タイトルはえらく牧歌的ですが。
実は内容は「スポーツについて」という話です。
いや、わたしね、正直、多分、スポーツ音痴なんだと思うのですよ。
なにがスポーツ音痴かというと、
●スポーツ自体が好きではない。
のですね。
どうにも好かん。
友人にテニスをやってる奴とかもいてて、スポーツファンというのがいてるのもわかるのですが、それでもやっぱり、スポーツというもの自体が、どうにも怪しげでおかしなものに思えて仕方ないんですよ。
まぁ確かにテニスにせよ、サッカーにせよ、野球にせよ、そういう点数を競う競技が、点数を取る、勝ち負けを競うというのが面白いというのは、まぁわかるんですけど、でも、たかが点数やん、それがどうした? という気にしかなれないわけです。
自分が成長したとか言うのなら、まぁ面白みもあるけど、なんか勝ち負けのためにやるって幼稚というか、子供っぽいというか、実はあんまり面白いと思わないんですよね。
なんで、点数にために体をヘトヘトになるまで動かしたりするんやろ? 頭おかしいんと違うか?って思ってしまう。
って言うか、はっきり言って、頭がおかしいんだろうというのが僕の結論なんですけども。(笑)
っていうのはですね、昔、山の中の段々畑を借りて、趣味で農作物を作っていた時期があったんですよ。けっこう広い面積を借りていたので、山の下から上まで上るだけで一、二分はかかるくらいの距離なんですね。
段々畑ですから、ちょっと鎌やスキ・クワとかの農具を取りに戻るだけでも、そこいらの駅の階段を何度も上り下りするような負荷がかかっていたわけです。
でね。
こういう体の動かし方っていうのは、体を動かしているという意識がまったくないわけです。
まず「目的」がありますから。
自分の目的があって、それを達成するために体を動かしているわけです。ここがスポーツとは違う。まったく違うポイントなんです。
やりたいことがあって、それをやっていたら、結果として体も動かしていた、ということですね。
体を動かす、というのは、本来そういうもののはずなわけですよ。
さっき「スポーツしてるというのは、頭がどこかおかしい。」と書いたのは、ここなんです。道具を取りに坂道を上るというような、目的が明確で、そのために体を動かしている作業は、通常「スポーツ」とは呼びませんからな。頭は目的のために使ってるわけです。
スポーツというのは、頭をスポーツのために使っている。
ここがおかしいわけです。
意識と行動のズレがあるというのが、本来かなりおかしいって思うわけですよ。
なので、その極端な例が「ボディビル」ということになるのかなぁって思うわけです。あれはもう、あくまで見せるための筋肉で、モノを持ち上げたり運んだりするための筋肉ではないですからなぁ。
いやまぁ、実際、現代社会というのは、徹底して体の動きを低減させるように仕組みができてしまってますから、「健康のためにスポーツをする」ということを、どこかで取り入れるしかないわけですね。これはもう、どうしてもしょうがない。
でも、本来「スポーツするために体を動かす」というのは人間本来のあり方として、どこかやっぱり「おかしい」と思っていることが、とても大事だよなぁと、僕は思っているのです。
●目的を持たない運動は、精神がおかしくなる。
というのが、僕の偽らざる気持ちなわけです。
スポーツ、スポーツと言うけれど、やっぱり僕は、スポーツと聞くと、まず「スポーツ障害」というのをイメージするんですよね。
荷物を運ぶために筋肉が太くなるのと、テニスでラケットを振って筋肉が太くなるのとでは、やっぱりそれは正常と異常の差が、必ずあると思ってるわけです。
だって、あんなラケットを振る作業なんて、そんなもの、日常生活に必要あるわけないじゃないですか。
で、しかも目的が「勝ち負け」なんだから、やっぱりどこかでちょっと無理したりとか、ついしがちになってしまうのが当然だと思うわけですよ。
だから、どんなスポーツをやっても、僕の場合は、農作業をやってた時の「合目的感」という気持ちよさを思い出して、いまいちスキッとした気分になれないんですね。
農作業をしている時の気持ちよさは、スポーツと違って、頭の論理構造が気持ち良いって事なんです。この気持ちよさはスポーツにはない。残念ながら存在しません。「スポーツ」では無理です。スポーツしかやってない人は、この心身一如の気持ちよさを知らないんだろうなぁ、不幸な話よなぁと思ってしまうんですね。
で、です。
そういうことを考え合わせると、現代社会で合目的的に、無理なく運動するとなると、「通勤における徒歩」というのが、非常に重要になるわけです。
歩く、というのは、目的がありますからね。
どこへ行くのかという、自分の頭の中の合目的感があって、その欲求に沿って動く。歩く。
だから精神構造として健康で、快適で、すっきりするんです。
なので、ずっと歩くことを大切にして、エレベーターより階段、エスカレーターを使わずに階段、時間があるなら一駅程度は電車に乗らずに徒歩。打合せがあれば、ちょっと早めに出て歩く。とかをやってたわけです。
これを、たとえばジョギングをするとかマラソンをするとかしたとたんに、「運動のための運動」ということになるわけですね。目的が空虚化する。運動が生活とか自然の行いとか普段のふるまいから離れてしまう。
それは、僕に言わせると、一直線に「キチガイ」への道だと思ってるんです。
