たまたま水木しげるの伝記的なマンガである
「のんのんばぁとオレ」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4062603330
を読む機会があって、つらつらと世界にはまって楽しんでたのですが、昔は人買いというのが普通にいて、子どもが人買いに売られたりしてたんだよなぁって改めて思った。
水木しげるが子どもの頃に体験したことがベースになってるわけだから、まぁかなり切実な話だったんやろなぁと。実際に見たことがないので良くわからんのやけど。
でも、考えてみたら、テレビ放送と同時に生まれたような年代の僕が子どもの頃ですら、祖父が「あんまり遅くまで遊んでたらコトリがくるぞ。」と言ってたわけだから、僕が生まれる前あたりまで、普通に人買いはいたんやなぁと改めて実感したわけです。
ここでいう「コトリ」というのは、もちろん「小鳥」ではなくて「子取り」または「子盗り」なわけですが、子どもの私は「なんで小鳥が来たら怖いんやろか?」というのがあって、やたらと印象に残ってた言葉なんですね。
女衒とか、子どもを売るとか、人身売買っていうのが昔は普通にあって、で、そのせいで友達を失って悲しい思いをした話っていうのが文学なんかでは普通にあって。
いや女郎屋に女の子が売られるなんてのは、あまりにポピュラーな話題だったわけでしょう。
それが悲しくて、イヤだったから、ミンシュシュギとか、キンダイカというような訳の分らん洋物の仕組みと契約して、「友達をなくしてしまうような悲しい事」のない社会を手に入れようと、我々日本人は思ったわけでしょう。
なのに、いつのまにか、「派遣切り」とか、普通になってしまって、コトリがくるぞとおどして子どもをしつけたり、あるいは「●●したら、××がくるぞ」と、子どもに生活習慣を身につけさせようと自衛していた「生活の知恵」まで失ってしまって、これなら妖怪やらキツネや狸に化かされてた世の中の方がよっぽどましやったやんか、てなところまでおかしくなってしまった。
なんで、そういう生活の知恵まで捨ててキンダイカと手を結んだのやら、ということですわなぁ。
結局、最近の、やたら低賃金で虐げられてる人たちが出てきている事に対する、我々日本人の実感としては、
「人買いがイヤだから近代化したのに派遣切りとはどういうことだ。」
という理不尽さが根っこにあるんやわなぁって思う。
理不尽でしょ、それは。
理屈はわからんけど、実感としてイヤやなぁ、ということだと思う。
大衆がイヤやなぁと思うことは、やっぱりかなり間違ってるって事ですわ。
これが万博より後に生まれたような世代だと、祖父母と暮らすことも少なくなって、コトリや妖怪を生活の知恵で警戒するアタマも持っていない子どもばっかりになって、ハケンギリという新種の妖怪にパクっと食われてしもうたという、そういう事なんやろなぁ。
そんなことを思いました。
とは言うものの、この間読んだ本では、「格差社会というのはウソだ。日本の格差はそれほどひどくはない。派遣が悲惨なのは、格差が悪いのではなく、経済成長率が下がって、民間所得総額が下がり、そのしわ寄せが派遣に押しつけられてるから問題なのだ」ということが書いてあって、ポンと膝を打ったのですよ。
結局、ショーヒゼーという鵜飼いの鵜につけられたヒモみたいなものを武器とする、「自分の食い扶持すら稼がず、まっとうに働く人に寄生するタイプ」のカンリョーという超大型妖怪が日本に跋扈したから、このおかしなキンダイカという西洋妖怪に我々はからめとられてしまったわけですわ。
友達をなくしたくない日本人は、やっぱり人買いやら女衒やらは、すごく嫌いで、だからキンダイカと手を結んで労働基本法をつくったし、なんだかんだ言っても「友愛」とか言う、ものすごくあやふやなキーワードの方がやっぱり好きで、だから鳩山くんを応援してるのに、なのにまだショーヒゼーという鵜飼いのヒモが不況の原因なのだと日本の代表が気付いていないとう、そういう構造だなぁと、思ってるのです。
民間所得総額を上げるためには、やっぱり正しい公共投資が必要やと思うなぁ。
で、そのためには、たとえば、高速道路の無料化は、いくら道路が混んでもかまわんから強行して、で、その代わりにパーキングエリアを山のように増設したり、駐車場を山盛り作ったり、高速道路の途中のパーキングエリアにクルマの預かり所を作って、ヘリポートで近くの駅まで送ってくれるサービス(クルマは代行運転で別便で空いてる時に届けてくれる)や、クルマ用リフトを作って下におろしたり上にあげたりして一般道につなぐような仕組みとかも作って、実質的に大量にクルマを流通させられる仕組みを導入すればいいのだ。
これらのサービスの料金は個別に取って、それに高い税金をかけて、道路整備の財源にしたらいいのだ。
ちゅうか、高速道路が不便になったら、そこにこそ「ニーズ」が生まれるんやから、すごいことですがな。市場ができるんやで?いくらでも稼げるやん。そうしたら成長率も上がるやん。
どっちかというと、そういう事が大事やと思うんやけど。
でも、みんな便利な方がええし、ちょっと高速料金払ってでも、空いてる道路を走りたいんやろなぁ。
なんかシリメツレツになってきたので、ここいらでやめます。
が。
鳩山くん、ショーヒゼーは据え置きとか言わずに撤廃するか、3%に戻そう。
それが外需ではなく、GDPの55%を占める膨大なる個人消費によってまかなわれている日本経済の内需を刺激して、経済発展にもっとも寄与する手法ですぜ。やっぱり。
GDPが増えたら、税収も増える。ショーヒゼーより、税収の自然増収の方がよろしい。
この「自然増収」を目指す事こそが、本来の官僚の役割やと、わかりきったことやのに、なんで誰もやらんし、言わないのか?本分をわきまえないもんは、いつのまにか人の道から外れてしまって人外のもの、妖怪になり果てていくのです。
いまや官僚は官僚ではなく「カンリョー」という超大型妖怪でしかない。
不況の時でも増収になってしまう「消費税のアップ」というカンリョーのエサにしかならんもんを増やそうと言う考えを、どうして誰もが正しいと考えるのか?
