機能するか、しないか。
2007年5月16日 ●じぶんの心マップ コメント (17)例の「裸の王様のやるべきこと1/2」が発端となって、いろいろコメントがついたので、整理の意味も兼ねて、また、いろいろ書きます。
今回は、「一番大きな枠組み」について書きます。
最近わかった事は、
●ACの回りはACだらけ
であり、
●ACは、「全体枠組み」を理解してない
●ACは、機能するルールと機能しないルールの区別がつかない。
ということが、最も問題だと気付いたという事です。
それに加えて、ACの場合は、
●「権威」への過剰反応。
●実感のない行動を「学ぶ」困難。
という2つの「ハンデキャップ」があるというのが僕の意見なので、そのことについても書いておきます。
---------
まず、大きな構造の把握から考えていきましょう。
もともとAC(アダルト・チャイルド)とはAdult Child of Alcoholics(アルコール依存症家族で育った人)だったわけですが、その後、多くの不幸な親子関係に同様の状況が見られたと言うことで、
●Adult Child of Dysfunctional Family(機能不全家族で育った人)
というように呼び名が変ってきていますよね?
じゃあ、なんで「機能不全」って呼ばれるのよ? って事なんですね。
アルコール依存だけでなく、バクチ狂いだったり、子供との共依存だったり、さまざまな状況はあるけれど、この言葉はそれらを「機能してない家族」という呼び名でまとめてるわけです。ひっくるめて「機能していない」んです。
では。
「機能する」というのはどういう事か? 大事なのはここです。
「機能する」というのは「人間関係が円滑に機能する」って事なんですね。当然家族関係も人間関係ですし、家族関係こそが人間関係の基本ですから、ここが歪んでるとどんな人間関係も、円滑に回らないって事になる。
で、こここそが、一番大事なところなんですが、ACというのは、
●「機能する関係」を体験したことがない。
ってことなんですよ。人間関係が円滑に回る体験をしていない。
普通に「機能している親子」などであれば、ここでの「機能する」という事がどういう事なのか、すぐにわかる。親が子供のために稼いできたり、ご飯を用意したり、社会で生きていくための基本ノウハウを教えたりするってことです。
特に注意したいのは、社会で生きていくための基本ノウハウの部分ですね。これは「しつけ」と言い換えてもいいですが、ここでは分りやすく簡単に、
●間違った事をした時に「ごめんなさい」と謝る。
●知らない事を「わかりません」と素直に言う。
●ほめてもらったら「ありがとう」とよろこぶ。
という3つの言葉で代表させておきます。
「ごめんなさい」「わかりません」「ありがとう」という言葉を発するタイミングと使い方を日常で正しく「普通」に使うって事です。
こういう基本ができてないと、人間関係が円滑に回りません。通常、「機能している家族関係」では、これらは普通に行われています。機能する、というのは、そういう人間関係が円滑に回る、という事を示すわけです。
これらの対人行動は、分っている人には「何を当たり前の事を…」と思うような事なんですが、逆にACには、この「当たり前」の事が理解できないのです。
ここのところの溝はかなり大きいのです。
幸福な環境に育った人間は、こういう当たり前の話を書くと「そらそうやろ!当たり前ですがな。」と感じるのですが、ACだらけの機能不全家族で育つと、こういう当たり前のことを「単なる建前でしょ。」とか「とおりいっぺんの表面的な考え方だ」とか「絵に描いたような当たり前さがウソくさい」と捉えてしまうのです。
何故ACが、こういう話を「建前」と捉えてしまうかというと、こういう当たり前の対応によって、「人間関係が円滑になった」という体験を家庭内で、ほとんどしていないからなんです。
「ごめんなさい」「わかりません」「ありがとう」と口にすることで、身の回りの人間関係が好転していったという体験が非常に少ないのです。だから「ウソ臭く」感じるのですね。実感を持てないわけです。
しかし、ACではない家庭では、こういう言葉が、ごく普通に使われるわけです。だから実感として「必要なことだ」というのが分っているし、「大切だ」と経験則で身に付いているわけです。実感がある。
この、「実感がある」というのと「実感が持てない」という大きなギャップがあるがために、ACにも理解できる言葉として「機能する」という言い方が出てきたのだと思うのです。
「自分の行動や言動が、自分の幸せ達成や、身の回りの人間関係の好転に役立ちましたか? どうですか? どうせなら、役立つ行動をした方が良いですよね? 冷静に自分の行動・言動が自分の幸せ達成に対して効果があったかどうかをチェックしてみてくださいね。」
というのが「機能」という言葉の意味するところなんです。
普通の人間なら、「当たり前の挨拶を大切にする」とか言えば、それだけで「良いことだ」という実感があるわけですが、ACには、その実感がない。あっても弱い。
もちろん、「ごめんなさい」「わかりません」「ありがとう」というのは、ひとつの例として出してるだけで、そのほかにも色々なパターンがあって、ACは、それらの「機能するノウハウ」を、さまざまな分野において、たくさん学んでいかないといけないのです。(逆に言えば、学べば身に付くし、人間関係も円滑になって「必ず」好転するって事で、学びがいはすごくありますが。)
実際の話、ACが、これらの決まり文句を言うべき場面に遭遇した時に、どういう行動・言動をしがちかというと、
●間違った事をした時に「こういう考え方もある」と別の考え方を述べて言い逃れをする。
●知らない事でも「知ったかぶり」または「無視」して権威(自分の精神の安定)を保つ。
●ほめてもらっても「いえいえ、大したこと無い」と自己卑下する。(喜び・興奮の拒否)
という事が多いのです。
まぁ大抵は「心の痛みを感じないようにするための防護手段」なんですけど、子供の頃から「感じないようにする」ばっかりやってるから、「感じたときに、どう対応するべきなのか」がわからなくて、とにかく「感じずに済む」方法を選ぼうとしてしまうんですね。
僕自身がACだったので、このあたりの精神構造はよくわかるのですが、いろいろ学習する中で、たとえば
●ほめてもらったら「ありがとう」とよろこびを示す。
というのは、必要な事だと理解したので、意識して「ありがとうございます」と口にするようにしました。学習して身につけたということです。
仕事の上で「●●の評判、良かったですよ。」とか言われた場合、いつも「いえいえ、大したことはしてません」という謙遜した言い方をしていたのを、まず「ありがとうございます」とほめてもらった事に対する感謝の言葉を、真っ先に述べるようにしたんです。
この時、僕はACですから、そう言う事が当たり前だという「実感」もないですし、正しいという感覚もなかったんです。でも、いろいろ本などで知識を仕入れて、どうやら、そういう具合に口にすることが「機能する態度なのだろう」という予測はついたので、実際に試してみた、という事です。
そうしたらどうなったのか?
考えてもいなかった事が起こりました。まずひとつは気恥ずかしい思いでした。大したことしてないのに、ほめられて「ありがとうございます」と言ってる自分が面はゆいというか、気恥ずかしいのです。(幸せな、普通の人にはわからない感覚かもしれません。)
でも大事なのはその次で、次の瞬間に「ああ、でも、この人は本当に心からほめてくださってるんだ。ありがたいな。」という気持ちが湧いたのです。「ありがとう」と言うから「感謝の気持ち」をキチンと心から体験できたのです。言葉にあとから感情がくっついて、やっとこういう場合の「ありがとう」の感情を手に入れる事ができたわけです。
これを体験できただけでも大収穫ですよね?
