都市機能とダイエットは、「私財」の関係。
2007年9月8日今年は健康というのが大きなテーマになっていて、ここの日記では全然そんなことは書いてないのですが、心と体をテーマにした別のブログをやっていて、そっちではそういう話ばっかり書いてます。
で、大きくはダイエットとトレーニングと睡眠の三つに集約されつつあるんですが、半年で7キロくらい落としました。まぁ多分ちょうど良いくらいでしょう。
実はそれほど大した事はしてなくて、炭水化物を減らして、朝食は野菜ジュースのみにし、運動は毎日1万歩を目標にエスカレーターは使わない、二日に一度は筋肉トレーニングをするという程度です。
腰を悪くしたりするのはまっぴらゴメンなので、走るとか無茶な運動はせず、ひたすらウォーキングを中心にして、とにかく階段です。
歩いていて思うのは、都市部というのはなんて大きなマシンジムなんだろうか、ということですね。毎日通う駅に、どれだけ長い階段があるか。それをエスカレーターを使わずに上り下りするだけで、けっこうな運動になります。
あと、カバンをリュックから手持ちに代えました。これで腕の筋肉もつくだろうし。そういう小さい運動っていうのが効果があると思う。
やっぱり日常なんですね。日常にいかに組み込むかなんだと思う。ダイエットのためのダイエット、運動のための運動は辛いだけで続かないと思うなぁ。
実は夏の間、表を歩くのが辛いので、プールに通ってたのですが、これが続かなかった。わざわざプールのために水着を持って出るとか、そういうのはダメだなぁ。面倒くさくてやってられません。
結局、大阪に住んでるんだしと、地下街をマメに歩くようにメニューを変えましたね。ちょっと集中してやらねばならない仕事はカバンに詰め込んで、梅田あたりの喫茶店で1時間ほどこもってやるとかね。で、そのついでに地下街をぶらつきながら少し歩く。これで数千歩は稼いで1万歩に近づけるのです。このほうが日常に近いので楽です。
まぁ、どんな人でも、会社と自宅を往復してるのなら、たいてい4〜5000歩くらいは歩いてますからね。10分あるけば1000歩とか1200歩とかですから。自宅から駅までで10分、駅から会社まで10分。これで半分は歩いた事になるわけで。
外食で昼ご飯を取る人なら、少し遠目の店に行くとかすれば、1000歩や2000歩は稼げますし、仕事帰りに少しブラブラと町の中を見て歩けば、それで1万歩はすぐに達成できます。
これに階段登りと、多少の筋肉トレーニング、食事の節制を心がければ健康な体の基礎は固められると思うのですよ。
いまは自転車がけっこう魅力的で、良い自転車を買おうかなぁとかも思ってるんですが、まぁ、まずは歩きですわなぁ。歩くの大好きだし。
この間も書きましたが、正直田舎の人間は歩きません。車がないとどうしようもない生活をしてるからなんですね。車があってはじめて、都市部の60%くらいの便利さを確保できる。
でも、トシを食ってじいさんばぁさんになってくると、車の運転もできなくなってくるんですね。当人はまだまだ大丈夫と思っても、家族が「もう乗るな」と止めるわけです。
こうなると、もう、足がない。バスなんて本数は少ない上に、ものすごく値段が高いですしね。タクシーとなると、もっとコスト高です。結局、家族親戚とかの地縁を固めて「ちょっと乗せて行って!」と頼むとかになるわけで。まぁそれは人間関係が円滑になるから良い面ではあるんですがね。
しかし、とにかく歩く機会はなくなってしまうわけです。田舎の人ほど歩かない。車ばっかりだから。
「ああ、やっぱり都会っていうのは公共交通機構の事だよなぁ」って、最近はつくづく思うのです。
電車、バス、タクシー。そういう公共交通が充実している事が「都会」なんだと思う。
東京なんて、本当に地下鉄が安いですからな。どの線か忘れたけど、一区が130円とかだもんなぁ。
大阪で230円です。100円も差がある。
ようするに多くの人が利用してるかどうか、なんですね。みんなで共用している。この共用するとか、公共の道具、公共財の発想こそが「都会」なんだと思うのですよ。
ところが、田舎の方に行くと、そういう「公共財」の発想があんまりなかったりする。「私財」だけが大事なのかなぁ。「鉄道とかは待ち時間も多いし不便だ。車の方が便利。」とか普通に思ってるわけです。
えええー? そう? 車なんて、運転を自分でやらなきゃいけないんだよ? 本も読めないじゃん? とか思うのだけど、そういう風には考えないみたいなんですねぇ。なんなんやろ、あれは。
で、田舎での生活ってのをけっこう経験してから、生まれた土地に戻ってきまして、回りを見渡すと、実は大阪市内にも「車生活」という田舎臭い文化が浸食してきてるんですね。
昔からの下町で、三軒長屋とかあった場所に舞い戻って住んでるわけですが、もう軒並みどの家も建て替えていて、平屋から3階建てくらいになっていて、一階は駐車場にして車を持っている。
