森進一はレインボーマンだったのだ論。
2009年3月28日コメント (8)今日は、ふと思い立って、「森進一はレインボーマンだったのだ論」を書きます。
なんのこっちゃらさっぱりわからんでしょうが、ここには、川内康範という特異な作家の立ち居振る舞いが入ってきます。
結論から言うと、「日本人はみんな、『おふくろさん』を胸に真実と愛に生きていこうぢゃないか。」という話になるんですが、これでもまだ意味不明ですわな。
この話を書きたく思ったのは、実は昨年暮れの紅白歌合戦を見たからなんです。で、去年の紅白歌合戦では、森進一が、ずっと川内康範から歌唱禁止を言い渡されていた「おふくろさん」をやっと歌った紅白だったのですね。2年ぶりくらいだと思います。
で、これが実に良かった。胸を打つ歌唱だった。
で、歌詞を読み直してみて、実はこの歌が川内康範が日本人全員に送っている、強い強いメッセージソングだったのだと、改めて気付いた、と言うことなのですね。
おふくろさんは、空を見上げりゃ空にあって、雨の降る日は世の中の傘になれよと教えてくれるという歌です。
この「おふくろさん」は、母親ということもあるけれど、山の神でもあって、自然神でもあり、ようは日本人の心ということでもありましょう。
で、川内康範という人は、知っている人は知っているでしょうが、いろいろと独自の哲学を持っていた人で、その日本人全体に送るメッセージ性の強さは、もうずっと昔から変わっていないのですね。
知っている人は知っているでしょうが、この人は本当にヒットメーカーでして、歌謡曲では「伊勢佐木町ブルース」やら「骨まで愛して」やら印象的な歌を何作も作詞してますし、子供向けのヒーロードラマも月光仮面にレインボーマン、コンドールマンなどたくさん作っています。
で、あの「まんが日本昔話」も、この人の企画だったりするわけですね。
この人は作家というよりかは、思想家・活動家であって、社会に的確にメッセージを届けるために大衆や子供などの弱い立場の人を意識して、歌謡曲やヒーロードラマなどを作り続けて来た人なわけです。まずメッセージがあって、その伝達手段としてエンタテインメントがあった、という事ですね。
このあたりはWIKIPEDIAでも引用しておきましょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%86%85%E5%BA%B7%E7%AF%84
で、そういう事は知ってたんですけど、この「おふくろさん騒動」に関しては、まぁ川内康範も年を食って、ガンコになってしまっただけだろうとか勝手に思ってたわけです。
いろいろ調べてみると、森進一と川内康範は、本当に親子関係に近いくらい師匠と弟子の濃い関係があるんですな。
川内康範は森進一の一途な性格を見込んで、面倒をみてやり、曲も書いてやり、大ヒット歌手に育てたわけです。
で、その森進一が独立するときに、所属していた大手プロダクションからの横槍でテレビに出られなくなった時も川内康範が「NHKは国営放送なんだから、良いじゃないか、これだけは出させてやってくれ」と談判したらしいんですな。
だから「紅白」ってのは大切なわけですよ、川内康範にとって。
で、その因縁の「紅白」で、森進一が「おふくろさん」を歌う前にモノローグで「語り」を付けたバージョンを歌っていたのを見て激怒するわけですね。「これは『おふくろさん』ではない!」という事だったんでしょう。
で、僕は「ちょっとカタイ事言いすぎと違うん? まぁええやん、多少の演出くらい。」と思ってたわけです。
が、しかし、実際に聞いてみると、「おふくろさん」という歌は、歌詞といい、曲といい、とにかくムダのない楽曲で、その一曲をまるまる、本当に心を込めて歌えば、その歌詞のメッセージはとても良く伝わるし、逆に言えば、そこを誠実に心を込めて歌わなければ、肝心のメッセージがまったく伝わらない、つまらない曲になっちゃうんですね。
それを去年、僕は紅白で歌う森進一を見ていて実感してたのです。
