依存症の話を書いていて、身の回りの人間を観察しつつ、自分自身の反省も含めて考えていくと、結局、人間関係の失敗とは何なのか? というところに行き着く。

で、ようは「ころあい」がわからない、というのが失敗なんだなと思うのですね。

一言で言うと「極端」ってことなんだろうなぁ。

身の回りの人間で言うと2つの極端なタイプがあるように感じるのです。

ひとつは、人生を捨ててるタイプ。
もうひとつは、頑張りすぎてるタイプ。

このどっちも「自分を大切にしていない」という意味で、回りにとってはものすごく迷惑なんだけど、自分の「考え方」が回りに迷惑をばらまいてるんだ、という認識がないんですね。

人生を捨ててるタイプは、「人生オマケのようなもの」とか言って、ただダラダラしてるだけなわけです。で、ようは「自分で頑張る」とか、「自分に期待する」とか、「自分育てをする」と言った、幸せの基本になる発想や概念が弱い。

なので、基本的にいつも愚痴ばっかり言ってます。で、そういう愚痴とかが、実にうっとおしい。聞いてると、こっちまで気が滅入るので、まぁ話も聞かずに「ああ、そうですか」と近づかないようにするしかない。なんせ、そういう人は自己欺瞞の繰り返ししかしてないので、グルグル同じ所を回ってるばかりで関わると単に時間がなくなるだけだからです。

自分を大切にして、自分育てをしている人とは、まず何より、話をしていて楽しいのですね。「最近、こういう事が自分の欠点だと思うので、こういうチャレンジをしてるんですよ」という種類の話が多い。聞いていて楽しい。こっちまで明るくなる。

で、基本として、「回りを明るく、楽しくする」のが、本来の健康な人間関係なのだ、というところあたりが人生を捨ててるタイプには見えてなかったりする。人生を捨ててる態度が標準だ、と勘違いしてる。

まぁこのあたり、依存症だけではなくて、環境の問題やら、社会の仕組みが間違ってる部分とかもあるから、一概には言えないのですが。

でも逆に、頑張り過ぎてるタイプも、実は回りにとっては迷惑なんですね。自分を大切にしていない、という意味では同じ事なので、横で話を聞いていても、しんどいだけだったりする。

頑張りすぎてるタイプの人の話は、基本的に間違ってるところが全然ないんです。「確かにその通り」って思う。いろいろ勉強してるし、意見も筋道がしっかりしていて納得させられることが多い。

ただ、聞いてて楽しくないんですね。「あーしんど」って思っちゃう。なんて言うか、「自分を楽しませる要素」に関して無頓着になってるんですね。
そういう部分が少ない。

で、これは人生を捨ててる人とも共通するのですが「楽しみは人生とは別」という感じになってる。
「これは、好きでやってる事で、仕事とは別なのだから、ほっといてくれ」みたいな事を普通に言う。

で、それが他者との楽しみの共有になってないんですね。私が楽しいんだから、あなたには関係ないでしょ、って感じ。頑張りすぎる人は、どうもそういう傾向が強い。

でも、これも依存につながりやすい発想だと思うのよなぁ。

この辺、やっぱり「ころあい」だと思うのですよ。同じ楽しみなら、他の人とも共有できる楽しみを優先した方が良いのではないですか? そういう発想にした方がよろしいよ、って思ってしまう。
というか、自分だけの楽しみに加えて、他者と共有する楽しみも味わってみたら? で、それを自分の楽しみより優先してみたらどう? って思うんだけどなぁ
楽しみを共有するやり方が身に付いてないのかしら? とかも思うのだけど。このあたりも、まさに「ころあい」なんだと思うんですよね。

ただ、この「ころあい」ってすごく難しいんですけどね。
で、最近思うのは、結局、目標管理こそが「ころあい」を身につける最適手法だなって事なんですね。

ようは目標値を適正・適切なものにするって事です。

たとえ、依存症でない人であっても、目標値の設定を誤ると、失敗だらけになったり、過剰な頑張りになったりというのが発生して、精神状態に余裕がなくなると思うのですよ。
その余裕の無さこそが、この2つのタイプの両方に共通する問題点なわけなんですね。

人生を捨ててるタイプは、自分の弱点や欠点を直視できてないわけです。直視さえすれば、対応策なんかいくらでもあるのに。で、自分の弱点や欠点を見ないようにするために、何かに依存するわけです。ゲームとか恋愛とかパチンコとかアルコールとか。自分の弱点を直視するだけの心の余裕がないわけです。