このあたりの目くらましを、ちょっとなんとかしたい。
そこいらあたりを、ほんまに真剣に討議すべきやと、私は思いますがねぇ。
「のんのんばぁとオレ」
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4062603330
を読む機会があって、つらつらと世界にはまって楽しんでたのですが、昔は人買いというのが普通にいて、子どもが人買いに売られたりしてたんだよなぁって改めて思った。
水木しげるが子どもの頃に体験したことがベースになってるわけだから、まぁかなり切実な話だったんやろなぁと。実際に見たことがないので良くわからんのやけど。
でも、考えてみたら、テレビ放送と同時に生まれたような年代の僕が子どもの頃ですら、祖父が「あんまり遅くまで遊んでたらコトリがくるぞ。」と言ってたわけだから、僕が生まれる前あたりまで、普通に人買いはいたんやなぁと改めて実感したわけです。
ここでいう「コトリ」というのは、もちろん「小鳥」ではなくて「子取り」または「子盗り」なわけですが、子どもの私は「なんで小鳥が来たら怖いんやろか?」というのがあって、やたらと印象に残ってた言葉なんですね。
女衒とか、子どもを売るとか、人身売買っていうのが昔は普通にあって、で、そのせいで友達を失って悲しい思いをした話っていうのが文学なんかでは普通にあって。
いや女郎屋に女の子が売られるなんてのは、あまりにポピュラーな話題だったわけでしょう。
それが悲しくて、イヤだったから、ミンシュシュギとか、キンダイカというような訳の分らん洋物の仕組みと契約して、「友達をなくしてしまうような悲しい事」のない社会を手に入れようと、我々日本人は思ったわけでしょう。
なのに、いつのまにか、「派遣切り」とか、普通になってしまって、コトリがくるぞとおどして子どもをしつけたり、あるいは「●●したら、××がくるぞ」と、子どもに生活習慣を身につけさせようと自衛していた「生活の知恵」まで失ってしまって、これなら妖怪やらキツネや狸に化かされてた世の中の方がよっぽどましやったやんか、てなところまでおかしくなってしまった。
なんで、そういう生活の知恵まで捨ててキンダイカと手を結んだのやら、ということですわなぁ。
結局、最近の、やたら低賃金で虐げられてる人たちが出てきている事に対する、我々日本人の実感としては、
「人買いがイヤだから近代化したのに派遣切りとはどういうことだ。」
という理不尽さが根っこにあるんやわなぁって思う。
理不尽でしょ、それは。
理屈はわからんけど、実感としてイヤやなぁ、ということだと思う。
大衆がイヤやなぁと思うことは、やっぱりかなり間違ってるって事ですわ。
これが万博より後に生まれたような世代だと、祖父母と暮らすことも少なくなって、コトリや妖怪を生活の知恵で警戒するアタマも持っていない子どもばっかりになって、ハケンギリという新種の妖怪にパクっと食われてしもうたという、そういう事なんやろなぁ。
そんなことを思いました。
とは言うものの、この間読んだ本では、「格差社会というのはウソだ。日本の格差はそれほどひどくはない。派遣が悲惨なのは、格差が悪いのではなく、経済成長率が下がって、民間所得総額が下がり、そのしわ寄せが派遣に押しつけられてるから問題なのだ」ということが書いてあって、ポンと膝を打ったのですよ。
結局、ショーヒゼーという鵜飼いの鵜につけられたヒモみたいなものを武器とする、「自分の食い扶持すら稼がず、まっとうに働く人に寄生するタイプ」のカンリョーという超大型妖怪が日本に跋扈したから、このおかしなキンダイカという西洋妖怪に我々はからめとられてしまったわけですわ。
友達をなくしたくない日本人は、やっぱり人買いやら女衒やらは、すごく嫌いで、だからキンダイカと手を結んで労働基本法をつくったし、なんだかんだ言っても「友愛」とか言う、ものすごくあやふやなキーワードの方がやっぱり好きで、だから鳩山くんを応援してるのに、なのにまだショーヒゼーという鵜飼いのヒモが不況の原因なのだと日本の代表が気付いていないとう、そういう構造だなぁと、思ってるのです。
民間所得総額を上げるためには、やっぱり正しい公共投資が必要やと思うなぁ。
で、そのためには、たとえば、高速道路の無料化は、いくら道路が混んでもかまわんから強行して、で、その代わりにパーキングエリアを山のように増設したり、駐車場を山盛り作ったり、高速道路の途中のパーキングエリアにクルマの預かり所を作って、ヘリポートで近くの駅まで送ってくれるサービス(クルマは代行運転で別便で空いてる時に届けてくれる)や、クルマ用リフトを作って下におろしたり上にあげたりして一般道につなぐような仕組みとかも作って、実質的に大量にクルマを流通させられる仕組みを導入すればいいのだ。
これらのサービスの料金は個別に取って、それに高い税金をかけて、道路整備の財源にしたらいいのだ。
ちゅうか、高速道路が不便になったら、そこにこそ「ニーズ」が生まれるんやから、すごいことですがな。市場ができるんやで?いくらでも稼げるやん。そうしたら成長率も上がるやん。
どっちかというと、そういう事が大事やと思うんやけど。
でも、みんな便利な方がええし、ちょっと高速料金払ってでも、空いてる道路を走りたいんやろなぁ。
なんかシリメツレツになってきたので、ここいらでやめます。
が。
鳩山くん、ショーヒゼーは据え置きとか言わずに撤廃するか、3%に戻そう。
それが外需ではなく、GDPの55%を占める膨大なる個人消費によってまかなわれている日本経済の内需を刺激して、経済発展にもっとも寄与する手法ですぜ。やっぱり。
GDPが増えたら、税収も増える。ショーヒゼーより、税収の自然増収の方がよろしい。
この「自然増収」を目指す事こそが、本来の官僚の役割やと、わかりきったことやのに、なんで誰もやらんし、言わないのか?本分をわきまえないもんは、いつのまにか人の道から外れてしまって人外のもの、妖怪になり果てていくのです。
いまや官僚は官僚ではなく「カンリョー」という超大型妖怪でしかない。
不況の時でも増収になってしまう「消費税のアップ」というカンリョーのエサにしかならんもんを増やそうと言う考えを、どうして誰もが正しいと考えるのか?
