随分昔の話ですが、「おつり」を隠した事があります。
なんのこっちゃ? とお思いでしょうが、ようは、子供の頃の「おつかい」の話なんですね。
忘れもしない、ある雨の日。父親に言われて、タバコか何かを買いに行ったわけですよ。
で、その帰りに、僕は何故かお釣りのいくらかを、道ばたに埋めて来たんですね。
不思議でしょ?
犬が靴を隠すとか、リスが木の実を隠すとか(それで忘れるらしいのだけど)はあるけど、「子供がおつかいに出かけた帰りに、そのいくらかを隠す」というのは、訳がわからない。
で、この事を、うちの父親は良く覚えていて、よく言ったものなのです。
「シゲは、なんかわからん事しよったからなぁ、お釣りを埋めてきたり。なんでそんな事するんや? と聞いても説明もせんかったし。」と。
そうですわなぁ。
理解不能ですわなぁ。
で。
そういう事をした私自身が、何故そんな事をしたのか? という事が、いまいちはっきりとは説明できなかったんですよ。
ぼんやり覚えてたのは、「お釣りの額が合わない」という事だったくらい。
確かね、父親が「このお金渡すから、お釣り○○円もらってきて。」と言って、その額と実際のお釣りとが一致してなかったんだと記憶してたわけです。
だから、そのつじつまを合わせるために、差額を埋めたはずなんですよ。
僕の記憶では、ここまでしか説明がつかないわけです。
が。
じゃぁ、なんで「つじつまを合わせる必要があったのか?」という謎は依然として残っちゃいますよね?
なんでよ?
なんで「つじつま合わせ」が必要だったのよ?
という事です。
その説明がね、父親が死んでそろそろ10年という、今頃になって、やっと自分で筋道立てて説明できるようになってきたのであります。
ようはね、「父親が言った言葉を、子供が補正して、父親のプライドを守ってやる」という必要があったわけです。
うちの父は不幸な幼少時代を送っていたせいか、たぶんはじめての子供である僕を、それこそ猫っかわいがりしてたはずなんです。だから、相手をしてくれるのが僕はうれしくて仕方なかったはずなんですね。
で、言葉を覚えてからは、子供特有の何に対しても「なんで?」と質問しまくるという奴を、父親に対してしていたわけです。で、たいていの事は父はちゃんと教えてくれたんですね。
それがまたうれしかったわけです。
ですが、ある時、どんな質問だったかは忘れましたが、父親が答えられないような質問を、僕はしたんですよ。
父親を困らせてしまった。
たぶん、うちの父は、子供の前で「なんでも答えられる父親」というのを、一生懸命やっていて、それがまた自分のプライドをくすぐられて楽しかったのだろうと思うんですが、その肝心の子供が、自分の知らない事柄を質問してきたわけです。
だから、父親は困ってしまった。
で、父はどうしたかと言うと、何の返事もせずにプイっと横を向いてしまったんですね。
で、どっかへ行ってしまった。
これがねぇ。
子供心に、すごく傷ついたわけですよ。
不用意な質問をしたがために、大好きな父親が機嫌をそこねてよそむいちゃったわけですから。
ここから、幼い僕は、父親のプライドを守るために、「つじつま合わせ」を始めたわけです。
何か父親が間違った事を言っても、それが表面化しないように取り繕うという事をするようになった。
それが、「お釣りを、隠す」という行為の理由だったんですね。
父親がプイっと横を向いたら嫌だから、そうならないように、幼いながらも必死に頭を回して考えたってわけです。
だから、雨の中、傘をさして、おつかいにでかけて、そのお釣りの額が違っているのを見て、僕はもうすごく困っていたのです。その記憶ははっきりとあります。
どうしよう!大変な事が起きた!一大事だ!おとうさんの言ってたお釣りの額と、お店でくれたお釣りの額が違う!どうしよう!なんとかしなくちゃ!
