ごめんなさい。大反省しています。その1。
2008年2月17日 ■時事 コメント (2)最近、本の紹介に関して、すごく反省した事が2つあります。
どっちも大事な事だと思うので、別々の日記に書きますね。
ひとつは、書籍紹介の仕方についてです。
自分で自覚してなかったんですが、僕はちゃんとした書籍の紹介というのをやってなかったなぁと感じております。
というのは、要約というか、書籍の中身をていねいに紹介してるつもりで、自分の意見と書籍の中で書かれていることをごちゃまぜにして書いておりました。
とくに、一回前の「読書力」の紹介の仕方が、実にまずかった。自分の意見と書籍の中に書かれていたことがごちゃまぜです。これは「自他の区別がついてない」と言われても仕方がない。自他の区別がついていないというのは、ある意味「キチガイ」であるという事でもあります。
という事で、今後はキチンと引用文をつけた上で紹介しようと思います。
前から副島隆彦さんがしつこくしつこく「引用は明確に」と言っておられた影響で、できるだけ明確な引用をしようと思ってはいたんですが、全然できてなかったよなぁと改めて思ったのです。
というのは実は、その副島さんのお弟子さんである中田安彦(アルル)さんが、「副島隆彦の学問道場」
http://www.snsi-j.jp/boyaki/
の「ぼやき918」で、
以下のような事を書いておられたからなのですが。
(引用開始)-------------------------------
例えば、私たちのサイトでは、記事を転載したり、他の本から文章を引用する場合には、(引用開始)と(転載始め)という風に書き入れています。私(アルル)は、最初はこれが面倒でしようがなかった。なぜそんなことをやるのか、と正直思ったものです。
ところが、衛星放送で、CNNやNBC(アメリカの主要な民放)等のアメリカの政治ショー番組を観ていた時に、ニューズショーの司会者(ホスト)が、ある政治家の過去の発言を紹介する時には、「クオウト 」「アンクオウト 」と言っているのに気が付きました。そのコトバの間に新聞や演説の文章を挟(はさ)み込んでいくのです。
「クオウト」とは、quoteという英語で引用するという「動詞」で、unquoteとは、「引用終了」という意味の言葉です。つまり、アメリカでは、かならず発言者を特定するのです。誰の言葉、文章であるかを明確にします。日本の「報道2001」や「サンデープロジェクト」のような番組ですら、誰かの発言を紹介するときには、「引用開始」と「引用終わり」を明示しているのです。
しかも、テレビの画面の口頭でさえそれをやるのです。私はこのことを数年前に知って、トンカチで頭を殴(なぐ)られたような非常な衝撃を受けました。これが、副島先生の言っていた、「日本の知識人は土人(どじん、未開人)並みだ」ということの意味なのだと分かりました。
(引用終了)-------------------------------
口頭ですよ! 口頭! 会話の中でも「クオウト、…。」「アンクオウト、…。」とやる。これぞまさに「文明」であります。ちょっとこれはショックだなぁと。
で、しかも、です。
たまたま、この数日、仕事がヒマだったので、自分の仕事用のホームページをいろいろいじっていて、勉強がてら、カスケードスタイルシートの使い方とかいろいろ調べていたんです。
で、ホームページ制作では良くやる間違いである、
●<blockquote>を字下げ用コマンドとして使う。
というのが、いかに問題であるかを解説してくれる文章に出会ったわけです。このあたりは、あまりに煩雑になりますので、引用まではしませんが、<blockquote>というのは、ようするに「引用を行う」という事を示すためのコマンドなわけです。そういう「専用」のコマンドがある。
「専用」のコマンドがあると言うことは、そういう「他者の意見を改変せずにそのまま紹介する」という事が、ごく一般的な習慣として定着している、ということです。そして、日本人は、その大事な習慣がないから、このコマンドの意味がわからずに「字下げ用」のコマンドとして使ってしまう、という事な訳です。
まず、欧米の文化がいかに「自他を区別した引用」を大切にしているか、と言うことがあって、そして、その習慣の事を、自覚することすらできない、我々日本人の文化がある、という事なんですよ。そこにあらためて気付いたわけです。
