5月4日に書いた「裸の王様のすべきこと」のその1・その2とも、なぜかとても反応をいただきまして、いくつかコメントをいただいたわけですが、その中でいろいろ実感できた気づきがいくつかありましたので、シェアする気持ちで書きますね。

ひとつは、AC(アダルトチルドレン)と気付いた人の多くが身の回りのACとの関係にけっこうとまどっているって事ですね。

で、これは考えたらものすごく当たり前の事だと思い至りました。
まず基本、親子関係のゆがみの中で育っていて、それが成長過程で「あるべき姿」に気付くわけですから、ようはそれまで気付いていなかった「ゆがみ」に気付いていく過程がACからの脱出プロセスなんだってことです。

だから、自分がACであると気付いた途端に、身の回りの関係のいくつもが「ヘンだ!」「気持ち悪い!」ってなるのは至極当然だったのですわ。

親子関係、兄弟関係、友人関係。ACであった人間は、すべての人間関係に、その「ゆがみ」を反映させ続けてきてるわけです。それはひっくり返して言えば「回りみんなが気付いてないAC」って事ですね。

このあたりは、考えたら当たり前の事なんですわ。

で、この「気づき」というのは、人それぞれでタイミングも違うし、学んでいる過程も違うのだから、それこそ「時が薬」で、待つ事を学ぶとかするしかないんでしょう、きっと。

で、学べない人はどうしても学べないから、それはもう距離を置くしかない。単純にそうするしか他に道はないってことでしょう。

整理すると、

●ACの回りはACだらけである
●回りのACの気づきは手伝っても良いが大抵は難しい。
●回りのACの気づきは当人まかせにするのが基本。
●あまり回りのACに関わると自分の成長が引き戻される。
●学べない人は学べないのだと受け入れる。

という事になるだろうなと思います。
当然、学べない人とは疎遠になるしかないわけですが、それはもう仕方ないですね。

自分がACだと気付いた人は、たぶん、みんな相当に苦労してるんやなぁと思いました。お疲れ様です。>みなさま。

で、そういう状況の中で陶子さんがコメントしてくださった、以下の文章が僕としては、とても大きな気づきになりました。

>「裸であることを気付かない愚かな自分」=「ありのままの自分(←ここですでに勘違い)」

という一行です。

「ああ、そうか!」と、改めて気付き直したという感じです。ACは、いろいろ自分の感情をごまかして生きていて、いろいろゆがみがあるわけですけど、その「ゆがんでいる状態」を「ありのままだ」と思いたいわけですよね。

いまにして思えば、確かに自分もかつてそうだったんだと思い直せるのですが、変化の過程で、そんなアホな思いこみは真っ先に捨ててしまったので、そういう勘違いを抱いているという事すら忘れてしまっていたのでした。

ACだと身の回りに歪んだ人間関係しか存在してないので、「ゆがんでるのが”ありのまま”だと認識してしまってるのですね。

でも、それは完璧に間違いで、「ゆがんでない人間関係の方が健全で、その方が気持ちも良いし、人生のすべての面において有益である。」という事なんです。まぁ当たり前の話ですが。

でも、こういう事を書いても、歪みのまっただ中にいてる人間は自分の人間関係に対する歪んだ感覚が「歪んでいる」とは気づけないわけです。
当たり前で、健全で、健康な関係を敵視するというか、健全さに嘘っぱちさを感じてしまうわけです。(ここがすでに歪んでるんですが。笑)

でも、確かに自分もそうだったよなぁって思うのですね。

じゃぁ、この歪みの矛盾を、僕自身がどうやって克服してきたのかなぁ…って事を振り返ると、いまにして思えば、ものすごく基本の基本からやり直してるわけです。

それはいったい何か? というと、「喜怒哀楽を味わう」ってことなんですね。

人間は生きている訳ですから、喜怒哀楽という感情が湧いてくるのが当たり前なんです。

だから、まずこれを、ゆったりと味わう事が「生きる」上での一番の基礎なんです。

人によったら「何を当たり前の事を書いてるねん」と思われる方もおられるかもしれませんが、ACというのは、実は、まずこの基本中の基本である「喜怒哀楽を味わう」というところが歪んでしまってることが多いんですね。

それこそ、「喜怒哀楽をありのままに味わう」という事が、まず出来てなかったりするんです。

たとえば、僕の場合だと、好意を持ってくれてる女の子の感情に気付かなかったとかですね。
まぁ一般的に「鈍感」とか言いますけど、ACの鈍感は天然の鈍感とはちょっと違っていて「気付いているのに気付きたくない」という、歪んだものになります。
気付くこと自体が怖いんですね。気付くは傷つくの第一段階でもあるから。

でも、しかし、そんな事してたら、人生はいつまで経っても始まらないって事になります。

で、まぁ、いろいろな過程は経ましたが、最終的に僕がたどり着いたのは「人生というものは喜怒哀楽を味わうためにあるものだ」という事で、それを自然に味わう事こそが人生の意味なんだって事な訳です。

傷つく事を恐れていて、人生を前に進める事はできない、って事です。当たり前なんだけど。
こういう基本の基本のところを、少なくとも僕は時間をかけて、ていねいに学んでいったし、その結果、自分がACであるという事も受け入れられるようになったんだよな、と、その過程全体を思い起こしたわけです。

で、裸の王様の話にもどりますが、裸の王様をやってる人間は、自分が裸の王様であることに気付きたくないわけです。

それはなんで気付きたくないかというと、気付いたら恥ずかしい想いをして、自分の心が痛むからですね。

自分の心を痛ませたくない。

だから、痛みを感じないようにする。

という事で「感じているのに感じていないことにする」とか「感じてはいけない」みたいな事を、えんえんやってるんですね。ACは。

しかし、現実は「痛みを感じる事が人生である」わけです。歩いていれば転ぶこともあるし、転んだらすりむくし、すりむいたら痛い。当たり前のことです。でも、すりむいて痛いから、歩かないでおく、なんてことはできない。なんせ人間は生きているから。