もう本当に、たぶんその時の僕はパニックだったと思うのですよ。傘は差さないといけないわ、買った商品(タバコだったか、本だったかは覚えてませんが、何かそんなようなもの)は落としてはいけないわ、額の違うお釣りはなんとかしなくてはいけないわ。
まぁ三歳かそこいらだったと思うのですよ。だからそれこそ頭がまわらないし、体も思い通りには動かせないわけです。しかも雨。そういう状態で、「差額分のおつりがなくなれば、つじつまが合う!」という所まで、幼い僕は考えたわけです。
よう考えたよなぁ。ほんまに。そんな小さい頭で。
で、「その辺に置いたら、見えて見つかってしまう!」って思ったんですね。「このお金があるのは間違いだ!」って事ですから。その多いお釣りは、父親のプライドを壊す、間違ったお金なんですから。あってはいけないものなんですよ。子供の僕にとっては。
だから、雨が降っているのに、傘を手に持ちながら、商品も落とさないように、地道(そのころはアスファルトによる舗装もされてなくて、普通の土の道だったのです。)の路地のところに埋めて隠したのです。とにかく見えないようにして、「ないこと」にしなくちゃいけなかったから、広い道ではなくて、狭い路地のところに入り込んで、そこに足で穴を掘って、お金を埋めて、「ないこと」にしたわけです。
「ないこと」にしないと、また父親は「プイ」と横を向いてしまう。だから子供がご機嫌取りをしなくちゃいけなかったわけですよ。
父親の「間違いを認めない態度」を、子供の側が補填してやらなくてはならなかった。
そういう事だったんですね。
でもまぁ、そういう「間違いを認めない態度」ばっかり取っていた、という事自体に、父親は自覚がなかったわけですからねぇ。
だから、子供がお釣りを隠した理由もわからないわけです。
なんでそうなるかと言えば、「自分の間違いを自分で認めていない」という事を、うちの父親はやっていて、だから子供のそういう行動の理由も「わからなかった」わけです。
まぁ、あれですわね。自分を分かってない人間が、子供の事をわかるわけがないんですよね。
で、だから、その説明をしろ、と言われても、説明のしようがないわけでして。
だからよけいに困ってしまうし、だいたい、何で「プイ」と横を向くのか自体が、子供の側からしたらわからんわけですから。
だから、子供の頃からずっと思ってたのは、「自分が知らない事を子供に質問された時に『おとうちゃんもそれは知らん。でも、調べたらわかるかもしらんから、一緒に調べよか。』と言ってくれるような父親が欲しいなぁ。」という事でした。
一番望んでたのは、それでしたねぇ。
で、いまにして思えば、「つじつま合わせ」をするという事が、子供にとってどれだけ辛く、しかも無意味な行為であるか、という事なんですね。
こんなもの、いくら父親が「なんでお釣り隠すんや?」と優しく聞こうが何をしようが、当の父親が「自分の間違いを自分で認めていない」のだから、説明できるわけがないんですよ。
違います?「だってお父さんは自分が間違った事したら横向くから」とか言ったら、それこそまた、横を向かれてしまうわけでしょ? 説明不能ですがな。ねぇ。
だから説明のしようがなくて、「あああ、ううう、えーと。」とかしか言えなかったわけですよ。
で、いまにして思うのは、この説明を、父親が生きている間は、父親に僕はずっとできなかったんですね。
概略は理解できてるんですけど、こうやってちゃんとわかりやすう説明する仕方がわからなかったわけです。
だって、また「プイ」と横向かれたら、説明もできないわけですから、「わかるように言う」事自体が、ものすごく困難になってしまうわけですよ。
そういう「コミュニケーションを絶たれる恐怖」みたいなものがあったから、説明できなくなっちゃってたわけですね。
なんかねぇ、いま、コピーライターをやってますけど、それもこれも「わかりやすく説明する」って事がトラウマになっていて、それでこういう商売してるのかも知れません。
-------------
でね、最近、心理学とかのサイトとか色々調べていて分かって来たんですけど、ウソをつく人とか、大言壮語したりする人って、ようは、うちの父親と同じように、「自分の間違いを自分で認められない」人なんですってね。
ようは、「私は間違ってはいけない。」「つねに正しくなくてはいけない」と思いこんでる人なんだそうです。
エー? なんだそれ? 人間、誰だって常に間違い続けてるじゃん!っていまは思えるんですけど、けっこう「私はつねに正しくなくてはならない」と自己規定してしまってる人って意外に多いですよね。
っちゅうか、僕自身も父親の影響もあって、そうなっていたのかも知れません。
違うっちゅうに。