で、頑張りすぎるタイプはどうかというと、「自分の楽しみ」を捨ててまで弱点克服に頑張ったりします。
頑張り過ぎてるタイプは、自分の弱点の直視は出来てるんだけど、逆にそこしか見てないんですよね。
「自分の楽しみ」を味わい、人生を楽しむという本質部分に対してゆとりがない。

頑張りすぎるタイプは、解決策を思いついたら、それでもう「できた」気になってるってのが多いのも特徴かなぁ。解決策は正しくても、実際に実行したら、別の種類の問題が出てくる、なんていうのは当たり前の事であって、そのプロセス自体を「楽しむ」態度でないと、何事も面白くないし、自分の成長もないんだけど、「正解」を見つけた段階で終わってるんですよね。

で、それは結局「自分の楽しみを味わう」というプロセスが欠けてるって事なんですよね。

ウクレレの練習をしていて思うのは、苦手な部分、難しいところっていうのは、弾けないうちは、嫌な事で避けたくなることなんですけど、これが克服できるとすごく楽しい、やりがいが生まれるわけですね。

で、この連続こそが楽しいわけです。苦手克服の連続とも言えます。
スポーツなんかも、多分同じですね。苦手克服の連続でしょう、多分。

つまり「苦手」や「問題」は、確かに嫌な事なんだけど、でも、それを乗り越えられたら、かなり大きな「楽しみ」になるって事なんですね。

人生を捨ててるタイプは、この「楽しみの素」である苦手やら問題やらを直視しないタイプです。だから人生が楽しくないんですね。これはもう、話にならない。初歩の初歩ができてないわけです。そら人生、楽しくないわなぁ、近づかんとこってなります。

でしょ?

では、頑張りすぎるタイプはどうなってるかというと、問題や苦手は直視するんだけど、それを乗り越えた後に「おお、こんなに難しい問題を私は乗り越えたのか。いや、大したものだ。」とふり返ったり、自分をほめたり、味わったり、という事をしてないんですね。

もう、問題を超えるだけで、手一杯になってる。

これもまた問題でね。あまり近づきたくないでしょ? こういうタイプ。
いやまぁ、忙しいとそれどころじゃなくなるものだし、僕自身そういう「自分をほめるのを忘れる」タイプの方なので、イカンイカンと思うんだけど。

で、つらつら思うに、やっぱり目標管理なんですよね。適正な目標値の設定をするって事なんです。
あまり高い目標を設定しない。あんまり高い目標を設定すると、燃え尽きちゃうから。

大目標は、いくらでかくてもいいんだけど、いざ実行する実行値は、小さめ小さめに取って、とにかくそこで着実に超える事を大切にする。で、超えた自分をほめる。ここが大事なんですよね。

本を読む話をやたら書いてたけど、本を読むのだって、たとえば、あまり読めてなくても、「かまわない」と思うのがすごく大事。

未読本を玄関近くの本棚に置いてると前に書きましたが、こうしておくと、せめて「この本はいつか読むのだ」という事だけは意識できるので、とても良いわけです。言わば「タイトルだけ読んでる」って事で、まず「タイトルだけでも読んだ自分」をほめてる行為なわけですよ。

こんなもの、なんの努力も要りません。飾っておけば、勝手に目に入りますから。でも、「ああ、あの本は読まなくちゃ」と思ってる意識は持続できるし、そう思ってる自分は努力してる自分なので楽しいわけです。(読まなきゃいけない本は一カ所に固めてあるので、探す手間とかも省けて、それでラクという側面もありますが。)

で、実際にはずっと飾ってたけど、いざ手にとって読み始めたら、全然自分の興味にあってなくて、読むのをやめて捨ててしまう、なんて本もあるわけです。ようは「飾ってただけ」って事です。

飾るだけですよ、飾るだけ!

