なぜ人は砂漠で溺死するのか?
2010年10月1日コメント (14)
今日は、一昨日買って、昨日読み終えてしまった本のご紹介。
●なぜ人は砂漠で溺死するのか?
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4840134952
この本はタイトルも面白いですが、内容も実に面白いです。法医学者の方の実体験に基づいた、現代の日本人の「死」の実態が、「ええええ、そうなんや!」と驚くべき具体例とともに語られていて、実に興味深く読めました。
実は、この本を読みたいと思ったのは、この本の中に、
●風呂溺(ふろでき)
の話が書いてあったからなのです。
風呂溺って知ってますか。お風呂で溺死する人の事なんです。
実は中学からの友人のお父さんが、この「風呂溺」でなくなったんですよ。だからものすごく気になったわけです。そのお父さんは、多少腰痛はあったものの、至って元気だったので誰もそんな「風呂溺」になるなんて思ってなかったわけです。なんせ、ある機械部品メーカーの社長さんでしたからな。現役バリバリで会社を経営されてたんですから。
僕の友人は、自分の父親が少し腰痛があるということも知っていたから、風呂に手すりをつけてやったりしてたわけです。お父さんも喜んで、これでゆっくり風呂に入れると風呂に入れる事を楽しみにしていた。
そんなある日、食事の後、晩酌をして、いつものようにお父さんはお風呂に入ったわけですが、どうも入っている時間が長い。それにお母さんが気づいたわけです。で、どうしたのかしら?と声をかけてみるが、返事がない。おそるおそる風呂場を覗いてみると、湯船でお父さんはぐったりしていた、という話なんですね。
なんじゃ、そりゃ!
てなもんです。体のどこが悪いという事もなかったんですよ?僕の友人もかなり驚いたらしいんですが、僕だって驚きました。「え?あの元気なお父さんが?」って感じです。わけがわからない。
とは言え、こういう原因不明の死亡の場合、大阪だと行政解剖に回されるのです。事件性がないかどうか、ということで。で、その結果、事件性はなし。で、解剖所見による死因は「溺死」となっておるわけです。
ほんとうに、これが釈然としませんで、「どういうことなんや。」と、ずっと気がかりだったんです。
ところが!
この本を読むと、そのあたりの事情が、全部、いっぺんに分かってしまいました。
驚くなかれ、「風呂溺」というのは、いまや交通事故より多い死因のひとつになっているんですね。知らなかった。
人の死因としては、かなりポピュラーなものであるのに、病気でもなければ、事故でもない、「異常死」ということで、「わからないもの」となってしまって、キチンと存在が知られていないだけ、という、とんでもない死因になってしまってるわけです。
実際、その友人も「原因は不明で…」と言うしかなかったんですね。親戚にも、原因不明で風呂で溺死した、という言い方しかできなかった。会社で行われた「お別れの会」でも、おなじく原因不明で風呂で溺死した、という言い方になっていただろうと思われるのです。
しかし、原因は不明ですが、これだけ実例が多ければ、推定はできるわけで、それは、
●食後の飲酒状態で血管が拡張されたまま風呂に入り血流が不足して、脳が虚血状態になって意識を失い、意識のないまま浴槽に沈み込んで溺死した。
ということなんですね。
つまり、
●メシ食って、晩酌して、それから風呂に入ったら溺死するかも。
という、とんでもない「死の危険」が、日常生活の中に存在しているっちゅう話なんですよ。
日本人は風呂好きですからな。しかも、なぜか晩飯、晩酌の後に「ひとっ風呂浴びて寝るか。」というパターンが意外に多いわけです。
でも、その生活パターンこそが、死に直結しているという、とんでもない話なわけです。
これは、まだ大阪や東京のように行政解剖の仕組みのある都道府県なら、少なくとも解剖したお医者さんには「ああ、風呂溺だなぁ」とわかるわけですが、地方だと、実は解剖自体があまり行われないので、「単なる変死」で済まされちゃうわけです。「原因不明の事故死」という感覚の扱いですね。
実は、こういう「異常死」というのは比率としてかなり高くて、全死亡者のうち2割は「異常死」なんだそうです。(異常死には、自殺も含まれます。)
人間は、いったいどこでどんな風にして死ぬか、わかったものではない、という話が、この本のなかではえんえんと続きます。
自殺にしても、「これはいったいどうやって自殺したんだろう?果たして自殺なのか?」というような事案もかなりあるようなんですね。たとえば、二階のベランダから首つり自殺をしたけれど、途中でヒモが外れてどこかに飛んでいってしまったとか。
とにかく「死」というと病死や事故死しか思いつかないわけですが、本当にどこでどんな風に死ぬかわかったものではないんですね。
祭りに出かけたら、人混みがすごくて、そこで階段を踏み外して何十人が死んだとか。こういうのは、圧死とは言いますが、重さで押しつぶされて死ぬのではなくて、上からの重みに、肺を動かす横隔膜などの筋肉が負けてしまって肺を動かせず、呼吸できなくなって窒息するのだそうです。
なんちゅうかたまらん死に方ですが、それも、ちょっとした人混みでなら、いつ起きてもおかしくないわけですね。
