それでもボクはやってない。
2007年2月17日 映画 コメント (5)少し前(07年1/27日)にmixiで書いた映画の感想。
なんとなくこっちに転送しておきたくなりました。
電車に乗らないっていうのは、悪い言い方すると「都会人ではない」って事なんですよね。良くも悪くも。
田舎に住む人は、見ず知らずの人と、おなじ時間と空間を共有することの大切さと面倒くささを最初から放棄してる。
なんせ車があるから。
でも、電車に乗るっていうのは、「みんな一緒に生きている」という実感を持つという意味があるんだよね。
そこの大切さを分らない人は田舎者だと思う。いい意味でも悪い意味でも。自分の家族だけが大事で、世の中の流れがどうなっているかとかに興味が持てないタイプ。
最近はコーナンとかができてきて、大阪とか東京とかに住んでいても、生活の基盤が車になっていて、電車に乗らないって人がけっこういてる。
そういう人には、この「それでもボクはやってない」は、あんまり切実な問題として実感出来ないんだろうなぁと思うんだけど、それは要するに日本の司法の問題点とか、いま、自分が住む国の政治体制とかがどうなっているのかに対して鈍感というかトンチンカンでしかないって事なんだよ、と言っても、やっぱり多分それは車やバイク生活している人にはわからないだろうなぁって思う。
でも、とにかく、この映画だけは、そういう人にも見て欲しいんですね。
「お願いやから見てくれ。」と懇願したくなる。お前ら、アホのままでええんか? ほんまに。アンタの知らんところで、どんどん国が悪くなって行ってるんやで。実際。わかってんの? とか言いたくなる。
たぶん、電車に乗るか乗らないかが、都会人か田舎者かを分ける境界線なんやろなぁと、実は思っている私。
ともあれ、この「それでもボクはやってない」は、日本人なら絶対に必見の映画です。
必見。
絶対に見るべし。
そういう映画。
そういうものはある、という代表例ですな。たぶん。
この映画見てない奴と、基本的にはあんまり話をしたいとは思わないもんなぁ。ほんまに。
必見です。
------------------
映画、「それでもボクは、やってない」を見てまいりました。
で、感想は「必見。必ず見よう!」で終わり。他に言うべき事が何もない。
「Shall we ダンス?」の周防監督11年ぶりの新作で、痴漢えん罪事件を扱った社会派作品。前作とはガラリと雰囲気は変わって笑うところなんか全然ない作品です。
しかし、ウソのない、事実が持つ力だけでグイグイ引っ張る二時間二十三分は実に素晴らしく、観客は、男であろうが女であろうが、誰もが一瞬たりとも目をはなすことのできなくなる、力強さを持っています。
監督の周防さんが「体感90分」と言っているのはその通りで、「どうなるんだ!」という気持ちだけで、あっという間に最後まで見終わって、確かに時間感覚としては、90分ドラマを一本見た程度の負担しか残りません。
逆に負担がかかるのは、裁判の現実を知った、この国の現実という心の重さでしょうね。
痴漢してないのに間違われたら、どれだけ恐ろしいことになるのか、という怖さですが、それと同時に日本の司法システムが持つ、根本的な「壊れ方」がまざまざと見せつけられるというのがその本質です。
まったくの無実なのに、罪人としてしか扱われない裁判の現実。
その恐ろしさが、万里の長城のような堅牢・頑迷な壁として我々の周りに立ちふさがっている閉塞感。
この見た後の心の重さこそが、この映画の本質で、だからとにかく、「必見。必ず見ること!」と言うしかないのですね。
-----------------------
というところまでが、標準的感想。「とにかく見てくれ!」としか言いようがない。
でも、本当は、この「裁判」というものに横たわっている問題の本質とは一体何なのか? という部分が、多少は見えているところもあるので、この映画を「どう理解すべきか」ということのために、少し解説を書いておきます。
