福岡正信さん逝かれる。
2008年8月19日自然農法の福岡正信さんが17日にお亡くなりになりました。
95歳だったそうです。
ちょっといろいろあって、感慨深いです。
みんな知ってるんやろか? どうなんやろ?
僕は、一時期、有機農法で畑作業を、半分趣味みたいにしてやってた時期があったんで、福岡正信さんの事はすごく頭に残ってるんですよね。
書店に行けば、福岡さんの「わら一本の革命」というご著書が出てますので、気になる方は立ち読みでもパラパラっと見ていただくと、へぇ〜って思うんじゃないかなぁ。
有名なところでは「粘土団子」による砂漠化地帯の緑化活動があります。何種類もの種や菌を混ぜ合わせて団子を作り、それを砂漠化してしまった地域に飛行機でばらまくという事をされるんですが、それで見事に砂漠が緑化してるんだそうです。
近年では、オーガニックとか食の安全とかが意識されて「有機農法」っていう言葉がかなり一般的になってきましたけど、福岡正信さんが言う「自然農法」というのは、こういう「有機農法」とはまた全然違うものなんですね。このあたりが、多分一般の人には良く分からないところなんだろうなぁ。って思う。
有機農法は、基本的には農薬とか化学肥料を使わない農業なわけです。それはそれで安全だし、長年確立されてきた世界でもあるんで、それは受け継いでいかにゃいけないと思うんですが、実は、その「有機農業」と言うのも、「農業」と言う限りは、「人間による人工的な自然への関わり」なのであって、自然そのものとは少し違っていたりするんですね。だいたい、畝を立てるってあたりから「自然」ではないわけですよ。本来は。
で、「人間が生きているという事自体が奇跡であるよなぁ」と思ってる私としては、有機農法ですら「まだ人間が知らない自然の生命力を無意識に抑えつけてる農法なのかもなぁ」という気持ちがありまして、本当の事を言うと本気で農業をやるなら福岡正信さんに弟子入りでもしないと満足できない人間なんだろうなぁ、というのが気持ちの中にあるわけです。
というのは、福岡正信さんの自然農法というのは有機農法ではなくて自然農法ですから、播種と刈り入れの時にしか作業をしないんですね。下草を刈ったり、土寄せをしたり、追肥をしたりというような、作物が育つプロセスに、事細かに関わるという事自体をしないんです。自然のあらゆる事柄を理解して、その組み合わせの妙でバランスを取って作物を作る。まぁ、だから、超超ムズカシイ、ものすごく高度な農業とも言えます。
たとえば、ミカン農家は、通常、苗木を買ってきてミカン畑を作るわけですよ。一時期和歌山で暮らしてたから、その実感もあります。ミカンの花の匂いってすごいのよなぁ。まぁそれはそれとして、そういう苗木をそのまま植えて行くと、あの丸まっちぃ形になったミカンの低木の木になります。
あれは、ああいう低木になるように苗木の時からハサミが入ってるんだそうです。ようは取り入れするのがラクなわけです。でも、ミカンを福岡さんが自然農法で、種から植えると、背の高い針葉樹みたいな形に木が育って、それはそれは甘くて大きな実をつけるんだそうです。まぁ取り入れは大変だと思うけど。
そういうような違いがあるわけですね。
で、僕は基本、福岡さんにあこがれてたわけですが、でも、有機でみんなでやってるわけですから、そういう話をするのがはばかられてですね、あんまりそういう話ができなかったんですねぇ。
いまにして思えば、僕自身が「人間が生きているという事自体が奇跡であるよなぁ」と思ってる人なんだから、これは根っこの部分の物事のとらえ方なんだから、それは、もうしょうがないんだって素直に思えるんだけど、当時はこういう事をうまく説明できなかったんだと思います。
ちゅうか、いまでもうまく説明できませんけどね。
「有機」が現実問題としては、良い選択なんだけど、でも目指すべきは福岡さんなんじゃないのかなぁ、というのがずっと心の中にくすぶっておるのでありまして。
そのあたりは、先日紹介した「偽善エコロジー」にも通じる、「ほんまのところ、真実っちゅうのはどうやねん?」という問いかけの気持ちが、やはり僕には強いよなぁって事なんですけどね。
まぁ、そういうような事で、エコとか環境とか考えるなら、まず福岡さんの自然農法と有機農法の違いみたいな事を考えた上で、方針決定をしてくれと思うんですよね。だから「減農薬」とかをある程度認めるような発想っていうのは「うーん…。現実問題としては仕方ないのかも知れないけど…」って、ちょっと抵抗を感じますねぇ。いや、あまりに神経質なのも嫌いなんですけど、「まだ人間が理解していない、より良い答え」が、自然界の中に眠ってるかもしらんやん、とは思ってしまうんですよね。単に自然の実態を知らないだけなんと違うんか? とかいう気持ちがどうしても出てしまう。