いや、言い方は極端なんですけど、大きくはそういう事だと思う。
スポーツ障害だって、ようは「生活」とか「目的」から外れてしまった、暴走の結果です。
それはやっぱりおかしな事だよなぁって思うのですね。
雑草を刈り取らないと目的の作物が育たないし、そのためにしゃがんで鎌で草を刈る。この行為をスポーツにしようと思えばできるんでしょうけど、そんな事しておもろいか?っちゅう話なんですよ。
なので、どうにもスポーツというもの自体が好きになれなくて、なかなか何かをやる気にはなれなかったんですが、やっと「合目的」でありながら「運動」にもなるもの、が見つかったのが自転車だったわけです。
自転車は通勤に使いますし、行きたい場所への移動に使います。
つねに、まず自分の「目的」という精神の健康があった上に、「手段としての運動」があるわけですね。
だから良いのです。
無理がない。
心に無理がないのです。
ストレスがない。
フリー。
気持ちがいい。
最高。
そういう事です。
去年の夏とか、歩くだけでは、ちょっと運動量が足りないかなぁと思って、一時期プールに通ってた時期もあったんですがね。
あの、わざわざプールに行くという行為がすでにもう病気な気がして、私には無理でしたなぁ。アホくさくて、とてもやないけど続ける気になれない。
さてどうしたものか?と思ってたところに、スポーツ自転車、というか、世界標準のちゃんとした自転車の豊かな世界を知った、ということなわけです。
テニスも野球も、筋トレも、ジョギングもマラソンもボディビルも、サッカーも、まぁたいていのスポーツが、まともな精神の人間がやるものではないと、ここで断じてしまうのです。
え? 言い過ぎやって?
いやー、そうは思わないのですよ。農作業の「まともさ」を知ってると。いや、ほんとに。
点数とか数値のために体を動かすってのは、やっぱり異常ですわ。
本当にスポーツが好きな人は、でも実は、その「異常さ」はわかってるんですよね。
プロのアスリートの場合は、いかに効果的に点数を得るか?のために緻密な訓練を組み立てているのだから(しかも、かなり個別に特殊なプログラムを。)その「合目的性」は正しく理解してますし、ゆっくり休むことをも含めて、とても効率的にトレーニングをしているわけです。
問題は、わかってない一般の素人なわけです。
聞きかじりの思いつき、気分と雰囲気でスポーツしている一般人。
これがおかしいんだと思う。
そこに「合目的」というのはないんですよね。
数字だけをおいかけていたり、カッコや雰囲気だけを求めていたり、すっきりしない。
まぁ、現代においては、どうしたって運動不足になってしまうわけだから、どこかでそういう「異常な行為」というのをやらざるを得ないのはしょうがないんですけど、やっぱりそこは、そういう運動が「異常なのだ」という意識は持ってないとアカンよなぁって思うんですね。
で、付け加えて言うと、スポーツをするというのは、本来異常な行為なんだから、やっぱりまともな「コーチ」を付けてやるべきだって事なんですね。
これはウクレレを習いに行ってよく分かりましたけど、やっぱり学校の先生はプロです。ひとりひとりの目的と実力と楽しさのバランスをよ~く勘案して、最適の課題を出してくださる。
ちょっとしんどいかな?と思える課題でも「あなたの現状の実力なら大丈夫」とかなり難しい課題を出すかと思えば、「え?こんな簡単なことを何度もさせるの?」という事を嫌というほど何度もさせたりします。
でも、それが実に良いバランスなわけですね。
自分で仕事とは関係ない「運動」を自分で設定してしまうと、基準値がなくて、どこまでも暴走する危険とつねに隣り合わせなのが、実は「スポーツ」というもので、そこを客観視して暴走を防ぎ、効率的に「目的」に導いてくれるのがトレーナーだなぁと思うのです。
前に、少しだけ
●仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4344980867
という本を紹介しましたけど、この本ではそういう、筋トレに関する「個人トレーナー」の必要性を説いていて、そういう意味で「とても良い本だなぁ」と思ったんですね。
いま、自転車だと下半身だけしか運動できないので、筋トレも始めようかなぁとも思ってるんですが、やるとしたら、やっぱり個人トレーナーをつけてやらないといけないなぁって思っております。
で、現代社会においては、スポーツってものは「やらざるを得ないもの」になってきてるんだから、精神異常にならないためにも、やっぱり個人トレーナーに付いて積み重ねるというのが一番いいだろうなぁって考えてるんですね。
それは別に超有名な俳優が肉体改造をするような特殊なトレーニングではなくて、それこそ「どういう目的で運動されたいのですか?」というコンサルテーションから始まって、具体的な身体能力や心肺能力の測定まで含めて、適切で、やっていて楽しいメニューを紹介してもらう、というような事ですね。
(このあたりのメニューの豊富さ、組み立てこそがトレーナーの腕でしょうね。ウクレレを習いにいってても、いまの先生は、メンバーの実力を見てアレンジ譜を書いてくださるのですが、それが実に適切なわけです。そういう事がとても大事だと思う。)
こういう具合にノウハウを確かに持ったトレーナー、コーチがいてるなら、スポーツもやっても良いと思うのですよ。つねに「合目的」から外れることがないし、おもしろくもないメニューとか、あるいは自分にとって効果の少ないメニューを無駄に行うとか、そのメニューを考えるために無駄に時間を使うとかがない。すごく大事なポイントだろうと思うのです。
