瞑想って現実直視なんやそうです。へぇ~知らんかった。
2012年3月23日ここしばらく、瞑想の事をよく書いてるんですが、最近知って「へぇ~そうだったのか!」と驚いたのが、
●瞑想は現実逃避ではなく、現実直視である。
という話。
「え? そうなん?」と、最初は理解できませんでした。
瞑想というと、座禅とか組んで、目をつぶって、寝てるようなもんやから、てっきり「癒し系」で、「やすらぎを求める」ことで、だから「現実逃避なんやろ」と思ってたわけです。
でも、そうではないんですってね。
瞑想をすると、いろいろな雑念が出てくる。その雑念を払うという過程が、まさに自分の心の中の雑然とした状態をしっかりと認識する作業であって、とてもしっかりした現実直視なんだそうです。
ただ、「直視」と言っても、「一つの問題だけを、いつまでも見続ける」というような歪んだ態度ではなくて、「自分の心の中をざーーーーーっと見渡す」というような、客観的視野に立った現実直視なんだそうです。
まぁ、僕の理解で言うなら、グーグルマップで、少し縮尺を変更して、その時その時で必要な「全体像」を得る作業、ということなんとちゃうか? と考えております。
心の病気を持っていたり、やたらと神経症的に不安になってしまう人は、この「縮尺の変更」がでけへんわけです。
ひとつの問題にフォーカスをずーーーーーっとあてて、ずーーーーーっと当てたまま、ずーーーーーっとそのままにしてると。
だから、どんな小さな問題も、カメラが寄りすぎてるから、ものすごく大きな大問題に見えてしまうわけです。
アホですがな、それ。
ちょっとカメラを引いたら、よろしねん。
それだけの事ですがな。
と、僕なんかは思うけど、縮尺を変更する方法がわかってへん人は、もう、ずーーーーーーーっとアップのまま。問題をドアップで、ドデカク映し出すだけになってしまうんですな。
大事なことは全体を見渡すような、広角レンズの縮尺を、頭の中にしっかりと持つことなわけです。
これができるかどうか。
そこが大切なわけです。
瞑想をやって、雑念を全部、川に流すというイメージを、延々心の中に描いていると(最低15分です。それ以上やっても良いそうです。)、ひとつひとつの問題にフォーカスするのではなくて、「あの問題もあるな」「あ、この問題もあるな。」「あ、こっちにもあるわ。」となってきて、どんどん頭の中の視野が広角よりになっていくわけです。
ズームレンズでのドアップを、広角側に倒し、うんと広い視点にチェンジし、あわよくば魚眼レンズくらいまで全体を見渡せるようにする。
そういう現実の見方をするのが瞑想なんだそうで、それは決して現実逃避ではなくて「広い視野で見る現実直視」なんだそうです。
あー、なるほどねぇ。
広角レンズで見ても、それは現実直視には違いないわなぁ。
確かにそうや。
なるほど、なるほど。
と、実によく納得できたのであります。
逆に、やらない方がいい「現実逃避」が、実は映画を見るとかドラマを見る、あるいはゲームをするなどの娯楽に走る事なんだそうです。
これは単純に言ってしまうと、ズームレンズをドアップ方向に倒したまま、カメラを覗かずに目をそらす行為で、ドラマを見た後に、もう一度現実を見ようとすると、いきなり「問題」だけが視野に入ってきて、しかも、超巨大問題として、自分の目の前にそびえ立つ、ということになってしまうわけです。
ドラマやゲームで、そういう「視野」を忘れているわけですから、よけいにビックリしますわな。「なんや、この大問題は!」と、改めてパニックがひどくなるということになるわけです。
あー、つるかめつるかめ。
おそろしい事でございます。
実際には大きな問題も小さな問題もいろいろあって、その大きさも広角レンズで見れば、けっこう小さくも見えるわけです。
ところが、ドラマやゲーム漬けになって、この「視野の切替」機能がさびつくと、自分の目の前にある出来事が、ぜーーーーーーーんぶ「大問題」に見えるような設定になったまま固定してしまって、広角レンズで見ることができるんだ、ということ自体を思い出せなくなるわけですね。
頭の中の切替スイッチが錆びついてしまうわけです。
この構造は、心の病の、かなりの種類に対して共通することのようです。
不安神経症だの、不眠症だの、統合失調症だの、うつ病だの、なんだかんだありますけど、どれもこれも、これと似たような「とらわれ」のもとに病状が進む、ということになっているようです。
どこかで広角レンズ側にスイッチを切り替える、という事を、自分の頭の中でやってあげないと、頭がドアップ専用のマクロレンズになってしまいかねない、ということなんですね。
●心の病を持つものは、テレビを消して、瞑想をしよう。
これが鉄則であるように、僕は思います。
瞑想、あるいは日記でも良いのかも知れませんが、そういう「自分を振り返る作業」こそが、心を強くするんだなぁと、しみじみと思っておるのであります。
