にパッと立てられるかどうかは、ふだんの考え方のクセがすべてを定めるよな、と僕は思うのです。
つねに、自分にとって良い事、良い方、幸せな選択について考えるクセをつける。
これが大事だよなぁって思います。
いつもそれを考えていないと、こういう瞬間の判断が必要な時、咄嗟の時に「頭の指向性」が狂ってしまうわけです。
で、
人生というのは、実は、そういう「瞬間」の連続なわけです。つねに「咄嗟の時」なわけです。だからこそ、いつも自分の幸せにフォーカスをした発想を保ち続けておくほうが良いわけです。
スターウォーズという映画がすごく好きなんですけど、あの映画のエピソード1~3までのアナキン・スカイウォーカー(後のダースベイダー)がすごく「怖れ」の人間で、どんどん不幸になって行くのが悲しいんですね。
そして、その兄弟子であり、師匠でもあるオビワンが、これまたすごく「愛」の人で、ほんとにまぁ、脳天気というか、テキトーなのに、なぜか失敗することなく任務をこなしていくのです。なんだかとても象徴的だなぁって思います。
オビワンは、「怖れ」の淵に引きずり込まれてしまったアナキンがダースベイダーになってしまうのを、とても悲しく思い、なげくんですね。それはやっぱり「電信柱なんか見なければ、ぶつかることもなかったのに!」という悲しさなんですね。そういうのを僕はとても感じます。
大事なのは、やっぱり、どこまで行っても「愛」なんですよ。
良いところを見る。
いつも、そちらを意識する。
つい電信柱を見てしまいがちだけれど、そうではなくて、やっぱり通り抜けられる安全なスペースを見ないといけないわけです。
危険な電信柱というのは、いつも電信柱の形をしているんですけど、「安全なスペース」というのは、その時その時で方向も形も目標も全部違うわけです。
だからその目標を察知して目標として設定するのは少し手間がかかります。
でも、その目標設置をする努力をこそしないとダメなわけです。それも普段から、ですね。
「電信柱は危ない」だけを考えるのは簡単なんです。いつも同じ事を考えてるだけだから。でも、「安全なスペースを見つける」というのは普段からいつもやってないと無理なわけですね。
練習が必要です。
だからつねに「愛」の立場で、物事は見ないといけないよなぁって思うのです。
うーん。
何が言いたいのかよくわからんようになってきた。
でもとにかく、オビワンがすごく好きです。なんちゅうてもオビワンだなぁ。うむ。
うーむ。
昨日から今日にかけて、いきなりお二人にリンクいただいたので、「めずらしいこともあるもんやなぁ」と思って、秘密日記のみ書きます。
あんまり秘密日記って書かないんですけど。
昨日から今日にかけて、いきなりお二人にリンクいただいたので、「めずらしいこともあるもんやなぁ」と思って、秘密日記のみ書きます。
あんまり秘密日記って書かないんですけど。
えー、このブログに書いた、
世界大不況の原因。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200812281240316894/
が、検索サイトで人気という事もあって、「じゃあ不況から脱出するには、どうしたらいいの?」というのがありまして、とても気になっておりました。
で、そんなこともあって、仕事で、少し関係があったので、以下の本を読んでみました。
脱「ひとり勝ち」文明論
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4903908135
日本経済の勝ち方 太陽エネルギー革命
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4166606913
どちらも太陽電池とリチウムイオン二次電池と電気自動車について語っている本でして、これを読むと、
●未来は明るい!
という気持ちになってくるのが、とても良いのであります。
不況不況と暗い話ばっかりで嫌になってしまいますが、それは「お金」の問題だけにフォーカスしているからで、それよりももっと現実を動かしている「エネルギーの作り方・在り方」にフォーカスしたら、「うわ!こんな可能性があったのか!」と驚くことになります。
エネルギー問題を、単純化してしまうと、火力発電や原子力の話になりまして、これはようするに「石油」と「ウラン」の奪い合いの構図になるわけです。
これらは、どこまで行っても限りある資源ですから、もともと、
●未来はない
エネルギー体系なわけですよ。
いまの人類社会の仕組みは、すべて、この限界のあるエネルギーに支えられているからこそ、「未来はない」となって不安が渦巻き、不況やら戦争やらにおびえ苦しむという事になるわけです。目指すべき方向が見えないという事なんですね。
しかし、「太陽電池+蓄電池+電気自動車」をセットにして考えると、まずエネルギー自体が「繰り返し活用可能」な、
●未来のある
技術だというのが見えてきます。太陽電池を作るために石油やら電気やらは必要ですが、一度作れば、最低でも20年間は、太陽エネルギーをずっと使えるんですね。
しかも太陽というのは、地球全体、人の住んでいるところなら照っていますので、石油のように産出国とか利権を持った国だけが潤うというものでもないわけです。
設置したその日から電気が使えて、最低でも20年間はずっと使える。(耐用年数は実質はもっと長いと思います。)
で、ザクッと総量を言うなら、「脱『ひとり勝ち』文明論」によるなら、
「地球の地表面積の1.5%(=砂漠の全面積の7%)に太陽電池パネルを貼り詰めれば、世界中の70億人がアメリカ人と同程度のエネルギーを使った豊かな生活を送ることが可能になる。」
という事になりますし、「日本経済の勝ち方 太陽エネルギー革命」の言い方によれば、
「サハラ砂漠(1000万km2)の5~10%の面積にソーラー・パネルを敷き詰めると、世界のエネルギー需要の100%を生み出すことができる。」
という話になります。
で、この話がすごいのは、別にこれが50年後とか20年後には、という未来の話ではなくて、
●いますぐ実現できる
話なんだ、ってことです。
太陽電池というのは、ずっと太陽光→電気の変換効率が悪くて、少量の電気しか得られない媒体だという印象がありましたし、僕もずっとそう思ってたのですが現実には技術革新があって、いままで数%の変換効率だったものが、いまでは15~20%の変換効率にあがっていて、この効率なら、面積さえ確保できれば、世界中の電気需要をまかなえるというところまでになっている、ということなんですね。
で、この2冊の著者、おふたりともが、「あとは価格を下げる事が必要だから、政府主導で大量にソーラーパネルを生産できるような政策をすれば良い」と言う話になってます。年に10兆円規模の国家投資で、日本が世界に貢献できるエネルギー体系の転換を提案できるという話なわけです。
それだけでも壮大かつ、夢のような話ですが、ここに「電池」と「電気自動車」の話が加わって、話はより明るくなるんですね。
まずソーラーパネルだけでは、日中にしか電気が使えないわけですが、電池があればそれを貯めておくことができます。その電気を貯めるための技術として、リチウムイオン二次電池とスーパーキャパシタ(電気二重層コンデンサなど)があるんですね。
とくにリチウムイオン二次電池は電気の圧縮率が良いので、電気自動車の電池として、かなり可能性が高いのです。いまハイブリッドカーというのが話題になってますが、トヨタのプリウスに使われてるのがニッケル水素の電池だそうです。リチウムだともっと圧縮率が良くなるので、「エンジン」ではなく「モーター」で走れるようになります。
で、クルマがガソリンで動く「エンジン」駆動ではなく、電気で動く「モーター」駆動になるとどうなるか? というと、まず「ギアチェンジ」という操作がいらなくなるんですね。ガソリンエンジンだと低速な時にトルク(力)がないので、高速回転にしてギアでタイヤにゆっくりと力を与えるというやり方をしないといけないわけですが、モーターだと、そういう手間は電圧操作だけで済みます。
ということは、クルマのクランクやらシャフトやらの「力を伝えるための機構」というものが不要になりますので、たとえば、「脱『ひとり勝ち』文明論」の著者である清水浩さんが作った電気自動車、「Eliica(エリーカ)」だと、タイヤの中にモーターを入れ、しかもクルマの車輪を全部で8個に増やした構造になっているのですが、こうすると、エネルギー効率がすごくよくなるわけです。
「エンジン」のクルマのように、ギアやら鉄の棒やら、そういう持って回ったエネルギーの伝え方をするのではなくて、「モーター」のクルマなら、いきなりタイヤを回すことができる。エンジンクランクやらシャフトなどの力の伝達部品が多い事によって失われていたエネルギーを無くさずに済むわけです。
で、そのモーターを回すための電池は床に敷き詰めてしまう。こうすると、車内が広くて、荷物の積み卸しもラクで、一回の充電で300km(東京から名古屋くらいまで)の距離を走れるクルマが作れます。
しかも速度は、最大370km/hですから、新幹線より速い。そんなクルマが作れてしまうのだそうです。
しかも、
●電気代も安い。
というオマケまであります。
「日本経済の勝ち方 太陽エネルギー革命」によれば、三菱電機が開発中の「i MiEV(アイミーブ)」を引き合いに出して、東京大阪間の電気代を深夜料金で計算して500円としてます。
●東京-大阪間、500円!
まぁびっくりしてしまいます。(が、まぁこの計算は発電所が原子力を使っているとか、そういうことも勘案しないと、よろしくない話ですが。)
どちらの著者の方も「しかも、電気自動車ならCO2排出ゼロ!」という事をおっしゃるわけです。(僕は「CO2が地球温暖化の犯人かどうかわからないし、なにより地球温暖化が悪い事かどうかもわからない」と思う立場の人なので、この部分はどうでも良いですが。)
ともあれ、画期的は画期的でしょ?
で、こういう技術革新の基礎技術は、もうすでに世界に広がっていて、ついこの間まではソーラーパネルなんかは普及率その他でも日本が世界のトップだったのだけれど、ドイツや中国に抜かされてるんだそうです。
●あかんやん!
ちゅう話ですね。
●がんばらな!
ちゅうことです。
たとえば電気自動車でも、アメリカではテスラ・モーターズの「ロードスター」というスポーツカーがすごい人気だそうですし、つぶれかかってるGMだって、モーター駆動で、緊急用発電機としてガソリンエンジンを積んだ「ボルタ」という電気自動車を開発しているのだそうです。
ようするに、もう、地球全体が、「太陽電池+蓄電池+電気自動車」の世界に走り出してるし、そっちにどんどん行かないとアカンよ、という話です。
で、重要なのは自動車という、いちばんの「石油食い」の道具が電気に変わって、しかも電気の供給が太陽電池という「繰り返し使用可能」な供給源になると、石油の利権争いであるとか、産油国の利権争いであるとか、先進国と途上国の経済格差とか、そういう「限界あるエネルギーによって規定されてしまっていた問題」のほとんどが、解決とは言わないまでも、根本からひっくり返ってしまう、という事なんですね。
もう、いままでの石油という「有限界エネルギーによる世界観」が通用しなくなる。「循環系エネルギーによる新しい価値体系」を生み出していく可能性がある。
という話なわけです。
それがどういうものになるのかは、全然わからないですけど、かなり面白そうな話です。
実際僕は、上記の太陽電池を生産する工場の生産設備の効率化を図るための装置のパンフレットを作っていたり、電気二重層コンデンサを作っている会社の投資家向けパンフレットを作っていたり、リチウムイオン二次電池の素材開発に役立つ分析機器のパンフレットを作っていたりしますんで、このあたりの動向をひしひしと感じます。
不況のおかげで、いまいち動きの鈍かった「新世代への転換」が、いま、ものすごい勢いで動き出してるという感じが、はっきりとあるんですね。
実際、リチウムイオン二次電池とかは生産しているのが日本の特に関西圏に集中してますし、太陽電池もシャープさんとかありますしね。日本の企業が果たす役割は大きいと思います。
もちろん、こういう動きは、急激に経済を回復させるような種類のものではありませんが、技術や社会の方向性ということで、これから10年、20年の人類が進むべき方向性として、とても重要だと思います。
ポイントは「限界のあるエネルギーから、循環可能なエネルギーへ」という事です。そこで文化や社会体制まで、全部が変わっていく可能性があるってことですね。
もう、ほんま、不況は飽きました。
ええかげん、明るい未来に向かって歩きましょうや。
銭・金も大事なんですが、(命の次に大事。) その銭・金というものは、「価値交換」に使うものでして、で、交換されるものは、基本的にエネルギーなんですよね。その交換される「モノ」に、いままで限界があったから問題だったわけで、今後はそうでもなくなるわけです。(石油は石油で石油化学で必要とかいろいろあります。)
不況、不況と愚痴を言うのは、もうやめにして、新たな時代に向かって歩きたいと思うのであります。はい。
世界大不況の原因。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200812281240316894/
が、検索サイトで人気という事もあって、「じゃあ不況から脱出するには、どうしたらいいの?」というのがありまして、とても気になっておりました。
で、そんなこともあって、仕事で、少し関係があったので、以下の本を読んでみました。
脱「ひとり勝ち」文明論
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4903908135
日本経済の勝ち方 太陽エネルギー革命
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4166606913
どちらも太陽電池とリチウムイオン二次電池と電気自動車について語っている本でして、これを読むと、
●未来は明るい!