結局、痛みは進んで受け入れて、感じていくしかないんだと、ここは現実を受け入れるしかないんですね。痛みを味わう事も人生なのだから。

もちろん、痛みを感じずに成長できれば、それに越したことはないんだろうけど、小さな痛みを、まず受け入れて始めて、大きな痛みを感じなくて済むように「学習」できるという事が人生には付きものなので、やはり小さな痛みは受け入れるようにしないと、それは学べないわけです。

どんな痛みでもそうですが、痛みから逃げていると、どんどん痛みは深く大きくなって根治の難しい根腐れ状態になってしまいます。

ちゃんと痛みを味わえば「痛いなぁ、なんとかならんかなぁ」と思って、ちゃんと「手当」することを学びます。痛いのに「痛くない」などと歪んだままだと、まずこの「手当をする」という事ができない。

たとえば僕は最近はウクレレを趣味として心の安定を図ってますけど、これも、いくつも痛みを味わったからこそなわけですよ。「痛いのは辛いなぁ」と思うから、それを癒す「手当」の手段を得たわけです。だからこそウクレレが大好きなんですね。

これ、「痛みを味わう」という過程無しには、ここに至る事はなかったと思います。

で、痛みを怖がっていた間は、「痛みは癒える」という事がわからない。それを知らないわけです。

ウクレレの練習でもそうですが、学ぶという事は、自分の失敗を、失敗としてちゃんと認識して、そこを修正していく過程の事を言います。

こんなものね、初心者の間は失敗ばっかりですから、それこそ「痛み」の連続なわけですよ。

でも、まず最初に「自分の失敗を受け入れて味わう」という事をしない限り、傷は癒えないわけです。
これは、少し離れてロングスパンで見てみれば「自分の失敗を受け入れる、許す」という事な訳です。

つまり、
「痛みを味わう」=「自分を許す」
という事になります。

まず、これ。
これができないとダメなんです。
成長はない。

つまり「痛みから逃げてはいけない」なんですね。
「痛みとは人生の意味である。味わえ。」なんですね。

これが基本の基本なんです。
まず基本。

ところがACは、子供の頃に親との関係で、どこかで「感じてはいけない」という刷り込みがされてることが多いから、「痛みを感じて、やがてそれが癒えていく」という自然なプロセスを、受け入れないようにしていたりするんです。

いや、それは不自然やろ。物事の道理に反する。

って思うんだけど、そういう風に条件付けができてしまってるんだからしょうがないよねぇ。

だから「あんた、裸だよ」とか指摘しようものなら、全力で否定しにかかってくる。ようするに「痛みを感じないように」しようとするわけです。

いや、「感じないようにする」って事そのものが不自然だから、それ。

でもACは、その「感じる」って事すら「感じないように」していて、「感じない」=「ありのまま」だと勘違いしてるわけですからね。

これはかなり重症なんですよねぇ。

一番唖然とするのは、こっちが「あんた裸じゃん」と指摘したら、指摘されて恥ずかしい思い=痛みを感じさせられたから、「暴力をふるわれた」と言われた時ですね。

なんじゃそりゃ。

「わ、恥ずかし!」とか気付いて自分の間違いを修正していくのは、人生の成長には欠かせない事だから、有益だと思って伝えているのに「恥ずかしい=痛い思い」を感じさせるから暴力だ!と言われた日にゃ、唖然とするしかないんですけど、ACは感じる事自体を抑制してるから、こういう事になってしまうんですね。

でもねぇ。

まぁ、あれです。「喜怒哀楽を味わう」という、基本の基本もやってないなら、そら「痛い思いをさせた=極悪人」にもなるわなぁと。

生きていたら、気持ちよさを感じるのと同時に、辛さや悲しさも、キチンと感じていかないとダメなんだけど、自分に都合のいい感情だけ味わおうとか甘い事考えたりしてるんだろうなぁ。

痛い思いをするからこそ「二度とあの痛みは味あわないようにしよう」と注意深く、深みのある、回りに安心感を与えられる人間に成長できるわけで、痛みから逃げてる人はずっと小物のままですわねぇ。

まぁ、それも生き方なのかもしれないから、ほっておくしかないわけですが、手間はかかっても、基本の基本、「すべての感情をキチンと味わう事の必要性」あたりから、やり直してもらうしかないですわなと。

そういう、ステップの長さというか、学習の段階の違いみたいな事を感じた、という事ですね。

ということで、

●「裸であることを気付かない愚かな自分」=「ありのままの自分」

なんて、完璧な間違いなんですけど、それが間違いであると気づけないんだからしょうがないですわね。

で、恐ろしい事に、こういう勘違いをしてる人は、「気づけない愚かさ」をこそ愛してくれ、それこそ愛だ、とか言う、とんでもない勘違いをしてたりするんですよねぇ。

いやー、それは「心の病気をうつしたい」というとんでもない暴力だから、さすがに逃げるしかないよー。って言うしかないんだけどねぇ。

痛いものは痛い、でも痛みは癒える、という自然で当たり前の感覚の中にいたら、そんな「感じないようにしている裸の王様になれ」なんて命令は聞けないですわね。あまりに不自然で。

「一生おしっこするな」

と言ってるに等しい。
でも、「感じないようにすることが、ありのままである」と思ってる人は「気づけない愚かさを愛してくれ」とかいうとんでもない事を平気で言うのよなぁ。

いや、それは無理ですから。
服を着てなかったら寒いと感じるのが当たり前ですから。
感じなさいって。
いやほんと。

まぁ、そういう気づきを、いろいろとみなさまからはいただきました。ほんと、ありがとうございますです。
こういう事が整理して理解できたので、イライラが相当に減りましたわよ。私は。ほんと、みなさまのおかげであります。