見る前から「絶対見なくては」と思っていたわけで、見終わった今も、あらゆる人に「一食抜いても、飲み会すっぽかしても、見て欲しい」という意見は変わらないんですが、でもあまりに映画がよく出来過ぎていたので、少し客観的意見も言いたくなってきました。
まず言いたい事は「裁判というものは、欧米から移植された仕組みである」という事ですね。基本的に日本人の心情にそぐわないものなんです。
欧米では、基本的に一神教ですから「裁くのは神である」という意識が強いわけです。「最後の審判」というものを神様がやってくれるわけだから、人間がいろいろ裁くこと自体を「間違っていて当然」としているわけです。
この部分が日本人とは決定的に違うわけでして、欧米では裁判というのは、「おろかな人間が行った、現世での仮の取り計らい」でしかないという大前提があるわけです。
だから、この映画の冒頭に出てくる「十人の真犯人を逃しても、一人の無辜(むこ:無実の人)を捕らえることなかれ」という言葉とか「疑わしきは被告人の利益に」という言葉が出てくるわけです。
国家というものは、大変な力を持っているわけですが、そういう強大な力を持ったものが暴走することを戒めるために、これらの考え方は存在しているわけです。
具体的に言うなら、国、つまりは警察が事件を立件させる、刑事裁判においては、検察側が挙証責任(つまり「こいつが犯人である」という証拠を提示する責任)を負わねばならないわけです。無実の側が「私は犯人ではない」という証拠を出す必要が一切無いというのが、本来の裁判というものなのです。
挙証責任は検察にあり、です。
だから、刑事事件で、犯人であるかどうかが判然としない場合には、被告人に対して有利に(=検察側にとっては不利に)事実認定をする。つまり「有罪ではない」と判定するのが裁判というものの基本中の基本なわけです。
ちょっと考えたら分かりますが、国家みたいな強力な機構が、自分勝手に力を振りかざしたら、一個人なんて逆らいようがないわけです。あっという間に踏みつぶされてしまします。
だから、「そういう踏みつぶしだけは、どうあってもやってはならない」という近代国家としての常識というものがあって、そこを守っていなければ、まともな裁判の仕組みとは言えないって事になるわけです。
実にまっとうな考え方ですわね?
いちおう近代国家というものは、そういう考え方の上に成り立っていて、だからこそ「推定無罪」という言葉があります。いくら、どんなに犯人として疑わしい人間であっても、有罪確定が出るまでは全員「無罪」として扱うということなんです。
このあたり、日本語で書くと「有罪」と「無罪」で「シロクロ決着つけようやないか」という話であるかのように聞こえますが、英語で書くと「guilty」と「Not guilty」という言い方をしますから、ニュアンスがまるで違う。
「有罪か」「有罪ではない」か、だけなんです。ようするに被告人に罪を問えるだけの確かな証拠があるかどうか? だけが問われるのが、近代的な裁判の仕組みで、無実かどうかは一切問われないんです。本来は。
なので、「どう見ても絶対にあの人が犯人だよなぁ」と分かっていても、証拠不十分で「有罪とは判定できない」=「無罪(Not guilty)」となるのが、まともな裁判のシステムだ、ということになるわけです。
このあたりで有名なのが、O.J.シンプソンの判例でしょうけど、まぁあんまり突っ込んで書くのはやめましょう。とにかく検察の側に黒人に対して差別意識の強い警官がいたから、証拠に客観的正当性が感じられず、「Not guilty」になりました。
でもね。これ、日本でなら間違いなく有罪判決が出ているんです。なぜなら、そこまで有名になった裁判は国民全員が注目しているから、下手に「無罪」なんてやってしまったら「どう考えても殺人者としか思えない人間を野放しにするのか!」と国民から突き上げを食らうからなんですね。
それこそ裁判官や司法そのものが非難囂々で全国民から責め立てられる。
わかります?
