人間の成長段階っていうのを考えると、

●甘く→●厳しく→●優しく

というようにたどってしまうのではないか? と最近思います。

最初は自分に対して甘いんですね。ものすごく甘い。何をやっても、自分の未熟さは棚に上げて、なんであっても他人のせいにしてしまいます。

正直言って、何かに依存しているような状態の人間は、みんなこれでしょうね。自分に甘く甘くしている。だから依存対象にずるずるべったりで、それでうまく行ってないのに、自分の甘さにも気づけないと。

まぁそんなもんでしょう。

で、そういう人が一番多いんだと思います。

で、そういう甘い甘い状態の中から、自分を客観的に見る力を少しずつ身につけて、ありのままの状態の自分を見れるようになってくる。

この「ありのままの自分」すら見れない人も、ものすごく多いとは思いますが、まぁ、少なくとも仕事の上での自分のありのままの姿くらいなら、世間にもまれているうちに受け入れざるを得ないから、直視するようになってきます。

で、この直視ができない人は、いつまでも「依存」の世界に入ったままになるんでしょうね。ゲームばっかりやってるとか、親子関係のベタベタした関係の中に埋没してしまうとか、自分の責任を棚にあげて、いつもイライラ怒ってるだけだとか。

でも、自分を直視できるようになると、「このままではダメだ!」となります。ある意味、自己否定ですね。自分に厳しくなるんです。

で、この数年、僕はずーっとこれでありました。

自分の弱いところを直視して、自分に厳しくして、弱いところを強化して、なんとかまともになっていこう! という感じだった。

んー、でもねぇ、これはこれであんまり意味ないって事に気付いてきたんですねぇ。

はじめのうちは良いんですよ。自分に厳しくしてると、いろいろな能力が伸びますし、勉強する気力も湧くし、いろいろ実行していって成果もあがる。

でもね。

人間一人で生きてる訳ではないわけですよ。

自分だけ能力を伸ばしたところで限界がある。周りみんなが能力を開花させないと、自分の環境が良くなるという事はないわけです。

そういう「自分だけ」の限界に気付いてくると、この「自分に厳しく」でアプローチしていた人間は、結局「なんでみんな努力せんのや!」と、イライラと怒ることになってしまうんですね。

それって、何かに依存して、自分で努力もしないで、だからうまく行かないで、それでイライラ怒ってる人間と一緒やん!

ねぇ?
でしょ?

ちゅう事は、自分に甘いままでも、自分に厳しく努力するのでも、どっちもダメって事やん!

あー、嫌になるなぁって思ってたわけです。

いや、ほんと、自分に厳しくして、自分なりに努力を続けて行くと、周りのサボりとか、すごく腹が立つようになるんです。

でもね、この「怒り」ほどムダな感情はないんですよねー。ほんとにまぁ、生産性が低いというか、マイナスにしか働かないんです。怒るのは、本当に損だよなぁって思う。

じゃ、どうすりゃいいのか?

って事を考えて行くと、とどのつまり行き当たるのが「自分に優しくする」って事なんですね。

「努力できないのはしょうがないじゃないか。努力する、なんて、本当に大変なんだから。」

と、当たり前の事をキチンと認めるって事ですね。ここまでは、自分に「甘い」のと実は、ほぼ同じなんですね。

で、「自分に甘く」というのと「自分に厳しく」「自分に優しく」の違いは、自分の問題点を直視して解決しようとするかしないかの違いなんです。問題があるのに解決しないって言うのは、不快な状況がずっと続くってことですから、こんな気持ちの悪い、「自分に優しくない」状態はないわけですから、「自分に甘い」っていうのは、すごーくしんどいわけです。辛くて苦しくて大変なままの状態です。

「厳しく」と「優しく」は、だから「問題点は解決せなしゃーないな」という腹のくくり方をしている態度、って事です。でそこは共通なんですけど、この後の

●方法論

が違うのが「自分に厳しく」と「自分に優しく」の違いなんですね。

方法論、なんですよね。実は。

厳しくする、というのは、ようは根性論なんです。どういうやり方、努力の仕方が良いかは分からんけども、とにかく頑張るというのが、「自分に厳しく」なわけです。

でも、「自分に優しく」というのは、それとは違って「どうやって努力すれば、いちばん効率的か?」と考えるとか、「根性論ではなくて、自然とやる気が出るようにするにはどうしたらいいのだろう?」と考えるとか、「自然と努力したくなるような環境を整えよう」と発想するとかの方法論の取り方なんです。

で。

この方法論の違いっていうのが、ここしばらくとっても気になってたことなんですけど、この違いを生み出す根本は、とどのつまり、自分を直視した上で、そういうダメな自分を受け入れて、それでも良いじゃないかと優しくするって事なんですね。

で、もうひとつ言うなら、ダメな自分を受け入れはするけれど、それは諦めることとは全然違って、「まぁ、それでもなんとかなるだろう」と楽観的になって、「なんとかこの問題点が解決しますよう、神様よろしくお願いします。」と祈るというか、運命にゆだねてしまう事のように思います。