同じような事柄でイラついてる方も多いと思うので(ACと気付いた人の回りはACだらけの法則がありますからな。)、この気づきをシェアできれば幸いかと思いましたです。

ということで。

コメント

T子
T子
2007年5月10日11:23

こんにちは。

「感じないようにすることが、ありのままである」と思ってる人は「気づけない愚かさを愛してくれ」とかいうとんでもない事を平気で言うのよなぁ。

朝から、うわーって叫んでしまいました。
頭が痛くなります。
目が覚めるような文章、ありがとうございます。
とりとめもない感想ですが、
ほんま、ありがとうございます。

どん太
どん太
2007年5月10日15:58

>、「感じないようにすることが、ありのままである」と思ってる人は「気づけない愚かさを愛してくれ」とかいうとんでもない事を平気で言うのよなぁ。

でも、愛さないことはできますよ。
愛情を持つことを強制されてる訳じゃないんだから。
愛って、自然に湧くものです。
ある関係(親子、友達)にあるから、当然に愛を要求できる、というのは、おかしいでしょうね。

それと、「ゆがんでいる自分」=「ありのままの自分」
なのは、まさにその人の、その時点のありのまま、
なわけですよね。
勘違いというのはそれとしても。
だから、「今のゆがんでいるままでは愛せない」
「気づいて欲しい、そのうえで、もっと意味のある人生を歩ける人になって欲しい」と願うのは、大事な愛の形だと思います。
それを、今度はゆがんでる側の人間が、受け入れる度量があるかどうか。

ないわけですね。

私はそのときは、それ以上やっきになって、相手を変えようとするのは、こちらのバウンダリ構築の悪さの現れであって、愛でも何でもない、執着だと思います。

伝えるべきは誠意を持って伝えて、それをうけいれるか否かは、相手に任せます。

相手が受け入れる力がないのであれば、その時点で相手のことを祈りつつ、去るか。
相手に押しつけないまでも、自分も妥協せず、関係を続けるか。
(たいていあいてはこちらを非難してきますが)
私は両刀だてで臨んでます。
親には。

どん太
どん太
2007年5月10日16:01

それと、別の話ですが。。。。

「喜怒哀楽」まさにその通りです。

まえ、怒りは無用とかかれていたと思うけど、
私そのときは、何もいいませんでした。

怒りも、人間が持つ自然な感情です。
これを自覚することはとても大事。

それを、如何に相手に表現するかがまた別の重大な問題をはらんでいる、というだけです。

どん太
どん太
2007年5月10日16:05

相手の人生に干渉したい、という欲求は、相手への愛とも違う、自分の側の必要(ニード)なんだと思います。

私も昔は、相手に図星をさしたくて、指された方が相手のためだろうと思って、ずいぶんトラブル起こしました。

でも、相手の人生を変えたいのは、共依存症者と同じ、「自分の人生をお留守にしちゃってる」姿なのかも知れないと、自戒しないとね。

シゲ
シゲ
2007年5月10日17:46

>T子さん
ここで書いた事は僕なりの整理であって、「愚かさを愛してくれ」というのは「裸の王様のすべきこと1/2」のコメント欄で陶子さんが指摘してくださったことです。そちらのコメント欄も読んでください。

>どん太さん。
もう、お説ごもっとも。その通りです。
追加して補足しておくと、「言うべきは言う」というのはやっぱりやらないとダメだと思います。ただ、自分でも「なるほど」と思える説明ができない時にイライラが増すんですね。

で、今回は、「あ、そうか!」という気付きが大きかったんです。

「怒りをなくす」という事に関する話もそれに付随します。いままでは「理不尽な事をされると、怒りの持って行き場がなくて、どうして良いかわからない」という種類の怒りが湧いていたわけです。

これはなかなか収まらないので困ります。で、抑圧すると体に悪いので「それは腹が立つ」というのだけは伝えないと収まらなかったわけです。

しかし、相手に受け取る能力がない場合は、「腹が立つ」だけ伝えても意味がないんですね。

で、今回で分かったのは、「なぜ腹が立ったのか」とか、「どういう精神構造で、相手はそんな理不尽な事をしたのか」とかが、自分なりに分かれば、少なくともこちらの怒りは相当静まるなぁという事でした。

抑圧するのではなくて、キチンと味わって、なおかつ怒りそのものはプラスの機能はまるでないのだから、できるだけ早く収束するように自己コントロールをする、という方向性が大事なんだろうと思えてきました。それが「なくす」という事ですね。

で、その「なくす」方法の有効手段として、相手の精神構造の把握、というのが役に立つと言うことだと思います。

「ゆがみ」を「こそ」、「ありのまま」と信じ切っているという構造がはっきりと透けて見えた事で、少なくとも僕は怒りの相当大きな部分が消えてなくなったように思います。

概略そういう事ですね。

これで怒りが減ったからこそ、心おきなく自分の人生を生きていく事ができる、というような事でしょうか。
怒りがくすぶっていると、自分の人生への集中というのも集中度が少し下がってしまうって感じがあるわけです。それは。

そういう意味で、相手が気付いてくれないっていうのは、すごく迷惑で、自分の目の前の邪魔な石を取り除くために「相手を変えたい」とか思ってしまうわけですけど、まぁ、それもこっちの勝手ですわね。裸の王様のままでいたいなら、そのままいてればいいよ、としか言えない。

あと、ゆがんでるままでは愛せないっていうのはしょうがないんじゃないでしょうかねぇ。歪みを愛してしまうと、自分の回復過程に支障を来しますからねぇ。完全な人間なんていないのであって、そこまでの事は、少なくとも僕には無理です。

で、ゆがんでるのはやっぱり、おおざっぱに見て「ありのままではない」と判定する方が健全だと思いますよ。

「その時点でのありのまま」っていうのは単純に詭弁ですよ。っていうか、そこは「詭弁です」としておかないと、心の問題がやたら複雑になるだけで、前向きなメリットは一切無いと僕は思いますけどね。

「それは詭弁だ」と概略としてははっきりさせておくべきでしょう。
それは「怒りはなくすべきだ」というのと同じです。味わった後には「不要な感情なのだから、できるだけ早くなくすべき」って事は変わらないんですから。

