環境問題は、純粋に「政治」やねんけどなぁ…。
2008年7月7日環境問題のこと。
もう、何年も前からなのですが、こと「環境問題」に関しては、誰と話しをしてもかみ合いません。困った事です。
で、なんでかみ合わないのか、自分では分かってたんですけど、あまり説明しなかった事をちょっとチマチマと説明してみたくなりました。
いまさらって気もするんですがね。
まずね、「環境問題は科学じゃねーんだよ、政治なんだよ、セージ、わかってんの?」ちゅうことです。
ここがですね、どなたとも合わない根本原因なんですよね。
なんて言うんでしょうか、根本的に僕はまず「自然の事は分からない」と思ってるわけです。生命の不思議を解き明かした科学なんかありません。多少は分かってきてるけどね。
だから「科学的にこうだ!」と言われても「まぁ、そうですかね。」という感じで、あんまり真剣に聞いてない。
いやまぁ、あれですよ、確実に再現性のある話は「道具」として利用しますがね、それ以外の「検証されていない科学」って言うのは全面的に「仮説」であって、それを信用するかどうかは、「政治」でしかないって思ってるわけです。
わかるでしょうか? このあたりの感覚。
僕が、こういう感覚を抱いたのは、少なくとも1991年のソ連の崩壊前後の事なのですね。
というのは、ソ連がロシアになる前後にけっこうサミットってのが行われていたわけですが、「ソ連」がある間はサミット後の取り決めの発表の中にソ連との対応というか、社会主義圏とどう対応するか? という項目がいろいろと入ってたわけですよ。それこそアフガン侵攻の頃から、サミット参加国の1番最優先の議題になったり、3番目の議題になったり、いろいろしてたけど、まぁずっとアジェンダとして入ってたはずです。
で、ソ連が崩壊して、「あー、アジェンダのひとつが消えたよなぁ、どうするんだろ、サミットでは。」って思ってたわけです。
なんで、そういう事を思ったかって言うと、僕がテーブルゲーム好きだったからなんですね。テーブルゲーム。
つまり、具体的に言うなら「モノポリー」とかさ、そういう奴です。
けっこう遊んでたわけですよ、当時。友人の夫婦ものの家に集まっては、「人生ゲーム」をやったり、トランプで遊んだり、知ってる人は知ってる「クーハンデル」で遊んだり、もう、それこそいろいろやったわけです。
で、ああいうテーブルゲーム・カードゲームの類をいくつもやると、「取引」って事の重要性を、嫌でも体で学ぶのですね。
「おい、いま、あいつ一人の一人勝ち状態をほったらかしにしておいたら、俺たちに勝ちはないぜ。ちょっと組まないか?」ってところから、二位三位連盟を作るとかね。そういう事をすごく駆け引きする。
ちなみに、みんな双六ゲームとしか思ってない「人生ゲーム」でも、実は、この「取引」こそが勝負を決めるのですよ。で、私は実は「人生ゲーム」で負けた事がない。必ず1位か2位。なんでそうなるか? というのを説明すると長くなると割愛するけど、とにかく、ちゃんと取引してれば勝てるんです。
で、です。
この「取引」をするには、カードが必要なんです。
カードがなければ、取引をすること自体が出来ない。ただ指を加えて見てるしかないわけです。だから、カードは多ければ多いほどいいんです。
こういう事は、こういうカードゲームをやったことのある人なら実感としてわかる。
でも、テレビゲームだけしていても、このダイナミズムは分かりませんよ。だからテレビゲームだけしかしてない人間は「遊び」のなんたるか、なんか全然分かってないって事にしかなりません。
で、政治と取引って事は、本当に僕はゲームから学びました。
なので、ソ連の崩壊は、まず何より「社会主義圏の消滅」により、「国際政治の取引ネタ」が一つ消えた、という風にしか読めなかったのですね、私には。
いままでは、「ソ連に対して強行に出るかどうか」とか、そういうことを国と国との駆け引きの「カード」として使えたわけですよ。しかし、その、かなり大きなカードが一種類、ごそっとなくなってしまったわけです。あの時。
だからこれはトランプで言えば「ハートのスートが一組消えた」に等しい話だったわけです。
なので、ソ連消滅後のサミットのあとの共同声明が、僕はすごく興味があったんですね。で、それをしげしげと眺めて見た。
そしたら!