うーん。まぁええねんけど。
都市部に住んでいて車生活するなんて、なんてもったいないことをするんだろう? としか思わないのですね。
運動もできなきゃ、勉強もできない。アホになるだけや! とか思ってしまう。
「都会とは電車の事である」とずっと思っていて、都市部に住んでいて、この素晴らしい共有財を活用しないのは、すごくもったいないと僕なんかは思うのですね。
特に、多くの人が歩いていて、人が行き交う所を日々観察できること。これがすごくいい。時代の流れや、気分みたいなものを肌で感じることができる。電車の中での人間観察なんて、実に面白い。
これは、車じゃ無理なんだよなぁ。
見ず知らずの人がどれだけ利害関係なく共存できているかが、都会度というものなのだ、という人がいて、まさにそれこそが大事って思う。
こういう感覚がないのに、政治を考えるとか出来るんやろか? とか思う。みんな一緒に生きているという感覚がなくて、本当の意味の公共精神なんか持てるんかなぁって思うのです。
でも、都会に住んでて、車に乗ってる人までどんどん出てきてる世の中ですしねぇ。
うーん。
いや、車どころかバイクばっかりってな人もいてる。都会に住んでて、そんな事するの?なんか田舎くさいよなぁって思うのですよ。
地方の鉄道がどんどん廃線になってしまうっていうのも、ようするに「公共心」がなくなってるからなんじゃないのか?って思うのです。ここいらの事が分ってる人は廃線にしないでくれって言うのですよね。
確か法律が変って、鉄道の経営権が、地域に縛られなくなったはずで、和歌山の貴志川線を、岡山の両備グループが経営するようになったりしてますが、ああいうのは本当に頑張って欲しいと思うのです。トシを食ったら車もバイクも危なくて乗れなくなるんだから。ほんとに。で、利用する人が多いほど、料金も安くなるんだから。
自分だけが好きなときに移動できるとかの「私的メリット」みたいな事は、ちょっと横に置いておいて、みんなで出発時刻をシェアして、「公共の便利さ」を維持するほうが絶対に賢いと僕なんかは思うんですけどねぇ。
世界中の大都市で路面電車が見直されていて、今後は路面電車こそが都市部の重要交通機関だと言われているのに、日本くらいのものです、東京でゆりかもめ、大阪でニュートラムみたいなわけのわからないハコモノ行政でうんぬんしてるのは。
ああいうのは多分、「道路は一般の方のために広くあけておいて、公共の交通機関は高い空中に邪魔にならないように備えました。」みたいな発想だと思うんだけど、「それは逆やろ!」って思う。電車はみんなが使うんだから地べたでいいだよ! 車は遠くに行くときだけ、それも信号なして高速でって時だけ乗れば良いのだ。
実際、広島に出張に出かけると、路面電車がとても充実していて素晴らしいと思います。
お年寄りや車いすの人でも、わずか5?〜10cmくらいのプラットフォームの段差さえスロープ化すれば、みんなが使える交通システムになるわけで、ほんとうに誰もが使える都市交通網になってます。
ところが、なんだよ、ゆりかもめに、ニュートラムは。エスカレーターにエレベーターがないと使えない。電車に乗るまでが大事なんだから、まぁ困ったもんです。
田舎の鉄道も、「バスで代替えできる」とか行ってバス路線になって、バスになったら「利用者が減っても調整できる」「路線を車も活用できる」とか言って、結局はみんな移動できないようにしてしまったわけで。車があればいいって。
いやいや、レールがあって、駅があるから「移動する必然性」をみんなが考えるようになって、そこから文化は発生してきたんだよ。
宝塚の舞台もそうでしょ。映画だってそうだよ。なにより繁華街っていうものがそういうものだったんだから。
車なんかに乗ってても、ロードサイドの安っぽいお店しか繁盛しない。みんながバラバラになってドンドン寂しくなるだけだと思う。
先進国の都市計画では、個人所有の車というものを制限する方向で都市デザインするのが大きな流れなんだそうですな。正しいと思う。そんな「タバコ一箱買うにも車」みたいなのは、社会の仕組みとして制限するべきだと思う。
それが簡単にできるようになってるから、みんながそうするんだしね。
で、それでぶくぶく太ってダイエットだとか言ってても、なんだか本末転倒だと思うのですよ。
ちゃんと公共の精神を持って「みんなが便利で快適で幸せになるように」と考えていけば、必然的にムダでおかしな仕組みは制限されていくはずだと思うのだけど。
鉄道網を充実させて、都市部では路面電車をキチンを動かし、個人所有の車両は制限して、その代わり、優先レーンでバス路線を充実させ、歩道には自転車専用のミニレーンも設けるとかね。そういうのが良いと思うなぁ。
なんで日本はそうならないんだろう?