この辺の総論と各論をごっちゃにしてしまうと、それこそ各論を隠れ蓑にして「ゆがんだままで良いのだ」と逃げを打つ道ができてしまいますから。
各論としては「あり」でも、総論としては「なし」ですよ、それは、やっぱり。

で、こういう公の場だと総論がまず大事って事になると思います。

どん太
どん太
2007年5月10日19:25

なにか、愛とは「ありのままを愛すること」と思ってるというのが前提なのかな。

その人のありのままは、まさに、ゆがんだ状態としてありのままなんだと思います。

そして、その「あり方」は、愛せないし、許せない。
それが当然。
関わる以上は、「変えて欲しい」と伝えることが愛ですよね。

ありのままを愛する、というのは、おかしいです。
その人の「存在=あること」を愛するのが、愛なんだから。
「存在してくれることを喜ぶ」という愛と、ある特定のあり方であることを愛するのは、別でしょう。
存在を喜びながら、今の行き方は受け入れがたい、と思うことは、両立する別事象だと思います。

でも、私は残念ながら、親に「生きていてくれてありがとう」という気持ちも、あんまり強くはもたなくなってしまったなあ。
あまりにも「変わって欲しい」と願い続け、執拗に求めすぎて、それでも変わらない彼女に、失望してしまったから。

こういう関わり方は、よろしくないなあと思います。

どん太
どん太
2007年5月10日19:33

怒りは、無駄なものではないですよ。
悪いばっかりのものでもないです。

でも、ゆがんだ連中に対して抱く、理由のわからない怒りは、シゲさんのおっしゃるとおり、相手の思考過程とそのゆがみ方を理解すれば、あんまり怒り自体が、起きなくなりますね。
私も、ゆがんだ人間で私に一番近い人間である母に、怒りは湧きません。すでに。

でもそれは、「なくす」というより、リーズナブルな部分だけに解消される、ということでしょうね。

もっとひろく、怒り一般は、悪いこと一方ではないです。
怒り故に生命活動が賦活されることもありますから。
水俣病の活動家なんて、じつにそんな感じだったみたい。
イレギュラーな反応ですけどね
また、ある種の職業の人は、この「怒り」を実にうまく「使って」います。
法廷に立つ弁護士もそうだろうな。

要は、自分の感情の受け取り方、対応の仕方、でしょう。
感情におぼれずコントロールされず、メタな対応ができているかどうか。

ただ、人生の達人は、怒る必然性がぐっと少ないので、結果として、怒らないですよね。
悲しまない。
悩まない。
その必要がないから。

ネガティブで、一般的には生命力を落とす方向に働く感情を、あまりかかえない人生になっている。

そうなるのは、シゲさんが書かれたような、他者のあり方への理解も必要だし、なにより、自分自身は他者がどうであっても揺るがない、その「在り方」があるからこそ、だと思います。

シゲ
シゲ
2007年5月10日20:22

>どん太さん
ひとつ書き忘れてたのですが、怒りに関しては、
●社会正義としての怒り
は、重要だと思っています。

ここにはスパイダーマンじゃないけど、「大いなる力を持つ者には、大いなる責任が伴う」という大前提があります。
まぁ、すごくアメリカ的な考え方ですけど、競争社会になるとNo1が出てくる。そのNo1には社会的責任を果たす義務がある。
しかし、No1をこらしめる力を持つ強い企業等は少ない。だから一般人が常にNo1を監視し、社会正義としての怒りをぶつける。
こういう構図は絶対に必要なものですし、今後ますます重要になると思います。

その意味では、社会正義に反する事をした友人などに対して、心からの正義の心で叱りつけるというのは、まったく間違ったことではなく、逆に愛にあふれた行為でしょう。

が、しかしまぁ、そうやって叱りつけたときに「暴力だ」とか言われるわけでねぇ。

トホホホ。
ヘナヘナってなってしまう。
なんじゃそりゃって。
まぁうちの場合は親でなく、兄弟ですが。
やれやれ。

で、そういう相手に理解能力が無いときの怒りなんて、これはまぁ、いくら言っても意味ないからムダでしょうな。
そういう事です。

T子
T子
2007年5月10日23:00

>シゲさんへ
ありがとうございます。
早速読んでみます。

どん太
どん太
2007年5月11日0:07

その怒りのなにぶんかは、やはり自分の欲求が満たされない怒りでしょうね。
「分かって欲しい」「治って欲しい」という。
「分かってくれない!」という怒りは、自己の欲求(自分の思うような相手であって欲しい)不満ですわ。

相手への愛から怒るといいつつね。。。

その辺わかると、なおなお、怒りは縮小していくでしょうね。

シゲ
シゲ
2007年5月11日2:04

そうですなぁ、欲求が満たされないと言えば、その通りかなぁ。

たとえば、「1+1=3」と言う人がいて、「はぁ?何それ?」と聞きますわね。
この段階では別に怒りはないです。

が、何それ?と聞いて、納得のいかない答えが返って来たときは「????」ってなりますよね?
でもまぁ、裸の王様の場合、そういう答えがほとんどですわ。
で、「いや、意味わからん。どういうことやねん?」って聞いて、論理破綻してるところを「あなたが言う、ここのところは意味つながってないよね?」とずーーーーっと確認作業をしていって、で、最後の最後に相手がプイっと横向いたとします。説明放棄ね。

そこまで行って、私は、なんじゃそれは!と怒るわけです。まさに「納得の行く説明がされなかった」という欲求不満ですわ。

でもまぁ、裸の王様に「いや、服を着てるって言うけど、僕には全然見えないよ。本当に服を着てるなら、触らせてよ。」と言って、それで逆ギレされて「おぬしは私の服を愚弄するのか!」と言われて、そこで「なんやと!」と怒るってのは、これはしょうがないと思います。

ちゅうか、しょうがないでしょ? 思いません?