で、また自転車の話に戻るのですが、実は自転車には、このトレーナーのいてない状態での暴走とか、「異常」っていうのが少ないわけです。
だってもともと、「移動の道具である」という、合目的性があるからですね。
自分の行為が、「浮く」「空回りする」って事が少ない。
それはそれは、ものすごく少ない。
ここがすごく良いのです。
自転車は、そこの部分で脳みそがおかしなモードにならないのが良いよなぁってつくづく思うのです。いつも「自分の自然な望み(移動の必要性)」と寄り添った行為として運動がある。
そこがいいよなぁ。
ほんとうに。
考える頭が、まともに動いている。
考える頭が、「スポーツのためのスポーツ」に侵されていない。
どの瞬間でも、いつも「どこに行こうか?」という自分への根源的で自然な問いかけと一緒に連れ立って動ける。
その自然さと気持ちよさこそが自転車の本当の素晴らしさなんですね。
それが実は自転車の、一番の魅力なんだと思うのです。
まぁ、ちょっとお洒落に言うなら「頭のために良いスポーツ」とでも言いますかね。
いやほんと。自転車。よろしおまっせ。
実は内容は「スポーツについて」という話です。
いや、わたしね、正直、多分、スポーツ音痴なんだと思うのですよ。
なにがスポーツ音痴かというと、
●スポーツ自体が好きではない。
のですね。
どうにも好かん。
友人にテニスをやってる奴とかもいてて、スポーツファンというのがいてるのもわかるのですが、それでもやっぱり、スポーツというもの自体が、どうにも怪しげでおかしなものに思えて仕方ないんですよ。
まぁ確かにテニスにせよ、サッカーにせよ、野球にせよ、そういう点数を競う競技が、点数を取る、勝ち負けを競うというのが面白いというのは、まぁわかるんですけど、でも、たかが点数やん、それがどうした? という気にしかなれないわけです。
自分が成長したとか言うのなら、まぁ面白みもあるけど、なんか勝ち負けのためにやるって幼稚というか、子供っぽいというか、実はあんまり面白いと思わないんですよね。
なんで、点数にために体をヘトヘトになるまで動かしたりするんやろ? 頭おかしいんと違うか?って思ってしまう。
って言うか、はっきり言って、頭がおかしいんだろうというのが僕の結論なんですけども。(笑)
っていうのはですね、昔、山の中の段々畑を借りて、趣味で農作物を作っていた時期があったんですよ。けっこう広い面積を借りていたので、山の下から上まで上るだけで一、二分はかかるくらいの距離なんですね。
段々畑ですから、ちょっと鎌やスキ・クワとかの農具を取りに戻るだけでも、そこいらの駅の階段を何度も上り下りするような負荷がかかっていたわけです。
でね。
こういう体の動かし方っていうのは、体を動かしているという意識がまったくないわけです。
まず「目的」がありますから。
自分の目的があって、それを達成するために体を動かしているわけです。ここがスポーツとは違う。まったく違うポイントなんです。
やりたいことがあって、それをやっていたら、結果として体も動かしていた、ということですね。
体を動かす、というのは、本来そういうもののはずなわけですよ。
さっき「スポーツしてるというのは、頭がどこかおかしい。」と書いたのは、ここなんです。道具を取りに坂道を上るというような、目的が明確で、そのために体を動かしている作業は、通常「スポーツ」とは呼びませんからな。頭は目的のために使ってるわけです。
スポーツというのは、頭をスポーツのために使っている。
ここがおかしいわけです。
意識と行動のズレがあるというのが、本来かなりおかしいって思うわけですよ。
なので、その極端な例が「ボディビル」ということになるのかなぁって思うわけです。あれはもう、あくまで見せるための筋肉で、モノを持ち上げたり運んだりするための筋肉ではないですからなぁ。
いやまぁ、実際、現代社会というのは、徹底して体の動きを低減させるように仕組みができてしまってますから、「健康のためにスポーツをする」ということを、どこかで取り入れるしかないわけですね。これはもう、どうしてもしょうがない。
でも、本来「スポーツするために体を動かす」というのは人間本来のあり方として、どこかやっぱり「おかしい」と思っていることが、とても大事だよなぁと、僕は思っているのです。
●目的を持たない運動は、精神がおかしくなる。
というのが、僕の偽らざる気持ちなわけです。
スポーツ、スポーツと言うけれど、やっぱり僕は、スポーツと聞くと、まず「スポーツ障害」というのをイメージするんですよね。
荷物を運ぶために筋肉が太くなるのと、テニスでラケットを振って筋肉が太くなるのとでは、やっぱりそれは正常と異常の差が、必ずあると思ってるわけです。
だって、あんなラケットを振る作業なんて、そんなもの、日常生活に必要あるわけないじゃないですか。
で、しかも目的が「勝ち負け」なんだから、やっぱりどこかでちょっと無理したりとか、ついしがちになってしまうのが当然だと思うわけですよ。
だから、どんなスポーツをやっても、僕の場合は、農作業をやってた時の「合目的感」という気持ちよさを思い出して、いまいちスキッとした気分になれないんですね。
