少子化のほんとうの秘密。
2006年8月27日 読書 コメント (7)
「人口減少経済」の新しい公式―「縮む世界」の発想とシステム
ISBN:4532350956 単行本 松谷 明彦 日本経済新聞社 2004/05 ¥1,995
もう一年くらい前に読んだのですが、僕的にとてもショックを受けた本なので、少し書いておきたくなりました。
この本の趣旨は、まぁ良くある「人口が減少してGNPが下がっても、一人あたりの社会資本そのものは充実するから、とても豊かな世界がやってくるんだよ。」という人口減少肯定派の意見そのままでして、私的には「まぁそういう側面もあるけれど、年寄りばっかりってのは楽しくないなぁ」というのが感想。
で、実は、書籍として紹介することより、この本で明確に書いてあって、「あ!」とびっくりして、「そうや、その通りや! なんでいままで気付かなかったのか!」と思ったことの方を紹介したいのであります。
それは「少子化の原因」なんです。
誰も本当の原因を言わない。
これほど明確な原因があるのに、気付いてすらいない。
それはいったい何か?
「優生保護法」なんですね。
わかります?
優生保護法というのは、「赤ちゃんを殺して良い」という法律です。一言で言うなら。
こういう法律を、日本は持っている。それこそが、人口減少の、少子化の本当の原因で、他に原因なんかあるわけなかったんです。
でも、この本の著者は、もともとお役人で、この事を「戦後の日本が急速に豊かになった良い法律だった」と肯定してます。
いや、まぁ、経済面だけを見れば、確かにそうなんだろうけど、ちょっと待ってくれ、なんかワシ、釈然とせんわ、なんやこれ?
と、とても頭が混乱してショックを受けたのです。
サラッと書いてあるだけに、逆にショックだった。
つまり、一言で言ってしまうなら、「日本人の豊かさは、子殺しで成り立っている」ということだったんですね。
若いときの過ちを「子殺し」で解決して、それでそれが正しいとする社会。それが日本の文化の本質だったんだと気付いたのです。
日本人が「一億総中流だ」てなことを平気で言えたのは、戦後ずーーーーっと、今に至ってもまだ「自分の失敗を省みず、もっとも弱い赤ちゃんという命を殺す事で成り立たせている」社会なわけです。
僕やあなたが、おいしい食事をできるのも、ようは社会的に子供を踏みつけにしてきたから、なんですね。そういう社会の中に自分が身を置いているのだと知って、実に嫌な気がしたのです。
でも、冷静に考えると、その通りなんです。我々は、子供を踏みつけにして平気という、おそろしい文化を持っている。それが厳然とした事実だったんです。
前に、「世にも不思議な偶然」の話が好きで、よく読んでいるという事を書いたことがありますが、海外の不思議話を読んでいると、とにかく子供の頃に親子が離ればなれになったのが不思議な偶然で出会えたとか、兄弟が離ればなれになったのに偶然出会えたとかいう話がとても多いんですね。
でも、この手の話は日本には少ない。というか、ほぼ皆無。
そこで気付いたのですよ。「ああ、そうか」と。
ようするに海外では「子殺し」をしていないのです。「捨て子」だとか「養子に出す」という事はしても、「子殺し」はない。
貧困の中で子供が出来てしまったら、泣く泣く「裕福な人の所で育ててもらってくれ」と施設にあずけたり、宗教施設に捨て子したりする事は多いのでしょうけれど、そして、それが貧困層を作るという事は、あるにはあるのでしょうけれど、基本的に「殺し」はしない。
このあたりはたぶんキリスト教のプロテスタントもカソリックも、イスラム教とかでも同じなのではないかと思うのです。
いや、中国の儒教や道教、インドの仏教においても、「子殺し」を標準の文化として持っている国なんて、そうそうないのではないかしらん。
