今日は終戦記念日であります。
ラジオやテレビでは、「間違いは二度と繰り返しません」だの、「反戦平和」だの、何度も繰り返されてました。

でもね。
それはそれで、悪いとは言わないけど、僕はあえて、表題の言葉をそのまま言いたい。

●私は反戦運動には参加しません。

と。

なんでか?

それは、この言葉を発したのが、かの有名なマザーテレサである、という事だからです。

アメリカのある反戦活動家が、影響力あるマザーテレサに、「あなたが反戦活動に参加してくだされば大きな力になります。ご参加くださいませんか。」と言ったとき、マザーテレサは「私は反戦運動には参加しません。でも、平和のための活動になら喜んで参加しますよ。」と答えたのだそうです。

この話が、僕はとても好きでして。
ちゅうか、前に付き合ってたケアマネの彼女も、この言葉がすごく好きで「そうだよね」と言ってたものでした。

で、ちょっとネットを探してみたんですが、出典がはっきりしないので、この言葉自体を、本当にマザーテレサがこう言ったのかどうか分らないんですが、実際にマザーテレサは反戦活動には全然参加しなかったらしいので、まぁ本当の事なんでしょう。

この話は、知ってる人は良くご存じだと思うのですが、知らない人はまったく知らないだろうなぁって思うのです。

特に「私は争いが嫌いだ。戦争ハンターイ!」と、口やかましく反戦を唱えている人は、まず全然知らないだろうなと思うわけで。

戦争を作らないためには、まず平和を、それも身近なところの平和を、きめ細かく、キチンと生み出す必要があるんです。そこをないがしろにして、反戦ばっかり言ってる人は、あぶなっかしくて、信用できないんですね。少なくとも僕は。

「戦争反対!」と言ってれば戦争がなくなるなんて事はないわけです。だからヒステリックに、戦いや争い、武器などを毛嫌いするだけの人の話は、まぁ、あほくさくて聞いてられないのであります。

いくら、武器を封印し、戦争を抑え込んだところで、その「戦争のない世界」で、子供が親によって虐げられていたら、それは戦争より不幸です。

この日記で、よくアダルトチルドレンの話を出すのは、そういう日常の不幸を解消して「平和」を生み出すことにこそ、とても大きな意義を感じるからなんですね。反戦平和を叫んでも、あんまり意味があるとは思えません。

それより、いま自分がアダルトチルドレンであるという事にすら気付いてない人に(普通、気付いてなかったりするんですよねぇ。「私は普通ですよ。」とか思ってる。僕がそうだったから、よくわかるんですが。)「あ、私はアダルトチルドレンだったんだ」と気付いてもらう方が、何千億倍も世の中が平和で幸せなものになるんですよね。

このあたりは、ACであることに自覚的に気付けた人には「うん、うん!」と強い賛同をいただけると思うんですが。

ACと気付いて、心の溝掃除をした後の、流れの清らかさ、気持ちよさが、いかに素敵なものか! と僕は思うのです。世の中が全然逆転して見えてきたりしますからねぇ。いままで「普通」だったものが「不幸」に、いままで「バカっぽい」と感じてたことが「素晴らしい愛の行為」に。そのくらい逆転してしまうんですよね。

たとえば、ネグレクト(=無視)。

ACは、自己表現能力が低く、親に「失敗した自分」を受け入れてもらった経験自体が少ないので、望みがかなわないときに、「ふん」と横を向いたり、無視したりするのを、「普通の態度」だと思ってたりするわけですよ。

でも、それは自己評価が低くて、自己表現能力が欠如しているだけの話なんですね。

で、あえてここで、マザーテレサの言葉を引用するなら。

●愛の反対は憎しみではなく、無関心である。

という事を言わねばなりません。

マザーテレサは、こういう事も言っておられます。

●この世で最大の不幸は戦争や貧困などではない。寧ろそれによって見放され、“自分は誰からも必要とされていない”と感じる事。

そうだよなぁって思うのです。誰だって、いつだって、どこであっても、命ある人は全て必要な存在です。意味なく生きている人なんていない。生きている意味を見失う事はあるかも知れないけれど、当人がそれを見失っていても、回りの人はちゃんと意味を見いだしている。大事に思っている。

だから「私は必要とされていない」と感じる事自体が、まさに不幸そのものなんですよね。

前に、これまた別の女の子と飲んでいて、その子が「たとえば、みんなで飲み会があって、自分がいくらスパゲッティを食べたくても、回りでカレーを食べる話で盛り上がってたら、『カレーでいいよ』って調整するくらいの分別はあるわよ。」って言ってて、僕はすぐに、「いや、君、それは間違ってるよ。それ、君、『自分さえがまんしたらみんがが幸せになる』と考えてるやろ? それは論理的に絶対的間違いやで。だって、それをしたら、君は必ず『食べたいスパゲッティを食べられなかった不幸な子』になるんやで? つまり、君は自分で確実に一人『不幸』な人間を生み出してるって事や。しかし『私はスパゲッティを食べたい』と発言して、必ず不幸な人間が生まれるか? それは論理的に『不明』や。だから、君のその『私さえがまんしたら、みんな幸せ』というのは、論理的に、根本的に、絶対間違いなんやで。」と説教してしまったんですよねぇ。

いやまぁ、嫌われましたけど。わははははは。

ともあれ、今日のマスコミ報道を聞いていて「10年一日、進歩ないよなぁ、日本のマスコミって。やれやれ。」と思ってしまいました。

いや、実際ほんと、「戦争反対!」などと叫ぶヒマがあったら、自分の心の溝さらえをして、「あ、私ってACだったんだ!」と気付く方が、どれだけ、どれだけ、どれだけ社会を平和にするか。本当に。

マザーテレサが、1981年4月に初来日したときに、

「日本人はインドのことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。愛はまず手近なところから始まります。」

とおっしゃったらしいのだけど、まさにこれですよ。
愛はまず手近なところから始まるんです。
それも、まず自分の心の中からだと思う。
親兄弟子供への態度も大事なんだけど、まず自分の心と対話してあげることですよねぇ。そう思う。そうして自分に対して優しくすることとは、どういう事なのか、どれだけ気持ちよくて、楽しいのか、という事を実感することが、まず最初でしょうね。

で、そうやって「自分に優しくした」経験を、そのまま身の回りの人にも伝える、手渡すって事だと思います。

と言うことで、最後に、またまたマザーテレサの素敵な言葉を引用して終わります。

(引用開始)-----------------------------

1979年に受けたノーベル平和賞(略)インタビューの中で、「世界平和のためにわたしたちはどんなことをしたらいいですか」と尋ねられたマザー・テレサの答えはシンプルなものであった。

「家に帰って家族を大切にしてあげてください」。

(引用終了)-----------------------------

以上です。

コメント

nophoto
ひねくれもの
2015年10月24日0:27

清らかな文章ですね。ほんとに感服しました。どんどん説教してください。あなただけは人に説教する資格があります。

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