農作業をしている時の気持ちよさは、スポーツと違って、頭の論理構造が気持ち良いって事なんです。この気持ちよさはスポーツにはない。残念ながら存在しません。「スポーツ」では無理です。スポーツしかやってない人は、この心身一如の気持ちよさを知らないんだろうなぁ、不幸な話よなぁと思ってしまうんですね。
で、です。
そういうことを考え合わせると、現代社会で合目的的に、無理なく運動するとなると、「通勤における徒歩」というのが、非常に重要になるわけです。
歩く、というのは、目的がありますからね。
どこへ行くのかという、自分の頭の中の合目的感があって、その欲求に沿って動く。歩く。
だから精神構造として健康で、快適で、すっきりするんです。
なので、ずっと歩くことを大切にして、エレベーターより階段、エスカレーターを使わずに階段、時間があるなら一駅程度は電車に乗らずに徒歩。打合せがあれば、ちょっと早めに出て歩く。とかをやってたわけです。
これを、たとえばジョギングをするとかマラソンをするとかしたとたんに、「運動のための運動」ということになるわけですね。目的が空虚化する。運動が生活とか自然の行いとか普段のふるまいから離れてしまう。
それは、僕に言わせると、一直線に「キチガイ」への道だと思ってるんです。
いや、言い方は極端なんですけど、大きくはそういう事だと思う。
スポーツ障害だって、ようは「生活」とか「目的」から外れてしまった、暴走の結果です。
それはやっぱりおかしな事だよなぁって思うのですね。
雑草を刈り取らないと目的の作物が育たないし、そのためにしゃがんで鎌で草を刈る。この行為をスポーツにしようと思えばできるんでしょうけど、そんな事しておもろいか?っちゅう話なんですよ。
なので、どうにもスポーツというもの自体が好きになれなくて、なかなか何かをやる気にはなれなかったんですが、やっと「合目的」でありながら「運動」にもなるもの、が見つかったのが自転車だったわけです。
自転車は通勤に使いますし、行きたい場所への移動に使います。
つねに、まず自分の「目的」という精神の健康があった上に、「手段としての運動」があるわけですね。
だから良いのです。
無理がない。
心に無理がないのです。
ストレスがない。
フリー。
気持ちがいい。
最高。
そういう事です。
去年の夏とか、歩くだけでは、ちょっと運動量が足りないかなぁと思って、一時期プールに通ってた時期もあったんですがね。
あの、わざわざプールに行くという行為がすでにもう病気な気がして、私には無理でしたなぁ。アホくさくて、とてもやないけど続ける気になれない。
さてどうしたものか?と思ってたところに、スポーツ自転車、というか、世界標準のちゃんとした自転車の豊かな世界を知った、ということなわけです。
テニスも野球も、筋トレも、ジョギングもマラソンもボディビルも、サッカーも、まぁたいていのスポーツが、まともな精神の人間がやるものではないと、ここで断じてしまうのです。
え? 言い過ぎやって?
いやー、そうは思わないのですよ。農作業の「まともさ」を知ってると。いや、ほんとに。
点数とか数値のために体を動かすってのは、やっぱり異常ですわ。
本当にスポーツが好きな人は、でも実は、その「異常さ」はわかってるんですよね。
プロのアスリートの場合は、いかに効果的に点数を得るか?のために緻密な訓練を組み立てているのだから(しかも、かなり個別に特殊なプログラムを。)その「合目的性」は正しく理解してますし、ゆっくり休むことをも含めて、とても効率的にトレーニングをしているわけです。
問題は、わかってない一般の素人なわけです。
聞きかじりの思いつき、気分と雰囲気でスポーツしている一般人。
これがおかしいんだと思う。
そこに「合目的」というのはないんですよね。
数字だけをおいかけていたり、カッコや雰囲気だけを求めていたり、すっきりしない。
まぁ、現代においては、どうしたって運動不足になってしまうわけだから、どこかでそういう「異常な行為」というのをやらざるを得ないのはしょうがないんですけど、やっぱりそこは、そういう運動が「異常なのだ」という意識は持ってないとアカンよなぁって思うんですね。
で、付け加えて言うと、スポーツをするというのは、本来異常な行為なんだから、やっぱりまともな「コーチ」を付けてやるべきだって事なんですね。
これはウクレレを習いに行ってよく分かりましたけど、やっぱり学校の先生はプロです。ひとりひとりの目的と実力と楽しさのバランスをよ~く勘案して、最適の課題を出してくださる。
ちょっとしんどいかな?と思える課題でも「あなたの現状の実力なら大丈夫」とかなり難しい課題を出すかと思えば、「え?こんな簡単なことを何度もさせるの?」という事を嫌というほど何度もさせたりします。
でも、それが実に良いバランスなわけですね。
自分で仕事とは関係ない「運動」を自分で設定してしまうと、基準値がなくて、どこまでも暴走する危険とつねに隣り合わせなのが、実は「スポーツ」というもので、そこを客観視して暴走を防ぎ、効率的に「目的」に導いてくれるのがトレーナーだなぁと思うのです。
前に、少しだけ
●仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4344980867
という本を紹介しましたけど、この本ではそういう、筋トレに関する「個人トレーナー」の必要性を説いていて、そういう意味で「とても良い本だなぁ」と思ったんですね。