そこに「環境問題」が、どーーーんと登場してたわけですよ。
「ああああ、そうか! そうだったか!」と僕は思ったわけです。「環境問題かぁ、それはカードになる!」って事でした。
だって環境だよ? 誰にだって関係あるやん! どこの国でも、政治的に使える。「今サミットでは、××代表は、環境問題で○○という成果を勝ち取った!」とか言える!
言えたらそれで良いわけです。それが政治ですから。
実際の「環境」とは、何の関係もおまへん。
まず、国際政治の取引のカードとして使える。
そこがすごく重要なわけです。
これがカードがなかったら、それぞれの国の利害の調整のやりようがないわけですよ。調整のつけようがない。いままでだったら「共産圏への○○の取組に協力する」ということと、軍事的協力をリンクするとかしないとか、そういう「モノサシ」でやってた事を、「環境への取組」を担保として使えるわけですよ。
よろしいですか? 国際的に文化も何も、根本から異なる国同士がですね、何らかの「取引」をしようとしたら、「共通の価値」として認識できるテーマがなかったら無理なわけですよ。で、そんなもの、そう簡単に見つかったりはしないんです。それこそ「共産主義の恐怖」とかだと西側諸国はまとまれたわけでしょ? でもそれがなくなったら、「共通貨幣」がなくなっちゃうのと同じなわけですよ。ものすごく不便なわけです。
だから、ソ連崩壊後のサミットで環境問題が(それまでもアジェンダにはなってたんだけど、)繰り上げ当選みたいに、ドーンと2番目だか3番目だかのテーマに「格上げ」されてるのを見て。「なるほどなぁ、国際政治っていうのは、こういう風に動くのか。」とかなり感心した覚えがあるわけです。
テレビゲームしかしてないと、これはわからんけど、ボードゲームとかカードゲームで、人間間の取引をいろいろ試してたりすると、すごくわかる。一発でわかる。(というか、元々私、前にも書きましたけど「倫社の帝王」でしたから、たまたまこういう事に敏感なだけかもわからんのですが。このあたりは実はちょっと不明。)
で、このサミット以降、僕の頭の中では、国際政治としての取り決め(決して科学的ではない。あくまで政治的取り決め。)からのトップダウンでの課題の割り振りがあって、それで各国で与えられた枠内での「やりくり」だけが環境問題になったのだ、という認識があったわけです。
これはもう、強烈にありました。
だから、環境関連の話をしていて、「科学的に正しいかどうか」とか、「倫理的に正しいかどうか」とかの話を真剣にしている人と会うと、もうその段階で話をする気が失せてしまってたんですね。
「いや、それは言っても話ははじまらんやろ」って思っちゃうんですね。「そうやなくて、割り振られた枠を、いかに屁理屈つけても獲得することとちゃうんか?」ちゅう話です。もう、ものすごく政治的。
たとえば、本当に環境の役に立つ技術があって、その普及を真剣に考えてる人がいてるなら、「科学的正しさ」とか「倫理的正しさ」とか、そんな事はどうでもよろしい。あなたが普及させたい技術がそれをクリアしてるなら、それで問題ないんです。そういう事は、大衆にはすぐわかる。だから、そういう事を言わずに、「温暖化防止」であろうが「CO2削減」であろうが、その「枠組(たいていは予算的枠組みだけどね)」を、「利用」して、普及させちゃえばいいんだって話なわけです。だって元々、大枠が政治でしかないんだからさ! それは。
僕はもう、そういう発想しかなかったわけですよ。もともと。
しかし、なんちゅうかねぇ、この環境の問題っていうのは、すぐに「科学的正しさ」とか「倫理的正しさ」とか、ごちゃごちゃ言う人が出てくるわけです。
どうでもええやん、そんな事。
知らんがな。
って思う。
世の中をうまく回す仕組みとか、アイディアとか、環境に絶対良いと思える「何か」があるんなら、それを、どんな政治的手段を使ったって、世の中に実現させちゃえば良いわけです。そういう信念が当人にあるなら、それでオーケーなわけ。