実際、森進一という歌手は、声質が独特であり、あの声質で、真摯に語りかけるように歌って初めて、個性も生きる人なわけです。で、川内康範は、その個性を見出していたからこそ、あの「おふくろさん」という歌を書いたわけだし、それこそが森進一の個性を生かす道でもあった、という事なんでしょう。
しかし、曲自体はシンプルですから、やはり事務所の都合とか舞台演出上とかの都合で、イントロを余分につけるのが普通になってたんでしょうね。
でも、その「余分」を取り払って歌うとなると、やはりこの歌は真剣に一言一言を伝えるために唄う、という事をするしかなくなる歌なんですよね。
それが、本当に良く分かりました。
だから、川内康範のオリジナルバージョンを歌った森進一は、まさに川内康範が創作した理想のヒーロー、「愛の戦士レインボーマン」そのものだったと言えるわけです。
「おふくろさん」という日本人の心に自然に存在する山の神の規範性みたいなものを、聞いている人の心に、魂に、直接注入した、ということです。
で。
話は、そこまでの事でして、昨年の大晦日に「ああ、そういう事なんだなぁ。」と感心しただけで終わってたんですが、実は先日、友人から、たまたま「伊勢佐木町ブルースって良いよなぁ」というメールをもらいまして、そのYouTubeの動画を見ていたわけです。
すると、やはり、この歌にも、そこはかとなく「社会の中の私」というのが反映されていて、面白いなぁと気になって参りまして、で、月光仮面の歌詞とか、レインボーマンの歌詞とかも読み比べて見る、てな事をしてしまったわけです。
月光仮面もレインボーマンも、なかなかに大した内容なのですが、その過程で、YouTubeに上がっていたレインボーマンの第一話、レインボーマン誕生の話を見ていて、僕はあっと驚く事になるんですよ。
というのは、レインボーマンはインドの山奥にいてる超能力を持った修行僧、ダイバダッタによって訓練・修行を施されて、ダイバダッタの魂を受け継いでレインボーマンになるわけですけど、このダイバダッタがまさに川内康範であり、レインボーマンがまさに森進一だよなぁとしみじみと感じたからなのですね。
レインボーマンになる、18歳の男子、ヤマトタケシは病気の妹がおり、そのためにもプロレスで人気レスラーになりたくて、強い力を手に入れたいわけです。単純に「お金が欲しい」「強くなりたい」という欲にまみれた普通の男の子なわけです。
これがインドまで出かけてダイバダッタに出会って、そのダイバダッタが150歳で天寿を全うするときに、その愛の魂を受け継いで、ダイバダッタが理想とした超人「レインボーマン」になるわけです。
このあたりが、ひどく去年の紅白の「おふくろさん」と重なってしまうのですなぁ。川内康範さんは88歳でなくなりまして、で、川内康範が死んだからこそ、森進一は「おふくろさん」を真剣に、オリジナルバージョンで歌う機会が得られたわけです。川内康典の「魂」を、つまりダイバダッタの魂を広く大衆に伝えるヒーローとなった、というわけです。
なんちゅうか、この出来事を、すでにレインボーマンを書いてた時に予測していたのではないか? というくらいに構造が似てるよなぁって思うのです。
いや、実は。
似てるのは森進一とレインボーマンだけではなくて、実はレインボーマンに登場する悪の集団である「死ね死ね団」と、最近の一連の新自由主義経済的な社会動向とか、ものすごくよく似ているよなぁ、という気がしたからなんですね。
「死ね死ね団」というのは、この手のヒーロードラマの中でも、破格のポジションを持つ特異な集団です。なんせ、日本人を殺すのが目的なんですから。ナチがユダヤ人殺害を行ったというのを、日本人に置き換えたような存在なわけです。
まぁ、僕に言わせれば、新自由主義経済的な動きというのは、日本では、小泉改革とか竹中レンタル大臣のやってきた「神の見えざる手を上手に言い訳のネタに使った私欲改革」という事にしかならないんですけど、それは横に置いといて。