このあたりの目くらましを、ちょっとなんとかしたい。
そこいらあたりを、ほんまに真剣に討議すべきやと、私は思いますがねぇ。
コメント
>「人買いがイヤだから近代化したのに派遣切りとはどういうことだ。」
シゲ先生、その大前提が、ものすごく間違ってます☆(^^;)”
日本において、いわゆる「人買い」が無くなった(ように見える)のは、第二次世界大戦(または「大東亜」戦争)における大敗北のせいで、餓え飢えた戦災孤児と、どんなんでもいいから「仕事とカネをくれ!」と叫ぶ復員兵(=青壮年層男子の大量失業者)という余剰人材が市中に溢れかえったおかげで。罪を犯して、官憲や地元住民から追われる危険を冒してまで良家の子どもを略奪(拉致/誘拐)する必要なんか無くなったから。です。
上野の「浮浪児」や「ニコヨン」(日雇い労働者)などが自ら争って最底辺の3K(きつい、きたない、くらい)仕事に群がり、必死で仕事を確保してやっとの思いで糊口をしのいでいたような時代に、誰がわざわざ地方まで行って、誘拐したり金を出して買ったりして労働力を確保しますか?
性産業にだって、溢れかえるくらいの戦争未亡人や身寄りを失った女子学生が流れ込んで米兵向けの「パンパン」となり、争って客の袖をひき、「公序良俗が乱れる」からと警察が取り締まろうと思うとトラックが何台も必要だったような時代ですよ?
市場経済に於いて需給のバランスが完全に崩れてしまっている場合、「人(人材)を売る・買う」という商売、成り立ちませんよね?
で、その後、「もはや戦後ではない」と豪語し、「高度経済成長」時代に突入すると同時に……
「人買い業者」は、大都会における「大量生産・大量消費」のために新設された工場・商店・建設現場へと、「金の卵」と称して地方出身の中学校卒業者で、しかし高校以上に進学させるような経済的余裕の無い家の子女をまとめて「購入」して、紹介手数料を上乗せして「口入れ」する商売として、しっかり復活しています。
どのへんが唯一の「近代化」かと言えば、一応、中学を卒業している(最低限の識字教育は受けている)ことと、社会情勢が安定して郵便事情や交通網が復興したおかげで、「売られた(金のために手放した)けれども、行方と生死はわかっているし、音信不通でもない。仕事が順調で給料がちゃんともらえれば、盆暮れ正月には都会の土産をもって立派になった姿を見せに“里帰り”してくる。」という……
今の日本の「帰省ラッシュ」の原型と、高速道路の異常渋滞の最大原因を作り上げてしまった。……という辺りだけでしょうかね……?
ミンシュシュギとか「近代化」の世の中としての違いは、その「売られた先」で「労働条件闘争」をやってみたあたりから変わってくるわけで。
それ、民主主義というより「共産/社会主義」思想のほうに近寄っちゃいますし……。
とまれ、それによってようやく「人買い業」(口入れ屋)のぼろ儲け体制に対して、ある程度の制限がしかれ。「正社員」という雇用形態が整備されて、ミンシュシュギというよりは「資本主義」の枠内で、「労働者の権利」が確保・確立されてきたわけですが……。
それを再びとり崩し、なし崩しにしてしまったのが、「派遣法改悪」です。
官僚機構というより、財界と政治家(国会議員)が結託して、数が大けりゃ勝ち。という謝ったミンシュシュギ(?)をひるかざし、やらずぶったくりの儲け優先シホンシュギ的勝ち負け社会制度を一般庶民に強制してきた結果。ですね……。
シゲ先生はなんでも官僚機構のせいにしたがっておいでのようですが。
人買いと人材派遣切り捨て業の現状に関しては、官僚はせいぜい「鼻薬をかがされた」という程度の役回りで。
悪いのは、企業とか財界とか政治献金とかで買収されちゃうコッカイギインのほう……★
だと思います☆(^^;)☆
長々書き込みありがとうございます。
うーん、でもねぇ。なんでわざわざカタカナでミンシュシュギとかキンダイカとかいう書き方をしたかというと、ようは、「日本人がその本質を分っていなかった」という事が言いたかったわけです。
だからここで書いたことは、
●日本人の誤解の歴史
とか、
●どう誤解してきたのかの流れ
の話なわけですから、「誤解の仕方」としては正しいんですよ。わかります?言ってること。
たとえば、椅子があって、それはもともとは座るためのものだったのだけれど、子供用の椅子だったので、踏み台としてしか使わず、それで「椅子というのは上に乗るものである」と定義してしまった、というような話なんですよ。
我々日本人にとっては椅子ってのは上に乗るモノだったよね。
という話をえんえん書いてるわけです。ここでは。
なので、まぁ、そりゃ間違いと言われればその通りなんですけど、そこを指摘することに、あんまり意味はないんであって。
我々は、こういう誤解をしてきたよな。
ということが言いたいわけですから。
ようは、妖怪という人の道を外れた生き方の戒めの文化を手放してしまった間違いが、とどのつまりは派遣切りを許してしまう弱さにつながったんじゃないのか?っちゅう話ですから。
人の道を外れた人間は人外のものにお仕置きされるか、あるいは人外のものになってしまって誰も近づかないかだったわけです。それが道徳律と一緒になって「モノノケ」とか「妖怪」という文化で息づいていたわけでね。それは我々のネイティブな文化なんです。
で、民主主義にせよ資本主義にせよ社会主義にせよ、そういうネイティブな文化から切り離されたら、それは単なる上っ面の妖怪にしかならないんですよ。
各国の憲法というのは、それぞれの国の長い文化を背景に制定されているし、民法なんかも慣習がベースになってます。でも日本の場合は、そういうものを明治時代に「えいや!」といきなりまとめて輸入してしまったので、血肉になってないんですね。
だから、ついうっかり妖怪文化とかまで「古くさいモノ」として葬り去ってしまった。
そのせいで、昔の女衒や人買いと同じ仕組みである派遣法の改悪を、
●我々一般庶民が見過ごしてしまった。
という反省の一文なわけですよ。
ですから、官僚が悪いわけでも、政治家が悪いわけでもないんです。そういう善悪の判断をするための「生活の知恵」を忘れてしまった、我々の責任だよな、という自己反省の話なんです。
この話、長くなったのでコメントを割りますね。
カンリョウにせよ、セイジカにせよ、まぁ一種の妖怪みたいなもので、妖怪との対処の仕方というのも、これまたいろいろあるわけです。
でも、桐木りすさんみたいに、教科書的な「正しさ」で判断してると、まさに「カンリョウのせい」「セイジカのせい」というピントのぼけた話になってしまいますよって事なんです。
まず、自分たちのネイティブな感覚、妖怪を怖れ、あしらった大和民族的な生活実感を大事にせないかんよなっちゅうことです。
で、そういう生活実感をベースに考えると、消費税は絶対的に間違った税制なんですよ。
なんでかというと、自然増収をあてにしなくても官僚の給料がまかなえるということになるからです。
●自然増収をあてにしない官僚
なんて、かなりおかしいと思いませんか?