という気持ちになってくるのが、とても良いのであります。
不況不況と暗い話ばっかりで嫌になってしまいますが、それは「お金」の問題だけにフォーカスしているからで、それよりももっと現実を動かしている「エネルギーの作り方・在り方」にフォーカスしたら、「うわ!こんな可能性があったのか!」と驚くことになります。
エネルギー問題を、単純化してしまうと、火力発電や原子力の話になりまして、これはようするに「石油」と「ウラン」の奪い合いの構図になるわけです。
これらは、どこまで行っても限りある資源ですから、もともと、
●未来はない
エネルギー体系なわけですよ。
いまの人類社会の仕組みは、すべて、この限界のあるエネルギーに支えられているからこそ、「未来はない」となって不安が渦巻き、不況やら戦争やらにおびえ苦しむという事になるわけです。目指すべき方向が見えないという事なんですね。
しかし、「太陽電池+蓄電池+電気自動車」をセットにして考えると、まずエネルギー自体が「繰り返し活用可能」な、
●未来のある
技術だというのが見えてきます。太陽電池を作るために石油やら電気やらは必要ですが、一度作れば、最低でも20年間は、太陽エネルギーをずっと使えるんですね。
しかも太陽というのは、地球全体、人の住んでいるところなら照っていますので、石油のように産出国とか利権を持った国だけが潤うというものでもないわけです。
設置したその日から電気が使えて、最低でも20年間はずっと使える。(耐用年数は実質はもっと長いと思います。)
で、ザクッと総量を言うなら、「脱『ひとり勝ち』文明論」によるなら、
「地球の地表面積の1.5%(=砂漠の全面積の7%)に太陽電池パネルを貼り詰めれば、世界中の70億人がアメリカ人と同程度のエネルギーを使った豊かな生活を送ることが可能になる。」
という事になりますし、「日本経済の勝ち方 太陽エネルギー革命」の言い方によれば、
「サハラ砂漠(1000万km2)の5~10%の面積にソーラー・パネルを敷き詰めると、世界のエネルギー需要の100%を生み出すことができる。」
という話になります。
で、この話がすごいのは、別にこれが50年後とか20年後には、という未来の話ではなくて、
●いますぐ実現できる
話なんだ、ってことです。
太陽電池というのは、ずっと太陽光→電気の変換効率が悪くて、少量の電気しか得られない媒体だという印象がありましたし、僕もずっとそう思ってたのですが現実には技術革新があって、いままで数%の変換効率だったものが、いまでは15~20%の変換効率にあがっていて、この効率なら、面積さえ確保できれば、世界中の電気需要をまかなえるというところまでになっている、ということなんですね。
で、この2冊の著者、おふたりともが、「あとは価格を下げる事が必要だから、政府主導で大量にソーラーパネルを生産できるような政策をすれば良い」と言う話になってます。年に10兆円規模の国家投資で、日本が世界に貢献できるエネルギー体系の転換を提案できるという話なわけです。
それだけでも壮大かつ、夢のような話ですが、ここに「電池」と「電気自動車」の話が加わって、話はより明るくなるんですね。
まずソーラーパネルだけでは、日中にしか電気が使えないわけですが、電池があればそれを貯めておくことができます。その電気を貯めるための技術として、リチウムイオン二次電池とスーパーキャパシタ(電気二重層コンデンサなど)があるんですね。
とくにリチウムイオン二次電池は電気の圧縮率が良いので、電気自動車の電池として、かなり可能性が高いのです。いまハイブリッドカーというのが話題になってますが、トヨタのプリウスに使われてるのがニッケル水素の電池だそうです。リチウムだともっと圧縮率が良くなるので、「エンジン」ではなく「モーター」で走れるようになります。
で、クルマがガソリンで動く「エンジン」駆動ではなく、電気で動く「モーター」駆動になるとどうなるか? というと、まず「ギアチェンジ」という操作がいらなくなるんですね。ガソリンエンジンだと低速な時にトルク(力)がないので、高速回転にしてギアでタイヤにゆっくりと力を与えるというやり方をしないといけないわけですが、モーターだと、そういう手間は電圧操作だけで済みます。
ということは、クルマのクランクやらシャフトやらの「力を伝えるための機構」というものが不要になりますので、たとえば、「脱『ひとり勝ち』文明論」の著者である清水浩さんが作った電気自動車、「Eliica(エリーカ)」だと、タイヤの中にモーターを入れ、しかもクルマの車輪を全部で8個に増やした構造になっているのですが、こうすると、エネルギー効率がすごくよくなるわけです。
「エンジン」のクルマのように、ギアやら鉄の棒やら、そういう持って回ったエネルギーの伝え方をするのではなくて、「モーター」のクルマなら、いきなりタイヤを回すことができる。エンジンクランクやらシャフトなどの力の伝達部品が多い事によって失われていたエネルギーを無くさずに済むわけです。
で、そのモーターを回すための電池は床に敷き詰めてしまう。こうすると、車内が広くて、荷物の積み卸しもラクで、一回の充電で300km(東京から名古屋くらいまで)の距離を走れるクルマが作れます。
しかも速度は、最大370km/hですから、新幹線より速い。そんなクルマが作れてしまうのだそうです。
しかも、
●電気代も安い。
というオマケまであります。
「日本経済の勝ち方 太陽エネルギー革命」によれば、三菱電機が開発中の「i MiEV(アイミーブ)」を引き合いに出して、東京大阪間の電気代を深夜料金で計算して500円としてます。
●東京-大阪間、500円!
まぁびっくりしてしまいます。(が、まぁこの計算は発電所が原子力を使っているとか、そういうことも勘案しないと、よろしくない話ですが。)
どちらの著者の方も「しかも、電気自動車ならCO2排出ゼロ!」という事をおっしゃるわけです。(僕は「CO2が地球温暖化の犯人かどうかわからないし、なにより地球温暖化が悪い事かどうかもわからない」と思う立場の人なので、この部分はどうでも良いですが。)
ともあれ、画期的は画期的でしょ?
で、こういう技術革新の基礎技術は、もうすでに世界に広がっていて、ついこの間まではソーラーパネルなんかは普及率その他でも日本が世界のトップだったのだけれど、ドイツや中国に抜かされてるんだそうです。
●あかんやん!
ちゅう話ですね。
●がんばらな!
ちゅうことです。
たとえば電気自動車でも、アメリカではテスラ・モーターズの「ロードスター」というスポーツカーがすごい人気だそうですし、つぶれかかってるGMだって、モーター駆動で、緊急用発電機としてガソリンエンジンを積んだ「ボルタ」という電気自動車を開発しているのだそうです。
ようするに、もう、地球全体が、「太陽電池+蓄電池+電気自動車」の世界に走り出してるし、そっちにどんどん行かないとアカンよ、という話です。
で、重要なのは自動車という、いちばんの「石油食い」の道具が電気に変わって、しかも電気の供給が太陽電池という「繰り返し使用可能」な供給源になると、石油の利権争いであるとか、産油国の利権争いであるとか、先進国と途上国の経済格差とか、そういう「限界あるエネルギーによって規定されてしまっていた問題」のほとんどが、解決とは言わないまでも、根本からひっくり返ってしまう、という事なんですね。
もう、いままでの石油という「有限界エネルギーによる世界観」が通用しなくなる。「循環系エネルギーによる新しい価値体系」を生み出していく可能性がある。
という話なわけです。
それがどういうものになるのかは、全然わからないですけど、かなり面白そうな話です。
実際僕は、上記の太陽電池を生産する工場の生産設備の効率化を図るための装置のパンフレットを作っていたり、電気二重層コンデンサを作っている会社の投資家向けパンフレットを作っていたり、リチウムイオン二次電池の素材開発に役立つ分析機器のパンフレットを作っていたりしますんで、このあたりの動向をひしひしと感じます。
不況のおかげで、いまいち動きの鈍かった「新世代への転換」が、いま、ものすごい勢いで動き出してるという感じが、はっきりとあるんですね。
実際、リチウムイオン二次電池とかは生産しているのが日本の特に関西圏に集中してますし、太陽電池もシャープさんとかありますしね。日本の企業が果たす役割は大きいと思います。
もちろん、こういう動きは、急激に経済を回復させるような種類のものではありませんが、技術や社会の方向性ということで、これから10年、20年の人類が進むべき方向性として、とても重要だと思います。
ポイントは「限界のあるエネルギーから、循環可能なエネルギーへ」という事です。そこで文化や社会体制まで、全部が変わっていく可能性があるってことですね。
もう、ほんま、不況は飽きました。
ええかげん、明るい未来に向かって歩きましょうや。
銭・金も大事なんですが、(命の次に大事。) その銭・金というものは、「価値交換」に使うものでして、で、交換されるものは、基本的にエネルギーなんですよね。その交換される「モノ」に、いままで限界があったから問題だったわけで、今後はそうでもなくなるわけです。(石油は石油で石油化学で必要とかいろいろあります。)
不況、不況と愚痴を言うのは、もうやめにして、新たな時代に向かって歩きたいと思うのであります。はい。
総合英語forest
2009年6月30日
●新たな知識の扉は、必ず重い。
自転車に乗り出してから、読書の冊数が減ってるのですね。
月8冊×12=96冊ですから、だいたいそのくらいは毎年読んでるはずなのに、今年は5月末で20冊強。
これはやばいなぁと、いまは少し冊数増加を意識して、今月は12冊くらい読めたのですが。うーん、速読、本気で習いに行こうかなぁ。
と、思ってはいるものの、それとは別に、熟読も大切だよねぇというのがあって、今年は前々から課題にしてた
総合英語forest
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4342010208
を、端から端まで、とにかく一度全部読みました。
実は、この一冊のために読書の冊数が減ってるというのもあるわけです。
この本は知る人ぞ知る、というか、30歳までの人なら入試用の参考書の定番として、おなじみなんでしょうね、英文法の解説本です。
「英文法に関しては、とにかく、この一冊をキチンとやりこめばOK」と言われている本なので、まぁ、前から買うだけは買って、気になる項目が出てきたときには辞書的に目を通すと言うことをやってたんです。
が。
やっぱり、一度は全ページに目を通しておかないとなぁと思って、今年2月の頭から、毎日コツコツと順に読んでいってたのです。
でも文法の解説書だしねぇ。正直面白くないのですよ。
なので、「わかってる」と思われる部分と、「苦手だなぁ」と思ってる部分の2方向、2つのしおりをはさんで、気分で切り換えながら章単位で読みました。
英語ですからね。例文が出てくるのです。で、この例文こそが大事なので、例文は、ほぼ全部、かならず音読です。最低10回は音読を、と思ってましたが、それはちょっと無理だったかなぁ。でもとにかく数回ずつは絶対に読む。
で、読み終わった頁には日付を入れて日々「征服」しながら読んで行ったわけですが、そんな読み方ですからな、読み終えたのが5月の頭。まるまる3ヶ月もかかってしまいました。
いやー、大変でした。
この「熟読」をしてなきゃ、もうちょっと冊数は多かったはずなんですけどねぇ。
でも、通読すると、けっこう自分に欠けていた知識とかがはっきりして、すごく良かった。これは本当に良かったと思います。
「そうかぁ、俺は、この用法を理解してなかったんだよなぁ」とか、すごく思った。
あるいは、前から和文英訳のトレーニングをして、どうしてもスッと文章が口に出てこないところが、ある文法項目の理解ができていなかったからだ、とか、いろいろわかったので、すごく気分的にすっきりしたのでありますよ。
と言うことで、読書の冊数もさることながら、こういう手強い書籍も、それはそれでコツコツ読まねばなぁと、とても強く思ったのですよ。
冊数だけ追いかけていると、どうしても読みやすい本ばかり読んでしまうので、それはかなり問題なんですよね。
やっぱり苦手とか弱い分野をこそ強化しなくちゃいけないわけで。
●新たな知識の扉は、必ず重い。
というのを、私的な金言として、心に刻もうと思っておるのですよ。
やっぱり苦手分野の本を読むのは、すごく手間がかかるのです。しんどいし、なれないし。でも、それをやらなきゃ本を読む意味ってないですからねぇ。
前に、ダウンタウンの松本人志が作った映画で「大日本人」というのがありましたが、それの感想をmixiの方に書きまして、「天才にしかわからない内容なのが辛い。私は言ってる事の意味とか意図してる事はよくわかるけど、あまり楽しめなかったのであります。」という意見を書いたら、ある人が「分ってることを読んで、本を読む意味があるか?」という話を教えてくださいました。
ある出版関係のライターさんなんですが、かの池田晶子さんとお知り合いだったそうで。池田晶子さん。すごいですよね、あの人。まぁ立ち読みでしか読んでないけど、やっぱり読み手に「あんた、人生それでいいの?」と白刃を突きつけてくるような迫力のあるお方ですが、その人が「わかってしまうような本を読んで読む意味があるのか?」という事を言っておられたのだそうです。
そうだよなぁ。
確かにそうだ。
自分の知ってる範囲、分ってる範囲の話と、齟齬のない世界の話くらいしか、凡人には受け入れられないんですよ。
でも、それじゃ、書物にして本を書く意味なんかないじゃないか、って言うのも、一面の真理でしてね。
わからないこと、わかりにくいことを、コツコツと積み重ねて理解していくと言うことこそ、本当は「本を読む」ということの本質なんだよなぁって、最近はつくづく思うのであります。
冊数も増やしながら、熟読すべき本も、いろいろチャレンジせねばと思っておるのであります。
ちゅうことで、今月は12冊ほど読んだのですが、熟読系で一冊選んだ本が全然進まない。うむー。苦手はどこまで行っても苦手だなぁ。
まだ、これから梅雨が続くようなので、自転車通勤で読めなかった分を、このしばらくの雨の日で、どんどん取り返していかねばと思う、今日この頃なのでありました。
自転車に乗り出してから、読書の冊数が減ってるのですね。
月8冊×12=96冊ですから、だいたいそのくらいは毎年読んでるはずなのに、今年は5月末で20冊強。
これはやばいなぁと、いまは少し冊数増加を意識して、今月は12冊くらい読めたのですが。うーん、速読、本気で習いに行こうかなぁ。
と、思ってはいるものの、それとは別に、熟読も大切だよねぇというのがあって、今年は前々から課題にしてた