------------------
この本の最後にも書かれてましたが、結局、日本人の文化というのは、「嫌なものを直視しない」という弱腰なところがありまして、そういう傾向の結果、死体解剖などの「人の死の原因を特定する」という仕組みが、ものすごく弱くなっているわけです。
でも実際には、病死か事故死かで、下りる保険金額も変わってきますし、本当はものすごく重要な事なんですね。
人の死もまた、人間の重要な権利なわけです。死の権利を正しく認識してないと、良く生きるということもできません。
でも、日本人は「人の死を明確化する」という現実直視が得意でないので、死体解剖の仕組みが東京23区と大阪、横浜など特定の地域でしか充実していないんです。
知ってる人は知ってますが、地方での死亡事故のうち、実は他殺だったというものも見過ごされている場合がけっこうあるのです。警察官がとおりいっぺんの判断で「ああ、これは事故だね」と済ませているような事案が少なからずある。
しかし、欧米では、人が死んだら必ず司法解剖なり行政解剖などが行われるという国も少なくないそうです。なぜなら、それが人間個人の基本的人権だからなんですね。
つまり、日本ではまだまだ、「基本的人権」すら守られていない、というのが実情なんです。これは文化的な習慣ですから、かなり意識して「人権を守るために行政解剖を義務づけよう」というような運動でも起こらない限り、変えていくことは出来ないことだと思います。
日本の文化は、実はかなり「基本的人権」を踏みにじっていて、人間が誕生するときから「母体保護法」などで幼い命が奪われることが合法化されてますし、
中国からやってきた儒教の影響で「年長者を敬うことが礼儀にかなった事だ」という発想が日本人にはあって(でも、それは中国からの直輸入なので、あくまで付け焼き刃でしかありませんけども。)、日本の仕組みや文化では、やたら「年寄り重視」になりすぎてるんですね。
年金の仕組みは重視して、長生きはいいことだ、という言い方はしますが、若い夫婦が子どもを産みやすい環境を作るというところには力を入れていない。また逆に母体保護法のように若い夫婦の矛盾を幼い子どもに押しつけるのを当然としている。本来、年若き人間が年長者を敬い、年長者が幼いものを慈しむという「長幼の序」の考え方が、片方だけの一方通行になっていて、まさに弱者虐待の思想・社会体制になってしまっています。
実は、いまの官僚制度にしても、ようは「年功序列」になっていて、国の体制自体が弱者虐待の仕組みなんですね。
若い役人で安月給で理想の社会システムを、あれこれ想を練っているような人はいてるにはいてると思うのですが、そういう人材は年功序列の仕組みの中で、まったく重用されない。
反小沢と親小沢、とか言ってますけど、そういう解りにくい言い方などをするより、
●年功序列主義の官僚組織対、実力主義の国民・政治家集団
というように色分けした方が、はるかに解りやすいんです。実力主義になれば、官僚の中の有能な人も表に出やすくなる。でも、いまは、それは決して許されていないってことですね。
死体解剖が義務づけられていない、ということと、母体保護法で堕胎が合法化されていると言うことは、
●文句すら言えない「最弱者」である、死者と乳児の権利をふみにじっている。
というだけの話なんですね。
そして、そういう「最弱者」を踏みにじっていたら、結局は、生きている自分たちの間の「格差」も埋まりはしない、ということなんです。
このあたり、実感をもって感じ取れる「例題の書」として、この本は面白かったですね。
あ、ちなみに、砂漠でなぜ人が溺れるのかは、書店で手にとってご確認くださいませ。
●なぜ人は砂漠で溺死するのか?
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4840134952
この本はタイトルも面白いですが、内容も実に面白いです。法医学者の方の実体験に基づいた、現代の日本人の「死」の実態が、「ええええ、そうなんや!」と驚くべき具体例とともに語られていて、実に興味深く読めました。
実は、この本を読みたいと思ったのは、この本の中に、
●風呂溺(ふろでき)
の話が書いてあったからなのです。
風呂溺って知ってますか。お風呂で溺死する人の事なんです。
実は中学からの友人のお父さんが、この「風呂溺」でなくなったんですよ。だからものすごく気になったわけです。そのお父さんは、多少腰痛はあったものの、至って元気だったので誰もそんな「風呂溺」になるなんて思ってなかったわけです。なんせ、ある機械部品メーカーの社長さんでしたからな。現役バリバリで会社を経営されてたんですから。
僕の友人は、自分の父親が少し腰痛があるということも知っていたから、風呂に手すりをつけてやったりしてたわけです。お父さんも喜んで、これでゆっくり風呂に入れると風呂に入れる事を楽しみにしていた。
そんなある日、食事の後、晩酌をして、いつものようにお父さんはお風呂に入ったわけですが、どうも入っている時間が長い。それにお母さんが気づいたわけです。で、どうしたのかしら?と声をかけてみるが、返事がない。おそるおそる風呂場を覗いてみると、湯船でお父さんはぐったりしていた、という話なんですね。
なんじゃ、そりゃ!