日本においては、「推定無罪」をやると、国民が司法を責めるわけですよ。
それはつまりどういう事に言い換えられるかというと「疑わしい奴はつかまえておいてくれ」なわけです。
もうね、はっきり日本人の感性では「推定有罪」こそが「国民の利益」なんですよ。
ここのところを自覚しておかないと、実はこの裁判問題というのは簡単には判定できないんですね。
「松本智寿夫は、とにかく証拠なんかなくても死刑になってくれなきゃ嫌だ。そうでないと落ち落ち寝てもいられん。」というのが、実は日本人の感性なわけです。で、なんでそうなるのかというと、「最後の審判」があるとは思っていないからなんです。宗教的な意味での「心の平安」がもともとないから、「疑わしい奴を閉じこめて、シャバを安心できるところにしておいてくれ」という「お題目」を唱えているわけです。
それが日本人の心の実感なんだから、これはもうどうしようもない。そういうものなんだもの。
だから、「疑わしきは罰せよ」という、本来の裁判のシステムの理念とはかけ離れた発想が成立してしまって、痴漢犯人かどうかわからない、この映画の主人公は、とてつもない「国家暴力」に巻き込まれていくわけですよ。
ようするに、我々のその「あやしい奴を社会から排除しておいてくれ」という気持ちこそが、この冤罪のしくみの「真犯人」なわけです。
「推定無罪」「疑わしきは被告人の利益に」「Not guilty」「立証責任」とかは、もう近代国家における「裁き」の基本中の基本で、この部分が壊れていたのでは近代国家とは言えないわけです。欧米の裁判の仕組みを移植するのであれば、この理念の部分をこそ移植しなければ、仕組みそのものが成立しないんですね。
言うならば「推定無罪」の考え方のない裁判の仕組みは「削除の仕組みはあるのに複写の機能のないワープロ」みたいなものなわけです。あるいはデータ削除はできるのに、copyコマンドのないOSと言ってもいいかもしれません。要するに基本仕様を満たしていないってことなんです。
だから、この映画に出てくる裁判官の態度とか検察の態度とかで「理不尽な!」と感じるところは、本当にどうしようもなく「壊れて」いると言って差し支えないわけです。本当に本当に、正真正銘、無茶苦茶なわけですよ。つまり日本に、まともな司法のシステムは存在していない、ということになるんです。
でも、です。
実際には、僕の中にだって「松本智寿夫は死刑で当然よなぁ。でないとたまらん。」という気持ちがありますね。証拠とかなんとかではなくて「あいつしか他に犯人がおるわけないやんけ。なんとかしてくれ。証拠とかどうでもええわい!」と思ってしまってる。
こういう気持ちが僕の中にある、ということこそが、まともな裁判システムの成立を邪魔しているわけです。
そこが良くわかるだけに、この映画は辛いんですねぇ。
やっぱり日本人にO.J.シンプソンの「Not guilty」は耐えられないやろしなぁって思ってしまう。
ということで、この「それでもボクはやってない」は、本当に素晴らしい映画なんですが、以上のような事で実に辛い。逆に言うなら、上記のようなことを真剣に学習するには最適の教材で、大岡越前の名裁きの時代に戻らずに、「近代裁判」の仕組みを、もっと正しく使うようにするという選択をするのであれば、この映画を見て学び、「松本智寿夫の裁判もちゃんとまともに証拠が出たのかなぁ」とか考えられるように自分をしつけるしかないってことです。
大岡裁きも近代裁判もどっちもあんまり好きじゃないけど、まぁ結局は近代裁判を選ぶしかないんだろうなぁという事で、それならばぜひ、この映画を見て「Not guilty」の必要性くらいは学習しておきましょうよ。というのが、まぁボクの言えるギリギリの意見陳述だなぁというところです。
なんとなくこっちに転送しておきたくなりました。
電車に乗らないっていうのは、悪い言い方すると「都会人ではない」って事なんですよね。良くも悪くも。
田舎に住む人は、見ず知らずの人と、おなじ時間と空間を共有することの大切さと面倒くささを最初から放棄してる。
なんせ車があるから。
でも、電車に乗るっていうのは、「みんな一緒に生きている」という実感を持つという意味があるんだよね。
そこの大切さを分らない人は田舎者だと思う。いい意味でも悪い意味でも。自分の家族だけが大事で、世の中の流れがどうなっているかとかに興味が持てないタイプ。
最近はコーナンとかができてきて、大阪とか東京とかに住んでいても、生活の基盤が車になっていて、電車に乗らないって人がけっこういてる。
そういう人には、この「それでもボクはやってない」は、あんまり切実な問題として実感出来ないんだろうなぁと思うんだけど、それは要するに日本の司法の問題点とか、いま、自分が住む国の政治体制とかがどうなっているのかに対して鈍感というかトンチンカンでしかないって事なんだよ、と言っても、やっぱり多分それは車やバイク生活している人にはわからないだろうなぁって思う。