人間、知識ゼロで生まれてくるんだから「知らないのが当たり前」なわけですよ。
だから、「知らなくてミス」するのが当たり前で、で、「知る」ためには、「知らない自分」を認めないと「知る」事ができないわけです。
わかります?「あー、わし、それ、知らんわ。」と素直に言える人しか、「学ぶ」という事はできないって事なんですよ。
うちの父親は子供の前で「なんでも知ってるお父さん」という役割を演ずる事から、離れる事ができなかったんでしょうね。
そういう「役割」しか考えないからダメなんだよなぁ。
人間として「つねに学び、成長していく」というスタンスを持っておかないとダメなのに。
親として、とか、××として、とかの「役割」ではなく「自分らしく素直に生きる」という事をやらねば、生きている意味がないのになぁって思うのです。
「知らない自分」を認められない人が、「知っている自分」に生長することは永遠にないんですよね。「私は知らない、無知なる人間なのだ」という原寸大の自分を認めない限り、成長も知識の拡大も何もない。そういう事なんです。
で、それをしないままでいることは、「成長しないままでいる」という事であり、結局は、子供にプライドを補填してもらうような、「足りてない部分を周りに支えてもらわないと自分が成立しない状態」になってしまうんですね。
困ったことですけど、まぁ、こういう事は良くあることなんだと思う。
ありのままの「何も知らない自分」を認めるのって、けっこう辛いのかも知れないしね。
でも「ああ、俺はホントに、何も知らないよなぁ」と思ってなくて勉強できるわけないもんなぁ。
ほんま、私は何も知らないです。
ただ、「私は何も知らない」と知ってるからこそ、(「無知の知」という奴です。あのかの有名なギリシアの哲学者ソクラテスの言葉ですわね。)勉強もできるのであって、その肝心の部分を「認めない」のなら、そりゃ成長はないですよね。
で、成長するという事は「常に変わる」という事だから、けっこう辛い事だし面倒くさくもあるんですけどね。「××さえしてればOK」という事にだけはならない。
だいたい、「●●さえしてればオーケー」というのは、たいてい間違ってる事が多いですわね。概略は間違ってないけど、全部がそれに当てはまるわけもなく。つねに状況で変わりますよ。だって自分が成長すれば、いちばん状況が変わっちゃうんだから。だから「学ぶ」と言うことは、自分が変貌してしまう恐怖を乗り越える、という事を含むんですがね。それはまた別の機会に書く事にしましょ。
ま、あれです。商品の値段も変わるんだから、お釣りも変わるってことですね。そこのお父さん、お母さん、子供につじつま合わせとかさせてませんか? まず自分が自分の間違いを認められるような素直さを、自分で身につけましょうね。自分育て、です。自分育てができれば、子供にムダな負担を与えずに済みますから。まず、真っ先にやらないといけないのは、そういう事だと思いますよ。
子供を持っていようが、持っていなかろうが、人間として自分を育てるという意識を、まず持つ。これが基本の基本の基本の基本。それができてなかったら、子供との関係だけでなく、自分を取り巻くすべての人との関係がおかしくなると思います。
まぁ、そういう事ですわ。
なんのこっちゃ? とお思いでしょうが、ようは、子供の頃の「おつかい」の話なんですね。
忘れもしない、ある雨の日。父親に言われて、タバコか何かを買いに行ったわけですよ。
で、その帰りに、僕は何故かお釣りのいくらかを、道ばたに埋めて来たんですね。
不思議でしょ?
犬が靴を隠すとか、リスが木の実を隠すとか(それで忘れるらしいのだけど)はあるけど、「子供がおつかいに出かけた帰りに、そのいくらかを隠す」というのは、訳がわからない。
で、この事を、うちの父親は良く覚えていて、よく言ったものなのです。
「シゲは、なんかわからん事しよったからなぁ、お釣りを埋めてきたり。なんでそんな事するんや? と聞いても説明もせんかったし。」と。
そうですわなぁ。
理解不能ですわなぁ。
で。
そういう事をした私自身が、何故そんな事をしたのか? という事が、いまいちはっきりとは説明できなかったんですよ。
ぼんやり覚えてたのは、「お釣りの額が合わない」という事だったくらい。
確かね、父親が「このお金渡すから、お釣り○○円もらってきて。」と言って、その額と実際のお釣りとが一致してなかったんだと記憶してたわけです。
だから、そのつじつまを合わせるために、差額を埋めたはずなんですよ。
僕の記憶では、ここまでしか説明がつかないわけです。
が。
じゃぁ、なんで「つじつまを合わせる必要があったのか?」という謎は依然として残っちゃいますよね?
なんでよ?