総合英語forest
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4342010208
を、端から端まで、とにかく一度全部読みました。
実は、この一冊のために読書の冊数が減ってるというのもあるわけです。
この本は知る人ぞ知る、というか、30歳までの人なら入試用の参考書の定番として、おなじみなんでしょうね、英文法の解説本です。
「英文法に関しては、とにかく、この一冊をキチンとやりこめばOK」と言われている本なので、まぁ、前から買うだけは買って、気になる項目が出てきたときには辞書的に目を通すと言うことをやってたんです。
が。
やっぱり、一度は全ページに目を通しておかないとなぁと思って、今年2月の頭から、毎日コツコツと順に読んでいってたのです。
でも文法の解説書だしねぇ。正直面白くないのですよ。
なので、「わかってる」と思われる部分と、「苦手だなぁ」と思ってる部分の2方向、2つのしおりをはさんで、気分で切り換えながら章単位で読みました。
英語ですからね。例文が出てくるのです。で、この例文こそが大事なので、例文は、ほぼ全部、かならず音読です。最低10回は音読を、と思ってましたが、それはちょっと無理だったかなぁ。でもとにかく数回ずつは絶対に読む。
で、読み終わった頁には日付を入れて日々「征服」しながら読んで行ったわけですが、そんな読み方ですからな、読み終えたのが5月の頭。まるまる3ヶ月もかかってしまいました。
いやー、大変でした。
この「熟読」をしてなきゃ、もうちょっと冊数は多かったはずなんですけどねぇ。
でも、通読すると、けっこう自分に欠けていた知識とかがはっきりして、すごく良かった。これは本当に良かったと思います。
「そうかぁ、俺は、この用法を理解してなかったんだよなぁ」とか、すごく思った。
あるいは、前から和文英訳のトレーニングをして、どうしてもスッと文章が口に出てこないところが、ある文法項目の理解ができていなかったからだ、とか、いろいろわかったので、すごく気分的にすっきりしたのでありますよ。
と言うことで、読書の冊数もさることながら、こういう手強い書籍も、それはそれでコツコツ読まねばなぁと、とても強く思ったのですよ。
冊数だけ追いかけていると、どうしても読みやすい本ばかり読んでしまうので、それはかなり問題なんですよね。
やっぱり苦手とか弱い分野をこそ強化しなくちゃいけないわけで。
●新たな知識の扉は、必ず重い。
というのを、私的な金言として、心に刻もうと思っておるのですよ。
やっぱり苦手分野の本を読むのは、すごく手間がかかるのです。しんどいし、なれないし。でも、それをやらなきゃ本を読む意味ってないですからねぇ。
前に、ダウンタウンの松本人志が作った映画で「大日本人」というのがありましたが、それの感想をmixiの方に書きまして、「天才にしかわからない内容なのが辛い。私は言ってる事の意味とか意図してる事はよくわかるけど、あまり楽しめなかったのであります。」という意見を書いたら、ある人が「分ってることを読んで、本を読む意味があるか?」という話を教えてくださいました。
ある出版関係のライターさんなんですが、かの池田晶子さんとお知り合いだったそうで。池田晶子さん。すごいですよね、あの人。まぁ立ち読みでしか読んでないけど、やっぱり読み手に「あんた、人生それでいいの?」と白刃を突きつけてくるような迫力のあるお方ですが、その人が「わかってしまうような本を読んで読む意味があるのか?」という事を言っておられたのだそうです。
そうだよなぁ。
確かにそうだ。
自分の知ってる範囲、分ってる範囲の話と、齟齬のない世界の話くらいしか、凡人には受け入れられないんですよ。
でも、それじゃ、書物にして本を書く意味なんかないじゃないか、って言うのも、一面の真理でしてね。
わからないこと、わかりにくいことを、コツコツと積み重ねて理解していくと言うことこそ、本当は「本を読む」ということの本質なんだよなぁって、最近はつくづく思うのであります。
冊数も増やしながら、熟読すべき本も、いろいろチャレンジせねばと思っておるのであります。
ちゅうことで、今月は12冊ほど読んだのですが、熟読系で一冊選んだ本が全然進まない。うむー。苦手はどこまで行っても苦手だなぁ。
まだ、これから梅雨が続くようなので、自転車通勤で読めなかった分を、このしばらくの雨の日で、どんどん取り返していかねばと思う、今日この頃なのでありました。
植草一秀さんの痴漢冤罪事件が上告棄却された事は国家犯罪である。
2009年6月29日
ミラーマンだなんだと騒がれた植草一秀氏ですが、基本的にあの方は無実でしょう。おそらくは、国家によってはめられたに違いないです。国家による謀略だった可能性が非常に高い。
だいたい、この半年を見てください。西松建設問題での小沢一郎秘書逮捕問題を筆頭に、北朝鮮のロケット実験を「ミサイル」と呼称した案件やら、草なぎ君の本来なら「保護」すべきを「逮捕」した事件、あるいはなぜか消えてしまった北野誠などなど、政府・検察・マスコミがグルになって情報操作をしていると仮定する以外にまともな答えが導き出せない事案が多すぎます。
あまりにひどい。
で、そういう国家犯罪を暴いているのが植草一秀さんで、氏のブログは一日に4万件ものアクセスがあるそうです。
その植草一秀さんの痴漢冤罪事件の上告が棄却されました。
この件、正しく記述するなら、「冤罪事件」というものの上告を、棄却することなど、国の立場として許されるはずはありません。
裁判所という場所は公明正大なところでないと困るわけですから、「冤罪」という「国が疑わしい」とされた場合は、たとえやましいところがまったくなかったとしても、公明正大さを証明するために上告を受けて、キチンと再審理するのが筋というものです。
しかし上告棄却だ。
「やだ、やだ、やだ。そんな話聞きたくないもん。知らんぷりしちゃお。」と言っているに過ぎない。
それも、一日に4万件ものアクセスがある植草一秀さんの「冤罪」を上告棄却ですよ? 棄却した事自体が、すでに国家犯罪だ。話にならない。
仮に植草氏が、ほんとうに痴漢犯罪を犯していて、たんなる言いがかりに過ぎなかったとしても、一日に4万件ものアクセスがある事案なら、裁判所というか「国」の公明正大さを証明するために上告を受けて再審理する責任が、公的機関にはあるはずだし、それをしないのなら、その段階でルール違反。国が信用できない。つまり上告棄却はまさに、
●僕ちゃん、悪いことしてます。
という国の側の犯罪容認にしかならないということです。
説明責任を果たさなかった、という事ですからな。
公的機関としての役割を果たしていない。
つまり税金泥棒ということです。
この段階で明確に犯罪者です。
再審理くらいしてもらわないと、国を信用したい人間ですら信用できないわけですからな。箸にも棒にもひっかからない。
なので、この上告棄却は、かなりの大問題です。もっと世間が大々的に取り上げるべき問題だと思いますよ。
写真で紹介しているのは、先日発売された植草一秀と副島隆彦さんの対談本
売国者たちの末路
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4396613342
です。とても面白かったです。おすすめ。
以下の記事はライブドアの、一般市民からパブリック・ジャーナリスト(PJ:市民記者)を募って記事を作っているPJニュースから、植草さんを応援するスタンスで記事を書いている方と思われるパブリック・ジャーナリスト 高橋 清隆さんのページ。
国家犯罪を厳しく監視するというスタンスは、市民として、大変重要だと思うので、全文転載します。
(転載貼り付け始め)----------------------------------------------
「植草被告の上告を棄却=小泉・竹中政権の犯罪暴露を恐れてか」
2009年年6月28日13時53分 / 提供:PJ
【PJニュース 2009年6月28日】 電車内で痴漢行為をしたとして東京都迷惑防止条例違反に問われていた植草一秀被告の上告審は、25日付で最高裁第三小法廷(近藤崇晴裁判長)が、植草被告の上告を棄却する決定を下した。
1、2審の懲役4月(未決勾留(こうりゅう)2月を算入)の実刑が確定するが、被害者証言や検察側目撃証言の多数の矛盾点や植草被告の無罪を証明する弁護側証人の証言内容が十分に検討された形跡がなく、判決には強い政治的な背景がちらつく。
起訴内容は2006年年3月、京浜急行品川-京急蒲田駅間の電車内で女子高校生の尻を触ったとされるもの。 公判では被害者が一度も出廷せず、検察側目撃証人が警察との事前接触を隠していたことが明らかになっている。起訴状にある犯行時間帯に、植草氏が誰とも接触していなかったと証言する市民も現れた。
4月には防衛医科大学の名倉正博(なくらまさひろ)教授が被告となった同様の事件で最高裁が逆転無罪を示しているだけに、行方が注目された。
判決に対し植草被告は、「一般市民とされる人物が事実を確認しようともせずに駅事務所にわたしを強引に連行し、捜査段階でもひたすら自白を強要するだけで合理的な捜査を行う姿勢を全く示さないなど、初めからおかしかった。
一般の痴漢えん罪と通じるものか分からないが、公判でも検察側目撃者の証言に無数の重大な矛盾が生まれ、繊維鑑定についてもわたしの手の付着物が駅員制服の構成繊維と『極めて類似している』との専門家鑑定結果が弁護側から証拠申請されたにもかかわらず裁判所が証拠採用しないなど、矛盾が噴出している。証拠から合理的に結論を導くのではなく、初めから結論ありきで裁判が進められたとしか考えられない」と話していた。
高裁での審理も「審理不尽」と言わざるを得ないものだった。10項目以上に及ぶ弁護側の重要な証拠調べ請求を一顧だにせず、公判は1回結審で締めくくられた。
最高裁での審理について、植草被告の弁護団所属弁護士の一人は、「ひどい判決に驚いている。最高裁逆転無罪を出した名倉判決で最高裁第三小法廷は『水掛け論』では有罪を出せないことを明記したにもかかわらず、何の理由も示さずに上告棄却とはひどすぎる」とコメントした。最高裁の審理姿勢は「法の下の平等」を満たしているとは言えない。
植草事件は政治的背景がうわさされてきたが、判決のタイミングはこれを一層感じさせる。 政治学者の渡邉良明(わたなべよしあき)博士が森田実(もりたみのる)氏のホームページで、植草氏の無実を公言し、副島隆彦教授も 同様の見地から植草氏との対談本を出したばかり。
植草氏のブログは1日5万人に読者が拡大し、自民党劣勢の中で総選挙が近づいている。政権交代が実現すれば、小泉・竹中政権の下で行われた国家的な犯罪が続々と白日の下にさらされることに。
植草氏は27日、ブログで読者に表明した。 「私は天に誓って無罪潔白である。したがって、心には一点の曇りもない。…幸い、多くの皆さまが真実を見つめ、私の発する真実の声に真摯(しんし)に耳を傾けて下さっている。…いかなる弾圧に直面しても、節を屈せず、微力ながら一歩ずつ前進して参りたいと考えている」。
事件の真相があらわになるのは、時間の問題のようだ。【了】
PJニュース は一般市民からパブリック・ジャーナリスト(PJ:市民記者)を募り、市民主体型のジャーナリズムを目指すパブリック・メディアです。身近な話題から政治論議までニュースやオピニオンを幅広く提供しています。
PJ募集中!みなさんもPJに登録して身の丈にあったニュースや多くの人に伝えたいオピニオンをパブリックに伝えてみませんか
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「植草一秀の『知られざる真実』
高橋清隆の文書館
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※この記事は、PJ個人の文責によるもので、法人としてのライブドアの見解・意向を示すものではありません。また、PJはライブドアのニュース部門、ライブドア・ニュースとは無関係です。
パブリック・ジャーナリスト 高橋 清隆
http://news.livedoor.com/article/detail/4223936/
(転載貼り付け終わり)-----------------------------------------
ここからはKID’S/シゲの文章に戻ります。
ということで、植草さんが本当に冤罪なのかどうかは別にしても上告棄却はないだろう! というのが私のスタンスですが、でも多分、とんでもない冤罪を平気で作る体質が、この国の裁判所や警察・検察には存在するとしか思えません。
まえに、
それでもボクはやってない(を見た感想)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200702170455420000/
を書きましたけど、痴漢冤罪事件に関しては、この映画を是非見て欲しいのです。裁判は「疑わしきは罰せず」でなければいけないのに、日本の裁判システムは、「まず結論ありき」「検察が決めた結論は絶対」「その結論に合うように証拠を捏造する」「そういう間違った行為を悪いこととすら思っていない」というとんでもない、極悪な国家犯罪の姿が明確に描かれています。
(国民が期待する「やって欲しい仕事」をやらないのは、業務放棄です。それで給料・棒給を受け取るのは公金横領です。それを組織ぐるみでやっているのですから国家犯罪です。で、この部分に関しては公務員は言い訳できませんな。明確に国家犯罪を犯している。)
ということで、以下は僕が書いた、こういう国家犯罪につながる話のアーティクル一覧です。この半年で、こんなにおかしな事ばかり出てきてると言うことが、すでに問題なんです。みなさん、ちょっと自分なりに考えてみてください。
西松建設問題:小沢秘書逮捕:野党の党首に便宜など計れない。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200903071224592187/
七尾藍佳は東大出のバカである。(小沢辞任会見での日テレ女性記者)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200905131106434445/
小沢秘書逮捕、北朝鮮ミサイル、定額給付金、全部麻生のやらせっぽい。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200905081133521481/
草なぎ君が起訴猶予処分やと? いや、最初から不起訴に決まってるやろ。裁かれるべきは警察である。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200905021157446943/