でも、とにかく、この映画だけは、そういう人にも見て欲しいんですね。
「お願いやから見てくれ。」と懇願したくなる。お前ら、アホのままでええんか? ほんまに。アンタの知らんところで、どんどん国が悪くなって行ってるんやで。実際。わかってんの? とか言いたくなる。
たぶん、電車に乗るか乗らないかが、都会人か田舎者かを分ける境界線なんやろなぁと、実は思っている私。
ともあれ、この「それでもボクはやってない」は、日本人なら絶対に必見の映画です。
必見。
絶対に見るべし。
そういう映画。
そういうものはある、という代表例ですな。たぶん。
この映画見てない奴と、基本的にはあんまり話をしたいとは思わないもんなぁ。ほんまに。
必見です。
------------------
映画、「それでもボクは、やってない」を見てまいりました。
で、感想は「必見。必ず見よう!」で終わり。他に言うべき事が何もない。
「Shall we ダンス?」の周防監督11年ぶりの新作で、痴漢えん罪事件を扱った社会派作品。前作とはガラリと雰囲気は変わって笑うところなんか全然ない作品です。
しかし、ウソのない、事実が持つ力だけでグイグイ引っ張る二時間二十三分は実に素晴らしく、観客は、男であろうが女であろうが、誰もが一瞬たりとも目をはなすことのできなくなる、力強さを持っています。
監督の周防さんが「体感90分」と言っているのはその通りで、「どうなるんだ!」という気持ちだけで、あっという間に最後まで見終わって、確かに時間感覚としては、90分ドラマを一本見た程度の負担しか残りません。
逆に負担がかかるのは、裁判の現実を知った、この国の現実という心の重さでしょうね。
痴漢してないのに間違われたら、どれだけ恐ろしいことになるのか、という怖さですが、それと同時に日本の司法システムが持つ、根本的な「壊れ方」がまざまざと見せつけられるというのがその本質です。
まったくの無実なのに、罪人としてしか扱われない裁判の現実。
その恐ろしさが、万里の長城のような堅牢・頑迷な壁として我々の周りに立ちふさがっている閉塞感。
この見た後の心の重さこそが、この映画の本質で、だからとにかく、「必見。必ず見ること!」と言うしかないのですね。
-----------------------
というところまでが、標準的感想。「とにかく見てくれ!」としか言いようがない。
でも、本当は、この「裁判」というものに横たわっている問題の本質とは一体何なのか? という部分が、多少は見えているところもあるので、この映画を「どう理解すべきか」ということのために、少し解説を書いておきます。
見る前から「絶対見なくては」と思っていたわけで、見終わった今も、あらゆる人に「一食抜いても、飲み会すっぽかしても、見て欲しい」という意見は変わらないんですが、でもあまりに映画がよく出来過ぎていたので、少し客観的意見も言いたくなってきました。
まず言いたい事は「裁判というものは、欧米から移植された仕組みである」という事ですね。基本的に日本人の心情にそぐわないものなんです。
欧米では、基本的に一神教ですから「裁くのは神である」という意識が強いわけです。「最後の審判」というものを神様がやってくれるわけだから、人間がいろいろ裁くこと自体を「間違っていて当然」としているわけです。
この部分が日本人とは決定的に違うわけでして、欧米では裁判というのは、「おろかな人間が行った、現世での仮の取り計らい」でしかないという大前提があるわけです。
だから、この映画の冒頭に出てくる「十人の真犯人を逃しても、一人の無辜(むこ:無実の人)を捕らえることなかれ」という言葉とか「疑わしきは被告人の利益に」という言葉が出てくるわけです。
国家というものは、大変な力を持っているわけですが、そういう強大な力を持ったものが暴走することを戒めるために、これらの考え方は存在しているわけです。
具体的に言うなら、国、つまりは警察が事件を立件させる、刑事裁判においては、検察側が挙証責任(つまり「こいつが犯人である」という証拠を提示する責任)を負わねばならないわけです。無実の側が「私は犯人ではない」という証拠を出す必要が一切無いというのが、本来の裁判というものなのです。
挙証責任は検察にあり、です。
だから、刑事事件で、犯人であるかどうかが判然としない場合には、被告人に対して有利に(=検察側にとっては不利に)事実認定をする。つまり「有罪ではない」と判定するのが裁判というものの基本中の基本なわけです。
ちょっと考えたら分かりますが、国家みたいな強力な機構が、自分勝手に力を振りかざしたら、一個人なんて逆らいようがないわけです。あっという間に踏みつぶされてしまします。
だから、「そういう踏みつぶしだけは、どうあってもやってはならない」という近代国家としての常識というものがあって、そこを守っていなければ、まともな裁判の仕組みとは言えないって事になるわけです。
実にまっとうな考え方ですわね?