そんなものね、世界のホンダの本田宗一郎だってそうだったし、ソニーの盛田昭夫だってそうだった。それで良いんです。人間には限定性というのがあって、自分の立場からしか物事は判断できません。だからホンダならカーレースに出る!でしょう。それで良い。
僕は一時期、有機農業をやってる人達ともいろいろやってたりしてましたけど、そのやり方が良いと思うなら、話をこじつけてでも「うちのやり方がCO2削減につながるんだ!」とホラを吹いても、別に良いとすら僕は思うわけです。だって、先に大枠がきまっちゃってるんだから。四の五の言ってる場合じゃないでしょ? っちゅうことですわ。
でも、どうも、このあたりの話が、あまり通じないですね。
いや、まだに、こういう具合に具体的にちゃんと活動もしていて、「この方が良いのだ」という考え方ややり方を、内面的につかまえてる人は、尊敬できるし、僕からすれば「うまく立ち回ればいいのに…」って感じでしかないわけで、それは、まぁしゃーないって思うんですね。そこまで人間、ベンサム的に功利的に立ち回れるわけでもないですから。功利的に立ち回るにしたって、アイディアと行動力が必要で、誰にでも出来るというわけでもないですから。それはもうしょうがない。
こういう尊敬できる、キチンとした人とすら僕はかみ合わないわけですが、もっとひどい一群というのは、世の中にいてまして、そういうのとは、もうかみ合わないなんてものではないわけですね。
たとえば、別に環境問題に対して「これが良い」という解答や信念があるわけでもないのに、環境問題と「単なる反米意識」とが未整理に心の中でくっついていて、「アメリカはエネルギーの無駄遣いをしてる」とか言うタイプ。
いや、ちょっと頭整理してから言うてよって思う。ごちゃまぜやん。日本人がアメリカの事をゴチャゴチャ言うてもしゃーないやん。反米運動がしたいんなら、そういうグループに入ったら? とか思うだけ。
で、最近で言うと「エコな発言したら、かっちょ良い人なのよ。」的動き。あれがもうかなわん。なんじゃそりゃ? って思う。お前はパァ〜か? って思う。あ、パァなのか。
藤原紀香もなぁ、同じ関西人やから、心情的には好きな人なんやが、あの「いい人ブリ」だけはやめて欲しいなぁ。「スーパーで、エコ袋持って行き忘れて、スーパーでくれるプラスティックバッグを使う時は恥ずかしいと思っちゃいます。」とか言ってやがるんよな。
そういうお前が恥ずかしいから、そういう事を言うのはやめてくれ。
みんなが、自分なりの生活をしていて、みんなが適正なコスト計算をして、それで適正に回ってるのが今の社会で、その中でコスト的にも妥当なのがスーパーの袋なの。だからそれを「恥じる」必要なんか、最初から髪の毛の先ほどもない。
そんなら何か? スーパーでプラスティックバッグを使ってる大多数の9割以上の人間が「恥ずかしい」という精神的なマイナスを背負う事が環境貢献なんか? お前、世の中に「悪いこと」ばらまいてるだけやんけ。世の中を暗くしてどうすんねん。お前がガンや、アホ。ってしか思わないんですわね、私は。
ちなみに、エコ袋を持参するとですね、スーパーでくれるショッピング袋を家庭中の小さなゴミ箱に中敷き用に使うというような「再利用」がスポイルされます。ずっとエコ袋を持参すると、ああいう中敷き袋は、お金を出して買うしかなくなります。まぁスーパーは儲かっていいですけど。ああいうのは、買うとものすごく高いですから。買いたい人は買え。で、買ったそれは、一度しか使われませんわな? ショッピング袋みたいに家に帰るまでに使われ、家庭内でゴミ袋として使われという現実的なリサイクルの仕組みがなくなるだけでおます。アホくさい。
ちなみに、
●CO2が増えても、地球は温暖化しない。
●ショッピング袋を焼いてもいまやダイオキシンは出ない
●ダイオキシンは猛毒とは言えない
●ショッピング袋に環境を阻害する素材は含まれない(環境ホルモンなど)
だそうです。
このあたりは「科学」の話だから、僕は政治的な話の根拠にはしないですけど、科学的に考えても、別に問題はない。あるとするなら、
●埋蔵量に限界のある石油を燃やしてしまうショッピング袋に使っても良いのか?