てなもんです。体のどこが悪いという事もなかったんですよ?僕の友人もかなり驚いたらしいんですが、僕だって驚きました。「え?あの元気なお父さんが?」って感じです。わけがわからない。
とは言え、こういう原因不明の死亡の場合、大阪だと行政解剖に回されるのです。事件性がないかどうか、ということで。で、その結果、事件性はなし。で、解剖所見による死因は「溺死」となっておるわけです。
ほんとうに、これが釈然としませんで、「どういうことなんや。」と、ずっと気がかりだったんです。
ところが!
この本を読むと、そのあたりの事情が、全部、いっぺんに分かってしまいました。
驚くなかれ、「風呂溺」というのは、いまや交通事故より多い死因のひとつになっているんですね。知らなかった。
人の死因としては、かなりポピュラーなものであるのに、病気でもなければ、事故でもない、「異常死」ということで、「わからないもの」となってしまって、キチンと存在が知られていないだけ、という、とんでもない死因になってしまってるわけです。
実際、その友人も「原因は不明で…」と言うしかなかったんですね。親戚にも、原因不明で風呂で溺死した、という言い方しかできなかった。会社で行われた「お別れの会」でも、おなじく原因不明で風呂で溺死した、という言い方になっていただろうと思われるのです。
しかし、原因は不明ですが、これだけ実例が多ければ、推定はできるわけで、それは、
●食後の飲酒状態で血管が拡張されたまま風呂に入り血流が不足して、脳が虚血状態になって意識を失い、意識のないまま浴槽に沈み込んで溺死した。
ということなんですね。
つまり、
●メシ食って、晩酌して、それから風呂に入ったら溺死するかも。
という、とんでもない「死の危険」が、日常生活の中に存在しているっちゅう話なんですよ。
日本人は風呂好きですからな。しかも、なぜか晩飯、晩酌の後に「ひとっ風呂浴びて寝るか。」というパターンが意外に多いわけです。
でも、その生活パターンこそが、死に直結しているという、とんでもない話なわけです。
これは、まだ大阪や東京のように行政解剖の仕組みのある都道府県なら、少なくとも解剖したお医者さんには「ああ、風呂溺だなぁ」とわかるわけですが、地方だと、実は解剖自体があまり行われないので、「単なる変死」で済まされちゃうわけです。「原因不明の事故死」という感覚の扱いですね。
実は、こういう「異常死」というのは比率としてかなり高くて、全死亡者のうち2割は「異常死」なんだそうです。(異常死には、自殺も含まれます。)
人間は、いったいどこでどんな風にして死ぬか、わかったものではない、という話が、この本のなかではえんえんと続きます。
自殺にしても、「これはいったいどうやって自殺したんだろう?果たして自殺なのか?」というような事案もかなりあるようなんですね。たとえば、二階のベランダから首つり自殺をしたけれど、途中でヒモが外れてどこかに飛んでいってしまったとか。
とにかく「死」というと病死や事故死しか思いつかないわけですが、本当にどこでどんな風に死ぬかわかったものではないんですね。
祭りに出かけたら、人混みがすごくて、そこで階段を踏み外して何十人が死んだとか。こういうのは、圧死とは言いますが、重さで押しつぶされて死ぬのではなくて、上からの重みに、肺を動かす横隔膜などの筋肉が負けてしまって肺を動かせず、呼吸できなくなって窒息するのだそうです。
なんちゅうかたまらん死に方ですが、それも、ちょっとした人混みでなら、いつ起きてもおかしくないわけですね。
------------------
この本の最後にも書かれてましたが、結局、日本人の文化というのは、「嫌なものを直視しない」という弱腰なところがありまして、そういう傾向の結果、死体解剖などの「人の死の原因を特定する」という仕組みが、ものすごく弱くなっているわけです。
でも実際には、病死か事故死かで、下りる保険金額も変わってきますし、本当はものすごく重要な事なんですね。
人の死もまた、人間の重要な権利なわけです。死の権利を正しく認識してないと、良く生きるということもできません。
でも、日本人は「人の死を明確化する」という現実直視が得意でないので、死体解剖の仕組みが東京23区と大阪、横浜など特定の地域でしか充実していないんです。
知ってる人は知ってますが、地方での死亡事故のうち、実は他殺だったというものも見過ごされている場合がけっこうあるのです。警察官がとおりいっぺんの判断で「ああ、これは事故だね」と済ませているような事案が少なからずある。
しかし、欧米では、人が死んだら必ず司法解剖なり行政解剖などが行われるという国も少なくないそうです。なぜなら、それが人間個人の基本的人権だからなんですね。