いちおう近代国家というものは、そういう考え方の上に成り立っていて、だからこそ「推定無罪」という言葉があります。いくら、どんなに犯人として疑わしい人間であっても、有罪確定が出るまでは全員「無罪」として扱うということなんです。
このあたり、日本語で書くと「有罪」と「無罪」で「シロクロ決着つけようやないか」という話であるかのように聞こえますが、英語で書くと「guilty」と「Not guilty」という言い方をしますから、ニュアンスがまるで違う。
「有罪か」「有罪ではない」か、だけなんです。ようするに被告人に罪を問えるだけの確かな証拠があるかどうか? だけが問われるのが、近代的な裁判の仕組みで、無実かどうかは一切問われないんです。本来は。
なので、「どう見ても絶対にあの人が犯人だよなぁ」と分かっていても、証拠不十分で「有罪とは判定できない」=「無罪(Not guilty)」となるのが、まともな裁判のシステムだ、ということになるわけです。
このあたりで有名なのが、O.J.シンプソンの判例でしょうけど、まぁあんまり突っ込んで書くのはやめましょう。とにかく検察の側に黒人に対して差別意識の強い警官がいたから、証拠に客観的正当性が感じられず、「Not guilty」になりました。
でもね。これ、日本でなら間違いなく有罪判決が出ているんです。なぜなら、そこまで有名になった裁判は国民全員が注目しているから、下手に「無罪」なんてやってしまったら「どう考えても殺人者としか思えない人間を野放しにするのか!」と国民から突き上げを食らうからなんですね。
それこそ裁判官や司法そのものが非難囂々で全国民から責め立てられる。
わかります?
日本においては、「推定無罪」をやると、国民が司法を責めるわけですよ。
それはつまりどういう事に言い換えられるかというと「疑わしい奴はつかまえておいてくれ」なわけです。
もうね、はっきり日本人の感性では「推定有罪」こそが「国民の利益」なんですよ。
ここのところを自覚しておかないと、実はこの裁判問題というのは簡単には判定できないんですね。
「松本智寿夫は、とにかく証拠なんかなくても死刑になってくれなきゃ嫌だ。そうでないと落ち落ち寝てもいられん。」というのが、実は日本人の感性なわけです。で、なんでそうなるのかというと、「最後の審判」があるとは思っていないからなんです。宗教的な意味での「心の平安」がもともとないから、「疑わしい奴を閉じこめて、シャバを安心できるところにしておいてくれ」という「お題目」を唱えているわけです。
それが日本人の心の実感なんだから、これはもうどうしようもない。そういうものなんだもの。
だから、「疑わしきは罰せよ」という、本来の裁判のシステムの理念とはかけ離れた発想が成立してしまって、痴漢犯人かどうかわからない、この映画の主人公は、とてつもない「国家暴力」に巻き込まれていくわけですよ。
ようするに、我々のその「あやしい奴を社会から排除しておいてくれ」という気持ちこそが、この冤罪のしくみの「真犯人」なわけです。
「推定無罪」「疑わしきは被告人の利益に」「Not guilty」「立証責任」とかは、もう近代国家における「裁き」の基本中の基本で、この部分が壊れていたのでは近代国家とは言えないわけです。欧米の裁判の仕組みを移植するのであれば、この理念の部分をこそ移植しなければ、仕組みそのものが成立しないんですね。
言うならば「推定無罪」の考え方のない裁判の仕組みは「削除の仕組みはあるのに複写の機能のないワープロ」みたいなものなわけです。あるいはデータ削除はできるのに、copyコマンドのないOSと言ってもいいかもしれません。要するに基本仕様を満たしていないってことなんです。
だから、この映画に出てくる裁判官の態度とか検察の態度とかで「理不尽な!」と感じるところは、本当にどうしようもなく「壊れて」いると言って差し支えないわけです。本当に本当に、正真正銘、無茶苦茶なわけですよ。つまり日本に、まともな司法のシステムは存在していない、ということになるんです。
でも、です。