はい。
●瞑想は現実逃避ではなく、現実直視である。
という話。
「え? そうなん?」と、最初は理解できませんでした。
瞑想というと、座禅とか組んで、目をつぶって、寝てるようなもんやから、てっきり「癒し系」で、「やすらぎを求める」ことで、だから「現実逃避なんやろ」と思ってたわけです。
でも、そうではないんですってね。
瞑想をすると、いろいろな雑念が出てくる。その雑念を払うという過程が、まさに自分の心の中の雑然とした状態をしっかりと認識する作業であって、とてもしっかりした現実直視なんだそうです。
ただ、「直視」と言っても、「一つの問題だけを、いつまでも見続ける」というような歪んだ態度ではなくて、「自分の心の中をざーーーーーっと見渡す」というような、客観的視野に立った現実直視なんだそうです。
まぁ、僕の理解で言うなら、グーグルマップで、少し縮尺を変更して、その時その時で必要な「全体像」を得る作業、ということなんとちゃうか? と考えております。
心の病気を持っていたり、やたらと神経症的に不安になってしまう人は、この「縮尺の変更」がでけへんわけです。
ひとつの問題にフォーカスをずーーーーーっとあてて、ずーーーーーっと当てたまま、ずーーーーーっとそのままにしてると。
だから、どんな小さな問題も、カメラが寄りすぎてるから、ものすごく大きな大問題に見えてしまうわけです。
アホですがな、それ。
ちょっとカメラを引いたら、よろしねん。
それだけの事ですがな。
と、僕なんかは思うけど、縮尺を変更する方法がわかってへん人は、もう、ずーーーーーーーっとアップのまま。問題をドアップで、ドデカク映し出すだけになってしまうんですな。
大事なことは全体を見渡すような、広角レンズの縮尺を、頭の中にしっかりと持つことなわけです。
これができるかどうか。
そこが大切なわけです。
瞑想をやって、雑念を全部、川に流すというイメージを、延々心の中に描いていると(最低15分です。それ以上やっても良いそうです。)、ひとつひとつの問題にフォーカスするのではなくて、「あの問題もあるな」「あ、この問題もあるな。」「あ、こっちにもあるわ。」となってきて、どんどん頭の中の視野が広角よりになっていくわけです。
ズームレンズでのドアップを、広角側に倒し、うんと広い視点にチェンジし、あわよくば魚眼レンズくらいまで全体を見渡せるようにする。
そういう現実の見方をするのが瞑想なんだそうで、それは決して現実逃避ではなくて「広い視野で見る現実直視」なんだそうです。
あー、なるほどねぇ。
広角レンズで見ても、それは現実直視には違いないわなぁ。
確かにそうや。
なるほど、なるほど。
と、実によく納得できたのであります。
逆に、やらない方がいい「現実逃避」が、実は映画を見るとかドラマを見る、あるいはゲームをするなどの娯楽に走る事なんだそうです。
これは単純に言ってしまうと、ズームレンズをドアップ方向に倒したまま、カメラを覗かずに目をそらす行為で、ドラマを見た後に、もう一度現実を見ようとすると、いきなり「問題」だけが視野に入ってきて、しかも、超巨大問題として、自分の目の前にそびえ立つ、ということになってしまうわけです。
ドラマやゲームで、そういう「視野」を忘れているわけですから、よけいにビックリしますわな。「なんや、この大問題は!」と、改めてパニックがひどくなるということになるわけです。
あー、つるかめつるかめ。
おそろしい事でございます。
実際には大きな問題も小さな問題もいろいろあって、その大きさも広角レンズで見れば、けっこう小さくも見えるわけです。
ところが、ドラマやゲーム漬けになって、この「視野の切替」機能がさびつくと、自分の目の前にある出来事が、ぜーーーーーーーんぶ「大問題」に見えるような設定になったまま固定してしまって、広角レンズで見ることができるんだ、ということ自体を思い出せなくなるわけですね。
頭の中の切替スイッチが錆びついてしまうわけです。
この構造は、心の病の、かなりの種類に対して共通することのようです。
不安神経症だの、不眠症だの、統合失調症だの、うつ病だの、なんだかんだありますけど、どれもこれも、これと似たような「とらわれ」のもとに病状が進む、ということになっているようです。
どこかで広角レンズ側にスイッチを切り替える、という事を、自分の頭の中でやってあげないと、頭がドアップ専用のマクロレンズになってしまいかねない、ということなんですね。
●心の病を持つものは、テレビを消して、瞑想をしよう。
これが鉄則であるように、僕は思います。
瞑想、あるいは日記でも良いのかも知れませんが、そういう「自分を振り返る作業」こそが、心を強くするんだなぁと、しみじみと思っておるのであります。
はい。
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