ちょっといろいろ本を読んでいて思った事があるので、書いてみたい。

それは人間の認識力という問題。認識力というのはものすごくあやふやだという話なんですね。

知ってる人には有名な話ですが、マゼランが世界一周で、南米最南端のフェゴ島に到着した時の話ですが、マゼランが乗ってきた大型帆船4隻が、フェゴ島に住む人たちには「見えなかった」のですね。

大型帆船から島に乗り込むために、マゼランたちが使った小さな船は彼ら原住民にも「見えた」んです。しかし大型帆船は「見えなかった」のです。

だから、彼ら島の住民にはマゼランがどうやってやってきたか想像もつかなかったし、わからなかったのだそうです。

あとから、大型帆船を「船」と認識していない、ということがマゼランたちにもわかって、「あの大きなものは、我々の船なのだ」という事を、くりかえしくりかえし説明して、それでなんとか理解できたみたいなんですけど、とにかく認識していないものは「見えなかった」わけです。

で、これと同じ話は、実は日本の黒船到来の時にも逸話が残っています。確か司馬遼太郎の「竜馬が行く」に書いてあったのだと思うけれど、黒船が来航したので、幕府の役人が秘密裏に接触しようと、近くの人間に案内をしてもらったが、到着したのに「黒船はどこにおるのだ!」と怒ったというのですね。ようするに大型船の大きさが予想外の大きさだったので、船と思わなかったんでしょう。

似た話はまだまだあって、登山経験のない人がヒマラヤを見たくて、ツアーで出かけ、ヒマラヤにもっとも近い標高の高い村から、その峰峰を見たときに「まったく見えなかった」のですね。その人は、ヒマラヤの雪に覆われた山肌をずっと雲だと思っていたのです。ガイドに「もっと大きい、高い山が、そこのあると思ってくださいね」と説明されて、はじめてその世界有数の山の雄大さを知ることになるのです。

ここに出てきた話は、みんな最終的には「見える」ようになったわけだから、それで良いのですが、みんなが見えているのに自分だけ見えてないとイライラしたり腹がたったり、大変なわけですよ。
でもそれは、自分の経験とか認識力だけに頼ったままだから、そうなるわけですね。

身の回りに、もっと大きな真実をキチンと教えてくれる人がいて、その人の話を「理解しよう」と思って素直に聞けば、真実はちゃんと見えてくるわけです。

自分の経験とか感覚とか「だけ」に頼ると、そういう大きな真実って言うのは見えてこないんですね。自分の感覚をフィードバックする校正装置としての「知識」とか「他者からのアドバイス」というものを活用しないと、山も見えないわけです。

それで思うのが、「鉄砲伝来」という事。あれは学校の歴史の時間には「鉄砲伝来、1543年」とか暗記するだけの事になってますけど、鉄砲が来たという事は、それに伴って、おおむね、ヨーロッパの文化・文物がやってきたという事なわけですよ。

たとえば、地球儀。地球は丸かったのだ、ということが、少なくともこの時点で信長・秀吉・家康という最高権力者には伝わっていたわけです。

しかし、その知識も日本で一般化するまでには、ここからまた200年以上かかってます。

それから、メガネというか、レンズ。これも、この時代には日本に来ている。なんと徳川家康はメガネをかけていたんです。老眼だったらしいけど。

それから、「黒人」。これも信長の時代に日本に連れてこられていて、信長が家来に命令して黒人の肌を洗わせています。墨でも塗っているのではないかと疑ったらしいんですね。
(しかし、洗って確かめるというところに信長らしさがありますなぁ。まぁそれはそれとして。)

信長は、この黒人を気に入り、自分が大名行列みたいに市中を練り歩く時の先頭に、この黒人を立ててるんですな。もう、周りの人間はびっくり仰天です。

で、その横に通訳のためか、誰か白人が一人ついてたらしいんですけども、その人間がメガネをかけていた。
で、実は、このメガネがまた、当時の一般民衆にはびっくり仰天だったので、「信長は黒い人と目が四つある人間を引き連れて歩いていた」と話題になったのだそうです。

