とーとつに思うのですが、よくわからないことに囲まれていると、とても不快です。

なので、「いったい、何故、このような事になるのだろうか?」と疑問が湧いてきまして、自分なりにいろいろ調べます。

調べてみても、右と左で意見の違う事とか、正反対の事を言ってる人がいたりします。

まぁ、そこであきらめるのも手なのでしょうけど、ちょっと頑張って、これまたちょっと腰を据えて本を読んだり、いろいろな人に話を聞いたりして、ていねいに「異なる意見」のすり合わせをするようにすると、ある時、

「ああ! そうだったのか!」

ととても納得のいく答えが見つかったりします。

「なるほど!」

と合点がいくというか。

そこまで行くと、なかなかに快適なんですね。気持ちがいい。

だから「知ることは、快適なことだ。」という気持ちというか経験則が僕にはあるわけです。

で、この過程を総称して、僕は「勉強」と呼んでる訳です。

●疑問→●答えA→●答えAの反論としての答えB→●両者統合の答えC

という感じでしょうか。
当然、世の中には、Aの答えで満足している人もいてるし、僕もいろいろ調べる過程ではAの段階であったりBの段階で止まっていたり、いろいろするわけですが、それはそれとして、「統合回答としてのC」というのもあるのだ、ということは、経験則としてある程度は日々期待してるわけです。

当然、AとBの二つの側面からつねに討論しているだけで、まったくCの答えのない事柄というのもありますが、いまの世の中、物事を真剣に考えている人はかなり数多くいて、なおかつインターネットなども発達しているので、意外にCにたどり着く率が高い事柄も多いわけです。

なので、僕はおおむね「勉強は快」なのですよね。
いずれ「なるほど!」にたどり着く。
そういう期待がつねにある。

なので、いろいろ調べてみたりもするし、読書もコツコツ続けるようになるし、「確かめてみよう」とか「現場の人に聞いてみよう」とか思う事も多いわけです。

それはとどのつまりは、

「なるほど! と思える快感」に支えられているわけです。

こんなもの、快感でなかったら、続けられませんよね。

でも、世の中には勉強しない人、というのがいます。全然勉強しない人。それは多分、この「なるほど!」に到達した回数が少ない人なんだろうな、と思うのです。

で、そういう人が勉強するには、たとえば読書の習慣を持つとか、ある程度の「積み重ね」の時間がどうしても必要なんですね。
少なくとも、「前からよく分からなくて、気持ち悪いよな」と思っていたことが、自分の知らない角度から見たら「あああ、そういう事だったのか!」と一気に理解できて視野がグンと広がるとか、そういう体験をしないと「続ける事の意義」が分からないので、続けられないわけです。

で。

そういう「なるほど!」という体験をしてない人にも、僕はついつい「勉強しなさい」と言ってしまうのですが、どうにも、そういう人は「勉強しなさい」と言われると「苦役」と感じてしまうようなのですね。

そりゃもちろん、上記における、AからBを知った地点あたりは、本当に「よくわからない」状態になるわけですよ。
何も考えていない状態なら、すっきりしてるわけです。矛盾はない。

それから、「誰かに与えられる答え」であるAを得たときも、「そういうものなのか」という安心感はあるから、まぁすっきりしてる。

でも、AもBも知った後だと、何かとイライラするし、「よくわからない」という答えを言うしかない状態にはなってしまうんですよね。
でも、その「よくわからない」という状態を耐えて、コツコツ勉強していくスタンスを続けていくと、やっぱり「あ、そうだったのか!」と快感が得られるところまで到達できる可能性は、実はかなり高いんですよね。

とりあえず、そこまでは至って欲しいなぁとつくづく思うのであります。

そういう快感というのは、ちょっと分厚めの書籍をじっくり読むとか、あるいは専門分野に詳しい人に1時間くらいじっくりお話を聞くとかの「腰を据える態度」がないと、なかなか得られないものなんですけど、「よーわからんなぁ、わからんというのは気持ち悪いなぁ」という思いさえ、キチンと抱え込む事が出来れば、まぁなんとかたどりつける所だと思うのです。