でも、実は、まだまだ後が続きます。
そうやって、相手の方からのほめ言葉をキチンと受け取ると「ああ、そうか、少なくとも僕は、目の前のこの人からほめられる程度のキチンとした仕事はやり遂げているのだな。」という実感が生まれたのです。そういう「自信」が湧いたのです。
自信であり、自己肯定感であり、自尊心ですね。そういう思いが生まれたのです。
これは、ほめられたら反射的に「いえいえ…」と謙遜ばかりしていた時には感じることのできない体験でした。「ありがとうございます」と、相手に対して感謝するという事は、そのままストレートに自分の行動を認める行為になりまして、それは自分に感謝したのと同じ効果が生まれるんです。それを実感しました。
これもまた、本当に大きい気づきでした。
結局「いえいえ」と謙遜していたのは、AC特有の「感じるのが怖い」という恐怖心から、一番最初に訪れる「気恥ずかしさ」を回避していただけだったんですね。そこで「恥ずかしい思い」をするのが怖くて、それで「いえいえ」と謙遜していただけなんです。「感じる」ことから逃げていたわけです。
たしかに、大したことはしてないと思っていたから、「ありがとうございます」と言うのは気恥ずしいわけです。だから最初に「ありがとうございます」を言うというのは、小さな勇気は必要でしたが、でも、本当に、ただそれだけの事でした。
「感じない」ようにしていて、小さく閉じこもっているから、「気恥ずかしさ」の次にやってくる、本当の自尊心や感謝という大きな果実を味わえないわけです。
で、話はまだまだ続きまして、この「ありがとうございます」と、まず一言言うというのは、「いえいえ」と謙遜するより、実は手間のかからない簡単さがあるんですね。
考えたらわかりますが、「いえいえ…」と言い始めた限りは、「いかに大したことないか」というのを説明する手間が必要になるんです。どういうところが大したことないのか? というのを個別具体的な事例に沿って、微に入り細をうがち、「自分がいかに大したことをしていないか」を解説するという手間が絶対に必要になるんですね。
ところが、まず「ありがとうございます」と感謝の気持ちさえ述べてしまえば、そこでコミュニケーションの基本は済んでるわけです。だから、「いえいえ」と謙遜するのは、あくまでオプションで、どうしても言いたい、という気持ちが強い時にだけ言えば良いことになるわけです。
これに気付いたとき、いかに楽だったか。
逆に言えば、いままでひたすら謙遜していた作業が、いかに面倒で、手間で、その割に「機能」していなかったかが、はっきり分ったのであります。
つまり、「個別事情を語る」というのは、ものすごく手間で、その割に効果がない、「機能しない」という事なんです。まさに「機能不全」そのものです。でも、「感じないようにすること」を子供の頃から頑なに守っているACは、最初の「気恥ずかしさ」を感じるのを避けるがために、ものすごい労力を使って、「ありがとうと言えば良い」というルールから逃げるわけです。
もう、ムダの極みなんですね。
こういう類の「ルール」は、世の中にたくさんありますが、それはひとつずつ学んでいくしかないわけです。
しかも!!!
ACは、親から「機能している関係」を学んでいませんから、親が「ありがとう」とか「ごめんなさい」とかを言ってる場面に遭遇してなくて、それが実感として良いこととはとうてい思えないわけです。
それは「知らない」からなんですね。
体験してないからわからない。
でも!
ここで多くのACが間違うんです。「そういう時の『ありがとう』は実感を伴わないから偽物だ!」って感じの間違い方です。自分の実感がないから偽物で「お題目」と認識してしまう。
いやいやいやいや、いやいやいや。
それはね、あなたが「知らない」から実感がないだけで、でもって、「知らない」のだからこそ、学ばなければならない事柄なんですよ、と、すでに学習した私は言うわけです。
結局ACは、世の中に
●機能するルール
と、
●機能しないルール
が存在しているという事がわからないわけです。ACの親は肝心の「機能するルール」の簡単で便利で、深く自分の内面を育ててくれる「機能」の事を知りませんから、「機能しない」自分の身勝手を子供に押しつけてしまいます。
押しつけるどころか、それは「私が親なのだから、言うことを聞け」と権威で強制する拷問と化している事も多いわけです。「機能しないルール」を押しつけるわけですよ。
しかし、それは「機能するルール」が存在している、と言うことを知らないからなんですね。
で、子供の側は「機能しないルール」を押しつけられる事で「権威主義」が大嫌いになってます。だから、自分で納得できない「ルール」には徹底的に反発します。
確かに「機能しないルール」に反発するのは別に良いのですが、ACは「機能するルール」を体験した事がないので、「機能するルール」まで反発の対象にしてしまうんですね。
で、その時の言い分が「そんなルールを私は知らない。それは押しつけだ!」と言う言い方になるわけです。
しかし、子供の頃から「機能するルール」の「機能した体験」を持っていないACが、「機能するルール」を良いモノだと実感して受け入れるというのは、もう不可能に近いんですね。
ただ冷静に「機能するかどうか?」を判定した上で、「とにかく試してみる」とかをするしかない。
まぁ、ありていに言うなら「四の五の言わずにルールに従う」ってことを、とにかくやってみるしかないわけです。
だから、ACの現実として存在している「AC脱出のシナリオ」は、
●機能するルールを見つけて、それを学習して身につける。
しか存在してないわけです。しかも、その学習過程は、
●体験していない行動なので「実感」は伴わない。
んですよ。ここがACのハンデキャップであり、辛いところなんですが、こればっかりはしょうがないんです。「これだ!」と思ったやり方をコツコツ身につけるってことを、日々やり続ける。それ以外に道はないんです。
で、それをやっていくと、本当に「機能する」という事の快適さ、便利さ、気持ちよさ、幸福感というものが、どんどん味わえるようになっていくわけです。それはもう天と地の差です。
でも、ACは「感じないでおく世界」にとどまっている事が「自分の実感として正しい」と思い続けていて、それで「機能しない行動」ばかりを取るという事になるわけです。
で、悲しいのは、「親と違う行動を取っていれば、それは押しつけられたルールではなく、自分で選びとった自分らしいルールなのだから正しいのだ」と思いこんでるわけです。
いや、いやいやいや、いくら「自分らしい」と感じられても「機能しない行動」なら、意味はないし、そんなものを子供に押しつけたらダメですよってことなんですね。
そういう「自分勝手な自分らしさ」というような、正しいように見えて実は正しくない「機能しないルール」ではなくて、「ほめられたら、ありがとうと言う」とかの「正しいルール」というのを選び取らないといけない。
で、そういう「機能するルール」は存在していて、それを守らない限り、間違ったルールを押し通してる事にしかなってないんだよって事なんですね。