たぶん「公共」という概念そのものが、まだ根付いてないからよな、きっと。パブリックスペースとか、そういう考えがないんだろうなぁ。
「パブリックとは自分が利用する、自分の財産である」という発想がないんだと思う。「パブリックというのは自分がガマンする、みなさまの財産で、自分のものではない」と思ってるんだと思う。
このあたり、法律を守らないで違法なファイル交換ソフトで映画とかバカバカ見ている人間なんかにも通じるよなぁ。(違法ファイル交換ソフトの類なんて、存在価値はまったくないです。はい。キッパリ断言します。世の中を悪くするだけです。はっきりムダな存在。僕は最初から一切触ってません。公共財である著作権を破壊してどうする。意味ないやん。)
公共財っていうのは、自分の財産が増える事なんだから、それをもっと効率よく豊かに仕組んで行く方がいいに決まってる。こういう当たり前の事がわかってないから困るよなぁって思う。
世の中全部、ワシのもんや!!!!
と考えるのが、実は健全なのだって事なんですがね。
うーん。なんかこのあたり、けっこう難しいですね。
ともかく、私欲や私財を太らす事しか考えないと、当然、公共の共有財を活用しなくなりますから、出歩かなくなるし、ブクブクと「私財」である、余分な脂肪ばっかりがつくって事なんだと思うのですよ。自分だけが良ければいいんだって思ってるから、ブクブク醜く太るんだよなぁって思う。たぶんおそらくそういう事なんだと思う。
ホントは、この世すべてがみんなのものであり、それはつまり、この世すべてが、もともと自分のものなのに、そこに気づけていないから、そういう事になるんだとか、僕は思うのであります。
ま、そんな事で。
で、大きくはダイエットとトレーニングと睡眠の三つに集約されつつあるんですが、半年で7キロくらい落としました。まぁ多分ちょうど良いくらいでしょう。
実はそれほど大した事はしてなくて、炭水化物を減らして、朝食は野菜ジュースのみにし、運動は毎日1万歩を目標にエスカレーターは使わない、二日に一度は筋肉トレーニングをするという程度です。
腰を悪くしたりするのはまっぴらゴメンなので、走るとか無茶な運動はせず、ひたすらウォーキングを中心にして、とにかく階段です。
歩いていて思うのは、都市部というのはなんて大きなマシンジムなんだろうか、ということですね。毎日通う駅に、どれだけ長い階段があるか。それをエスカレーターを使わずに上り下りするだけで、けっこうな運動になります。
あと、カバンをリュックから手持ちに代えました。これで腕の筋肉もつくだろうし。そういう小さい運動っていうのが効果があると思う。
やっぱり日常なんですね。日常にいかに組み込むかなんだと思う。ダイエットのためのダイエット、運動のための運動は辛いだけで続かないと思うなぁ。
実は夏の間、表を歩くのが辛いので、プールに通ってたのですが、これが続かなかった。わざわざプールのために水着を持って出るとか、そういうのはダメだなぁ。面倒くさくてやってられません。
結局、大阪に住んでるんだしと、地下街をマメに歩くようにメニューを変えましたね。ちょっと集中してやらねばならない仕事はカバンに詰め込んで、梅田あたりの喫茶店で1時間ほどこもってやるとかね。で、そのついでに地下街をぶらつきながら少し歩く。これで数千歩は稼いで1万歩に近づけるのです。このほうが日常に近いので楽です。
まぁ、どんな人でも、会社と自宅を往復してるのなら、たいてい4〜5000歩くらいは歩いてますからね。10分あるけば1000歩とか1200歩とかですから。自宅から駅までで10分、駅から会社まで10分。これで半分は歩いた事になるわけで。
外食で昼ご飯を取る人なら、少し遠目の店に行くとかすれば、1000歩や2000歩は稼げますし、仕事帰りに少しブラブラと町の中を見て歩けば、それで1万歩はすぐに達成できます。
これに階段登りと、多少の筋肉トレーニング、食事の節制を心がければ健康な体の基礎は固められると思うのですよ。
いまは自転車がけっこう魅力的で、良い自転車を買おうかなぁとかも思ってるんですが、まぁ、まずは歩きですわなぁ。歩くの大好きだし。
この間も書きましたが、正直田舎の人間は歩きません。車がないとどうしようもない生活をしてるからなんですね。車があってはじめて、都市部の60%くらいの便利さを確保できる。
