昔の落語には、人をだますキツネ、というのが登場していました。
タヌキも人を騙していたし、キツネ憑きと言って、人がキツネにたぶらかされるという事まであったわけです。

で、そのクセ、「お稲荷さん」と言う、キツネを祀った神社などというものもあって、キツネをあがめる風潮もあったわけです。

良いのか悪いのか、どっちやねん! と突っ込みたくなりますが、これはまさに「どっちつかず」であることが大事、ということの証しなわけですね。

結局、その昔の日本では、科学的に論理的に考える事を、日常生活では良しとしなかったんだろうと思われるのですよ。なんでも、そこそこ曖昧にしておいて、明確さをなくして、生きやすい世の中にしておく。

そのためのショックアブソーバーや、クッションが「人を化かすキツネ」という存在であって、そういう存在がとても必要だったのでしょう。そうしないと、人の生活が回っていかなかった。

たとえば、祭りに必要なボタ餅がひとつなくなったとする。「いったい誰が盗ったんだ!」と理詰めでつきつめていけば、どうしても犯人をつかまえなくてはいけなくなりますが、「キツネが盗った」とか、それがうまく言えないなら「キツネに化かされた」と言っておけば、とりあえず、その場は丸くおさまった、ということなのでしょう。

人々の暮らしにうっそうとした森や、灯りのない真っ暗な闇夜のあった頃には、そういう「化かすキツネ」も、まさに生きてうごめいている存在として、人間生活の中にしっかりとポジションがあったのでしょう。

誰かのポケットマネーでなんとかごまかしの効く範囲の帳簿の帳尻あわせなら、キツネのせいにしておいたほうが、「全体」としてうまく行ってた、ということでしょう。
ぼた餅の数より、祭りを楽しく過ごせることの方が、それはやはり、はるかに重要な事だったのだろうと思います。

ところが、本来は異文化の価値観など、そう簡単に交換できるはずもないのに、「1ドルは360円」だとか「1ドルは今日は120円」というような、異文化の価値の違いを1円の違いまで数字化してしまうようなユダヤの文化が、この地球を席巻してしまって、ポケットマネーで養っていた「人を化かすキツネ」も、この国では住処をなくしてしまったようです。

住処をなくしてしまって、もう、どこにも「人を化かすキツネ」がいなくなってしまっているのに、いまだに、「キツネがボタ餅を持っていったんだ!」と言い張るような人がいるのを見ると、さすがに可哀想になりますが、さりとて、キツネを追いやった地球規模の計算機の文化にも、これはやっぱり疑問を持つしかないわけで。

なんとかうまく、現代版の「化かすキツネ」を復権させることはできないものかなぁと、最近では、そろそろ考え始めておるのです。

なんちゅうか、人を化かすキツネのお話しを書いてみたいよなぁって、最近は良く思うのであります。
うーん。
さて、どうしたものか。

コメント

yasai
2010年8月18日20:37

貧乏は嫌だ。お金持ちがイイ。と思ってアメリカを真似した来た。気がしますが foxyな女に騙されてた きがします。

シゲ
2010年8月19日13:43

>yasaiさん
書き込みありがとうございます。
「foxyな女」とはまた洒落た言い回しですね。まぁ対米追従は、女性ほど色っぽいものではないですけどね。
真似せざるを得ないところも多々あるのでしょうし、真似るべきところもたくさんあるのですが、真似なくて良いところに関しては、キッパリと真似ないでおくということも大事でしょう。

特に、自国特有の文化にまつわることや宗教観などは、日本独自のものがたくさんあるのですから、その違いをしっかり自覚して「これは日本固有の文化だ」と把握しておきたいと思います。

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