目が四つある人、だよ。すごいでしょ。なんだあれは! という、そういう驚きですわね。

信長は、こういう具合にオープンにしてしまって隠さないから面白いのだけれど、実際のところ、メガネにしても黒人にしても当時の人間には見ること自体が難しい訳だから、

●黒い人
●目が四つある人

と聞いても、黒い服を着ている人間とかしか想像できないだろうし、目が四つのほうに至っては、本当に目が四つある人を想像したでしょうな。
でも実際に肌の黒い黒人は存在しているし、メガネをかけている人を横から見たら、屈折率の加減で、レンズの中の目玉と、実際の目玉の両方が見えるということもあるだろうから、まさに「目が四つある人」はいてる、という事になるわけですよ。

でも、アタマのかたい人ほど「そんな化け物みたいな人間はおらんよ」と否定するという事になるわけです。

(ちなみに、豊臣秀吉は、手の指が六本ある特異体質の人でした。信長は秀吉を「サル」とも呼びましたが「六つ」とも呼んでたそうです。まぁ時折そういう人もいてるらしいので、おかしなことでもありません。)

しかし、こういうスゴイ事実とかを、そのまま「黒い人がいる」と文章で書いても、これはやっぱり、なかなか伝わらないのですね。読む側に「読み解く力」がないと、なかなか難しい。

やっぱり「黒い人とは書いてあるが、これは黒い服を来た人の事だろう」とか、自分の理解できる範囲の話に、内容をひんまげて読んでしまうんですね。

あんまり本とか文書とか、そういうものの「読み込み」というのをキチンとやってない人は、こういう「理解できる範囲の答え」に飛びついてしまうわけです。

で、実は、日本の知識層の知識の多くが、そういう「自分勝手な解釈」の積み重ねになっていたりするので、話はやっかいなんです。

「黒い人とは書いてあるが、ようは黒い服を着た人の話だろう。」と理解するのではなくて、「いや、黒い人と書いてあるのだから黒い人がいたのだと解釈すべきだよ。」と言える人にならないといけないわけです。

この自分勝手な解釈のひんまげというのが、本当に問題でねぇ。

たとえば、信長の「桶狭間の戦い」というものも、20年くらい前は「狭間(はざま)」なので、山の上から馬に乗って駆け下りていく信長の軍勢、みたいな表現が多かったわけですよ。司馬遼太郎の「国盗り物語」でもそうだったんじゃないかなぁ?

しかし、史実を比較的現実に忠実記載しているだろうことで評価の高い「信長公記(しんちょうこうき)」には、ちゃんと「おけはざまやま」と記述があるのですね。「おけはざま山」です。

で、その山の下から上に向かって駆け上って行ったとか、明確に記述がされてるわけです。

けど、ぼやっとしか読まない人には「狭間」という谷のイメージと、時代がもっと前になりますが、同じ奇襲作戦ということで義経のひよどり越えがごっちゃになって、「駆け下りた」イメージになってたわけですよ。

このあたりを明確に指摘したのが、小室直樹博士の「信長の呪い」だったわけですが、まぁそれはそれとして。

ようは、人間はちゃんとしたガイドとなる知識を持っていないと、いまそこで起きている事実を、事実として認識すること自体ができないんだよ、という事が言いたかった事なわけでして。

ヒマラヤは「俺が思ってるより、はるかにはるかに大きいんだ!」と無理にでも思って見ないことには「見えない」んですね。

で、これは欧米からやってきた知識の大半がそういうものだと思います。まぁ法律であれ、なんであれ、みんな日本人は「黒い人というのは黒い服を着た人のことだろう」ばっかりやってるんですな。実際。いや、そやないよ、ということは言っておきたい気がします。だってそういう理解の仕方って百害あって一利なしやもんなぁ。何の得もメリットもない。

黒人はおるし、メガネもあるわけやからねぇ。

ほんま、ひんまげた解釈は、ただ単に混乱を増加させるだけでしかないと思います。まったくのムダ。

でも、そういうムダに固執するのが日本の大衆の文化なのかもしれません。

はぁ、困ったもんだ。

コメント

nophoto
陶子
2007年3月16日21:17

シゲさん、おひさしぶりです。
黒い人をそのまま黒い人と認識することは、
自分を含めて、大人にとって忘れがちな純粋な感覚なのかもしれませんね。
物事をストレートに、そのまま捉えることは、
時として、なんとなーくおバカっぽく? 思われるような気がして
ついついあれこれ解釈を付け加えずにはいられない、、、。
目が四つある人を信じたときの「驚き」ってものすごいでしょうね。
頭が固くならないように、びっくり体験の幅をひろげたいものです(笑)。
ただの白い雲が、実は想像を遥かに超えた大きな山だったことを思うと
なんとなくファンタジックでもありますね。
ではまた。コメント失礼いたしました。