もともと、経済的に稼ぐことが出来ないのが役人の使命で、で、だから彼らの権限を高めるとか、税収=予算の拡大を確保するには、GDPの増大をめざして自然増収を最高の目標にしなければいけないに決まってるんですよ。
そうでなければ消費税を特定目的の税にするかのどっちかです。(しかも、その特定目的を国民が子どもでも普通に理由が言えるくらいにネイティブな感覚として知っていなければダメです。)
でも、消費税は、そういう事とは関係なく設定されてしまったわけで、存在そのものが間違いなんだと僕はずっと思っているのです。官僚と国民が一緒になって共通の目標を目指せるのは「国家の繁栄」だけでしょう。消費税は国家が繁栄していなくても、確実に税金が取れる仕組みなんです。(実際、この不況だと言うのに、消費税だけは増収だったんですよ。)
つまりは消費税というのは、「役人の本分を忘れさせる仕組み」の税なんです。だからダメだと僕は感じるんです。
この「感じる」というのは、筋が通らんよなぁという感覚で、それは「風呂桶をちゃんと掃除せんかったら、アカナメっちゅう妖怪が風呂桶を舐めに出てくるぞー。」という生活習慣の戒めと同レベルの感覚なわけです。
「役人っちゅうのは、国民を富ませて、その上前の一部をもらって生活するもんじゃろ。それが本分やろ。」
っちゅう感覚ですわ。
風呂桶をあらわんかったらアカナメが出てくるやろ、っちゅうのと似たことなわけです。
そのおかしな部分を指摘できないというのが問題でっせ、という話ですわ。
それは我々の責任であって官僚が悪いじゃないんです。
指摘できない方が悪いんです。
だから騙されるんだから。
そういう話です。
だから、正しい概念を学ぶことも、ものすごく大事なんですが、それと同時にネイティブな感覚も、決して捨て去ってはいかんのよな、っちゅうことが言いたかったわけです。
まぁちょっと舌足らずのところはありましたが、そういうことで、ご理解ください。
ではでは。
>人の道を外れた人間は人外のものにお仕置きされるか
あ、そっちが主題ですか? 失礼しました。(^^;)”
なにしろ元・派遣の人間としては、自分に関係のあるところをクローズアップして読んでしまったものですから……☆
>大和民族的な生活実感
ごめんなさい。私、精神的にはたぶん「アイヌ民族」に所属しているので、「妖怪=悪」という「単純図式化された文脈」だというところを、まず読み間違えたんです☆(^^;)
人間世界のカンリョウだのセイジカだのと同一視されたら、妖怪(=自然界の精霊=小さい神々/カムイたち)が怒りますよ?
てか、妖怪に失礼ですよ? (苦笑)
ごめんなさい。どうも金勘定のできない(?)アイヌの血筋が強いらしくて、どうも「経済官僚」とかいう「妖怪変化」な人種に関する話題は苦手で、基礎知識もほとんどありません。
「消費税は悪税である」というのは、生活者側の実感として、財布で理解してるんですけど……。
「税金の自然増収」て、あれですか。社会経済が安定していて、景気が良くて、いわゆるGDPグラフが「右肩上がり」であれば、税金(所得税とか)も連動というか正比例して自然に増えるから、
国庫を豊かにして予算を潤沢に使い(ついでに便乗して私腹を肥やし?)たかったら、「国の経済を安定・繁栄させるような政策を考えて実行し、社会全体が「右肩上がり」の状態を保つように努力する」のが官僚の仕事だ。ということですか?
まぁそもそも、役人とか税金とかアカナメとか妖怪とか、ヤマトミンゾクが日本列島(=旧・アイヌモシリ)に持ち込んだシロモノですからね。
貨幣経済のいらない、狩猟と採集のエコなスローライフに戻りたい……と、逃げてはだめでしょうか……??
o(^へ^;)o”””””””””””
(カネにもカンリョウも縁はないし持ちたくもないです☆)
>●我々一般庶民が見過ごしてしまった。
あ、それ私、(当事者だったので)ぜんぜん見過ごしてなかったですから☆
訳:「ひと(アイヌ・ネノアン・アイヌ)の道にもとるような行いをしたら、精霊(カムイ)に怒られるぞ」
という感覚を忘れるな。ということですね……? (苦笑)。
(「妖怪」という単語に対して持っている自然反応的なプリミティブな実感が違うのかも☆)
まったくの余談ですが。
① 悪いことをしたら、「その報いとして、もっと悪いものからもっと悪い/嫌なことをされるぞ。」という脅し宗教?的な民話が発生するのと、
②「もっと良いものから怒られますよ。だから常に誇りを持って、高いところから見られても恥ずかしくないようにふるまいなさい。」という、精神修養的な説話になる文化の違い……、
比較してみると、興味深そうですね。
そうですね、「妖怪」と書くと「悪い奴」ということにしかならないのかもしれませんね。
しかし、水木しげるさんの本を読むと、まさに「よくない生活習慣や道徳律を犯した時にやってくる怖い存在」であるとか、「山奥の夜道などを歩くときに感じる恐怖感との対処のしかた」とか、そういう人間の心にある怠け心や不安感などをこそ、しっかり見つめているのが「妖怪」というものであるようです。
だから、そういう内面的な道徳律を守らなかったり、強欲なことをしたりすると、結局は、回り回って痛い目に会うのだよ、という戒めが、この国には昔からあって、それは別に宗教心というような整理されたものとして存在するのではなくて、原始宗教的な素朴な形でいろいろ残ってたわけです。
しかし、そういうものも、仏教が伝来したり、キリスト教がやってきたりして、そっちの力が強くなっちゃったわけですね。もともと庶民の生活の知恵的なものでしかなかったから、妖怪の話なんていうのは、未整理で体系づけられていなくて、みんな見向きもしなかったわけで。
