本を読まない人はサルである!
最近ちょっと書いてないので、書こうと思ったら、「だいありのーと」のアマゾンへのリンクが張れない状態。
ま、しょうがないので、写真載せて適当に。

紹介するのは、元日本マイクロソフト社長の成毛眞さんの

●本は10冊同時に読め!
―生き方に差がつく「超並列」読書術
本を読まない人はサルである!
(知的生きかた文庫 な 36-1) (文庫)
http://astore.amazon.co.jp/kids1226-22/detail/4837976913/503-1393334-5299133

リンクさせていただいてるgonzagaさんが読んでらしたし、タイトルがけっこうアジってるので、ちょっと読んでみたら1日で読めちゃったよ。

副題のついてる「本を読まない人はサルである!」というフレーズが、まぁ、この本のすべてですな。「そのとおりだ!」と思っていきおいこんで読んだけど、それだけだった、という本。(笑)

言い方はアクが強くて、腹が立つ人は腹が立つだろうけども、まぁ、「ほんまの事やねんもんしゃーないやん」という感じ。実際、本を読まない奴は、掛け値なしにバカだもん。現実的に。

でも、事実をそのまま述べたところで、書籍としては、あんまり面白くないって事な訳ですね。「本を読まない人はサルである!」「そうです。その通り。でも、そんな事実を今更言ってどうする。」って感じです。

パァな奴はずっとゲームしたりテレビ見たりしてるだけですよ。ほんまに。パァはずっとパァです。
テレビを消して本を読むという、そういう簡単なことができないんだから、そういう人間は、この本の存在も知らないよなぁ。

そういう意味で、この本は、「そのとおりだよね」と普通に賛同はするものの、強くお勧めはしないのです。

実際、前半は「本を読んだら出世するぜ」とか、「金が稼げるぞ」みたいな話で、そのくせ、齋藤孝さんみたいに、「どうすれば読書習慣が身に付くか」みたいな親切なノウハウ伝授がないんです。そういう意味で読む価値自体がない。残念ながら。

(ちなみに、齋藤孝さんは「●文庫100冊●新書50冊をまず読みなさい」と明確に数値目標を示してる。目標の明確さ、という意味で、成毛さんよりはるかに意義が高いのですよ。とくに読書習慣のついてない人にはわかりやすい。この150冊を4年くらいで仕上げろと期間まで明示してるし。すごくわかりやすい。こういう事こそが、本当は大切なのです。)

という事で、前半部はあまりにも当たり前の事しか書かれてなくてつまらなかったんですね。「10冊同時に読め!」という言い方にしても、「そんな事、テキトーな気まぐれ読書家ならみんなやっとるわい!ボケ!」というレベルのものです。だって10冊同時に読了せよ」じゃなくて、「読みたいものだけ読めば良い。」であり、「つまらないものは途中でやめてよろしい」なんだもの。それはさんざんやってるって。みんな。

じゃ、なんでわざわざ紹介するかというと、この本、後半がやたらと面白いのですよ。

たとえば、お勧めの本が「おおお、それは面白そう!」と感じるわけです。

「モーセと一神教」ジークムント・フロイト

とかね。僕はユングの方が好きで、フロイトを追いかけてなかったので、このフロイトが最後に書いた本というのを全然知らなかったのですよ。
この本って、ようは、「モーセはユダヤ人ではなく、エジプト人だったのではないか」という仮説を立てて論証してる本なんだってさ!
これだけで、もう無茶苦茶に面白いじゃないか。
あのフロイトが! ああ、そうだったの!知りませんでした、私! ごめんなさい! という感じ。

世の中、面白いことはまだまだあるんだなぁって思う。ほんとに。

他にもいろいろ紹介してくれてるんだけども、どれもこれもやたらと食指が動く。たまりません!
そういう意味で、この本は面白かったのですよ。

で、読み進んでいくと、この本の最後の方で、こういう記述にぶつかって、わたしはぶったまげる事になるのでありますよ。

(引用開始)--------------------
(私の)親は小中学校を通じて1円もおこづかいをくれなかったが、本だけは別であった。近所の本屋で気に入った本を選べば、ツケ払いで買えたのである。選んだ本は本屋の人が家まで届けてくれて、トイレの下のほうにあった引き戸の中に本を置いていった。それを親が確認して、OKが出た本にはお金を払い、ダメな本は本屋に戻すというシステムだった。
(引用終了)--------------------

だとさ。

な、なんなんだ、このシステムは!!!
すごいじゃないか!
子供の自主性と、お金の使い方と、なんだかんだをひっくるめて考えて、かなり(偏ってはいるが)効果の高そうな教育手法であるような気がするのですよ。

いいですか、「1円もおこづかいをくれなかった」んですよ? かなりイビツです。(笑)
でも、書籍に関しては自分で選んで、親が良いと判断したらいくらでもOKなわけですよ。

これはすごいなぁ。
成毛眞の親がどういう人だったのかが、ものすごく知りたい。
「本を読まない人はサルである」みたいな言わずもがなの事を書いてるヒマがあったら、この親の事を書け! バカモノ! 私は、あんたの新鮮味のないゴタクより、あんたの親の作ったシステムの方がはるかに気になるゾ、と思いましたなぁ。

なんで、こんな重要な事が、こういう「読書」について書かれた本の、全170P中の165Pになって出てくるのか、という事の方が、僕にとってははるかに大きな謎であります。最初に書けよ!「はじめに」で書け! こういう事は。ふんとにもう! 何やってるんだ成毛眞は。だめだなぁ、こいつ。良き読者ではあるが、書き手としてダメだって思う。