で、その「なんやと!」と怒った後の対処方法に「考えたらACって、ゆがんだ状況を『ありのまま』と思いこんでる部分があるから、しゃーないよね。」という説明で「あ!そうか」になったってことです。

まぁ、治って欲しいというのはあるけど、それより先に論理的に意味がつながらないってところで欲求不満が出るってのが、少なくとも僕の場合は大きいですね。

たとえ、突拍子もない発想でも、意味がつながるなら、「まぁ、そういう考え方もあるか。」と思うんですけどね。

この「意味がつながらない」という欲求不満が果たして、自分の欲望として認識していいのかどうかはよくわかりませんなぁ。

僕の場合は、相手に変って欲しいという前に、「最低限、納得の行く説明をせよ、それが大人としてのルールだろうが」というのがあります。
相手を変えようとかは、ちーとも思いませんが、ルールは守らないといけない。

いくら苦しくても、ルールは守らないといけない。
そのルールが守られてないから怒りまくるという、そういう感じですけどね、私の場合は。
まぁ、多少ルールに厳しすぎるところはあるのかもしれないけれど、どこかで線を引かないとグズグズになりますからねぇ。

どん太
どん太
2007年5月11日11:12

それは、「論理的に意味がつながるべきだ」「このルールに、他人も従うべきだ」という前提がないと、いかれないなあ。

>そこまで行って、私は、なんじゃそれは!と怒るわけです。まさに「納得の行く説明がされなかった」という欲求不満ですわ。

相手が納得のいく説明をするはずだ、という期待が裏切られた、という、自分の期待が満たされないことへの怒りですよね。

>でもまぁ、裸の王様に「いや、服を着てるって言うけど、僕には全然見えないよ。本当に服を着てるなら、触らせてよ。」と言って、それで逆ギレされて「おぬしは私の服を愚弄するのか!」と言われて、そこで「なんやと!」と怒るってのは、これはしょうがないと思います。

これ、しょうがないとは思いません。
裸の王様が裸であることは、彼にとって高度にプライベートな部分なわけで、土足で踏み込んでいいものかどうか。
まずそれを迷います。
そこで、「踏み込んでもいい」ような関係があると思ったときに、はじめて踏み込みます。
(で、納得のいく答えはでない。)
これって、その王様に対して、そこまでの踏み込んだ関係にあるはずだ、って前提と、自分のルールに乗るはずだ(べきだ)って前提がないと、怒りにならないですよね。

>ちゅうか、しょうがないでしょ? 思いません?

ぜんぜん思えないです。
どうしてそんな他人の「至らなさ」でいかれるんだろうと、
不思議になります。
他人が自分のルールに、なぜ乗らなくちゃいけないんだ?
その前提は、どんな根拠の元におかれたんだ?
自分の思いこみじゃないか?
あるいは、自分の甘え(家族だから、自分のもってるルールを共有して、共通の前停止に照るだろう、という)じゃないか?

って考えます。

>僕の場合は、相手に変って欲しいという前に、「最低限、納得の行く説明をせよ、それが大人としてのルールだろうが」というのがあります。

このルールって、世間一般の人がすべてもっているルールじゃ、ないんですよ。
持つべきかも知れませんが(私はもつはずと思ってましたが、今は、思ってません。持つべき、とも思ってません)。

人間、論理破綻を起こさないだけの能力のある人間は、少ないです。
まして、論理をつなげたら、本人の拠って立つ存在の基盤が崩れてしまうとき、普段は明晰な人であっても、論理を無意識に破綻させます。
人間って、そういうものです。

自分の中に、あらたにそういう前提をおいてもなお、怒る、という反応が出てくるってことは、ないです。
「ああ、ここにも不完全な人間の姿がある。業をかかえた人間の姿がある」と思うだけ。

>、「最低限、納得の行く説明をせよ、それが大人としてのルールだろうが」というのがあります。
相手を変えようとかは、ちーとも思いませんが、ルールは守らないといけない。

あいてがそのルールを持っていないときに、「このルールをもて」というのが、まさに相手に変われ、と心で欲求してるすがた、ですよ。

どん太
どん太
2007年5月11日11:17

>共通の前停止に照るだろう、という

ごめんなさい。
共通の前提に立てるだろう、という

です。
しつれい。

−−−−−−−−−−−−−−−
逆に、
>いくら苦しくても、ルールは守らないといけない。

このルールを、自分はいつ、誰に仕込まれたのか。
このルールから自分を解放しないと、怒りまくる(そして他人の持ってる、別の前提やルールを理解できない)人生に終わるのでは。

どん太
どん太
2007年5月11日11:26

>誰に仕込まれたのか。

これが、たぶんまず最初は、「自分」って出てくると思います。
私は、論理で現実を直視せよ、というルールを、「自分で」自分に課したから。

でも、自分は、なにに影響されて自己にそれを強いたのか。
他人はもっとラクチンな人生を謳歌してるときに。

もろもろの状況が私にそうなさしめた、としか、いいようがないですが。

他人様は、シゲさんが抱いている、この「最低線のルール」すら、共有してないです。
少なくとも、自らにぎりぎりと課すことは、しない(他人には要求してもね。ダブルスタンダードだわ)。

シゲさんは、それを自らに課す。

それだけでも、彼我の違いはこんなにある。

人間て、孤独ですよ。
自分のルールを、他人は共有しちゃくれない。

たとえ家族でも、というか、ACの家族はみな病んだ人間関係の中でこそらくちんに生きられる人たちばかりですから、ACから脱却しよう、ゆがんだ人生を直そう、としてる人間とは、ルールを共有できることはないです。

シゲ
シゲ
2007年5月11日22:59

いやぁ、えらくこだわってますねぇ>どん太さん。

「いくら苦しくてもルールは守らないといけない」って言うのは、別にいっつもかっつも思ってる事ではないですよ。

普段はどうでも良いわけです。
適当に流す。流れていくし、それでいい。

通常は、「本当はちゃんと守れた方がいいんだけどなぁ、まぁ守れない人もいてるさ」くらいに思ってますよ。

でもね、ちょうどいまのどん太さんくらいに、向こうの方が、熱く持論を展開しまくった後で僕が「これこれのところは意味わからん。どういうことやねん?」と聞いて「フン」と横向いたら、それはルール違反でしょ?

