クセとは何か?

2009年5月22日
唐突ですが、最近、「癖(クセ)」というものが、とても気になっています。

クセというのは、無意識に行っている行動でして、意識的に行う動作とは少し違っています。

意識的に行っているのではありませんから、実は自分が「クセ」を頻繁に実行しているという実感もない、という事になるんですね。

考えたら不思議な行動なわけです。意識もせずに行動しているわけですから。たとえば、

●髪の毛を触る。
●鼻をさわる。
●頭をかく。
●足を組む。

などなど、数えだしたらキリがありません。

こういう具合に書くと、「人間って不思議な事を時たまやってるのね。」と思うのですが、いやいや、実は、こういう「無意識な動き」がなければ、人間生きていくことなんてできないんですよ、という事も言えるわけです。

たとえば、「歩く」。

これ、誰でも意識して歩いていると思ってますが、その実、考え事をしながら歩いている時というのは、ほとんど歩いているという動作そのものは「意識」からは消えています。歩く動作は、自動機械のように、半無意識下で行っていると言っても良いくらいなんですね。

あるいは交通機関の定期券なども、いつカバンから出して改札を通ったのか覚えていなかったりします。都市部では自動改札機になっていますから、なおさらですね。改札を出てすぐであっても、自分の行動の記憶がなかったりします。まさに自動化されているんです。

で、通常はクセというのは、「行動」だけのものと考えるわけですが、これがどうも最近思うのは、「考え方のクセ」というのがあるように思えます。

どうも、この「考え方のクセ」というものを、冷静にチェックできるかどうか? ということが、かなり大事な事のように最近では思うわけです。

この歳になると、友人・知人も結婚生活が長いものがいたり、あるいは離婚・再婚、あるいはそのモメている最中と、いろんなパターンを見ますし、相談に乗ったり、グチを聞いたりもするわけですが、最近よく思うのは、「結局、おんなじパターンやんけ。」という事なんですね。

飲みに言ったりして、グチを聞いてやるとかも、まぁ友人の努めであるわけですが、話の入り口こそ毎回違うのですが、最終的な落ち着きどころが、いつも同じグチであるとかするわけです。

なんなんやろ、これは?

と思うのですね。

問題の解決をしようと言うのではないわけです。
同じ問題に、同じようにひっかかってるだけなんですね。

で、話を第三者の立場で聞いてると、まぁそれは、その友達の味方として聞いてるわけですが、夫婦どっちとも、


●反射的に怒ってる。


という状態があるわけですよ。ほんとに単純に。

ようするに、


●もめることがクセになってしまっている。


んです。
そうとしか言えない。

最近、こういう事に気づいてきまして、「うーむ、これはよろしくないですなぁ」と思うわけです。
「クセで怒る」とか、意味ないですわなぁ。問題点を指摘するのならいいけど。


でも、実際、これはかなり多いパターンなんじゃないのか? って気がします。

で、これを解決するのは、論理とか正義とか、そういうことではないんですね。単純に「クセに気づいて、改める。」しかないわけですよ。

まず、「クセになってるんだ」と気づくのが先なわけです。

なんでかというと、その行動が「無意識」に行うようになってるからですね。
そこに積極的な意味などないわけです。
単なる反射ですから。

駅の改札に来たら、自動的に定期券を無意識に出すのと同じように、配偶者の特定の言葉に反射的に反応するようになってたりするわけです。


これはつまらんよなー、って思うわけです。
本当に意味がない。


ところが、この問題には、もうひとつやっかいな事柄がありまして、それがこのつまらん問題を、よけいにやっかいにさせるんですね。
それは

●考え方が自分である。

というアイデンティティ問題です。

これねぇ、大間違いなんですよね。
考え方は「自分」ではないんです。

でも、長年、考え方のクセがついてくると、この「考え方」こそが自分であるかのように思えてきてしまうわけです。
よく、「私は私の亭主に人生を踏みつけにされた」とか言う人がいてたりしますが、(当然、性別が逆の場合もありますよ。これはどっちでも同じ事です。「クセを持ってしまう事」に男女差はないです。)あれも、そういう風に考えている自分こそが真の自分なんだ、という「考え方のクセ」と「考え方が私である」という勘違いによって成立してるんですな。

