「感じ方」は自由なのか?
2007年6月2日 ●じぶんの心マップ コメント (4)
今日は京都相国寺で催されていた若冲展が明日最終日という事で、「これは見に行かねば」と見に行って参りました。
その様子はmixiのほうで書いたので、まぁ、また転載しますが、ここでは、そこで並んでいた時に、隣にいたカップルの会話が耳に入ってきて、久しぶりにイライラっときたので、ちょっと愚痴るつもりで書きます。
とにかく若冲展は異様な人気で、待ち時間が無茶苦茶に長かったのですが、そうなると、そういうカップルの言い合いというか「かみ合ってない話」とかも聞いてしまうわけですよ。
で、話の内容はようするにこういう事です。
●学校の国語のテストで、問題に小説等が選ばれて「この文章があらわす心情を述べよ」とかあるけど、あの設問はおかしい。
と、男が主張してるわけです。
●感じ方は人それぞれなんだから、小説でそれを問題にすることがおかしい。
と言ってるわけ。
で、女の子の方は、
●いや、それは「受け取り能力」を測るものだからそれで良いのだ。作者がどういう意図で、そう表現しているのかを、「受け取る」こともできなければ、それはコミュニケーションになっていない。
と男の考え方を全面否定した事を言ってるわけです。いや、言い方は、すごーく優しい言い方なんですけどね。でも、ようは男の意見をまっこうから完全に否定してるわけです。
で。
結論から先に書きますけど、これは、この女の子の方が完全に正しい。
確かに「受け取り方」は自由ですし、どう感じようが受取手の勝手ですが、文章には作者というのがいて、その作者が意図していた内容があるからこそ、文章は文章として成り立っているわけですよ。
だから、作者の意図も読めていないで、「自分の感じたままで良い」なんていうのは話にもなんにもなっていない。単なるパーなだけです。
ところがだ!
こういうバカに限って「感じ方は人それぞれなんだから。」という事に無茶苦茶にこだわるわけですよ。
で、しつこく言うわけ。
「いや、そりゃさ、論説文とか解説文とかで意味の読み取りとかが大事っていうのは分るけど、小説では受け取り方は自由でええやんか。感じ方は人それぞれなんだから。」と、くだらぬ食い下がりをしてくるわけ。
聞いてて、イライラっと来ましてね。ムカムカきた。
そんなものね、感じ方はいろいろだけど、全然重ならない、個別事情を抜きにして、「悲しい」心の動きには「悲しい」という言葉を割り当てて、その意味と「感じ方」を共有してるからこそ、言葉に意味があるんやないか、ドアホが! お前が「理解する能力」「自分が感じた事を複雑な言語表現で的確に理解する能力」がないだけの話やないか!アホか!
としか思わなかったわけです。
自分の心で起こった感情が、世間一般で言う「悲しい」なのか「怒り」なのかの区別もついていない、「感じる能力」の欠如した人間だから、「感情を表現するとはどういう事か」がわからなくて、「感じ方は人それぞれで良い」という言い訳に逃げてるだけやんけ! っちゅうことなわけですよ。
まえに、ここの日記でも紹介しましたが、例の齋藤孝さんがやっておられる「三色ボールペン読書法」が、良い具体例なんですね。
日本の小説の名作を生徒達に読ませて、「大事と思う所には赤線を、個人的に興味を持ったところには緑線を、大事かどうかわからないけれど、少しひっかかったところに青線を引きなさい。」という風に教えて、三色ボールペンを手に読書指導していくと、「読み込む力のある生徒」は、徐々に赤線を引く場所が共通化されていくって言うんですね。みんな同じ場所を「大事」と思うようになるって事なんです。
って言うか、これはね、それが当たり前なわけですよ。「こう読み取って欲しい」と思って作者は書いているのだから、キチンと読めている人の「大事なところ=赤線」の位置が同じになるのは当然なのです。そうでしょ?