逆によろしくないのは、AとBの両方があることを知って「どっちもどっちだ」などと勝手に判断して、学習を止めてしまうことなんですね。
そういう事をすると、永遠に「統合された答えC」にはたどりつけなくなってしまう。

この「AもBもどっちもどっちだ」という考え方の事を、「価値相対主義」と言いまして、物事をキチンと考える習慣のある人たちからは忌むべき考え方として、戒められております。

「価値相対主義」などと、固い言葉で書くからかっこいいことのように見えますけど、「よおーわからんから、考えるのをやめますわ主義」と書き直せば、いかにダメな考え方かがわかります。

楽器を演奏する人ならわかりますけど、練習しなけりゃ、まともに曲なんか弾けないですからね。「練習さぼりたい」しか言わない人がうまくなるわけないのであって、そういう人とバンドを組みたいとは思わないですわね。

人生というのは、誰と過ごすにしても、バンドのように協力体制を整えながら進んでいくものなのですから、最低限、自分のパートの「練習」くらいは、日々やっておかないと「協力する」という、人間としてとても有用な手段をひとつ失うことになるんですね。はっきり言って、いろんな事の練習をしてない人とは、何を楽しむこともできないのです。

それは、定年退職したおじさん達を見ていれば分かることです。

「定年になったら、あれをする、これをする。」と言っていても、退職前からちょっと趣味にも手を出して、基礎的な「練習」をしていないと、退職後に長時間「練習する」根気自体が続かなかったりするのです。

定年後も楽しく暮らしている人はとどのつまり、定年前からちゃんと自分の趣味をもって、細々とでも「練習」している人です。
定年後に「悠々自適」をやっている人は、その「練習」を、うんと前から始めているのですね。

だからこそ。

僕は、身の回りの人間に「勉強しなさい」と言います。
そんなもの、一朝一夕に身に付くものではないのです。

まず自分の生活を振り返って、「なんだかよくわからなくて不安だな」というような事とか、「知識がないからよく分からないや。」というようなテーマについて、まず無理せず「××入門」というようなところからはじめて、それから少しずつ、そのジャンルの特定分野の解説書などを読んで、自分でもいろいろ試してみて、それから名著と呼ばれるようなものにチャレンジする、とかするのが、手間なようですけれども、いちばんの近道なのです。

そして、勉強する、ということは、自分の無知を解消する「快感」を求める事なのです。
楽しいことなのです。
気持ちいいことなのです。
ウキウキすることなのです。

ウキウキすることなのだから、僕は命令してでも「勉強しなさい」と言うのですが、これが基礎的な「積み重ねる慣習」のない人には、かなり強権的な命令に聞こえるのですよね。

身体が汚れていたら風呂に入れ!と言いたくなるし、腹を減らしていていらついていたら飯を食え!と命令したくなります。

それは、その人に「快適になって欲しいから」こそなんですが、このあたりが、「コツコツと積み重ねてAとBの矛盾に耐え、Cにまでたどり着いたことのない人」には、すごく権威的に聞こえるのですよね。

そういう人の多くが、それはもう、なんというか、


●自分の快感に鈍感


なんですよ。

●疑問を解消すれば快適になる

ということを、キチンとやっていないものだから、「ゆるいストレスをかかえて生きていくこと」が当たり前だと思っているわけです。


いやー、それは違うよ。
人生はもっと快適だよ。
ちゃんと努力すれば、少なくとも努力した分くらいは快適になるよ。
と、僕は思う。

そりゃまぁ、長くコツコツやって、どのくらい快適に慣れるかと言えば、ほんのわずかでしかないんですけどね。

でも、そういう「わずかな快適」すらなかったら、それこそ人生がたのしくなくなっちゃうよなぁ。

だから、コツコツ勉強しよう。

本を読もう。

自分の疑問に敏感になろう。

その疑問の解消に精一杯努力しよう。

別に急がなくてもいいのだ。

日々、コツコツ続けていれば、いずれAもBもを越えたCにはたどりつけるものなのだから。そのたどり着ける率は、それほど低くはないと、私は思うのでありますよ。

はい。

コメント

nophoto
Dmitry
2013年4月14日20:03

That’s way more clever than I was epxecting. Thanks!

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