実際には、僕の中にだって「松本智寿夫は死刑で当然よなぁ。でないとたまらん。」という気持ちがありますね。証拠とかなんとかではなくて「あいつしか他に犯人がおるわけないやんけ。なんとかしてくれ。証拠とかどうでもええわい!」と思ってしまってる。
こういう気持ちが僕の中にある、ということこそが、まともな裁判システムの成立を邪魔しているわけです。
そこが良くわかるだけに、この映画は辛いんですねぇ。
やっぱり日本人にO.J.シンプソンの「Not guilty」は耐えられないやろしなぁって思ってしまう。
ということで、この「それでもボクはやってない」は、本当に素晴らしい映画なんですが、以上のような事で実に辛い。逆に言うなら、上記のようなことを真剣に学習するには最適の教材で、大岡越前の名裁きの時代に戻らずに、「近代裁判」の仕組みを、もっと正しく使うようにするという選択をするのであれば、この映画を見て学び、「松本智寿夫の裁判もちゃんとまともに証拠が出たのかなぁ」とか考えられるように自分をしつけるしかないってことです。
大岡裁きも近代裁判もどっちもあんまり好きじゃないけど、まぁ結局は近代裁判を選ぶしかないんだろうなぁという事で、それならばぜひ、この映画を見て「Not guilty」の必要性くらいは学習しておきましょうよ。というのが、まぁボクの言えるギリギリの意見陳述だなぁというところです。
コメント
聖心で育った子の話では聖心の制服だからというので小学一年生のころから痴漢に狙われ続ける、という話を聞きました。やってない人が声高に叫ぶのも大事だけど、痴漢やっている人を見たら、すかさずキリで手に穴あけて携帯で110番するくらいの気合が欲しいよね、やってない人に。
だってそうじゃないと、通勤通学の電車に乗っているっていうことは、毎朝のスケジュールが一緒で、乗っている路線がかぶるんだから、後での仕返しが怖い。だからみんな痴漢に会う人は怖くて黙っているんだ。
あってみないと、わかんないだろうけどさ。
それと、「やってない!」はほぼすべての被疑者がいうので、ほんとにやってない人の声がかすんじゃう。
この、「ほぼ全員が罪状を否認する」というのは、破廉恥罪特有の物でしょうね。
うむ。女性の立場からは、そう考えてしまうのは仕方ないと思います。でも、あなたの捉え方ははっきり知識不足です。
まず「痴漢の数」と考えるなら、多いのは回数、つまり、やってる奴は病気で毎日やってるという事だというのをしーーーーっかり、考えてください。
病的な奴が一人いて、毎日やってたら、年で365回です。許せないのはまずそいつ。病気の奴なら、朝のラッシュを乗り継いで、3人くらいを狙うのも普通なんじゃないか?と思う。
ということは一人の「本物の痴漢」がいたら、一年で1000人を超える被害が出ます。
だから数が多いから「痴漢をやっている男の数も多いはずだ」は、あまりに男性に対して偏見のあるものの見方なのだ、という事をしーーーーっかり頭に入れてください。
痴漢なんかで捕まったら、人生終わりです。そこまでのリスクを犯して痴漢するバカなんて、そんなにたくさんいてるわけないんです。当たり前なんです。
そうではなくて、そういう線の切れてしまった奴が何度でも何度でも繰りかえしやってる、ってことです。
その事実認識からまず修正してくださいね。
基本的に男は自分の人生こそが大事なんです。
男は子供を産めません。だから仕事こそが命なんです。だから電車で痴漢なんて、そんなに簡単にするわけがないのです。そんな奴は頭がおかしい。
で、痴漢をする奴は、そこが切れてしまってる奴なんです。
だからこそ、本物の痴漢ではない、それ以外の人が責められたとしたら、それは近代国家ではありません。決して。そこはキッパリ、「絶対」です。
どうあっても絶対です。
だから、いくら疑わしくても、明確でないなら罰してはいけないのです。これは絶対なんです。
それから、
>これ書いた張本人(痴漢冤罪裁判でなんかの会長みたいになった人)、結局本当に痴漢しちゃって捕まったんじゃなかったでしたっけ?