でも、では実際に日本人の生活実感にしっかり根付いている善悪とか好悪の感情に、無理なくフィットする話と言えば、お釈迦様のありがたいお話しとか、キリスト教の愛ある話よりも、妖怪の話だったりするわけです。
実際、ゲゲゲの鬼太郎のテレビアニメなんて、戦後、1960年代から10年ごとに必ず再アニメ化されて、いままで5回もシリーズとして放映されてるわけです。で、話の内容なんて、まぁそれほど違わないでしょう。多分テレビ用に勧善懲悪、妖怪が怪獣と同じような扱いになって鬼太郎がスーパーヒーローとしてやっつけるというようなウルトラマンやら仮面ライダーとおなじような扱いになってるとは思いますが、おそらく一話のストーリーの前半は昔ながらの妖怪話でしょうからね。やっぱりそれは日本人のネイティブなところに響くんだろうなと思うんですよ。
あまり熱心な水木ファンでもないし、アニメ版のゲゲゲの鬼太郎なんか見たこともないんですけど、ようは「人の道とはなんぞや?」という素朴な問いかけが根底にはあって、勤勉やら誠実やら献身やら、普通に誰もが美徳と思う事柄を「やっぱり大切だよね」と感じさせるような仕組みが「妖怪話」には色濃く残ってると思うんですよ。そういう美徳の復習をするための「お話し」として妖怪話があるような感じがします。
で、鬼太郎が5回も(それも、1年以上の長きに渡って放映が続く。ここが面白い。もっとも最近の放映は、今年の春までやっていた第5シリーズで全100話だそうです。もっとも短くても45話です。一年で約50週ですから一年以上続く人気です。)再制作されるのは、やっぱりそういう「復習」の機能があるからなんじゃないですかね。
そういうネイティブな「美徳」とか「道徳律」こそが、本来は国の法の基盤にならなければいけないんですよ。誰もが素直に「良いな」と思えるわけですから、安定度は抜群です。それこそが正しい「政治の安定化」なわけでして。
しかし、悲しい事に妖怪話は宗教ではありませんから、体系づけられていなくて、どうしても仏教やらキリスト教にはかなわないところが出てくる。なので、仕方なくミンシュシュギやらキンダイカやらの「よその国の理屈」に屈さざるを得ないというところがあるんですね。
そういうのは、どこまでいっても「よその国の理屈」なんです。
でも、大きくは地球という星に生まれているということでは、他の国の文化とも、うまく折り合いを付けていかなければいけないので、まぁなんとかよろしくやるしかない、ということなわけですよ。
そのあたり、実際には、副島隆彦さんも言っておられるけれど、世界に合わせるのが7、固有文化を守るのが3、くらいの7:3の構えくらいで見ておかないとダメだということでしょうね。
小泉政権時代は、それはもう9:1とか10:0とかになってたから、みんなが息苦しかったということなんじゃないかなぁと思います。
モノノケとか自然霊とか悪霊とか死霊とか、人間にとっては「不可解でオソロシイ存在」にまつわる民話(妖怪説話)は世界中に掃いて捨てるほど分布しているあるわけで、それらの貴重な「民俗文化」を収集して比較検討する学問分野だって立派に存在してますでしょ? 水木しげるの妖怪漫画だって、兵士として追いやられた南洋ニューギニアで見聞した、日本とは全く異なるはずの多岐多様な妖怪譚の蓄積がなければ、成立しなかったはずです。
西洋(または中近東)文明=近代化、という単純すぎる認識と。
逆に、西欧~中東地域の古代宗教時代の古層文明をも含めて、アフリカにもアジア全域にも南北アメリカ大陸にもオーストラリアやグリーンランドにも、普遍的に存在している「妖怪話」を、なぜ「日本固有の文化」だと思いこんでしまっていらっしゃるのか?
その2点で、なんだかすごく違和感を覚えてしまうのです。
日本って国を、特別視、しすぎてませんか?
欧米文明圏に属する諸国によって文化的かつ物量作戦的に「侵略」を受けたすべての国や地域において、普遍的に起こった現象……だと、思うのですが。シゲ先生のおっしゃりたいそれは。
でも、大きくは地球という星に生まれているということでは、他の国の文化とも、うまく折り合いを付けていかなければいけないので、まぁなんとかよろしくやるしかない、ということなわけですよ。
そのあたり、実際には、副島隆彦さんも言っておられるけれど、世界に合わせるのが7、固有文化を守るのが3、くらいの7:3の構えくらいで見ておかないとダメだということでしょうね。
私の母は、地域的には日本海(中北方)沿岸文化圏に属しているはずなのですが、数百年前の御先祖様が朝鮮系(秀吉の「朝鮮征伐」で無理矢理拉致られてきて強制労働させられた紙漉職人たち)……で。
子供が夜中になかなか寝付かずに怒られても遊び続けていると、「おもてでキツネが待ってます★」と、独特の抑揚をつけたせりふを何度も言って、子供を脅かして(恐ろしがらせて)さっさと眠らせようとしてました。(※自然界や自然霊の怖さを知らない近代っ子としては、「絵本に出てきたキツネさんがうちに来てくれるなら一緒に遊びたいなぁ♪」とか思ってしまって、かえって張り切って遊んでいたので、はっきり言って逆効果でしたが☆)
あと、「夜中に爪を切ると蛇が来る」とか。
具体的に実在する動物の名前をあげて、シゲ先生のいう「妖怪話」と同じ効果を期待している説話や俗説がバックボーンにあったようなのですが、これは日本列島由来ではなくて、朝鮮半島系の説話に多く見られるパターンであるようです……。(日本の民話のキツネやタヌキは、自然動物の化身というよりも、もはや別物の妖怪変化と化してますよね?)