という問題くらいでしょうけどね。
でも、あのショッピング袋を作るために使う石油って、そんなに大量か? 電車やバスなどの都市交通が整っている環境で「自家用車」で燃やしてるガソリンのムダに比べたら、とんでもなく少ない量だと思うけどねぇ。
まぁいいや。話がそれた。
ともかく。
上記のようなことでして、環境問題の話をしていて、誰かとまともに意見が合った事がないのであります。いやほんと。まじめにキチンと活動してるような人とも合わないし、ましてや、何も考えずに時流に乗らされてるだけの人とは絶対に合わない。
強いて「合う」人を言うなら、仕事上でおつきあいのある企業さんで、自社製品のエネルギー効率を真剣に高めているような人くらいかなぁ。そういう人なら話は通じる。政治の話も、まぁ通じる。まぁ事業部長以上、社長クラスになってしまいますが。
まぁ、面白いもんです。
ともあれ、マスメディアとか国内政治で出てくる「エコ」話は、もう最近ではあまりに鼻について聞いてられないですなぁ。
政治を利用するのはええけど、「新幹線に乗ったらエコ!」とか言うてる宣伝まで出てきてるからさぁ。まぁCO2排出権の証券化とかあるから、完全なウソとは言えないにしても、それはおかしかろう。人間活動は何らかの環境負荷はあるよ、そんなもん。
そうそう、「エセエコ」のかけ声で多い「地球のために」とかも「やめてくれー!」って思う。
そんなもん、人類が死に絶えても、地球は生き残るに決まっとるわ、ボケ。どこまで「人間様は偉い」と思いこんだら気が済むのやら。
「あんまり無茶したら、人間に跳ね返ってくるかもよ。わからんけど。」くらいの話やろが、もともと。いや、ほんまに。
まぁ地球は人類の事なんか気にしてません。人類は人類の事を気にしましょう。紀香クンみたいに、「みんなの迷惑」さえ増やさなけりゃ、まぁ全部オーケーでええんと違いますか? そのくらいの大ざっぱさで行こうよ。ほんとに。どうでもええやん、エコなんか。
マジに。
もう、何年も前からなのですが、こと「環境問題」に関しては、誰と話しをしてもかみ合いません。困った事です。
で、なんでかみ合わないのか、自分では分かってたんですけど、あまり説明しなかった事をちょっとチマチマと説明してみたくなりました。
いまさらって気もするんですがね。
まずね、「環境問題は科学じゃねーんだよ、政治なんだよ、セージ、わかってんの?」ちゅうことです。
ここがですね、どなたとも合わない根本原因なんですよね。
なんて言うんでしょうか、根本的に僕はまず「自然の事は分からない」と思ってるわけです。生命の不思議を解き明かした科学なんかありません。多少は分かってきてるけどね。
だから「科学的にこうだ!」と言われても「まぁ、そうですかね。」という感じで、あんまり真剣に聞いてない。
いやまぁ、あれですよ、確実に再現性のある話は「道具」として利用しますがね、それ以外の「検証されていない科学」って言うのは全面的に「仮説」であって、それを信用するかどうかは、「政治」でしかないって思ってるわけです。
わかるでしょうか? このあたりの感覚。
僕が、こういう感覚を抱いたのは、少なくとも1991年のソ連の崩壊前後の事なのですね。
というのは、ソ連がロシアになる前後にけっこうサミットってのが行われていたわけですが、「ソ連」がある間はサミット後の取り決めの発表の中にソ連との対応というか、社会主義圏とどう対応するか? という項目がいろいろと入ってたわけですよ。それこそアフガン侵攻の頃から、サミット参加国の1番最優先の議題になったり、3番目の議題になったり、いろいろしてたけど、まぁずっとアジェンダとして入ってたはずです。
で、ソ連が崩壊して、「あー、アジェンダのひとつが消えたよなぁ、どうするんだろ、サミットでは。」って思ってたわけです。
なんで、そういう事を思ったかって言うと、僕がテーブルゲーム好きだったからなんですね。テーブルゲーム。
つまり、具体的に言うなら「モノポリー」とかさ、そういう奴です。
けっこう遊んでたわけですよ、当時。友人の夫婦ものの家に集まっては、「人生ゲーム」をやったり、トランプで遊んだり、知ってる人は知ってる「クーハンデル」で遊んだり、もう、それこそいろいろやったわけです。
