裸の王様のすべきこと。
2007年5月4日 ●じぶんの心マップ コメント (5)今日は、おもいつくままダラダラと書きたい。
生まれてきて、死ぬまで、人間は一人なんだと思う。自分自身の考えや思いも、そう簡単には共有できない。
親や子供も別人格で、まぁ基本として他人と変らない。「俺の子だ」「あたしの子よ」と言ったところで別人は別人って事です。
で、そういう思いがあるからこそ、確かな交流や気持ちのやりとりが出来たときがうれしい訳だと思う。
人間は生まれてから死ぬまで、ずっとひとりなんだ。だからこそ友達と話して意気投合するとか、考え方が共鳴しあった時にとても喜びを感じる。考え方の近い人に出会って、一緒に何かを成せる時というのが、すごくうれしく感じるって事です。
だから、そういうお互いの意志表明とか考え方の確認とかの、確認行為もないのに、形だけ「通じ合っていることにしておく」というような態度が、僕はとても嫌いですね。うそっぱちばっかりだと思う。
でも、多いんだよなぁ「〜という事にしておく」って態度を取る人。まぁ、摩擦を起こさずに生きて行くには、必要な態度なのかも知れないけれども、そういう建前だけしか存在してないような人もいるので首をひねるのだけども。
建前って、本当に嫌いだ。
大嫌い。
音楽をやると、楽器の間でちゃんとチューニングして、音を揃え、正しく和音を構成した楽譜に則って演奏すると、とても素敵なハーモニーが生まれます。
しかし、これを、楽器を適当に持ち寄って、ルールもキイも決めずに演奏したところで、それは音楽とは言わないわけです。
建前って、まさにこの「キイも決めずに勝手に楽器を弾いてるだけの状態」を「みんななかよく演奏している」と言い切るような事なんですよね。
なんやねん、それ。
って思ってしまう。
キチンと歴史の勉強もせずに、欧米の文化やさまざまな思想とかの流れを自分勝手な思いこみだけで判定するとか、人間関係論やら心理学やら学ばないうちから私は人間関係のエキスパートでござい!みたいに言ってるとか。
そういうのは全部偽物だよなぁって思う。
でも、じゃぁなんでもかんでも学んでからしか発言できないのかって言うと、そんなバカな事はあるわけもないのですよね。
ようは簡単で、
●わからないものはわからないと言う。
●考え方が変ったら、どういう理由で変ったかを言う。
この2つの基礎的ルールを、キチンと踏襲してれば、基本的に問題はないわけです。
「考え方が変る」の中には「学習して身につけたので、私の持っていた考え方は間違っていたことがはっきりしました。」という表明が入ります。
で、ちゃんと体系的に学んでいくと、「最初、私は●●●と思っていましたが、いろいろ調べて学習していくと、▲▲に関しては私が間違っていました。」という事がたくさんあります。
で、これこそが「学ぶ」ということなのであります。
まぁ、当たり前の事を言ってるんですが、でも、こういう当たり前の事ができない人がけっこういてるわけです。
特に依存心の強い人は、ここいらがキチンとできてませんね。たいてい。
アルコール依存、ギャンブル依存、子供依存。依存するからダメなんだよなぁ。ひとりで立ってみたらいいのに。ひとりで立ってみたら、本当の意味で、「倒れそうになった時に助けてくれる人のありがたさ」がわかる。自分で立たずに何かに依存してるから、そういうありがたさがわからないんだと思う。
そういうありがたさが分っていない人はとにかく、
●わからないことを「わからない」と言えない。
●考え方が変ったという事を表明できない。
のです。
というか、
●わかってないのにわかったフリをして体面を保とうとする。
●ひとつの考え方にとらわれて、それに固執する。
という事になります。
よーく考えたら分りますが、こういう態度を取っている限り、永遠にその人に「成長」はありえないわけですね。
わかってないのに「わかってない」「知らない」と言えない訳だから、誰からか教えてもらうという事ができないし、質問する能力も持てない。
また、考え方の変更もできないわけだから、新しい考え方を吸収することも無理ですわね。
前進も進歩も成長も改善も、いっさいが存在できなくなってしまうのが、この「体面を保とうとする心」とか「考え方の変更を表明できない視野の狭さ」とかの意識の問題点なわけです。
体面とか、特定の考えへの固執とか、ほんとうにダメだと思う。柔軟性がない。
で、こういう、「自分の無知の受け入れ」とか「より正しい概念の受け入れ」とかは、自分がこの世にたった一人なのだとわかっているからこそできる事なのですね。
たとえば、裸の王様を思い出しましょう。裸の王様は「目に見えない立派な服」を「着ている事になっていた」わけです。で、その「なっていた」部分を誰が支えていたかというと、回りにいてる臣下のものたちなわけです。