で、その間違ったルールを押し通してるから、子供に「正しいルール」を教えられなくて、ACが親から子へ遺伝のように伝わってしまうという、そういう構造なわけです。
個別には、自分の思いというのはあるし、謙遜のネタが全部個別的に違うのと同じように、個別にそれぞれ「思い」があるのも当然なんですけど、まず「ほめられたら、ありがとうと言う」というルールは、黄金のルールとして厳然と存在していて、それは守らない限り「機能しない」んですよ。
ところが、
●「機能するルール」と「機能しないルール」
の見分けもつかないACは「ルールはとにかく守って身につけるしかない」「四の五の言わずにやってみろ」とか言われると「機能しないルール」を押しつけられたようにしか感じられなくて、ひたすら反発します。少なくとも僕の知っているACまたはACとおぼしき人間、数人の反応は以下のようなものです。
・「私の知らない所に、私の知らない正しさがあるなんて信用できません。」
・「人の生き方に正解は無数にあるのだ」
・「誰かの意見が正しいからそれに従うなんて、一番つまらない人生だ。」
・「自分の生き方に正直に精一杯今を生きるのが大事」
・「その人のありのままは、まさに、ゆがんだ状態としてありのままなんだと思います。」
・「自分のルールを、他人は共有しちゃくれない。」(あたりまえです。でも、共有すべきルールは厳然としてあります。)
もう、見事に「機能しないルールへの反発」が先に来るんです。
「ルールを守ることで、自分の人生が開けて行くこと」というところに意識が行かない。
共有すべきルールをキチンと守らないと、結局、損するのは自分なんです。
で、それを知らない・実感できないのは、親もACだったから子供の頃に教えてもらえてなかった、というだけの話です。
で、それを知らなくてもなんとかやっていけるのは、身の回りにいる人がACだらけだからです。
とにかく大枠として、世の中には、
●機能するルール
と、
●機能しないルール
というものがあって、ACはえんえん、親子代々、「機能しないルール」ばかりを身につけてしまう、ということなんです。で、そしてそういう悲しい事が起きる理由は、ACが、
・「私の知らない所に、私の知らない正しさがあるなんて信用できません。」
・「人の生き方に正解は無数にあるのだ」
・「誰かの意見が正しいからそれに従うなんて、一番つまらない人生だ。」
・「自分の生き方に正直に精一杯今を生きるのが大事」
・「その人のありのままは、まさに、ゆがんだ状態としてありのままなんだと思います。」
・「自分のルールを、他人は共有しちゃくれない。」(共有すべきルールが見えてなくて、「押しつけを避ける」が先に来る。)
という間違った考え方に固執してるからなんです。
明確にそれは間違いで、それは正すより他に幸せになる方法はないんです。
単純にそれだけ。
機能しないものは機能しないのですよ。それは。いつまで経っても。
大事なのは、自分の「機能しないルール」をいったん横に置いて、「機能するルール」を試してみること。
それしかないんです。
で、この試行錯誤においては「自分の実感」であるとか、「自分の生き方」っていうのは全然通用しないわけです。
だっていままでそれで成功・機能してきた事がないんだから。それは絶対に無理なわけですよ。
で、こういう事を大前提に考えた時に、世界の文豪、トルストイの、以下の一言がすごい!と思ったのであります。
●幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである。
(トルストイ「アンナ・カレーニナ」)
すごい!!!!!
本当にすごい!
これ、まさにACの不幸をそのままに言い当てています。「ありがとう」の一言で済むところを、えんえん個別別個の「大したことない理由」を探し回る自己卑下の構造とか、完全にこれにあてはまります。幸せな人は、みんな、とってつけたように「ありがとうございます」としか言わない。仮に「大したことないですよ」と言ったとしても「ありがとうございます」と感謝した後にしか言わない。幸せな人はみんな一緒。
でも、不幸な人は「ありがとうございます」とは言わずに、いかに自分が大したことないかを一生懸命に考えて自己卑下する。確かに親と子の意見も自己卑下の理由も別個にオリジナルなものだったりするけど、「ありがとうございます」という「機能するルール」を守っていないという事では一緒。
まさに、
●幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである。
って事なんです。
(まぁ、こう書いた上でトルストイは「一様な幸福な家庭など描いても小説にならん。さまざまに異なる不幸な家庭を描く。」と言った人なんですけどね。トルストイもACくさい。いや、わかりませんけど。)
ともあれ、一番大きな構図として、世の中には
●機能するルール
と、
●機能しないルール
があって、ACは、
●「良いものだ」という実感がなくても、「機能するルール」を学ぶようにしなければ、幸せにはなれない。
という事だけははっきりしてるんです。
この部分こそが、ACのハンデキャップなんです。
「機能するルール」を実感持って感じ取れない。
ACのもっとも不幸な点です。
そして「機能するルール」と「機能しないルール」の区別が付かず、「押しつけられたルール」すべてに反発するという間違いを犯します。
重要なのは「機能するかどうか」なんです。その行動で人間関係が円滑化するかどうか。良くなるかも知れないと想定できるなら、たとえ実感がなかろうと、気恥ずかしい思いをするのがイヤだと思っても、経験も実感も無いことを試すことに恐怖や苦痛を感じても、とにかく試してみるしかないんです。
それ以外に方法はない。
現実問題、ほかに方法はない。
で、不幸なままでいるよりは、幸せを目指した方がよい。
大枠の大枠として、そういう事です。
別に不幸なままでいたいなら、それはそれで自由なんですけどね。
でも、それはハッキリと「不幸」なんです。
まぁ小説のネタにはなるだろうけど。
今回は、「一番大きな枠組み」について書きます。
最近わかった事は、
●ACの回りはACだらけ
であり、
●ACは、「全体枠組み」を理解してない
●ACは、機能するルールと機能しないルールの区別がつかない。
ということが、最も問題だと気付いたという事です。
それに加えて、ACの場合は、
●「権威」への過剰反応。
●実感のない行動を「学ぶ」困難。
という2つの「ハンデキャップ」があるというのが僕の意見なので、そのことについても書いておきます。
---------
まず、大きな構造の把握から考えていきましょう。
もともとAC(アダルト・チャイルド)とはAdult Child of Alcoholics(アルコール依存症家族で育った人)だったわけですが、その後、多くの不幸な親子関係に同様の状況が見られたと言うことで、
●Adult Child of Dysfunctional Family(機能不全家族で育った人)
というように呼び名が変ってきていますよね?