当たり前。
自明の理。
それがバラバラだったら逆におかしい。
緑線はどこに引こうが勝手だけれど、赤線はみんなが同じなのが当たり前なんです。
この、すごく大事なことが、このバカな男にはわかってないわけですよ。
ほんまにアホやと思う。
でも、この「感じ方は一人一人自由だから」というのを、延々、延々、繰り返して主張しよるんですよね。
違うっちゅうねん。それはお前がアホなだけや。
世間にはちゃんと赤線と緑線の区別がついていて、赤線は赤線として処理できる「受け取り能力」のある人がちゃんといて、お前にはその「大事なところはどこか」を読み取る能力がないというだけの話なんじゃ、ボケ!
と、懇々と説教したくなる衝動を抑えるのに苦労しましたですよ。ほんとに。
ようは、自分が「アホ」であるという事を認めたくないだけの話なんですよ。
回りはみんな「ここが大事なポイントだ!」と分っているのに、自分だけわからない。それはつまり「理解する能力がない」という事でしかなくて、ここで「ああ、俺には能力がないんだ」と状況が分れば「理解する能力を身につけなくてはいけないんだ」って方向に進むこともできるんですが、それを「感じ方は人それぞれ」という屁理屈に逃げてるわけです。
まぁだいたい8割の人が、同じ位置に赤線を引いてるのに、この男は、みんながなんでちゃんと同じ場所に赤線を引けるのかがわからなくて、緑線を赤線だと言い張ろうとしているわけです。
いやー、それは通用せんのよ、やっぱり。
自分が赤線を引く能力がないことを理由に、「赤線なんて要らない!おかしい!」と主張してるにしか過ぎないわけだから。
それはやっぱり通用せんのよなぁ。可哀想だが。
で、実は人間が成長していく過程というのは、こういう場合に「あ、俺は分ってないんや」と気付く事が最初に必要なわけですよ。
その気づきがない限り、永遠に緑線と赤線の違いがわからないままですから。
ほんとにね、腹が立つのは、こういう「赤線の存在」が分ってない奴は、自分がわかっていないという事を理由に「赤線なんてウソだ!」とか平気で言うって事なんですよ。
お前、何無茶苦茶言うてんねん! っちゅう事なんですけどね。
でもそういう事を言うんです。こういう人は。
実際、このアホな男の「読み手の感じ方はそれぞれ。国語の問題にそれを出す事がおかしい」論こそ、まさにこの「自分がわかってない事を理由に、世間に流通している常識を否定して平気」というアホの極みなんですけど、これがいかにアホな話であるかを、たぶん、このアホな男はわかってないんですよねぇ。
まぁ、普通なら近づきもしないんですが、さすがに展覧会で並んでいると、イヤでも耳に飛び込んできますからなぁ。もう拷問に等しかったですね。
じゃかぁしわボケ!お前がアホなだけじゃ!
テストの点数が悪かったからと言って屁理屈こね回した言い訳するなドアホ!
お前が「どこが大事か」をわかってないだけじゃ。それを「個性」とは言わん!「アホ」と言うのじゃボケナス!
