「友達の友達」が死にました。
それほど面識があったわけでもないのですが、僕の友達と、その「友達の友達」が仲良かったのはよく知っていたので、通夜には出席することにしました。

僕とほぼ同い年なので50代頭。死ぬにはまだ早い。
もともと酒好きで、それが高じて肝硬変になり、「もう二度と酒の飲めない体」になってた人だったんです。

一二度しか会ったことはなかったけど、体が大きくて、明るくて楽しい人でした。その僕の友人を通じて、また会いたいなと思っていた矢先で、なんとも言えない。

僕の友人と、その「友達の友達」はついこの間の土曜日にも会っていたらしく、僕の友人は「友達の友達」が死んだことが、まだ受け入れられない感じだそうです。

この僕の友人の状況が、いま、あまり良くなかったのでそれが気になって通夜に出たというのはあるのです。派遣SEとして派遣会社の正規社員として仕事をしていたけど、不況で派遣会社をクビになり、仕事にあぶれているところで、お父さんの認知症も始まりつつある、という感じ。そこに友人の死が重なったということで、これはあまりに心労が大きいだろうと思うのであります。

「友達の友達」は、連れ子のある奥様と20年ほど前に結婚して、その子供達を愛情いっぱいに育て上げた人。人間的に僕は大変尊敬してたんですが、でも、やっぱりしんどかったんやろなぁという気がして仕方ない。

結局、僕の友達と、「友達の友達」は、二人して飲んで、それが仇となって帰らぬ人になったらしく。でも、多分、「もう、ええわ。俺の人生こんなもんで。」と思いはったんやろうと思う。酒が本当に好きだったみたいだし、禁酒して生きながらえても、何の楽しみがあるんや、というところだったのではないかと思う。

10年少し前にも、同世代の知り合いが死んだ事がありました。

そっちは「食い過ぎ」。
頭が良くて、繊細で、でも男気があって若い人の面倒をよく見る人でした。独身なのにみんなの親方的な人まとめの太っ腹さがあるような人だった。
「これ以上食べたら、死ぬよ。」と、この人も医者に大食を止められていたのにやめられず、亡くなってしまった。

酒と食い物で、知り合いを二人亡くしてる、ということになります。

なんかね、ちょっと空しいのです。
自分の過剰な欲求を、うまくコントロールできなくて死んでしまった二人が。

まだまだ、もっと長生きしたら、どんな可能性が残っていたのかわからなかったのに、と思う。でも、「まぁええわ、俺の人生こんなもんで。」と思ったんやろうし、「好きな酒」「好きな食い物」で死んだら本望や、とか思ってたんだと思う。(というか食い過ぎの人ははっきりそう言ってました。)

いやー、それはもったいないよ。もったいなさすぎるよ。って思う。

たとえば、渡辺謙を見て欲しい。渡辺謙は私と同学年。渡辺謙の「謙」は「上杉謙信」の謙から取っており、「独眼竜政宗」で人気が出た後、角川映画で上杉謙信を扱った映画「天と地と」の主役オファーを受けたとき大喜びだったと思うのです。

でも、このとき渡辺謙は急性骨髄性白血病を発症し、映画を降板して治療に専念したんですね。
「天と地と」の監督でもあり、プロデューサーでもあった角川春樹は、渡辺謙に「無理してでも主演して日本のジェームスディーンにならないか?」と無茶な発言をしたらしいのですが、でも、それを泣く泣く断り、生き残る事を選んだからこそ、ラストサムライ以降の国際俳優渡辺謙があるのですからね。
命を大事にして良かったと、本当に思う。

そんな事もあるから、街の中で太っている人を見ると「やせろ! 死ぬぞ!」と、いつも思ってしまう。
死んでまで食いたいものなんてないやろ。
死んでまで酔っていて、幸せなんか?

そういう風に思ってしまう。

その人の人生は、その人のものではあるけど、自分が知っている自分なんて、自分が生きてきた過去の自分だけ。未来の自分の可能性までは、知りようがないのです。

自分にどんな可能性があるのかなんて、実際に生きてみなけりゃ、わかるはずもない。人間は神様じゃないんだから、明日の事なんて分からない。
だからやっぱり、生きよう!と思って生きないとダメなんだと思う。
明日の可能性に賭けて、いつも前向きな方を見ていないといけないと思うのです。

「天と地と」の話があった1990年には、あの松田優作が「ブラックレイン」に出て、国際俳優の仲間入りするかと思ったら死んでしまったというニュースもあったのです。まさに無理して日本のジェームスディーンになってしまった。松田優作は大好きだけど、でも生きていればいま、どんな俳優になっていたのか残念で仕方ない。

渡辺謙は、いまでこそ大人気ですけど、闘病生活の間は仕事も制限しながらしかできず、いつもそこそこの人気しか得られない俳優さんだったわけです。その期間もかなり長い。それでも生きていればこそだった。生きていればこそ、「ラストサムライ」もあったし「インセプション」もあったのです。

病気とは、真正面に向き合って、治してやるぞ! と格闘した方がうんと良いと僕は思うのです。必ず道はあるはずなのです。

だから、こういう早死にした人の事を思うと、寂しくて空しくて、情けない気持ちになります。
なんとか酒を止められなかったのかなぁ。
なんとか大食を止められなかったのかなぁ、と思う。

もし「友達の友達」が「友達の友達」という少し遠い関係ではなく、もっと親しい人間だったら、思い切り叱りつけていたと思うのですよ。
ガンガンに怒った。

アホかお前は! 死んで何の得がある! バカモン! 生きろ! 生きる可能性を追求しろ! 死んだように生きても意味あるかぁ!ドアホ!