日本の文化は「和」を中心に「みんな一緒」を大切にして「一億総中流」を標榜してたわけですけど、その本質って冷静に考えると、貧困層の切り捨て、それも、いちばん弱い「赤ん坊を殺すこと」で成立していたわけです。
赤ちゃんは文句言わないからね。世の中の矛盾を赤ちゃんに押しつけるのが、この国では普通なわけですよ。恐ろしいことに。
あまりに当たり前になっていて、みんな気付いてないですけど、「水子供養」なんて言葉が、町なかのポスターとかに堂々と書いてあったりします。考えたら相当にゆがんだ文化を我々は持っていたのではないかと僕は思ったわけです。
というのも、僕自身がアダルトチルドレンであると気付けたのも、「親に捨てられたけれども、幸せな家庭を気付いた人」の存在を知ったからこそ、なんですね。
海外の成功者の中には貧困層から這い上がってきた人というのがけっこうたくさんいます。で、そういう人は本当に愛情豊かな発言をすることが多くて、僕はけっこう信用するのですが、そういう立派な人と、自分の父親とを比べると全然違うよなぁ、というのが、アダルトチルドレンから抜け出す大きなきっかけになっているのです。
親がいないのに、正しく愛情豊かな家庭生活を築いた人がいる。
これほど僕を勇気づけた事実はないわけです。
アダルトチルドレンの問題は、親にされた虐待を、自分が大人になった時に子供にもしてしまうという仕組みなわけです。
親からの正しい愛情を受け取れなかった私も、同じ間違いをしてしまうのではないか? それは避けられないのではないか? とすら思ってたわけです。まぁ、一種の強迫観念になっていた。
でも、親のない成功者の姿勢とかを見て、親からの愛情を受け取ってなくても、社会に揉まれながら愛ある行為を学んで行くことは可能なんだ、という事がはっきりとわかりました。
「親はいないが幸せな人」の存在を知ることで、正しい幸せというものが、自らの意志で学習可能なのだ、ということが証明されてるわけです。
だから、大丈夫なんだと。
愛ある行為は、後天的学習で、キチンと身につけられるのだと。
それがわかったわけです。
アダルトチルドレンのくびきから逃げ出せたのは、まさにこの一点にかかっていたわけです。
日本以外の多くの国は、子殺しをしません。だから貧困層は多いです。子供に手間を取られて豊かになれないのでしょう。でも、そこに愛はある。
また、子捨てという事はするだろうけれど、そういう人が成功した時に、本当に誰もにとって希望になる。救いになる。安心感を生むというのがあります。
そして、お金持ちが捨て子を育てると言うことも頻繁に行われているわけです。ごく普通に。そういう仕組みもおそらくはあるのでしょう。だから「お金持ちを尊敬する」という社会通念も生まれやすいのです。
インドなどでは逆にお金持ちは「施しをしなければならない」ですしね。アメリカでは「儲けた金の10%を必ず寄付に回せ」が金持ちになるための基本ルールと言われているし、国の法律としても「寄付は無税」になっている。
でも日本では「金持ちは、なんか悪いことしたから金持ちなんだ」という揶揄のほうが強い。はっきり言ってホリエモンがつかまったのは、それが原因でしょう。(いやまぁ政治的にそうとう複雑な裏がありそうなので、あの問題にはアンタッチャブルですが)概略、検察が「行ける!」と踏んだのは、世間が金持ちは悪いことしてるから金持ちなんだと思っているという大前提があってのことなわけですよ。基本はね。
で、その「金持ちは、なんか悪いコトしてるから金持ちなんだ」というひきずりおろし感覚というのは「子殺しをして、やっと生活を安定させてる人がたくさんいてる」からなんですね。そこから生まれた感覚なんだろうと思います。
もうね、この本に書いてあった「優生保護法による子殺し」という観点で日本社会を見渡すと、もうすべてが全部、きれいに見えてしまうのですよ。
結局、日本人の文化は、「自分の経済的安定のために子殺しをする文化」でして、基本的に常に弱者に問題点をおっかぶせて、それで自分の責任はほおかむりする社会構造から生まれているんです。それがすべてと言ってもいいかもしれない。