で、ああいうテーブルゲーム・カードゲームの類をいくつもやると、「取引」って事の重要性を、嫌でも体で学ぶのですね。
「おい、いま、あいつ一人の一人勝ち状態をほったらかしにしておいたら、俺たちに勝ちはないぜ。ちょっと組まないか?」ってところから、二位三位連盟を作るとかね。そういう事をすごく駆け引きする。
ちなみに、みんな双六ゲームとしか思ってない「人生ゲーム」でも、実は、この「取引」こそが勝負を決めるのですよ。で、私は実は「人生ゲーム」で負けた事がない。必ず1位か2位。なんでそうなるか? というのを説明すると長くなると割愛するけど、とにかく、ちゃんと取引してれば勝てるんです。
で、です。
この「取引」をするには、カードが必要なんです。
カードがなければ、取引をすること自体が出来ない。ただ指を加えて見てるしかないわけです。だから、カードは多ければ多いほどいいんです。
こういう事は、こういうカードゲームをやったことのある人なら実感としてわかる。
でも、テレビゲームだけしていても、このダイナミズムは分かりませんよ。だからテレビゲームだけしかしてない人間は「遊び」のなんたるか、なんか全然分かってないって事にしかなりません。
で、政治と取引って事は、本当に僕はゲームから学びました。
なので、ソ連の崩壊は、まず何より「社会主義圏の消滅」により、「国際政治の取引ネタ」が一つ消えた、という風にしか読めなかったのですね、私には。
いままでは、「ソ連に対して強行に出るかどうか」とか、そういうことを国と国との駆け引きの「カード」として使えたわけですよ。しかし、その、かなり大きなカードが一種類、ごそっとなくなってしまったわけです。あの時。
だからこれはトランプで言えば「ハートのスートが一組消えた」に等しい話だったわけです。
なので、ソ連消滅後のサミットのあとの共同声明が、僕はすごく興味があったんですね。で、それをしげしげと眺めて見た。
そしたら!
そこに「環境問題」が、どーーーんと登場してたわけですよ。
「ああああ、そうか! そうだったか!」と僕は思ったわけです。「環境問題かぁ、それはカードになる!」って事でした。
だって環境だよ? 誰にだって関係あるやん! どこの国でも、政治的に使える。「今サミットでは、××代表は、環境問題で○○という成果を勝ち取った!」とか言える!
言えたらそれで良いわけです。それが政治ですから。
実際の「環境」とは、何の関係もおまへん。
まず、国際政治の取引のカードとして使える。
そこがすごく重要なわけです。
これがカードがなかったら、それぞれの国の利害の調整のやりようがないわけですよ。調整のつけようがない。いままでだったら「共産圏への○○の取組に協力する」ということと、軍事的協力をリンクするとかしないとか、そういう「モノサシ」でやってた事を、「環境への取組」を担保として使えるわけですよ。
よろしいですか? 国際的に文化も何も、根本から異なる国同士がですね、何らかの「取引」をしようとしたら、「共通の価値」として認識できるテーマがなかったら無理なわけですよ。で、そんなもの、そう簡単に見つかったりはしないんです。それこそ「共産主義の恐怖」とかだと西側諸国はまとまれたわけでしょ? でもそれがなくなったら、「共通貨幣」がなくなっちゃうのと同じなわけですよ。ものすごく不便なわけです。
だから、ソ連崩壊後のサミットで環境問題が(それまでもアジェンダにはなってたんだけど、)繰り上げ当選みたいに、ドーンと2番目だか3番目だかのテーマに「格上げ」されてるのを見て。「なるほどなぁ、国際政治っていうのは、こういう風に動くのか。」とかなり感心した覚えがあるわけです。
テレビゲームしかしてないと、これはわからんけど、ボードゲームとかカードゲームで、人間間の取引をいろいろ試してたりすると、すごくわかる。一発でわかる。(というか、元々私、前にも書きましたけど「倫社の帝王」でしたから、たまたまこういう事に敏感なだけかもわからんのですが。このあたりは実はちょっと不明。)