シゲ
シゲ
2007年3月18日15:50

どうもどうも。コメントいただくとうれしいのでありますよ。

さて、実際、物事をそのまま、字句どおりに受け取ればいいのに、「よくわからない」からと言って、ねじ曲げて、ひん曲げて、ものすごくトリッキーな理屈を付け加えて自分独自の解釈をしてしまうっていう事をする人が意外に多いんです。
役人とかは、もうそういう「自分だけの勝手な解釈」の集合体・「ムラ」・一大勢力にまでなってしまってる感じがしますね。

で、字句通り「黒い人」を「黒い人がいてるんだろう」と想定する人は、「見てみたい」「確かめに行こう」となるんです。

でも、「黒い人なんて黒服を着てる人の言い換えでしかないよ」としか思わない人は、いつまで経っても確かめに行かないんですね。これはどうしてもそうなってしまう。
だから、なんでもない「字句通りに読む」ができない人は、自分の妄想(=黒人は存在しない)の中にずーっと閉じこもり続ける事になってしまうわけです。

だから、まぁ、陶子さんのように素直な方はどんどんファンタジックな体験を重ねていける訳ですけど、そうではない人は、もう、それは、いつまで経っても「黒い人は黒服の人の事だ」ばっかり言い続けるって事になるんですね。

僕はそこのところが情けないなぁって思うんですが、こればっかりはしょうがないのかなぁとも思います。
どうなんでしょうね?

nophoto
陶子
2007年3月19日20:23

都合が悪いからですよね、多分。
引っ込みがつかないというか、メンツが立たないというか。
自分独自の解釈を押し通すのだとしたら
せめて、それ以外の別の見方もまたあるということを
受け止める度量みたいなのがあったらいいのに、と思うかな。
へへへ(照)

kaichu
kaichu
2007年3月28日2:17

認識についてこないだ人と話してたことがあるので書いてみますね。

ま、黒人や目が四つある人もそうですけど、言葉って言うのがありますよね。外国語とか。これは茶飯事に体験しているので、わかりやすいんですけど、「英語がぺらぺら」っていうじゃないですか。英語の内容がわからない人には「ぺらぺら」って言っているように聞こえる。そこに言語らしきものがあることはわかる。でも何いっているのかわからない。

私はインド舞踊を習っているんですが、ヒンドゥーで話している人たちが、リズムの話をしているとき(足裁きのための歌みたいな音があるんです)どこから言語でどこからその「歌」が始まっているのかあいまいだったりするんですね。

何かがあるけどなんだかわからない。

それは機能不全の生い立ちの中に覚えてしまった人間関係のパターンというのが含まれるんです。色盲の人みたいに、死角ある。なんだか変だけど何が変だかわからない。わかんないけどなんだかへんだ。という感じが続くんだよね〜みたいな話をしてたんですよね。(当初の人との会話の内容ね)

認識したことのないものはわからない。
認識できたらそれは大きな一歩なんですけどね。
ま、認識だけでは終わんないんだけど。

シゲ
シゲ
2007年3月28日15:10

どもども。kaichuさん。

「あいまいなもの」を「あいまい」と認識できてるんなら、それは問題ないと思うんですよ。
なんだかよくわからないものは「わからない」としておくって、大事な事だと思う。

ポイントは「怖がらないこと」だと思うんです。

わからない事は、普通、「怖い」んですよ。だから無意識に認識しないんですね。

都合の悪いものは見えなくなってしまう。

それが人間です。

でも、片方で「なんか、あやふやなものがあるぞ」と思ってる人間と、怖がって「そんなものはない」と言ってる者とがいると、ここで衝突が起きてしまうわけですよ。

まぁ、何事であれ、怖がってない人は、「あやふやなもの」に関しても、「そこにあやふやなものがある!」と自覚できますわね。だからそれは「あやふやなものがある」と認識できているって事ですよ。