じゃあ、なんで「機能不全」って呼ばれるのよ? って事なんですね。
アルコール依存だけでなく、バクチ狂いだったり、子供との共依存だったり、さまざまな状況はあるけれど、この言葉はそれらを「機能してない家族」という呼び名でまとめてるわけです。ひっくるめて「機能していない」んです。
では。
「機能する」というのはどういう事か? 大事なのはここです。
「機能する」というのは「人間関係が円滑に機能する」って事なんですね。当然家族関係も人間関係ですし、家族関係こそが人間関係の基本ですから、ここが歪んでるとどんな人間関係も、円滑に回らないって事になる。
で、こここそが、一番大事なところなんですが、ACというのは、
●「機能する関係」を体験したことがない。
ってことなんですよ。人間関係が円滑に回る体験をしていない。
普通に「機能している親子」などであれば、ここでの「機能する」という事がどういう事なのか、すぐにわかる。親が子供のために稼いできたり、ご飯を用意したり、社会で生きていくための基本ノウハウを教えたりするってことです。
特に注意したいのは、社会で生きていくための基本ノウハウの部分ですね。これは「しつけ」と言い換えてもいいですが、ここでは分りやすく簡単に、
●間違った事をした時に「ごめんなさい」と謝る。
●知らない事を「わかりません」と素直に言う。
●ほめてもらったら「ありがとう」とよろこぶ。
という3つの言葉で代表させておきます。
「ごめんなさい」「わかりません」「ありがとう」という言葉を発するタイミングと使い方を日常で正しく「普通」に使うって事です。
こういう基本ができてないと、人間関係が円滑に回りません。通常、「機能している家族関係」では、これらは普通に行われています。機能する、というのは、そういう人間関係が円滑に回る、という事を示すわけです。
これらの対人行動は、分っている人には「何を当たり前の事を…」と思うような事なんですが、逆にACには、この「当たり前」の事が理解できないのです。
ここのところの溝はかなり大きいのです。
幸福な環境に育った人間は、こういう当たり前の話を書くと「そらそうやろ!当たり前ですがな。」と感じるのですが、ACだらけの機能不全家族で育つと、こういう当たり前のことを「単なる建前でしょ。」とか「とおりいっぺんの表面的な考え方だ」とか「絵に描いたような当たり前さがウソくさい」と捉えてしまうのです。
何故ACが、こういう話を「建前」と捉えてしまうかというと、こういう当たり前の対応によって、「人間関係が円滑になった」という体験を家庭内で、ほとんどしていないからなんです。
「ごめんなさい」「わかりません」「ありがとう」と口にすることで、身の回りの人間関係が好転していったという体験が非常に少ないのです。だから「ウソ臭く」感じるのですね。実感を持てないわけです。
しかし、ACではない家庭では、こういう言葉が、ごく普通に使われるわけです。だから実感として「必要なことだ」というのが分っているし、「大切だ」と経験則で身に付いているわけです。実感がある。
この、「実感がある」というのと「実感が持てない」という大きなギャップがあるがために、ACにも理解できる言葉として「機能する」という言い方が出てきたのだと思うのです。
「自分の行動や言動が、自分の幸せ達成や、身の回りの人間関係の好転に役立ちましたか? どうですか? どうせなら、役立つ行動をした方が良いですよね? 冷静に自分の行動・言動が自分の幸せ達成に対して効果があったかどうかをチェックしてみてくださいね。」
というのが「機能」という言葉の意味するところなんです。
普通の人間なら、「当たり前の挨拶を大切にする」とか言えば、それだけで「良いことだ」という実感があるわけですが、ACには、その実感がない。あっても弱い。
もちろん、「ごめんなさい」「わかりません」「ありがとう」というのは、ひとつの例として出してるだけで、そのほかにも色々なパターンがあって、ACは、それらの「機能するノウハウ」を、さまざまな分野において、たくさん学んでいかないといけないのです。(逆に言えば、学べば身に付くし、人間関係も円滑になって「必ず」好転するって事で、学びがいはすごくありますが。)
実際の話、ACが、これらの決まり文句を言うべき場面に遭遇した時に、どういう行動・言動をしがちかというと、
●間違った事をした時に「こういう考え方もある」と別の考え方を述べて言い逃れをする。
●知らない事でも「知ったかぶり」または「無視」して権威(自分の精神の安定)を保つ。
●ほめてもらっても「いえいえ、大したこと無い」と自己卑下する。(喜び・興奮の拒否)
という事が多いのです。
まぁ大抵は「心の痛みを感じないようにするための防護手段」なんですけど、子供の頃から「感じないようにする」ばっかりやってるから、「感じたときに、どう対応するべきなのか」がわからなくて、とにかく「感じずに済む」方法を選ぼうとしてしまうんですね。
僕自身がACだったので、このあたりの精神構造はよくわかるのですが、いろいろ学習する中で、たとえば
●ほめてもらったら「ありがとう」とよろこびを示す。
というのは、必要な事だと理解したので、意識して「ありがとうございます」と口にするようにしました。学習して身につけたということです。
仕事の上で「●●の評判、良かったですよ。」とか言われた場合、いつも「いえいえ、大したことはしてません」という謙遜した言い方をしていたのを、まず「ありがとうございます」とほめてもらった事に対する感謝の言葉を、真っ先に述べるようにしたんです。
この時、僕はACですから、そう言う事が当たり前だという「実感」もないですし、正しいという感覚もなかったんです。でも、いろいろ本などで知識を仕入れて、どうやら、そういう具合に口にすることが「機能する態度なのだろう」という予測はついたので、実際に試してみた、という事です。
そうしたらどうなったのか?
考えてもいなかった事が起こりました。まずひとつは気恥ずかしい思いでした。大したことしてないのに、ほめられて「ありがとうございます」と言ってる自分が面はゆいというか、気恥ずかしいのです。(幸せな、普通の人にはわからない感覚かもしれません。)
でも大事なのはその次で、次の瞬間に「ああ、でも、この人は本当に心からほめてくださってるんだ。ありがたいな。」という気持ちが湧いたのです。「ありがとう」と言うから「感謝の気持ち」をキチンと心から体験できたのです。言葉にあとから感情がくっついて、やっとこういう場合の「ありがとう」の感情を手に入れる事ができたわけです。
これを体験できただけでも大収穫ですよね?
でも、実は、まだまだ後が続きます。
そうやって、相手の方からのほめ言葉をキチンと受け取ると「ああ、そうか、少なくとも僕は、目の前のこの人からほめられる程度のキチンとした仕事はやり遂げているのだな。」という実感が生まれたのです。そういう「自信」が湧いたのです。
自信であり、自己肯定感であり、自尊心ですね。そういう思いが生まれたのです。
これは、ほめられたら反射的に「いえいえ…」と謙遜ばかりしていた時には感じることのできない体験でした。「ありがとうございます」と、相手に対して感謝するという事は、そのままストレートに自分の行動を認める行為になりまして、それは自分に感謝したのと同じ効果が生まれるんです。それを実感しました。
これもまた、本当に大きい気づきでした。
結局「いえいえ」と謙遜していたのは、AC特有の「感じるのが怖い」という恐怖心から、一番最初に訪れる「気恥ずかしさ」を回避していただけだったんですね。そこで「恥ずかしい思い」をするのが怖くて、それで「いえいえ」と謙遜していただけなんです。「感じる」ことから逃げていたわけです。
たしかに、大したことはしてないと思っていたから、「ありがとうございます」と言うのは気恥ずしいわけです。だから最初に「ありがとうございます」を言うというのは、小さな勇気は必要でしたが、でも、本当に、ただそれだけの事でした。
「感じない」ようにしていて、小さく閉じこもっているから、「気恥ずかしさ」の次にやってくる、本当の自尊心や感謝という大きな果実を味わえないわけです。
で、話はまだまだ続きまして、この「ありがとうございます」と、まず一言言うというのは、「いえいえ」と謙遜するより、実は手間のかからない簡単さがあるんですね。
考えたらわかりますが、「いえいえ…」と言い始めた限りは、「いかに大したことないか」というのを説明する手間が必要になるんです。どういうところが大したことないのか? というのを個別具体的な事例に沿って、微に入り細をうがち、「自分がいかに大したことをしていないか」を解説するという手間が絶対に必要になるんですね。
ところが、まず「ありがとうございます」と感謝の気持ちさえ述べてしまえば、そこでコミュニケーションの基本は済んでるわけです。だから、「いえいえ」と謙遜するのは、あくまでオプションで、どうしても言いたい、という気持ちが強い時にだけ言えば良いことになるわけです。
これに気付いたとき、いかに楽だったか。
逆に言えば、いままでひたすら謙遜していた作業が、いかに面倒で、手間で、その割に「機能」していなかったかが、はっきり分ったのであります。
つまり、「個別事情を語る」というのは、ものすごく手間で、その割に効果がない、「機能しない」という事なんです。まさに「機能不全」そのものです。でも、「感じないようにすること」を子供の頃から頑なに守っているACは、最初の「気恥ずかしさ」を感じるのを避けるがために、ものすごい労力を使って、「ありがとうと言えば良い」というルールから逃げるわけです。
もう、ムダの極みなんですね。
こういう類の「ルール」は、世の中にたくさんありますが、それはひとつずつ学んでいくしかないわけです。
しかも!!!