まぁ、そんなわけで。
シゲ先生が、「それは忘れてはいけなかったものではないか」と示唆されているものは人間が生きていくためには確かに大事なことだろうとしみじみ思うのですが。
それ(妖怪話)は「日本」だけの特殊な物語ではないし。
かつ、現代日本国(日本列島)上に分布している民俗/民族文化だって、全然まったく「大和単一民族」文化圏ではなく、川一本渡れば異なる民話や異なる価値体系によって支配されていたりする。という点について、きちんと視野に入れておいて頂きたいのです……。
(^^;)なにせ「ファンタジー系」な文化文明論は私の専門分野なもんですから、うるさいこといってすいません☆
シゲ先生が「他の国の文化」と称しておられるのが、主に「近代アメリカの物質偏重拝金主義文化」とか書いてあったら、全然反論しないのですが……。
近現代アメリカにだって、アイルランドやケルト系文化の時代から何千年も脈々と伝わる、ものごとの善悪を子どもに伝えるために格好の教材として使われ、語り継がれてきた「妖怪話」は色々山ほどあるわけです。
(例として、「妖精の鋳掛け屋」とかなんて、私の大好きな、笑える説話です。)
ん~★
いわゆる「自分のことを日本人だという日本人」って、島国根性まるだしというか、不必要に西欧コンプレックスというか……
とりあえず、
①シゲ先生が「大和文化」と呼んでいらっしゃるのだけが日本列島上に存在している民俗/民族文化じゃない、ということと、
②「妖怪文化」は世界中普遍かつ不偏なものだ、
という点だけ、とにかく言いたいわけです。
(まとまらなくてすいません☆)
いやいや。
そりゃ、どこの土地でもその土地固有の伝説話はありますよ。
でもゴブリンや妖精は西洋の言い伝えで、アカナメやらヌリカベやらは日本固有ですって。当然ですやん。そういう意味で日本固有って事ですから。
仏教もキリスト教も、どこかで「布教」する者がいて、その折り合いの中で各地の宗教はできあがってきたわけで、たとえば仏教の場合だと、インド周辺の土地土地の固有の信仰の上に乗っかる形で広まりました。だから、仏教においては、いちおう体系としては、ゾウのかっこをしたような神様とかいろいろいてますけど、それらの「神」の上に仏陀(悟りを開いた者)が君臨していて、実はそういう土地土地の神様よりブッダの方がエライ、ということになっています。
たいてい「体系」を持った宗教というのは、権力者によって選定されて、その過程でこのように、個別の土地の神を配下に従えるというような形で力をつけていくわけですよ。
このあたりは実はキリスト教も同じで、単純に言ってしまえばイスラエルで生まれたキリストが、ヨーロッパに入って定着したという流れがあるので、土地の文化とどう融合してきたか?というのは長い歴史があります。
たとえば、同じキリスト教でも、カソリックはヨーロッパの地元の宗教の上に乗っかった宗教で、プロテスタントは、そういう地元感覚から離れてイスラムの地でギリシャ語だったかな?で書かれた、聖書の言葉そのものを信ずる本家帰りの宗教ということができます。
なので、カソリックは基本的にマリア信仰で、実はキリストを信じるというよりは、もうちょっとヨーロッパ周辺の地元文化と溶け合っているのではないかと思います。
日本の場合は、すべての文化が中国経由で流れてきているので、仏教も中国で変質した後のものが入ってきていて、本場のインドの「世俗を捨てて修行することが大切だ」というような要素がかなり欠け落ちています。それが神道と融合して、政治体制ともくっついて廃仏毀釈があったりいろいろあって、ぐしゃぐしゃのまま日本の仏教になってるわけですね。
だから、もともと宗教というのはその土地の文化と「体系を持った侵略してくる外来の宗教」とのせめぎあいがあるんですよ。それは世界中で同じです。大前提でしょう。
ただ、日本の場合は島国なので、そういう融合の歴史をキチンと正しく庶民が把握していないんですよ。だから、それこそアイルランドやケルト文化とかのように、「大宗教の流れに流されずに、私たちの文化はキチンと守っていこう。」というような自覚とか決意みたいなものが、いまいち少ないと思うわけです。
宗教がそういう具合に「体系」を持ったり、組織だったものになったり、他国に進出していったりするのは、これはまぁ大宗教の必然なので、仕方ないと思いますが、それは別に「近代アメリカの物質変調拝金主義」というのとは、また違うと思いますよ。当然、連動しているものではあるんですけどね。
で、そういう大宗教の側の問題はこの際どうでもよくて、我々がもっと、父や母、あるいは祖父から聞いたような昔話の「具体性」を、もっと大事にすべきだよなぁってことです。
アカナメの話にしても、これが海外に渡って「akaname」となったのでは、意味がさっぱり伝わらないでしょうし、日本人なら、「アカナメ=垢舐め」なのだとすぐにわかるわけです。そういう簡単さとかシンプルさとかが大事だよなぁって事です。
土地土地で固有の文化があるのは当たり前なのだから、そういう固有の文化の「わかりやすい基準」を、もっと大切にしたいものだなぁって事です。
それはつまりは、西洋の民話でも同じことですね。進出してきた大きな宗教の話は話として理解せにゃいかんわけですが、そこで自国の文化を捨てたらアカンわなぁ、っちゅう話です。はい。
だから、ゴブリンなのか、アカナメなのかの違いこそが大事なんと違うんか?っちゅうことですわ。ようするに。
でも、ごめんなさい。私、アカナメとかヌリカベって妖怪、日常生活の中で聞いたことないです☆ (『妖怪辞典』みたいな本でしか触れたことがない。)
「おキツネさま」とか「タヌキにばかされる」とか「神隠し」とか「ヘビが来る」とか、新モノ妖怪?で、実は私自身がモデルであるらしい都市伝説の「口裂け女」とか……は日常的に聞いたり脅されたりして育ったので。
もしかして、日本人の日常生活のなかで「妖怪話が廃れた」のではなくて、ただたんに、シゲ先生ご推奨の「アカナメ」君が、日本列島のなかでもマイナーな地方妖怪にすぎないので、知ってる人が少ない、みたいな話だったりしたりするのではないか?
という気も……(^^;)”
日本列島において「妖怪話」がもっとも盛んに語られ、かつ日常生活の中でも「実際に」妖怪にまつわる事件が頻繁に起こっていた(と人口に膾炙していた)舞台はといえば、「平安時代の京都」と「徳川時代の江戸」だろうと思うのですが。
どちらも、日常生活の中にどっぷりと「妖怪こわい」話がぬりたくられ、じーちゃんばーちゃんによって脅かされて厠に行かれなくなるような子供が続発していた時代だるにもかかわらず……
平安朝の京都と幕藩体制下の江戸って。
日本史の中でも間違いなく、二大「悪徳官僚体制」時代。ですよね……????
アカナメ君がちゃんといてはっても、それとは無関係・無頓着に、役人は悪徳化して妖怪化して、私腹を肥やしまくってるんじゃないですか……?