と言いたかったですがね。
まぁ、これ以上言うとケンカにしかならないとわかったらしく、賢い女の子が黙りましたけど。
ほんまにアホな奴でした。
自分がアホなだけというのが分ってない。
可哀想なものです。
で、「自分がアホと分る」事こそが、「アホでなくなるための第一歩」なんですよね。
いつまでも「感じ方はそれぞれや!」と緑線の事しか言えないから、赤線の存在に気付くこともできないわけですからねぇ。
ま、そんなことを感じた今日この頃でございます。
その様子はmixiのほうで書いたので、まぁ、また転載しますが、ここでは、そこで並んでいた時に、隣にいたカップルの会話が耳に入ってきて、久しぶりにイライラっときたので、ちょっと愚痴るつもりで書きます。
とにかく若冲展は異様な人気で、待ち時間が無茶苦茶に長かったのですが、そうなると、そういうカップルの言い合いというか「かみ合ってない話」とかも聞いてしまうわけですよ。
で、話の内容はようするにこういう事です。
●学校の国語のテストで、問題に小説等が選ばれて「この文章があらわす心情を述べよ」とかあるけど、あの設問はおかしい。
と、男が主張してるわけです。
●感じ方は人それぞれなんだから、小説でそれを問題にすることがおかしい。
と言ってるわけ。
で、女の子の方は、
●いや、それは「受け取り能力」を測るものだからそれで良いのだ。作者がどういう意図で、そう表現しているのかを、「受け取る」こともできなければ、それはコミュニケーションになっていない。
と男の考え方を全面否定した事を言ってるわけです。いや、言い方は、すごーく優しい言い方なんですけどね。でも、ようは男の意見をまっこうから完全に否定してるわけです。
で。
結論から先に書きますけど、これは、この女の子の方が完全に正しい。
確かに「受け取り方」は自由ですし、どう感じようが受取手の勝手ですが、文章には作者というのがいて、その作者が意図していた内容があるからこそ、文章は文章として成り立っているわけですよ。
だから、作者の意図も読めていないで、「自分の感じたままで良い」なんていうのは話にもなんにもなっていない。単なるパーなだけです。
ところがだ!
こういうバカに限って「感じ方は人それぞれなんだから。」という事に無茶苦茶にこだわるわけですよ。
で、しつこく言うわけ。
「いや、そりゃさ、論説文とか解説文とかで意味の読み取りとかが大事っていうのは分るけど、小説では受け取り方は自由でええやんか。感じ方は人それぞれなんだから。」と、くだらぬ食い下がりをしてくるわけ。
聞いてて、イライラっと来ましてね。ムカムカきた。
そんなものね、感じ方はいろいろだけど、全然重ならない、個別事情を抜きにして、「悲しい」心の動きには「悲しい」という言葉を割り当てて、その意味と「感じ方」を共有してるからこそ、言葉に意味があるんやないか、ドアホが! お前が「理解する能力」「自分が感じた事を複雑な言語表現で的確に理解する能力」がないだけの話やないか!アホか!
としか思わなかったわけです。
自分の心で起こった感情が、世間一般で言う「悲しい」なのか「怒り」なのかの区別もついていない、「感じる能力」の欠如した人間だから、「感情を表現するとはどういう事か」がわからなくて、「感じ方は人それぞれで良い」という言い訳に逃げてるだけやんけ! っちゅうことなわけですよ。
まえに、ここの日記でも紹介しましたが、例の齋藤孝さんがやっておられる「三色ボールペン読書法」が、良い具体例なんですね。
日本の小説の名作を生徒達に読ませて、「大事と思う所には赤線を、個人的に興味を持ったところには緑線を、大事かどうかわからないけれど、少しひっかかったところに青線を引きなさい。」という風に教えて、三色ボールペンを手に読書指導していくと、「読み込む力のある生徒」は、徐々に赤線を引く場所が共通化されていくって言うんですね。みんな同じ場所を「大事」と思うようになるって事なんです。
って言うか、これはね、それが当たり前なわけですよ。「こう読み取って欲しい」と思って作者は書いているのだから、キチンと読めている人の「大事なところ=赤線」の位置が同じになるのは当然なのです。そうでしょ?
当たり前。
自明の理。
それがバラバラだったら逆におかしい。
緑線はどこに引こうが勝手だけれど、赤線はみんなが同じなのが当たり前なんです。
この、すごく大事なことが、このバカな男にはわかってないわけですよ。
ほんまにアホやと思う。
でも、この「感じ方は一人一人自由だから」というのを、延々、延々、繰り返して主張しよるんですよね。
違うっちゅうねん。それはお前がアホなだけや。
世間にはちゃんと赤線と緑線の区別がついていて、赤線は赤線として処理できる「受け取り能力」のある人がちゃんといて、お前にはその「大事なところはどこか」を読み取る能力がないというだけの話なんじゃ、ボケ!