でも、トシを食ってじいさんばぁさんになってくると、車の運転もできなくなってくるんですね。当人はまだまだ大丈夫と思っても、家族が「もう乗るな」と止めるわけです。
こうなると、もう、足がない。バスなんて本数は少ない上に、ものすごく値段が高いですしね。タクシーとなると、もっとコスト高です。結局、家族親戚とかの地縁を固めて「ちょっと乗せて行って!」と頼むとかになるわけで。まぁそれは人間関係が円滑になるから良い面ではあるんですがね。
しかし、とにかく歩く機会はなくなってしまうわけです。田舎の人ほど歩かない。車ばっかりだから。
「ああ、やっぱり都会っていうのは公共交通機構の事だよなぁ」って、最近はつくづく思うのです。
電車、バス、タクシー。そういう公共交通が充実している事が「都会」なんだと思う。
東京なんて、本当に地下鉄が安いですからな。どの線か忘れたけど、一区が130円とかだもんなぁ。
大阪で230円です。100円も差がある。
ようするに多くの人が利用してるかどうか、なんですね。みんなで共用している。この共用するとか、公共の道具、公共財の発想こそが「都会」なんだと思うのですよ。
ところが、田舎の方に行くと、そういう「公共財」の発想があんまりなかったりする。「私財」だけが大事なのかなぁ。「鉄道とかは待ち時間も多いし不便だ。車の方が便利。」とか普通に思ってるわけです。
えええー? そう? 車なんて、運転を自分でやらなきゃいけないんだよ? 本も読めないじゃん? とか思うのだけど、そういう風には考えないみたいなんですねぇ。なんなんやろ、あれは。
で、田舎での生活ってのをけっこう経験してから、生まれた土地に戻ってきまして、回りを見渡すと、実は大阪市内にも「車生活」という田舎臭い文化が浸食してきてるんですね。
昔からの下町で、三軒長屋とかあった場所に舞い戻って住んでるわけですが、もう軒並みどの家も建て替えていて、平屋から3階建てくらいになっていて、一階は駐車場にして車を持っている。
うーん。まぁええねんけど。
都市部に住んでいて車生活するなんて、なんてもったいないことをするんだろう? としか思わないのですね。
運動もできなきゃ、勉強もできない。アホになるだけや! とか思ってしまう。
「都会とは電車の事である」とずっと思っていて、都市部に住んでいて、この素晴らしい共有財を活用しないのは、すごくもったいないと僕なんかは思うのですね。
特に、多くの人が歩いていて、人が行き交う所を日々観察できること。これがすごくいい。時代の流れや、気分みたいなものを肌で感じることができる。電車の中での人間観察なんて、実に面白い。
これは、車じゃ無理なんだよなぁ。
見ず知らずの人がどれだけ利害関係なく共存できているかが、都会度というものなのだ、という人がいて、まさにそれこそが大事って思う。
こういう感覚がないのに、政治を考えるとか出来るんやろか? とか思う。みんな一緒に生きているという感覚がなくて、本当の意味の公共精神なんか持てるんかなぁって思うのです。
でも、都会に住んでて、車に乗ってる人までどんどん出てきてる世の中ですしねぇ。
うーん。
いや、車どころかバイクばっかりってな人もいてる。都会に住んでて、そんな事するの?なんか田舎くさいよなぁって思うのですよ。
地方の鉄道がどんどん廃線になってしまうっていうのも、ようするに「公共心」がなくなってるからなんじゃないのか?って思うのです。ここいらの事が分ってる人は廃線にしないでくれって言うのですよね。
確か法律が変って、鉄道の経営権が、地域に縛られなくなったはずで、和歌山の貴志川線を、岡山の両備グループが経営するようになったりしてますが、ああいうのは本当に頑張って欲しいと思うのです。トシを食ったら車もバイクも危なくて乗れなくなるんだから。ほんとに。で、利用する人が多いほど、料金も安くなるんだから。
自分だけが好きなときに移動できるとかの「私的メリット」みたいな事は、ちょっと横に置いておいて、みんなで出発時刻をシェアして、「公共の便利さ」を維持するほうが絶対に賢いと僕なんかは思うんですけどねぇ。
世界中の大都市で路面電車が見直されていて、今後は路面電車こそが都市部の重要交通機関だと言われているのに、日本くらいのものです、東京でゆりかもめ、大阪でニュートラムみたいなわけのわからないハコモノ行政でうんぬんしてるのは。
