最近、怒りをコントロールするために、非常に有効な手段を見つけた。
まだ見つけたばっかりなので、身に付いてるとは言い難いのだけれど、いざやってみると、実に面白いほど怒りが治まる。驚くほどの効果である。
びっくりした。
やり方は簡単で、「全て私が悪いのだ。原因は自分にある。」と考える、という方法である。
それだけ。
他にオプションもへったくれも、何もない。
ただ、「ああ、俺が悪いんやなぁ。」と思うこと。
どこが悪いかを考える必要もない。ただ「俺が悪いんや」と考えたらそれでオーケーだったのであります。
こう考えると、もう、驚くぐらい、自分の「悪いところ」というのが見えてくるんですね。
「あ、あそこで、ああいう言い方したのがまずかった。」とか、「本当は、こう考えるべきだった」とか、そらもう、いくらでも反省点が出てくる。勝手に出てくる。
もの凄く簡単。
なんで簡単なのか?
自分の事だから、ですね。
自分が体験したことなのだから、自分の立場も都合も分っている。だから「私が全面的に、すべて悪いのである」という仮定に立てば、反省する材料には事欠かないわけです。
だって自分の事だもん。全部、どういう過程を経て、そういう行動・言動に至ったかの事情までわかってるんだもん。良い点は反省する必要もないけど、悪いところなら、いきなりいくらでも思いつく。
そうなると、人間関係で、誰かに腹を立ててたのが全部「あ、俺のせいか。」となって腹が立たなくなってしまうのですな。
いやー、びっくりした。
自分以外の人間に腹を立てたところで、その人の考え方を変えることなんて出来ないんだから、よけい腹が立つだけなんですな。無駄。それがやっと当たり前のこととして分った。
でも、自分の悪いところなら、すぐにでも改良できる。改善できる。希望があるわけです。楽しい。相手のせいにしてると、これは絶対一歩も動くはずがないんだから楽しくない。よけい腹が立つ。当たり前ですわな。そういう当たり前のことに、やっといま気付いたという次第。
誰かに腹が立つというのは、相手を鏡として自分を見ていることなのだ。誰かに腹が立つというのは、いろいろ理由はあるけれども、自分の弱点を相手に見せられるから腹が立つのである。
自分の思いこみでしゃべる人が嫌いだったとしたら、いま自分はもう思いこみでしゃべる人間ではなかったとしても、過去にそういう自分がいて、それを弱点、あるいは「許されない事」だと思っているから腹が立つのである。
僕は、アダルトチルドレンの学習その他で、「自己評価が低いのはいけない!」というのを知り、コツコツと自己評価を高めてきた。「自己評価が低いのは許せないこと」になってたわけです。
やっぱり大事なのは、自分の悪いところを見るのではなく、良いところを評価して、それを伸ばすという生き方、考え方なんだと思ってたんですね。
いや、それはそれで正しいんだけど。
確かに「自己評価の高い生き方」は実に素晴らしかった。いきなりとても生きやすくなった。生きる事が苦痛ではなく、楽しみになった。素晴らしい。もう、天国と地獄ほどの差なのです。
でもね。
あまりに、その展開の幅が大きかったものだから、「自己評価を低くしてしまっていた自分」を許せなくなっていたわけですよ。
「自己評価が低いなんてだめだ!」ってなってた。つまり過去の自分を許してなかった。言い方を変えれば、「ダメだった自分」を否定したかったわけです。過去の自分を消し去りたいとか思ってたんだろうなぁ。
だから、ついつい、そういう、過去の地獄のような苦しい生き方を「否定」するようになってしまっていたんですね。
自分がそうやって生きていたのに!
