天地がひっくりかえる。
2008年9月3日前から、アダルトチルドレンの話を書いてますが、自分がACだと気付く時って、かなり動揺するんですよね。
まさに天地がひっくり返るような驚きがあって、どうしてもその事実を受け入れがたかったりする。
自分が「当たり前だ」と思っていて、「普通の事だ」と感じてる事が「かなりおかしい」事らしいと、だんだんわかってくるわけですわ。
これねぇ、かなり強烈な体験なんですよねぇ。
昨日まで、当たり前だと思ってたことが、どうも、かなりおかしな事であるのではないか?という疑いが出てくる。
改めて冷静に考えてみると、この考え方っておかしいよな? あれ? って思う。
僕なんて、すごくこの過程がおかしな具合で訪れました。
まず、たまたま知り合った女の子が、かなりの重症のACだったわけです。
で、なんとなくヘンだよなぁ、と思ってた。
で、たまたま何かの流れで読んでいた岩月謙司さんの本に書かれていた「思い残し症候群」と、その子の言ってる事が、あまりに似てたので、その本を紹介してあげたわけです。
そしたら、「この本に書いてあること、私の事でしょ? そのままです!」と、ものすごく驚かれたわけです。
なんでそうなるのか。
つまり、「私はどうやら、何かが世間とはちょっと違っている。どうも幸せの実感とかがうまく持てない。私はどうもヘンだ。」という感覚が彼女にはあって、その孤独感に悩んでいたわけですよ。
そこでの意識は「私はかなり特殊だ」という事なんですね。
が、しかし。
その「思い残し症候群」の事が書いてある本には、その「特殊な感じ方」の事が、「症例のひとつ」として紹介されてるわけですよ。それは彼女にとっては、ものすごく驚くべき事だった訳です。特殊だと思っていた自分の「問題」が、「よくある症例」だったわけですから。孤独感とよくある症例って全然別の話じゃないですか? でも、実際には「よくある症例」なわけですよ。
これはねぇ、ほんとうに、まさに天地がひっくり返る感覚なんですよ。
で、彼女の方は、まぁ、そのまま自分の回復への道を歩んでいったのだろうと思うのだけど、その過程で「私は『思い残し症候群』だというのはわかったけど、シゲさんは?」と、マジで聞かれたわけです。
え?僕?
はて。
自分の事?
え?
これが恐ろしい事に、その子の「ヘンさ」には気付いていたのに、自分の「ヘンさ」には全然気付いてなかったわけですよ。でも、彼女からすれば、「こういう事に気付けて、理解もできるという事は、この人も同じような問題を抱えているに違いない」となったわけです。
で、そこから、実は僕自身の苦しみが始まってしまったんですよね。
「いや、確かに、自分にはおかしなところがあるぞ。」と。
特に恋愛でしたね。
恋愛のパターンがおかしかった。
うまくいってる関係が、より親密になる端境期で、なぜか自分から関係を破壊してしまうような行動に出てしまうクセがあるわけです。いまだに完治してるとは言い難いのだけど、そういうのがある。
それを、その彼女に言われるまで、「汎用的な、けっこう多くの人が抱えてる問題」とは考えてなかったんですよ。「ヘンなところはあるよなぁ」とは思ってたけど、「思い残し症候群」とか、名付けられるくらいパターン化できるような、そういう種類のものとは思ってなかったわけです。
なにかトラウマがあって、それが何かは分らないけど、なにかがおかしい、くらいにしか思ってなかった。
で、「もしかして、僕も似たようなパターンが、この世に存在しているのかも。」と思って読んだのが、前にも紹介しましたが、
なぜいつも、あなたの恋愛はうまくいかないのか―アダルト・チルドレンの恋愛と結婚の神話
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4313860053/503-1393334-5299133
でした。
読んでみて「ぼ、僕のことが書いてある!」と、その彼女と同じ事を感じましたから。
それまでも、催眠療法だとか、箱庭療法だとかを受けて、自分の問題にそれなりにアプローチしてたんですけど、そういうチマチマした事より、この一冊に書かれていた実例と、なぜそういう問題が起きてしまうかの心の仕組みの解説の方が、はるかに、はるかに説得力を持ってたんです。
自分で実感できますから。「ああ、これ、この訳のわからない衝動って奴!これや!」とか。
