しつこくも、また血液型性格判断の話。

●血液型と性格の相関には科学的根拠がないと言う学者は、学者を辞めろ。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200906241304468605/

●血液型性格判断は科学である必要などない。
http://hitoyomi.diarynote.jp/200906261017184771/

の続きです。

しかし、血液型と性格の相関関係。最近は、とうとう「血液型占い」とか言って、血液型性格判断は占いにまで成り下がってしまいました。なんだかなぁ。

一時期、能見正比古さんの著作を何冊も読んで、実に面白いと思った私としては、人間が生きていくための有用なる知恵が、貶められている気がして実に寂しいのです。

能見さんが書いた本のタイトルは、確か「血液型人間学」だったと思うんですが、この「人間学」という言葉が全てを表しているのですよ。つまり「人間を学ぼう」とする態度の事。それが「血液型人間学」なわけです。

ちゃちな「性格さえわかればそれで良し」とするような考え方ではなかったのだから、そこのところを間違えないで欲しいなぁって思うのです。

とくに、みんな勘違いしまくってるのが「性格」という固有の色を血液型別に分けてラベリングしてるだけだろう! という思いこみ。そんなんと違いますって!能見さんの著作は。

能見さんが提唱したのは、人間の行動や言動を表面的に分類するのではなく、血液型との相関で生まれる「共通する気質」を見つけ出して、その「気質部分」で理解していこう、という話です。

これね、簡単に能見さんは書いてるけど、大変な事なんですよ。もともと「科学」あるいは統計学なんかで取り扱える種類の話ではない事なんです。

なぜなら、取っている行動・言動はまったく同じでも考えている「哲学」部分がまったく違う場合が人間にはあって、その「哲学」自体が違う部分を血液型との相関で考えましょう、というものなんです。だから、もともと計測する手法自体が困難を極める。そういう種類の話です。

でも、その「哲学」などの、その人の精神活動の根本部分を、キチンと聞き出して理解して、それを血液型との相関で見てみましょう、というのが能見さんの考え方です。壮大といえば、これほど壮大な発想もないんです。だから、これは、いやでもフィールド調査の手法以外は成立しません。
「気質で人間を見る」ということは、個々人の哲学まで聞き出しましょう、ということですから、それこそ腹を割って話し合って、どういう考え方で行動してるのかまで確認しないといけません。それこそ簡単な実験で答えが出るような種類の話ではなくて、人生をかけて友人・知人から、コツコツ少しずつ実例を集めながら確認していくしか、他にやりようのない考え方なんです。

「血液型と性格(気質)との間に、何か関係があるように感じるから、みんな人生をかけてフィールド調査をしていきましょう。」というのが血液型人間学の根本の考え方です。
で、だからこそ人間そのものを愛する「人間学」としての側面を持たせる事ができるのですよ。

たとえば、「失敗したときの対処の仕方」なんていうのが良い例ですな。

これ、サンプルを集めることができません。何をして「失敗」とするかが難しいですし、予測しないような出来事が起きてはじめて失敗なのであって、しかも人間関係の中での対処の方法、そのコンセプトの違いみたいな話ですから。

こういうサンプル、実例を得ようとしたら、人生経験の中で、友人・知人が失敗して落ち込んだ時などに、その人にキチンと向き合ってコミュニケーションを取り、どんな考え方を持っているのかを冷静に聞き出す必要があります。まず、そういう態度を身につけないと「気質」の違いなんて見えてこないんですよ。

「血液型と気質には相関関係がありそうだ」

というのは、そこまでの関係性を考えての提言なんです。

この「失敗したときの対応の仕方」というのは、少なくとも僕の少ない人生経験の中でも、もっとも血液型の違いで対処の仕方、コンセプトの違いが明確になりやすい例のひとつだなぁと思っています。

まず、失敗したときの対処の仕方で、標準的なものは「迷惑をかけた関係各位におわびに回る」という発想です。これがもっとも標準でしょう。この発想が素直に出てくるのがO型です。
で、当然AO型とかBO型とかも、こういう発想がベースにあります。なので、まぁおおむね半数以上の人は失敗したときに「迷惑をかけた関係各位におわびに回る」という行動を取ります。