そういう「過去の失敗していた自分」を許して、愛してあげてないから、身の回りの「苦しい生き方」をしている人を見ると腹が立って仕方なくなってしまうわけですよ。
「もっと自分を愛したらどうなんだ!」「もっと自分を肯定しろよ!」ってね。
いやー、それ、なかなかできなかったんだから。
私、それが出来なくて苦しかったんだから。
いくら言っても、それはできないって。
言われて、出来たか?俺。
出来ん、出来ん。無理無理。
そんな高望みを押しつける方が悪い。
本当はそらね、「自己評価」が高い方が良いわけですよ。それは言うなら、「九九」ができないよりはできた方がいいってことと同じで。
でも、九九ができないから愛さないってのはダメだよなぁ。出来ない自分も自分なんだから愛してあげないといけない。
自分に対して、「自己評価が低くてつまらない生き方をしてた時の自分もまた、素敵な自分じゃないか。」と、自分自身を抱きしめてあげれば、身の回りにいる「自己評価の低い人」にも腹は立たないわけです。
まず自分を愛する。それが基本だしね。
「自己評価が低いのはダメだ!」と言ってる事自体が、実は自分の否定、つまり自己評価が低い事だった訳です。
わかります? この構造。
すべては自分の心の問題なんだよなぁ。
つくづく。
ということで、最近はちょっと禅とか内観とかに興味が出てきました。面白い。
ま、てなことで。
まだ見つけたばっかりなので、身に付いてるとは言い難いのだけれど、いざやってみると、実に面白いほど怒りが治まる。驚くほどの効果である。
びっくりした。
やり方は簡単で、「全て私が悪いのだ。原因は自分にある。」と考える、という方法である。
それだけ。
他にオプションもへったくれも、何もない。
ただ、「ああ、俺が悪いんやなぁ。」と思うこと。
どこが悪いかを考える必要もない。ただ「俺が悪いんや」と考えたらそれでオーケーだったのであります。
こう考えると、もう、驚くぐらい、自分の「悪いところ」というのが見えてくるんですね。
「あ、あそこで、ああいう言い方したのがまずかった。」とか、「本当は、こう考えるべきだった」とか、そらもう、いくらでも反省点が出てくる。勝手に出てくる。
もの凄く簡単。
なんで簡単なのか?
自分の事だから、ですね。
自分が体験したことなのだから、自分の立場も都合も分っている。だから「私が全面的に、すべて悪いのである」という仮定に立てば、反省する材料には事欠かないわけです。
だって自分の事だもん。全部、どういう過程を経て、そういう行動・言動に至ったかの事情までわかってるんだもん。良い点は反省する必要もないけど、悪いところなら、いきなりいくらでも思いつく。
そうなると、人間関係で、誰かに腹を立ててたのが全部「あ、俺のせいか。」となって腹が立たなくなってしまうのですな。
いやー、びっくりした。
自分以外の人間に腹を立てたところで、その人の考え方を変えることなんて出来ないんだから、よけい腹が立つだけなんですな。無駄。それがやっと当たり前のこととして分った。
でも、自分の悪いところなら、すぐにでも改良できる。改善できる。希望があるわけです。楽しい。相手のせいにしてると、これは絶対一歩も動くはずがないんだから楽しくない。よけい腹が立つ。当たり前ですわな。そういう当たり前のことに、やっといま気付いたという次第。
誰かに腹が立つというのは、相手を鏡として自分を見ていることなのだ。誰かに腹が立つというのは、いろいろ理由はあるけれども、自分の弱点を相手に見せられるから腹が立つのである。
自分の思いこみでしゃべる人が嫌いだったとしたら、いま自分はもう思いこみでしゃべる人間ではなかったとしても、過去にそういう自分がいて、それを弱点、あるいは「許されない事」だと思っているから腹が立つのである。
僕は、アダルトチルドレンの学習その他で、「自己評価が低いのはいけない!」というのを知り、コツコツと自己評価を高めてきた。「自己評価が低いのは許せないこと」になってたわけです。
やっぱり大事なのは、自分の悪いところを見るのではなく、良いところを評価して、それを伸ばすという生き方、考え方なんだと思ってたんですね。
いや、それはそれで正しいんだけど。
確かに「自己評価の高い生き方」は実に素晴らしかった。いきなりとても生きやすくなった。生きる事が苦痛ではなく、楽しみになった。素晴らしい。もう、天国と地獄ほどの差なのです。
でもね。
あまりに、その展開の幅が大きかったものだから、「自己評価を低くしてしまっていた自分」を許せなくなっていたわけですよ。
「自己評価が低いなんてだめだ!」ってなってた。つまり過去の自分を許してなかった。言い方を変えれば、「ダメだった自分」を否定したかったわけです。過去の自分を消し去りたいとか思ってたんだろうなぁ。
だから、ついつい、そういう、過去の地獄のような苦しい生き方を「否定」するようになってしまっていたんですね。
自分がそうやって生きていたのに!