つまり、日本ではまだまだ、「基本的人権」すら守られていない、というのが実情なんです。これは文化的な習慣ですから、かなり意識して「人権を守るために行政解剖を義務づけよう」というような運動でも起こらない限り、変えていくことは出来ないことだと思います。
日本の文化は、実はかなり「基本的人権」を踏みにじっていて、人間が誕生するときから「母体保護法」などで幼い命が奪われることが合法化されてますし、
中国からやってきた儒教の影響で「年長者を敬うことが礼儀にかなった事だ」という発想が日本人にはあって(でも、それは中国からの直輸入なので、あくまで付け焼き刃でしかありませんけども。)、日本の仕組みや文化では、やたら「年寄り重視」になりすぎてるんですね。
年金の仕組みは重視して、長生きはいいことだ、という言い方はしますが、若い夫婦が子どもを産みやすい環境を作るというところには力を入れていない。また逆に母体保護法のように若い夫婦の矛盾を幼い子どもに押しつけるのを当然としている。本来、年若き人間が年長者を敬い、年長者が幼いものを慈しむという「長幼の序」の考え方が、片方だけの一方通行になっていて、まさに弱者虐待の思想・社会体制になってしまっています。
実は、いまの官僚制度にしても、ようは「年功序列」になっていて、国の体制自体が弱者虐待の仕組みなんですね。
若い役人で安月給で理想の社会システムを、あれこれ想を練っているような人はいてるにはいてると思うのですが、そういう人材は年功序列の仕組みの中で、まったく重用されない。
反小沢と親小沢、とか言ってますけど、そういう解りにくい言い方などをするより、
●年功序列主義の官僚組織対、実力主義の国民・政治家集団
というように色分けした方が、はるかに解りやすいんです。実力主義になれば、官僚の中の有能な人も表に出やすくなる。でも、いまは、それは決して許されていないってことですね。
死体解剖が義務づけられていない、ということと、母体保護法で堕胎が合法化されていると言うことは、
●文句すら言えない「最弱者」である、死者と乳児の権利をふみにじっている。
というだけの話なんですね。
そして、そういう「最弱者」を踏みにじっていたら、結局は、生きている自分たちの間の「格差」も埋まりはしない、ということなんです。
このあたり、実感をもって感じ取れる「例題の書」として、この本は面白かったですね。
あ、ちなみに、砂漠でなぜ人が溺れるのかは、書店で手にとってご確認くださいませ。
コメント
それ、福祉のリフォームの資格試験に出ました。
それからね、 堕胎手術は、実は40代女性がとびぬけて多いのよ。わたし、それ知ってからショックで。
書き込みありがとう。
ほー、風呂溺の話がリフォームの資格試験に出ましたか。でも、脳虚血が原因であれば、手摺とかはあまり効果がないということになりますな。それより湯船の底に滑り止めを付ける方が効果は高い。
しかし、堕胎手術が、40代女性が飛抜けて多いというのは初耳です。原因は何やろ?想像するに、
●高齢なので出産が怖い。
●経済的に不安が大きい。
●高齢出産が恥ずかしい。
という3っつくらいなんでしょうかね?
しかし、40代女性の堕胎が多いということは、それだけ40代でも妊娠できる、ということだから、もっと女性の出産能力の可能性を押し広げる方向で論議が起きて欲しいですね。
だいたい高齢出産が怖い、ということより「30代後半から妊娠しにくくなる」という妊娠能力の低下、と言う問題があって、この妊娠能力の低下という問題を知らない人が多いのだから困ります。
40代でも妊娠できるということが、もっと一般化すれば、それは女性にとっても福音のはずなんですが。
しかし、
という言葉は、既婚女性の堕胎が多いということではないでしょうかね。
私も日本にいたとき、セミナーで学んだけれども、日本では尋常でないくらい既婚女性の堕胎手術が多いそうです。
理由はおそらく、男性が避妊をしないから。
女性も避妊をしない男性を受け入れてしまうから。
そしてできたら「おろせばいいじゃん」的な男性の考え方に沿わざるをえないからだと思います。
つまり経済的にサポートされていない。
相手である夫からもサポートされていないという現状。
私は日本のHIVの蔓延はここら辺(既婚男性→その妻へ)から来はじめるんじゃないかと懸念します。杞憂だといいですが。
かきこみありがとう。
そうですなー、僕も kaichuさんの書き込みを読んでて気づいたけど、「40代女性の堕胎が多い」ということは避妊をしていない、って事ですよね。
そこのところは、ちゃんと考えてませんでした。
でも、「理由はおそらく、男性が避妊をしないから。」というのはちょっと違うように思います。