多分純粋に「本好き」なんでしょうね。それも原日本人的な意味で「本好き」なんよね。

僕の仮説ですが、ある程度知的な素養を持つ日本人は、現実問題として「読書家」になるより他に道がないんだと思うんです。

なんでかというと、日本は敬典宗教ではないから。つまりキリスト教の聖書のように「倫理基準」を明確化する聖典が確定されていないから、です。

だから、あるていど知的に成長した人は、倫理基準を求めて、多様な倫理構築のシミュレーションをするしかなくて、そのためには、多様なモデル習得をせざるを得ず、その方法として「本を読む」以外に道がないわけです。

聖書が「倫理の基準値」として明確化されてたら、とにかく原点ゼロをそこに求めて、そこから考えを進めていけるわけですけど、日本人にはそれがない。だから山のように本を読んで、多様なモデルシミュレーションをする以外に良い方法を思いつけなくなるわけです。

そういう意味では、成毛眞さんって、ほんっとーに原日本人だなぁ、と思う。たとえば、こういう発言。

(引用開始)--------------------
拠(よ)るべきものを持たない無宗教の私にとって、本は人生のすべてである。
(引用終了)--------------------

人生のすべて!
人生のすべて!

人生のすべてですよ!人生のすべて!
いや、そうなるしかないんだけどさ。聖書もタルムードもコーランも持たない日本人なら、そうなるしかない。時代とともに変化する倫理観を、必死になって色んな本を読みながら微調整し続ける以外に、日本人の倫理観を確立する方法は皆無なのですから。
皆無です。皆無。敬典宗教じゃないんだから、こればっかりはしょうがないんです。

そういう意味では、成毛眞さんは、そういう日本人としての限界も可能性もキチンと分ってる人ではあるって事ですが。

(敬典宗教でない日本では、だから、たとえばDNA技術の倫理基準を考える、だとか、死刑の問題について考えるとか、優生保護法における子殺しの善し悪しを論じるとか、そういう「命」に関して論議すること自体が「不可能」なんですね。定規がないのに、紙のサイズを伝達できないというのと同じ事です。政府直属のプロジェクトチームで、そういう問題の法的落しどころを探るとかやってるけど、「大変やろなぁ、基準値もなしにそういう基準を決めなきゃならんのやから。ごくろうさまです。」としか思えない。
なので、こういうことに関して、本も読まずに自分の考えを固めようとかしてる人間は、単なるバカです。考えてるヒマがあるなら、本を読め、っちゅう事ですな。考えるだけ時間の無駄。答えが出るわけないねんもん。その「答えがでるはずがない」という事を知らない、という事がいかに不幸か。って事なんですけどね。でも、不幸な人間はずっと不幸なままを望んだりするから困る。)

無宗教の日本人は本を読む以外に、まともな倫理観の育成は無理なわけです。
そこのところを正しく自覚してるだけでも成毛眞は大したものです。

それと、「本好き」としては、大先輩というか、かなり上のレベルの人なんだなぁって思う。
こんなしょうもない本を書かずに純粋な書評の本を書いて欲しかったなぁ。
ようは「おもろい本って、まだまだあるでしょ。出し惜しみせずに、もうちょっと教えてよ。」っちゅう事でした。

と言うことで締め。

●本を読まない人はサルである!

ちゅうことであります。
はい。

コメント

nophoto
通りすがり
2009年5月3日12:04

こんにちわ
ブログの記事、興味深いです。
特に日本人に無宗教な人間が多いから倫理観の構築に苦しむというところが。

確かに日本では「宗教などは死から逃れるための作り事だと冷静に考えればわかる」という文章は良く見ます。
シゲさんは日本が無宗教であることに対して肯定的ですか?それとも海外のように信仰心を大事にすべきだったと考えますか?
宗教に縛られないからこその自由さもたくさんあると思うのですが、宗教を持たないということは結果として不幸なのでしょうか。
シゲさんが信仰を持っておられる方だったらすいません。







シゲ
2009年5月3日14:31

>通りすがりさん
書き込みありがとうございます。
日本人が無宗教であることに対して肯定的かどうか? というご質問ですが、この質問には「答えようがないなぁ」というのが正直な所です。
敬典宗教を持つ国の人たちの文化は、基準もはっきりしていますし、たとえば学問ひとつをとってみても宗教との対比の中から人間の限界と可能性をいつも見据えている部分があって、尊敬に値すると思っています。
だから、そういう良い点は見習った方が良いと思うのですが(こういう異文化の良い点を素直に受け入れられるのは無宗教・無規範であることの良い点です。)、でも、キチンとしたルールがある故の欠点もいろいろあります。

で、じゃあ日本人が何か新しい教典のようなものを作って、それを文化規範にしたら良いか? というと、それはもともと「無理」なんだと思うんですね。規範の無さこそが日本文化そのものなのかも知れないわけですから。

だから、そういうネイティブな文化そのものである宗教観みたいなものは、もともと日本人が持っている「感覚」を肯定するより他に選択肢はないわけですよ。変更のしようがないんだと思います。(「死んだら仏さま」とか「むごい殺し方をしたら化けて出る」とかの死生観は原始宗教のようなもので、そういう「宗教以前」の部分が、日本人には色濃く残っていると思います。)

ただ、教典を持っていないからこそ、他の宗教の良い点・美点は理解できるし、欠点も見抜けるわけで、それもまた無宗教であるが故な訳ですから、やはり日本人は他の文化に敬意を表しつつも、日本文化を肯定するしかないのではないか?と思います。

ただ、現実問題として日本人の場合、敬典宗教ではないがゆえに、法律とかの運用がかなりルーズっていう部分があるので、それは困った事だよなぁとは、いつも思ってるんですが。ここはなんとかして欲しいなぁとは思いつつ、宗教が原始宗教のままなんだから、しょうがないかなぁとも思っているのであります。

なかなか難しいものです。

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