そういう「過去の失敗していた自分」を許して、愛してあげてないから、身の回りの「苦しい生き方」をしている人を見ると腹が立って仕方なくなってしまうわけですよ。
「もっと自分を愛したらどうなんだ!」「もっと自分を肯定しろよ!」ってね。
いやー、それ、なかなかできなかったんだから。
私、それが出来なくて苦しかったんだから。
いくら言っても、それはできないって。
言われて、出来たか?俺。
出来ん、出来ん。無理無理。
そんな高望みを押しつける方が悪い。
本当はそらね、「自己評価」が高い方が良いわけですよ。それは言うなら、「九九」ができないよりはできた方がいいってことと同じで。
でも、九九ができないから愛さないってのはダメだよなぁ。出来ない自分も自分なんだから愛してあげないといけない。
自分に対して、「自己評価が低くてつまらない生き方をしてた時の自分もまた、素敵な自分じゃないか。」と、自分自身を抱きしめてあげれば、身の回りにいる「自己評価の低い人」にも腹は立たないわけです。
まず自分を愛する。それが基本だしね。
「自己評価が低いのはダメだ!」と言ってる事自体が、実は自分の否定、つまり自己評価が低い事だった訳です。
わかります? この構造。
すべては自分の心の問題なんだよなぁ。
つくづく。
ということで、最近はちょっと禅とか内観とかに興味が出てきました。面白い。
ま、てなことで。
コメント
いや、僕も安岡正篤のことはよく知りませんし、細木数子はどうにも好きになれないのです。でもまぁ表面的なことだけいろいろ言っても底は浅いし、良く知るってことは大事ですよねって話です。
『安岡正篤の研究』(明窓出版)というのはわかりやすそうな本のようですね。書店で確かめてみます。
書き込みありがとうございました。
いい歩みを歩んでらっしゃいますよね、シゲさんは。
>そういう「過去の失敗していた自分」を許して、愛してあげてないから、身の回りの「苦しい生き方」をしている人を見ると腹が立って仕方なくなってしまうわけですよ。
私もそういう時期ずっとつづきました。
自分に評価が厳しいから、返す刀で他者に辛辣になる、という構図、やってきましたよー。
自己評価をあげる、自己肯定をあげるというのは、「過去の自分」の限界性も受容・認容してこそなんでしょうね。
だって、過去に自分がそうであったのは、自分の才覚の悪さと言うより、すり込みを行った環境要因ゆえだもの。
環境は与件ですから、あれは、自分の人生の必然なんでしょうね。
相手のフォールト数え上げても、相手はうけとらないんだからくその役にも立たないもんね。自分のフォールトみつけておけば、自分の改善には使えるもの。
短い人生そっちこそ、すべきことだなあと。
これ、女友達に教えてもらったです。
そうなんですよ。自分の限界そのものを愛するってのが難しいんですよ。
「環境は与件なのだから人生の必然」っていうのもある意味、深淵なものがあります。人は自分で環境を定めた上で、この世に生まれ出るという考え方もありますからね。キリスト教の「予定説」なんかは、基本はそういう考え方ですものね。
ただ、思いますに、「私にも至らない点はあった」というのと「すべて私が悪いのよ」には、大きく違う点がひとつありまして、実はそここそが重要なんですよ。
それは「自分が気付かずに相手に嫌な思いをさせていたとしたら、それも私が悪いのだ」と、考えるかどうか、という点です。
「すべて私が悪いのよ」は、そこまで含めて、全面的に自分が悪いんだ、とするところに意味があるように感じてます。