それはもうね、天地がひっくり返るほどの驚きでした。
まさに、それまで、「この心の奥底から湧いてくる衝動こそが、本当の自分なんだ!」と思ってた感覚こそがまさに、自分で自分を騙すための、自分で仕組んだサバイバル用の偽の感情だったという事に気付くわけです。
いや、真剣にすぐに気付いた訳じゃないですよ。
「えええ、あの心の奥から湧いてくる『強い気持ち』が、本物の感情ではなくて、ありのままの自分から目をそむけさせるための偽物の感情だったの? そしたら、本当の自分ってどこにあるの?」
という、とんでもない堂々めぐりに、かなり悩みましたからね。
だいたい、何より、そういう「衝動」って、突然に湧いてきて、自分でコントロールできないわけですよ。
この「コントロールできない」という事自体がすでにおかしいんですけど、(こういうのは、キチンと味わえば、自然におさまるものなのです。)
「コントロールできないものを、コントロールしよとしても、それはできない相談だ!」
という本質的な矛盾に、ものすごくさいなまれたんですね。
コントロールでけへんから困ってるのに、それをコントロールしなければいけないという矛盾。
そういう事であります。
だから、この時の落ち込みは、かなり大変で二ヶ月くらい何も手につかなかった感覚でしたね。
で、この天地がひっくり返るような気づきの後に感じてきたのが、「んんん? とすると、いままで自分で気付いてきてなかった、あまり好きでもない考え方や、世の中の事柄の中に、自分の知らない、まともで、もっと幸せな世界への扉が、あったのか?」という事なんですよね。
いままで、自分のありのままの弱さや無力さ、恐怖感などを直視しないために、心のサバイバル機能が強烈な衝動を湧き起こさせて、ありのままの自分を見ないようにさせてたわけです。
でも、本当は、その弱い自分や、恐怖を感じている自分を、「そのままでいいんだよ。恐怖を感じたままでいいんだよ。そのまま生きていけばいいんだよ。」と受け入れる。「弱くてもいいんだよ、それでもちゃんと生きていけるし、そこから本当の幸せを実感できるんだよ。」というのを、自分でキチンと納得していけるようになってくると、世の中の、いままで見ていなかったところにこそ、どうやら自分が幸せになるためのヒントがある、と言うことがわかってくるわけです。
わかるかなぁ。この感覚。
こういう流れって、自分がACだった経験、それに気付けた人には、「うん、うん、うん、うん」と、ものすごく強く首を縦に振ってもらえる事だと、僕は確信してます。
本当にね、このあたりの心の大転換というのは、天地がひっくり返るほどの驚きがあるし、「ええええ、そそそそそうだったの!!!」というビックリ感があるんです。
たとえば、いままでは「普通なんてつまんないじゃん。ちょっと変わってなきゃ」とか思ってたのが、「普通で幸せ」になるとかね。
わざわざ不幸になるような考え方、たとえば、考え方のひん曲がった恋人を「改造して真人間にさせよう」と考えてしまうとかね。そういう事をしなくなる。
だって、自分がまともになるのだけで精一杯って感じになって来ますからな、このあたりになってくると。
「なななな、何? いままで×××(この部分は人それぞれ)が『幸せ』と感じていたけど、私の知らないところに、もっとちゃんとした、まともな幸せというのがあって、それを私は、まだ学習してないだけなの?」
という、とんでもない大転換にぶち当たるんですね。
これも、かなりキツイ。
でも、実はこれが真実なんですよね。
単に「幸せになるなり方」を、ちゃんと学べていなかっただけなんですわ。ようは親がそれを知らなかったから、受け継げていない。それだけの事なんですね。
「正しい受け答えの仕方」とか、そういうものはちゃんと世の中にあって、それはちゃんと効果を発揮するんですよ。
そういういろいろな事を知らないんですね。それだけの事なんです。
前にも書きましたけど、
幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである。
(トルストイ「アンナ・カレーニナ」)
なのですよ。
本当に。
幸福になっていく道というのは、とても開かれていて、当たり前で、そんなに難しい道ではないんですね。