どっちかというと、「どうせできないし」と思って避妊せずにセックスをして、思いもよらずに妊娠してしまって「でも、いまから育てるのなんて無理」と、夫婦ともに思って、それで堕胎に至るというのが大きいんじゃないですかね。ようは夫婦共同の罪って事です。
だからやっぱり、40代の堕胎は母体保護法という法律があるから多いのだ、というのが、もっとも現実的な答えなんじゃないですかね。母体保護法がなければ「どうせできはしないだろう」と思いつつ子供ができた時には、やっぱり産むでしょうから。法的に堕胎が認められてるから堕胎するんだと思います。
このことからわかるのは「40代女性は妊娠しにくい」と世間では言われてるけど、その実、医学が進み、食料環境が良くなった現代日本では40代でも世間で言われているよりは、かなり妊娠率は高い、ということなんでしょう。
なのに堕胎してしまうのは、たぶん40代女性となると、子供がいれば大学生とかになっていて、一番教育費がかかる時期だからだと思います。経済的理由が最も大きいのでしょうね。家のローンだって、たぶんまだ半分も終わってないとかだろうし。とてもじゃないけど、産めないと言うことだと思う。
そこに、高齢で産む恐怖と40代で産むなんて恥ずかしいという恥かきっ子の発想が加わるッテコと何じゃないですかね。
やっぱり、僕は母体保護はこういうところでは段階的に制限した方が良いように思いますねぇ。たとえば、家のローンのモラトリアム法がいまはありますけど、そういうものを40代妊娠とリンクさせるというのもやり方なんじゃないですかね。そういうやり方はあって良いと思う。
それで人口が増えれば、必然的に、ゆっくりとではあるけれども国の税収も増えるわけですよ。国民数が増えるわけだから。まぁ20年とか30年とかかかるけど。でも人間1人が支払う生涯税額はかなり大きいですよ。それを考えたら多少の優遇処置があってもおかしくはないはずなんです。
でも、いまの官僚は、自分の任期を無事やりすごせたらそれで良しであって、こういう20年30年スパンの政策は実施できる素地にないんでしょうな。やれやれ。
母体保護法は、僕は、けっこういろいろ変えるべき法律だと思うんですがねぇ。
うーむ。
高齢出産のリスクより、経済的な負担より、
望まない妊娠だから、産まない選択をするのが、一番の理由だということです。
事実、40代の出産は、実は、伸び続けてるんです。
32歳ごろから卵子に対しての妊娠率は確かに下がるけれど体は立派に女なんだよね。産もう、育てようと覚悟すれば産むことはできる。
でも、今の時代、40代は精神的にも体力的にも、先を見ながらの生き方を選ぶ時期だから、出産を望まない。
では、なぜ望まない妊娠をするか。
出産してもしなくてもリスクは女が負うから、男に危機意識はない。だから男性が避妊しない日本の文化が背景にあるそうです。
もちろん、女性が避妊を言い出しにくい文化も。
だから、男性に避妊を任せるのは間違いで、女は自分の体は自分で守らなければダメ。と産婦人科医がはっきり言ってました。望まない妊娠を女がしたって男は寿命縮まないから。女は縮むのにね。
そして、それが、既婚の中年期の女性にとびぬけて多い。
恐ろしい。
出産の経験もあって、妊娠の知識もある世代の女なのに。
コントロールもできなければ、育てる覚悟もできないなんて。
それだけじゃないよね。
パートナーに大切にされていない女たちが、多いんだよね。
子どもなんて、産めない。
産める女がそう選択するグラフだ、と、ぞっとしました。
どこまで、次世代への芽をへし折る国かと、悲しくなりました。
ほんまに?
>出産してもしなくてもリスクは女が負うから、
>男に危機意識はない。だから男性が避妊しない
>日本の文化が背景にあるそうです。
少なくとも僕には、にわかには信じ難いけどなぁ。
まずなにより、堕胎というのがとても怖いイメージがある。
そやから避妊をせずに堕胎させるというのは、
嫁さんを殴ってるのと一緒やろ、としか思えない。
それが日本の文化と言われると、かなり違和感かんじるなあ。
堕胎の実態は男には永遠に理解できんから、ほんまにかなり怖いイメージが強烈にあるけどなぁ。
僕だけ?
そんな事ないと思うんやが。
少なくとも、知り合いで三人目ができた男は、「ほんまは欲しくなかってんけど、嫁はんがでけへんと思うし、大丈夫やでって言われたからさー。」と、ほんまに嫌そうに言うてたんが、ものすごいリアルやったけどなァ。
だいたい、稼ぐのは男の役目になってるから、男が最後で「抜かずに出す」というのを考えなしにやるとは、僕には思えないんやけどねー。
そんなにエロきちがいばっかしなんやろか?