本当は裸でしかないのに、臣下のものが「すばらしい服でございますねぇ」と言ってくれるから「着ていること」にしておけたわけです。まぁ、アホな話です。
これは、回りに「自分のウソを塗り隠してくれる人」がいてるから出来ることなんです。自分一人ではできない。でしょ?回りでウソを塗り固める人が頷いてくれるからウソが「ホント」のように見えて安心できるわけです。これこそが依存症の罠そのものなんですね。煙草を吸うのは中毒でしかないけど、それを「おいしい」と言ってごまかしてるのと同じです。自分をごまかしてるんですね。自己欺瞞という奴です。
お酒やギャンブルで、自分の本来の姿を直視できない人も、まわりの臣下のものどもに「ウソの上塗り」をさせている人も、結局は同じ精神構造ですね。自分自身に頼るのではなく、自分以外のものに頼っている。親子関係で言うと、本当は無知な親でしかないのに、親としての権威だけを子供に押しつけて、それで安心している、なんて構造があります。
こういう事を考えていくと、「ひとりであること」がどれだけ大切な事か、わかってくるはずです。裸の王様は、まず、自分が裸であるという事を、丘を吹く風が、自分の体にそよそよと当たっている事に、まず気付かないとダメだってことです。そこに幸せは、ちゃんと存在しているのですよ。で、それは自分ひとり、たったひとりだからこそ気付ける事なのです。
で、この世に自分たった一人だと分っていれば、回りに自分のウソを塗り隠してくれる人を求めたり、配置したりする必要はなくなります。つまり回りの人間に無理矢理「ウソをつかせる」という不幸な行動を押しつけずに済む、ということなわけです。つまり回りも幸せにできる。まず自分が囚われた心から解放されれば、回りの人間も解放される、という事ですね。
僕は、世の中のムダと罪悪のほとんどは、こういうウソの隠蔽から生まれると感じていて、そういう行為にすごく敏感に反応してしまうんですね。
このウソの隠蔽を、親と子供の間でやってる人は、「私は親だ、言うことを聞け。」と裸の権力を振り回して、子供に従わせ、親の権威を保つ事をしようとやっきになる。まさに体面を保つ、ですね。でも、それは親も子も両方とも不幸だ。ものすごく不幸だ。だから裸の王様は、自分の肌に当たる風を感じないといけないってことなんですね。それがつまりは「ひとりでいること」なんです。
でもどうも、体面を保つということばっかりやってると、そのうち、わからない事を「わからない」と素直に言う事ができなくなるようなんですね。恐ろしいことに。多分パターン化して抜け出せなくなってるんでしょうねぇ。
当人は「体面を保つ」事が自分にとってどれだけデメリットのあることか気付いてないことが多いように感じるのですが、わからないことを素直に「わからない」と言えないという事は、ようは「知る機会の放棄」ですから、ストレートに「バカ直行便」なわけですよ。でしょ?
ようは、日々、「アホになっていく」なわけです。
これはもう、すごくはっきりわかる。
単純な話です。
知らない事を知らないままにすることを良しとしているんだから、それはアホなんですね。他に言いようがない。
たとえば、こういうアホな事をやっている、迷惑な上司と部下の関係とか、身の回りで見る事はないですか?
知らない事を素直に知らないと言えない上司がいて、その上司を「おー、よちよち」とあやしている部下。そういう関係。
実にくだらない。
くだらないんですが、これがまた、すごく多い。「裸の王様」的な会社の仕組みとか、親子関係がね。もう、本当に、世の中にあふれかえってる。
ちょっと待ってくれよなぁ、って思うんですよ。
そんなことしてたら、みんなアホにしかならんやないか、って。
学ぶ機会の放棄・拒絶ですからなぁ。そらあきませんで。
とにかく裸の王様がすべきことは、とりまきの言葉を忘れて「俺裸やんけ」と気付くことですわなぁ。自分の肌をそよぐ風を感じろって事でして。
そして、人間は風そよぐ大地の上に、たったひとりで生きているというのが、すべての人間にとっての当たり前の状態であり、そこを実感している事が、生きる事の基礎の基礎なんだってことを、はっきりと気付くべきだってことです。
まぁ、ようはそういう事ですね。
生まれてきて、死ぬまで、人間は一人なんだと思う。自分自身の考えや思いも、そう簡単には共有できない。
親や子供も別人格で、まぁ基本として他人と変らない。「俺の子だ」「あたしの子よ」と言ったところで別人は別人って事です。
で、そういう思いがあるからこそ、確かな交流や気持ちのやりとりが出来たときがうれしい訳だと思う。
人間は生まれてから死ぬまで、ずっとひとりなんだ。だからこそ友達と話して意気投合するとか、考え方が共鳴しあった時にとても喜びを感じる。考え方の近い人に出会って、一緒に何かを成せる時というのが、すごくうれしく感じるって事です。