だいたい、普通のお米と餅米の違って言うのも、ようは突然変異だったわけですよ。自然に生まれたものの中から、特殊な特徴のある種を残しておいて、それを別個の育てた結果なわけです。で、それは、米を、苗の時から、ありのままに、そのままに見つめていたからだろうと思うのですよね。ひたすら、そのまま、ありのままを見つめるような人が歴史のどこかにいたんですよ。
その人は「決まったやり方」だけで生きてたんではないと思うのですね。生まれてきた命の「奇跡」を、そのまま奇跡として見つめてたはずだと思うのです。
で、これこそが生きて学ぶと言うことの根本の根本なんじゃないのかなぁって思うのですよ。本当に大事で、世の中を突き動かしていく知識や学問は、常識にはなっていない。そういう気がします。
よく「雑草」という言葉がありますが、あの「雑草」の意味をみなさんはご存じですか? あれはあくまで「いま畑で育てている目的作物とは異なる品種」の事を言うのであります。だから大豆を育てている畑に、前年植えたジャガイモの種芋が残っていて、それが芽を出したら、それは「雑草」なんです。雑草という言葉は、そういう農業用語から出ているのであって、「雑草」という種類の草があるわけではないのですね。
だから、餅米を効率を考える農業の発想で見ていくと、普通は未熟品とか不生育品とか、そんな風に思われても仕方ないはずなんですよね。
ただ、その餅米と普通の米とを見極めるだけの「目」とか判断力というのは、一朝一夕には身に付かないわけですよ。よほどの知識と覚悟がないとできない。であるなら、やはり「有機農法」から入るのが正攻法である、という事なんですけどね。
前から書いてるように、毎日歩く、と言うこともやらずに、いきなり走っても、全然楽しくないだろうし、肉離れを起こすばっかりだってことなんです。
でも、あこがれはあこがれとしてあるよなぁ。
という事で、いろいろな意味をこめて、福岡正信さんの死には考えさせられました。
ほんとうの意味での巨人です。すばらしい方だと思います。「人類の資産」とも言うべきグレートな方で、我々人類は、また一人、巨大な方を失ったのだなぁと思う。
心からご冥福をお祈りいたします。
95歳だったそうです。
ちょっといろいろあって、感慨深いです。
みんな知ってるんやろか? どうなんやろ?
僕は、一時期、有機農法で畑作業を、半分趣味みたいにしてやってた時期があったんで、福岡正信さんの事はすごく頭に残ってるんですよね。
書店に行けば、福岡さんの「わら一本の革命」というご著書が出てますので、気になる方は立ち読みでもパラパラっと見ていただくと、へぇ〜って思うんじゃないかなぁ。
有名なところでは「粘土団子」による砂漠化地帯の緑化活動があります。何種類もの種や菌を混ぜ合わせて団子を作り、それを砂漠化してしまった地域に飛行機でばらまくという事をされるんですが、それで見事に砂漠が緑化してるんだそうです。
近年では、オーガニックとか食の安全とかが意識されて「有機農法」っていう言葉がかなり一般的になってきましたけど、福岡正信さんが言う「自然農法」というのは、こういう「有機農法」とはまた全然違うものなんですね。このあたりが、多分一般の人には良く分からないところなんだろうなぁ。って思う。
有機農法は、基本的には農薬とか化学肥料を使わない農業なわけです。それはそれで安全だし、長年確立されてきた世界でもあるんで、それは受け継いでいかにゃいけないと思うんですが、実は、その「有機農業」と言うのも、「農業」と言う限りは、「人間による人工的な自然への関わり」なのであって、自然そのものとは少し違っていたりするんですね。だいたい、畝を立てるってあたりから「自然」ではないわけですよ。本来は。
で、「人間が生きているという事自体が奇跡であるよなぁ」と思ってる私としては、有機農法ですら「まだ人間が知らない自然の生命力を無意識に抑えつけてる農法なのかもなぁ」という気持ちがありまして、本当の事を言うと本気で農業をやるなら福岡正信さんに弟子入りでもしないと満足できない人間なんだろうなぁ、というのが気持ちの中にあるわけです。
というのは、福岡正信さんの自然農法というのは有機農法ではなくて自然農法ですから、播種と刈り入れの時にしか作業をしないんですね。下草を刈ったり、土寄せをしたり、追肥をしたりというような、作物が育つプロセスに、事細かに関わるという事自体をしないんです。自然のあらゆる事柄を理解して、その組み合わせの妙でバランスを取って作物を作る。まぁ、だから、超超ムズカシイ、ものすごく高度な農業とも言えます。
