最近、良く思うのは、「おおまかな理解」ということの大切さです。

インターネットの時代になって、こまかな、ヲタク的な、知識の羅列的な情報ばかりが、やたらと取り上げられることが多いのですが、そういう事は枝葉末節だろうと思うのです。

大事なことは「大づかみに全体を把握する事」だと思うのです。

細部だけを追いかけていくと、具体性だけを追いかけすぎて、個別事項が矛盾している事にすら気付かなくなったりしますが、全体性を意識しながら、物事を大づかみに捉えていくと、世の中の大きな流れがざっくりと見えてきて、物事への対処もキチンとできるし、予測や予想も外れることが少なくて、安心感が出てきます。

これはたとえば政治のようなきな臭い世界の話でもそうだし、男女の恋愛なんかに関しても同じだと思うのです。

たとえば、わかりやすく恋愛を例に出すなら、付き合ってる女の子の身長や体重、好みなどなど、個別の情報も大切だけど、その人がおかれている環境、たとえば地域社会の状況だとか、職業上の社会的変化、環境などを大づかみに知っておく方が相手も安心してくれます。

また、もっと大きく、「平均値としては男性の方が背が高く、女性の方が背が低い」「男性は道案内に東西南北や道路名などの抽象概念を使うのを好むが、女性はビジュアルで看板などを頼りに案内する」というような男女差みたいな事も、大づかみに把握しておいた方が、行き違いが少なくなるというものです。

でも、このあたりの「大づかみが大切なんだよ」という話をすると、たとえば男より背の高い女性が「そんな一般論に意味はない!」とか怒ったりするわけですけど、それはちょっと違うよなぁって思うのですね。男女の背の高さの平均値の違いを知っていればこそ、女性で背が高くてそれを気にするという事がどういうことなのかを、より良く思い至れるわけです。
これを単に、男性が自分と同じくらいか少し高いくらいの背の高さの「男性」をイメージして理解しようとしても、上っ面の理解にしかならないわけです。平均値が低い中で高いからこそ、精神的に大変なわけですから。でしょ?

同じ事は、「世界の中の日本」という事に関しても言えます。
世界の中の日本と言うことを考えるのなら、まず大づかみに「世界の常識」を先に知っておく必要があるわけです。

日本の中の事だけ見ていても世界はわからない。まず、世界全体で見たときに、いろいろな出来事やテーマがどういうところに平均値が求められているのか? というのを、それなりに知っておく必要があります。

これはもう、自分の国の中に答えはないのだから、学習するしかないんですね。僕も勉強不足だし、手探りでコツコツと蓄積していくしかないので、時間もかかるから、本当の「世界の常識」というものとは、けっこうズレがあるかも知れないわけですが、それでもちょっとずつでも知っておいた方が良いわけです。

で、これも、こういう事を言うと「外国かぶれ」であるかのように言う人がいたりするわけですが、その見方自体がすでに日本の内側しか「見ようとしない」、おかしなモノの見方だと思うのですよね。

大事なことは「平均身長の低い女性という性の側にいながら、背が高いという個性を持った人の特殊性の理解」であるのと同じように、日本という国の良さや悪さや特殊性と誇るべき部分というのを、冷静に、正確に「測定」するために「大づかみ」が大切だ、って事なんです。

逆に言えば「外国かぶれだ」とか言うような人は、世界を知りたくないだけなんですね。現実を知ろうとしてないだけ。それはおかしいと思うんだけどなぁ。

たとえば、これも何度も例に出しますけど、親子の共依存とかもそうです。個別の親子関係とかの細目は、まぁ難しいから突っ込まないにしても、概略、大づかみに、世の中を知るモノサシとして、「アダルトチルドレン」という考え方、計算尺のようなものがあるので、それを実用的に利用する、使うと捉えれば良いと思うのです。まず大づかみに世の中を把握するってことですね。

で、その中で、自分の状況がどのくらいの偏差値であるのかを知っていく。それで、物事は自然と修復されます。

(でも、気付きたくない人は、このモノサシがあるという事自体を拒否しますからねぇ。本当に困った事です。この6月2日の日記「感じ方は自由なのか」http://diarynote.jp/d/12917/20070602.html
でも書きましたが、国語のテストで、テストの設問が間違ってる!と言ってるアホな男のようなものです。なんでああいうアホな発言をしてしまうんでしょうか? そんなに自分の「偏差」を知るのは怖い事なのかなぁ? 怖がるからどんどん偏差値が下がってしまうんだと言うのに。)