望まない子供が出来た。その責任は誰にあるのか? 親にあるに決まってるではないですか。
でも、日本という国は、そこで責任を、その個人に取らせない。生まれてきた子供に取らせる。それが「当たり前」になっている。
この基本構造があるからこそ「児童虐待」は生まれるわけです。
「都合の悪いことは子供のせいにしておけ」という風潮が生まれる。
だいたい儒教が日本で受け入れられたのも、この「子供の人権無視」という文化がもともとあったからではないか? と僕は思っているのです。「子は親に仕えよ」です。それが儒教ということになっている。
そらね、中国の本場の儒教は徹底して「親孝行は美しい」を強調しますからね。ものすごく強調する。たぶん老人虐待が、かの国ではひどかったんでしょう。姥捨て山とかが普通にあったんだと思う。というか、姥捨て山の話って海外では多いですよね。
でも、そういう事とは別に「親孝行は美徳」という儒教の考え方が、日本人に支持されてしまったのは、その裏に「児童虐待」が普通に行われてきたからなわけです。
親が子供の気持ちを踏みつけにしてかまわない。それを保証してくれるから「親孝行は美徳」が支持されている。そういう構造でしょう。
逆に言うと、「親孝行は美徳」という社会通念が強すぎるから児童虐待が起こりやすいという側面も大きいのですね。「子は親に従うのは当たり前」と、理由も示さずに子供を親に従わせるのが教育だと勘違いしてる親のなんと多いことか。
それは教育ではなくて虐待なんですよ。
でも、そうは感じないのですよね。日本人の多くの人は。子供の頃から虐待され続けてきたから、親が理由もなく子供を叱り、子供を親に従わせるのが当たり前だと思ってしまっている。
そんなこんなのいろんなことをひっくるめて、この国の文化の根幹のところで問題なのが「水子供養」だってことだと思う。
でも、もう文化として定着してるもんなぁ。水子供養とか。
僕は日本文化の中でも、この水子供養だけはちょっと問題だなぁと思っているのです。
でも、こんな問題意識を持って、世の中を見てる人の方が少ないでしょう。
だってテレビとかで、堂々と「少子化対策として新婚家庭の免税が」とか平気でやってるし。
そんなもん、出生率に関してだけなら、優生保護法を変えて、子殺しできないようにすれば、一発で解決ですよ。で、再チャレンジ政策がどうたら、本質のわかってない論議がされてるけど、貧困層のための養子縁組促進システムとかキチンと整えなきゃいけないんだってーの。本気で少子化問題に取り組むなら。それだけのことじゃん。
でも、そのあたりの本質的構造が「水子供養は当たり前」「親孝行は美徳」という児童虐待あたりまえ文化によって、きれいに隠されてしまってるんですね。
とにかく、日本の少子化は世界的に見ても異常で突出してます。で、それは「優生保護法」が主原因なのであって、最優先で考えるべきは、そういう社会の底辺層の人たちのバックアップシステムが整っているかどうか、ということなんです。養子縁組を促進する。孤児院を社会的に認めて国家運営する。そういうような事を法的に実施していかないと変わるわけがない。
でもそれは日本の文化にそぐわないし、経験がないから、なかなか世の中に意見として出てこないわけです。
だいたい子を持つ親が「子育てしたことのない人に教育問題を語ってもらいたくない」とかアホなことしか言えない人が多いので、こういう問題が見えにくくなるのです。
養子縁組、捨て子を救う、孤児院などなど。そういう「子供は社会の宝」として見る視点なしに、この問題は解決しない。
「子育てしたことのない人に教育問題を語ってもらいたくない」みたいな閉じた、視野の狭い、つまらない発想しか持てないから、子育て問題が、子供から大人まで含めた誰もが考えるべき問題にならないのですね。