たとえば、ミカン農家は、通常、苗木を買ってきてミカン畑を作るわけですよ。一時期和歌山で暮らしてたから、その実感もあります。ミカンの花の匂いってすごいのよなぁ。まぁそれはそれとして、そういう苗木をそのまま植えて行くと、あの丸まっちぃ形になったミカンの低木の木になります。
あれは、ああいう低木になるように苗木の時からハサミが入ってるんだそうです。ようは取り入れするのがラクなわけです。でも、ミカンを福岡さんが自然農法で、種から植えると、背の高い針葉樹みたいな形に木が育って、それはそれは甘くて大きな実をつけるんだそうです。まぁ取り入れは大変だと思うけど。
そういうような違いがあるわけですね。
で、僕は基本、福岡さんにあこがれてたわけですが、でも、有機でみんなでやってるわけですから、そういう話をするのがはばかられてですね、あんまりそういう話ができなかったんですねぇ。
いまにして思えば、僕自身が「人間が生きているという事自体が奇跡であるよなぁ」と思ってる人なんだから、これは根っこの部分の物事のとらえ方なんだから、それは、もうしょうがないんだって素直に思えるんだけど、当時はこういう事をうまく説明できなかったんだと思います。
ちゅうか、いまでもうまく説明できませんけどね。
「有機」が現実問題としては、良い選択なんだけど、でも目指すべきは福岡さんなんじゃないのかなぁ、というのがずっと心の中にくすぶっておるのでありまして。
そのあたりは、先日紹介した「偽善エコロジー」にも通じる、「ほんまのところ、真実っちゅうのはどうやねん?」という問いかけの気持ちが、やはり僕には強いよなぁって事なんですけどね。
まぁ、そういうような事で、エコとか環境とか考えるなら、まず福岡さんの自然農法と有機農法の違いみたいな事を考えた上で、方針決定をしてくれと思うんですよね。だから「減農薬」とかをある程度認めるような発想っていうのは「うーん…。現実問題としては仕方ないのかも知れないけど…」って、ちょっと抵抗を感じますねぇ。いや、あまりに神経質なのも嫌いなんですけど、「まだ人間が理解していない、より良い答え」が、自然界の中に眠ってるかもしらんやん、とは思ってしまうんですよね。単に自然の実態を知らないだけなんと違うんか? とかいう気持ちがどうしても出てしまう。
だいたい、普通のお米と餅米の違って言うのも、ようは突然変異だったわけですよ。自然に生まれたものの中から、特殊な特徴のある種を残しておいて、それを別個の育てた結果なわけです。で、それは、米を、苗の時から、ありのままに、そのままに見つめていたからだろうと思うのですよね。ひたすら、そのまま、ありのままを見つめるような人が歴史のどこかにいたんですよ。
その人は「決まったやり方」だけで生きてたんではないと思うのですね。生まれてきた命の「奇跡」を、そのまま奇跡として見つめてたはずだと思うのです。
で、これこそが生きて学ぶと言うことの根本の根本なんじゃないのかなぁって思うのですよ。本当に大事で、世の中を突き動かしていく知識や学問は、常識にはなっていない。そういう気がします。
よく「雑草」という言葉がありますが、あの「雑草」の意味をみなさんはご存じですか? あれはあくまで「いま畑で育てている目的作物とは異なる品種」の事を言うのであります。だから大豆を育てている畑に、前年植えたジャガイモの種芋が残っていて、それが芽を出したら、それは「雑草」なんです。雑草という言葉は、そういう農業用語から出ているのであって、「雑草」という種類の草があるわけではないのですね。
だから、餅米を効率を考える農業の発想で見ていくと、普通は未熟品とか不生育品とか、そんな風に思われても仕方ないはずなんですよね。
ただ、その餅米と普通の米とを見極めるだけの「目」とか判断力というのは、一朝一夕には身に付かないわけですよ。よほどの知識と覚悟がないとできない。であるなら、やはり「有機農法」から入るのが正攻法である、という事なんですけどね。
前から書いてるように、毎日歩く、と言うこともやらずに、いきなり走っても、全然楽しくないだろうし、肉離れを起こすばっかりだってことなんです。
でも、あこがれはあこがれとしてあるよなぁ。
という事で、いろいろな意味をこめて、福岡正信さんの死には考えさせられました。
ほんとうの意味での巨人です。すばらしい方だと思います。「人類の資産」とも言うべきグレートな方で、我々人類は、また一人、巨大な方を失ったのだなぁと思う。
心からご冥福をお祈りいたします。
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