ACは、親から「機能している関係」を学んでいませんから、親が「ありがとう」とか「ごめんなさい」とかを言ってる場面に遭遇してなくて、それが実感として良いこととはとうてい思えないわけです。
それは「知らない」からなんですね。
体験してないからわからない。
でも!
ここで多くのACが間違うんです。「そういう時の『ありがとう』は実感を伴わないから偽物だ!」って感じの間違い方です。自分の実感がないから偽物で「お題目」と認識してしまう。
いやいやいやいや、いやいやいや。
それはね、あなたが「知らない」から実感がないだけで、でもって、「知らない」のだからこそ、学ばなければならない事柄なんですよ、と、すでに学習した私は言うわけです。
結局ACは、世の中に
●機能するルール
と、
●機能しないルール
が存在しているという事がわからないわけです。ACの親は肝心の「機能するルール」の簡単で便利で、深く自分の内面を育ててくれる「機能」の事を知りませんから、「機能しない」自分の身勝手を子供に押しつけてしまいます。
押しつけるどころか、それは「私が親なのだから、言うことを聞け」と権威で強制する拷問と化している事も多いわけです。「機能しないルール」を押しつけるわけですよ。
しかし、それは「機能するルール」が存在している、と言うことを知らないからなんですね。
で、子供の側は「機能しないルール」を押しつけられる事で「権威主義」が大嫌いになってます。だから、自分で納得できない「ルール」には徹底的に反発します。
確かに「機能しないルール」に反発するのは別に良いのですが、ACは「機能するルール」を体験した事がないので、「機能するルール」まで反発の対象にしてしまうんですね。
で、その時の言い分が「そんなルールを私は知らない。それは押しつけだ!」と言う言い方になるわけです。
しかし、子供の頃から「機能するルール」の「機能した体験」を持っていないACが、「機能するルール」を良いモノだと実感して受け入れるというのは、もう不可能に近いんですね。
ただ冷静に「機能するかどうか?」を判定した上で、「とにかく試してみる」とかをするしかない。
まぁ、ありていに言うなら「四の五の言わずにルールに従う」ってことを、とにかくやってみるしかないわけです。
だから、ACの現実として存在している「AC脱出のシナリオ」は、
●機能するルールを見つけて、それを学習して身につける。
しか存在してないわけです。しかも、その学習過程は、
●体験していない行動なので「実感」は伴わない。
んですよ。ここがACのハンデキャップであり、辛いところなんですが、こればっかりはしょうがないんです。「これだ!」と思ったやり方をコツコツ身につけるってことを、日々やり続ける。それ以外に道はないんです。
で、それをやっていくと、本当に「機能する」という事の快適さ、便利さ、気持ちよさ、幸福感というものが、どんどん味わえるようになっていくわけです。それはもう天と地の差です。
でも、ACは「感じないでおく世界」にとどまっている事が「自分の実感として正しい」と思い続けていて、それで「機能しない行動」ばかりを取るという事になるわけです。
で、悲しいのは、「親と違う行動を取っていれば、それは押しつけられたルールではなく、自分で選びとった自分らしいルールなのだから正しいのだ」と思いこんでるわけです。
いや、いやいやいや、いくら「自分らしい」と感じられても「機能しない行動」なら、意味はないし、そんなものを子供に押しつけたらダメですよってことなんですね。
そういう「自分勝手な自分らしさ」というような、正しいように見えて実は正しくない「機能しないルール」ではなくて、「ほめられたら、ありがとうと言う」とかの「正しいルール」というのを選び取らないといけない。
で、そういう「機能するルール」は存在していて、それを守らない限り、間違ったルールを押し通してる事にしかなってないんだよって事なんですね。
で、その間違ったルールを押し通してるから、子供に「正しいルール」を教えられなくて、ACが親から子へ遺伝のように伝わってしまうという、そういう構造なわけです。
個別には、自分の思いというのはあるし、謙遜のネタが全部個別的に違うのと同じように、個別にそれぞれ「思い」があるのも当然なんですけど、まず「ほめられたら、ありがとうと言う」というルールは、黄金のルールとして厳然と存在していて、それは守らない限り「機能しない」んですよ。
ところが、
●「機能するルール」と「機能しないルール」
の見分けもつかないACは「ルールはとにかく守って身につけるしかない」「四の五の言わずにやってみろ」とか言われると「機能しないルール」を押しつけられたようにしか感じられなくて、ひたすら反発します。少なくとも僕の知っているACまたはACとおぼしき人間、数人の反応は以下のようなものです。
・「私の知らない所に、私の知らない正しさがあるなんて信用できません。」
・「人の生き方に正解は無数にあるのだ」
・「誰かの意見が正しいからそれに従うなんて、一番つまらない人生だ。」
・「自分の生き方に正直に精一杯今を生きるのが大事」
・「その人のありのままは、まさに、ゆがんだ状態としてありのままなんだと思います。」
・「自分のルールを、他人は共有しちゃくれない。」(あたりまえです。でも、共有すべきルールは厳然としてあります。)
もう、見事に「機能しないルールへの反発」が先に来るんです。
「ルールを守ることで、自分の人生が開けて行くこと」というところに意識が行かない。
共有すべきルールをキチンと守らないと、結局、損するのは自分なんです。
で、それを知らない・実感できないのは、親もACだったから子供の頃に教えてもらえてなかった、というだけの話です。
で、それを知らなくてもなんとかやっていけるのは、身の回りにいる人がACだらけだからです。
とにかく大枠として、世の中には、
●機能するルール
と、
●機能しないルール
というものがあって、ACはえんえん、親子代々、「機能しないルール」ばかりを身につけてしまう、ということなんです。で、そしてそういう悲しい事が起きる理由は、ACが、
・「私の知らない所に、私の知らない正しさがあるなんて信用できません。」
・「人の生き方に正解は無数にあるのだ」
・「誰かの意見が正しいからそれに従うなんて、一番つまらない人生だ。」
・「自分の生き方に正直に精一杯今を生きるのが大事」
・「その人のありのままは、まさに、ゆがんだ状態としてありのままなんだと思います。」
・「自分のルールを、他人は共有しちゃくれない。」(共有すべきルールが見えてなくて、「押しつけを避ける」が先に来る。)
という間違った考え方に固執してるからなんです。
明確にそれは間違いで、それは正すより他に幸せになる方法はないんです。
単純にそれだけ。
機能しないものは機能しないのですよ。それは。いつまで経っても。
大事なのは、自分の「機能しないルール」をいったん横に置いて、「機能するルール」を試してみること。
それしかないんです。
で、この試行錯誤においては「自分の実感」であるとか、「自分の生き方」っていうのは全然通用しないわけです。
だっていままでそれで成功・機能してきた事がないんだから。それは絶対に無理なわけですよ。
で、こういう事を大前提に考えた時に、世界の文豪、トルストイの、以下の一言がすごい!と思ったのであります。
●幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである。
(トルストイ「アンナ・カレーニナ」)
すごい!!!!!