が、しかし、AA型とBB型とAB型は、その当たり前の対応の仕方にあまり意味を感じなかったりするわけですね。「あやまって済む問題か?」っちゅうことになる。

A型的思考で行くと、「同じ失敗が繰り返されては意味がないのだから、失敗した原因を明確にして、同じ過ちが起こらない仕組みを作らねばならない」と考える傾向が強いようです。

つまり「失敗した」という人生経験を糧に、より良い環境にしていこうという発想ですね。

で、実はB型的思考にも、この「失敗を糧にして、より良い環境にしていこう」というのはあるんですが、どういうわけか、B型の人は失敗を防ぐ仕組みには全然興味を持たない傾向が強い。彼らにすれば「それはもともと私に向いていない事だったから失敗したのだ」という個人の立場から見る考え方が大きいわけです。だから「この失敗で出た穴をどう取り返すのか?」と考えます。

で、その取り返し方は、もうそれこそ個別にユニークですね。何が出てくるやらわからない。とにかく、仕事の上で全然取り組まれていなかったテーマに積極的に取り組むとか、そういう行動に向かうことが多いのです。

このあたりはもう、それこそ気質で、「謝り」「失敗予防」「取り返し」の3つの方向性のどれに重きを置くかは、それぞれのキャラクターと言うしかありません。当然、必ずその血液型がそういう考え方を取るというわけではないですけど、たとえばA型人間に「取り返し」をさせるとか、B型人間に「失敗予防」をさせるというのは、かなり精神的に負担は大きいだろうと思いますね。(で、それを無理にさせることが悪い事でもありません。そこから新しいその人らしさが出てくる場合もありますから。でもまぁ、あまり無理はさせない方が結果は良好だと思います。)

で、自分が何か失敗したときに、どう対処するかというのは、おおむね、上記の3方向だろうと思います。どれも大事で、どれが欠けても良くないように思いますし、この3つの方向性を全部抑えていれば、おおむね「漏れ」はないように思います。

で、ここで「たぶん漏れはないだろう」と思えるのは、友人・知人が失敗した時に、ちゃんと愚痴を聞いてあげたり、腹を割って話して、考え方を聞いてあげたりした結果として、「感じ取れる」種類の話なんです。
これを、「失敗した時には謝ることが大切だ」だけで押し通したり、あるいは「失敗予防が最優先だ」だけに邁進したり、あるいは「失敗は仕方ない、どう取り返すかだ!」と謝りもせずに突っ走ったりしたら、それはかなりまずい。

かなりまずいんですけど、人間はそうなりがちなんですね。
視野が狭いと、そうなるんです。
でも、自分の視野の狭さって、すごく気付きにくいんですよ。どうしても得意とする「考え方」「哲学」で行動してしまいがちなのです。

だからこそ、人と腹を割って話をして「気質」を理解しようとする態度、「血液型人間学」が有用なんですよ。
それは人生全体を通して人間研究をするぞ、フィールド調査をしていくぞ、という決意を持ちましょうという話であって、そういう「コンセプト」が「占い」であるはずがないじゃないか! って思うのですよね。

ちなみに、私はAB型でして、失敗したときには失敗の再発防止と、どう取り返すのかは両方ともにサッと考えるんですけど、謝罪の仕方がとおりいっぺんなので、すごく軽く思われてしまいがちだよなぁと、いつも反省しているのであります。もうちょっとキチンとまともに心からの謝罪しないとイカンなぁ。

ともあれ、「性格の分類」という事自体、科学ではできていません。
で、もうひとつ言うと、心理学という分野そのものが科学としてはまだまだキチンと成立しているとは言いにくい状況なのです。まぁ統計学の一部という感じでしょう。社会学も科学として成立してるかどうかは、なかなか難しい。そういうものなのです。

でも「哲学」というのは、学問の基礎を成すものですから、これは成立してます。成立してるというか、これなくして学問という体系自体が成立しない。そのくらい重要なものです。
ぽっと出の統計学などより、プラトンの「饗宴」をはじめ、対話をもとにした哲学の検討と言うことの方が、はるかに学問の方法論として重要で、「血液型人間学」というのは、そういう実に大きな可能性を持った考え方なのですよ。
あんまりちゃちな「占い」とかに貶めて欲しくないなぁって僕は思うのであります。