と言いたい。
どうしても僕はそう言ってしまう。
叱りつけずにはいられないのです。

ま、性分でしょうが。

実際、この通夜の席で、お経を上げていた坊主が、読経の後、したり顔でわかったような説教をこんこんとやってたのですが、そこでもすごく腹がたった。
本当に日本の仏教は腐ってますわな。話してる内容に意味がないことはなはだしかったんですよ。みんなねむい顔して聞きもせずに「やりすごし」ていた。まるで役人の挨拶やなぁ。これは。そういう死んだように生きてる役人的な説教とかが僕は大嫌いなんです。

僕の「友達の友達」は、多分おそらく不況で仕事がなく、そういう意味で自暴自棄になったわけです。
そういう人間の葬式で、なんで「宗教法人税」が免除されてる特権階級の坊主風情に、説教されなアカンねん? と、思ってしまう。

税金払うのが辛いくらいに追いつめられて、それで「もうええか、命にかかわるけど飲もう」とか、ヤケになった人間の通夜なんやぞ? 税金払ってないお前らが、堂々と顔向けできるんか? できるわけないやろが、と思う。

おまえら、そういうところが、人間として最低だという自覚はないのか? ああ、ないんやなぁ、これが。 
で、こんなクソ人間を許していてええんか! と思うけど、みんなそれが当たり前やと思ってるんやなぁ。ああやれやれ。これが日本の仏教の現実。友達の友達も浮かばれんわ。

(この後、日本の仏教のクソ加減を延々書いたのですが、本論と関係ないのでものすごーーーーく自重して割愛。日本仏教は本当にクソです。)

一つ前のアーティクルでも書きましたが、不況で不安になった人間には、座禅やら瞑想やらの基礎的な心の修行がものすごく役に立つのです。

せめてなぁ、そうい座禅講座を無償で年に5000回やるとかやってみろよと坊主に対しては要望する。
せめて、そういう活動があれば「友達の友達」は死なずに済んだ。そういう予防対策もまともにやらずに、「お通夜といいますのは、夜を通してお灯明を」とか、通夜会場で、わけのわからん自分勝手な屁理屈をとうとうと述べられると、正直、あまりに腹が立って「ええかげんにせいドアホ!偉そうに説教たれたかったら、その前にお前が税金払え!」と立ち上がって大声を張り上げてしまいそうで、我慢するのに苦労するのであります。

「分家は自分で墓を建てないとアカンのですよ」みたいなあからさまな販売促進の屁理屈ばかり世間に流してる日本の仏門のレベルの低さを嘆きつつ、それでもやっぱり瞑想は効果があるよ、座禅をするのも意味があるよと、この「友達の友達」みたいにヤケになってしまう人を、まずはなんとか、考えすぎてしまってる「思考の中断」を勧めたくなる私なのではあります。

そこに確実に救いはあるんですからな。瞑想。座禅。内観。こういう役立つ実用的ノウハウを、エセ宗教家でしかない仏門の徒から解放して、普通に日常でどんどん活用すべきです。あいつらにこれを広めようという真剣さはないですから。自分の身や心は、自分で救うのだ。はい。

コメント

kaichu
2012年3月9日0:36

しげさん お久しぶりです。

飲むことが止められない、食べることが止められないのは、過剰な欲求ではなくそういう行為で自分の感情(辛さ、怒り、悲しみetc)を押さえているからで、実際あの人達は「食べたい」「飲みたい」と思うより、「食べなければ」「飲まなければ」破綻してしまうと認識しているから、異常なほどに食べたり飲んだりして体を壊してしまうんですよね。

依存症は病気ですが、発症している人間は自分で出来る以上のことをしようとして、自分の感情や体自身の欲求を押し殺しています。それをするために依存する行為が必要なのです。

日記に書かれている方はお二人とも強度の共依存症者ではないかなと思いました。人に頼られ、好かれる事にすべてを注ぎ,そのために自分の感情を殺すために依存行動に走る。

アルコール依存症も多くが強度の共依存症者であることが発端だったりします。

シゲ
2012年3月9日17:39

>kaichuさん

書き込みありがとうさんです。
そうですね。「やめようと思ってるのにやめられない」というのは、ある種の「心の病気」ですよね。
「病気なんだ」という自覚があれば、「治せるし、治る」とわかるから、「治そう」とするのですが、ところがこれを「私の個性だ」と思うから、治せなくなって、「××で死ねたら本望だ」とかになっちゃうわけです。

だから、こういう「特別にこだわりたくなる感覚」というものが自分に生まれていたら、とりあえず、それが本当に自分の「本心」であるのかどうか?ということを自分に問いかけないとアカンのでしょうね。

とはいうものの、です。

最近はもう、この手の依存症がどうとかいうような話には、あまり興味がなくなってきました。
なぜかというと、「原因」がわかったところで、問題が解決するわけではないからなんですね。


最近はひたすら、


●どうすれば問題が解決するのか?


