先日、i先生の話を書いたら、「いい先生ですね」という感想をいろいろいただきましたので、また少し、このエピソードから、いまになって学び直した「気づき」を、シェアする気持ちで書いてみたいと思います。

表題にも書きましたが、最も重要な事は、

●痛みも喜びも、同じ「感じ取り能力」の結果である。

という事なんですね。

前々から、ここではアダルトチルドレンの話をいろいろと書いてきましたけども、ようはアダルトチルドレンっていうのは、自分の心が傷つかないように、「痛み」をいかに避けるか? ということに四苦八苦している人間であるように思うのです。

親が自分から離れて行ってしまったり、思い通りのケアをしてくれなかったり、そういうさまざまな「恐怖」から逃れるために、恐怖や痛みを「感じないようにする」という思考を持つようになってしまったという事ではないでしょうか?

もちろん幼い子供が、精神的な苦痛を避けるために、たとえば屁理屈とか自分勝手な解釈とかで「世界」を説明して、それで恐怖から逃げて安心するというのは「サバイバル」の生き方として、仕方ない部分はあると思うのです。

でも、やっぱり、「痛みも喜びも同じ感じ取り能力の結果」なのですから、ずーっと「痛みを避けて生きる」ばっかりをやっていたら、「喜びも感じ取れない人生」になってしまうのは、当たり前だと思うのですね。

だから「痛み」を避けていてはいけないんだと思うのですよ。痛みを避けるために、何かおかしな理屈を出して、それでその場をごまかすというような事をやってはいけない。

僕の高校の時の体験で言えば、自分の「ズル休み」という負い目を、i先生によって、別の角度からビシ!っと叱ってもらった事で、僕は顔が真っ赤になるほど恥ずかしい思いを感じて、「痛み」を引き受けざるを得なくなったわけです。

でも、その「痛み」があったからこそ、高校生活後半の幸福な時間は訪れたのです。
それが何故か?と言えば、単純に言ってしまえば「痛み」を感じることで、感じ取り能力そのものがパワーアップして、「喜び」もちゃんと感じ取れるようになったから、なんですね。

アダルトチルドレンは、いつも変な「屁理屈」というヨロイを着込んでいて、それで「痛み」から身を守る事ばっかりやってるんですけど、そういうヨロイを着てるから、風のそよぎの気持ちよさも感じられないし、おしりがかゆい時も掻けなくてイライラするわけです。

アダルトチルドレンの「イライラ」って、本当にそういう種類のイライラなんです。

だから「痛くてもかまわない!」と思ってヨロイを脱がないとダメなんだけど、そこの踏ん切りがつかないわけですよ。

そういう時に、i先生のように「正しく叱ってくれる人」がいてると、キチンと痛みを感じ取れて、それで自分のもともと持っていた感じ取る能力が活性化して、イキイキと生きて行ける、という側面があるわけです。

だから、アダルトチルドレンはたいていの場合「人を傷つける行為は悪い事だ」と思っていて、そこから一歩も動けなかったりするんですが、「正しい事を正しいと実感させるために叱る痛み」は、必要な痛みなのだ、という事くらいは、ちゃんと学んだ方がいいと思うのですよ。

このあたりは「痛みから学ぶ」というやり方をやっていくしかないんですね。

たとえば、自分が間違った発言や行為を行った時に屁理屈で自己正当化を図るとかやりがちなんですけど、そういうムダな事はせずに。

「あ、俺が間違ってたんや」とか、「あ、俺が知らんだけなんや。あーかっこ悪ぅ。」とかの気持ちを正しく持つ事が、すごく大事だと思うのですよ。

痛みをちゃんと受け取る、という事こそが、実は「幸せを受け取る」方法そのものでもありまして、それは痛みを感じる事が、ストレートに「喜びを感じ取る方法」なのだって事なんですね。

ここが、すごく大事なポイントだと思うんです。

痛みを感じ取るのは「痛い事」なんですけど、それを感じ取れない人は、やっぱり「喜び」も感じ取れなくなって行ってしまうんですよ。

国語のテストができなくて、「小説の問題の答えは、感じ方でいろいろのはずだから、正解ひとつだという問題形式そのものが間違っている」というような理屈は、まさに、この「自分が間違っている事を感じ取らないようにする屁理屈」そのものでして、ようは「知らない自分の恥ずかしさ」を避けてるだけなんですね。

その恥ずかしさを感じ取る事こそが幸せになる道なのに、と僕は思ってしまいます。

そういう自分の間違いを、恥ずかしく思えない人が、人の優しさをありがたく感じたり、人とのふれあいを大事にしたりとかできるわけがないのであって、それはもう倫理観がどうとか、道徳律がどうとか、宗教心がどうとか言う前に、もっと単純に、

●恥じる心=感じ取る力=幸せになる力

だという、ものすごくシンプルかつストレートな仕組みが、人間の心と体に備わっている、という、そんな単純な事実がわかってないというだけなんですね。

「痛みは感じたくないけど、喜びだけ感じたい」という、甘い話は、まぁ、大枠としては存在しない、というわけです。

そういうシンプルな仕組みというか「心の構造」を、30年も経って、改めて実感した、という事です。

だから「恥じる力」もない人は可哀想です。幸せを感じ取る力も少ない訳ですから。そりゃ人生重荷でしょう。辛いでしょう。

でもそれは「恥じる痛み」を避けた、アンタが悪い。心を鈍感に、ナマクラなものにしてしまったあなた自身の責任だよって事ですね。

まぁ、鈍感なままでも、それはそれで人生なのだし、とやかく言う事でもないのかも知れないのですが、こういう具合に屁理屈のヨロイで身を守ってる人は、先の国語のテストを否定した彼のように、自分の感じ取り能力の低さを正当化するために国語のテスト形式が間違ってる、というような無茶を言い出すので困るのです。

もう、そこまで行ってしまうと、手のつけようがないのかなぁとも思うのですが。

あまり話がとっちらかってもいけないので、ここまでにしますけれど、一番大きくて重要な事は、

●痛みも喜びも、同じ「感じ取り能力」の結果である。

という事に集約されるよなぁ…。と、思っている今日この頃であります。

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