当人は悪気があってしたつもりではなくとも、こっちが腹が立つという事はあるわけです。怒りの理由は人それぞれですから。それをひっくり返して、自分と相手を入れ替えて考えてみると、こちらが気付かずにやった事でも、相手は怒るのだから、それも「ああ、気付かないでごめんなさいね」と思うようにしないとダメだなぁってことなんですね。
で、そこまでひっくるめて「私が悪い」と「仮定」すると、ほんとうにそういう、「自分で気付いてなかった自分の弱点」などが自然と見えてくるんですよ。
そこが想像以上に重要なんです。問題の本質に気付いたり出来るんですね。
たとえば、「あいつは俺の事を分ってくれない」と思ってたとして、仮にそれを、「俺が全部悪い」と仮定すると「俺の側に説明不足があったのだなぁ」とか、あるいは「そもそも分らせる必要自体、ほんとうにあったのか? 単なる押しつけではないのか」とか、そういう方向に進んでいくわけです。
でも、それこそが本質ですよね。
自分で気付けた部分は改善できるわけですが、「私にも至らない点はあった」とするだけだと、自分で気付けてない問題点は改善できないわけですよ。
で、「全部」自分が悪いとしてはじめて、「自分で気付いてない自分の問題点」の改善に役立つわけです。ここが非常に重要なんです。
人と人とのもめごとは、コーヒーカップの取っ手と飾り模様みたいに、一つの事実の見る場所の違いで、お互いに違う問題に腹を立てていてうまくいかない事が多いわけです。取っ手を見ていると模様が見えないし、模様を見ていると取っ手が見えない。
そういう状態の時に「ここは私が悪い、あそこはあの人が悪い」とやっていても、全然かみ合わないんですね。まず「自分の見えていない見方が存在しているのだろう。それに私は気付いていないのだな」という「仮定」をしないとこの問題の解決には至らないのですよ。
だから「すべて私が悪いのよ」でないとダメなんです。
そう考えてはじめて「自分の気付いてない問題に気付く」という「得るところ」が受け取れるようになるわけでして。
だから、この場合は「すべて私が悪い」と「すべて」の責任を引き受けるということが一番大事な事なんですよ。そういう事なのです。
ま、そんな事を思っておるのです。
「「自分が気付かずに相手に嫌な思いをさせていたとしたら、それも私が悪いのだ」
も、「自分の側の至らない点」ですよ。
自分で気づいてない点まで含めて、自分の側にもフォールトはあるわけです。
「全部」としないと、「いま気づいていない点」を含み得ないと言うのは、論理必然ではありませんよ。
「全て」にしちゃうと、相手がまったく悪くないかのようでしょ。
でも、本来完全ではない人間どうしの間でトラブルが生じたとき、そんなこたあ、普通はあり得ない。
おたがい、未熟な者同士で社会構成してるわけです。
相手の未熟さも含めて、そこまで許し合いましょう。
という含意もあるのよ。
「未熟」=「責めていい」ではないですよ。
>、「全部」自分が悪いとしてはじめて、「自分で気付いてない自分の問題点」の改善に役立つわけです
それはちょっと違うと思うな。
「自分で至らない点もあった」と言うとき、「気づいて部分者だけ」という限定は(私には)ないですし、「全て自分が」というのは、相手の側の問題点まで、自分でしょいこんでしまうがごときです。
自分で気づいていないことを「全部私が悪い」としないと含み得ないと考える必要はないですよ。
自分で気づいてない点も含めて、自分の至らない点です。
でも、「全部」というと、物事を客観的、公平に見ることとはずれてくる。
特にACは、シゲさんは違うのかもしれませんが、自己を責めやすい人間です。
自分が全て悪いと思うことで、世間から退却してしまう結果にもなりかねないのでは。