(それについての自己回答:
ようするに、アカナメ君ごとき弱小マイナーな地方妖怪が「出るぞ~」と脅されたところで、「そんな弱っちいやつより俺の方が強い!」と思っている「悪徳官僚妖怪」群に対しては、ちっとも「脅しの役を果たさない」のでした☆)
どっとはらい……☆ (^^;)”
アカナメを偏愛なんざしてませんよ。このマンガを読むまで、そんな存在知りもしませんでしたからね。
妖怪のようなものは、地域ごとで違って当然なんです。
名前も違うだろうし、全然別のルールがあるかも知れない。
(たとえば、「風呂桶はあんまり洗っちゃいけない」とかね。)
だから、それぞれの違いがあって当然で、そういう地域性を活かす感覚が大事という話ですよ。
アイヌ出身者ならアイヌの神話や言い伝えが大事でしょうから、そういうネイティブなものを大事に活かせばいい。
それを、「日本の妖怪も西洋の妖精も同じようなもの」とひっくくってしまってはいけませんよ、という事を言ってるのです。そこをひっくくってしまうところから話がおかしくなるわけです。ゴブリンはゴブリンなんです。それは、それを愛した人とか、関わった人のもので、それに関わった人が大切にすれば良いのです。で、それを大切にすることが大事なんです。捨ててしまっちゃいけないなぁってことですよ。
世界の動き、7割は大きな動きに従うべし、ではあるけれど、世界標準が必ず自分にしっくりくるわけではないですからね。自分のネイティブな感覚はしっかり携えておくべしだって思うわけです。
それは、それぞれの民族が重要視しているテーマの優先度でも変わるでしょう。日本人なら「勤勉」や「道徳心」が、「愛」や「勇気」より優先するでしょうが、欧米だと、「勤勉」より「勇気」が優先されているのかも知れません。
そういう事柄は、「なんとなくの感覚」で体に入っているもので、「僕は勇気より勤勉の方が大事なような気がするなぁ」とか、そういう感覚なわけですよ。
で、そういう感覚があれば、役人が「本道」を外れた時に、「いや、それはちょっとイヤだよ」という事がスパン!と指摘できるはずなんですが、いかんせん日本人は、そこのところの指摘ができてないと思うんですね。
話が長くなったので、コメントを割ります。
で、それは世界の大きな流れを理解してるかどうか?という事ではなくて、自分たちの文化の根幹をしっかり確認しているかどうか?って事なんです。
海外からやってきた考え方や文化を洋服だとしたら、それが自分の体に合っているかどうかを確かめる事が必要で、それは、いくら洋服の作り方とかサイズの種類とかを勉強してもまったく意味がないわけです。まず自分の体のサイズがわかってないとどうしようもないんです。
だから、歴史を学ぶにせよ、欧米の文化を学ぶにせよ、それが「自分の体に合ってるかどうか」を、まず確認するのが先なわけです。それが判断基準なんだから。
で、そこがしっかりしたら、たとえ欧米文化の暴走があったり、悪徳官僚の暴走があっても、「この暴走の、この点はイヤだ。」と明確に語れるわけです。それが日本人のネイティブな感覚に根ざしていたら、それはまさに「国民的ムーブメント」になるんです。
で、それは、たとえ、官僚であろうと、欧米の偉そうな屁理屈であろうと、突き崩す事は、
●絶対に無理。
なんですよ。
なぜなら、子どもの頃からの無意識的な価値判断基準だから、なんです。それは自分の文化に根付いているからです。根付いているものはつぶせないし、崩せないんですよ。
そこはものすごく大事なことなんですよ。
理屈でなく「イヤ」なんだから、これは突き崩しようがないんですから。
ここを自覚的に「自分のモノ」にしていれば、どんな陰謀やダマシがあっても、ひっかかることはないんです。
「私にとって幸せかどうか?」ということがはっきりしているかどうか?って事ですから。
このネイティブな部分を他国の文化によって否定したら、ものすごい反発を食らいます。それはもう絶対です。アメリカが中東和平に手を入れて泥沼化したのも、そういうネイティブな感覚の反発が強かったからでしょうし、日本のタレントとかアダルトビデオの女優が信仰心の厚い国で、セミヌードとかになって猛反発を受けるなんていうのが、まさにその例でしょう。
これらの国の場合は、そういう自分たちのネイティブな文化や感覚を、しっかり握りしめて離さなかったから、よそもの文化にキチンとノーと言えたわけです。
まぁ、それでも、そのノーという感覚が、グローバルなルールを3にして、自国の文化を7にして、というようなひっくり返しをしてはいかんわけですけどね。
でも、ここの比率を、キチンと7:3でコントロールできるかどうかも、「これは自国の文化、あれは他国の文化。」と、自他の区別がちゃんとついていてはじめてできることなわけです。
「コトリが来るぞ」と祖父から脅されて、生活を律しようと思ったことはあるけれども、ゴブリンが出てこようが、妖精が出てきて挨拶しようが、そんな事は僕の体の中(=親しい人間との関わり)には、存在していないから、他国の話で「他人事」なわけですよ。「コトリ」は怖そうに思うけども。
で、こういう「怖い」という感覚は、別に官僚に持ってもらう必要なんざ、さらさらないわけです。我々が「なんかちょっと子どもの頃に怖く感じたよねー」というような根っこの感覚として持っておけば、それが充分に「抵抗の盾」の役割を果たすんだって事を言ってるわけです。
この感覚を忘れて「ゴブリンもコトリも同じようなもの」としてしまうと、そこに「よくわからない感覚」「理屈だけで物事を理解してしまう誤謬」というものに巻き込まれてしまって、官僚とかがこねくり回す理屈が「まぁ、それも一理あるかな?」ってな感覚になってしまうんですよ。
だから官僚がのさばるかどうかは、官僚が悪いのではなくて、国民の側がしっかりしてないのがいけないって事を言ってるんです。それは官僚の問題ではなくて、我々の意識の問題だってことです。そこを勘違いしてはあかんのですよ。
できてない、というより、それを「しない」のが、いわゆる日本国の「和をもって尊しとなす」文化的背骨なのでは?
(^^;)
>子どもの頃からの無意識的な価値判断基準
「長いものには巻かれろ。」「目上の者には逆らうな。」な気がする……☆
(^^;)
>「私にとって幸せかどうか?」ということ
これを毎日きちんと自問自答して価値判断の基準にしている「日本人」って、超少数派。というか、すくなくとも、すでにして「平均的日本人」の範疇からは大きく外れている。と思う……☆
私、シゲ先生のおっしゃってる大枠の本筋には共感してるし、反論するつもりなんてさらさらないんですけど。
基本的にどこのパースが狂っているのかが解りましたよ。
シゲ先生「が」標準的な日本人じゃないから、日本人庶民の代表みたいに自分のことを(?)語られてると、なんだか笑えてきちゃうんですね……☆☆
d(^◇^;)”
「平均的」な「普通」の「大多数派に属する」伝統的日本列島上在住人は、そもそも、官僚(制度)を批判したり、自分の体感的かつ個人的な「良心」回路の指針を世間の風当たりに逆らって優先したり……、しませんよ?