自分の偏差値さえちゃんと直視できれば、とりあえずは対処の方法は見えるのです。偏差値がある、モノサシがある、ということは、とても安心できることで、そのモノサシを頼りに自分育てをしていけるという事でもあるのです。
だから、まずザックリと、物事の全体像を知るという事が、とてもとてもとてもとてもとてもとても大事なのです。

それは前から書いている、「幸福な人は一様に同じだが、不幸な人は個別に個性的である」という事と重なります。
まず全体概要を知るという事が、ものすごく大事なんですね。
本を一冊読むなら、まず目次にざっと目を通すかどうか、というような事です。それをしているかどうかで、読み方だって全然変ります。

法律やら思想やら、あるいは日常の幸せ感、ということにしても、実は本当は「大づかみ」から入っていく方がよくわかるし、安心感があるのですね。

たとえば日本の法律は、黒船がやって来たときに、西洋風の法体系がないと、不平等輸出入をされるっていうので、無理矢理フランスかどこかの法典を日本語に翻訳して移植したというとんでもないものだったりするわけです。

これも「法学」という大づかみな考え方から言えば、こんなおかしな事はないわけですよ。なんでかというと、普通、法律というのは慣習法でして、日常慣習になっているならわしを明文化して、定着させたものが法律になってきているわけですから。

だから普通、西洋では法というのは基本的には日常生活の常識とか、お作法のたぐいの集大成的なものになっているわけです。

でも、日本は明治維新の時に、そういう「慣習」を、外国から移植しちゃったわけです。

そら、なかなか理解できませんわな? 実感できないのが当たり前です。だから日本では「法」というのは、単なる「お題目」のように感じられていたりするわけです。

しかし、実際には、法律ひとつとっても、ヨーロッパの歴史(市民社会というものが生まれ、資本主義が生まれてきた経緯というような意味での歴史ね。)を背景にして、ひとつずつ積み重ねてきた結果なわけですから、日本人にはよくわからない。

でも逆に言うなら、そういう歴史背景を知った上で、日本の法体系とかを考えれば「ああそうか、そう言うことなのか」というのがわかって、とても安心感を得ることができるわけです。

だから、たとえば「歴史」というのも大づかみのための良いモノサシ、道具ですわね。そういうものを、まず知るという事が日常生活での不満や不安を解消するのに、すごく役立つわけです。

ちょっとしたもめ事に、すぐ「警察に言うぞ」とか、幼稚園児みたいな事を言う人がいたりするけれど、警察は民事不介入だから、そんな事には関わらないんよ、とか、そういう当たり前の事がわかってれば「警察は役に立たない!」とか見当はずれな事は考えなくても済む。
そんなどうでもいいことで腹を立ててもしょうがないじゃろって事なんですが、まぁ、このあたりはなかなかわからないみたいですねぇ。

最近わかって来たのは、結局枝葉末節にこだわるというのは、要するに「大づかみ」をしていない、自分の偏差値をみたくない、知りたくないからなんでしょうね。
そんなに怖いかなぁ、自分の偏差値を知るって事が。

英語のTOEICなんかも同じですね。あれは偏差値を知るために行くテストで、何回でも受けて自分の偏差値を知って、それで学習の糧にするためには、けっこう正確で便利なものです。資格試験みたいに合格・不合格ではないから、とても便利だなと思います。
まだ400点くらいなので、偉そうな事は言えませんが、でも、この偏差から伸ばしていけば良いというだけで、ありのままの自分を直視するには、とても便利な道具です。

自分勝手な思い上がりを打ち砕かれるのが怖いんでしょうけど、そういう種類の思いこみは、実用上役に立たないし、逆に自分を不幸にさせるだけなのだから、打ち砕いた方が良い事なんですね。

自分の知らないところに正しい「幸せになる方法」があって、それを自分が知らなかった、とか、そういう事は、受け入れがたいかも知れないけれど、受け入れた方が、そりゃ幸せなんですよ。