なんで「つじつま合わせ」が必要だったのよ?
という事です。
その説明がね、父親が死んでそろそろ10年という、今頃になって、やっと自分で筋道立てて説明できるようになってきたのであります。
ようはね、「父親が言った言葉を、子供が補正して、父親のプライドを守ってやる」という必要があったわけです。
うちの父は不幸な幼少時代を送っていたせいか、たぶんはじめての子供である僕を、それこそ猫っかわいがりしてたはずなんです。だから、相手をしてくれるのが僕はうれしくて仕方なかったはずなんですね。
で、言葉を覚えてからは、子供特有の何に対しても「なんで?」と質問しまくるという奴を、父親に対してしていたわけです。で、たいていの事は父はちゃんと教えてくれたんですね。
それがまたうれしかったわけです。
ですが、ある時、どんな質問だったかは忘れましたが、父親が答えられないような質問を、僕はしたんですよ。
父親を困らせてしまった。
たぶん、うちの父は、子供の前で「なんでも答えられる父親」というのを、一生懸命やっていて、それがまた自分のプライドをくすぐられて楽しかったのだろうと思うんですが、その肝心の子供が、自分の知らない事柄を質問してきたわけです。
だから、父親は困ってしまった。
で、父はどうしたかと言うと、何の返事もせずにプイっと横を向いてしまったんですね。
で、どっかへ行ってしまった。
これがねぇ。
子供心に、すごく傷ついたわけですよ。
不用意な質問をしたがために、大好きな父親が機嫌をそこねてよそむいちゃったわけですから。
ここから、幼い僕は、父親のプライドを守るために、「つじつま合わせ」を始めたわけです。
何か父親が間違った事を言っても、それが表面化しないように取り繕うという事をするようになった。
それが、「お釣りを、隠す」という行為の理由だったんですね。
父親がプイっと横を向いたら嫌だから、そうならないように、幼いながらも必死に頭を回して考えたってわけです。
だから、雨の中、傘をさして、おつかいにでかけて、そのお釣りの額が違っているのを見て、僕はもうすごく困っていたのです。その記憶ははっきりとあります。
どうしよう!大変な事が起きた!一大事だ!おとうさんの言ってたお釣りの額と、お店でくれたお釣りの額が違う!どうしよう!なんとかしなくちゃ!
もう本当に、たぶんその時の僕はパニックだったと思うのですよ。傘は差さないといけないわ、買った商品(タバコだったか、本だったかは覚えてませんが、何かそんなようなもの)は落としてはいけないわ、額の違うお釣りはなんとかしなくてはいけないわ。
まぁ三歳かそこいらだったと思うのですよ。だからそれこそ頭がまわらないし、体も思い通りには動かせないわけです。しかも雨。そういう状態で、「差額分のおつりがなくなれば、つじつまが合う!」という所まで、幼い僕は考えたわけです。
よう考えたよなぁ。ほんまに。そんな小さい頭で。
で、「その辺に置いたら、見えて見つかってしまう!」って思ったんですね。「このお金があるのは間違いだ!」って事ですから。その多いお釣りは、父親のプライドを壊す、間違ったお金なんですから。あってはいけないものなんですよ。子供の僕にとっては。
だから、雨が降っているのに、傘を手に持ちながら、商品も落とさないように、地道(そのころはアスファルトによる舗装もされてなくて、普通の土の道だったのです。)の路地のところに埋めて隠したのです。とにかく見えないようにして、「ないこと」にしなくちゃいけなかったから、広い道ではなくて、狭い路地のところに入り込んで、そこに足で穴を掘って、お金を埋めて、「ないこと」にしたわけです。
「ないこと」にしないと、また父親は「プイ」と横を向いてしまう。だから子供がご機嫌取りをしなくちゃいけなかったわけですよ。
父親の「間違いを認めない態度」を、子供の側が補填してやらなくてはならなかった。
そういう事だったんですね。
でもまぁ、そういう「間違いを認めない態度」ばっかり取っていた、という事自体に、父親は自覚がなかったわけですからねぇ。
だから、子供がお釣りを隠した理由もわからないわけです。
なんでそうなるかと言えば、「自分の間違いを自分で認めていない」という事を、うちの父親はやっていて、だから子供のそういう行動の理由も「わからなかった」わけです。
まぁ、あれですわね。自分を分かってない人間が、子供の事をわかるわけがないんですよね。
で、だから、その説明をしろ、と言われても、説明のしようがないわけでして。
だからよけいに困ってしまうし、だいたい、何で「プイ」と横を向くのか自体が、子供の側からしたらわからんわけですから。
だから、子供の頃からずっと思ってたのは、「自分が知らない事を子供に質問された時に『おとうちゃんもそれは知らん。でも、調べたらわかるかもしらんから、一緒に調べよか。』と言ってくれるような父親が欲しいなぁ。」という事でした。