そもそも、意図せず相手を傷つけたら、それだけで、こちらには「明らかな」非があると思いますよ。重い至れてなかったわけだから。
私ならそう考えます。
隠れてない隠れてない。
あと、「すべての責任を引き受ける」は、シゲさんがおやりになるのはいいけど、たぶんそれは、責任をひきうけすぎなACにとっては、自分を壊すアプローチになっちゃいます。
女の人(共依存の人)に多いんだけどね。
ACがすべきもうひとつは、自己と他人の峻別をすることですよね。
他人の責任はしょいこまない。
相手の悪さや至らなさは、相手に残しておいてやる。
それをどうするかは、相手の人生。
自分は自分の至らなさをどうにかしていく。
そういう意味です。
「重い至れてなかった」→「思い至れてなかった」
ごめんなさい。人様の日記でお目汚ししてしまいました。
自己の悪かった点を反省する。
他者の悪かった点は、相手に残す。
「手を離す」ということですね。
自分のことに専心すると、
>、「全部」自分が悪いとしてはじめて、「自分で気付いてない自分の問題点」の改善に役立つわけです。ここが非常に重要なんです
「全部」自分が悪いと考えなくても、「自分のことに専心」するのだから、相手のフォールトを数え上げる必要がなくなります。
そして、明らかに相手に(も)非があるときでも、「(お互いの一連のやりとりの中で)全部こちらが悪い」とむりな思いこみをしないですむ。
相手の非は相手の人生の問題で、こちらが考える必要は、ないわけです。
「仮に全ての責任が私にあったとしたら」というシミュレーションをやってみよう、ということですから。
思考実験ですね。
思考実験をするのだから、「全て」でないとダメなんです。
で、思考実験をするのだから、「怒り」とかが収まるわけです。
倫理の話ではなく、論理の話と思ってください。
0から9までのすべての数字は等価なわけですから、「もめ事のタネ」もすべて等価なわけです。どっちの責任とも言えない「事象」がゴロゴロと転がっている。そのすべての事象について、自分の責任部分をキチンと自覚するってことです。
関わった限りは何らかの責任はあるんですから、それは果たさないといけない。全ては等価です。だから、「いちおう全ての事象について、『俺が悪かった部分もあるんと違うんかい?』というチェックを入れる、というような事です。
だから、明らかに相手が悪いと思えるような事柄でも、「そこに至らせた原因が私にはなかったのか?」をチェックするということですね。
あくまでチェックなんですけど、とにかく全ての事象をチェックしないといけないので、とりあえず「全部に責任あり」という事にしないとチェックしないですから。
喫茶店で、一日の売り上げと、個別の伝票の合計が違ってたら、とりあえず全伝票をチェックしつつ検算するじゃないですか。それと同じようなことです。「この伝票はチェックしておかなきゃ」「でも、こっちはまぁいいや」というのではなくて、とにかく全部チェックすると。
そういう感じですね。
で、反省に関しては、いろいろ方策があると思うし、そこらあたりはいまいち僕にも良く分からないんですが、少なくとも「全部悪い」と思うと、検算しないといけないので、無駄な「怒り」が消え去ってしまう、という点が一番のメリットなんです。
怒りは、ようは空回りですよ。無駄な感情だと思います。
そういう余分な気持ちがあるから、「この伝票は検算しなくてもいいんだ」とかになってしまうわけで、堂々巡り、同じ事の繰り返しになっちゃうんですね。
ともあれ「全部検算するぞ」と思ってしまえば、「怒り」自体が消えるんです。感情のコントロールが簡単にできる。
大事なのはそこだと思います。
私も人様の日記で持論を展開という、はずかしいことをしちゃいましたね。