突然に話が郵貯の話になって申し訳ないんですが、あの郵政選挙の時に、誰も話題にしてなかったんですけど、例の副島さんの弟子筋にあたる中田安彦さんが、「ようは郵貯の金が、日本国内に投資されるかどうかが問題だ」と、実にするどい指摘をされていて、まさにそここそが重要だ、と思ったわけですよ。
そりゃ、世界中の優良物件に投資をすれば、利率が良くなり、お金を郵貯の預けていたおばぁちゃんのお金が増える事にはなります。
しかし、その投資先がニューヨークだったり、ロシアだったりするばかりだったら、日本国内への投資が行われず、我々の社会基盤の成長・発展は損なわれてしまいます。
だから、郵貯銀行を外資が握るっていうのは、よろしくない、という話なわけですよ。
たとえ、金利が悪くなっても、社会資本の充実などがなされるなら、それはお金を預けているおばぁちゃんにも、その子や孫にも利益になりますが、海外投資に回されたのでは少しのお金がおばぁちゃんの口座に入るだけで、日本自体は貧しくなってしまいます。
で、この構造こそが、まさに「死ね死ね団」なわけですよ。
特に、あまりにいまの時代にピタリとはまってしまうのが、死ね死ね団の行ったM作戦。
入信するとお金がもらえるという新興宗教をでっちあげ、偽札をすりまくってハイパーインフレを起こし、経済を混乱させて日本人みんなを困らせる、というのが大きな作戦なわけですが、これって、いまの状況そのままじゃん!
この後、レインボーマンでは食糧難が起きて、土一揆のような社会の混乱が起こるというストーリーだったらしいのだけど、日本もそうなりかねません。
でね、経済の勉強してる人だと、良く聞く言葉だと思うのですが、
「銀行というのは、経済がうまく行ってる時には、別に必要もないのに、金を借りてくれ、借りてくれと言ってきて、不況になって本当に資金が必要になったときに、あぶないからと資金を引き上げるような事をするのだ」
という事のたとえ話で、
「銀行は、晴れた日にばかり傘を貸して、雨の日には貸さない。」
という言葉があるわけですよ。知ってる人は知ってるでしょうけど。
それを頭に置いた上で、「おふくろさん」の歌詞を考えるとね、これはもう、本当にとんでもない話だなぁって思うわけで。
「雨の降る日は 傘になり、お前もいつかは 世の中の傘になれよと 教えてくれたあなたの あなたの真実」
ですからな。
なんちゅうか、ほんまにすごい話ですなぁと。
そう思ったのであります。
だからまぁ、ようするにね、「雨が降った時には、傘を貸してあげるような、当たり前の親切心を大切にしましょうね。」って話になると思うのですよ。結局は。
それこそが、私たち日本原住民の真実なんです。
世界標準の知識や知恵には、全然追いついてないと僕は思ってるんですけど、でも、だからこそ、こういう山の神的、あたりまえの親切心、みたいな事を、ちょっと物事の判断の基礎に置いても、良いのではないですか? 少なくとも我々日本人は、と思うのでありますよ。私は。
「森進一はレインボーマンだったのだ論」というのは、そういうお話しなのであります。
なんのこっちゃらさっぱりわからんでしょうが、ここには、川内康範という特異な作家の立ち居振る舞いが入ってきます。
結論から言うと、「日本人はみんな、『おふくろさん』を胸に真実と愛に生きていこうぢゃないか。」という話になるんですが、これでもまだ意味不明ですわな。
この話を書きたく思ったのは、実は昨年暮れの紅白歌合戦を見たからなんです。で、去年の紅白歌合戦では、森進一が、ずっと川内康範から歌唱禁止を言い渡されていた「おふくろさん」をやっと歌った紅白だったのですね。2年ぶりくらいだと思います。
で、これが実に良かった。胸を打つ歌唱だった。
で、歌詞を読み直してみて、実はこの歌が川内康範が日本人全員に送っている、強い強いメッセージソングだったのだと、改めて気付いた、と言うことなのですね。
おふくろさんは、空を見上げりゃ空にあって、雨の降る日は世の中の傘になれよと教えてくれるという歌です。
この「おふくろさん」は、母親ということもあるけれど、山の神でもあって、自然神でもあり、ようは日本人の心ということでもありましょう。