どうも、ようわからん。
僕は、その話は産婦人科による聞き取り調査だけの結果でしかなく、女性が生本能から妊娠を無意識的に望み、「40過ぎると妊娠率が下がる」という知識を、無知でアホな旦那に吹き込み、その結果妊娠した、というのが実態で、でも実際には育てる事ができず、産婦人科で原因を聞かれた時に、ついつい、旦那に罪をなすりつけてしまっただけ、という話やとしか思えませんな。
で、旦那もその報告は受けてるけども、結局、自分の稼ぎが悪いのが原因で堕胎してるんやし、男が悪いという事でも別にかめへんわ、っちゅうところに落ち着いたというだけと違うかね。
まず、恐らくはそういうことですよ。全然リアリティないもん、その「日本文化説」。
そういうことになってます論やとおもうで。
で、金があったら「産もう」という話になるような気がするけどねぇ。だって男の側のリスクはお金しかないもん。自分が痛い目をして産むわけではないから、男にとっての問題は、ほぼ経済的リスクだけやから。
そやから、男の側から見れば出産リスクは想像もつかないから、「産まない理由」としてはなかなか出てこないしねぇ。
ようは、男の意見は聞いてない調査結果でしょう、おそらく、と私は感じました。
ともあれ、日本は年金とか「自分の死」については金銭的保証をやいやい言うねんけど、夫婦ものが子供を産みたくなるような施策は全然手薄やっちゅうことだけははっきりしてますな。
手薄やとおもうわー。
そやから、「めんどくさいだけやし、やめとこ」ってなるんやとおもうわー。
わたし、4人も子ども産んで、しかも一人は40の子やろ。
マゾかよ!ってなるやんなぁ。(チガウで。)
>そやから避妊をせずに堕胎させるというのは、
嫁さんを殴ってるのと一緒やろ、としか思えない。
そういう素敵な感覚の人もたくさんいるけど、逆の人もいるかも。
それ以上に、コメントでいっぱい出てる「誤った知識」の人がほんとうに多いかも。
>「抜かずに出す」
これも、残念ながら間違い知識。
抜いて出すのは、避妊ではありません。日本人の間違い常識。(こないだ朝日新聞にもでかく載ってたよ。)
避妊の基本は、「(排卵日から3日過ぎてから月経初日までの)不妊期しかセックスしない。」だけです。
(精子は最長14日間体内で生きてるから月経中のセックスも妊娠する可能性はある。)
いつが排卵日やねんて、男にはわからへん事情やんか。これを女がちゃんと伝えて、夫婦でコントロールせなあかんよね。
コントロールして自分を守ろうね。大切な人を守ろうね。てことが、避妊なんやね。
「産まない」の前に、いたわりあいがないと避妊なんかでけへんねんなぁ、と思わん?
嫁はんをいたわられへんような男やから「堕胎は嫁はん殴るのといっしょや。コワ。」って気づけへんのと違うやろか。
いやー、これな、論理的には正しいけど、机上の論理にしか過ぎんよなーっていつも思うねん。現実的には成立せーへんで、これ。非現実的な、学者さんとかが考えた「ためにする議論」でしかないんと違うか? って思う。朝日新聞ってそういうのが好きやしなぁ。
だいたい、懐妊しやすい時期にこそ女性は性交したくなるのが生命としての正しい仕組みであるし、そういう時期には態度も柔らかくなるので、「見た目」に性的興奮を感じるオスは、その魅力に逆らえなくなるのが自然の原理ですよ。で、そういう時期は、もっとも「意識的コントロール」がしにくくなるように女性の体はできてるのです。だから、本質的にそれは無理っちゅう話です。
男も「ありゃ、なんや、こいつ、今日はえらい魅力的やな。」と、これまた無意識に興奮してしまう。そういう「無意識」はコントロールできませんて。コントロールでけへんからこそ「無意識」なんですから。
だから、あえて避妊の方法を考えるなら、女性よりは、まだ意識的な行動コントロールに長けている男の方が最終的な発射をコントロールする方が、まだ避妊できる可能性はわずかに高い。
それに避妊のために排卵日をちゃんと伝えて、と言っても、その排卵日も女性が明確に自覚できる事でもないですからな。まぁなんとなく排卵したかな?という感覚はあるらしいけど明確やないらしいし。
で、なにより、そうやって夫婦が仲良く話し合う、と言う行為は基本的に「懐妊度を高める行為」ですからな。オープンに自分たちの体の事を話し合えば話し合うほどにHがしたくなるのが当然なのですよ。そやから「避妊のために話し合う」はもともと、大きくは矛盾した行為なんです。そう言う意味では完璧な避妊の方法は離婚することでしょうな。
そやから、やっぱり、本当に大事なのは「避妊より懐妊」なんやと思う。懐妊するため、させるためにこそ、話し合うというスタンスやね。子供は2人欲しいとか、3人までとかを考えて、幸せな家庭生活をイメージして、その実現のために話をする。