北野誠は、番組降板と引き替えに命を守ったのだろう論。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200904131015582054/
この国は議員にいくら使うのか
http://hitoyomi.diarynote.jp/200810231205279766/
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あまりにひどい。
で、そういう国家犯罪を暴いているのが植草一秀さんで、氏のブログは一日に4万件ものアクセスがあるそうです。
その植草一秀さんの痴漢冤罪事件の上告が棄却されました。
この件、正しく記述するなら、「冤罪事件」というものの上告を、棄却することなど、国の立場として許されるはずはありません。
裁判所という場所は公明正大なところでないと困るわけですから、「冤罪」という「国が疑わしい」とされた場合は、たとえやましいところがまったくなかったとしても、公明正大さを証明するために上告を受けて、キチンと再審理するのが筋というものです。
しかし上告棄却だ。
「やだ、やだ、やだ。そんな話聞きたくないもん。知らんぷりしちゃお。」と言っているに過ぎない。
それも、一日に4万件ものアクセスがある植草一秀さんの「冤罪」を上告棄却ですよ? 棄却した事自体が、すでに国家犯罪だ。話にならない。
仮に植草氏が、ほんとうに痴漢犯罪を犯していて、たんなる言いがかりに過ぎなかったとしても、一日に4万件ものアクセスがある事案なら、裁判所というか「国」の公明正大さを証明するために上告を受けて再審理する責任が、公的機関にはあるはずだし、それをしないのなら、その段階でルール違反。国が信用できない。つまり上告棄却はまさに、
●僕ちゃん、悪いことしてます。
という国の側の犯罪容認にしかならないということです。
説明責任を果たさなかった、という事ですからな。
公的機関としての役割を果たしていない。
つまり税金泥棒ということです。
この段階で明確に犯罪者です。
再審理くらいしてもらわないと、国を信用したい人間ですら信用できないわけですからな。箸にも棒にもひっかからない。
なので、この上告棄却は、かなりの大問題です。もっと世間が大々的に取り上げるべき問題だと思いますよ。
写真で紹介しているのは、先日発売された植草一秀と副島隆彦さんの対談本
売国者たちの末路
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4396613342
です。とても面白かったです。おすすめ。
以下の記事はライブドアの、一般市民からパブリック・ジャーナリスト(PJ:市民記者)を募って記事を作っているPJニュースから、植草さんを応援するスタンスで記事を書いている方と思われるパブリック・ジャーナリスト 高橋 清隆さんのページ。
国家犯罪を厳しく監視するというスタンスは、市民として、大変重要だと思うので、全文転載します。
(転載貼り付け始め)----------------------------------------------
「植草被告の上告を棄却=小泉・竹中政権の犯罪暴露を恐れてか」
2009年年6月28日13時53分 / 提供:PJ
【PJニュース 2009年6月28日】 電車内で痴漢行為をしたとして東京都迷惑防止条例違反に問われていた植草一秀被告の上告審は、25日付で最高裁第三小法廷(近藤崇晴裁判長)が、植草被告の上告を棄却する決定を下した。
1、2審の懲役4月(未決勾留(こうりゅう)2月を算入)の実刑が確定するが、被害者証言や検察側目撃証言の多数の矛盾点や植草被告の無罪を証明する弁護側証人の証言内容が十分に検討された形跡がなく、判決には強い政治的な背景がちらつく。
起訴内容は2006年年3月、京浜急行品川-京急蒲田駅間の電車内で女子高校生の尻を触ったとされるもの。 公判では被害者が一度も出廷せず、検察側目撃証人が警察との事前接触を隠していたことが明らかになっている。起訴状にある犯行時間帯に、植草氏が誰とも接触していなかったと証言する市民も現れた。
4月には防衛医科大学の名倉正博(なくらまさひろ)教授が被告となった同様の事件で最高裁が逆転無罪を示しているだけに、行方が注目された。
判決に対し植草被告は、「一般市民とされる人物が事実を確認しようともせずに駅事務所にわたしを強引に連行し、捜査段階でもひたすら自白を強要するだけで合理的な捜査を行う姿勢を全く示さないなど、初めからおかしかった。
一般の痴漢えん罪と通じるものか分からないが、公判でも検察側目撃者の証言に無数の重大な矛盾が生まれ、繊維鑑定についてもわたしの手の付着物が駅員制服の構成繊維と『極めて類似している』との専門家鑑定結果が弁護側から証拠申請されたにもかかわらず裁判所が証拠採用しないなど、矛盾が噴出している。証拠から合理的に結論を導くのではなく、初めから結論ありきで裁判が進められたとしか考えられない」と話していた。
高裁での審理も「審理不尽」と言わざるを得ないものだった。10項目以上に及ぶ弁護側の重要な証拠調べ請求を一顧だにせず、公判は1回結審で締めくくられた。
最高裁での審理について、植草被告の弁護団所属弁護士の一人は、「ひどい判決に驚いている。最高裁逆転無罪を出した名倉判決で最高裁第三小法廷は『水掛け論』では有罪を出せないことを明記したにもかかわらず、何の理由も示さずに上告棄却とはひどすぎる」とコメントした。最高裁の審理姿勢は「法の下の平等」を満たしているとは言えない。
植草事件は政治的背景がうわさされてきたが、判決のタイミングはこれを一層感じさせる。 政治学者の渡邉良明(わたなべよしあき)博士が森田実(もりたみのる)氏のホームページで、植草氏の無実を公言し、副島隆彦教授も 同様の見地から植草氏との対談本を出したばかり。
植草氏のブログは1日5万人に読者が拡大し、自民党劣勢の中で総選挙が近づいている。政権交代が実現すれば、小泉・竹中政権の下で行われた国家的な犯罪が続々と白日の下にさらされることに。
植草氏は27日、ブログで読者に表明した。 「私は天に誓って無罪潔白である。したがって、心には一点の曇りもない。…幸い、多くの皆さまが真実を見つめ、私の発する真実の声に真摯(しんし)に耳を傾けて下さっている。…いかなる弾圧に直面しても、節を屈せず、微力ながら一歩ずつ前進して参りたいと考えている」。
事件の真相があらわになるのは、時間の問題のようだ。【了】
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「植草一秀の『知られざる真実』
高橋清隆の文書館
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※この記事は、PJ個人の文責によるもので、法人としてのライブドアの見解・意向を示すものではありません。また、PJはライブドアのニュース部門、ライブドア・ニュースとは無関係です。
パブリック・ジャーナリスト 高橋 清隆
http://news.livedoor.com/article/detail/4223936/
(転載貼り付け終わり)-----------------------------------------
ここからはKID’S/シゲの文章に戻ります。
ということで、植草さんが本当に冤罪なのかどうかは別にしても上告棄却はないだろう! というのが私のスタンスですが、でも多分、とんでもない冤罪を平気で作る体質が、この国の裁判所や警察・検察には存在するとしか思えません。
まえに、
それでもボクはやってない(を見た感想)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200702170455420000/
を書きましたけど、痴漢冤罪事件に関しては、この映画を是非見て欲しいのです。裁判は「疑わしきは罰せず」でなければいけないのに、日本の裁判システムは、「まず結論ありき」「検察が決めた結論は絶対」「その結論に合うように証拠を捏造する」「そういう間違った行為を悪いこととすら思っていない」というとんでもない、極悪な国家犯罪の姿が明確に描かれています。
(国民が期待する「やって欲しい仕事」をやらないのは、業務放棄です。それで給料・棒給を受け取るのは公金横領です。それを組織ぐるみでやっているのですから国家犯罪です。で、この部分に関しては公務員は言い訳できませんな。明確に国家犯罪を犯している。)
ということで、以下は僕が書いた、こういう国家犯罪につながる話のアーティクル一覧です。この半年で、こんなにおかしな事ばかり出てきてると言うことが、すでに問題なんです。みなさん、ちょっと自分なりに考えてみてください。
西松建設問題:小沢秘書逮捕:野党の党首に便宜など計れない。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200903071224592187/
七尾藍佳は東大出のバカである。(小沢辞任会見での日テレ女性記者)
http://hitoyomi.diarynote.jp/200905131106434445/
小沢秘書逮捕、北朝鮮ミサイル、定額給付金、全部麻生のやらせっぽい。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200905081133521481/
草なぎ君が起訴猶予処分やと? いや、最初から不起訴に決まってるやろ。裁かれるべきは警察である。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200905021157446943/
北野誠は、番組降板と引き替えに命を守ったのだろう論。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200904131015582054/
この国は議員にいくら使うのか
http://hitoyomi.diarynote.jp/200810231205279766/
しつこくも、また血液型性格判断の話。
●血液型と性格の相関には科学的根拠がないと言う学者は、学者を辞めろ。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200906241304468605/
●血液型性格判断は科学である必要などない。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200906261017184771/
の続きです。
しかし、血液型と性格の相関関係。最近は、とうとう「血液型占い」とか言って、血液型性格判断は占いにまで成り下がってしまいました。なんだかなぁ。
一時期、能見正比古さんの著作を何冊も読んで、実に面白いと思った私としては、人間が生きていくための有用なる知恵が、貶められている気がして実に寂しいのです。
能見さんが書いた本のタイトルは、確か「血液型人間学」だったと思うんですが、この「人間学」という言葉が全てを表しているのですよ。つまり「人間を学ぼう」とする態度の事。それが「血液型人間学」なわけです。
ちゃちな「性格さえわかればそれで良し」とするような考え方ではなかったのだから、そこのところを間違えないで欲しいなぁって思うのです。
とくに、みんな勘違いしまくってるのが「性格」という固有の色を血液型別に分けてラベリングしてるだけだろう! という思いこみ。そんなんと違いますって!能見さんの著作は。
能見さんが提唱したのは、人間の行動や言動を表面的に分類するのではなく、血液型との相関で生まれる「共通する気質」を見つけ出して、その「気質部分」で理解していこう、という話です。
これね、簡単に能見さんは書いてるけど、大変な事なんですよ。もともと「科学」あるいは統計学なんかで取り扱える種類の話ではない事なんです。
なぜなら、取っている行動・言動はまったく同じでも考えている「哲学」部分がまったく違う場合が人間にはあって、その「哲学」自体が違う部分を血液型との相関で考えましょう、というものなんです。だから、もともと計測する手法自体が困難を極める。そういう種類の話です。
でも、その「哲学」などの、その人の精神活動の根本部分を、キチンと聞き出して理解して、それを血液型との相関で見てみましょう、というのが能見さんの考え方です。壮大といえば、これほど壮大な発想もないんです。だから、これは、いやでもフィールド調査の手法以外は成立しません。
「気質で人間を見る」ということは、個々人の哲学まで聞き出しましょう、ということですから、それこそ腹を割って話し合って、どういう考え方で行動してるのかまで確認しないといけません。それこそ簡単な実験で答えが出るような種類の話ではなくて、人生をかけて友人・知人から、コツコツ少しずつ実例を集めながら確認していくしか、他にやりようのない考え方なんです。
「血液型と性格(気質)との間に、何か関係があるように感じるから、みんな人生をかけてフィールド調査をしていきましょう。」というのが血液型人間学の根本の考え方です。
で、だからこそ人間そのものを愛する「人間学」としての側面を持たせる事ができるのですよ。
たとえば、「失敗したときの対処の仕方」なんていうのが良い例ですな。
これ、サンプルを集めることができません。何をして「失敗」とするかが難しいですし、予測しないような出来事が起きてはじめて失敗なのであって、しかも人間関係の中での対処の方法、そのコンセプトの違いみたいな話ですから。
こういうサンプル、実例を得ようとしたら、人生経験の中で、友人・知人が失敗して落ち込んだ時などに、その人にキチンと向き合ってコミュニケーションを取り、どんな考え方を持っているのかを冷静に聞き出す必要があります。まず、そういう態度を身につけないと「気質」の違いなんて見えてこないんですよ。
「血液型と気質には相関関係がありそうだ」
というのは、そこまでの関係性を考えての提言なんです。
この「失敗したときの対応の仕方」というのは、少なくとも僕の少ない人生経験の中でも、もっとも血液型の違いで対処の仕方、コンセプトの違いが明確になりやすい例のひとつだなぁと思っています。
まず、失敗したときの対処の仕方で、標準的なものは「迷惑をかけた関係各位におわびに回る」という発想です。これがもっとも標準でしょう。この発想が素直に出てくるのがO型です。
で、当然AO型とかBO型とかも、こういう発想がベースにあります。なので、まぁおおむね半数以上の人は失敗したときに「迷惑をかけた関係各位におわびに回る」という行動を取ります。