で、このサミット以降、僕の頭の中では、国際政治としての取り決め(決して科学的ではない。あくまで政治的取り決め。)からのトップダウンでの課題の割り振りがあって、それで各国で与えられた枠内での「やりくり」だけが環境問題になったのだ、という認識があったわけです。
これはもう、強烈にありました。
だから、環境関連の話をしていて、「科学的に正しいかどうか」とか、「倫理的に正しいかどうか」とかの話を真剣にしている人と会うと、もうその段階で話をする気が失せてしまってたんですね。
「いや、それは言っても話ははじまらんやろ」って思っちゃうんですね。「そうやなくて、割り振られた枠を、いかに屁理屈つけても獲得することとちゃうんか?」ちゅう話です。もう、ものすごく政治的。
たとえば、本当に環境の役に立つ技術があって、その普及を真剣に考えてる人がいてるなら、「科学的正しさ」とか「倫理的正しさ」とか、そんな事はどうでもよろしい。あなたが普及させたい技術がそれをクリアしてるなら、それで問題ないんです。そういう事は、大衆にはすぐわかる。だから、そういう事を言わずに、「温暖化防止」であろうが「CO2削減」であろうが、その「枠組(たいていは予算的枠組みだけどね)」を、「利用」して、普及させちゃえばいいんだって話なわけです。だって元々、大枠が政治でしかないんだからさ! それは。
僕はもう、そういう発想しかなかったわけですよ。もともと。
しかし、なんちゅうかねぇ、この環境の問題っていうのは、すぐに「科学的正しさ」とか「倫理的正しさ」とか、ごちゃごちゃ言う人が出てくるわけです。
どうでもええやん、そんな事。
知らんがな。
って思う。
世の中をうまく回す仕組みとか、アイディアとか、環境に絶対良いと思える「何か」があるんなら、それを、どんな政治的手段を使ったって、世の中に実現させちゃえば良いわけです。そういう信念が当人にあるなら、それでオーケーなわけ。
そんなものね、世界のホンダの本田宗一郎だってそうだったし、ソニーの盛田昭夫だってそうだった。それで良いんです。人間には限定性というのがあって、自分の立場からしか物事は判断できません。だからホンダならカーレースに出る!でしょう。それで良い。
僕は一時期、有機農業をやってる人達ともいろいろやってたりしてましたけど、そのやり方が良いと思うなら、話をこじつけてでも「うちのやり方がCO2削減につながるんだ!」とホラを吹いても、別に良いとすら僕は思うわけです。だって、先に大枠がきまっちゃってるんだから。四の五の言ってる場合じゃないでしょ? っちゅうことですわ。
でも、どうも、このあたりの話が、あまり通じないですね。
いや、まだに、こういう具合に具体的にちゃんと活動もしていて、「この方が良いのだ」という考え方ややり方を、内面的につかまえてる人は、尊敬できるし、僕からすれば「うまく立ち回ればいいのに…」って感じでしかないわけで、それは、まぁしゃーないって思うんですね。そこまで人間、ベンサム的に功利的に立ち回れるわけでもないですから。功利的に立ち回るにしたって、アイディアと行動力が必要で、誰にでも出来るというわけでもないですから。それはもうしょうがない。
こういう尊敬できる、キチンとした人とすら僕はかみ合わないわけですが、もっとひどい一群というのは、世の中にいてまして、そういうのとは、もうかみ合わないなんてものではないわけですね。
たとえば、別に環境問題に対して「これが良い」という解答や信念があるわけでもないのに、環境問題と「単なる反米意識」とが未整理に心の中でくっついていて、「アメリカはエネルギーの無駄遣いをしてる」とか言うタイプ。
いや、ちょっと頭整理してから言うてよって思う。ごちゃまぜやん。日本人がアメリカの事をゴチャゴチャ言うてもしゃーないやん。反米運動がしたいんなら、そういうグループに入ったら? とか思うだけ。
で、最近で言うと「エコな発言したら、かっちょ良い人なのよ。」的動き。あれがもうかなわん。なんじゃそりゃ? って思う。お前はパァ〜か? って思う。あ、パァなのか。