だから、そういうお互いの意志表明とか考え方の確認とかの、確認行為もないのに、形だけ「通じ合っていることにしておく」というような態度が、僕はとても嫌いですね。うそっぱちばっかりだと思う。
でも、多いんだよなぁ「〜という事にしておく」って態度を取る人。まぁ、摩擦を起こさずに生きて行くには、必要な態度なのかも知れないけれども、そういう建前だけしか存在してないような人もいるので首をひねるのだけども。
建前って、本当に嫌いだ。
大嫌い。
音楽をやると、楽器の間でちゃんとチューニングして、音を揃え、正しく和音を構成した楽譜に則って演奏すると、とても素敵なハーモニーが生まれます。
しかし、これを、楽器を適当に持ち寄って、ルールもキイも決めずに演奏したところで、それは音楽とは言わないわけです。
建前って、まさにこの「キイも決めずに勝手に楽器を弾いてるだけの状態」を「みんななかよく演奏している」と言い切るような事なんですよね。
なんやねん、それ。
って思ってしまう。
キチンと歴史の勉強もせずに、欧米の文化やさまざまな思想とかの流れを自分勝手な思いこみだけで判定するとか、人間関係論やら心理学やら学ばないうちから私は人間関係のエキスパートでござい!みたいに言ってるとか。
そういうのは全部偽物だよなぁって思う。
でも、じゃぁなんでもかんでも学んでからしか発言できないのかって言うと、そんなバカな事はあるわけもないのですよね。
ようは簡単で、
●わからないものはわからないと言う。
●考え方が変ったら、どういう理由で変ったかを言う。
この2つの基礎的ルールを、キチンと踏襲してれば、基本的に問題はないわけです。
「考え方が変る」の中には「学習して身につけたので、私の持っていた考え方は間違っていたことがはっきりしました。」という表明が入ります。
で、ちゃんと体系的に学んでいくと、「最初、私は●●●と思っていましたが、いろいろ調べて学習していくと、▲▲に関しては私が間違っていました。」という事がたくさんあります。
で、これこそが「学ぶ」ということなのであります。
まぁ、当たり前の事を言ってるんですが、でも、こういう当たり前の事ができない人がけっこういてるわけです。
特に依存心の強い人は、ここいらがキチンとできてませんね。たいてい。
アルコール依存、ギャンブル依存、子供依存。依存するからダメなんだよなぁ。ひとりで立ってみたらいいのに。ひとりで立ってみたら、本当の意味で、「倒れそうになった時に助けてくれる人のありがたさ」がわかる。自分で立たずに何かに依存してるから、そういうありがたさがわからないんだと思う。
そういうありがたさが分っていない人はとにかく、
●わからないことを「わからない」と言えない。
●考え方が変ったという事を表明できない。
のです。
というか、
●わかってないのにわかったフリをして体面を保とうとする。
●ひとつの考え方にとらわれて、それに固執する。
という事になります。
よーく考えたら分りますが、こういう態度を取っている限り、永遠にその人に「成長」はありえないわけですね。
わかってないのに「わかってない」「知らない」と言えない訳だから、誰からか教えてもらうという事ができないし、質問する能力も持てない。
また、考え方の変更もできないわけだから、新しい考え方を吸収することも無理ですわね。
前進も進歩も成長も改善も、いっさいが存在できなくなってしまうのが、この「体面を保とうとする心」とか「考え方の変更を表明できない視野の狭さ」とかの意識の問題点なわけです。
体面とか、特定の考えへの固執とか、ほんとうにダメだと思う。柔軟性がない。
で、こういう、「自分の無知の受け入れ」とか「より正しい概念の受け入れ」とかは、自分がこの世にたった一人なのだとわかっているからこそできる事なのですね。
たとえば、裸の王様を思い出しましょう。裸の王様は「目に見えない立派な服」を「着ている事になっていた」わけです。で、その「なっていた」部分を誰が支えていたかというと、回りにいてる臣下のものたちなわけです。
本当は裸でしかないのに、臣下のものが「すばらしい服でございますねぇ」と言ってくれるから「着ていること」にしておけたわけです。まぁ、アホな話です。
これは、回りに「自分のウソを塗り隠してくれる人」がいてるから出来ることなんです。自分一人ではできない。でしょ?回りでウソを塗り固める人が頷いてくれるからウソが「ホント」のように見えて安心できるわけです。これこそが依存症の罠そのものなんですね。煙草を吸うのは中毒でしかないけど、それを「おいしい」と言ってごまかしてるのと同じです。自分をごまかしてるんですね。自己欺瞞という奴です。