一番望んでたのは、それでしたねぇ。
で、いまにして思えば、「つじつま合わせ」をするという事が、子供にとってどれだけ辛く、しかも無意味な行為であるか、という事なんですね。
こんなもの、いくら父親が「なんでお釣り隠すんや?」と優しく聞こうが何をしようが、当の父親が「自分の間違いを自分で認めていない」のだから、説明できるわけがないんですよ。
違います?「だってお父さんは自分が間違った事したら横向くから」とか言ったら、それこそまた、横を向かれてしまうわけでしょ? 説明不能ですがな。ねぇ。
だから説明のしようがなくて、「あああ、ううう、えーと。」とかしか言えなかったわけですよ。
で、いまにして思うのは、この説明を、父親が生きている間は、父親に僕はずっとできなかったんですね。
概略は理解できてるんですけど、こうやってちゃんとわかりやすう説明する仕方がわからなかったわけです。
だって、また「プイ」と横向かれたら、説明もできないわけですから、「わかるように言う」事自体が、ものすごく困難になってしまうわけですよ。
そういう「コミュニケーションを絶たれる恐怖」みたいなものがあったから、説明できなくなっちゃってたわけですね。
なんかねぇ、いま、コピーライターをやってますけど、それもこれも「わかりやすく説明する」って事がトラウマになっていて、それでこういう商売してるのかも知れません。
-------------
でね、最近、心理学とかのサイトとか色々調べていて分かって来たんですけど、ウソをつく人とか、大言壮語したりする人って、ようは、うちの父親と同じように、「自分の間違いを自分で認められない」人なんですってね。
ようは、「私は間違ってはいけない。」「つねに正しくなくてはいけない」と思いこんでる人なんだそうです。
エー? なんだそれ? 人間、誰だって常に間違い続けてるじゃん!っていまは思えるんですけど、けっこう「私はつねに正しくなくてはならない」と自己規定してしまってる人って意外に多いですよね。
っちゅうか、僕自身も父親の影響もあって、そうなっていたのかも知れません。
違うっちゅうに。
人間、知識ゼロで生まれてくるんだから「知らないのが当たり前」なわけですよ。
だから、「知らなくてミス」するのが当たり前で、で、「知る」ためには、「知らない自分」を認めないと「知る」事ができないわけです。
わかります?「あー、わし、それ、知らんわ。」と素直に言える人しか、「学ぶ」という事はできないって事なんですよ。
うちの父親は子供の前で「なんでも知ってるお父さん」という役割を演ずる事から、離れる事ができなかったんでしょうね。
そういう「役割」しか考えないからダメなんだよなぁ。
人間として「つねに学び、成長していく」というスタンスを持っておかないとダメなのに。
親として、とか、××として、とかの「役割」ではなく「自分らしく素直に生きる」という事をやらねば、生きている意味がないのになぁって思うのです。
「知らない自分」を認められない人が、「知っている自分」に生長することは永遠にないんですよね。「私は知らない、無知なる人間なのだ」という原寸大の自分を認めない限り、成長も知識の拡大も何もない。そういう事なんです。
で、それをしないままでいることは、「成長しないままでいる」という事であり、結局は、子供にプライドを補填してもらうような、「足りてない部分を周りに支えてもらわないと自分が成立しない状態」になってしまうんですね。
困ったことですけど、まぁ、こういう事は良くあることなんだと思う。
ありのままの「何も知らない自分」を認めるのって、けっこう辛いのかも知れないしね。
でも「ああ、俺はホントに、何も知らないよなぁ」と思ってなくて勉強できるわけないもんなぁ。
ほんま、私は何も知らないです。
ただ、「私は何も知らない」と知ってるからこそ、(「無知の知」という奴です。あのかの有名なギリシアの哲学者ソクラテスの言葉ですわね。)勉強もできるのであって、その肝心の部分を「認めない」のなら、そりゃ成長はないですよね。
で、成長するという事は「常に変わる」という事だから、けっこう辛い事だし面倒くさくもあるんですけどね。「××さえしてればOK」という事にだけはならない。
だいたい、「●●さえしてればオーケー」というのは、たいてい間違ってる事が多いですわね。概略は間違ってないけど、全部がそれに当てはまるわけもなく。つねに状況で変わりますよ。だって自分が成長すれば、いちばん状況が変わっちゃうんだから。だから「学ぶ」と言うことは、自分が変貌してしまう恐怖を乗り越える、という事を含むんですがね。それはまた別の機会に書く事にしましょ。