ごめんなさい。
ただ、僕が「あっ」と思ったのは全部自分が悪いんだと考えることで、「自分の怒りがおさまった」という新鮮な体験をしたからなんです。ああ、そうなんか、そうなんや、とびっくりしたんです。
もうずーっと、自分の「怒り」と取っ組み合いをして、うまく折り合いが付いてなかったもんですから。
えー、この「全部自分が悪い」に気付いてから、いろいろまた本を読んでいると、
●「成功はどこからやってくるのか?」岡本吏郎・フォレスト出版
●「1分間謝罪法」ケン・ブランチャード・扶桑社
という二冊の本を見つけました。
「成功はどこから…」の方には、まさに僕が気付いたのとまったく同じことが書かれていて、こっちがビックリしました。
とくに岡本さんの話でおもしろかったのは、「貧乏や不幸、成功や幸福というものは、人生の中で交互にやってくるものだ」と子供の頃に考えていて、世間をよく観察してみると、実際には「不幸な人はずっと不幸」「幸せな人はずっと幸せ」だということに気付いてびっくりしたとしている点です。
では、その2つのパターンを分けているのがどこか? というのを観察していて発見したのが「悪いことはすべて自分のせい」と考える考え方を持っているかどうかだった! ということなんだそうです。
このあたり、大変面白いと思うので、機会があったら読んでみてください。
僕は幸せになりたいですし、身近な方とも幸せを分かち合いたいです。そのために役立つように思います。
だから、シゲさんにOKもらわないうちにかいちゃうのは、私の考えだと、マナー違反です。でもシゲさんがOKであったと知って、安心しました。
ありがとうね。
>実際には「不幸な人はずっと不幸」「幸せな人はずっと幸せ」
これ、ほんとにそうですねー。
で、その原因は心の持ちようというか、事態解釈の違いにあると、私も思います。
「幸不幸は事態解釈の問題」というのが、私の座右の銘です。
その、解釈の仕方のひとつが、「すべては自分のせい」という思考方法なんでしょうね。
私は、それは、シゲさんの文脈で使われる限り、すばらしいことだと思います。
岡本さんのお話、機会があったらぜひ読んでみますね。
ちょっと「反論」になっちゃったから、気分を害されたのではないかと思って心配になってたんですよ。
このあたり僕は悪気はないんですけど、「反論=相手の否定」と受け取られがちであるという事をコロリと忘れて気配りなく書き進めてしまうクセがあるのでいけないなぁと思っております。まだまだ勉強です。
ということで、反応いただいてホッとしております。
それと、コメントを許すという事は徹底的な反論、あるいは誹謗・中傷もあり得るという事だと思っています。なのでそれを認めた上でコメント機能はオンにしてるので、別にかまわんのです。僕としては「公共の場」と思ってますから。
ただまぁ、あまりにオープン過ぎるとやっかいですけどねぇ。まぁそのあたりは、なるようになるさって感じですが。
岡本さんの話は、すごく面白いですよ。あんまり売れた本とは思えませんけど。(笑)
「1分間謝罪法」は、昔「1分間マネジャー」という書籍がありまして、そのシリーズの一環として出ているものです。「1分間マネジャー」がとても面白くて、で、実はこの本を読んで僕は会社をやめてしまったという転機を促した本でもあるんですけど、そのシリーズなので買ってみたんです。
そしたら「正しい謝り方」の本だったので、なかなか面白かったです。
あとは中村天風も面白いんだけどなぁ。まぁいいや。
ま、そんなことで、ありがとうございました。
あとは中村天風ですね?ちょっと調べてみます(笑)。
こちらこそ、おつきあいいただいてありがとう。