の件。
ぜひ、映画を見てから意見を述べてください。どうしてもそうしてください。どうあっても絶対に映画を見てから発言してください。
ここは日本で、アメリカではないんです。無実の人に「二回も三回も罪を負わせる」という事を、裁判官が平気でやる国なんです。上告しても裁判官が平気で無実の人に罪をおっかぶせる国なんです。まずそここそが問題なんです。で、ウソも二回やったらホントになると言わんばかり、という事なんです。そこをまず知ってください。
だからkaityuさんは、そういうテキトー裁判官に「騙されている」だけの事です。
ここは法とは何かをまったくわかってない裁判官がいてる、土人の国、日本なんです。アメリカではないんです。
それから、どん太さま。
>この、「ほぼ全員が罪状を否認する」というのは、破廉恥罪特有の物でしょうね。
というのは、警察が、本当に科学的にキチンとした証拠をもとにした捜査をしている、という前提であるなら、そういう事になります。
そうじゃないんです。
あまりに適当なんです。ずさんなんです。ひどいんです。警察が目に余るんです。
で、そのさぼりまくってる、腐った警察のバカどもが、そういう純粋に警察を信じているどん太さんのような意見を盾にに平気で冤罪をバンバン「製造」しているというのが、現実なんです。
だから本当に繰り返し何度でも言いますが、本物の狂った痴漢は一人で数年の間に「万」の単位で痴漢をやっていて、そんな奴はそんなにたくさんいてるわけではないんです。
だから立件の数と痴漢の数を比べるという勘違いはやめていただきたいのです。
まともな大人の男として、そこは強く抗議を申し立てるものです。
「男なんてみんなケダモノよ」みたいなステレオタイプのものの見方が、無実の人をもの凄く苦しめている現実が、警察と裁判官によって日々「ねつ造」されているのだ、という、恐ろしい事実の方をこそ、真剣に考えていただきたいのです。
男と女が疑いあっている場合ではないのです。
「あやしきは罰せず」が「人間として絶対」に受け入れなければならない「法」であり「ルール」なんです。
司法の「死」は、男も女も超えて、「人間すべて」に対して害悪があるんです。
だから、絶対にどうあっても、「それボク」を見てから発言して欲しい。
切実にそれを望みます。
そういうところで男女の疑いを出すのは、ルール違反だと、ボクは思います。
まず司法がちゃんと機能していない、と言うことこそが問題なんです。
--------------
それから、もう一つ言うなら、痴漢問題で現行犯で痴漢逮捕するというのがまず真っ先に言われますが、それよりも、男女をすし詰めにして運んでいる電鉄会社の方が、問題で、アメリカ人なら、普通は痴漢被害に遭ったら、電鉄会社に民事訴訟を起こすだろうと思います。それが普通になれば、この問題も多少は風向きが変るはずなんです。
-----------------
と言うことで、大枠はそういう事ですが、万歳通勤なんて最悪なので、女性の方は、内側に針のついた指輪をして電車に乗って、触られたときにその針でひっかいてやってください。それなら間違いなく現行犯ですから。そいつこそが真犯人です。
痴漢をする奴は、信じられない方向から手を伸ばして痴漢をするんです。何千回とばれないようにやってきた極悪人なんです。罪をおっかぶせることすら「テクニック」として身につけているはずです。なので、「きっとこの人だ」とかの思いこみで、列車を降りてから「ちょっとそこのあなた!」とかやらないでください。
針付き指輪です。それはやってください。現行犯だけ、いままさに触ってる「手」だけを捕まえてください。
痴漢に迷惑しているのは、女性じゃないんです。
一番迷惑しているのは、男性なんです。
いいですか? 女性専用車両はあっても男性専用車両はないんですよ?