本当にすごい!
これ、まさにACの不幸をそのままに言い当てています。「ありがとう」の一言で済むところを、えんえん個別別個の「大したことない理由」を探し回る自己卑下の構造とか、完全にこれにあてはまります。幸せな人は、みんな、とってつけたように「ありがとうございます」としか言わない。仮に「大したことないですよ」と言ったとしても「ありがとうございます」と感謝した後にしか言わない。幸せな人はみんな一緒。
でも、不幸な人は「ありがとうございます」とは言わずに、いかに自分が大したことないかを一生懸命に考えて自己卑下する。確かに親と子の意見も自己卑下の理由も別個にオリジナルなものだったりするけど、「ありがとうございます」という「機能するルール」を守っていないという事では一緒。
まさに、
●幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである。
って事なんです。
(まぁ、こう書いた上でトルストイは「一様な幸福な家庭など描いても小説にならん。さまざまに異なる不幸な家庭を描く。」と言った人なんですけどね。トルストイもACくさい。いや、わかりませんけど。)
ともあれ、一番大きな構図として、世の中には
●機能するルール
と、
●機能しないルール
があって、ACは、
●「良いものだ」という実感がなくても、「機能するルール」を学ぶようにしなければ、幸せにはなれない。
という事だけははっきりしてるんです。
この部分こそが、ACのハンデキャップなんです。
「機能するルール」を実感持って感じ取れない。
ACのもっとも不幸な点です。
そして「機能するルール」と「機能しないルール」の区別が付かず、「押しつけられたルール」すべてに反発するという間違いを犯します。
重要なのは「機能するかどうか」なんです。その行動で人間関係が円滑化するかどうか。良くなるかも知れないと想定できるなら、たとえ実感がなかろうと、気恥ずかしい思いをするのがイヤだと思っても、経験も実感も無いことを試すことに恐怖や苦痛を感じても、とにかく試してみるしかないんです。
それ以外に方法はない。
現実問題、ほかに方法はない。
で、不幸なままでいるよりは、幸せを目指した方がよい。
大枠の大枠として、そういう事です。
別に不幸なままでいたいなら、それはそれで自由なんですけどね。
でも、それはハッキリと「不幸」なんです。
まぁ小説のネタにはなるだろうけど。
コメント
1個下の日記に、他者と自分のすべきことの違いを、書いておきました。
というか、この日記をふまえた上で、自分がすべきこと、かな。
「裸の王様」の記事では自分も新たに腑に落ちることがあったりして、こちらからも、ありがとう。です。
・・・これ、言う方も、言われる方も、慣れないと気恥ずかしいですよね。
褒め言葉を受け取ってもらえないと、言った方も寂しくなるし。
>「親と違う行動を取っていれば、それは押しつけられたルールではなく、自分で選びとった自分らしいルールなのだから正しいのだ」と思いこんでる
あ、これわかります。
自分の意思のようで、実は違うというか。
どこもでも親の支配がついてくる。
ホント、根深い。
石川結實さんというお医者さんが「ニンジン・リンゴジュースが体に良い」という事を言ってるんですね。
で、ACは、こういう情報を聞いたときの「リンゴを知らない人間」に相当します。
で、よくわからないままに推測で果実というのが理解できてオレンジを買ってくる。で、それを飲むし、子供にもそれを飲ませるわけです。この時点で「まちがい」なんですが「果実」というところだけ合っている。
で、飲まされた子供は「すっぱいからイヤ」「効果もない」と怒るわけですが、リンゴを見たことがないというのは同じだから「果実が良くてオレンジは間違いなのだからバナナだ!」と思うわけです。
で、困ったことに「バナナジュースを飲むのは自分らしいから正しい!」って言うわけです。
いやいやいや。問題は「リンゴとは何かを知らないってことよ」って僕はいつも言うんですけど、それはACからすると、親が「オレンジジュースが正しい!」と押しつけてきたのと同じようにしか感じないわけです。
で、ACはえんえん、ブドウジュース、パイナップルジュース、スイカジュースと「個性的な間違い」を世代を超えて続けてしまうって事でして。
まず「リンゴとはこれだ!」を知るしかないんですよ。で、それを知るためには、「バナナがおいしい」とか言ってても意味はないわけです。
まぁ辛いんですけどねぇ。こればっかりは学ぶ以外に道はないです。
(当然学ぶ過程でミスもしますが、そこはそれこそ「ごめんなさい」で乗り越えていくしかないわけですわ。)
改めて読み直させていただきました。
根本的に、なにか誤解をさせてしまったままなのかな、というのが見えてきたので、過去のすべてを通して、私が言いたかったことを、もういちど、短く、書いておきますね。
シゲさんが迷惑でしょうから、これを最後にしておきます。
−−−−−−−−−−−−−
自分が正しいルールをもっていても、それを、ゆがんだルールの持ち主である他人に押しつけることはできない。
それは、他者の人生への干渉になるから。
他者の人生に干渉してきたのは、ゆがんだルールをもった人たちのハズ。
それと同じことをして、ゆがんだルールの持ち主とのダンスを続けるのは、人生の時間の無駄ですよ、ということ。
こちらが自分の「正しい」ルールを主張するのは、いいです。
でも、その主張によって、他者の行動が変わることを、当然に期待してはいけない。
そこは、他者が自由にできる領域だから。
−−−−−−−−−−
この日記は、自分の精進について書かれてるとみました。
これを続ければ、いいんだと思います。
どうか、血縁的に近いからと言って、血縁の執着にとらわれないように。
ほんとうに、時間の無駄です。
ほんとうにしょうがないです。
でもまぁ、愚痴ぐらいは言いたいですよ。いや、ホント。
なっとく。
