ここのところ、自転車通勤をしてるのですが、とにかくいまの時期、自転車で走るのが気持ちいいのです。

あまり難しいことは考えないですが、単純に生きてるっていいなぁというか、自分の体がちゃんとここにあって、こういう世界を感じ取れているっていうのは気持ちいいなぁって思います。

このブログでは、前から宗教とかの話も書いたりしましたが、基本的にこういう「生きている事が素晴らしい」と感じる事こそが、ベーッシックな喜びで、この原点の喜びを忘れるところから、いろいろな心の苦しみがはじまるように、僕は思うのです。

科学がどれほど進もうが、生き物を科学の力で生み出すことはできません。生命の秘密は解き明かせていない。だから、「奇跡」というのは、「私がいま、ここにいること」そのものなのですよ。

自分が生きていること。この世というものが存在していることそのもの。それこそが奇跡です。思いません?

この当たり前の奇跡を、奇跡と思えないでいると、昔事件を起こした新興宗教の「座ったままジャンプを写真で撮ったもの」を見せられて「空中浮揚だ!」「奇跡だ!」てなことになってしまいます。

でも、日本人というのは宗教というものに弱いので、こういう「空中浮揚が奇跡だ」みたいな話にすぐに乗っかっていってしまうんですよね。

確かに、僕もけっこう「世にも不思議な偶然の一致」とかの話が大好きだったりするんで、「不思議話」に惹かれる人ではあるんですが、それでも、この、「私が生きている」という奇跡に比べたら、たかが知れてる。そんなもの、「私が生きてる奇跡」のバリエーションにしかすぎないよなぁって思うんです。

楽観的すぎるかもしれないですけど、単純に、人間は祝福されて生まれてきてるよなぁって思うわけです。この世界そのものが、まさに祝福だ、って思う。

人間がいて、空間があって、生き物があって、自然があって。そういうことのすべてが奇跡なのだから、それはやっぱり祝福だよなぁっていう感じ。

このね、基本的な喜びからね、離れてしまってる人を見るとね、どうしても僕は「バカモン!」と叱りつけてしまいたくなっちゃうんですよね。

この間書いた「人生を捨ててるタイプ」も、「頑張りすぎてるタイプ」も、この一番の基準値となる「私が生きているという奇跡」を忘れてるって思うんですよね。
ここの生きてる不思議、命があるという奇跡、こそが、グラフ用紙の原点ゼロだって思うわけです。

でもなぁ、なんでそうなっちゃうんだろうなぁ。

いや、自分自身も、よく「頑張りすぎてるタイプ」にはなっちゃう事があるしねぇ。

だから、まず、「人生を捨て」たり、「頑張りすぎ」たりした時には、この原点に戻らないといけないんですよね。

ただ、恐ろしい事に人間というのは、自分が「人生を捨てるような態度になってしまってる」とか「頑張りすぎて他者を苦しみに陥れてる」とかを自分で把握するってことがなかなかできないんですよね。

どうしてそういう把握ができなくなるかというと、「感じる事を避けるから」なんですよね。僕の嫌いな「自己欺瞞」って奴です。

うれしい事や楽しい事は、素直に感じ取ろうとするんだけど、苦しいこととか悲しい事とかは、「感じないようにしよう」と、人間はついついしてしまうわけです。

これがね、「人生を捨て」たり、「頑張りすぎ」たりという極端の方向へ、人間を走らせてしまう引き金になるようなんです。

前にこの日記の、

●i先生のこと。
http://diarynote.jp/d/12917/20070607.html

に書いた事ですけど、人間って、嫌な事や辛いことから逃げようとして「感じなければ問題にはならない」という間違った解決策を取ってしまうんですね。でも、自分の失敗をキチンと認める事で「自分の事を恥ずかしく」感じて「感じる心」を取り戻すって事はあるわけですよ。

結局、感情に「良い感情」も「悪い感情」もないんですね。両方ともに神が与えてくれた素晴らしい感情であって、両方ともに素直に受け取って味わうようにしなければならないわけです。それを無視して「感じないようにする」と言うことをしてると、それが抑圧となって溜まっていって、自分に価値感を感じられなくなって「人生を捨て」たり、その自分の無さを穴埋めするために「頑張りすぎ」たりするわけです。

でも、やっぱりそういう「嫌な感情」は嫌なものなわけですから、避けたいのは当然なんですね。でも、どうやれば一番ラクかというと、これがまた「たっぷりしっかり味わう事」なわけですよ。

人間、いつまでも悲しみ続けたり、怖れ続けたりという事はできないわけです。キチンとしっかり自分の感情を味わうと、しっかり体に染みこんで緩やかに薄らいでいくわけで、これがもっとも早く悲しみや心の痛みをなくす方法なんですね。

失敗して恥ずかしい思いをした時とか、とにかくその時に「わーーー、恥ずかしぃぃぃ!!」っていうのを早めに味わう方が絶対に良いです。それも自分の大切な感情なわけですから。それを怖がって逃げちゃいけない。逃げると抑圧になって、ゆるやかーなストレスが延々ずーーーーーっと続くという事にしかなりませんから。

これは、

●「感じ方」は自由なのか?
http://diarynote.jp/d/12917/20070602.html

でも書いた事ですけど、「自分がアホと分る」事こそが、「アホでなくなるための第一歩」なんです。つまり、「怖くならないようにするには、ちゃんと怖がってる自分を味わう」ことが大切だし、「恥ずかしい思いをしないためには、ちゃんと恥ずかしい思いを味わう」ことが大切だってことですね。

この「感じること」ができていなくて、前に進むことは絶対に出来ないわけです。

道に迷うっていうのは、迷った時に、「ここで迷った」というのはわからないものなんですよね。道を歩いていて、ある時何故か「ありゃ? おかしいぞ?」と感じ始めて「ちょっと待て、迷ったんじゃないか?」と地図を見直すというのが普通です。

で、「自分が間違えたポイント」まで戻って、そこからやり直すわけですね。
そうしない限り、迷い道からは抜け出せないのが普通でしょう。

だから、やはり、まず自分が間違えたポイントである「感じ方を押さえ込んだ時点」を明確に知るっていうのが効果が高いわけです。(他のやり方もあるけど。NLPなんかは間違ったポイントまでは戻らないやり方ですわね。あれはあれで意味があると思う。)

感じるべきところで感じていなかったのだ、とわかると、いろんな事が胸落ちするんですよねぇ。それは自分にだけは、はっきりわかる! という感覚でやってくる。「ああ、いままで、この感じてた自分を無視してたんだ」とわかるんですよ。

で、それが「ありのままの自分」を受け入れられたって事なんですよね。
失敗した自分のかっこ悪さとか、恥ずかしさ。不勉強なのに知ったかぶりをしてしまった恥ずかしさ。頑張りすぎて回りにストレスを与えてしまった自分の愚かさ。高い目標設定をして達成できなくて落ち込んでしまうという無理をする焦燥感。

そういうもの全てを、キチンと味わわないと、そういうアホな事をしてしまう自分を受け入れられないんですね。

で、そういう自分を受け入れるって事が、自分を好きになるって事で、この「自分を好きになる」「自分を愛する」というやり方ができてはじめて、「他者を愛する」「他者を好きになる」が無理なく落ち着いてできるようになるんだろうなぁ。

とまぁ、そういう事を、5月の風に吹かれて、自転車に乗りながら考えていたのであります。

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