まず、自分が生きているという幸せを実感する。そして、日々良くなっていくんだと確信している。そして生まれながらにして自分は自由なんだという、もっとも根本的なところをちゃんと捕まえておく。
そういう事なんですよね。ようは。
ところが、そういう標準から外れる事こそが「個性なのだ」「自分の体験なのだ」というような、ちょっとした病気が発生してしまって、トルストイが言うように、「さまざまに異なる不幸」が発生してしまう、って事なわけです。
いや、実際、ACの言う意見は、それぞれに、とても個性的です。まぁ確かに面白い。
面白いんだけど、でも、たぶん、やっぱりそれでは幸せにはなれないんだよなぁ。それは。
あまり人間の自然な営みに沿ってないような無理のある考え方が多くって。
ここで、ACの事を書いてると、回復過程にある方から賛同の意見をいただいたり、「それ、私の事でしょ」と意見をいただいたりしてきたので、そういう部分でも、「回復の過程も同じだなぁ」という安心感があったりするんですよ、僕には。
ようは、まともに普通の感覚を取り戻せたら、どんどん普通に幸せを手に入れていけるって事ですね。
自分の衝動に振り回されずに、ちゃんと自分の弱さや恐怖感を直視していれば、怖いものは怖いんだ、それで当たり前なんだ、それは自然な感情なんだから、味わっているうちに小さくなっていくんだ、と言うことが分ってきます。
そうなれば、つい普通の発想に逆らってしまうとか、自分の「衝動」に振り回されるというような事も減っていくし、まぁ、さほど怖れることはないわけですよ。
ただ、最初はやっぱり天地がひっくり返るような衝撃がありますわなぁ。
それはしゃーないですわなぁ。
自分の内なる「子供」である、もろくて弱い心を守るためにガードを張ってきた結果なわけやから。
そのガードを外すのは、そら確かに怖い。
でも、それって実はプールから出て、地面の上にいてるのに、ずっとビート板を持ってないと「溺れてしまう!」と思ってるようなもので、全然意味ないんですけどね。
でもやっぱり「ビート板を手放したら溺れてしまう!!!!」ってずっとかたくなに、「思いこもう」としてしまうんですよねぇ。
うーん。
まぁ、しゃーないんですが。
そういう事を、最近は考えております。
まさに天地がひっくり返るような驚きがあって、どうしてもその事実を受け入れがたかったりする。
自分が「当たり前だ」と思っていて、「普通の事だ」と感じてる事が「かなりおかしい」事らしいと、だんだんわかってくるわけですわ。
これねぇ、かなり強烈な体験なんですよねぇ。
昨日まで、当たり前だと思ってたことが、どうも、かなりおかしな事であるのではないか?という疑いが出てくる。
改めて冷静に考えてみると、この考え方っておかしいよな? あれ? って思う。
僕なんて、すごくこの過程がおかしな具合で訪れました。
まず、たまたま知り合った女の子が、かなりの重症のACだったわけです。
で、なんとなくヘンだよなぁ、と思ってた。
で、たまたま何かの流れで読んでいた岩月謙司さんの本に書かれていた「思い残し症候群」と、その子の言ってる事が、あまりに似てたので、その本を紹介してあげたわけです。
そしたら、「この本に書いてあること、私の事でしょ? そのままです!」と、ものすごく驚かれたわけです。
なんでそうなるのか。
つまり、「私はどうやら、何かが世間とはちょっと違っている。どうも幸せの実感とかがうまく持てない。私はどうもヘンだ。」という感覚が彼女にはあって、その孤独感に悩んでいたわけですよ。
そこでの意識は「私はかなり特殊だ」という事なんですね。
が、しかし。
その「思い残し症候群」の事が書いてある本には、その「特殊な感じ方」の事が、「症例のひとつ」として紹介されてるわけですよ。それは彼女にとっては、ものすごく驚くべき事だった訳です。特殊だと思っていた自分の「問題」が、「よくある症例」だったわけですから。孤独感とよくある症例って全然別の話じゃないですか? でも、実際には「よくある症例」なわけですよ。
これはねぇ、ほんとうに、まさに天地がひっくり返る感覚なんですよ。
で、彼女の方は、まぁ、そのまま自分の回復への道を歩んでいったのだろうと思うのだけど、その過程で「私は『思い残し症候群』だというのはわかったけど、シゲさんは?」と、マジで聞かれたわけです。
え?僕?