そういう事ですよ。

どん太
どん太
2007年5月12日0:46

じゃなくてね。
その、「分かって欲しい人に対してどうなのか」なの。
自分が「どうでもいい」と思えない人に、期待をするわけだから。

もしもここをスルーするとしたら、
シゲさん、
「自分の分からないこと、見たくないことはスルーする」
という、あなたが怒ってるACたちと同じ思考パターンを、
自分もしている、ってことになりますよ。

「なってないよ」と思っても、端から見ると、
構図が同じ、って思いませんか?

どん太→シゲ、で追及。
「こだわってますね〜」と流そうとする。
または、一般論へ入り込む。

シゲ→ご兄弟、で追及
逆切れされたり、あさっての回答だったり、きっといろいろ。

私がこだわって、もしもシゲさんがそういう反応をしてたら、私が、「怒る」立場になるってことですね。
私はシゲさんに、思い入れがないから、たぶん怒らないけど。

これは、実験としてこだわってるの。
こたえてくる気がある方かどうか。

どん太
どん太
2007年5月12日1:15

で、じぶんがそういう反応をしたとしたら、「これが人間の自己防衛の反応やな」とわかってほしい。

そうしたら、相手が今までしてたことがどういう動機によるか、よ〜くわかるし、自分もすることに怒りが湧く、っていうのもおかしい反応だとなるでしょ。

あと、さいごのとこ、ちょっとわからん。

>でもね、ちょうどいまのどん太さんくらいに、向こうの方が、熱く持論を展開しまくった後で僕が「これこれのところは意味わからん。どういうことやねん?」と聞いて「フン」と横向いたら、それはルール違反でしょ?

「フン」と横むくのは、この場合わたし?それともシゲさん?

シゲ
シゲ
2007年5月12日9:46

>どん太さん

えーと。
いかんいかん。
●ACの回りはACばかり
という事を忘れて、また「引きずられ」てました。
僕とどん太さんの話してるやりとりは、完全に「AC同士の水掛け論」です。ちょっとやめましょう。

まず基本的な事を書きます。
この日記では、僕は自分がACだし、自分の体験を通してACがACであることから抜け出すためのノウハウの共有をしたいな、というのは大前提としてあります。
だから同じ気持ちでどん太さんも書いてくださってるとは思うのですが、

●個別具体的な事例・環境

については、僕はここで明らかにするつもりはないので書いてません。そういう事をするなら、アラノンのグループのように、そういう会に入ってプライバシーが守られたところでやるしかないです。

なので、やはり公開されるこういう場所では、総論に沿った一般論を中心に話すしかないと思います。

で、僕個人の個別事情を具体的には書いてないのだから、どん太さんの僕に対する指摘のほとんどは、
●事実関係の確認がない、単なる推測
であることは、一度ちゃんと自覚なさってください。

で、
「フン」と横向いたのは、うちの兄弟であって、どん太さんでも僕でもありません。
どん太さんも僕もちゃんと話をしているではないですか。
で、そこから先は個別事情だからメールで話をするならともかく、ここで細かく書く気はないです。

と、ここまでが基本の大きな状況で、この大前提を踏まえた上ではっきり書きますと、

-------------------
●ゆがんだ状態も、その人にとっての「ありのまま」である。

というのは、完全に間違いで、ACである人間が、つい陥ってしまう、「堂々巡り」の基本パターンそのものですよ。

世の中には、

●幸せになれるルール

というのがあって、それは守らないと幸せになれないのです。
たとえば、間違った事をしたらゴメンナサイと謝るとか、助けてもらったらアリガトウと感謝の言葉を言うとかは、絶対的なルールです。

これが何故「絶対的」なのかというと、まぁ、たいてい、100人いたら95人くらいは、そういう具合に言って欲しいと望んでいて、そう言ってもらうと心が休まるからです。

であるにもかかわらず、ゴメンナサイとかアリガトウとかを、適切なタイミングでキチンと言うという事がACにとってはなかなか難しかったりします。

それは何故かというと、親がそういう正しいルールを知らなくて、教えてもらえてないから、身に付いてないんです。

で、ACの親は子供に、
●幸せになれるわけでもない勝手なルール
を押しつけています。

そこに苦労しているので、多くのACは、「ルール」や「権威」というものに対して本能的に拒否反応を起こしてしまいます。

で、その拒否反応があるために、守らねばならない、
●幸せになるためのルール
も守れなくて(アリガトウと言う、ゴメンナサイと謝るなど)それで不幸なままだったりするんです。

だから絶対的なルールはあるのですよ。
そこを「歪んだ状態も、その人にとってのありのままである」としてしまうと、ゴメンナサイも言えない、アリガトウも言えてない人間を正しいとする論理矛盾に陥るだけでして、そこは「それは間違っている」とするのが正しいのです。

個別事情ではいろいろなパターンがありますけれど、概論しか話せないこういう場所では、ここまでしか書けないですので、お許しください。

まぁあえて個別事情を書くなら、たとえ話として、裸の王様が「この服ええやろ!」と身の回りの人間に共感を強要していたのを見て、兄としての立場上「おいおい、そこを押しつけてはいけないよ」という事を言ったあたりから「AC同士の堂々巡り」に陥ったという事です。

AC同士は、
●幸せになるためのルールを守る事で、より幸せになっていく
という体験・善循環のループが弱いので、自分で補強していく必要があるんです。

まめに「ありがとうございます」「ごめんなさい」を言うとか態度で表すとかして「効果のある言い方」や「タイミング」などを学習していかないとしょうがないんです。

幸せな家庭の場合は、親がそれをすでに身につけていて、守るべきルール・黄金律として「自然に」教えているんです。守るとお互いに気持ちいいから。

でもACの場合は、それを身につけていない、「知らない」状態なんです。だからわからないんです。で、効果的でないルールばかり親から押しつけられてきたので、どうしても個別事情での「ルールを守りたくない」という自分自身の保身だけが最優先されてしまうんです。