ああいうのは多分、「道路は一般の方のために広くあけておいて、公共の交通機関は高い空中に邪魔にならないように備えました。」みたいな発想だと思うんだけど、「それは逆やろ!」って思う。電車はみんなが使うんだから地べたでいいだよ! 車は遠くに行くときだけ、それも信号なして高速でって時だけ乗れば良いのだ。
実際、広島に出張に出かけると、路面電車がとても充実していて素晴らしいと思います。
お年寄りや車いすの人でも、わずか5?〜10cmくらいのプラットフォームの段差さえスロープ化すれば、みんなが使える交通システムになるわけで、ほんとうに誰もが使える都市交通網になってます。
ところが、なんだよ、ゆりかもめに、ニュートラムは。エスカレーターにエレベーターがないと使えない。電車に乗るまでが大事なんだから、まぁ困ったもんです。
田舎の鉄道も、「バスで代替えできる」とか行ってバス路線になって、バスになったら「利用者が減っても調整できる」「路線を車も活用できる」とか言って、結局はみんな移動できないようにしてしまったわけで。車があればいいって。
いやいや、レールがあって、駅があるから「移動する必然性」をみんなが考えるようになって、そこから文化は発生してきたんだよ。
宝塚の舞台もそうでしょ。映画だってそうだよ。なにより繁華街っていうものがそういうものだったんだから。
車なんかに乗ってても、ロードサイドの安っぽいお店しか繁盛しない。みんながバラバラになってドンドン寂しくなるだけだと思う。
先進国の都市計画では、個人所有の車というものを制限する方向で都市デザインするのが大きな流れなんだそうですな。正しいと思う。そんな「タバコ一箱買うにも車」みたいなのは、社会の仕組みとして制限するべきだと思う。
それが簡単にできるようになってるから、みんながそうするんだしね。
で、それでぶくぶく太ってダイエットだとか言ってても、なんだか本末転倒だと思うのですよ。
ちゃんと公共の精神を持って「みんなが便利で快適で幸せになるように」と考えていけば、必然的にムダでおかしな仕組みは制限されていくはずだと思うのだけど。
鉄道網を充実させて、都市部では路面電車をキチンを動かし、個人所有の車両は制限して、その代わり、優先レーンでバス路線を充実させ、歩道には自転車専用のミニレーンも設けるとかね。そういうのが良いと思うなぁ。
なんで日本はそうならないんだろう?
たぶん「公共」という概念そのものが、まだ根付いてないからよな、きっと。パブリックスペースとか、そういう考えがないんだろうなぁ。
「パブリックとは自分が利用する、自分の財産である」という発想がないんだと思う。「パブリックというのは自分がガマンする、みなさまの財産で、自分のものではない」と思ってるんだと思う。
このあたり、法律を守らないで違法なファイル交換ソフトで映画とかバカバカ見ている人間なんかにも通じるよなぁ。(違法ファイル交換ソフトの類なんて、存在価値はまったくないです。はい。キッパリ断言します。世の中を悪くするだけです。はっきりムダな存在。僕は最初から一切触ってません。公共財である著作権を破壊してどうする。意味ないやん。)
公共財っていうのは、自分の財産が増える事なんだから、それをもっと効率よく豊かに仕組んで行く方がいいに決まってる。こういう当たり前の事がわかってないから困るよなぁって思う。
世の中全部、ワシのもんや!!!!
と考えるのが、実は健全なのだって事なんですがね。
うーん。なんかこのあたり、けっこう難しいですね。
ともかく、私欲や私財を太らす事しか考えないと、当然、公共の共有財を活用しなくなりますから、出歩かなくなるし、ブクブクと「私財」である、余分な脂肪ばっかりがつくって事なんだと思うのですよ。自分だけが良ければいいんだって思ってるから、ブクブク醜く太るんだよなぁって思う。たぶんおそらくそういう事なんだと思う。
ホントは、この世すべてがみんなのものであり、それはつまり、この世すべてが、もともと自分のものなのに、そこに気づけていないから、そういう事になるんだとか、僕は思うのであります。
ま、そんな事で。
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