いま、自転車だと下半身だけしか運動できないので、筋トレも始めようかなぁとも思ってるんですが、やるとしたら、やっぱり個人トレーナーをつけてやらないといけないなぁって思っております。
で、現代社会においては、スポーツってものは「やらざるを得ないもの」になってきてるんだから、精神異常にならないためにも、やっぱり個人トレーナーに付いて積み重ねるというのが一番いいだろうなぁって考えてるんですね。
それは別に超有名な俳優が肉体改造をするような特殊なトレーニングではなくて、それこそ「どういう目的で運動されたいのですか?」というコンサルテーションから始まって、具体的な身体能力や心肺能力の測定まで含めて、適切で、やっていて楽しいメニューを紹介してもらう、というような事ですね。
(このあたりのメニューの豊富さ、組み立てこそがトレーナーの腕でしょうね。ウクレレを習いにいってても、いまの先生は、メンバーの実力を見てアレンジ譜を書いてくださるのですが、それが実に適切なわけです。そういう事がとても大事だと思う。)
こういう具合にノウハウを確かに持ったトレーナー、コーチがいてるなら、スポーツもやっても良いと思うのですよ。つねに「合目的」から外れることがないし、おもしろくもないメニューとか、あるいは自分にとって効果の少ないメニューを無駄に行うとか、そのメニューを考えるために無駄に時間を使うとかがない。すごく大事なポイントだろうと思うのです。
で、また自転車の話に戻るのですが、実は自転車には、このトレーナーのいてない状態での暴走とか、「異常」っていうのが少ないわけです。
だってもともと、「移動の道具である」という、合目的性があるからですね。
自分の行為が、「浮く」「空回りする」って事が少ない。
それはそれは、ものすごく少ない。
ここがすごく良いのです。
自転車は、そこの部分で脳みそがおかしなモードにならないのが良いよなぁってつくづく思うのです。いつも「自分の自然な望み(移動の必要性)」と寄り添った行為として運動がある。
そこがいいよなぁ。
ほんとうに。
考える頭が、まともに動いている。
考える頭が、「スポーツのためのスポーツ」に侵されていない。
どの瞬間でも、いつも「どこに行こうか?」という自分への根源的で自然な問いかけと一緒に連れ立って動ける。
その自然さと気持ちよさこそが自転車の本当の素晴らしさなんですね。
それが実は自転車の、一番の魅力なんだと思うのです。
まぁ、ちょっとお洒落に言うなら「頭のために良いスポーツ」とでも言いますかね。
いやほんと。自転車。よろしおまっせ。
コメント
というのは前の高速道路の問題にも通底する問題で・・・。結局、楽したいと言うのを徹底すると結局、現代社会になる。で、それは脳ミソだけの存在になるのだけど、生憎、これまでの人間の歴史でその頭を物理的に支えてきた体が不満を言うと言う状況に陥る・・・。
もともとの体が四六時中、餌を探す為に走り回るように出来てた筈なのだが、大脳皮質が肥大化してしまった意味世界を生きることが人間の生の意味なのだと錯覚するしかないのが私たちの人生になってしまっていると言うことでしょう。
草ぼうぼうの庭を畑に変えてまして、さて、きちんと収穫できるかどうか・・・。せめて自分が食べるものは自分の責任で作れたらとは思うのですが・・・。
現代社会において「スポーツ」と呼ばれているものの、そもそもの起源が、「戦争に行って命がけの血まみれで戦って、勝って戦利品を分捕って生き残って無事に帰宅し、その戦果でもってメスにもてて(あるいは妻子を養って)、そうして自分の遺伝子(子孫)を後生に残す」ための「訓練」から始まった、という視点をお忘れです。
あれは狂気ではなくて原始~戦国時代にかけての本能or習性が、おぼろげな記憶にまかせて暴走してるんですよ。(さらに言えば、集団球技などは「獲物を追いかけて群れで走る」という哺乳類狩猟時代の本能or衝動の名残です。)
それらの衝動を「理解不能」といってしまうと、むしろ、人類始原の肉体労働の記憶を忘れ果ててしまった「頭でっかちの現代人」と化しているのは、シゲ先生のほうでは? ということになるのですが……。(失礼な話ですいません。)
類人猿はもともと集団生活の動物なので、群の中でどんな位置づけに自分があるか(獲物=点数を獲れるか)という評価は、本能的に非常に大事なものになるわけです。(別の言い方で言えば、会社で「会社人間」になって滅私奉公だの出世競争だのにあけくれるのも、サル山時代の記憶の名残と言えます。)
とはいえ、無闇な素人スポーツによる筋肉造成が不自然かつ健康に悪いというご指摘と、やるならきちんとしたトレーナーが必要だという点には、全面的に同意いたします。(ちなみに、私も、スポーツのためのスポーツは嫌いです。ただし、「減量」という明確な合目的性のある(w)ジョギングはけっこう好きです。)
とまれ、こちらの文章を読まさせていただいていて、もう一つ、自分の仕事のチラシのためのヒントを頂いてしまいました。
シゲ先生の文章は、本当に、いろんな意味であたまの刺激になります。ありがとうございます♪
自分しんどいのに気ぃついてないんちゃうかな。シゲさん。
言葉足らずで言いすぎで狭量で粗雑な前半。
なんか参ってるときのあなたの物言いで心配です。
「プール行くやつなんかおかしいねん。」は要らんねんで。
「ボク、自転車楽しいねん。」だけでええねんで。
やろ?