つまり「疑われる可能性」は、男にはずーっと残ったままなんですよ。
「男性専用車両」があれば、疑われずに済むから、ストレスなく電車に乗れるでしょうけど。それは男にはない。
なんでやねん!
だから、痴漢の被害は男の方がはるかに大きいのです。なぜなら、男全員が「疑われる可能性」があるからです。
そういう切実さの方をこそ、キチンと頭に入れて欲しいのです。
で、はっきり言いますと、警察も裁判所も、ここまでキチンと考えて法的判断してません。「疑わしきは罰せよ」だけでやってます。
まさにパーです。
あんまり女性が女性の立場でだけ文句を言うと、そういうサボリの警察官や裁判官をのさばらせるだけにしかならないということを、本当に良く考えて欲しいのです。
なので、絶対、絶対に、この映画を見てから考えてください。本当によろしくお願いします。
多分、本物の痴漢なら、完全に切れた奴だから、一駅ごとに車両から降りて、朝の一時間だけで、二十人や三十人に「触ろう」としてるに違いないです。
で、おそらくは、ばれにくいポジションが確保できて、なおかつ気の弱そうな子がそこに来たというようなチャンスにムチャをするんでしょう。で、一駅間で触って、別の車両にまた乗り換えると。
だから被害の数は痴漢一人で一日で二十人とかもザラなのではないでしょうか?
痴漢をするなんて、そういう狂った奴以外にありえないですよ。常識的に考えて。
だから、被害数と立件数の間に関連性などありません。パンツ泥棒が捕まったときのパンツの数を思い出してください。
で。
であるならです。
逆に、なんで警察は、こんなにバンバン痴漢犯人をつかまえられるんか? っちゅう事です。
つかまえられる訳がない。
ようするに冤罪の率が異様に高いという事なんです。
で、しかも!
無実だ!と言うと延々何ヶ月も拘束されるから、やってもいないのに「やりました」という事にして釈放してもらってる男の人もものすごく多いんです。
このとんでもない状況をこそ、まさに「怒れる女性」に見てもらいたい。
本当に見て欲しい。
見てから意見を言って欲しい。
本当にそう思います。
繰り返し、何度でも言います。
この映画は必見です。
まず見てください。
見てください。
とにかく見てください。
本当に「真犯人」を捕まえていれば、手口が明らかになって、「電車のこういう位置に乗ったら、こういう角度から手を入れてきます。その場合は、この位置にいる人が犯人である可能性が高いです。また犯人はそれを隠すために、こういうトリックを使っています。」とかの手口情報が世の中にもっと出て良いはずです。
でも、それはない。
いまだに、世間一般の「こんなに被害が多いのだから、痴漢犯も多いはずだ」という幻想だけで終わっている。
ちょっと考えれば「異常者が一日に何人もの被害者を産んでいる」なんて思いつくはずなのに、肝心の警察がその可能性すら言及していない。
つまり。
警察のバカどもは、真犯人をつかまえたことなんてない! という事ですよ。
「やりましたと認めたら、拘留はしませんよ。駐車違反と同じです。でも認めないなら何ヶ月拘留するかわかりませんよ。」と言って、機械的に処理してるだけです。
そういう事がはっきりと、いま分った。
真犯人を捕まえていれば、「対応策」を警察がキチンとインフォメーションできるはずです。
ところが、それをやってない。ボケ警察のアホ役人どもは!!!!
なぜやってないかというと、そういう実態を把握してないからです。
なぜ実態を把握してないかというと、真犯人を捕まえた事がないからですわ。
そういう事ですよ。つまりは。
ようするに真犯人を捕まえて、女性も男性も両方を守ろうという気持ちすらないんです。警察は。
でしょ? 違いますか?
このあたりをこそ、真剣に考えていただきたいとボクは思いますね。