と、懇々と説教したくなる衝動を抑えるのに苦労しましたですよ。ほんとに。
ようは、自分が「アホ」であるという事を認めたくないだけの話なんですよ。
回りはみんな「ここが大事なポイントだ!」と分っているのに、自分だけわからない。それはつまり「理解する能力がない」という事でしかなくて、ここで「ああ、俺には能力がないんだ」と状況が分れば「理解する能力を身につけなくてはいけないんだ」って方向に進むこともできるんですが、それを「感じ方は人それぞれ」という屁理屈に逃げてるわけです。
まぁだいたい8割の人が、同じ位置に赤線を引いてるのに、この男は、みんながなんでちゃんと同じ場所に赤線を引けるのかがわからなくて、緑線を赤線だと言い張ろうとしているわけです。
いやー、それは通用せんのよ、やっぱり。
自分が赤線を引く能力がないことを理由に、「赤線なんて要らない!おかしい!」と主張してるにしか過ぎないわけだから。
それはやっぱり通用せんのよなぁ。可哀想だが。
で、実は人間が成長していく過程というのは、こういう場合に「あ、俺は分ってないんや」と気付く事が最初に必要なわけですよ。
その気づきがない限り、永遠に緑線と赤線の違いがわからないままですから。
ほんとにね、腹が立つのは、こういう「赤線の存在」が分ってない奴は、自分がわかっていないという事を理由に「赤線なんてウソだ!」とか平気で言うって事なんですよ。
お前、何無茶苦茶言うてんねん! っちゅう事なんですけどね。
でもそういう事を言うんです。こういう人は。
実際、このアホな男の「読み手の感じ方はそれぞれ。国語の問題にそれを出す事がおかしい」論こそ、まさにこの「自分がわかってない事を理由に、世間に流通している常識を否定して平気」というアホの極みなんですけど、これがいかにアホな話であるかを、たぶん、このアホな男はわかってないんですよねぇ。
まぁ、普通なら近づきもしないんですが、さすがに展覧会で並んでいると、イヤでも耳に飛び込んできますからなぁ。もう拷問に等しかったですね。
じゃかぁしわボケ!お前がアホなだけじゃ!
テストの点数が悪かったからと言って屁理屈こね回した言い訳するなドアホ!
お前が「どこが大事か」をわかってないだけじゃ。それを「個性」とは言わん!「アホ」と言うのじゃボケナス!
と言いたかったですがね。
まぁ、これ以上言うとケンカにしかならないとわかったらしく、賢い女の子が黙りましたけど。
ほんまにアホな奴でした。
自分がアホなだけというのが分ってない。
可哀想なものです。
で、「自分がアホと分る」事こそが、「アホでなくなるための第一歩」なんですよね。
いつまでも「感じ方はそれぞれや!」と緑線の事しか言えないから、赤線の存在に気付くこともできないわけですからねぇ。
ま、そんなことを感じた今日この頃でございます。
コメント
前者は感情の作用でも、後者は理性による分析の作用なんだけどね。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
話脱線しますが、わたし憲法の判例、「大事なトコの線引き」が、うまくできません。
当然、成績悪し。
民法や手続法なら問題ないんだけど。。。
憲法の「つぼ」がわかってないんだと思います。
彼も、コミュニケーションの基本とか、つぼとかが、わからないんでしょうね。
憲法の場合、本来は国民の「豊かな常識」が集約された内容になっていなくてはいけないのに、そういう国民的議論を経ずに制定されたわけですから「大事なトコ」がわかりにくくてもしょうがないですよ。
憲法のツボは「国家公務員を縛るルールだ」というのを頭に入れると随分わかりやすくなるのでは?と思います。憲法は国民ではなく、国家公務員を縛るためのルールです。このあたりは小室直樹先生の受け売りですが。
それはそれとして、国語のテストの問題は、そんな難しいことでは全然ないですよ。「読者がどう感じたか」というのを設問にするなら「読者感想文」というテスト形式を取るしかないわけです。あるいは「小論文」という形式もあるでしょう。