で、川内康範という人は、知っている人は知っているでしょうが、いろいろと独自の哲学を持っていた人で、その日本人全体に送るメッセージ性の強さは、もうずっと昔から変わっていないのですね。
知っている人は知っているでしょうが、この人は本当にヒットメーカーでして、歌謡曲では「伊勢佐木町ブルース」やら「骨まで愛して」やら印象的な歌を何作も作詞してますし、子供向けのヒーロードラマも月光仮面にレインボーマン、コンドールマンなどたくさん作っています。
で、あの「まんが日本昔話」も、この人の企画だったりするわけですね。
この人は作家というよりかは、思想家・活動家であって、社会に的確にメッセージを届けるために大衆や子供などの弱い立場の人を意識して、歌謡曲やヒーロードラマなどを作り続けて来た人なわけです。まずメッセージがあって、その伝達手段としてエンタテインメントがあった、という事ですね。
このあたりはWIKIPEDIAでも引用しておきましょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%86%85%E5%BA%B7%E7%AF%84
で、そういう事は知ってたんですけど、この「おふくろさん騒動」に関しては、まぁ川内康範も年を食って、ガンコになってしまっただけだろうとか勝手に思ってたわけです。
いろいろ調べてみると、森進一と川内康範は、本当に親子関係に近いくらい師匠と弟子の濃い関係があるんですな。
川内康範は森進一の一途な性格を見込んで、面倒をみてやり、曲も書いてやり、大ヒット歌手に育てたわけです。
で、その森進一が独立するときに、所属していた大手プロダクションからの横槍でテレビに出られなくなった時も川内康範が「NHKは国営放送なんだから、良いじゃないか、これだけは出させてやってくれ」と談判したらしいんですな。
だから「紅白」ってのは大切なわけですよ、川内康範にとって。
で、その因縁の「紅白」で、森進一が「おふくろさん」を歌う前にモノローグで「語り」を付けたバージョンを歌っていたのを見て激怒するわけですね。「これは『おふくろさん』ではない!」という事だったんでしょう。
で、僕は「ちょっとカタイ事言いすぎと違うん? まぁええやん、多少の演出くらい。」と思ってたわけです。
が、しかし、実際に聞いてみると、「おふくろさん」という歌は、歌詞といい、曲といい、とにかくムダのない楽曲で、その一曲をまるまる、本当に心を込めて歌えば、その歌詞のメッセージはとても良く伝わるし、逆に言えば、そこを誠実に心を込めて歌わなければ、肝心のメッセージがまったく伝わらない、つまらない曲になっちゃうんですね。
それを去年、僕は紅白で歌う森進一を見ていて実感してたのです。
実際、森進一という歌手は、声質が独特であり、あの声質で、真摯に語りかけるように歌って初めて、個性も生きる人なわけです。で、川内康範は、その個性を見出していたからこそ、あの「おふくろさん」という歌を書いたわけだし、それこそが森進一の個性を生かす道でもあった、という事なんでしょう。
しかし、曲自体はシンプルですから、やはり事務所の都合とか舞台演出上とかの都合で、イントロを余分につけるのが普通になってたんでしょうね。
でも、その「余分」を取り払って歌うとなると、やはりこの歌は真剣に一言一言を伝えるために唄う、という事をするしかなくなる歌なんですよね。
それが、本当に良く分かりました。
だから、川内康範のオリジナルバージョンを歌った森進一は、まさに川内康範が創作した理想のヒーロー、「愛の戦士レインボーマン」そのものだったと言えるわけです。
「おふくろさん」という日本人の心に自然に存在する山の神の規範性みたいなものを、聞いている人の心に、魂に、直接注入した、ということです。
で。
話は、そこまでの事でして、昨年の大晦日に「ああ、そういう事なんだなぁ。」と感心しただけで終わってたんですが、実は先日、友人から、たまたま「伊勢佐木町ブルースって良いよなぁ」というメールをもらいまして、そのYouTubeの動画を見ていたわけです。
