新年になりました。

表を家族連れが談笑しながら歩くのが聞こえます。駅に向かうのか、近くの神社に向かうのかわかりませんけど、いつもはそんなの聞こえないので、やっぱりお正月らしさを感じますねぇ。

さて、年末あたりから、ずっとぼんやりと考えていたのですが、今年は、というか、これからもずっと、人生の大きなテーマとして「幸せを与える人になる」と言うことを考えて行きたいなぁと思うようになってきました。

いや、さらっとした簡単なテーマのように見えてしまうのだけれども、実はけっこう難しいんですよね。

何が難しいかというと、自分以外の人に対して幸せを与えるためには、まずなんと言っても、自分自身が幸せでないと、与えようがないからなんですね。

ここがとっても難しい。

アダルトチルドレンの話をずっと書いてきたりしましたけども、だいたいACの人間だと、自分が「不機嫌な状態」になっているという事自体を、客観的に把握すること自体が苦手なんです。

ここがキチンと把握できてはじめてコントロールも可能なんですが、そこに気付いてないとコントロールのしようもないんですね。で、これがコントロールできていないと「コントロールできていないのは他者のせいだ」となってしまう訳です。これはもうほぼ必然的な結論です。

で、そこから「解決不能な問題」というのが生まれてしまうわけです。問題の原因が自分にはなく相手にあるのだから、コントロール不能で、解決できないという事になってしまうんですね。

なので、やはり、まず自分の心を愛で満たす、一杯にする、という事をやらないといけないのです。自分というコップを満たすくらいに、自分に愛を注ぐ。この自分に愛を注ぐ量が足りないと「不満」だという事になります。

でも、これを人間は、まだ8割しか満たされていないとか、半分くらいしか満たされていないと感じているとき(自覚のない、無意識レベルでの不満も含みます。)に、他者に対して愛情を注ごうとするから、満足度8割が7割に、5割が4割に減ってしまって、結果として、「不満」が増えてしまうんですね。

「(こっちの自分用の愛情を減らしてまで、)半分しかない水を、わざわざ分けてやったのに、なんだ!その態度は!」とかになってしまう。

このあたりが「幸せを与える」と言うことの難しさですね。

だからまず、徹底して、自分のコップを愛という水で満たして、そこから、いつも水が溢れている状態にできるようにしたいわけです。この余った、余裕のある部分でのみ、本当に他者に幸せを与えられる無償の愛を出す事が可能になるわけですから。

やっと最近、そういう人になりたいな、と思うようになってきた、ということですね。まだまだ「自分を満たす」という事自体ができてないんですけど、ただ方向としてはこっちなんだよな、というのは分ってきたってことですね。

だから、だいたい、まず、自分を満たした状態にすると言うこと自体が、ものすごく難しいと思うのです。そう簡単ではありません。(少なくとも僕にとっては、です。)

でも、これを平気で簡単にやってる人、というのも世の中にはちゃんといてるしねぇ。親子関係とかが良かったんだろうなとか思うんですけど、できる人には簡単なんだろうとは思う。でも、とにかく僕には難しい。

で、この難しさがどういうところから発生するかというと、自分に優しくできているかどうか? という「内面の認識」から始めないといけないのが難しいのですね。

自分に優しくするというのは、どういう事かというと、「デキない自分を許す」という事なんですよね。言い方を変えれば「出来ていない自分を認めてあげる」という事なんです。失敗する自分を好きになること、かも知れない。

でも、ここをまず間違える事が多いんですよね。「自分に優しくする」というと、出来ていない自分を直視せずに「私はちゃんとやっている」とムリクリの自己肯定をすることを「自分に優しくすること」だと勘違いすることが多いんです。僕を含めて、誰でもそうなんだけど。

できていないのに、できてるとするのは、単なる自己欺瞞でしかなくて、自分に甘いだけなんですよね。で、実は「できてる人間」なんて、この世には存在しないんです。

なんでかというと、「上には上がある」「より良い選択肢は、いついかなる時にもある」からなんです。「できてる」と思うという事は、その可能性に気付いてないという事だから、それはつまり「できてない」って事なんです。

だから成長するためには、つねに自分を「できていない」として、自分の問題点を発見し続けて、しかもそれを日々許し続けるという事が必要なわけです。

重要な事は、自分の欠点を愛するためには、実は自分の欠点を「認識」する必要があるって事なんですね。そこを認識しなくなると、「私はできている」と思いこんでしまうという構造になってしまうわけですね。

存在していないもの、認識できていない事を愛そうとしても、それは不可能です。

だから、実は、自分を愛するためには、自分の欠点や弱点、ダメな所を、怖がらずに、勇気を持って直視する必要があるんですね。

これが辛い。

かなり辛い。

そうとうに苦しいし、ものすごい自己嫌悪に襲われる。自分の心理的抵抗がとてつもなく大きいんですね。

(普通に健康に育ってる人でも難しいようです。僕のようにACだと、もっともっと難しいのです。)

ありのままの「醜い自己」を見ないといけない訳です。見たくないわね、そんなもの。でも、そこを見ないと幸せな自分というものはあり得ないんですよ。

で。

一度この「醜さ」を認識してしまえば、そこはもう、逆に愛らしいとさえ感じるようになるのには、それほど時間はかからないんです。なんだかんだ言っても、それも自分なんだし。愛するより他にないわけですよ。自分そのものなんだから。

(いやまぁ、ここをずっと責め続けてしまうACもいてますが、それはやめた方がいいのでやめましょう。意味ないです。もっと自分を愛しましょう。このあたりはまた別の話なので、ここでは書きません。)

で、ここが満たされてはじめて、本当に満たされた気持ちというのが生まれてくるわけです。なかなか難しいんだけど。ほんと、簡単じゃないんよなぁ。

なので、実は「自分に優しくする」というのは、かなり辛い作業なんですね。「自分に甘くなる」というのとは、全然逆の事だから。(で、自分に甘いだけの自分というのも自分であって、これも愛せなきゃなぁとは思うんだけど、まぁ甘いだけだと「人生の効率」が悪いから、これはできるだけ排除したいと思います。)

だから、自分に対して「甘く」ではなく「優しく」するって、実はそんなに簡単じゃないんだよなぁ、これ。ほんとに。

で、不機嫌だったりイラついたり、ムカっときたりするというのは、たいていの場合「自分の問題点」を正しく認識できていない場合が多いのですね。
ここを正しく認識できれば、人間というのは精神的な意味でも「自己修復能力」というのはあるみたいで、スッと問題を解決する方向に気持ちが動いていくように思います。

なので、幸せというのは、ようは「自己認識の問題」なんだよなぁと、つくづく思うのです。
だから、幸せを与える人、というのは、まず何より自分が幸せな人なのだよなと思っているのであります。
自分の問題点を正しく認識して、それを許し、自己修復機能にゆだねる、みたいな。

まだまだいろいろ書きたい気もするんですが、内面の話って細かく検討すると堂々巡りにもなりがちなので、このへんでキリをつけておきます。

ではでは、今年もよろしくお願いします。

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