ちゃんと知りさえすれば「そういう方法は使わない」とか「なるほどエッセンスはわかった。だから自分なりにアレンジする」とか、そういうのは自由だし。なにもそのまま従う必要もありません。女性の平均身長がわかったからと言って、背の高い女性の背が低くなるわけでもないし。ただ、状況を正確に把握して、よりよい対処方法を考える事ができるというだけの事です。

というか、ムダな考えをしなくなるって事が一番重要かな? 依存症って、ようするに、ありのままの自分を知るのが怖くて、枝葉末節の方ばかりを見よう、見ようとするって事だから。

そういう意味では、最近の安倍ちゃんのトートツ辞任も、大づかみに考えれば「アメリカの犬だった小泉政治には、すでに国民が疲れていて、結局はそういうやり方に批判的な福田はんが大勢の合意を得やすい」って事の「枝葉末節」にしかすぎないわけで。

このあたり、政治評論家の森田実さんあたりが、一年半とか二年ほど前から「小泉の次は福田でまとまる」と言っておられたのが、そのままの姿で現れてるわけです。ネットの枝葉末節にこだわる事しか出来ないこざかしい連中が「小泉の次は安倍じゃん!また森田が外した。逆張り評論家だね。」とか言ってたのがひどく腹立たしかったのですが、まぁ、そういう事です。
5年とか10年とか、長期の展望に立って、大づかみに物事を見るとかが出来ない人が、表層的にごちゃごちゃ言うだけなんだなぁって事ですね。

大づかみの知識や、大きく物事を考える事のできない人は、最終的に、大きなところで世の中に裏切られて、それでいつもイライラしていなければならなくなります。
それはあまりに、非建設的です。

まず大づかみに全体像を把握する。世の中全体とか、地球全体とかですね。そういう見方を心がけるだけで、平常心とかは全然変ってきますからね。心の安心感と平穏さを得る事ができる。そこはとても大切だと思います。

-------------

しかし、なんですな、安倍ちゃん、辞任したのが9月12日で、911の次の日だったってあたりが、すごく意味深ですなぁ。

なんかアメリカのものすごくエライ人が「お前、911のこの日になっても、まだ特措法延長に決着ついてないんかい!やめてまえ!」と怒鳴られたという感じがするのは、勝手な妄想でしょうか。

小泉君はアメリカの手先そのものを演じきった人ですが、安倍ちゃんは愛国派なので(でもおぼっちゃんで腰は全然据わってないし、屁のつっぱりにもならんのやけど。)それ故にアメリカからは「あやしい奴」と睨まれてたらしいのですよ。カルトオブヤスクニとか言われて。

小泉のヤローは、愛国心そのものがなかったので、平気で日本をアメリカに売り渡せたわけですが、そういう悪人にすらなれんかったんやろうなぁ、安倍ちゃんは。情けない奴です。ま、その方がいいですけど。

大づかみに考えるなら、昔ながらの日本文化を、とにかくちょっとずつでもいいから取り返したい、というのが、小泉改革なんぞという、アメリカ追従政権の後のすさんだ荒れ地にいてる日本人の共通の思いだろうと僕は思っていて、大きくはそっちの方向に文化や政治は流れるのでしょう。

いくらアメリカの力が強くても、たとえば、法の運用体系はヨーロッパとアメリカでは全然違うみたいで、(このあたりは「拒否できない日本」を読んで、とても良くわかりました。やっぱりアメリカは「反イギリス」というのが国の出自なんよなぁって、これも「大づかみ」に思ったのであります。)日本にアメリカの無茶苦茶な訴訟社会が移植されたら、そらもうたまったものではないです。それはやっぱり嫌やなぁと思うし、国民が文化的に、無意識レベルで拒否するよな、それは、って思う。

サブプライムの問題でアメリカの経済そのものが失速していくだろうし、今後どうなっていくかは予断を許さないところがありますが、大づかみに言って、日本人は日本人なんだから、自分たちの文化を捨てる事はできはしないのだってところで、いろいろまとまっていくんじゃないかな? って思いますね。

でも、とにかく、まずは「おおづかみ」です。大づかみ。日本の事もさることながら、地球レベルで、まずざくっと見るって感覚。そのざくっと見たなかに日本をポジショニングして、それで落ち着きのいいところを探すって感覚ですね。
それが現実的な対処の方法だと思います。

結局「勉強せなアカンよなぁ」って事に行き着くんですけどね。

ま、そんな事で。

コメント

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索