大丈夫かい?ちょっと心配。
あああ、なるほど。スポーツは「戦争の訓練の名残」ですか。つまり「命がけの集団活動」のシミュレーション機能の未制御な状態ってことでしょうね。そう言われると良く分かった。
無意識に「サル山のサル」をやってるのがスポーツって事なわけだ。非常にわかりやすい!!
もともとサル山のサルでありたい衝動なわけだから、そこに社会的参画意識があって当然のはずなのに、それがないというのが、僕がスポーツに対して非常にバランス悪く感じるって部分なんでしょうね。
そういう意味でも、個人でキチンとしたトレーナーもつけずに刻苦勉励的に「スポーツ」するというのは、サル山のサル衝動なのだから注意が必要ってことですわね。
もやもやっとしてたことが、かなりスッキリとわかった気がします。ありがとうございました。
>きゃおるさん
いやいやいや。読み落しがかなりひどいですな。もう一度僕の書いてる文章を読んで、上の桐木りすさんのレスも読んでもらって、それから、僕の桐木りすさんへのコメントも読んでから、僕の言ってる事を理解してください。粗雑なのではなくて、読み落しです。
スポーツはサル山のサルになる社会参画衝動の無軌道な暴走という側面があるのだから、刻苦勉励的にやるというのが良くないって話ですよ。
運動というのは目的があってはじめて気持ちよくなるわけで、荷物を運ぶ目的があって、それを移動させるからまともな「達成感」があるわけです。それを目的から切り離して鉄アレイだけをウンセウンセと上下させるというのは、目的を失った行為なので暴走しやすいって事が一番言いたいことですよ。そこがとても重要。
修行のための修行みたいなのは、ドラゴンボールの孫悟空だけで良いのであって、トレーナーもつけずに刻苦勉励する形になっているのは大変危険な状態ですよって話です。
どこかで何かを見失ってるんです。それは。
通勤の中に徒歩を組み込むとか、自転車通勤をするとかは、移動目的があるので暴走しにくい。ここがとても重要です。社会性の問題なわけですよ。
現代社会は、どうしても運動不足になりがちで、どこかで体をキチンとうごかさないといけないんわけですが、それはやっぱりトレーナーについてもらってやるのが本筋ですよって話。
個人で素人プログラムでなんだかんだやるのは、結局は体を壊すか意識が壊れるかしやすいから、それは注意せんとねぇっちゅう話です。
僕は、その「暴走しやすい壁」のところに大変敏感な人間なわけです。直観的に「こらおかしいよなぁ」という洞察が前々からあったわけ。
それを、とにかく言い足りてない形でもブログに書いたら、桐木りすさんみたいに別の視点からの「欠けてる部分」を補ってもらえて「ああ、なるほど、そういう事か」と、新たな視点にたどりつけたって事です。
ちゅうことで、ご心配はありがたいですが、もう一度このページの書き込みの頭からコメント欄までのご熟読をお願いしたい。キチンと正しく、偏見なしに、書いてある内容を読み取ってくださいまし。
ついでなので追加で書いておきます。
筋トレでもなんでも良いのですが、僕が「スポーツするなら個人トレーナーをつけるべきだ」という話を前にミクシでしたことがあるんですが、そうしたら「トレーナーをつけるのなら、キチンとオリンピック選手の指導をしたことがあるような人に」というような意見が出てきたわけです。
ここがね、すでにしておかしいわけです。
●私はオリンピック選手ではない!