で、それでも、思わずできてしまった子供は、社会の仕組みとして堕胎しなくても済むようにする。経済的に苦しくなるなら、それこそ、子供手当の額を子供の額に合わせて増やすとかね。あるいは養子縁組でいくらがんばっても子供ができない人の子供にできるようにするとか。そこが必要なんやと思う。そこがないのが大問題なんよなぁ。
そういう仕組みがあれば、人口が増えるんやから、生涯支払い税額も上がって、GDPも上がるのだ、というところに話を持っていかないといけませんわな。
そやからやっぱり「おろす」という日本独特の弱者にしわ寄せを回す考え方を改めないといかんよなぁ、というところにしか、僕の場合は行かないのですよ。
死者、胎児という「物言わぬ国民の声を聞け!」ですわ。そこを無視する日本の文化は、ちょと世界的には恥ずかしい事やねんから、考えを改めないとアカンよなぁっちゅうことです。はい。
どストライク!て、日、はっきりするんやでー。
で、実は排卵日は最も色気ないねん。おもろいやろ。めちゃめちゃホルモンバランス悪いねん。
じつにようできてます。ヒトという生物は。
イヌとかイノシシとかみたいにどがっと子を産む仕様にしはれへんかってんね。神さまは。
>そういう仕組みがあれば、人口が増えるんやから、生涯支払い税額も上がって、GDPも上がるのだ、というところに話を持っていかないといけませんわな。
ほんと。少子化やからっていうて、一人当たりの税額をあげようとばっかりしはるの、もう限界見えてるやんなぁ。
未来を大切にする仕組みが乏しいよ。ほんと。
そやからー、基礎体温毎日計ってる人が、どこにおりまんの、っちゅうことでんがな。コンドーさんをつけるのやったらまぁ10秒くらいで済むけど、体温計はどんなに高速でも1分計ですがな。一日の中で必ず1分を取る避妊法なんて机上の論理としか言えないですよ。役立たず。でも、アホな医者は平気でそういうことを言う。
コンドーさんも毎回必ずつけるためには、ストックを用意せなあかんのがしんどい。
結局、「避妊をする」という発想自体が、自然の摂理に反してるってことです。もともと自慰が戒められたのも、自然の摂理に反してるからってことですから。「抜かずに出す」というのは、神話の時代から神への反乱と規定されてたんですから。だから、それがもっともオーソドックスなんですよ。そういう基本の基本をキチンと考えない医者はアホやと思いますな。
人生を楽しむためには、男と女がべたべた仲良くしてる方がいいし、子どもができたら経済的に苦しいという話もあるけど、子どもがいるから頑張るという側面もあって、それは生んで育てた人が後から振り返って実感すること。子どもを作る時にはどっちに転ぶかなんかわからん。未来の事がわかるのは神様だけよ。なのに「子どもができたら経済的に苦しい」と決めつける判断が日本では当然視されてるわけです。反自然の考え方やと思う。
そやから、僕が思うのは、体温計とかコンドームとか、ピルとか、もともと自然にはない仕組みを使って人間の「生」をどうにかしようと考えること自体が、そもそもおこがましい事なんと違うんか?って事ですよ。
こういう当ったり前の、基礎の基礎は、日本以外の諸外国ではある程度、長年の英知として積み重ねられてると思うねんな。聖書とかで。
そやから、堕胎は神に対する冒涜として忌み嫌われているし、だからこそ養子縁組の仕組みも整っているし、いくら不況でも、そう簡単にGDPが下がったりしない。人口は増えて行ってる。
でも日本は人口構成比がおかしくなるような変な国になってるわけですよ。ほんまに大問題ですって。
このあたりの「懐妊法より避妊法が大事」とか「堕胎するのが前提」という日本文化に関してだけは、日本人はちょっと反省して、法の精神からやり直さんとアカンと思うのよ、僕は。
いや、ほんまに。
こういう話をすることはとても大切だと思いますわ。
>そやから避妊をせずに堕胎させるというのは、
嫁さんを殴ってるのと一緒やろ、としか思えない。
そういう素敵な感覚の人もたくさんいるけど、<激しく同意です。
っていってもね、私は日本人男性と恋愛経験がないので本当はわからないのですが・・・。
抜粋で参加してしまうと、避妊はおこがましいことではなく、相手への尊重だと思うのです。子供ほしいってお互いが思っているならいいけど、そうでないならちゃんとしなくては・・・。関係にひびが入ってしまうでしょう。
私はちょこっと結婚しただけなので、なかなかその辺のなんというのかしら、結婚をした男女の関係の、なんというか、難しさは実感としてはわからないですが、自分を大切にできない相手と結婚をすると、なし崩し的に自分も同様に大事にされない、というパターンはいやというほど見てきたし、味わったので、次回は気をつけます。
いや、私の場合は比較的いいほうだったんだよな(相手が少なくとも私の妊娠・非妊娠の意志は尊重してたので・・・)・・とはおもうけどね。
書き込みありがとう!