だいたい外国語習得とかできる人は、そういうあやふやさとか(大抵は文化の違いなんですけど)「あやふやなまま」に認識できてますよね。
そのあたり、さすがはkaichuさんだなぁと思うんですが、そうではなくて、そういう「あやふや」にすら気づけないという人はいてる、という事なんですよ。

特に日本人には多いと思うんですが。
まぁ、このへんはいいか。とにかく「分りたくない」と思ってる人とは、コミュニケーションそのものが成り立たないなぁってことなんですよ。はい。

kaichu
kaichu
2007年4月3日5:30

とにかく「分りたくない」と思ってる人とは、コミュニケーションそのものが成り立たないなぁってことなんですよ。

シゲ
シゲ
2007年4月3日11:06

そうなんですよkaichuさん。「分りたくない人」とは、本当にコミュニケーションが全然なりたたないんですよ。
で、「そういうコミュニケーション拒否とかしてても人生ムダにするだけだから、やめた方がいいよ」という事を言っても、よけいにカラに閉じこもるだけなんだよね。
本当に困る。
そういう人とは関係を持たないようにすればいいのかも知れないけど、でも、肉親だったり大事な人だったりすると、ほっとく気にもなれなくて無理のない範囲では、なんとか接触を保っておこうとはするんだよねー。
それで良い方向に向かうかどうかは未知数なんだけど、諦めるのもまた、なんか自分が課題に取り組めてないなぁって気もするしさ。
ま、自分に無理のない範囲ならつないでおいてもいいかな、とかは思うわけです。

kaichu
kaichu
2007年4月3日23:16

あ、そうだこれこれ。昨日思い出したんだけど、否認するということは自己防衛なのです。アディクションも自己防衛。自分の内部がある程度出来上がってないと、事実を受け入れることはできないんです。だから体も感情も自然に否認してしまう。

これはそうやって自分を守って育ってきたわけだから、仕方がないんです。否認等の自己防衛をしている人は、いつかわかるかもしれないし、わからないかもしれない。でもほとんどは私たちとは何の関係もない。

いくら「教えてあげよう」としても、意味がないんです。こちらの行動の教えてあげようという行為自体が、自分自身の欲望、人の上に立ちたい、人よりよりよくありたいという、コントロールしたい欲望であることが多いのです。相手が、求めてくれば、そして自分が与えてあげられるのならば、与えてあげればいい。でもそうでない場合は、押し売りになってしまうのですね。

で、相手の回復はどうするかというとハイヤーパワーに預けることしかできない。

自分の回復もさまざまさな過程をえてきていて、それは自分自身の自分の意志超えた力によるものだから、他人にもその力は備わっているので、その力に預けてしまうしかない。

結果は私たちにはわからなく、まったく無力なんですね。残念だけど。私たちは誰かの神にはなれない。誰も、他人の神にはなれない。

私「人のうえに立つ」という言葉が大嫌いなんですけど、人は人の上に立てないんです。そこに本当の事実を受け止めていかなくちゃいけない。

なんか長く書いちゃった。

シゲ
シゲ
2007年4月4日0:08

kaichuさん。
正しいですなぁ。その通り。ハイヤーパワーに預けるしかないのよね。結局は。

で、教えてあげたいって気持ちはようするにこれまた自分の欲望だから、それをやるとよけいにまずいのだけど、そうすると、「関係を絶つ」しかなくなっちゃうのがね。困ったことだなぁって思うのですよ。

でも、僕は基本的に「否認は自己防衛」っていうのは、ウソだと思ってるんですよね。自分を認めた方がラクだもん。否認してると自分が辛い。でも、否認してる人は、自分がそういう辛い状態にいてるんだという事自体を認めたくないわけよね。認めると辛いから。

でも本当は、ちゃんと認めると、認めた時はすごく辛いけど、その後、自然と辛さが薄らいでいくわけじゃないですか。まさに時間という妙薬がある。でもって、そういう妙薬こそハイヤーパワーそのものだし。