でもそうではない形式で、文章を読ませて「ここで作者はどういう心情を伝えようとしているのか?」と問う形式でテストするというのは、それがちゃんとみなが同じになるとわかっているからそういう形式になっているのです。
しかし読み取り能力のない、あるいは低い人間は、その「みなが同じ答えになる」というのが理解できないわけです。だからテスト形式自体がおかしいと感じるんですね。
しかし、いくらテスト形式がおかしいと当人が感じたとしても、それは「受け取り能力がない」のが原因であって、テスト形式が間違っているわけではないんですよ。明確に。小論文テストではないんだから。
で、どうしてこういう事になるのか? という原因は「感じ方は人それぞれなのだから、答えは違っていて当然」という頑固な間違った考え方「だけ」に囚われているからであって、他に原因はないんです。
「感じ方」には人類共通の部分というのがちゃんとあって、その共有できる部分こそが言葉になっているし、その共有部分をやりとりすることこそがコミュニケーションなわけですよ。
当然「共有できない部分」もありますが、それはコミュニケーションという機能においては主要部分ではないわけです。
で、「共有できない部分こそが自分だ」などと思っているから他者とのコミュニケーションがまったくできなくなっていくんであって、それは明確に間違いなんですよ。
ここで紹介したカップルのうち、彼女のほうは、そういう問題にすでに気付いてるんですよね、多分。「この人は閉じてる所があるから、時おりコミュニケーションできないところが出てくるなぁ。困ったなぁ。」と思ってる。
だから、「受け取り能力」の話を落ち着いて優しく、その彼にしてたんだと思うのですよ。えらいなぁ。愛情がある。
でも、このアホは、その愛情に気付くこともできないわけですよ。能力の無さを責められているかのように感じて、よけい閉じている。
そこで閉じるから、よけいにコミュニケーションが成立しない世界に入り込んで堂々巡りしてしまうのに。
アホな話です。
ほんまにアホやと思う。
「あ、俺がアホやったんや」
「あ、僕に能力がなかったんだね」
と気付かぬ限り、この人に幸せはないです。永遠に。
ま、そういうことですよ。
なるほどな。
でも、こういう人は、よっぽどラッキーな(たぶん彼にとっては不幸な)大事件でもない限り、「気づく」ことってないんでしょうね。
−−−
憲法は、それでもまだ、わかりませぬ。
なんか、本音をいえない学問になってる気がする。
まぁ、そうですわね。基本は「おそらく気づけないだろうな」です。気づける可能性はとても低い。
ただゼロではないんで辛いんですよねぇ。
この例で言うと、一緒にいた女の子は「わかるはずだ」と思って「それは受け取り能力を測るテストだからそれでいいのよ」と優しく、かつ根気よく話しかけていて、正直僕は頭が下がりました。
僕なら「お前がアホなだけじゃ!ボケ!」と罵って終わりですから。
愛情があるよなぁ。柔らかい優しい愛情というか。
いや、「叱りつける愛情」ってのもあるんだけど、この手の人間には逆効果なんですよね。
ようは「私が間違っていたのだ」と気付く恥ずかしさや心の痛みから逃げようとしているのだから、叱りつけたらよけい逃げるだけなんですよねぇ。
しかし、この男の場合、彼女が優しく説得してるのに、それでも「感じ方はいろいろだから国語の小説のテストの設問がおかしい」という、自分勝手な理屈という城に閉じこもって出ようともしてないので、かなり重症ですわ。
この彼女、苦労してるんやろなと。
で、まぁ、肉親でもないのなら、さっさと別れた方が良いのにな、とも思いました。
とも思うけど、でも、それでも、この彼女の「優しく説得している態度」は正しい訳ですよ。ほんとに。
えらいよなぁ。
僕はそこまでできませんわ。
アホンダラ! ボケ! カス! お前が間違っとるだけじゃ!ええかげんに気付け!
とか「怒って」言ってしまう。怒りがムダだ、というのは、こういう場合の事を言うわけですよ。僕はここでどうしても怒りがでちゃうんですねぇ。
だから、この女の子が実に正しい。
でもまぁ、多分別れますわね、この二人は。
やれやれ。