実は、このくらい低い目標値こそが大切だったりするわけなんです。

「読まなきゃいけないんだけど、とにかく飾ってタイトルだけは読もう。」

この精神なんですね。
ほとんどサボリと変わらない(笑)

でも、明確にサボリではないわけです。
ものすごーーーーく軽い負荷。

そういう事が、すごく大事だって思うのです。

だから、意外に大事なのは、「いかに低い目標を設定できるか」ではないか? って思うんですよね。

この場合でも読書家から見たら、飾るだけ、なんて無意味にしか思えないはずです。
でも、最近読む冊数を増やしてる僕としては、この「飾るだけ」というのが、けっこう良いモチベーション生成装置になってるわけですよ。

で、「飾るだけ」なんてことは、それこそ、「人生捨ててる」ような人にだってできる。
で、「タイトルだけでも読んでる」のと「まったく読んでない」のとでは、全然違うわけです。ゼロとイチの違いです。二進数で考えれば正反対ってことです。

だから、この「屁みたいな、小さな目標」こそが大切なんですね。ものすごく大事だと思う。

で、こういう屁みたいな事をやった上で、キチンと自分をほめる。

屁みたいな小さい事でも、やった事はやったんだから、えらい。

とにかく実行しただけで偉い。

そういう事でほめるんです。自分をほめる。

ここがすごく大事。

そうすると、ゆっくりではあるんですが、はずみがついてくるんですね。もっとたくさん自分をほめよう、という気になってくる。

僕は手帳が好きで、よそで手帳のホームページも作ってたりするんですが(ここ数年、まったく更新もしてませんが)、手帳というのも、「予定をつける」ために使ってたら、実は全然意味がないんですね。

手帳は、記録をつけるために使うのがベストです。で、実際に何かを実行した自分を「ほめる」ための道具として使うというのが、ものすごく大切な要素なんですね。

あまり、このことを書いてる人っていないので、困ったことだなぁと思うんですが。みんな予定しか書いてないもんなぁ。

最近は週に一度、「ふり返り」の時間を持つようにしてるんですが、そういう時に手帳を見て、一週間、何を達成して、どう失敗したかを確認するんですね。

で、失敗したことに関しては目標値が高すぎたのではないか? とか自問自答して、高すぎたら即低い値に変更します。

結局、「目標」というのは、達成できないと楽しくないんですよ。で、歯を食いしばってヒイコラ言わないと達成できないくらいしんどい目標も、辛い。辛く思ってる人間を見るのは苦痛ですから、そういう苦痛を回りに与えてはいけないんですね。

だから、「やる」「実行する」のと同時に「必ず達成する」「必ず達成できる」がつねに必要で、なおかつそれは「ラクラクできる」「屁でもない」というのも必要だって事ですね。

自分を直視してない人は、まずこの目標を見つけるという事自体ができてないから不機嫌なわけです。

で、目標が高すぎる人も、それが「実現しない」ので不機嫌だったりします。

また、目標を達成してる人でも、目標が高すぎると「楽しむ」余裕がなくなって、回りがうっとおしく感じます。(ここに気付けないのも、かなり問題です。)

で、「達成してるのに、楽しくない」になって不機嫌になります。これも抜け出すのに苦労するよなぁ。こういう人は「ふり返り」が効果的だと思います。

という事で、目標設定には「ころあい」が、死ぬほど大事なんだ、っちゅう話です。

ま、そんな事で。

コメント

どん太
どん太
2008年5月24日13:01

今、上半分しか読んでないんだけど、大賛成です。
これ、コピらせていただいて、私の日記で歓送会手もいいですか?

権之助
gonzaga
2008年5月24日13:14

「手帳のホームページ」の話をお書きになっていたので、ここに書き込みますが。
今日の午前中、(HOME)を拝見して、そこからあちこち見て回らせていただいて気がついたのですが・・・・http://web.ffn.ne.jp/~KIDS/sd/sdfan.htm
かつてここにあったホームページを作っていたのはシゲさんだったのですね。

nophoto
シゲ
2008年5月24日13:53

>どん太さん
どうぞどうぞ。こんな拙文でよろしければ。
今回特に思いつきで書いてますし、一発書きの荒い内容ですけど。頭の中で二人ほど思い浮かべて書きました。で、どっちもよろしくないなぁと。
でもある意味、人のふり見て我が振り直せってところがありますし、複数人を思い出すと本質の抽出はしやすいのかも、ですね。全然タイプの違う人なんですが、共通項があったのが書いてて面白かったです。

nophoto
シゲ
2008年5月24日14:02

>gonzagaさん
そうですよ。sdファンクラブは長々やってましたねぇ。
いまはいちおう、
http://www.saturn.dti.ne.jp/~kids/sd/
に置いてあります。
でも、ほとんど死んでますけど。
googleでシステムダイアリーを検索すると、いまでも二番目にこのページが出ますよ。
このページはいまだに時たま「見てました」とか言われるんですよねぇ。そんなに更新した記憶もないんですが。
またいろいろやってみようかしらん。

どん太
どん太
2008年5月25日15:14

ありがとうございます♪

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