だから一時は辛くても、自分の辛い状況をさっさと認めちゃった方がラクだと思うんだよね。少なくとも僕は。

まぁでも、そこに気付きたくないって人はしょうがないもんね。押しつけはダメだし。

でも、押しつけはダメだけど、「否認は自己防衛」って言う言い方はあんまり好きじゃなくて「否認というモラトリアムは好きなだけやって良いんだよ」くらいにしておきたいなと僕は思います。ずーっと死ぬまでモラトリアムしていても良いわけですよ。それは。でも、モラトリアムはモラトリアムだよな、というスタンスは保っておきたい気がします。

kaichu
kaichu
2007年4月4日23:31

そうですか。でもやっぱりわたしは、「否認は自己防衛」と思っているよなあ。なぜかって言うと、どんどんと回復を続けていると、自分の否認の形がどんどん変わってくるわけです。て言うことは「否認してない」と思ってたことが実は否認だった、ということがどんどん出てきて、あらあらあら〜っとなるのです。

そうすると、一ヶ月前「これは否認じゃないもん!」と思ってがんばってた自分は実は否認してたりして、そういう自分を見てて、「そうか、そう思わないとつらかったのね・・・。」とシンパシーを感じてしまうのです。

批判的なものの見方は捨てる、というのが今の私の課題なので。もちろんみなスタンスは違っていいんですよ。

シゲ
シゲ
2007年4月5日3:11

ああ、「『否認してない』と思ってたことが実は否認だった」ってのはあるよねー。確かに。

んー、でもそれって、最初に自分の内面に否認(=不幸な状況を認識しないようにしているような状態)があるのでは? と、内面の洗い直しをしてはじめて出てくるもののような気がする。

逃げてるだけの人は、たぶんやっぱり死ぬまでずっと「気付かない」ままだと思うよ。いや、別にそれが悪いとも思わないんですけどね。そうしたいのならしてたらいいと思うし。それも人生なんだし。

でも、kaichuさんみたいに「そう思わないと辛かったのね」とか内面の整理ができる人って言うのは、ようは自己防衛じゃなくて自己の直視をしてる人だって気がするけどなぁ。

できない人は本当に、徹底して出来ないし、逃げるよ。自分と対面すること自体を。ウソをつきまくって、回りに迷惑かけまくって、ふりまわして、それでも自分に責任があるとも、自分の内面のごまかしが原因なんだとも思わなくて、何か適当な理由をつけてごまかす。そういう人はkaichuさんみたいに「回復」には至れないよね、なかなか。

ま、そのうちなんとかなるのかも知れないし、そのままかも知れないし、それはわからないんだけど。

実際、アル中にせよ、ギャンブル中毒にせよ、どんどん依存の悪癖に浸りきってひどくなっていく過程に付き合わされる人はたまらんと思うよ、それはやっぱり。当人にとっては自己防衛なんだろうけど、やっぱり回りを巻き込むからなぁ。ちょっと辛いですよ。回りにいてる人は。やっぱり。

kaichu
kaichu
2007年4月12日23:46

そーね、だからこそアラノンとかができたんだと思うんだけど、結局「振り回して周りに迷惑をかける人」のそばにいる人は、その人の傍にいて何かを得ているわけだから、(ま、だいたい自分の問題に直視したくないから回りのドラマにかかわっていたいというのが多いですが)その周りの人に振り回されることで悲しみや楽しみ(?)をえないで、じゃあ自分に目を向けてみれば?
という提案が出てくると思うんです。

そこで一番きついのが, detachment 日本語で言う「手放すこと」なんですが、これに関しては色んな文献がアラノンとかで売っているので、まあぜひ買ってほしいような・・・。

「斧で断ち切る」という言葉があるんだけど、斧で断ち切るのではなくて、「愛を持って手放す」のがdetachment といわれますが、これは本当に難しいので、一生の仕事と思ってもいい。斧で断ち切ることしかできないときは、そのときはそれでもいいのです。それは試みの過程であるのだから。

とはいえ、自分を直視してもいるんですが、逃げ場がなくなってきた感じがあります。
きついわ。

シゲ
シゲ
2007年4月13日11:04

そうね。多分、気持ちが前向きの時と後ろ向きの時とで対処の仕方が違うんでしょうね。
後ろ向きの時は、自分なんか直視したら辛いだけだから、「よくわからん。助けて!」と、神さまとか、そういう大きなものに引っ張っていってもらう方が良いだろうなとは思う。無理なもんは無理やし。