いろいろおせっかい、ごめんなさいね。
これって老婆心だなあ、すっかり老婆だなあ、と
反省してます。
愚痴ではあるんですが、「機能するか、しないか。」の文は自分でも過不足なく、わかりやすく書けたと思うんです。
で、ACの人には共有して損のない情報になったと思うんですね。
それもこれも、なんとかどん太さんにも理解してもらいたいと思って書いたからで、その意味ではどん太さんのおかげでもあります。
で、ここで書いた「機能する、しない」なんて事は、わかってる人からしたら馬鹿馬鹿しいくらい当たり前の話で、全然役に立たないと思うんですが、ACの人間にはかなり目ウロコの話だろうなと思うんです。
というか、「信じられない」とか「信じたくない」とかだと思う。どうも、僕の実感から言うと、こういう「機能する、しない」という観点から物事を考えてみたことのないACからは、ものすごいショックを伴う、天と地がひっくりかえるような、衝撃的な事実と感じるようなんですよ。
だから、「わかりたくない」になるのもしょうがないのかなぁ、しょうがないよねぇ、ってことになると思います。
まぁ、あれですね、ACの周りはACだらけだから、あんまり周りを刺激しないように、ゆるやかに伝えるだけは伝えるとかが良いかなと。そう思います。
ホント、驚天動地っていうような感じになるらしいんですよねぇ。
僕はステップを追って、順番に学習してきたので、「全体構図」が見えて「ああ、そうか!わかった!」ってなったんですが、そういうステップを経ずに、こういうエッセンスだけを伝えると、極端な抵抗に会ってしまうってことだと思います。
まぁ、そのあたりが「愚痴」なんですけどね。
はぁ、やれやれ。
ともかくご理解いただき感謝です。
ありがとうございました。
いえいえ、このお話は、もとより前提の上で、
「自他の境界構築」を次にどうぞ、というのを、
いいたかったの。
ここは、分かってもらえなかったみたいだけど、
自分でも書いたように、人は自分の速度でわかっていくものだから、
無理強いは禁物。
ただ、働きかけだけは、拒否せず、させてくれてありがとう。
いやいや、どん太さんのおっしゃりたいことは、多分僕は、100%理解できてると思いますよ。それこそ「ゆがんでいる事が、その人にとってのありのまま」であるのは、「その人にとって」は、正しい事であって、当人がそう思いたがっているのに、どうのこうのは言えないわけですから。
そうではなくて、ここでは個別事情は別にして「-(マイナス)を+(プラス)と勘違いしているのは間違いだ」という「一般論を明確にする」という事を、どうあっても守る立場でないといけないってことですよ。ウソでも公開の場ですからね。公開の場で「泥棒も悪いとは言えない」とか個別事情の話に入ってしまったら、それは「ケーススタディ」の話であって、「いやいや、泥棒は基本的にダメですよ。」って話に引き戻さないといけない。
なんで引き戻さないといけないかというと、「マイナスをプラスと勘違い」してる人も読むかも知れない公の場で、「マイナスをプラスと勘違いしてる人にとってはマイナスもプラスなんだよ」って言う言葉を不用意に使うと、「勘違いしている人」は単に増長して、「ほれみろ、マイナスもプラスなんだよ」と、いい気になるからです。
個別事情を語らない場所で、そういう各論の話を持ち出すと、歪んだ人は「確実に」「絶対に」「鬼の首を取ったように」、ほれみろ、マイナスだってプラスなんだ俺は間違ってないさ、と言うようになるんです。
だから、この場では「個別事情としてはどん太さんのおっしゃる通りですが、概論・総論としては間違いです。」と言うしかないんですよ。
ここは、そういう「自分がACなのに、気づけていない人」が、見る事もある、という事も、頭に入れていただきたいのです。
だから「概論」が重要なんです。
地図を見る時に東西南北をはっきりしないと読み間違うように、ここでは何が正しくて何が間違いかは、明確にしておかないとダメだと思ってます。
子供に善悪を教える勧善懲悪の物語と同じです。
まず概略として間違いは間違い。
歪んでいるものは、ただ歪んでいるだけであって、それが「ありのまま」であるはずはありませんし、それをわずかでも「それもまたありのままである」などと言ったら、「プラスはマイナスであり、マイナスはプラスでもあるのだから、どっちでもいいのだ」という価値相対主義にかこつけた「逃げ」の場を与えるだけになるのです。
だから「ゆがんだ人間にとってはゆがんでいる事もまた、ありのままです。」は明確に間違いなんです。
それは、正しく言うなら「ゆがんだ人間にとってはゆがんでいる事こそが『ありのまま』に感じられてしまうものだから、そこを刺激するのには非常に慎重にならざるを得ない。」と言い直すべきです。
そして、「とは言っても、ゆがみは歪みなので、歪んでいない方が明らかに幸せ感は得やすいのだ。」と明確に結論づけなければダメです。
この明確な結論づけなしに「ゆがんでいることがありのまま」という部分論だけを、公の場で発言するというのは、ちょっと失礼な言い方になりますが、大変無責任な言い方だ、という事になると思います。
ACの回りはACだらけですが、どん太さんのように自覚のあるACもいれば、自覚のないACもいる。そこまで「読者」として想定した上で発言しないと、仮に回復のチャンスがあるかもしれない人を逆戻りさせてしまうかもしれないのですよ。
そういう意味で、その「ゆがんでいる事もありのまま」という言い方だけで言い終わっている言い方は、大変無責任なんです。
で、そこを納得いただかない限りは、僕も「はい、そうですね」とはならないわけですよ。
間違っているものは間違っているのです。
まず原点の位置を明確にしないと、どこに行けば良いのかわからなくなります。
だから「ゆがんでいる事もありのまま」というのは、明確に間違いで、撤回していただかないと困るのです。
どうしても。
おわかりいただけるでしょうか?
え?
公開の場って?