すると、やはり、この歌にも、そこはかとなく「社会の中の私」というのが反映されていて、面白いなぁと気になって参りまして、で、月光仮面の歌詞とか、レインボーマンの歌詞とかも読み比べて見る、てな事をしてしまったわけです。
月光仮面もレインボーマンも、なかなかに大した内容なのですが、その過程で、YouTubeに上がっていたレインボーマンの第一話、レインボーマン誕生の話を見ていて、僕はあっと驚く事になるんですよ。
というのは、レインボーマンはインドの山奥にいてる超能力を持った修行僧、ダイバダッタによって訓練・修行を施されて、ダイバダッタの魂を受け継いでレインボーマンになるわけですけど、このダイバダッタがまさに川内康範であり、レインボーマンがまさに森進一だよなぁとしみじみと感じたからなのですね。
レインボーマンになる、18歳の男子、ヤマトタケシは病気の妹がおり、そのためにもプロレスで人気レスラーになりたくて、強い力を手に入れたいわけです。単純に「お金が欲しい」「強くなりたい」という欲にまみれた普通の男の子なわけです。
これがインドまで出かけてダイバダッタに出会って、そのダイバダッタが150歳で天寿を全うするときに、その愛の魂を受け継いで、ダイバダッタが理想とした超人「レインボーマン」になるわけです。
このあたりが、ひどく去年の紅白の「おふくろさん」と重なってしまうのですなぁ。川内康範さんは88歳でなくなりまして、で、川内康範が死んだからこそ、森進一は「おふくろさん」を真剣に、オリジナルバージョンで歌う機会が得られたわけです。川内康典の「魂」を、つまりダイバダッタの魂を広く大衆に伝えるヒーローとなった、というわけです。
なんちゅうか、この出来事を、すでにレインボーマンを書いてた時に予測していたのではないか? というくらいに構造が似てるよなぁって思うのです。
いや、実は。
似てるのは森進一とレインボーマンだけではなくて、実はレインボーマンに登場する悪の集団である「死ね死ね団」と、最近の一連の新自由主義経済的な社会動向とか、ものすごくよく似ているよなぁ、という気がしたからなんですね。
「死ね死ね団」というのは、この手のヒーロードラマの中でも、破格のポジションを持つ特異な集団です。なんせ、日本人を殺すのが目的なんですから。ナチがユダヤ人殺害を行ったというのを、日本人に置き換えたような存在なわけです。
まぁ、僕に言わせれば、新自由主義経済的な動きというのは、日本では、小泉改革とか竹中レンタル大臣のやってきた「神の見えざる手を上手に言い訳のネタに使った私欲改革」という事にしかならないんですけど、それは横に置いといて。
突然に話が郵貯の話になって申し訳ないんですが、あの郵政選挙の時に、誰も話題にしてなかったんですけど、例の副島さんの弟子筋にあたる中田安彦さんが、「ようは郵貯の金が、日本国内に投資されるかどうかが問題だ」と、実にするどい指摘をされていて、まさにそここそが重要だ、と思ったわけですよ。
そりゃ、世界中の優良物件に投資をすれば、利率が良くなり、お金を郵貯の預けていたおばぁちゃんのお金が増える事にはなります。
しかし、その投資先がニューヨークだったり、ロシアだったりするばかりだったら、日本国内への投資が行われず、我々の社会基盤の成長・発展は損なわれてしまいます。
だから、郵貯銀行を外資が握るっていうのは、よろしくない、という話なわけですよ。
たとえ、金利が悪くなっても、社会資本の充実などがなされるなら、それはお金を預けているおばぁちゃんにも、その子や孫にも利益になりますが、海外投資に回されたのでは少しのお金がおばぁちゃんの口座に入るだけで、日本自体は貧しくなってしまいます。
で、この構造こそが、まさに「死ね死ね団」なわけですよ。
特に、あまりにいまの時代にピタリとはまってしまうのが、死ね死ね団の行ったM作戦。
入信するとお金がもらえるという新興宗教をでっちあげ、偽札をすりまくってハイパーインフレを起こし、経済を混乱させて日本人みんなを困らせる、というのが大きな作戦なわけですが、これって、いまの状況そのままじゃん!