逆に前向きになった時は自分を直視して、解決していけばいいわけですが、問題は前向きになった人間が後ろ向きの人間と、どうしても関わらないといけない時なのよね。
それはタイミングが違うのだから、「こうしてやろう」とか思わずに、それこそ斧で断ち切るように、相手の存在まるままを認めて、手放してあげなきゃしょうがないんだと思うんだけど、こっちもやっと前向きになったばっかりだったとすると、後ろ向きの人の発想とかが「引き戻し」をされてるように感じちゃうのよね。

ここが問題なんよなぁ。

引き戻しをされてるように感じるから「邪魔するな!」と言いたくなっちゃう。
難しいよねぇ。わかってはいてるんだけど。

kaichu
kaichu
2007年4月15日11:43

うーん、引き戻された気持ちになるのはそれはたぶん、相手のせいだけではない気がするんだよね。やっぱり引き戻された状態のほうが慣れているからね、快適というか、仕方がないんですよ。だって数十年間そのパターンでやってきているんだからさ。

で、たぶんそれは相手のせいでも自分のせいでもない。なれないことしているから難しくて当たり前だから、「引き戻された」と思ってもいいんですよ。
いいんだけど、じゃあどうするか、ってことはやっぱり、自分でしかわかんないんだけど、その方法をわかってくれる人と話し合って見るとか、分かち合ってみるというのが試みの提案になるんですけど、なかなかそういう人もすぐには見つからない。
ていうか、すぐに何かが変わるという期待自体が、自分をがっかりさせるための罠と思ってもいいくらい。
すぐに物事が変わらなくて当然、だって数十年の歴史があるわけですからね。

と思っていくのもいいかなと。

nophoto
珀瑤
2007年5月19日7:39

はじめまして^^;
検索から飛んできました

儒学に興味がありまして…
で、今日は、2回目の訪問で、この記事を
読ませて頂きました。

ふむふむ。と頷くばかりです

見ること。勝手な解釈をしてしまいますよね
良い勉強というか…なるほど!って
気付くことが出来て、僕も頭を使わないと…と思いました

見る力、つけていきたいと思います。

また、お伺いしますm(__)m

シゲ
シゲ
2007年5月19日15:06

>珀瑤さん
はじめまして。
わざわざの書き込みありがとうございます。
儒学に興味をお持ちですか。儒学は中国の帝王学でもあり、中国特有の「天」の概念とも一対をなすものですが、日本に渡ってきた儒学は、そのあたりの基本部分があまり語られていない独特なものになっているかも知れません。

いつも同じ事ばかり書いてるのですが、小室直樹先生の「日本人のための宗教学入門」だったかな? という本がいろいろな宗教の本質だけを抽出して紹介していてわかりやすいですよ。おすすめです。

ではでは、また気軽にお書き込みください。

nophoto
珀瑤
2007年5月20日16:06

シゲさん
こんにちわ!

レスありがとうございます!
日本に伝わってる儒学は、基本部分が詳しくないのですか!

小室直樹先生の「日本人のための宗教学入門」ですね!読んでみます。
教えてくださり、ありがとうございますm(__)m

また、ゆっくりシゲさんのブログを読みにきます!

シゲ
シゲ
2007年5月20日19:15

>珀瑤さん
えーっと中国は広い国なので、全体を包む文化的基盤が「血縁」のみになりがちなんですよ。なので、統治者の下で働く官僚が「親戚優先」になってしまう。
そういう血のつながりを、政治から、いかに排除していくかが大事な課題で、そこから宦官という恐ろしいものまで生まれてしまったわけです。
なので逆に庶民の暮らしとしては「親をうやまえ」というのが重視されるようになってるんですね。
これはあくまで中国大陸特有の背景があってのことなんですけど、その儒学の背景を理解しないままに日本に輸入して、朱子学とかいろんなものに転化していったという流れがありまして、日本国内の、たとえば江戸時代の本居宣長とか、そういうところだけを学ぶと、少し本場の中国とは異なった法・礼の体系になっている可能性が高いです。

ま、僕はくわしくないので、ご自分でいろいろ勉強なさってください。

では。

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