と言うことに意識が向きます。
とにかく「なぜだめなのか?」を考える事こそが良くない事なのであって、考えなければならないことは「どうすれば、うまく行くのか?」なんですよ。
だから、その、

●どうすればうまく行くのか?

こそが重要で、それをよくよく考えていくと、ここに紹介しましたけど、


●瞑想をする


というのが、かなり効果が高いと思うのですよ。
それも、単なる依存症だけでなく、統合失調気味の人間のような脳の機能不全が少しあるような人にも効果があるのではないか? と、僕は想像をしてます。(別に立証されたというわけではないですが、心の病全般に効果があるように、僕は感じます。)

結局、このアーティクルで僕が「日本の仏教」を悪く言うのも、ようはそういう具体的な「どうすれば良くなるのか?」という具体策を、日本仏教は提供してないよなぁという実感があるからなんですね。
葬式の時のお布施はどうするべきなのかとか、お墓は分家は自分で建てるとか、そういう、どーーーーーーーーーーでもいい「一般ルール」みたいな事はいくつもいくつもいくつもいくつも、それこそバカみたいに(というかバカなんですけど)たくさんこねくりまわしてますけど、貧困者に炊きだしをして救うという行動にも出なけりゃ、座禅や瞑想を一般生活にとけ込ませる努力をするでもない、単なる「偉そうにしてるバカ」だけが雁首並べてるだけでねぇ。

欧米の宗教者は、炊きだしとかどんどんするし、懺悔室とかで悩んでる人の話も聞くもんなぁって思うわけです。

そういう点からみて、日本人は「心の病」の「救いよう」がないわけですよ、もともと。

だからこそ、具体的に「どうすれば救われるのか?」ということを、お題目ではなくて、誰にでも、カンタンに実践できる、わかりやすい「方法」として提供しなくちゃアカンよねって思うわけです。

人の心も救えない宗教者なんて死んでしまえ。
とくに日本仏教のダメさ加減は、ほんとうにどうしようもない。

日本仏教がダメだから、日本にはこんなにも「依存症」やら何やら、心を病んでしまった人がヤマのように、あふれかえるほどに存在してるんだと思う。

誰も救ってもらえてないわけですよ、悪化する前に。


だから、自分は自分で救いましょう。


だから座禅や瞑想を生活に取り入れましょう。

ということを、僕は言いたいのであります。


日本仏教者のレベルが超低い、という点が、日本人の内的幸福感を絶望的にダメにしてるんですわ。
そういうことです。

これはキッパリと言い切ってしまいます。

ということで。

kaichu
2012年3月16日5:19

某精神科医の人が言ってたのですが、(書いてたんだけど)依存症は個性だと思っていい、と。直す気のない人達は、それでいいんだなって思うようになりました。

私もいろいろなものに依存してますし。ああ、依存してたんだな~とは思います。
瞑想はいいですよね。瞑想っていってもいろいろあるので、いろいろな瞑想を楽しんでいます。

シゲ
2012年3月16日9:56

>kaichu
書き込みありがとう。
そうですね。当人に治す気がないならしょうがないですよね。いくら直せば快適で幸せな人生が待っているんだと、こっちが分かっていても、それを分かりたくない、という人がいてるんだからしょうがないです。

それに「個性」というのは、人間関係そのものが色濃く反映されますからね。その意味では依存もまた個性の一部ではあると思います。それを意識的にコントロールして選び取るか、無意識に流されて、そのままにしてるかの違い程度ではありますからね。まぁ、できるだけ意識的にコントロールしてる方が、人生の舵取りはラクになるんですけど。そこはまた「より良く生きるには」という、別の話ですしね。

それと、最近では「直す気がない」のではなく「治せない人」というのもいてるんだと分かってきました。たとえば統合失調気味の人とか。そういう人は、もともと「論理的に考える」と言うこと自体が、かなり苦手なんですよね。自分の理屈自体が世間に通用しないのだということ自体が分かってないわけです。
そういう人にどうのこうの言ってもしょうがないですもんね。

で、僕が瞑想とか座禅とかを「良いな」と思うのは、そういう統合失調気味の人でも、とにかく瞑想をしてると、狂った理屈とかが少しずつまともな方に修正されていくことなんですね。性格が穏やかになると言うか。ここがけっこう重要だと思います。

あと、パンツのゴムを抜いて、リラックスして寝ること。これもかなり効果あると思います。パンツのゴムって寝ている間の何時間も自分の肉体と脳みそを緊張させっぱなしにするんですよね。これが脳に良いわけがない。熟睡できないわけだから。本当は素っ裸で寝るのがベストなんでしょう。きっと。

瞑想・座禅と裸で寝る。

これはほんと、いくら体質的におかしな人でも効果がある、というくらいに効果的だと思いますよ。多分。うむ。

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