あたりまえやねんけどなぁ。
2007年3月19日書店に行くと、「99.9%は仮説」とかいうタイトルの新書が売ってまして。
「はぁ? いまごろ何言うとんねん?」
という気分になってしまった。
まぁ、小室直樹先生あたりを読んでいれば、科学の方法として「すべては仮説である」という事は、常識中の常識、当たり前の中の当たり前、すべてを学習するための基礎の基礎であるということは、言わずもがなでわかっていることなのだけれど、なんでいまさら、こんなタイトルの本が出てくるかなぁとため息が出てしまったのです。
とは言っても。
まぁ小室さんの本を読んでる人の方が少ないし、いまの大学受験産業の仕組みの中では「最初から決まっている答えを覚えるのがベンキョウ」という事になっているから、こういう当たり前の事が、さも珍しい考え方であるかのように、書店に出てきたりするんだろうなぁと逆の意味で感心してしまいました。
科学というのは、99.9%ではなくて、100%仮説です。仮説だからこそ、検証による確認が必要で、そのすべての仮説は検証実験によってのみ、わずかに担保されているに過ぎないのであります。
「たぶん、こういうことやろ」と誰かが考えて、その考え方が正しいかどうかを検証実験する。
つまり、「検証実験をする」という態度は「すべてが仮説である」という前提なくして成立しないわけですよ。でしょ?
真に正しい「真理」であるなら、検証する必要はない。
(数学の公理と、神学における道徳観などは検証はされませんがね。これは逆に検証したらアカンもの、ということになります。)
これが当たり前の学問的態度やねんけどねぇ。
実際、人間がなぜ生きてるか、なんてことは科学では解き明かすことが出来てません。まったくの人工で、生命を作るということも無理です。
だからその意味では、「真理」というのは、常に神とかの「宗教」の側に存在することで、科学というのは「検証がなされた後の、繰り返し再現性があると認識されている出来事」のひとかたまりでしかないわけです。
だから科学の側に「真理」などというものは、あるわけがない。これが当たり前の常識なわけでして。
しかし、どうも、こういう、物事の大きな大きな枠組みが分っていない人の方が、どうやら多いようですねぇ。
うーん。そうか、そうなのか。
「大抵の科学は100%仮説に決まってるやないか!それなくして検証するという重要な過程が成立する訳ないやんけ!アホか!」と思うんだけど、そう思う私の方が、どうにもマイナーな存在らしいのですね。困ったことに。
うーむむむむ。
科学はすべて仮説である、という当たり前の事が分ってない人ほど、科学を宗教のように扱って、宗教とは何か? という事を学ぼうとしない。
ユダヤ教、キリスト教(プロテスタント・カソリック)、イスラム教、仏教、儒教、神道、道教あたりは、ざくっと、その「構造」「考え方」くらいは押さえておかないと、心の安寧も得られないってものなんですがね。ほんとうは。科学なんて単なる仮説やから、何の頼りにもならないのである。
でも、日本人ってこのあたりの事が分ってないから、宗教を「こわいもの」と思ってるのよなぁ。別に怖いもんじゃないよ。
っちゅうか、知らずに無茶苦茶な捉え方をしてる方が、よっぽど危険でっせ。宗教心に篤い国で、ものすごく失礼な事をして、嫌われるとかの可能性もあるし。
勉強しよう!本を読もう!と言うと、科学的仮説ばーーーっかり勉強してしまう人も多いんだけど、いやー、それは違うやろ、とか思うのよなぁ。本当に。
歴史とか宗教とか、他にもっと勉強せなアカン項目があるんと違いますか? と思うねぇ。
あと、偉い人の経験談を読むとか。そう言うことも大事。物事は「体系」なのよね。「体系」。関係性の中でこそ真実らしきものは姿を現すのであって、分析的に科学的アプローチを繰り返しても、本当に大事な話にはたどりつけないって思う。
なので、あえて言うなら「ネット検索より本を読め」って事になる。
あ、話がズレてきたので、今日はここまで。
とにかく、「99.9%は仮説」というタイトルが、なぜ書籍のタイトルになるかを改めて考えて「あ、そうか!みんな科学を真理やと勘違いしてるんや!」という事に気付いて愕然としてしまった、という話です。
仮説やからこそ科学やねんで〜〜〜〜!!!!!