が、しかし、AA型とBB型とAB型は、その当たり前の対応の仕方にあまり意味を感じなかったりするわけですね。「あやまって済む問題か?」っちゅうことになる。
A型的思考で行くと、「同じ失敗が繰り返されては意味がないのだから、失敗した原因を明確にして、同じ過ちが起こらない仕組みを作らねばならない」と考える傾向が強いようです。
つまり「失敗した」という人生経験を糧に、より良い環境にしていこうという発想ですね。
で、実はB型的思考にも、この「失敗を糧にして、より良い環境にしていこう」というのはあるんですが、どういうわけか、B型の人は失敗を防ぐ仕組みには全然興味を持たない傾向が強い。彼らにすれば「それはもともと私に向いていない事だったから失敗したのだ」という個人の立場から見る考え方が大きいわけです。だから「この失敗で出た穴をどう取り返すのか?」と考えます。
で、その取り返し方は、もうそれこそ個別にユニークですね。何が出てくるやらわからない。とにかく、仕事の上で全然取り組まれていなかったテーマに積極的に取り組むとか、そういう行動に向かうことが多いのです。
このあたりはもう、それこそ気質で、「謝り」「失敗予防」「取り返し」の3つの方向性のどれに重きを置くかは、それぞれのキャラクターと言うしかありません。当然、必ずその血液型がそういう考え方を取るというわけではないですけど、たとえばA型人間に「取り返し」をさせるとか、B型人間に「失敗予防」をさせるというのは、かなり精神的に負担は大きいだろうと思いますね。(で、それを無理にさせることが悪い事でもありません。そこから新しいその人らしさが出てくる場合もありますから。でもまぁ、あまり無理はさせない方が結果は良好だと思います。)
で、自分が何か失敗したときに、どう対処するかというのは、おおむね、上記の3方向だろうと思います。どれも大事で、どれが欠けても良くないように思いますし、この3つの方向性を全部抑えていれば、おおむね「漏れ」はないように思います。
で、ここで「たぶん漏れはないだろう」と思えるのは、友人・知人が失敗した時に、ちゃんと愚痴を聞いてあげたり、腹を割って話して、考え方を聞いてあげたりした結果として、「感じ取れる」種類の話なんです。
これを、「失敗した時には謝ることが大切だ」だけで押し通したり、あるいは「失敗予防が最優先だ」だけに邁進したり、あるいは「失敗は仕方ない、どう取り返すかだ!」と謝りもせずに突っ走ったりしたら、それはかなりまずい。
かなりまずいんですけど、人間はそうなりがちなんですね。
視野が狭いと、そうなるんです。
でも、自分の視野の狭さって、すごく気付きにくいんですよ。どうしても得意とする「考え方」「哲学」で行動してしまいがちなのです。
だからこそ、人と腹を割って話をして「気質」を理解しようとする態度、「血液型人間学」が有用なんですよ。
それは人生全体を通して人間研究をするぞ、フィールド調査をしていくぞ、という決意を持ちましょうという話であって、そういう「コンセプト」が「占い」であるはずがないじゃないか! って思うのですよね。
ちなみに、私はAB型でして、失敗したときには失敗の再発防止と、どう取り返すのかは両方ともにサッと考えるんですけど、謝罪の仕方がとおりいっぺんなので、すごく軽く思われてしまいがちだよなぁと、いつも反省しているのであります。もうちょっとキチンとまともに心からの謝罪しないとイカンなぁ。
ともあれ、「性格の分類」という事自体、科学ではできていません。
で、もうひとつ言うと、心理学という分野そのものが科学としてはまだまだキチンと成立しているとは言いにくい状況なのです。まぁ統計学の一部という感じでしょう。社会学も科学として成立してるかどうかは、なかなか難しい。そういうものなのです。
でも「哲学」というのは、学問の基礎を成すものですから、これは成立してます。成立してるというか、これなくして学問という体系自体が成立しない。そのくらい重要なものです。
ぽっと出の統計学などより、プラトンの「饗宴」をはじめ、対話をもとにした哲学の検討と言うことの方が、はるかに学問の方法論として重要で、「血液型人間学」というのは、そういう実に大きな可能性を持った考え方なのですよ。
あんまりちゃちな「占い」とかに貶めて欲しくないなぁって僕は思うのであります。
この話、まだ書くと思います。
ではでは、また。
●血液型と性格の相関には科学的根拠がないと言う学者は、学者を辞めろ。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200906241304468605/
●血液型性格判断は科学である必要などない。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200906261017184771/
の続きです。
しかし、血液型と性格の相関関係。最近は、とうとう「血液型占い」とか言って、血液型性格判断は占いにまで成り下がってしまいました。なんだかなぁ。
一時期、能見正比古さんの著作を何冊も読んで、実に面白いと思った私としては、人間が生きていくための有用なる知恵が、貶められている気がして実に寂しいのです。
能見さんが書いた本のタイトルは、確か「血液型人間学」だったと思うんですが、この「人間学」という言葉が全てを表しているのですよ。つまり「人間を学ぼう」とする態度の事。それが「血液型人間学」なわけです。
ちゃちな「性格さえわかればそれで良し」とするような考え方ではなかったのだから、そこのところを間違えないで欲しいなぁって思うのです。
とくに、みんな勘違いしまくってるのが「性格」という固有の色を血液型別に分けてラベリングしてるだけだろう! という思いこみ。そんなんと違いますって!能見さんの著作は。
能見さんが提唱したのは、人間の行動や言動を表面的に分類するのではなく、血液型との相関で生まれる「共通する気質」を見つけ出して、その「気質部分」で理解していこう、という話です。
これね、簡単に能見さんは書いてるけど、大変な事なんですよ。もともと「科学」あるいは統計学なんかで取り扱える種類の話ではない事なんです。
なぜなら、取っている行動・言動はまったく同じでも考えている「哲学」部分がまったく違う場合が人間にはあって、その「哲学」自体が違う部分を血液型との相関で考えましょう、というものなんです。だから、もともと計測する手法自体が困難を極める。そういう種類の話です。
でも、その「哲学」などの、その人の精神活動の根本部分を、キチンと聞き出して理解して、それを血液型との相関で見てみましょう、というのが能見さんの考え方です。壮大といえば、これほど壮大な発想もないんです。だから、これは、いやでもフィールド調査の手法以外は成立しません。
「気質で人間を見る」ということは、個々人の哲学まで聞き出しましょう、ということですから、それこそ腹を割って話し合って、どういう考え方で行動してるのかまで確認しないといけません。それこそ簡単な実験で答えが出るような種類の話ではなくて、人生をかけて友人・知人から、コツコツ少しずつ実例を集めながら確認していくしか、他にやりようのない考え方なんです。
「血液型と性格(気質)との間に、何か関係があるように感じるから、みんな人生をかけてフィールド調査をしていきましょう。」というのが血液型人間学の根本の考え方です。
で、だからこそ人間そのものを愛する「人間学」としての側面を持たせる事ができるのですよ。
たとえば、「失敗したときの対処の仕方」なんていうのが良い例ですな。
これ、サンプルを集めることができません。何をして「失敗」とするかが難しいですし、予測しないような出来事が起きてはじめて失敗なのであって、しかも人間関係の中での対処の方法、そのコンセプトの違いみたいな話ですから。
こういうサンプル、実例を得ようとしたら、人生経験の中で、友人・知人が失敗して落ち込んだ時などに、その人にキチンと向き合ってコミュニケーションを取り、どんな考え方を持っているのかを冷静に聞き出す必要があります。まず、そういう態度を身につけないと「気質」の違いなんて見えてこないんですよ。
「血液型と気質には相関関係がありそうだ」
というのは、そこまでの関係性を考えての提言なんです。
この「失敗したときの対応の仕方」というのは、少なくとも僕の少ない人生経験の中でも、もっとも血液型の違いで対処の仕方、コンセプトの違いが明確になりやすい例のひとつだなぁと思っています。
まず、失敗したときの対処の仕方で、標準的なものは「迷惑をかけた関係各位におわびに回る」という発想です。これがもっとも標準でしょう。この発想が素直に出てくるのがO型です。
で、当然AO型とかBO型とかも、こういう発想がベースにあります。なので、まぁおおむね半数以上の人は失敗したときに「迷惑をかけた関係各位におわびに回る」という行動を取ります。
が、しかし、AA型とBB型とAB型は、その当たり前の対応の仕方にあまり意味を感じなかったりするわけですね。「あやまって済む問題か?」っちゅうことになる。
A型的思考で行くと、「同じ失敗が繰り返されては意味がないのだから、失敗した原因を明確にして、同じ過ちが起こらない仕組みを作らねばならない」と考える傾向が強いようです。
つまり「失敗した」という人生経験を糧に、より良い環境にしていこうという発想ですね。
で、実はB型的思考にも、この「失敗を糧にして、より良い環境にしていこう」というのはあるんですが、どういうわけか、B型の人は失敗を防ぐ仕組みには全然興味を持たない傾向が強い。彼らにすれば「それはもともと私に向いていない事だったから失敗したのだ」という個人の立場から見る考え方が大きいわけです。だから「この失敗で出た穴をどう取り返すのか?」と考えます。
で、その取り返し方は、もうそれこそ個別にユニークですね。何が出てくるやらわからない。とにかく、仕事の上で全然取り組まれていなかったテーマに積極的に取り組むとか、そういう行動に向かうことが多いのです。
このあたりはもう、それこそ気質で、「謝り」「失敗予防」「取り返し」の3つの方向性のどれに重きを置くかは、それぞれのキャラクターと言うしかありません。当然、必ずその血液型がそういう考え方を取るというわけではないですけど、たとえばA型人間に「取り返し」をさせるとか、B型人間に「失敗予防」をさせるというのは、かなり精神的に負担は大きいだろうと思いますね。(で、それを無理にさせることが悪い事でもありません。そこから新しいその人らしさが出てくる場合もありますから。でもまぁ、あまり無理はさせない方が結果は良好だと思います。)
で、自分が何か失敗したときに、どう対処するかというのは、おおむね、上記の3方向だろうと思います。どれも大事で、どれが欠けても良くないように思いますし、この3つの方向性を全部抑えていれば、おおむね「漏れ」はないように思います。
で、ここで「たぶん漏れはないだろう」と思えるのは、友人・知人が失敗した時に、ちゃんと愚痴を聞いてあげたり、腹を割って話して、考え方を聞いてあげたりした結果として、「感じ取れる」種類の話なんです。
これを、「失敗した時には謝ることが大切だ」だけで押し通したり、あるいは「失敗予防が最優先だ」だけに邁進したり、あるいは「失敗は仕方ない、どう取り返すかだ!」と謝りもせずに突っ走ったりしたら、それはかなりまずい。
かなりまずいんですけど、人間はそうなりがちなんですね。
視野が狭いと、そうなるんです。
でも、自分の視野の狭さって、すごく気付きにくいんですよ。どうしても得意とする「考え方」「哲学」で行動してしまいがちなのです。
だからこそ、人と腹を割って話をして「気質」を理解しようとする態度、「血液型人間学」が有用なんですよ。
それは人生全体を通して人間研究をするぞ、フィールド調査をしていくぞ、という決意を持ちましょうという話であって、そういう「コンセプト」が「占い」であるはずがないじゃないか! って思うのですよね。
ちなみに、私はAB型でして、失敗したときには失敗の再発防止と、どう取り返すのかは両方ともにサッと考えるんですけど、謝罪の仕方がとおりいっぺんなので、すごく軽く思われてしまいがちだよなぁと、いつも反省しているのであります。もうちょっとキチンとまともに心からの謝罪しないとイカンなぁ。
ともあれ、「性格の分類」という事自体、科学ではできていません。
で、もうひとつ言うと、心理学という分野そのものが科学としてはまだまだキチンと成立しているとは言いにくい状況なのです。まぁ統計学の一部という感じでしょう。社会学も科学として成立してるかどうかは、なかなか難しい。そういうものなのです。
でも「哲学」というのは、学問の基礎を成すものですから、これは成立してます。成立してるというか、これなくして学問という体系自体が成立しない。そのくらい重要なものです。
ぽっと出の統計学などより、プラトンの「饗宴」をはじめ、対話をもとにした哲学の検討と言うことの方が、はるかに学問の方法論として重要で、「血液型人間学」というのは、そういう実に大きな可能性を持った考え方なのですよ。
あんまりちゃちな「占い」とかに貶めて欲しくないなぁって僕は思うのであります。
この話、まだ書くと思います。
ではでは、また。
血液型性格判断は科学である必要などない。
2009年6月26日コメント (19)血液型性格判断を「科学的根拠がない」と言う事に関する違和感の話の続き。
●血液型と性格の相関には科学的根拠がないと言う学者は、学者を辞めろ。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200906241304468605/
このアーティクル、先日書いてはみたものの、言葉足らずの事が多くて「こりゃ伝わらんな」と思ったので、解説の続きをします。
だいたいもともと、血液型別性格判断に、「科学的根拠」みたいなチンケなものが必要かどうか? ということなのですよ。
そんなもんはいらない。
●AさんとBさんがいて、似ているところがある。
これは自分で感じ取れば良いことですからな。
「あらあら、この赤ちゃん可愛いわねー、お父さんにそっくり!」
なんて事を言いますが、この「似ている」という感覚に科学的根拠なんか必要なのか? ということです。
親子の顔など、実はまったく違います。
それは目の位置やら鼻の位置やらを正確に測定すればするほど「違う」という事になってしまうような事柄です。
でも、似てるもんは似てる。
この「似ている度合い」を数値化できれば、それはそれで役立つことでしょうが、そこに意味はあまりないのですよ。
で、いまは「顔が似ている度」なる測定値が世の中にあるか? というと、ありません。
では「人間の顔が似ている度を考える事など科学的に根拠がない」と言って否定したらどうなのか?