たとえば、「読み上げソフト」などを使ってホームページを読む、視覚障害者の事などを考えると、こういう基礎的なコマンドの使い方がいかに重要なのかがわかりますよね。このコマンドを、見栄え調整のために適当に使うと、何が書かれているのかがわからなくなってしまいますし、それは結局、普通の人間にとっても、どこからどこまでが、原稿作成者の意見で、引用文を言ってるのが誰なのかがわからない、ということになります。
このページでは、よくアダルトチルドレンの話題など出していましたが、ああいう心の問題も、親と子の「自他の区別」がついてなくて起こることがすごく多いわけです。「子供は自分のからだの一部だ」という感覚なのでしょうか。この間も、とても仲の良かった家族で、父親が家族を惨殺して死ぬという悲惨な事件が起こりました。あれも、「私がひとりで自殺したら、家族がみんな寂しがるだろう」と道連れ殺人をしてしまうわけで、そういう「距離感のなさ」が問題なんだろうなと思うわけです。
●適度な距離を保つ。
●自他の区別をキチンとつける。
という事は、日々、注意して注意しておかないとなかなかできない事だよなぁと、つくづく思ったのです。
もともと日本語は「主語を省略しやすい言語」ですからね。簡単に自他をごっちゃまぜにして「共同責任だから」と結論づけやすい文化を持ってるんです。
でも、だからこそ起きる問題もあるわけで、その両面をキチンと見なければいけないですよね。引用の問題については、キチンと「引用開始----終了」とブロックの切れ目を明確にしながら引用するのが正しいと、つくづく思いました。このくらいは日本の文化の中に取り入れても良いのではないかなぁ。そう思います。
どっちも大事な事だと思うので、別々の日記に書きますね。
ひとつは、書籍紹介の仕方についてです。
自分で自覚してなかったんですが、僕はちゃんとした書籍の紹介というのをやってなかったなぁと感じております。
というのは、要約というか、書籍の中身をていねいに紹介してるつもりで、自分の意見と書籍の中で書かれていることをごちゃまぜにして書いておりました。
とくに、一回前の「読書力」の紹介の仕方が、実にまずかった。自分の意見と書籍の中に書かれていたことがごちゃまぜです。これは「自他の区別がついてない」と言われても仕方がない。自他の区別がついていないというのは、ある意味「キチガイ」であるという事でもあります。
という事で、今後はキチンと引用文をつけた上で紹介しようと思います。
前から副島隆彦さんがしつこくしつこく「引用は明確に」と言っておられた影響で、できるだけ明確な引用をしようと思ってはいたんですが、全然できてなかったよなぁと改めて思ったのです。
というのは実は、その副島さんのお弟子さんである中田安彦(アルル)さんが、「副島隆彦の学問道場」
http://www.snsi-j.jp/boyaki/
の「ぼやき918」で、
以下のような事を書いておられたからなのですが。
(引用開始)-------------------------------
例えば、私たちのサイトでは、記事を転載したり、他の本から文章を引用する場合には、(引用開始)と(転載始め)という風に書き入れています。私(アルル)は、最初はこれが面倒でしようがなかった。なぜそんなことをやるのか、と正直思ったものです。
ところが、衛星放送で、CNNやNBC(アメリカの主要な民放)等のアメリカの政治ショー番組を観ていた時に、ニューズショーの司会者(ホスト)が、ある政治家の過去の発言を紹介する時には、「クオウト 」「アンクオウト 」と言っているのに気が付きました。そのコトバの間に新聞や演説の文章を挟(はさ)み込んでいくのです。
「クオウト」とは、quoteという英語で引用するという「動詞」で、unquoteとは、「引用終了」という意味の言葉です。つまり、アメリカでは、かならず発言者を特定するのです。誰の言葉、文章であるかを明確にします。日本の「報道2001」や「サンデープロジェクト」のような番組ですら、誰かの発言を紹介するときには、「引用開始」と「引用終わり」を明示しているのです。