この話、まだ書くと思います。
ではでは、また。



コメント

nophoto
TAKESAN
2009年7月21日21:40

初めまして。大変興味深く拝読しました。

読んでいて、特に関心を持った部分について、教えて頂ければ幸いです。

▼引   用▼
ともあれ、「性格の分類」という事自体、科学ではできていません。
▲引用終わり▲
「性格の分類」が科学では出来ていない、との事ですが、どのような条件があれば、「性格の分類」が出来た、と言えるのか、教えて頂きたいです。

▼引   用▼
心理学という分野そのものが科学としてはまだまだキチンと成立しているとは言いにくい状況なのです。
▲引用終わり▲
まだ成立しているとは言えない、という事は、まず科学として備えるべき条件があって、それを心理学は満たしていない、のを意味すると思うのですが、では心理学はどのような部分が不充分であるのか、それを伺いたいです。

シゲ
2009年7月21日22:33

>TAKESAN
かきこみありがとうございます。
実にするどい指摘ですね。大変有意義なツッコミでありがたいことだと思っています。

しかし、残念ながらTAKESANに納得いただけるほどの鮮明なお答えはできないと思います。
が、とりあえず自分なりに。

●性格の分類

まず、「性格の分類」を行うのなら、公的な心理試験などを心理学者の間で定めないといけないだろうなとは思います。その分類自体が正確かどうかということより、まず「基準値」を学者同士で明確化したらどうなんだ、という気はします。
少なくとも数学における「公理」くらいのことは定義しても良いと思います。(数学における「直線」は面積を持っていませんが、現実の直線はなんらかの面積を持ちますし、無限の長さを持っていますから地球から飛び出します。そういうものでも良いから、まずは「基準値」を決めないとダメでしょう。でも、そういうものすら「ある」という話を寡聞にして聞いたことがありません。)

●科学としての要件
科学というのは、とにかく上記の「公理」のように前提となるモデルを立てて、それによって仮説を立てては繰り返し検証して、

>誰がやっても同じ結果が出る

という信頼性・再現性が求められなければならないものです。勉強不足で知らないだけかも知れませんが、心理学の実験などで、繰り返しての再現性が認められるような種類のものを見たり聞いたりしたことがありません。
もちろん個別の実験等は有意義なものですから、その実験結果等を否定するわけではありませんが、何分にも人間の個性にかかわることですから、「個体の違い」というのは必ずつねに存在しているわけです。そこを共通条件にするというのはかなり難しいので、繰り返しの再現性自体が、なかなか達成されないのではないでしょうか?

もちろん統計学的に有意な数値を得るというような形での心理学というのはあり得ると思うのですが、そうなると、社会心理学的な方向に流れてしまって「個人の心理」とは少し離れてしまうきらいがあります。

このあたりの要件を満たせば、きちんとした科学にもなるのかもしれませんが、そこはまだまだ明確化されていないのではないでしょうか。

それとは別に、フロイトの精神分析の方法論(これは精神的に病的な「問題」をとりのぞくという医学的アプローチでとても有意義だと思います。が、残念ながら医学は「学問=サイエンス」ではないのだそうです。サイエンスに付随する技術手法というかそういうものみたいですね。無意識の発見というのは、人類史上においてもかなりすごいエポックだと僕は思ってるんですが。)

そういう事を考えれば、「血液型」という、それこそ明確な基準がある「固定条件」で、人の性格を理解するための「補助線」として活用するほうが、よほど有意義なのではないか?ということを僕はおもいます。

以上、ここに書いたことは、あくまで私個人の感想ですので、広く社会一般でどうなのかなどは、ご自分でお確かめください。
ただ、国内の学問状況と海外の学問状況は似て非なるものらしいので、そのあたりはこまやかにご確認いただけるとありがたいです。

ではでは。

nophoto
あのね
2009年7月22日13:32

他人様に向かって,あれだけの暴言を吐いといて,
>あくまで私個人の感想
なんて言い訳が通用するわけないだろ。

全体的に突っ込みどころが多すぎるが,あなたはまず自分が無知であることを知り,
なにかを述べたいのなら,少しは調べてからにするべき。

こんな調子で日常のコミュニケーションをとってるのかい?

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