それは否定すること自体がおかしいという事です。
で、顔が似ている程度を表すためには、どういう風に伝えるかというと、タレントの名前を使ったりします。
「ちょっとスマップの香取君っぽい感じでさー」
とかね。
それで正解の場合もあれば、不正解の場合もあります。でも、何もないよりよっぽどイメージが出来て、コミュニケーションの役に立つわけです。
こういうときに「眉毛の位置が顔の上から34%のところにあって…」とか言っても、それは全然意味がないわけです。
人間の顔ですら、写真がない時は、そういう伝え方をするしかないわけです。
ましてや、性格を伝える時にはもっとあやふやにならざるを得ないわけです。
いちいち対象となる人の言動を伝えたところで、それこそ部分でしかない。そういう時に血液型を知っていて、一言「○型らしい」と付け加えると、大雑把なイメージが伝わって、その部分情報に正確性が増すのです。
で、その程度で良いのですよ、血液型性格判断なんてものは。それだけでかなり有用なのだから、それで良い。
人が人の顔を表現するときに使う「タレントの顔」のような雛形ということです。
そういうものは、あった方が便利に決まってます。何もわざわざ否定する必要はない。
ましてや、科学なんか全然関係ないし、余分なことです。
-----------------
このあたり、どうも違和感を感じるのですが、やっぱり大きな問題は、「能見正比古」という、血液型と性格の関係性の元となるタイプを書いた、もっとも偉大な作家が、すでにお亡くなりになってしまっていると言うことが、すべての不幸の始まりなんだろうなと思います。
だから、「血液型性格判断は科学ではない」などという、チンケで頭の悪い風評ばかりが一人歩きすることになってしまうんだろうと思います。
だいたい元々、能見正比古さんが書かれた著作では能見さん自身がこれを科学であるとは言ってなかったはずです。いま手元に本がないのでなんとも言いようがないんですが。
とにかく能見さんは、「元となる雛形を作った」ということで偉大なんですよ。
で、能見さんは、血液型性格判断の正しい活用方法もきちんと定義してらした。それはつまり、
●人間の良い部分は、その人の努力の結果。欠点は血液型のせいという事にすればよい。
という考え方です。
これが素晴らしいのです。
人間はひとりひとり考え方や生き方も違うわけですから、どうしてもすれ違いが起きたりしてしまう。考え方が違って腹を立てたりすることもあります。
しかし、そういう行き違いを小さくして、人を好きになっていくようにした方が、やっぱり良い。そういう人間を肯定する発想が大前提として存在していて、その人間愛の上に「血液型人間学」を置いたのが能見正比古さんなんです。
これは基本コンセプトとして、すごく重要です。
●人間の良い部分は、その人の努力の結果。欠点は血液型のせいという事にすればよい。
と考える事で、人間の良い点を正しく評価し、評価未定の部分は血液型による「まだコントロールできていない気質」として棚上げを可能にしてるわけです。
こういう「コンセプトの提案」のような事こそが科学的思考法のもっとも大切な部分なんですね。「科学的根拠」というような枝葉末節はどうでもいい。みみっちい。
たとえば、ソクラテスやプラトンは「対話」を元にさまざまな哲学的考察を生み出しましたが、西洋文化の礎は、まさに彼らの「思想」の上に成り立っていると言っても良いほどのものです。
いま風に言えば「コンセプト」という事になりますが、上記で書いた能見正比古さんの提言のようなものこそが、まさに哲学というものです。
科学の進化・進展というものは、こういう哲学が根底にあって、そこから進化発展してきたものなんです。だから最初のコンセプトというのが死ぬほど大事でしょう。
で、血液型に関しては、この能見先生のような人間的に尊敬できる考え方こそを、まずベースにしないと、どこをどうひねくり回してもおかしな計測主義にしかなっていかないのです。
大切な事は、人が人を愛すると言うことです。
そのために血液型という科学の道具を使いましょう、ということです。科学が大事なのではなくて、人を愛すると言うことが大事なのです。
血液型と性格の話は、能見正比古さんの著作をベースに「ABOの会(アボのかい)」だったかな? そういう集まりが作られて、いろいろ活動されてたはずですが、能見正比古さんが亡くなられてから後は、息子さんの俊賢さんに引き継がれたはずです。
で、能見正比古さんが「情」で考えるB型だったのに対して、息子さんの「俊賢」さんは知で考えるA型らしく、数値やら実証実験やらを活動の中心にされたわけです。
この流れが実に悪い形で世の中に広まってしまったんですね。
もともとの「コンセプト」の部分の素晴らしさが全然伝わらないままなんです。
人をいかに愛するか?
なんてことは、そうそう誰にでも考えられる事ではないのです。
でも能見正比古さんは、それをこそ真剣に考えられた。そこが大切で、そこをこそ受け継いでいくべきだったのですが、後の息子さんの数値的活動をベースに「もともとの能見正比古のデータそのものが科学的根拠がない」と一蹴されてしまっているのが、いまの状況だ、ということです。
科学的根拠なんかどうでもいいんだよ、バカ!
と私はどなりつけたい。
人間が生きていて、どうにも理解しにくい他人がいて、その人をどう受け入れてあげればよいのか? そのための合理的な受入方法のひとつとして、血液型の知識があるんだよ、ということを、まず最初に考えてもらいたいと思うわけですよ。
だから、若い女の子とかで「私はB型の人とは付き合わないんです」とか言ってる事自体が、能見さんの最初のコンセプトからはずれる。
そういう考え方が間違いなのですよ。
●良く分からない人を、偏見を持たずに、いかに理解してあげるのか?
これこそが能見正比古が著作を通じて訴えていたことなのであって、こういう立派な考え方に「科学的根拠」なんか必要なはずがないのです。
だから能見先生の著作をして「科学的根拠がない」などと言うアホは科学者を辞めなさいと言うのです。
この根本の理念がなければ、どんな科学的考え方もマッドサイエンティストの悪の発明と同じになってしまう。
まだまだ書きたいことはあるんですけど、まずはここまで。
●血液型と性格の相関には科学的根拠がないと言う学者は、学者を辞めろ。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200906241304468605/
このアーティクル、先日書いてはみたものの、言葉足らずの事が多くて「こりゃ伝わらんな」と思ったので、解説の続きをします。
だいたいもともと、血液型別性格判断に、「科学的根拠」みたいなチンケなものが必要かどうか? ということなのですよ。
そんなもんはいらない。
●AさんとBさんがいて、似ているところがある。
これは自分で感じ取れば良いことですからな。
「あらあら、この赤ちゃん可愛いわねー、お父さんにそっくり!」
なんて事を言いますが、この「似ている」という感覚に科学的根拠なんか必要なのか? ということです。
親子の顔など、実はまったく違います。
それは目の位置やら鼻の位置やらを正確に測定すればするほど「違う」という事になってしまうような事柄です。
でも、似てるもんは似てる。
この「似ている度合い」を数値化できれば、それはそれで役立つことでしょうが、そこに意味はあまりないのですよ。
で、いまは「顔が似ている度」なる測定値が世の中にあるか? というと、ありません。
では「人間の顔が似ている度を考える事など科学的に根拠がない」と言って否定したらどうなのか?
それは否定すること自体がおかしいという事です。
で、顔が似ている程度を表すためには、どういう風に伝えるかというと、タレントの名前を使ったりします。
「ちょっとスマップの香取君っぽい感じでさー」
とかね。
それで正解の場合もあれば、不正解の場合もあります。でも、何もないよりよっぽどイメージが出来て、コミュニケーションの役に立つわけです。
こういうときに「眉毛の位置が顔の上から34%のところにあって…」とか言っても、それは全然意味がないわけです。
人間の顔ですら、写真がない時は、そういう伝え方をするしかないわけです。
ましてや、性格を伝える時にはもっとあやふやにならざるを得ないわけです。
いちいち対象となる人の言動を伝えたところで、それこそ部分でしかない。そういう時に血液型を知っていて、一言「○型らしい」と付け加えると、大雑把なイメージが伝わって、その部分情報に正確性が増すのです。
で、その程度で良いのですよ、血液型性格判断なんてものは。それだけでかなり有用なのだから、それで良い。
人が人の顔を表現するときに使う「タレントの顔」のような雛形ということです。
そういうものは、あった方が便利に決まってます。何もわざわざ否定する必要はない。
ましてや、科学なんか全然関係ないし、余分なことです。
-----------------
このあたり、どうも違和感を感じるのですが、やっぱり大きな問題は、「能見正比古」という、血液型と性格の関係性の元となるタイプを書いた、もっとも偉大な作家が、すでにお亡くなりになってしまっていると言うことが、すべての不幸の始まりなんだろうなと思います。
だから、「血液型性格判断は科学ではない」などという、チンケで頭の悪い風評ばかりが一人歩きすることになってしまうんだろうと思います。
だいたい元々、能見正比古さんが書かれた著作では能見さん自身がこれを科学であるとは言ってなかったはずです。いま手元に本がないのでなんとも言いようがないんですが。
とにかく能見さんは、「元となる雛形を作った」ということで偉大なんですよ。
で、能見さんは、血液型性格判断の正しい活用方法もきちんと定義してらした。それはつまり、
●人間の良い部分は、その人の努力の結果。欠点は血液型のせいという事にすればよい。
という考え方です。
これが素晴らしいのです。
人間はひとりひとり考え方や生き方も違うわけですから、どうしてもすれ違いが起きたりしてしまう。考え方が違って腹を立てたりすることもあります。
しかし、そういう行き違いを小さくして、人を好きになっていくようにした方が、やっぱり良い。そういう人間を肯定する発想が大前提として存在していて、その人間愛の上に「血液型人間学」を置いたのが能見正比古さんなんです。
これは基本コンセプトとして、すごく重要です。
●人間の良い部分は、その人の努力の結果。欠点は血液型のせいという事にすればよい。
と考える事で、人間の良い点を正しく評価し、評価未定の部分は血液型による「まだコントロールできていない気質」として棚上げを可能にしてるわけです。
こういう「コンセプトの提案」のような事こそが科学的思考法のもっとも大切な部分なんですね。「科学的根拠」というような枝葉末節はどうでもいい。みみっちい。
たとえば、ソクラテスやプラトンは「対話」を元にさまざまな哲学的考察を生み出しましたが、西洋文化の礎は、まさに彼らの「思想」の上に成り立っていると言っても良いほどのものです。
いま風に言えば「コンセプト」という事になりますが、上記で書いた能見正比古さんの提言のようなものこそが、まさに哲学というものです。
科学の進化・進展というものは、こういう哲学が根底にあって、そこから進化発展してきたものなんです。だから最初のコンセプトというのが死ぬほど大事でしょう。
で、血液型に関しては、この能見先生のような人間的に尊敬できる考え方こそを、まずベースにしないと、どこをどうひねくり回してもおかしな計測主義にしかなっていかないのです。
大切な事は、人が人を愛すると言うことです。
そのために血液型という科学の道具を使いましょう、ということです。科学が大事なのではなくて、人を愛すると言うことが大事なのです。
血液型と性格の話は、能見正比古さんの著作をベースに「ABOの会(アボのかい)」だったかな? そういう集まりが作られて、いろいろ活動されてたはずですが、能見正比古さんが亡くなられてから後は、息子さんの俊賢さんに引き継がれたはずです。
で、能見正比古さんが「情」で考えるB型だったのに対して、息子さんの「俊賢」さんは知で考えるA型らしく、数値やら実証実験やらを活動の中心にされたわけです。
この流れが実に悪い形で世の中に広まってしまったんですね。
もともとの「コンセプト」の部分の素晴らしさが全然伝わらないままなんです。
人をいかに愛するか?
なんてことは、そうそう誰にでも考えられる事ではないのです。
でも能見正比古さんは、それをこそ真剣に考えられた。そこが大切で、そこをこそ受け継いでいくべきだったのですが、後の息子さんの数値的活動をベースに「もともとの能見正比古のデータそのものが科学的根拠がない」と一蹴されてしまっているのが、いまの状況だ、ということです。
科学的根拠なんかどうでもいいんだよ、バカ!