なんちゅうかね、自分で自分の問題だけでも解決しよう! とか思うから周りが見えなくなっているのでありまして、自分を含めた周りみんなが、うまく行くように祈るというかね、なんかそういう感じ。

そういう感じで毎日何かしらコツコツと努力してると(ここはけっこう重要な気がする。努力は何かしらやってないとやっぱりダメな感じがする。)突然ある日、はたと良い解決策を思いついたり、誰かが良い解決策を持ってきてくれたりする。

なんかね、なんかそういう感じがありますね。

で、こういう「自分に優しくする」というアプローチって、とどのつまり、まず「自分を直視して」それから「自分に厳しくして」それから「厳しいだけじゃダメなんだ」と知ってというような段階を踏まないと到達しないんじゃないかなぁ? って気もするんですよ。

まぁ最初から「自分に優しく」が出来るような幸せな人もいてるんでしょうけどね。

んー、なんかね、最近はよくそういう事を考えてます。
自分に甘いだけの人が、いきなり「自分に優しく」はなれない気がする。とりあえずはいったん、「自分に厳しく」を通り抜けないと、なかなか自分に優しくはできないのかなぁって思うのですよ。

だからとにかく、みんな厳しくでも優しくでもいいから、とにかく「問題は解決して幸せになるぞ」って思わないと始まらないってことかなぁ。

とにかくね、みんながね、幸せになるのが一番いいんですよ。結局。

自分の身の周りの人が、みーんな、できるだけたくさん、幸せになる。それが一番だよなぁ。

ほんとにそう思います。

コメント

どん太
どん太
2007年8月14日9:45

うん。おっしゃるとおりだと思います。
>自分に甘いだけの人が、いきなり「自分に優しく」はなれない気がする。とりあえずはいったん、「自分に厳しく」を通り抜けないと、なかなか自分に優しくはできないのかなぁって思うのですよ。

経験的に、真理だ〜、と、思います。

厳しい期間に、ある程度人間としての質が向上するんでしょうね。

シゲ
シゲ
2007年8月14日16:47

>どん太さん
えー、最近はね、もう「厳しく」はどうでもいいなぁって思ってます。どうやれば、ラクに努力が続くのか? とか、大きな課題をどれだけ小さく砕いて、飲み込みやすいサイズにして継続実行するかとか、自分に対してはそんな事しかしてないです。
あと、日々、とにかく身の回りの人の幸せを願う。願うというのは、あくまで「笑顔を想像する」程度の事で、具体的に「こうすればいいのに」とか方法論までは考えない。それは神様が成す事であって僕には何もできないって感じ。
ただただ、ひたすら自分に関わりのある人みんなが幸せになったらいいのになぁって。
いやね、ほんとにね、ACの周りって不幸な人が多いですから。それも「自分が不幸と気付いてない不幸な人」っていうのが多い。

で、そういう人に対する方法として、とにかく「幸せを願う」という、それだけなんですね。不幸な人っていうのは、「こうすればいいよ」って教えても受け入れないし。

幸せを受け取るのが下手だからこそ不幸なわけだしね。困ったことに。

だからもう、そういう自分からの関わりというのは放棄して、ひたすら幸せを願う。それだけです。ほんとに。そのくらいしかできないもの。

はい。

どん太
どん太
2007年8月14日21:13

>だからもう、そういう自分からの関わりというのは放棄して、ひたすら幸せを願う。それだけです。ほんとに。そのくらいしかできないもの。

まったく同感!

kaichu
kaichu
2007年8月16日0:42

>いやね、ほんとにね、ACの周りって不幸な人が多いですから。それも「自分が不幸と気付いてない不幸な人」っていうのが多い。

あーそれ、不幸じゃないのに不幸だと思いたがる自分つうのもあります。自分で選んでんの。不幸なほうがいいんです、そういう時は。だって幸せっていろいろ感じてしまって大変だから。

て言うことかなっと今日思いました。

シゲ
シゲ
2007年8月16日9:33

>kaichuさん
そうだねー。不幸じゃないのに、不幸と思いたがるってあるよねぇ。
ちゅうか、本当は人間はみんな幸せで、不幸な人なんていてないんだと思うなぁ。

でも、その幸せが壊れちゃうんじゃないか? って恐怖心が出たりしておかしくなってくんでしょう。たぶん基本は。

このあいだ読んだ本に、「この世には愛にあふれた人間と、その愛を無くす事を怖れている人間の二種類しかいない」って書いてあって、あ、そのとおりだって思った。

喧嘩したり、気持ちがすれ違ってしまったり、いがみあったり、関係が悪くなったりするのも、ようは「愛をなくすのが怖い」から、わめいてるだけなんだよね。つまり怖がらなければ、愛はあるわけ。怖がるから、自分が持ってる愛を、素直に相手に与えられなくなってる。

そういう事だと思うのよ。結局は。
愛があるからこそ、失うのが怖いんだよね。

でも、愛のない人間なんていてないんだと思う。みんな普通に愛情あふれる人間なんだと思う。恐がりさえしなければね。
もう、神様にまかせて、恐怖を忘れ、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と思ってたら、結局、とどのつまりはうまく行くんだと思う。きっと。

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