はて。
自分の事?
え?
これが恐ろしい事に、その子の「ヘンさ」には気付いていたのに、自分の「ヘンさ」には全然気付いてなかったわけですよ。でも、彼女からすれば、「こういう事に気付けて、理解もできるという事は、この人も同じような問題を抱えているに違いない」となったわけです。
で、そこから、実は僕自身の苦しみが始まってしまったんですよね。
「いや、確かに、自分にはおかしなところがあるぞ。」と。
特に恋愛でしたね。
恋愛のパターンがおかしかった。
うまくいってる関係が、より親密になる端境期で、なぜか自分から関係を破壊してしまうような行動に出てしまうクセがあるわけです。いまだに完治してるとは言い難いのだけど、そういうのがある。
それを、その彼女に言われるまで、「汎用的な、けっこう多くの人が抱えてる問題」とは考えてなかったんですよ。「ヘンなところはあるよなぁ」とは思ってたけど、「思い残し症候群」とか、名付けられるくらいパターン化できるような、そういう種類のものとは思ってなかったわけです。
なにかトラウマがあって、それが何かは分らないけど、なにかがおかしい、くらいにしか思ってなかった。
で、「もしかして、僕も似たようなパターンが、この世に存在しているのかも。」と思って読んだのが、前にも紹介しましたが、
なぜいつも、あなたの恋愛はうまくいかないのか―アダルト・チルドレンの恋愛と結婚の神話
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4313860053/503-1393334-5299133
でした。
読んでみて「ぼ、僕のことが書いてある!」と、その彼女と同じ事を感じましたから。
それまでも、催眠療法だとか、箱庭療法だとかを受けて、自分の問題にそれなりにアプローチしてたんですけど、そういうチマチマした事より、この一冊に書かれていた実例と、なぜそういう問題が起きてしまうかの心の仕組みの解説の方が、はるかに、はるかに説得力を持ってたんです。
自分で実感できますから。「ああ、これ、この訳のわからない衝動って奴!これや!」とか。
それはもうね、天地がひっくり返るほどの驚きでした。
まさに、それまで、「この心の奥底から湧いてくる衝動こそが、本当の自分なんだ!」と思ってた感覚こそがまさに、自分で自分を騙すための、自分で仕組んだサバイバル用の偽の感情だったという事に気付くわけです。
いや、真剣にすぐに気付いた訳じゃないですよ。
「えええ、あの心の奥から湧いてくる『強い気持ち』が、本物の感情ではなくて、ありのままの自分から目をそむけさせるための偽物の感情だったの? そしたら、本当の自分ってどこにあるの?」
という、とんでもない堂々めぐりに、かなり悩みましたからね。
だいたい、何より、そういう「衝動」って、突然に湧いてきて、自分でコントロールできないわけですよ。
この「コントロールできない」という事自体がすでにおかしいんですけど、(こういうのは、キチンと味わえば、自然におさまるものなのです。)
「コントロールできないものを、コントロールしよとしても、それはできない相談だ!」
という本質的な矛盾に、ものすごくさいなまれたんですね。
コントロールでけへんから困ってるのに、それをコントロールしなければいけないという矛盾。
そういう事であります。
だから、この時の落ち込みは、かなり大変で二ヶ月くらい何も手につかなかった感覚でしたね。
で、この天地がひっくり返るような気づきの後に感じてきたのが、「んんん? とすると、いままで自分で気付いてきてなかった、あまり好きでもない考え方や、世の中の事柄の中に、自分の知らない、まともで、もっと幸せな世界への扉が、あったのか?」という事なんですよね。
いままで、自分のありのままの弱さや無力さ、恐怖感などを直視しないために、心のサバイバル機能が強烈な衝動を湧き起こさせて、ありのままの自分を見ないようにさせてたわけです。
でも、本当は、その弱い自分や、恐怖を感じている自分を、「そのままでいいんだよ。恐怖を感じたままでいいんだよ。そのまま生きていけばいいんだよ。」と受け入れる。「弱くてもいいんだよ、それでもちゃんと生きていけるし、そこから本当の幸せを実感できるんだよ。」というのを、自分でキチンと納得していけるようになってくると、世の中の、いままで見ていなかったところにこそ、どうやら自分が幸せになるためのヒントがある、と言うことがわかってくるわけです。