と私はどなりつけたい。
人間が生きていて、どうにも理解しにくい他人がいて、その人をどう受け入れてあげればよいのか? そのための合理的な受入方法のひとつとして、血液型の知識があるんだよ、ということを、まず最初に考えてもらいたいと思うわけですよ。
だから、若い女の子とかで「私はB型の人とは付き合わないんです」とか言ってる事自体が、能見さんの最初のコンセプトからはずれる。
そういう考え方が間違いなのですよ。
●良く分からない人を、偏見を持たずに、いかに理解してあげるのか?
これこそが能見正比古が著作を通じて訴えていたことなのであって、こういう立派な考え方に「科学的根拠」なんか必要なはずがないのです。
だから能見先生の著作をして「科学的根拠がない」などと言うアホは科学者を辞めなさいと言うのです。
この根本の理念がなければ、どんな科学的考え方もマッドサイエンティストの悪の発明と同じになってしまう。
まだまだ書きたいことはあるんですけど、まずはここまで。
2009.7.22追記-----------------
急にアクセスが増えて大変迷惑しております。とりあえず扇情的なタイトルがいろいろ刺激してる部分も大きいと思うので、言いたい事が伝わりやすいと思うタイトルに変更しました。
タイトルの意味は「まだ科学的に明らかにする手法が整っていないだけでは?」という意味を含みます。
なお、私は学者ではありませんのであしからず。
009.7.21追記-----------------
思うと、どうもこのページがいろいろ引用されてるみたいです。
先に概略だけ言っておきますが「O型とAB型の間に実子関係はない」というのは科学的事実であって、その科学的事実に沿って、性格や文化との関連性を考える、ということは、科学的に可能なんじゃないですかね? というか、大前提となる科学的事実でしょ?
その科学的事実が性格を形作るにもっとも影響の大きな「家庭環境」を左右する要因になるわけだから「科学的根拠はない」と言うほうがどうかしてると僕はおもいます。
「科学的根拠はない」と言うより、「どうやって調べたらええか、よーわからんわ。」と違うんかい? って思うけど。
家庭環境が科学的事実によって明確に規定できるんだから、そこをとっかかりに調べればいいのに。同じ作物でも寒冷地と温暖地では収量に差ができるとか当然でしょ?
それを「作物と温度との間に関連があるという科学的根拠はない」と言うてるようにしか思えないですね。私は。
追記終わり--------------------
最近、血液型に関する話題で、マスコミなんかでもそうなんですが、「血液型と性格の相関性には科学的根拠がないと言われてますが」と前置きして語られる事が増えてるんですよね。
で、なんか、「私は科学的な人間である」というような人が(学者であることもあるようです。このあたりは良く知りません。)「血液型と性格の間の相関は科学的に認められていませんから、そこに科学的根拠はありません。」と断言したりしてるんですよね。
そういう発言を聞くと、
●お前らはパァ? 学者を辞めろ、バカ!
としか思わないんですよねぇ。
なんでか?
それはものすごく簡単な事なんです。科学的事実から簡単に「こいつらパァや!」と立証できるんです。その証拠とは、
●O型とAB型の間に実子関係はない。
からです。
これ、科学的な事実ですからね。
どう頑張っても、O型の人は、AB型の子供を持つことができません。AB型の人間と結婚しても、生まれるのはA型かB型です。
おなじくAB型の人間がO型の子供を持つことはできませんし、この両方の逆、O型AB型の子供が、それぞれに自分とは異なる血液型であるO型AB型の親に育てられる事はないのです。
良いですか?
人間の性格には、持って生まれた気質と、後天的に親から教育されて獲得した部分の両方があります。で、この「●O型とAB型の間に実子関係はない。」という事実は、その両方に明確に影響するであろう因子です。
だから、絶対に、どうあろうが、100%、必ず、性格と血液型の間には関係性があるんです。
絶対にあるはずなんです。
ないわけがない。
こんな事は、「●O型とAB型の間に実子関係はない。」という単純な事実を頭に入れていれば、どうしたって考えざるを得ない事なんです。
仮に「血液型と、性格の間に相関関係はない」とする仮説を立てて、それを証明することにしたとしても、この「●O型とAB型の間に実子関係はない。」という事実要素を、どうクリアして「相関性はない」と証明するのか? それはほとんど不可能に近いし、そういう証明をしようと考える方が頭がどうかしていると言わざるをえません。
「●O型とAB型の間に実子関係はない。」
というのは、言うならば、「住んでいる場所が異なる」というような、元から存在している所与の条件です。
ですから、たとえば、地域社会の研究のように、血液型ごとに文化が違うはずであるという前提のもとにフィールドワークを重ねていくというやり方しかできないはずのものなのです。
文化人類学とか、そういう種類の学問で考えるべきことだっちゅうことです。
ですから、
●もともと、個別に調査を重ねていくべき種類のテーマやろうが! ボケナス!
という事ですね。
で、血液型と性格の間の相関を示す「科学的根拠」がないのは、
●調べる方法がないから
というだけの話やないか!
ちゅうことなわけですよ。
血液型と性格の間の相関は、たとえば、ひとりの人間が長く生きてきて、いろいろな人と知り合って、で、あるAさんと、後に知り合ったBさんが、二人共に自分には理解できないような考え方とか、物事の捉え方をしていて「不思議な考え方だなぁ」と思っていたら、後からよくよく確認したら、そのAさんとBさんが、同じ血液型だった! しかも自分とは異なる血液型だった! というような事をいくつか体験した「結果」として、「相関があるのではないか?」という疑問が出てきた、という事ですよ。
つまり、まず「事実」が先行している、と言うことです。
「●O型とAB型の間に実子関係はない。」
という事実が先に存在しているって事です。
親子関係という、もっとも性格構築において重要な決定をあたえる要素が「環境」「所与の条件」ごと、まったく違うという仕組みが、この世にはあるって言うことです。
で、それを科学は、いまだに測定する方法すら見つけられてない、と言うだけの話で、ようは学者がさぼってる、というだけのことです。
自分がさぼっていることを理由に「血液型と性格の間に相関関係があるかどうかは科学的に証明されていません。」とか言うなよ! バカ!
ということです。
だいたい、「うまみ調味料」ってのがありますが、あれも、「食べ物には、甘みや辛みのほかに、どうも『うま味』というべき要素がある」という事実が先行していて、その「うま味」の正体を確認する過程で生まれてきたわけですよ。
つまり事実が先行していたってことです。
その「何やらわからないけれども、どうも何かあるようだ」ということを、真面目にキチンと調べるのが学問であって、それを端から「科学的根拠はありません」と一刀両断にするとはどう言うことだ?
否定するならするで、それこそ「科学的根拠」で「血液型と性格の間に相関関係はないです」と言え! バカモンが。
で、それは言えるのか?
「●O型とAB型の間に実子関係はない。」
という圧倒的に証明されまくっている遺伝学的事実があるにも関わらず、それでも「科学的根拠はありません」と、その相関性を考えること自体を否定するのか?
それはおかしかろう。
そういう意味で、「血液型と性格の相関には科学的根拠がないと言う学者は、学者を辞めろ。」と僕は言いたい。どう考えても、科学者の言うべき言葉ではないのですよ。それは。
そういう言い方は、
「地域ごとの文化の違いが、距離や気候・風土との相関関係があるとは科学的に根拠がありませんから言えないのです。」と言ってるようにしか聞こえないわけですよ。どう考えても。
繰り返しますが、
●O型とAB型の間に実子関係はない。
というのは、遺伝学的に証明されている、所与の条件ですよ?
なら、その所与の条件が性格とどう関係するのかを、キチンと調べる事こそが正しい科学ではないですか? 違いますか? そうでなけりゃ、科学に意味なんかありゃしませんよ。
だから「血液型性格判断は科学的根拠なし」と言ってるような学者がいたら、それは全部偽物だってことです。
それはあまりにおかしい。
で、所与の条件で、いまだに解明されていない事の代表例で言うなら「人間が生きている事」というのがあるわけですよ。
いまだに人間は科学の力で人間を生み出せてないわけです。
しかし、人間は生きているし、子供も作るし、考えるし、悩むし、泣くし、愛して死んでいくんです。
そのすべては科学的に証明されていないし、科学的根拠もありません。
で、そんな事は所与の条件として「ある」んですよ。別に科学に存在を許してもらったから存在してるわけやないわい。あほかいな。っちゅうことです。
その「わからないけれども、『ある』事を、いかに解明していくか?」が科学で、少なくとも遺伝学的には「O型とAB型の間に実子関係はないよな。これは所与の条件として存在しているよな」というところまでは、科学が証明できるようになってきている、というのが現実です。
それを「科学的根拠はない」と解明の道を押しとどめてどうする!
何をやっとんねん、貴様は!
お前なんか首くくって死ね!
っちゅう話です。
最近どうも、そういうおかしな風潮が見て取れたので、書くことにしました。
ほんと、そういう奴は学者をやめてくれって思うんよなぁ。ほんとに。
どこかおかしいと思います。
---------------------
このアーティクル、言葉足らずだと思ったので、追加補足を書きました。
●血液型性格判断は科学である必要などない。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200906261017184771/
です。
よろしく。
まえもちょっと書いたのですが、最近、1日のアクセス数がコンスタントに100を越えるようになってきてるんですね。
で、どんなキーワードで検索されたかを、管理画面で見ることができるので、チェックしてるのですが、毎日、最低でも60回くらいは、各種検索サイトからのアクセスがあるんですよ。
だから、残りが、この「だいありのーと」内の方々からのアクセスなんでしょうね。
リンクをさせていただいてる方からの「あしあと」は、せいぜい一日に2人くらいですから、リンクしてない方からのアクセスもまぁ20アクセスとか30アクセスとかなんですかね? 1アクセスをどう定義してるかでも数字は変わるので良く分からないですけども。
ともあれ、はっきりしてるのは、ここの「だいありのーと」のつながりよりも、外からのアクセスの方がはっきりと多いって事なんですね。
キーワードを見てると、トレックの7.5fxとかの自転車の話もけっこうあるし、田中角栄の勉強法(「本を一貫目ほど買ってこい」と言うやり方。)のアクセスもいまだにずっとありますし、ツイストリング・ノートのアクセスも毎日のようにあります。
で、このあいだも書いた「世界大不況の原因」ネタね。いまは、これがかなり多いです。
mixiもやってますけど、最近、mixiよりこっちの「だいあり」の方が面白くなってきていて、それはやっぱり、こういうアクセスの「広がり」がわかるからだと思うのですね。
自分の書いた記事が、誰かにとって、わざわざ調べてまで読みたくなる価値があるんだと思うと、けっこう楽しいです。
これだけアクセスがあるのは、書き続ける事ができたからというのも大きくて、それはやっぱり数打ちゃ当たる、っていうのがあるからなわけです。
で、その続けるに際しての原動力は、やっぱり、ここが「日記を相互に読み合える」という仕組みを持っているからですよね。
mixiも面白いけど、あそことここが違うのは、意外にここは「外への広がり」を肯定してるところかも。
いまやmixiも紹介制はやめて、いくらでも自由に入れるようになったらしいですけど、「足跡」とかの機能は、もうみんな真似してますしね。
そうなると、外からのアクセスが手軽にわかる機能がついてるっていうのは、かなり大切かもしれませんな。
まぁ、かなりコツコツと書き続けないと効果は見えてこないし、yahooやらgoogleで1番のキーワードを取らないと「傾向」とかも見えないですけど、いざ体験してみると、かなり面白いですよね、これは。
「足跡」と「キーワード解析」の内と外の両方の機能が、両輪になってるんだよなぁ、多分。ようは、内も外も両方見ないと、おもろない、っちゅうことですかねぇ。
なんちゅうか、私には、けっこう面白いです。はい。
で、どんなキーワードで検索されたかを、管理画面で見ることができるので、チェックしてるのですが、毎日、最低でも60回くらいは、各種検索サイトからのアクセスがあるんですよ。
だから、残りが、この「だいありのーと」内の方々からのアクセスなんでしょうね。
リンクをさせていただいてる方からの「あしあと」は、せいぜい一日に2人くらいですから、リンクしてない方からのアクセスもまぁ20アクセスとか30アクセスとかなんですかね? 1アクセスをどう定義してるかでも数字は変わるので良く分からないですけども。
ともあれ、はっきりしてるのは、ここの「だいありのーと」のつながりよりも、外からのアクセスの方がはっきりと多いって事なんですね。
キーワードを見てると、トレックの7.5fxとかの自転車の話もけっこうあるし、田中角栄の勉強法(「本を一貫目ほど買ってこい」と言うやり方。)のアクセスもいまだにずっとありますし、ツイストリング・ノートのアクセスも毎日のようにあります。
で、このあいだも書いた「世界大不況の原因」ネタね。いまは、これがかなり多いです。
mixiもやってますけど、最近、mixiよりこっちの「だいあり」の方が面白くなってきていて、それはやっぱり、こういうアクセスの「広がり」がわかるからだと思うのですね。
自分の書いた記事が、誰かにとって、わざわざ調べてまで読みたくなる価値があるんだと思うと、けっこう楽しいです。
これだけアクセスがあるのは、書き続ける事ができたからというのも大きくて、それはやっぱり数打ちゃ当たる、っていうのがあるからなわけです。
で、その続けるに際しての原動力は、やっぱり、ここが「日記を相互に読み合える」という仕組みを持っているからですよね。
mixiも面白いけど、あそことここが違うのは、意外にここは「外への広がり」を肯定してるところかも。
いまやmixiも紹介制はやめて、いくらでも自由に入れるようになったらしいですけど、「足跡」とかの機能は、もうみんな真似してますしね。
そうなると、外からのアクセスが手軽にわかる機能がついてるっていうのは、かなり大切かもしれませんな。
まぁ、かなりコツコツと書き続けないと効果は見えてこないし、yahooやらgoogleで1番のキーワードを取らないと「傾向」とかも見えないですけど、いざ体験してみると、かなり面白いですよね、これは。
「足跡」と「キーワード解析」の内と外の両方の機能が、両輪になってるんだよなぁ、多分。ようは、内も外も両方見ないと、おもろない、っちゅうことですかねぇ。
なんちゅうか、私には、けっこう面白いです。はい。
写真は、その人の心と人生を写している、不思議で素敵な存在なのだ。
2009年6月19日 日常ということで、
街なかの写真屋さんというのは大変な歴史を持っているという話。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200906141004075873/
の続き。
前のメッセージで書きましたが、街なかの写真屋さんというのは、店頭DPE機時代にすごく儲かったわけです。
今の「液晶画面で写ったかどうかを確認する作業」を全部有料でやっていたのだから儲からないわけがないんですね。
しかも、
●現像料
と、
●同時プリント料
という二重請求が当たり前だったわけです。
現像代\1,200+プリント1枚30円とか普通でした。これで24枚撮りのフィルムを同時プリントで頼むとプリント代が720円で、あわせて2000円近くになったわけです。
で、あんまり儲かるので過当競争になって、安売り合戦が激化したわけですが、その時に、現像代は基本料金として値下げせずに、プリント代金の方を下げるというやり方が流行ったんですね。
●プリント代0円!