もちろんご自分はまもっていいんです。
他者、つまり、ゆがんだ人に押しつけられない、ということ。
ゆがんだ人に、主張してもいい。
だけど、相手が自分の正しいルールに従うのが当然とは思っては行けない。
ここで、他者への影響を考えるのであったら、
逆の影響も考えないと行けない。
でも、ここは、あくまで個人の日記の場なので、
誤解する人への責任を、シゲさんがとるものでもない。
ここも、責任を取りすぎては行けない。
正しいものは正しい。
わたしは正しいという言葉は使いません。
健康なルールと、不健康なルールがあると思ってます。
正義を主張し出すと、正義こそ相対的なものなので、
どんどん混乱するから。
でもシゲさんが正しいということばをつかうのはかまわない。
>間違っているものは間違っているのです。
わたしはここで反論してません。
間違っているから直せ、と、いくら主張しても変わらない相手からは、離れて自己を保つべき、といってるんです。
シゲさんと対立してないですよ。
私はその先に、「不健康な人から離れた方がいいよ。
シゲさんがいってる『ゆがんでない』健康なルールを
もった人とのつきあいが、ずっとひろがるよ」
っていってるの。
あなたが一生懸命、説得しようとしてるところは、自分がうけるルールとしては、百も承知。
わたしがシゲさんにいいたいのは、そういう、ゆがんだ人とインボルブして、人生を浪費すると、あっとういまに、時間が経ってしまうよ。
今の人生で、どんどん先に進むには、健康な人とかかわらないともったいないよ。
ってこと。
ゆがんだ人は、まあ、変わらないです。
主張し続けても、時間がもったいない。
ただ、それについてすでにわかってるシゲさんは、もはやここでとどまるものではなくて、次のステージに行かないと。
健康な人だらけのコミュニケーションに。
そのためには、「近親者だから」とかの理由で、ゆがんだ人とストラグルしてては、もったいない。
ああ、健康か健康でないかという言い方はいいですね。それいただきましょう。今後できるだけ、その言い方を真似たいと思います。
それと、日記はオープンな場所だし、対話は大切と思うのでコメント欄もオープンにしてます。なので、いちおう公開の場です。
で、近親者もたぶん見てるって事です。
まぁこんな長くなったコメント欄までは見ないでしょうが。(笑)
で、ストラグルするつもりはないですけど、覗いて逆らった反応とかされる事もあるわけです。とても不健康な事とかね。そこで「なんでそんなに不健康やねん」とイラっと来てしまうというのがあるわけですよ。
そうなるとイラっと来た自分を鎮めるのに、また論理的に正しい事を書いて、自分を整えるって作業が必要になって、それがこの日記ってことです。
だから、この日記で書いてる内容は、「ストラグルしないで、自分の回復過程をオープンにして、おなじく自分がACと気付いてる人と気づきを共有しつつ、自己回復をめざす」というような位置づけです。
ようは、歪んだ人と距離を適切に保つために書いてるわけです。
歪みというのは「基準」がありませんから、どこまでも歪んでいきますしね。また、自他の区別もつかないので、平気で自分のゆがんだ発想を押しつけてきたりするわけですよ。
で、これが他人なら、あまり悪影響も受けないのですが、それなりに環境が一緒だったりすると、けっこう引っ張られるわけです。不健康な方に。
だからなおさら「こっちが正しい道じゃー」と叫ばなければならなくなるわけですよ。
人生の浪費を抑えて、自分の心の調整過程を回復したいと思っているACの方と共有することで、有用化しつつ浪費を最小限化する方法とでもいいましょうか。
それが、ここで書いてる日記なんです。
説得するためなら、直接メールを出しますよ。直接言ってもダメだから、自分の内部の混乱を整理して吐きだしているってことです。
まぁ、そういう意味で言うと「愚痴」でしかないとも言えますが。
なるほどね。
よくわかりました。
不健康なルールの持ち主と物理的に近いというのは、やっかいですね。
物理的に離れるのが難しいとしたら、ぜひぜひ、気持ち(興味関心含め)だけでも、離れてあげてくださいね。
自分の貴重な人生の時間のために。
おわかりいただけたようで。
●ACの回りはACだらけ
というのは、本当に大変なんだと思うんですよ。ACと気付いて、やっと前向きに考えるとはどういう事か分ってきているところなのに、気付いてないACに後ろ向きに引っ張られるわけですから。
そこからいかに脱していくかを考えると、自分で意識して「どうあっても健康な選択を、意識的に選び取って行くのだ!」という強い意志がないとしんどい。
ところが、その意志を邪魔されるわけですからね。不健康な考え方はやめてくれ!ってなりますよ。それは。
ま、そんなことです。
私としては、「物理的に離れる」というのが、いちばん簡単だと思います。
具体的にはいちばん難しいのかも知れませんが。
そして、どうか、ゆがんだ人間との接触時間を短く短くしてください。頭で思い浮かべてる時間も含めて。
でないと、ほんとにもったいないです。
ゆがんだ人間とつきあえる人間を、健康な人間は「つきあいたい人間」とはなかなか思いません。
自分の人間関係の中ににゆがんでない人間を増やしたいと思ったら、どうしても影響をうけて(たとえば怒る)しまう、ゆがんだ人間との接触を、減らしていくしかないんです。
そのためにも「あれは他者で、自分は彼の改善に関与できない」という思いは、少なくとも私には有効でした。
他者の自主性を尊重する、ということは、たとえ相手がゆがんだ人間であっても、健康な人間で有れば、とる態度です。
わたしははじめ、それをつたえたくて書いたのですが、いろいろ誤解を生んでしまったようですね。
ですから、「ゆがんだ人間とは離れる」という、基本だけ、この「公開の場」(byシゲさん)に甘えて、ここに最後に書かせてください。
それは「まだ気付いていないACが気付く可能性」をどう捉えるかです。
大抵は、それは非常に難しいんです。
でも、少なくともボクは気付けたわけだから、相手にも気付ける可能性はある。なので「100%気付けない」とはしないんです。そこを「無理」と言い切ると「気付くことのできた自分自身の否定」になってしまって論理矛盾しますから。
だから、ここで書いてることも「気付くためのヒント」にはなるようにしてるわけです。
あと「公開の場」というのは言わずもがなですよ。検索サイトから覗きに来てる人がとても多いですから。ACとかアダルトチャイルドとか、そういうキーワードで飛んでくる人ばっかりです。
だからこそ5分の可能性は残しておかないといけない。それをムダとするわけにはいかないと思います。
それに、この程度の日記を書くだけなら、さほどの手間でもないわけですから。
なので「歪んだ人間とは離れる。けれどヒントは残しておく。」です。
で、ヒントを残す限り、子供にもわかるように「正しい・正しくない」を明確に書いておかないといけなくて、そのためには「ゆがんでいるのもありのまま」なんて話を書くと、「気づけていない人」は、ただ混乱するだけなのだ、という事です。
他者への関与は出来なくても、自己肯定(私は気づけた、だから相手にも気づける可能性はある)としてのアサーティブネスはあって良いはずですよ。
それがボクはまっとうに健康な態度だと思うし、「ゆがんでいるのもありのまま」とするのは自分の歪みを肯定しているだけの不健康さがあると思います。
単純明快にわかりやすく、「ゆがんでいるものは歪んでいる。それは単純に不健康なだけ」で良いし、そうしないと誰にも伝わらないですよ。伝わらない言葉に意味はないです。
というか、「主張すべきはする」というのを、もうしあげてたはず。
だいじなのは、その相手の気づきを、「起こすのが当然」と、気づきをおしつけないこと。
気づくかどうかの判断は、相手にゆだねること、です。
「こちらの正しいルール」を、相手におしつけるのと、
相手の処分権(好きにする権利)をみとめて、こちらの
言い分だけはいうのとは、別だよ、と、ここにだめ押しで書いておくのも、「気づいてない方」にとっても有用だ、ということでしょうね。
正しいものは正しいんだ!と主張するだけだと、
相手の自主性を尊重するという健全なルールからはみでた行いが正しいルールなのか?と混乱する方もいるかもしれないから。
>他者への関与は出来なくても
他者に関与はしていいんですよ。
離れる、といっても、心理的に離れればいいんです。
できるなら。
それができないなら、物理的に離れるしかないけど。
心理的に離れたとき、相手のゆがんだ行動で、怒るという反応も、出なくなります。
相手に「相手がこっちのルールにのってくるかも」という期待をしなくなるから。
その状態で、相手がこっちのルールにのってくるから、万々歳の大ラッキー、ですね。
>単純明快にわかりやすく、「ゆがんでいるものは歪んでいる。それは単純に不健康なだけ」で良いし
私もここはいいと思います。
ただ、その先に、あんたもただしいルールに従えよ、あんたおかしいよ、という反応を、自分が起こしてないか、自省する必要はあるよね、ということなんです。
シゲさんが前に書いていた、ゆがんだルールの人とのやりとりで、怒る、というのは、そうやってでてきた反応だと思うから。
シゲさんがいってる事象の、先なのよ。