わかるかなぁ。この感覚。
こういう流れって、自分がACだった経験、それに気付けた人には、「うん、うん、うん、うん」と、ものすごく強く首を縦に振ってもらえる事だと、僕は確信してます。
本当にね、このあたりの心の大転換というのは、天地がひっくり返るほどの驚きがあるし、「ええええ、そそそそそうだったの!!!」というビックリ感があるんです。
たとえば、いままでは「普通なんてつまんないじゃん。ちょっと変わってなきゃ」とか思ってたのが、「普通で幸せ」になるとかね。
わざわざ不幸になるような考え方、たとえば、考え方のひん曲がった恋人を「改造して真人間にさせよう」と考えてしまうとかね。そういう事をしなくなる。
だって、自分がまともになるのだけで精一杯って感じになって来ますからな、このあたりになってくると。
「なななな、何? いままで×××(この部分は人それぞれ)が『幸せ』と感じていたけど、私の知らないところに、もっとちゃんとした、まともな幸せというのがあって、それを私は、まだ学習してないだけなの?」
という、とんでもない大転換にぶち当たるんですね。
これも、かなりキツイ。
でも、実はこれが真実なんですよね。
単に「幸せになるなり方」を、ちゃんと学べていなかっただけなんですわ。ようは親がそれを知らなかったから、受け継げていない。それだけの事なんですね。
「正しい受け答えの仕方」とか、そういうものはちゃんと世の中にあって、それはちゃんと効果を発揮するんですよ。
そういういろいろな事を知らないんですね。それだけの事なんです。
前にも書きましたけど、
幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである。
(トルストイ「アンナ・カレーニナ」)
なのですよ。
本当に。
幸福になっていく道というのは、とても開かれていて、当たり前で、そんなに難しい道ではないんですね。
まず、自分が生きているという幸せを実感する。そして、日々良くなっていくんだと確信している。そして生まれながらにして自分は自由なんだという、もっとも根本的なところをちゃんと捕まえておく。
そういう事なんですよね。ようは。
ところが、そういう標準から外れる事こそが「個性なのだ」「自分の体験なのだ」というような、ちょっとした病気が発生してしまって、トルストイが言うように、「さまざまに異なる不幸」が発生してしまう、って事なわけです。
いや、実際、ACの言う意見は、それぞれに、とても個性的です。まぁ確かに面白い。
面白いんだけど、でも、たぶん、やっぱりそれでは幸せにはなれないんだよなぁ。それは。
あまり人間の自然な営みに沿ってないような無理のある考え方が多くって。
ここで、ACの事を書いてると、回復過程にある方から賛同の意見をいただいたり、「それ、私の事でしょ」と意見をいただいたりしてきたので、そういう部分でも、「回復の過程も同じだなぁ」という安心感があったりするんですよ、僕には。
ようは、まともに普通の感覚を取り戻せたら、どんどん普通に幸せを手に入れていけるって事ですね。
自分の衝動に振り回されずに、ちゃんと自分の弱さや恐怖感を直視していれば、怖いものは怖いんだ、それで当たり前なんだ、それは自然な感情なんだから、味わっているうちに小さくなっていくんだ、と言うことが分ってきます。
そうなれば、つい普通の発想に逆らってしまうとか、自分の「衝動」に振り回されるというような事も減っていくし、まぁ、さほど怖れることはないわけですよ。
ただ、最初はやっぱり天地がひっくり返るような衝撃がありますわなぁ。
それはしゃーないですわなぁ。
自分の内なる「子供」である、もろくて弱い心を守るためにガードを張ってきた結果なわけやから。
そのガードを外すのは、そら確かに怖い。
でも、それって実はプールから出て、地面の上にいてるのに、ずっとビート板を持ってないと「溺れてしまう!」と思ってるようなもので、全然意味ないんですけどね。
でもやっぱり「ビート板を手放したら溺れてしまう!!!!」ってずっとかたくなに、「思いこもう」としてしまうんですよねぇ。
うーん。
まぁ、しゃーないんですが。
そういう事を、最近は考えております。
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