落語と英語。

2007年12月13日
えー、またまたmixiからの転載であります。
いや、ま、転載するほどの大した内容やないんですが。
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最近どうも変な具合なのです。

というのは英語の練習。
これをやっていると、どうにもストレスがたまっていけないのですよ。

自分の国の言葉じゃないですからね、本に書かれた文章を声に出して読むという事自体が難しいわけです。
ましてや、同じ意味の言い換えができるわけでなし、上手に感情表現を抑揚で出せるわけでなし。
ちゅうか、本からちょいと目を離して一文そらんじてみるだけでも、複数形のSが抜けたり、過去分詞があやしくなったりしてしまうわけです。

で、いま良くは知らないのですが、NHKの朝の連続ドラマが、落語に関する話らしく、仕事で一緒になったデザイナー君がやたらと落語の話をいろいろするものだから、もともと落語好きだったので、つい手持ちの文庫本やら、ネットのテキストデータやらで、お気に入りの話を読み直したりしてしまったのですね。

すると。

これがどうもいけません。

まず、「音読」したくて仕方なくなってしまうわけです。なんせ、上方落語のテキストですから、抑揚も感情表現も言い換えも自由自在ですからな。それでついつい「わいのオジキっちゅう人が南農人橋御祓筋をちょっと入ったところに住んどおって」とか「清水の音羽の森の落としてや、茶碗もひびのもりの下露」とか「わが母さんじゅさんさいのおり」とか「鞍馬から牛若丸が出でまして、名も九郎判官」とか、まぁそういうのを読み上げては遊んでしまったわけです。

そしたら、これがえらく楽しくて。

いろいろやってるうちに、落語を2席ほど、ほぼ完全に覚えてしまったのですねぇ。

仕事場の行き帰り、歩く距離を稼ぐために一駅二駅ほど遠い駅まで歩いてから電車に乗ったりしてるので、そういう時に、「つい」やってしまう。まるまる一席。

で、これがまた楽しくていけません。落語なんちゅうものは、もともと歴史の風雪に耐えて生き残ってきた「おもしろ話」ですからな。思い出し思い出し演じてみるだけで、充分に面白い。自分で話して自分で笑ってしまうのですよ。もともと繰り返し聞いても面白いようにできてるわけですから、そらそうなりますわな。

別にどこぞで高座にかけるわけでもないのに、昼間と言わず夜と言わず、町なかを、落語をしゃべりながら歩いてるオッサンですから、かなりおかしな奴であります。

しかし、自分でしゃべってみると、やっぱり人間国宝、米朝さんのテキストは、よーでけたあるなぁと感心してしまいます。ムダがなくて、必要なだけリアル。登場人物がちゃんと生きて呼吸をしている語り口。すごいもんです。

自分でしゃべってみると、良く分かるのですが、あんまり自分にあわない部分というのは、適当に割愛してしまったほうが自分が楽しいし、逆に気に入ったところは丁寧に演じたくなったりするもので、これが何度繰り返ししゃべっても、やるたびに面白いんですねぇ。いやー、落語っちゅうのは不思議なもんですよ。

青菜あたりの短い話で20分くらい、長いものでも1時間まではかからないので、ちょっとした合間に楽しんだりはできるものなのですね、これが。

ちゅうことで、また妙な趣味ができてしまいました。青菜とまんじゅう怖いを覚えてしまったので、次あたりは、はてなの茶碗とかやろうかなぁ。

英語の練習をすればするほど、反動で落語もしゃべりたくなるので、まるで振り子のような感じなんですがね。おもしろいもんですな、人間っちゅうもんは。

ま、そんなことで。

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