しかも、テレビの画面の口頭でさえそれをやるのです。私はこのことを数年前に知って、トンカチで頭を殴(なぐ)られたような非常な衝撃を受けました。これが、副島先生の言っていた、「日本の知識人は土人(どじん、未開人)並みだ」ということの意味なのだと分かりました。
(引用終了)-------------------------------
口頭ですよ! 口頭! 会話の中でも「クオウト、…。」「アンクオウト、…。」とやる。これぞまさに「文明」であります。ちょっとこれはショックだなぁと。
で、しかも、です。
たまたま、この数日、仕事がヒマだったので、自分の仕事用のホームページをいろいろいじっていて、勉強がてら、カスケードスタイルシートの使い方とかいろいろ調べていたんです。
で、ホームページ制作では良くやる間違いである、
●<blockquote>を字下げ用コマンドとして使う。
というのが、いかに問題であるかを解説してくれる文章に出会ったわけです。このあたりは、あまりに煩雑になりますので、引用まではしませんが、<blockquote>というのは、ようするに「引用を行う」という事を示すためのコマンドなわけです。そういう「専用」のコマンドがある。
「専用」のコマンドがあると言うことは、そういう「他者の意見を改変せずにそのまま紹介する」という事が、ごく一般的な習慣として定着している、ということです。そして、日本人は、その大事な習慣がないから、このコマンドの意味がわからずに「字下げ用」のコマンドとして使ってしまう、という事な訳です。
まず、欧米の文化がいかに「自他を区別した引用」を大切にしているか、と言うことがあって、そして、その習慣の事を、自覚することすらできない、我々日本人の文化がある、という事なんですよ。そこにあらためて気付いたわけです。
たとえば、「読み上げソフト」などを使ってホームページを読む、視覚障害者の事などを考えると、こういう基礎的なコマンドの使い方がいかに重要なのかがわかりますよね。このコマンドを、見栄え調整のために適当に使うと、何が書かれているのかがわからなくなってしまいますし、それは結局、普通の人間にとっても、どこからどこまでが、原稿作成者の意見で、引用文を言ってるのが誰なのかがわからない、ということになります。
このページでは、よくアダルトチルドレンの話題など出していましたが、ああいう心の問題も、親と子の「自他の区別」がついてなくて起こることがすごく多いわけです。「子供は自分のからだの一部だ」という感覚なのでしょうか。この間も、とても仲の良かった家族で、父親が家族を惨殺して死ぬという悲惨な事件が起こりました。あれも、「私がひとりで自殺したら、家族がみんな寂しがるだろう」と道連れ殺人をしてしまうわけで、そういう「距離感のなさ」が問題なんだろうなと思うわけです。
●適度な距離を保つ。
●自他の区別をキチンとつける。
という事は、日々、注意して注意しておかないとなかなかできない事だよなぁと、つくづく思ったのです。
もともと日本語は「主語を省略しやすい言語」ですからね。簡単に自他をごっちゃまぜにして「共同責任だから」と結論づけやすい文化を持ってるんです。
でも、だからこそ起きる問題もあるわけで、その両面をキチンと見なければいけないですよね。引用の問題については、キチンと「引用開始----終了」とブロックの切れ目を明確にしながら引用するのが正しいと、つくづく思いました。このくらいは日本の文化の中に取り入れても良いのではないかなぁ。そう思います。
コメント
本の中身というか、引用部分があったんですね。
そうですね。引用というか言い回しの借用みたいな事ですね。
「読書力」を読んでいると「おお、そうよ、そう! 良く言うてくれた、まさにそれが言いたかった!」というところが多かったので、自分の気持ちにしっくりくる言い回しが随所にあったという事なんです。
多分、年齢的にも近いし、意識しているテーマも似ているという事なんだと思うのですが「そうそう!まさにそれ!」という感じで、自分の言いたい事を言うのに、そういう言い回しをどんどこ使ってしまった、というような事ですね。
まぁ、自分の意見を述べるだけなら、それでも良いのでしょうけど、書籍紹介としてはまずかろうという事です。
いや、しかし、「読書力」は良い本でした。おすすめです。後半ちょっとダレるけど。