ま、あれです。商品の値段も変わるんだから、お釣りも変わるってことですね。そこのお父さん、お母さん、子供につじつま合わせとかさせてませんか? まず自分が自分の間違いを認められるような素直さを、自分で身につけましょうね。自分育て、です。自分育てができれば、子供にムダな負担を与えずに済みますから。まず、真っ先にやらないといけないのは、そういう事だと思いますよ。
子供を持っていようが、持っていなかろうが、人間として自分を育てるという意識を、まず持つ。これが基本の基本の基本の基本。それができてなかったら、子供との関係だけでなく、自分を取り巻くすべての人との関係がおかしくなると思います。
まぁ、そういう事ですわ。
コメント
説明はしたことないですよ。
っつーか、「説明できなかった」と書いたつもりなんですが。
僕は文面から「説明できなかった」ではなく「説明しなかった」ような印象を受けたのです。
確かに、シゲさんの親父さんはそのことを聞く能力がなかったかもしれません。
でも、こういう問題について一度きちんと向き合って話す事もしていないのに親父さんの人格を決め付けてしまうのはどうなのかなあ、と思ったのです。
もちろん親父さんとシゲさんの関係について深く知らない以上、文面から推測するしかないので、かなり的外れな指摘だとも思っています。
駄文失礼しました。
「説明できなかった」というのは、父が「プイと横を向いた理由」が、子供の僕にはわからなかったからですね。
「わからないこと」は怖い事なんです。特に子供の時は。
で、分らないことが原因で恐怖が生まれて、それと直面したくなくておつりを隠したわけですから、説明しようとしても、それはできないわけです。分らない事が理由で恐怖が生まれている訳ですから。
なので、「わけのわからない態度」というものを、子供に対して取るというのは、とても良くない事だと思うのですね。
何十年にもわたって、それがトラウマとして残るわけですから。
自分で、何を怖がっているのかがわからない。だから、あらゆる出来事に対して前向きな気持ちが持てなくなるという、大変な心の構図ができあがってしまうのです。
このあたりが、「アダルトチルドレン」の基本的な構図です。
だから、こういう悪循環からは、できるだけ逃れた方が良いのです。
なかなか逃れられない人が多いのですがね。
まったくもってムダな時間を過ごすだけになってしまいますから。こういう関係は。
まったくの人生のムダ使いです。無意味。
そういう事ですね。
本当に傷ついたのは、お父さんだったのではないかと。
そして、お父さんを傷つけてしまったという事実を感じてシゲさんは途方もなく怖くなっちゃったのかなあ、と。
私もですが、子どものころの感情を思い出してみると、自分の感情ではなく、母の感情を感じてて、それが自分の感情だと思い込んでた部分があるんですね。実際自分はいやだ、とか怖い、と思ってたにもかかわらず、自分の感情をものすごく抑圧しているから、わからない。でも最も恐れている、(不安定だしいつ居なくなってしまうかもしれない)母の感情は機敏に感じて行動をしなくてはならなかった。
ということが少しづつわかってます。
ま、これはわたしだけのことかもしれないんですけど・・。
この文章を読んで考えることが
あったので、文章をブログで引用させて
いただきました。
事後承諾で申し訳ありません。
えらくにぎやかになっちゃったねぇ。
とくにT子さんの日記は、読んで感動しました。なんてことのない僕の書き込みから、自分なりに気付きを発見して、自分を愛するという基礎の基礎に立ち戻っておられる。
いいなぁ、そういうの。そう感じ取れるというところがいいです。いろんな事が良い方向に転がっていく「善循環」を感じ取れるじゃないですか。こっちもうれしいですよ。
そういう具合に「学び取ろう」とするT子さんの姿勢がすばらしいわけで。
あとkaichuさんの指摘もするどい! うちの父親は実の母に「捨てられた」子だったんですよ。「産んでない事にされた子」だったのね。だから、そういう意味で、ずーっと傷ついていたわけです。
だから、自分の子供が出来たときにネコっ可愛がりしてたんですね。いまにして思えば、もともとコミュニケーションの技術を持たずに大人になってしまった人なんだと思うんですよ。甥っ子が生まれて、はじめての孫とのやりとりを見てても「うわー、オヤジ、赤ん坊の気持ち全然考えてねぇ!」って思ったもんね。自分の「可愛い孫だ!」という気持ちの押しつけしかしてないわけですよ。「そらアカンで」と思うと同時に、「そういう環境で俺は育ったわけか!」と思い至ったわけです。
だから多分「質問攻め」っていうのは、オヤジにとっては人生初の「うまくいったコミュニケーション」って感じに思えたのかも知れないわけですよ。
でも、子供の質問攻めなんて、知育の発達過程では自動発生するものですからね、うちの父親の努力で実現したことではない。
必然的に、こっちは父親の知らない事、答えられない事まで聞きますよね?