この場合、「ルールを守らない」というのは親も子も同じように間違っていて、「効果のあるルール」をわかってないから不幸になって行ってるだけなんです。

大事なのは「幸せになるためのルール」をキチンと学ぶ事なんです。で、朗報は、それは学べば身に付くという事です。親に教えられてなくても、学べば身に付くのです。まず、ここが大きな救いであることを、もっと自覚しないといけません。

で、その「幸せになるルール」のひとつに
●事実関係をキチンと確認して、推測で語らない
というのが世の中には厳然としてあって、それを守らないと、それはやっぱり幸せにはなれないのですよ。

このあたりの構造については、また改めて日記の方に書きます。
ともあれ、ACの問題というのは「個別性」→「共通性」へと視点を大きく持って行くことがとても大切だと思います。
個別の事情を見れば「ルールを知らない同士」のムダな水掛け論にしかならないんです。

しかし、世の中には、ちゃんと普通に幸せな関係というのはあって、それは人間同士ならキチンと守るべきルールを「気持ちよい」から自然と守っている、というのが基本なんです。
そこは注意した方がいいですよ。

ということで、続きはまたの日記で、という事にしてくださいませ。
お願いします。

どん太
どん太
2007年5月12日11:51

なるほど、ここはコメント欄なので、プライバシーの問題がありますね。
やめましょう。
あと、シゲさんがここを見たくないと言うのであれば、これ以上は、私は言いません。失礼ですものね。

私が今回つっこんでみたのは、「つっこんだらちゃんと相手にされなかった、それに怒る」ということをかかれていたからです。
では、シゲさんは自分へのつっこみに、はぐらかさずに自分を見るか?相手の言葉をうけとって思考をめぐらすか?

これは、自分が来たのと同じ道を今たどってるなあと思える人への、私のおせっかい心です。
どうせなら、早く進んだ方がいいよね、という。

でも、やはり、人は自分で納得して、自分のスピードで進む、んですよね。
それでいいんだと思います。

私から見た限り、それはできない(しない)としても、
シゲさんは自分をちゃんと守って防衛する、というのは、わかりました。

私も、それはとても大事だと思います。
私がしたことは、相手の領域への侵入ですから。
NOといわれれば、私もひきます。
(あなたの怒りの相手は、NOというべきを、はぐらかしたり、逆切れしたりするのよ。NOのいい方を知らないから)

あと2点

>「フン」と横向いたのは、うちの兄弟であって、どん太さんでも僕でもありません。
>そこから先は個別事情だからメールで話をするならともかく、ここで細かく書く気はないです

あなたの兄弟の例を、今この会話に当てはめると、どちら?
という意味です。個別事情はいっさい聞いてないです。
あなたの実体験でなく、ここにひいた比喩で、主客どちらの動作か、わからなかったの。

>ゆがんだ状態も、その人にとっての「ありのまま」である。というのは、完全に間違いで、ACである人間が、つい陥ってしまう、「堂々巡り」の基本パターンそのものですよ。

「ありのまま」という言葉のうけとりに、根本的な断絶があるみたいね。
「ありのまま」というのは、「現在の姿そのまま」の意味であって、「あるべきすがた」ではないです。
シゲさんが書いてるのは、ありのまま、ということばを、「人間が本来ある『べき』真の姿」のようなものでとらえてる気がします。現在の「ある」すがたでなくて。
ザインとゾレンですね。

相手のありのままをうけいれる必要なんか、どこにもないです。

ですが、世の中、シゲさんがいう「絶対のルール」を持たない人がいて、それでも世間は回ってる。
そういう人たち(大事な人含む)は、減らずに、今後もあり続ける。
そちらの事実は、どこかで、受け入れていかないと行けない。
自分のルールは、自分に課すのはいい。
他者には、あてはめられない。

私が上で冗長に書いた文の根本は、そこです。

それでは、人のページでながながと、ごめんなさいね。
「とっかかり」がある人なのかな、と思ったので、
書いてみましたが、おせっかいはおせっかい。
自重します。

どん太
どん太
2007年5月12日11:55

ごめん、誤解を招く表現があったので、あと一点。

>これは、自分が来たのと同じ道を今たどってるなあと思える人への、私のおせっかい心です。

私がシゲさんより人間的に全面的に進んでる、なんて意味じゃもちろんないですよ。
この「怒り」についてだけは、たまたま、私が先にたどったことのようだった、というだけです。

シゲ
シゲ
2007年5月12日14:27

何度も書きますが、

「横をプイと向く」というのは「無視」でして、ネグレクトという虐待の代表例です。
これを誰に対してであれ、「ついやってしまう」のを「ありのまま」と言ってはいけないですよ。
当人の「ありのままの心」に「虐待したい」という意志はないはずです。しかし、結果として虐待になっている。

それははっきり「心のゆがみ」であって「ありのまま」ではありません。
それを「ありのまま」と言いたい気持ちは分りますが、それはAC特有の歪んだ論理でしかないです。
一般論として明確に間違いです。
間違いは間違いとしてはっきりさせないと「このくらいの無視なら許される」とかが横行するのです。

だから、明確にその考え方は間違っているし、直すべき事ですよ。
ここはキッパリそう書きます。
皆が正しく幸せになれる態度、受け答えというのは、明確にくっきりはっきり、キチンと世の中に存在していて、それは「守るべきルール」であって、守ることで昔の親子関係などの苦しさを感じたり、気恥ずかしさを味わったとしても、その正しさをキチンと練習して、実行することで人間関係がうまく回っていく=「機能する」ものなのだ、という事を「学習」していかなければいけないのです。

特にACは。
知らないんだから。

「ゆがみもその時点でのありのままだ」というのは、だから絶対的に間違いで、その考え方を、まずは捨てるのが何より第一歩です。

それを捨てる事なしには、「ありがとうございます」も「ごめんなさい」も「うれしかったです」も言えないし、この基本のやりとりより1ステップ上の「明確に断る」などもできるはずがありません。