そうなのですよ、こういう事はものすごく大事だと思う。
kaichuさんは、アダルトチルドレンに関してよくご存じだから、そのあたりと混ぜて、話をしますが、とにかくACとACでない人の間には大きな溝があって、それをわかりやすくひと言で言うなら「恐がりかどうか」って事なんだと思うんですよ。
恋人と付き合うのが怖い。結婚が怖い。子供を作るのが怖い。全部恐怖なわけです。
で、でも、それを越えていかないと人生が進まないということは分かっているのでACはそれを乗り越えようとするんですが、いかんせん元々恐がりだから、恐怖のタネを、
●なかったことにする
ということをやってしまう。怖いと思ってるのに思わないようにするとか無理するわけですね。
無理矢理自分を騙してしまうわけです。自己欺瞞。これが延々続くから、子供にもそういう恐怖感がうつってしまうわけです。
自己欺瞞から逃れてるACでも、結局は
●怖いことが起こらないようにする。
という風についつい考えてしまうわけです。だから、結婚がなかなかできない、とかになる。あるいは子供を作らない、とかになる。
だから、ここで大事なのは、まず恐怖の受け入れなんですね。「怖いよー、怖いよー」と思いながら進む。結局はそれしかできないんだから。これは歯医者に通って歯を完治させるときに学びました。「嫌だー、嫌だー」と思いながら進む。それしかないわけです。
でも、ここが重要なんですけど、「怖い」だけだと、絶対に前には進めないわけです。だから、前に進むために目の前にぶら下げるニンジンが必要なんです。歯医者の場合は「もう歯が痛まない理想の状態」です。僕はいまは歯医者は定期検診だけになってるので、もう、まったく痛くないし、歯医者に通うことで虫歯にもならないから、こと歯に関しては理想の状態になっています。
実は、この「理想の状態」を明確にイメージして、それをニンジンにすることが、ありとあらゆる問題解決の、もっとも重要な作業なんだ、ということが最近わかってきたのです。
ACの問題解決に、AC同士が話をしあう会がありますが、あれは「自分がACなのだ」と自覚する段階までは有益だけど、その次がないので問題だなぁと思うわけです。
自分が持っている恐怖を受け入れるのと同時に「こうなったら最高だよなぁ」という理想の姿を明確にイメージすること。これが死ぬほど大事なんですね。歯医者の例で言うと、僕が通った歯医者では最初にコンサルがあって「歯医者を好きな人っていないんですよ。だから、歯医者に通うのは人生に今回一回だけにしましょう。」と言われたのが、かなり大きな救いになってたんです。「もう一生、嫌な歯医者に行かなくて済む。」と思ったら、その途中で歯医者に通うのは、苦ではなくなったんです。別に怖さがなくなったわけではなくて恐がりながらですけど、とにかく通って歯は完治した。
結婚や出産も同じだと思う。
(長くなったのでコメントを割ります。)
結婚や出産も同じだと思う。
人生のとても大きな環境の変化だから、怖いのは当然なんです。だから、怖がりながら進むべきなんです。でも、怖がりながら進むんだから、その怖さをおしてでも進む「幸せ」とは何か? そのニンジン、メリットが、自分ではっきりとつかまえられてないとダメなんですね。
ところがACは、そこいらの「幸せの実例」の手持ちが少ないものだから、それを見ないまま「××にならなければいい」という「不幸の実例を避ける」という、ものすごく危険は発想だけで結婚に踏み切ってしまったり、子供を作ったりするわけです。
そうじゃなくて、「結婚したら、こんなに楽しい」とか、「二人でいると、こんなに安心」とか、そういう「幸せになるメリット」を明確にすることが大事なんです。
子供を作る事にしても、「子供がいてたら、こんなに楽しい」という幸せの実例をこそ、たくさん見て、「そっちに行こう!」と思う事が一番大事なわけです。
この「幸せの実例」を収集しないから、不幸になるんですね。それは「不幸の実例」しか集めてないからなのです。知らない事は実現のしようがないし、「××にならないようにする」と考えていても、それは結局「不幸の収集」であることには変わりはないわけです。
だから、「避妊の意志」は尊重すると言うことは当然大事だし、それは「恐怖の受け入れ」の第一歩ではあると思いますが、それと平行して「幸せな家庭生活」についてもしっかりとイメージし、実例をたくさん収集して、「怖がりながら」でも「懐妊」して「産む」方向に舵を切れるようになれるのが、理想だと思います。
なので、
>そやから避妊をせずに堕胎させるというのは、
嫁さんを殴ってるのと一緒やろ、としか思えない。
というのを「素敵な感覚」と言ってくださるのはうれしいのですが、これは「恐怖している」というだけの事なんです。それを分かった上で、幸せなイメージを心に描いて、「でも、怖いけど進もうよ」にならないとアカン。それは、夫婦ともにそう思わないとダメだろうなぁと思うのであります。
ま、そんなことです。
「幸せな家庭生活」のイメージをつかむというのはとても大切ですよね。