この後、レインボーマンでは食糧難が起きて、土一揆のような社会の混乱が起こるというストーリーだったらしいのだけど、日本もそうなりかねません。
でね、経済の勉強してる人だと、良く聞く言葉だと思うのですが、
「銀行というのは、経済がうまく行ってる時には、別に必要もないのに、金を借りてくれ、借りてくれと言ってきて、不況になって本当に資金が必要になったときに、あぶないからと資金を引き上げるような事をするのだ」
という事のたとえ話で、
「銀行は、晴れた日にばかり傘を貸して、雨の日には貸さない。」
という言葉があるわけですよ。知ってる人は知ってるでしょうけど。
それを頭に置いた上で、「おふくろさん」の歌詞を考えるとね、これはもう、本当にとんでもない話だなぁって思うわけで。
「雨の降る日は 傘になり、お前もいつかは 世の中の傘になれよと 教えてくれたあなたの あなたの真実」
ですからな。
なんちゅうか、ほんまにすごい話ですなぁと。
そう思ったのであります。
だからまぁ、ようするにね、「雨が降った時には、傘を貸してあげるような、当たり前の親切心を大切にしましょうね。」って話になると思うのですよ。結局は。
それこそが、私たち日本原住民の真実なんです。
世界標準の知識や知恵には、全然追いついてないと僕は思ってるんですけど、でも、だからこそ、こういう山の神的、あたりまえの親切心、みたいな事を、ちょっと物事の判断の基礎に置いても、良いのではないですか? 少なくとも我々日本人は、と思うのでありますよ。私は。
「森進一はレインボーマンだったのだ論」というのは、そういうお話しなのであります。
コメント
空にあったり、「世の中の傘」はごく一部の人間にしか、なれないわけですから。
となりに傘かすのとは違う気が。。
ほへへへ。立身出世をめざせですか。それは驚いた。(笑)
いや、まぁ、どう受け取っても自由なように書かれた詩ですからね。まぁ、聞き手の親子関係を反映させた受け取り方しか、できなくて当然なので、それで良いんですけどね。
そーかー、ACとか児童虐待がある場合は、この歌は届かないなぁ。うーむむむむ。
まぁ、それはそれとして。
川内康範って人の思想というか哲学というかをトータルに考えると、「おふくろさん」は、単純な立身出世の歌という解釈にはなりにくいですよ。
たとえば、月光仮面のキャッチフレーズは「憎むな、殺すな、赦しましょう」で、毎回最初にこのフレーズが出てきたそうですし。
また、レインボーマンの敵である、日本人皆殺し集団「死ね死ね団」のテーマソングでは、
「しね!しね!しねしねしねしねしんじまえ~
黄色いブタめをやっつけろ~金で心をよごしてしまえ!」
となっていて、基本的に現世利益否定の感情を持っていた人という気がしますので。
で、そういうメッセージは、貫いておられたように思いますね。
ただ、かと言って立身出世を否定してるわけでもなくて、レインボーマンになるまえの18歳のヤマトタケシは、プロレスで強くなって金儲けがしたいという存在でしたからなぁ。そういう現世の欲は欲として肯定されてますね。
月光仮面のあの三日月も、人間の不完全さを象徴しているマークなのだそうで、いまは不完全でも、いずれは完全体になるのだ、という理想の姿を求めて生きる、人間のあり方を表しているのだそうです。
ちなみに、「正義の味方」という言葉自体が、川内康範さんの創作ワードだそうです。菩薩さまとかが正義そのものであって、月光仮面は、その正義に「味方」しているだけ、なんだそうです。月光仮面が正義なのではないんですね。ああああ、そうだったのか! と驚いてしまいました。なんかすごい人ですわ。川内康範さんって。
TV子ども向け番組として。