「ゆがみもその時点でのありのままだ」
というのは、だから明確に間違いなんです。
正しくは「歪んでいるから伝わらない」です。それだけです。歪みを「受け入れてあげよう」というのは発想として間違い。
状況によっては、そういう態度で接する必要もあることは認めますが、それはあくまで方便です。

歪んでいるものは歪んでいる、です。
そこは変らない。

そこをはっきりさせないと、虐待を「愛情表現です」が平気で成り立ってしまいます。
すべての児童虐待は、その「歪みもありのまま」というウソの理屈が下支えしています。

だからまず、ACである自分が、そのウソをウソと自覚しないとダメです。

相手を傷つけずに喜ばせながら、自分の気持ちを伝える、当たり前で普通のコミュニケーションというのは、普通に当たり前に存在しているのであって、それを「あたりまえだ」と感じられない感覚こそが問題なんです。

そして「ゆがみ」を「ありのままだ」と言いくるめないと、自分の精神状態がうまく保てないという事の方がはっきり問題なんです。

これはACの倫理観を生み出してしまう構造の根幹部分ですから、絶対です。何があっても譲りませんし、明確にどん太さんの考え方は間違いですよ。
はっきりきっぱりと。

どん太
どん太
2007年5月16日16:36

なるほど、全然わかってもらえなかったみたいですね。

シゲさんのいうありのまま、というのが、私のいうありのままとは、たぶん、定義が違うのでしょう。

どん太
どん太
2007年5月16日16:39

>「学習」していかなければいけないのです。

学習は、自分がしていくべきものです。
そこは、まったく同意。

ただ、他人に押しつけられないものです。
これは、AC関係の本を読めば、他者とのバウンダリのところで、必ず書いてあるはず。

ゆがんだ人は、他人です。
正しいルールをもて、と、おしつけは、できません。
もちろん、自説をかたるのは、OK。
そこの違いが、まだ、分かるに至ってない、みたいですね。

シゲ
シゲ
2007年5月16日18:54

いやいや、どん太さん、裸の王様の現実はね、「どうじゃおぬしも、この見えない服を着てみんか?」と押しつけてくるって事なんですよ。
現実問題、そういう事が出てくる。

で、「ゆがんだ人は他人」というのもその通りだから、その言葉を否定するのではなく「いや、見えなくて、手にも取れないなら、ないのと変わらないから私はいらないです。」と言うと、僕の知り合いにまで「じゃ、おぬし、この服を着てみんか?」と言い出す。
そうなると「いやいや、ちょっと待ちなさいよ。」と近親者として制止せざるを得なくなって「見えない服があると言うなら触らせてくださいよ。ちゃんと説明しなきゃだめでしょ。説明しなくてはコミュニケーションとして機能してないじゃないの」と言ったと。

そこまでの「個別事情」があった上での「論理的に説明しないとダメ」という話なんですよ。
だから、そのあたりの個別事情を確認してからでないと意味が通じないってことですよ。

で、全体概要は「機能するしないルール」のところに書いた通りです。

だから概略わかってますって。わかってなくて「機能するしないルール」みたいな話が書けるわけないですって。

現実に起きた事実を確認せずに「判定してしまう」っていうのもAC特有の「機能しない行動ですよ」って言うのはそういう事です。

どん太
どん太
2007年5月18日10:09

なるほど。
問題は、そこまで「近親者として制しなくちゃ行けない」
みたいに、関係がつづいてる、ってところみたいですね。

シゲさんは(って話つづけてごめんなさい)近親者としての関係を、前提にしてる。

私は、「関係を持つ持たないも、オプショナルですよね」って言ってたんです。

その親なら、関係をもたなくてもいい。

自分の身近な人間を、そのゆがんだルールをおしつける人間に、近づかせなくても、いい、ってことです。

でも、シゲさんは、その「関係」だけは、続けたいんですね。
だから、調整が必要なんだ。

あちらのルールと、こちらのルールの。

もちろん、シゲさんてきには、あちらのルールに妥協はできないから、譲歩もできない。する理由もないと思ってる。

ということですね。

どん太
どん太
2007年5月18日10:13

>現実に起きた事実を確認せずに

プライバシーの問題がある、といって、現実に何が起きたか、は、語らないってしたはず。
もちろん、それが正しいと思いますしね。

シゲ
シゲ
2007年5月18日15:29

>どん太さん
そうです。状況によって答えは違うんです。
で、メールでならいろいろ事実関係も語れるけど、ここではそういう個別性ではなくて「共通性」の話を中心にしたいわけです。

「近親者としての関係」ですが、そんなこんなで、いまはほとんどないです。近づくとAC特有の歪んだ発想に、こっちまで浸食されてしまうので。距離をとらざるを得ない。
決して距離を取りたいと思っているわけではないけれども、距離を取る以外に道がない状況ってことです。

ACの歪んだ発想というのは回りを巻き込みますからね。僕は元々ACだったわけだから、巻き込まれたら、またあっという間に歪みの感覚が復活してしまうんですよ。

だから「共通項の大切さ」という感覚やルールに、いまはしっかりと身を浸しておかないといけない時期なんです。僕個人は。

それがわかっているから、ここで個別事情は話しませんと書いてるんです。

まず、自分の「機能するルール」を、しっかり、ゆるぎなきものにする。歪んだ発想を突きつけられても動じない。そのくらいまで「機能する快適」「機能する楽しさ」「機能するコミュニケーション」を味わうって事が僕には大事なんです。

その意味で、多少二転三転ドタバタしましたが、どん太さんがあきらめずに根気よく語ってくださった事には感謝します。

ともあれ、ここでは個別事情は語れないので、個別の話に多少でも入り込むとどうしても「誤解」とか「推測」とかが発生せざるを得ませんので、その部分に関しては「この場でのやりとりにおける間違い」として考えさせてもらう、という事です。
よろしくお願いします。

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