お酒やギャンブルで、自分の本来の姿を直視できない人も、まわりの臣下のものどもに「ウソの上塗り」をさせている人も、結局は同じ精神構造ですね。自分自身に頼るのではなく、自分以外のものに頼っている。親子関係で言うと、本当は無知な親でしかないのに、親としての権威だけを子供に押しつけて、それで安心している、なんて構造があります。
こういう事を考えていくと、「ひとりであること」がどれだけ大切な事か、わかってくるはずです。裸の王様は、まず、自分が裸であるという事を、丘を吹く風が、自分の体にそよそよと当たっている事に、まず気付かないとダメだってことです。そこに幸せは、ちゃんと存在しているのですよ。で、それは自分ひとり、たったひとりだからこそ気付ける事なのです。
で、この世に自分たった一人だと分っていれば、回りに自分のウソを塗り隠してくれる人を求めたり、配置したりする必要はなくなります。つまり回りの人間に無理矢理「ウソをつかせる」という不幸な行動を押しつけずに済む、ということなわけです。つまり回りも幸せにできる。まず自分が囚われた心から解放されれば、回りの人間も解放される、という事ですね。
僕は、世の中のムダと罪悪のほとんどは、こういうウソの隠蔽から生まれると感じていて、そういう行為にすごく敏感に反応してしまうんですね。
このウソの隠蔽を、親と子供の間でやってる人は、「私は親だ、言うことを聞け。」と裸の権力を振り回して、子供に従わせ、親の権威を保つ事をしようとやっきになる。まさに体面を保つ、ですね。でも、それは親も子も両方とも不幸だ。ものすごく不幸だ。だから裸の王様は、自分の肌に当たる風を感じないといけないってことなんですね。それがつまりは「ひとりでいること」なんです。
でもどうも、体面を保つということばっかりやってると、そのうち、わからない事を「わからない」と素直に言う事ができなくなるようなんですね。恐ろしいことに。多分パターン化して抜け出せなくなってるんでしょうねぇ。
当人は「体面を保つ」事が自分にとってどれだけデメリットのあることか気付いてないことが多いように感じるのですが、わからないことを素直に「わからない」と言えないという事は、ようは「知る機会の放棄」ですから、ストレートに「バカ直行便」なわけですよ。でしょ?
ようは、日々、「アホになっていく」なわけです。
これはもう、すごくはっきりわかる。
単純な話です。
知らない事を知らないままにすることを良しとしているんだから、それはアホなんですね。他に言いようがない。
たとえば、こういうアホな事をやっている、迷惑な上司と部下の関係とか、身の回りで見る事はないですか?
知らない事を素直に知らないと言えない上司がいて、その上司を「おー、よちよち」とあやしている部下。そういう関係。
実にくだらない。
くだらないんですが、これがまた、すごく多い。「裸の王様」的な会社の仕組みとか、親子関係がね。もう、本当に、世の中にあふれかえってる。
ちょっと待ってくれよなぁ、って思うんですよ。
そんなことしてたら、みんなアホにしかならんやないか、って。
学ぶ機会の放棄・拒絶ですからなぁ。そらあきませんで。
とにかく裸の王様がすべきことは、とりまきの言葉を忘れて「俺裸やんけ」と気付くことですわなぁ。自分の肌をそよぐ風を感じろって事でして。
そして、人間は風そよぐ大地の上に、たったひとりで生きているというのが、すべての人間にとっての当たり前の状態であり、そこを実感している事が、生きる事の基礎の基礎なんだってことを、はっきりと気付くべきだってことです。
まぁ、ようはそういう事ですね。
コメント
関係というのはインタラクションだから、相手が
関係を望んでないのにやいのやいのいっても、
こちらが消耗するだけで、相手を利することは何もないんだから。
縁なき衆生、ということばがありますが、そういうものでしょう。
2のほうへのコメントでした。
失礼。
わたしもそういうのにかかわった時期がありましたが、
「心の中で祈って去る」が一番とわかりました。
そうですよねぇ。離れるのが一番です。
ただ、仕事とかの関係なら、離れる、あるいは距離を取るというのも難しくはないんですが、肉親だとなかなか、それも難しいですよ。
まぁ、縁なき衆生にできてしまえば、気も楽なんですが。
ともあれ、「裸の王様」という言い方が一番わかりやすいですわね、これ。そう思って書いたんです。というか、書いてて気付いたんですが。
ま、そんなことです。
大変ですけどね。
しないとね。
うーん。そうなんですよね。
いくら肉親でも、精神的に辛いものは辛いですもんね。
というか、肉親だからこそ「裸の王様」である部分が、あまりにはっきり見えすぎるとかあるしねぇ。
でも、そうですね「心で祈って」っていうのが、一番大事かも知れない。「早く裸だって気付いてくれよ」と祈り続けるというか。
願っているのはそこですしね。
基本はやっぱり「心で祈って去る」という事でしょうね。他に選択肢がないもんなぁ。こればかりは。
うーん。