と、私は声を大にして叫びたくなったのでありました。
なんか情けないわ。私は。
「はぁ? いまごろ何言うとんねん?」
という気分になってしまった。
まぁ、小室直樹先生あたりを読んでいれば、科学の方法として「すべては仮説である」という事は、常識中の常識、当たり前の中の当たり前、すべてを学習するための基礎の基礎であるということは、言わずもがなでわかっていることなのだけれど、なんでいまさら、こんなタイトルの本が出てくるかなぁとため息が出てしまったのです。
とは言っても。
まぁ小室さんの本を読んでる人の方が少ないし、いまの大学受験産業の仕組みの中では「最初から決まっている答えを覚えるのがベンキョウ」という事になっているから、こういう当たり前の事が、さも珍しい考え方であるかのように、書店に出てきたりするんだろうなぁと逆の意味で感心してしまいました。
科学というのは、99.9%ではなくて、100%仮説です。仮説だからこそ、検証による確認が必要で、そのすべての仮説は検証実験によってのみ、わずかに担保されているに過ぎないのであります。
「たぶん、こういうことやろ」と誰かが考えて、その考え方が正しいかどうかを検証実験する。
つまり、「検証実験をする」という態度は「すべてが仮説である」という前提なくして成立しないわけですよ。でしょ?
真に正しい「真理」であるなら、検証する必要はない。
(数学の公理と、神学における道徳観などは検証はされませんがね。これは逆に検証したらアカンもの、ということになります。)
これが当たり前の学問的態度やねんけどねぇ。
実際、人間がなぜ生きてるか、なんてことは科学では解き明かすことが出来てません。まったくの人工で、生命を作るということも無理です。
だからその意味では、「真理」というのは、常に神とかの「宗教」の側に存在することで、科学というのは「検証がなされた後の、繰り返し再現性があると認識されている出来事」のひとかたまりでしかないわけです。
だから科学の側に「真理」などというものは、あるわけがない。これが当たり前の常識なわけでして。
しかし、どうも、こういう、物事の大きな大きな枠組みが分っていない人の方が、どうやら多いようですねぇ。
うーん。そうか、そうなのか。
「大抵の科学は100%仮説に決まってるやないか!それなくして検証するという重要な過程が成立する訳ないやんけ!アホか!」と思うんだけど、そう思う私の方が、どうにもマイナーな存在らしいのですね。困ったことに。
うーむむむむ。
科学はすべて仮説である、という当たり前の事が分ってない人ほど、科学を宗教のように扱って、宗教とは何か? という事を学ぼうとしない。
ユダヤ教、キリスト教(プロテスタント・カソリック)、イスラム教、仏教、儒教、神道、道教あたりは、ざくっと、その「構造」「考え方」くらいは押さえておかないと、心の安寧も得られないってものなんですがね。ほんとうは。科学なんて単なる仮説やから、何の頼りにもならないのである。
でも、日本人ってこのあたりの事が分ってないから、宗教を「こわいもの」と思ってるのよなぁ。別に怖いもんじゃないよ。
っちゅうか、知らずに無茶苦茶な捉え方をしてる方が、よっぽど危険でっせ。宗教心に篤い国で、ものすごく失礼な事をして、嫌われるとかの可能性もあるし。
勉強しよう!本を読もう!と言うと、科学的仮説ばーーーっかり勉強してしまう人も多いんだけど、いやー、それは違うやろ、とか思うのよなぁ。本当に。
歴史とか宗教とか、他にもっと勉強せなアカン項目があるんと違いますか? と思うねぇ。
あと、偉い人の経験談を読むとか。そう言うことも大事。物事は「体系」なのよね。「体系」。関係性の中でこそ真実らしきものは姿を現すのであって、分析的に科学的アプローチを繰り返しても、本当に大事な話にはたどりつけないって思う。
なので、あえて言うなら「ネット検索より本を読め」って事になる。
あ、話がズレてきたので、今日はここまで。
とにかく、「99.9%は仮説」というタイトルが、なぜ書籍のタイトルになるかを改めて考えて「あ、そうか!みんな科学を真理やと勘違いしてるんや!」という事に気付いて愕然としてしまった、という話です。
仮説やからこそ科学やねんで〜〜〜〜!!!!!
と、私は声を大にして叫びたくなったのでありました。
なんか情けないわ。私は。
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