で、その「知らない事」に対する、普通の受け答え、まともな受け答えを、うちの父親は「知らなかった」わけです。
普通なら「んー、それはパパにもわからんなー」と、自分を認めた発言をしますよね。ありのままの自分を受け入れた発言。
でも、その「知らない自分を認める」という基礎の基礎ができてなかったから、「ぷい」と横を向くということしかできなかったわけです。
このあたりは、まぁ「技術」でフォローできる事だとは思うんですけどねぇ。っていうか、そういう父の元で育った僕は、そういう「自分を認める」というような、こころ育ての基礎の基礎からやり直すしかなかったんで、いろいろ本を読んだりしながら、ちょっとずつトライアンドエラーで、自分を良い方向に持ってきたというのはあります。
そうするしかないしさ。
だからそういう意味でT子さんみたいに、善循環してくれると、とってもうれしいですね。
で、逆に先のメッセージみたいに、名無しで読み取り間違いした上に、「失礼しました」と書きながら、結局名乗りもしてない「僕」さんは、多分何か「悪循環」に落ち込んでいるんだろうなと、想像してしまうわけです。
まず名前を名乗らなきゃ。最低限。たとえハンドルネームでもいいから。思いません?
あと、まぁ自分の自由だとは思うけど、自分の日記でこういうコメント欄をオープンにしてない人とかも多いけど、あれももったいないと思うわけですよ。
オープンにしてれば善循環に出会う事もあります。当然悪循環にも出会うわけだけど、やっぱり善循環の方に自分で持って行かないとね。それこそが生きる力なんじゃないかなぁって、そう思うわけです。
間違ったことをやってもいいし、失敗してもいいんだけど、なんで失敗して良いのかというと、「ちゃんと謝ってちゃんとフォローをしていく」という意志があるからですよ。
その意志があれば、人間、いくら間違ってもかまわないんです。っていうか、前にも書いた事がありますが、「つねに今より良い選択はあり得たはずだから、人間の選択・決断は、つねに必ず間違いを含んでいる」という事なんですね。
「いまより良い状況」を想定する限り、必ず人間は間違い・失敗を繰り返しているという事になるわけです。
当然、その間違いの「質」ってのはありますよ。8割間違いっていうのと2割まちがいっていうのの違いみたいな。
でも、誰だって多少は間違ってるのが当たり前なんだから、そこは自分を認めてまっすぐにいかないといけないですね。
それは「間違っている自分を愛してあげる」という事なんですけどね。
で、こういう事も、書物を読めば、ちゃんと学べるわけで。学習ってのは大事です。
きちんと名乗り出るべきでしたね。下部と言います。
「悪循環」ですか・・。このように受け取られるとは思ってもいませんでした。
僕としては単純に、あちらからの歩み寄りの姿勢が無ければ、こちらから歩み寄る努力が必要なのではないかと思っただけでして・・。
そのようなことをシゲさんなら出来たのではないかと思ったのです。
ご不快になったのなら謝罪します。申し訳ありませんでした。
すばらしい!ありがとうございます。名乗っていただいて。
そこがまず基本ですよ。
ちゃんと読んで、ちゃんと名乗って発言ね。
そういう人なので「2ちゃんねる」とか、すごく嫌いな人なんです。誰かわからないと、他の人と勘違いされるって事もありますし。
きつい書き方ですみませんでした。
名乗っていただいて感謝します。