藤原紀香もなぁ、同じ関西人やから、心情的には好きな人なんやが、あの「いい人ブリ」だけはやめて欲しいなぁ。「スーパーで、エコ袋持って行き忘れて、スーパーでくれるプラスティックバッグを使う時は恥ずかしいと思っちゃいます。」とか言ってやがるんよな。
そういうお前が恥ずかしいから、そういう事を言うのはやめてくれ。
みんなが、自分なりの生活をしていて、みんなが適正なコスト計算をして、それで適正に回ってるのが今の社会で、その中でコスト的にも妥当なのがスーパーの袋なの。だからそれを「恥じる」必要なんか、最初から髪の毛の先ほどもない。
そんなら何か? スーパーでプラスティックバッグを使ってる大多数の9割以上の人間が「恥ずかしい」という精神的なマイナスを背負う事が環境貢献なんか? お前、世の中に「悪いこと」ばらまいてるだけやんけ。世の中を暗くしてどうすんねん。お前がガンや、アホ。ってしか思わないんですわね、私は。
ちなみに、エコ袋を持参するとですね、スーパーでくれるショッピング袋を家庭中の小さなゴミ箱に中敷き用に使うというような「再利用」がスポイルされます。ずっとエコ袋を持参すると、ああいう中敷き袋は、お金を出して買うしかなくなります。まぁスーパーは儲かっていいですけど。ああいうのは、買うとものすごく高いですから。買いたい人は買え。で、買ったそれは、一度しか使われませんわな? ショッピング袋みたいに家に帰るまでに使われ、家庭内でゴミ袋として使われという現実的なリサイクルの仕組みがなくなるだけでおます。アホくさい。
ちなみに、
●CO2が増えても、地球は温暖化しない。
●ショッピング袋を焼いてもいまやダイオキシンは出ない
●ダイオキシンは猛毒とは言えない
●ショッピング袋に環境を阻害する素材は含まれない(環境ホルモンなど)
だそうです。
このあたりは「科学」の話だから、僕は政治的な話の根拠にはしないですけど、科学的に考えても、別に問題はない。あるとするなら、
●埋蔵量に限界のある石油を燃やしてしまうショッピング袋に使っても良いのか?
という問題くらいでしょうけどね。
でも、あのショッピング袋を作るために使う石油って、そんなに大量か? 電車やバスなどの都市交通が整っている環境で「自家用車」で燃やしてるガソリンのムダに比べたら、とんでもなく少ない量だと思うけどねぇ。
まぁいいや。話がそれた。
ともかく。
上記のようなことでして、環境問題の話をしていて、誰かとまともに意見が合った事がないのであります。いやほんと。まじめにキチンと活動してるような人とも合わないし、ましてや、何も考えずに時流に乗らされてるだけの人とは絶対に合わない。
強いて「合う」人を言うなら、仕事上でおつきあいのある企業さんで、自社製品のエネルギー効率を真剣に高めているような人くらいかなぁ。そういう人なら話は通じる。政治の話も、まぁ通じる。まぁ事業部長以上、社長クラスになってしまいますが。
まぁ、面白いもんです。
ともあれ、マスメディアとか国内政治で出てくる「エコ」話は、もう最近ではあまりに鼻について聞いてられないですなぁ。
政治を利用するのはええけど、「新幹線に乗ったらエコ!」とか言うてる宣伝まで出てきてるからさぁ。まぁCO2排出権の証券化とかあるから、完全なウソとは言えないにしても、それはおかしかろう。人間活動は何らかの環境負荷はあるよ、そんなもん。
そうそう、「エセエコ」のかけ声で多い「地球のために」とかも「やめてくれー!」って思う。
そんなもん、人類が死に絶えても、地球は生き残るに決まっとるわ、ボケ。どこまで「人間様は偉い」と思いこんだら気が済むのやら。
「あんまり無茶したら、人間に跳ね返ってくるかもよ。わからんけど。」くらいの話やろが、もともと。いや、ほんまに。
まぁ地球は人類の事なんか気にしてません。人類は人類の事を気にしましょう。紀香クンみたいに、「みんなの迷惑」さえ増やさなけりゃ、まぁ全部オーケーでええんと違いますか? そのくらいの大ざっぱさで行こうよ。ほんとに。どうでもええやん、エコなんか。
マジに。
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