なんていうのが出てきたわけです。これが今に至る「業界の遺恨」なのですね。
まぁ、当時はプリント代競争でも良かったのですが、これがデジカメ時代に入ると、デジカメには「現像代」というものが存在しなくなっちゃったわけです。稼ぎの基本部分がなくなってしまった。なので、時代の変化で、いきなりものすごく稼ぐのがしんどい業種に変わってしまったわけです。
世間の皆さんは「プリント代なんて安いもの」という意識だけがありますから、とにかくプリント代で比較するような風潮だけが残ってしまってるわけですね。「オタクの店はプリント代いくら?」と質問されるに違いないと、業界全体が考えてたし、そういう考え方をベースにするしかなくなっちゃったわけです。
なので、デジカメ時代に入ってもプリント単価の競争という構図は残りまして、現在で言うと、写真店の店頭即日プリント代が1枚30円~40円、ドラッグストア経由で1~2日待ってのプリントが1枚20円程度(受け取りに行くので郵送費不要)、インターネットで写真データをアップロードして、郵送でプリントを送ってもらうサービスが10円~20円程度(郵送費別)という事になります。
(どのお店も、たいていはボリュームディスカウント=大量発注割引の仕組みはあると思いますので、一概には言えないんですけども。)
写真のプリントが1枚20円だと、どういう事になるかと言うと、一日に500枚プリントして、やっと1万円の売上、5000枚プリントして、やっと10万円の売上、ということになるわけです。1人のお客さんで十枚~数十枚プリントが普通なので、一日に数万円の売上は上げられますが、原価や場所代などの必要経費を差し引いていくと、それほど大きく儲かる商売ではないというのは、すぐにわかると思います。
昔のように「確認のためだけにプリントする」なんて事はありませんし、写真の多くは「ディスプレイ」で見て終わり、というものになってしまってプリントされることが減ってしまったわけです。
プリントするにしても、パソコン用のプリンタがあるから、それでプリントしたりします。
(ちなみに、パソコン用のプリンタで写真印刷をすると、用紙やインクの値段を合わせると、1枚40円前後になります。プリントの失敗やら、プリント前の赤目処理等、手間まで考えれば、写真屋さんでプリントする方がお得です。念のため。)
なので、写真屋さんにプリントを頼む必要自体が、かなり減ってきているわけで、そういう意味では写真店さんは、店舗面積を縮小したり、人手を減らしたり、いろいろ工夫しながら、運営していかなきゃならないんですが、人気のあるお店であればあるほど、プリントする機械に人間が張り付いていなきゃならないんですね。
自分でパソコン用プリンタで写真を印刷したことのある人なら、写真のトリミングやら、色調補正など、かなりの手間がかかると言うことがわかると思うのですが、街の写真店さんは、そういう作業をすべて、一枚一枚、目視でやっておられるわけです。
店頭DPE機を何台用意して、何人体制でやっているかはそれぞれでしょうけれど、とにかく、一日に数千枚の写真をプリントしないとペイしないわけですから、それを全部1枚1枚目視しながらプリントをされてるんですね。
まぁ大変な作業です。
写真は全部一枚ごとにレイアウトも違えば色調も違うし、内容もまちまちですけど、たとえばフラッシュのせいで赤目になっている写真があったら、その赤目処理なんかを、パパパっと手直ししてプリントしたりしてるわけです。そりゃもう職人技ですな。
そういう作業を朝から夜まで、ずっとやっている。なんというか頭の下がる思いでありますよ。
正直言って、あんまりそういう仕事ってしたくないなぁって思うんです。少なくとも僕は。一枚数十円程度なのに、そんなに手間をかけて、しかも何千枚も処理しないといけない。それはもうぞっとする作業です。
でもね。
ここが大事なところなのですが。
そんな大変な仕事を、どうして続けておられるんですか? と写真店の店主さんに話を聞くと、少なくとも、そういう人気店の店主さんはみな、「やっぱり写真が好きですから」と答えられるわけです。
で、その「写真が好き」という言葉の裏には、「写真というものは、本当に良いものなのだ」という熱い熱い想いがしっかりとあるんですね。
その写真の一枚一枚が、とても大事な人の写真だったりするわけですよ。
感動するのは、地域でずっと写真店を経営し続けていると、赤ちゃんの写真をプリントしてるうちに、その子が大きくなって小学生になって、修学旅行に出かけて、大学を卒業して、結婚をして、その子供までが生まれてと、ずっと写真でその生活をつぶさに見る、なんてことがあったりするわけです。親子二代を写真で見ていたりするんですね。
プリントが写真店さんに残っている訳ではないですけれど、それぞれの被写体となった人たちの人生とともに、その数十円の写真がアルバムなどになって、それぞれの家庭に残っていたりする。
そこがとても楽しくて、やりがいのある仕事なんだそうです。
まさに写真は、その人の心と人生を写している、不思議で素敵な存在なんですね。
で、その面白さ、不思議さに、誰もが魅入られてしまうし、写真店をやっている人も、写真を写す人も、そこが面白くて写すしプリントしてながめるわけです。
それが写真という存在の魅力の根源で、この魅力を大切にしている限り、「街の写真屋さん」という商売は必要だし、残っていくんだろうなぁと、僕はしみじみと思っているのです。
ということで、「写真は、その人の心と人生を写している、不思議で素敵な存在なんだ」という話は、また続きを書きます。
書き出すと長くなっていかんですな。
うむ。
街なかの写真屋さんというのは大変な歴史を持っているという話。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200906141004075873/
の続き。
前のメッセージで書きましたが、街なかの写真屋さんというのは、店頭DPE機時代にすごく儲かったわけです。
今の「液晶画面で写ったかどうかを確認する作業」を全部有料でやっていたのだから儲からないわけがないんですね。
しかも、
●現像料
と、
●同時プリント料
という二重請求が当たり前だったわけです。
現像代\1,200+プリント1枚30円とか普通でした。これで24枚撮りのフィルムを同時プリントで頼むとプリント代が720円で、あわせて2000円近くになったわけです。
で、あんまり儲かるので過当競争になって、安売り合戦が激化したわけですが、その時に、現像代は基本料金として値下げせずに、プリント代金の方を下げるというやり方が流行ったんですね。
●プリント代0円!
なんていうのが出てきたわけです。これが今に至る「業界の遺恨」なのですね。
まぁ、当時はプリント代競争でも良かったのですが、これがデジカメ時代に入ると、デジカメには「現像代」というものが存在しなくなっちゃったわけです。稼ぎの基本部分がなくなってしまった。なので、時代の変化で、いきなりものすごく稼ぐのがしんどい業種に変わってしまったわけです。
世間の皆さんは「プリント代なんて安いもの」という意識だけがありますから、とにかくプリント代で比較するような風潮だけが残ってしまってるわけですね。「オタクの店はプリント代いくら?」と質問されるに違いないと、業界全体が考えてたし、そういう考え方をベースにするしかなくなっちゃったわけです。
なので、デジカメ時代に入ってもプリント単価の競争という構図は残りまして、現在で言うと、写真店の店頭即日プリント代が1枚30円~40円、ドラッグストア経由で1~2日待ってのプリントが1枚20円程度(受け取りに行くので郵送費不要)、インターネットで写真データをアップロードして、郵送でプリントを送ってもらうサービスが10円~20円程度(郵送費別)という事になります。
(どのお店も、たいていはボリュームディスカウント=大量発注割引の仕組みはあると思いますので、一概には言えないんですけども。)
写真のプリントが1枚20円だと、どういう事になるかと言うと、一日に500枚プリントして、やっと1万円の売上、5000枚プリントして、やっと10万円の売上、ということになるわけです。1人のお客さんで十枚~数十枚プリントが普通なので、一日に数万円の売上は上げられますが、原価や場所代などの必要経費を差し引いていくと、それほど大きく儲かる商売ではないというのは、すぐにわかると思います。
昔のように「確認のためだけにプリントする」なんて事はありませんし、写真の多くは「ディスプレイ」で見て終わり、というものになってしまってプリントされることが減ってしまったわけです。
プリントするにしても、パソコン用のプリンタがあるから、それでプリントしたりします。
(ちなみに、パソコン用のプリンタで写真印刷をすると、用紙やインクの値段を合わせると、1枚40円前後になります。プリントの失敗やら、プリント前の赤目処理等、手間まで考えれば、写真屋さんでプリントする方がお得です。念のため。)
なので、写真屋さんにプリントを頼む必要自体が、かなり減ってきているわけで、そういう意味では写真店さんは、店舗面積を縮小したり、人手を減らしたり、いろいろ工夫しながら、運営していかなきゃならないんですが、人気のあるお店であればあるほど、プリントする機械に人間が張り付いていなきゃならないんですね。
自分でパソコン用プリンタで写真を印刷したことのある人なら、写真のトリミングやら、色調補正など、かなりの手間がかかると言うことがわかると思うのですが、街の写真店さんは、そういう作業をすべて、一枚一枚、目視でやっておられるわけです。
店頭DPE機を何台用意して、何人体制でやっているかはそれぞれでしょうけれど、とにかく、一日に数千枚の写真をプリントしないとペイしないわけですから、それを全部1枚1枚目視しながらプリントをされてるんですね。
まぁ大変な作業です。
写真は全部一枚ごとにレイアウトも違えば色調も違うし、内容もまちまちですけど、たとえばフラッシュのせいで赤目になっている写真があったら、その赤目処理なんかを、パパパっと手直ししてプリントしたりしてるわけです。そりゃもう職人技ですな。
そういう作業を朝から夜まで、ずっとやっている。なんというか頭の下がる思いでありますよ。
正直言って、あんまりそういう仕事ってしたくないなぁって思うんです。少なくとも僕は。一枚数十円程度なのに、そんなに手間をかけて、しかも何千枚も処理しないといけない。それはもうぞっとする作業です。
でもね。
ここが大事なところなのですが。
そんな大変な仕事を、どうして続けておられるんですか? と写真店の店主さんに話を聞くと、少なくとも、そういう人気店の店主さんはみな、「やっぱり写真が好きですから」と答えられるわけです。
で、その「写真が好き」という言葉の裏には、「写真というものは、本当に良いものなのだ」という熱い熱い想いがしっかりとあるんですね。
その写真の一枚一枚が、とても大事な人の写真だったりするわけですよ。
感動するのは、地域でずっと写真店を経営し続けていると、赤ちゃんの写真をプリントしてるうちに、その子が大きくなって小学生になって、修学旅行に出かけて、大学を卒業して、結婚をして、その子供までが生まれてと、ずっと写真でその生活をつぶさに見る、なんてことがあったりするわけです。親子二代を写真で見ていたりするんですね。
プリントが写真店さんに残っている訳ではないですけれど、それぞれの被写体となった人たちの人生とともに、その数十円の写真がアルバムなどになって、それぞれの家庭に残っていたりする。
そこがとても楽しくて、やりがいのある仕事なんだそうです。
まさに写真は、その人の心と人生を写している、不思議で素敵な存在なんですね。
で、その面白さ、不思議さに、誰もが魅入られてしまうし、写真店をやっている人も、写真を写す人も、そこが面白くて写すしプリントしてながめるわけです。
それが写真という存在の魅力の根源で、この魅力を大切にしている限り、「街の写真屋さん」という商売は必要だし、残っていくんだろうなぁと、僕はしみじみと思っているのです。
ということで、「写真は、その人の心と人生を写している、不思議で素敵な存在なんだ」という話は、また続きを書きます。
書き出すと長くなっていかんですな。
うむ。