日本人の伝統的な善悪(?)の基準は、「空気を読む」という言葉に端的に表出されている「処世術」に、「従うかどうか」であって。
たとえば、自分とこのばーちゃんは「風呂桶をちゃんと洗わんとアカナメが出るぞ」ときつく叱って躾て、「家事をちゃんと手伝うのが正しい子ども」という価値観を教えこもうとしたとしますよね?
で、それが「体感的に身に付いた」子どもが就学年齢に達したとして。
学校へ行って、「家事なんて手伝ってる場合じゃいでしょう。一問でもドリルを解いて、点数を上げて良い学校へ行きなさい。」という「価値観」にさらされた時に。
日本の大多数の場面において「正しい」とされるのは、多数派が所属する「学校/世間の価値観」に従って、少数派の古くさい「良心/習慣」は捨てること。
というのが、「善悪」の価値基準。
平安時代や戦国下克上の頃はいざしらず、近現代の「日本人」にとっては、「お上(官僚制度)を批判すること」イコール悪。ですよ?
(※ただし、近在一同=「世間」)の皆の衆すべてが一致団結して「一揆を起こそう」とかの、「周囲の圧倒的大多数派内における意思統一」があった場合を覗く。)
えぇと。
まとまらなくなりましたが、とにかく、「その時その場における多数派もしくは権力者の意向に合わせる」というのが、「日本固有」文化の基本的感性です。
ですから、「日本人固有の体感的価値観」を大事にした場合。
シゲ先生のおっしゃる説とは反対に、間違いなく、……官僚制度の腐敗……、悪化します☆
(--;)d”
(だって、「赤信号、みんなで渡れば恐くない。」のお国柄ですもん☆)
(なまあったか~い風とともにいるんだかいないんだかわからない気配がして不可解な現象を起こすという「妖怪」の空怖ろしさとは、体感的に別物☆)
「お上がなんとかしてくれる」というのがあって、そういう頭があるから、社会規範とか公的ルールを「自分たちの手で作る」というのが超苦手です。
でも、民主党の登場で、「お上意識」はよろしくない、という風潮は生まれつつあるようには感じます。
で、いま新しいルールを作ろうとしてるわけですけど、そういう時に大事なのが「自分たちの身体感覚にあった判断の仕方」ということなんじゃないかなぁという事なんですね。
いままでの日本人は、ルールを作るのに、よくわからないから欧米の考え方をそのまま移植するとかしてきたわけです。多くの法律がそういう形になってます。
でも、民主主義にせよ資本主義にせよ、日本の民衆の中から出てきた考え方ではなくて、グローバルな流れとして受け入れるしかなかった事柄だったわけです。
だから、いま大きく世の中が変わる時に、いまいちどネイティブな気持ちに戻ってみることもたいせつなんじゃないかなぁと僕は感じたって事ですね。
でも、そういうネイティブな気持ちを確認する行為が、ストレートにお上意識の強化につながるだけ、という単純な構図になるとも思ってはいないんですよ。
というのも、基本、役人たちも、本来はちゃんと国民の側をむいて仕事をしてる限りは、良い仕事をしてくれる存在なのだろう、という気が、僕はしてるんです。
だからそういう意味では、「国民が信用できる役人行動」を役人が取ってくれて、その結果として「正しいお上意識」が復活するのが、本来は一番良いと思うんですね。
で、正しい「お上」というのはどういう存在かというと、「ひたすら税の自然増収を願う役割」だと思うんですよ。一般庶民が潤うこと、豊かになること、富むこと。それを四六時中願い、祈り、そうなる仕組みを作り続ける。それがもともと「お上意識」が生まれてきた源泉だったはずなんですね。
しかし、思うにどうも、この本来的姿勢が、いま、大きく崩れていると思うのですよ。お上が、下々のことを考えなくなった。下々の事を考えないのなら、それは「お上」ではなくて、単なる「自分勝手」ですからな。
で、どうして下々のことを考えなくなったかというと、ポイントは「消費税」であるように思うのです。どうも消費税を取るようになってから、役人は極端に自分勝手になってしまった気がしてしょうがないわけです。
消費税の特長は、もともと「不況でも安定した税収がある仕組み」ですからな。
「不況になっても、ワシらは大丈夫。」という腐った心根を持つようになってしまったんじゃないか?という気がするわけです。
だから、消費税を完全廃止にすれば、まだ昔の、「まともなお上」に戻る可能性は高いと僕は思ってます。そういう意味では「お上意識」の正統的復活を望んでいるとも言えるわけです。
とにかく、役人をまともに働かすためには、「まともに働かないとお給料が上がる余地がない」という仕組みに追い込んでしまう事が重要で、そのためには、何よりもまず消費税の完全撤廃なんだ、と僕は思うのですよ。
これはまぁ僕だけの意見なのでしょうけどね。鳩山さんですら消費税増税を口にしたりしますし。
でも、こういう、「考え方の仕組み」みたいな事がおろそかになってたら、うまく行くものもうまく行かなくなると、僕は思ってるって事です。
うーん? 正確には、消費税を取ろうという「発想が出てきてしまう時点」あたりで、すでに「公僕」としての勤務態度は、かなりの腐敗が始まっていると思うんですけど。
>消費税を完全廃止にすれば、まだ昔の、「まともなお上」に戻る可能性は高いと僕は思ってます。そういう意味では「お上意識」の正統的復活を望んでいるとも言えるわけです。
昔の「まともなお上」って……(^^;)
日本の近現代史のなかで、お上が「まとも」と呼べてたような時代って……、ありましたっけ??
>役人をまともに働かすためには、「まともに働かないとお給料が上がる余地がない」という仕組みに追い込んでしまう事が重要で、そのためには、何よりもまず消費税の完全撤廃なんだ、と僕は思うのですよ。
消費税制撤廃という結論それ自体には異論はまったくないんですけれども。
どーもその「働かないとお給料がもらえない」という路線と発想で進んでいくと、「分割民営化」とか、「効率優先/弱者と少数者はどんどん切り捨て」という方向にむけて「猫まっしぐら」になっちゃいそうで……、
ちょっと心配です★