って言うのですよ。
どういうわけかスポーツの話をすると、すぐにこういう「権威主義」の話が出てくる。
そうではなくて、その人個人の体力・目的・到達目標などにあわせて、無理のでにくい最適プログラムを組んでくれるような個人トレーナーに付くのが良いですよって話なわけです。
言わば食い物で言うならフレンチのレストランに行くような話ではなくてコンビニ弁当みたいな感じの話ですわ。
個人トレーナーなんて、それこそオリンピック級のトレーナーなんて、個人には必要ないんです。そうではなくて、運動の仕方、方法を、それこそ山のように知っていて、その人個人の生活にあわせて無理なく、うまくメニューを作れるような人に付いてもらうというのが、コスト的にも精神的にも、かなり賢いって事なんです。
でも、どうもこのあたりにも心理的障壁があって、「トレーナーをつけるなんてたいそうな」とか思っちゃうみたいでねぇ。
個人トレーナーと言っても、月に1万円以下でお願いできるはずです。月に2回トレーニング指導をしてもらう程度なら5000円でやってくれる人も、いてるんじゃないですかね?
でも、ここにお金を使う人が少ない。
まぁ、良い先生を見つけるのは、なかなか大変なんですけど、(僕もウクレレの自分にぴったりの教室を見つけるまでに別の教室に通ってた時期もあるし、先生探しをしなくちゃなぁと思うと、すごく気が重くて困るんですがね。)それでも、やっぱり基本は、まず先生探しですな。
それも、あくまで「自分にあった先生探し」ね。
別にオリンピック級のトレーナーは必要なし!
そういうことであります。
おおっと。お日様だいすきさんもコメントくださってたんですね。勘違いをしてすっ飛ばしてしまいました。
そうなんですよね、現代は「脳みそ」を使うばっかりで、体を使う事が少ないわけです。だから体を使うというのは「取り返し」の作業であって、それを「スポーツ」のような目的の空虚な運動に置き換えてしまうと、精神と肉体の分離問題は全然解決がつかないって事になるわけです。
そういう「分離」をそのままにしておくと、どんどん精神を病んでいくのではないかなぁと僕は思うのですよ。だから「スポーツ」とか「運動」よりも、日常のぞうきんがけとか、そうじ、あるいはふとんの上げ下ろしとか、そういうことをどんどん増やすというのが、まずは必要なんじゃないかなぁと僕は思います。それをわざわざ「スポーツ」にする必要はなかったはずなんですよね。「スポーツ」にしてしまうから、分離がよけいひどくなるように思ってるんです。
まぁ、なんにしろ、仕事とは別に運動時間を取らないといけないという状況は変わらないわけですけど、こういう根本のところの目的との一体感というのは、大切にしておくべきことだよなぁと思います。
「それ」が全然わかってなくて、一昔前の棍棒(「精神」棒?)もって無意味なシゴキに走って結果的にアスリートを潰しちゃうようなバカがいまだに多いから、「そういうのでなくて、きちんと現代的かつ科学的なトレーニング方法を勉強して、かつ熟練している人」という意味で、「オリンピック級」という表現になるんだと思いますよ。
だって、アホなトレーナーやコーチについてるせいで、かえって体を悪くしてる人……って、結構いますもの★(私の整体のお客さんにもいます。むやみやたらな「特訓」とか、朝ご飯抜きになる時間帯にやる「朝練」とかが好きな時代錯誤コーチに振り回されて、体調崩しては私のところに来る人……★)
あと、もうひとつ。
「肉体的快感」(マゾ的疲労快感)や、「精神的快感」(達成感・充実感)、はたまた「ランナーズ・ハイ」(過度の肉体的疲労による脳の酸欠によって引き起こされる変成意識状態=脳内天然麻薬過剰分泌状態)といった、「快楽」を得るという「目的」ためのスポーツ。という側面を見落としていらっしゃいますよ。
(いや、お嫌いなかたにはアレが「楽しい」んだ、というのが想像しづらいんでしょうけど。)
(^^;)”
どもども。
>「肉体的快感」(マゾ的疲労快感)や、「精神的快感」(達成感・充実感)、はたまた「ランナーズ・ハイ」(過度の肉体的疲労による脳の酸欠によって引き起こされる変成意識状態=脳内天然麻薬過剰分泌状態)といった、「快楽」を得るという「目的」ためのスポーツ。
これ!まさにこれ!