このあたり、去年から瞑想という奴をちょろちょろやり出して、とても実感してます。

思想でもコンセプトでもなんでも良いんですが、「考え方」というのは道具でして、上手に使えばとても役立ちますが、それそのものが「自分」というわけではないんですな。
その「考え方」を「使っている自分」というのがいてて、その自分こそが真の自分なわけです。

だから、「考え方」というのは、いくらでも手離せるし、またふたたび持つこともできる。カバンとか服とか、腕時計とか、そういうものと一緒です。
最近では、時計をする人は減ってきましたが、腕時計をしているのが当たり前だった頃は、腕時計が体の一部のような感じになっていた人もいてると思いますが、それと同じ事ですね。
「考え方」を、あまりに長く身につけていると、その考え方こそが「自分」なのだと思いこんでしまう。そういう「感覚」が湧いてしまうんですね。

あ、メガネやコンタクトも同じでしょうね。これもある意味、体の一部のような気になってしまいますが、そうではありません。メガネも道具ですし、コンタクトも道具です。

で、同じように「考え方」も道具なんです。道具でしかないわけですね。

だから、「考え方」も、実用性があって、実利があるなら、毎日活用してたら良いわけですが、実利がないのに「これこそが自分だ」としがみついてると、あまり得なことはないわけです。

でもねぇ、これがどういうわけだか、しがみついてしまってるんですよね、みんな。

それも「無意識に」なんですよ。
意識してしがみついてるなら、「しがみついてるよ」と指摘すれば、「あ、そうか」と手放せるんですが、無意識だから、手放すことがどういうことなのかがわからないんですな。

で、こういう事って、当人より、第三者の方が良く見えるわけです。
友人の状態とか見てても、こっちの方がよく見えるから、「それは君の思いこみが強すぎると思うで。」とか指摘するんですが、どっこい「無意識に考え方を自分自身だと思いこんでる」わけですから「そんなことないよ」と強く否定するわけですわ。そこを手放したら、自分でなくなってしまうような恐怖があるんでしょうなぁ。

そんな事ないのに。
「考え方」なんか道具でしかないのに。

って思う。

ってまぁ思ってはいてるんですけど、では、ひるがえって、自分が「考え方」を自在に手放しているか? というと、多分それはうまくはできていないんでしょうな。

なので、最近は、いかに「考え方」を自在に客観視して、手放せるか、あるいは、手放した後に、また自由な気持ちで(道具を持っている自分を意識しつつという事ですね)、また持ちなおすか? というような事を考えています。

とくに、「あまり役に立たない考え方」は、できるだけ捨てるようにして、より役に立つ実用的な、道具としての「考え方」を無意識にでも使えるようにしたいと思っています。

このあたり、悪いクセの修正と、新しいクセの習得という意味で、楽器練習と似てるところがあるんですよね。

他者のクセの修正はなかなかできない訳だから、自分のクセを、できるだけ自覚しながら修正していくというのをやっていくしかないかなぁと思います。

ものすごく抽象的な事を書いてしまいましたが、概ねはそういう事を考えてるんですよね、私。

このあたり、アダルトチルドレンとか、依存症、共依存などにも通じる話ですし、うまく展開すれば、願望達成法とか、確実なダイエット手法とかにもつながって行くはずです。
単純に「悪い生活習慣の改善」なわけですから。

「悪い生活習慣」っちゅうのも、ようは「クセになってしまった考え方」が引き起こしているわけですしね。「考え方」の方を腑分けするというか、解剖して、構造を精密に解き明かす方が、上手に改善できるように思いますね。

ともあれ、「クセ」というのが、最近はとっても気になってるキーワードなのであります。
はい。

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