でも、そういう時代だったとも言えるし。。
>立身出世をめざせですか。それは驚いた。(笑)
いや、作詞者ご本人がそういってたというのを、
女性雑誌で読んだ記憶が。
ご本人が言っておられた? ああ、そうか、まず「世の中の傘になれるくらいの実力をつけよ」という意味ですな。うむうむ。それはそうですわね。川内康範さん自身、ものすごいヒットメーカーだし。「そのくらいのことはできるよ」という大前提があるわけですな。どうも「立身出世」と聞くと、金だけで社会的善に基づくという観点が抜け落ちてるように感じてしまっていかんです。
でもまぁ、実力もなしに「世の中の傘」にはなれませんわね。うむうむ。そこは頑張らないとダメですわね。このあたりは当たり前なんですけど、いまのご時世だと、「立身出世」すら、自分では何もしなくてあぶく銭をつかまえてなんとかしたいとか、ありますからなぁ。そういう理解かと思った。
あと、レインボーマンが異色というより、川内康範氏が特殊だったと考える方がわかりやすいですよ。「おもしろかったら良い」というだけの人ではなくて「メッセージを伝えるのが主たる目的」って人ですからねぇ。そういう想いを徹底して表現している表現者は少ないですから。
でも、それが本来のあり方なんだと思うんですけどね。
死ね死ね団の偽札工場で、偽札づくりをしている職人が、正義にめざめて工場を爆破し、それを見てレインボーマンが「名も無き正義の人が正しい事をしてくださった、ありがたい。」と合掌し、死ね死ね団の首領は「なぜこんなことになったんだ? さてはこれもレインボーマンの仕業だな!許せんレインボーマンめ!」と、より一層レインボーマンへの攻撃が強くなる、というようなお話しがあったそうです。
なんちゅうか、これこそ川内康範の世界観やわなぁと思いますねぇ。間違ってる奴はどこまでも間違ってるというか。やれやれって思いますわね。
彼にとって立身出世はネガティブな表現ではなく、
しげさんいうところのような、理想を社会に実現するために
必要なこと、として肯定的にとらえられてるみたいですよ。
人を追い落としてなる物、というものではないみたい。
ほほう。良い情報ありがとうございます。
そうですねぇ。川内康範さんって、まさにその立身出世をした上で、「広く社会に貢献する」という観点も忘れなかった人ですからねぇ。
レインボーマンの第一話で、レインボーマンになる前の高校生ヤマトタケシは、高校のアマレスで危険な技で対戦相手をケガさせるんですが、「ケガをするのは未熟な証拠」と言ってのけるんですね。それで退部させられる。「なら、プロになってやる。」と言ってプロの門を叩くのですが、プロの世界では、その対戦相手をケガさせたほどの技が、ちっとも通用しないわけです。
で、これはしょうがない、世界一の武道家に教えをうけに行こう、ということになってダイバダッタに会いに行くんですね。
まさに立身出世そのものですからなぁ。
とくに、「ケガをするのは未熟な証拠」というのが、スゴイですわね。いや、その通りなんだけど、そういう事を言うと、退部させられますわな。そういうことまでひっくるめて面白いです。徹底して実力主義の人なんだなぁと思います。で実際、実力でヒットを飛ばしてきた人だしねぇ。
たいていは、退部させられたところでグジグジ文句言ったり、恨んだりですわな。普通は「もっと強くなってやろう」とか思わないでしょうから。僕も傘になれるくらい実力をつけなくちゃいけませんね。いや、ほんとに。
ともあれ、立身出世して腐る人も多いですからなぁ。ウルマ某みたいに。どうしてもそういうイメージ持っちゃいますよね。
おお、すばらしいです。
こういう風に奮起してくれる人が続出するのを、きっと彼も期待していたでしょうね。