僕が言いたいのは、これです。
つまり、スポーツの本質がこれで、この発想こそ「本質的に病気」なんだってことですわ。
荷物を運ぶために重いものを持って移動するのは「スポーツ」とは言いません。チームで闘うという「サル山のサル」をするためならスポーツといいます。
必然性が違うわけですね。
●必然性がないのに体を無理矢理動かす。
これが「スポーツ」の本質で、本来は一歩でも足を踏み入れたら、そこから心の病気が始まる存在。それがスポーツなのだって事だと僕は思ってます。
昔は山を上り下りし、しゃがんで草を刈り、2キロ先の家まで相談しに歩くのが当たり前だったわけです。しかし、いまはPCの前に座るから、どこかでイヤでも必然性から離れた「運動」という異常なことをしないといけないわけです。もともと不自然なんですよね。
その不自然さを、正しく自覚して、「目標管理」として正しく設定できるかどうかでしょう。で、それは自分ひとりで設定してたら「暴走」するのが当たり前だってことですね。
確かに「アホなトレーナー」は多いと思うのですが、最近はまともな、社会的ニーズにマッチしたトレーナーさんも、きっと増えてきているに違いないと思うんですよ。
で、たぶんそういう良いトレーナーさんは「オリンピック級」とかではなくて、スポーツジムに所属してる気の良いあんちゃんとかおねぇちゃんだったりするんだと思うんですよ。というか、そういうところを起点に独立していこうとしてる人とかね。そんな感じだと思う。
で、そういうトレーナーがとにかく数多く必要なはずなんですよね。体を壊したら何にもならないんだし。で、なおかつ脳内の分泌物過多に酔うだけという危険を、しっかり頭に入れて「それはまずい」とわかってる人ですわね。
ジョギングの創始者、ジェームス・フィックスが52歳の若さで走ってる最中に心筋梗塞で亡くなった、ということを、もっとみんなキチンと理解すべきだと思いますけどねぇ。
クライアントが、ランナーズハイを楽しみに走るようになっていたら、わざとペースを落とさせ「しばらくちょっと休んでください」と正しく言えるようなトレーナーこそが、いま一番必要だろうなと僕は思います。
このあたりは自転車で走っていると強く感じることですわ。なんせ、自転車だと体をほとんど動かさなくても自動的に移動だけは行われるというところがあるので、「移動」という実質的な必然性と、つねに向き合うことができるわけです。ランニングやジョギングだと、休むと「進まない」ですからね。イヤでも自分を追い込む事になります。点数を競う競技だと、自分の体より点数が大事になっちゃうし。
「スポーツ」には、もともと、そういう「無理を誘発してしまう構造」が存在してしまうんだと自覚しているトレーナーこそが良いトレーナーなのでしょう。たぶん。
そういうことです。
でも、脳内麻薬がバリバリ出るというのはちょっと魅力ですな。壊れない程度でハイに慣れるならとも思いますわ。
>昔は山を上り下りし、しゃがんで草を刈り、2キロ先の家まで相談しに歩くのが当たり前だったわけです。しかし、
その点に関してはまったく同感なので、私は「スポーツのためのスポーツはしない。働いて体を動かす」ために、わざわざ、本業(座りっぱなしのワープロ打ちとか、かがみっぱなしの整体業とか)の他に、「体を動かす出稼ぎバイト」をかけもちするように心がけています。
楽しいですよ、コンビニバイトとかフードバイトとか新聞配達とかチラシのポスティングとかで、体を使って汗をかいて、息を切らして走り回るの……。(笑)<(これもすでに一種のスポーツハイw)
>仔猫や子狼が狩りの準備としての「じゃれっこ」をするのもスポーツの原型のうちなので、一概に本能的娯楽としてのスポーツを否定してかかるのはどうかと思いますが。
というのは、まぁスポーツをやっている人の側からは普通に出てくる意見でしょうねぇ。
でも、僕から言わせると、「そうかなぁ?」って感じるんですよね。子猫のじゃれっこは、きちんと「あまがみする」とかのルールがある「遊び」でありゲームなわけです。なおかつ、その遊びが狩りの準備という生存目的に直結してるわけですよ。
で、この「あまがみ」という手加減が猫でもする、遊びを成り立たせている基本だと思うんですね。僕個人の意見では、ゲームとスポーツというのは別ものだよなぁって言うのがあるんです。
「あまがみ」は、言わば体力差のあるもの同士がいかに「遊ぶか」を本能的に選択した結果として生まれる行為で、これはボクシングの階級制のように体力差のあるものを闘わせない「スポーツ」とは対極にある行為としか思えないんですよ。
そこに、本能から逸脱してしまった「スポーツ」というもののおかしさの本質があると僕は感じてます。
遊びやゲームなら「おもしろい!」と思うんですが「スポーツ」だと面白くないんですよ。
で、それはやっぱり「観戦」という、実際には運動をしない人を「スポーツ好き」と呼んでしまうスポーツ界のおかしな風潮が原因で、そのあたりの混同が普通にあるというのがおかしいのだと思うんですよね。
小説やら映画やらでは読者と作家は明確に区別されてますけど、どうもスポーツはその辺があやふやで。
トーナメント制で勝ち進む各種競技はそういう意味で全然面白いと思えなくて、昔のアリ対猪木戦のような異種格闘技対決みたいな事の方に「あまがみ」の面白さを感じるんですよね。あれは、まずルールづくりをどうするか?という事からすでに攻防がはじまっていて知的な面でもすごく面白かったし。
だから、概ね、点数を取る、数字を追いかける、トーナメントで争う、階級制があるようなスポーツは、「観戦」させるために、本能からはずれてしまった暴走行為でしかなく、それを素人がやってるのは、基本、バカなのだとしか僕には感じられないんですよ。
まぁ、個人的見解ですけどね。
観戦してるだけの人間を「スポーツ好き」と呼ぶから、体重が100kgを越す松村邦洋をマラソンさせるような無茶が普通に出てくるんじゃないですかねぇ。「スポーツは見るだけでなく、やることも良いことだ」と、ものすごく単純に一般化されてしまうわけですね。
でも、そんなもの、度を超えたスポーツは体に悪いに決まっているじゃないかって思うんですけどね。
それは本当にいつも思います。