妊婦が移動しやすい街にならないし、優先座席も妊婦より老人が代表例になってしまう。子育てしやすい社会というものが生まれない。そういうことです。
でもまぁ、そういうアホなことしか言えない人が出てくるのもしゃーないわなぁって思うのですよ。いまだに優生保護法で水子供養してるのが、この国なわけですから。優生保護法なんて、国が児童虐待してるわけですからね。本質的に矛盾してますよ。ほんとに。
でも多分、大きくは日本も欧米化して行かざるを得ないのだから、数十年とかの時間はかかるけれども、そういう仕組みを作って行く方がいいようには思いますね。
インターネットの時代なんだし、水子供養よりは養子縁組だと思う。ほんと、子供のいてなくてうまくいってない夫婦も多いっすから。そういう夫婦が子育てしたほうが「子は親に従うのが当たり前」と児童虐待してる家庭に育つよりかはマシな気がします。
いや、これはマジに。
ともあれ、少子化の本当の秘密は「優生保護法しいては、それを許している我々の鈍感な感受性」にあるんだというのは僕自身の自戒を込めて思いますね。
ISBN:4532350956 単行本 松谷 明彦 日本経済新聞社 2004/05 ¥1,995
もう一年くらい前に読んだのですが、僕的にとてもショックを受けた本なので、少し書いておきたくなりました。
この本の趣旨は、まぁ良くある「人口が減少してGNPが下がっても、一人あたりの社会資本そのものは充実するから、とても豊かな世界がやってくるんだよ。」という人口減少肯定派の意見そのままでして、私的には「まぁそういう側面もあるけれど、年寄りばっかりってのは楽しくないなぁ」というのが感想。
で、実は、書籍として紹介することより、この本で明確に書いてあって、「あ!」とびっくりして、「そうや、その通りや! なんでいままで気付かなかったのか!」と思ったことの方を紹介したいのであります。
それは「少子化の原因」なんです。
誰も本当の原因を言わない。
これほど明確な原因があるのに、気付いてすらいない。
それはいったい何か?
「優生保護法」なんですね。
わかります?
優生保護法というのは、「赤ちゃんを殺して良い」という法律です。一言で言うなら。
こういう法律を、日本は持っている。それこそが、人口減少の、少子化の本当の原因で、他に原因なんかあるわけなかったんです。
でも、この本の著者は、もともとお役人で、この事を「戦後の日本が急速に豊かになった良い法律だった」と肯定してます。
いや、まぁ、経済面だけを見れば、確かにそうなんだろうけど、ちょっと待ってくれ、なんかワシ、釈然とせんわ、なんやこれ?
と、とても頭が混乱してショックを受けたのです。
サラッと書いてあるだけに、逆にショックだった。
つまり、一言で言ってしまうなら、「日本人の豊かさは、子殺しで成り立っている」ということだったんですね。
若いときの過ちを「子殺し」で解決して、それでそれが正しいとする社会。それが日本の文化の本質だったんだと気付いたのです。
日本人が「一億総中流だ」てなことを平気で言えたのは、戦後ずーーーーっと、今に至ってもまだ「自分の失敗を省みず、もっとも弱い赤ちゃんという命を殺す事で成り立たせている」社会なわけです。
僕やあなたが、おいしい食事をできるのも、ようは社会的に子供を踏みつけにしてきたから、なんですね。そういう社会の中に自分が身を置いているのだと知って、実に嫌な気がしたのです。
でも、冷静に考えると、その通りなんです。我々は、子供を踏みつけにして平気という、おそろしい文化を持っている。それが厳然とした事実だったんです。
前に、「世にも不思議な偶然」の話が好きで、よく読んでいるという事を書いたことがありますが、海外の不思議話を読んでいると、とにかく子供の頃に親子が離ればなれになったのが不思議な偶然で出会えたとか、兄弟が離ればなれになったのに偶然出会えたとかいう話がとても多いんですね。
でも、この手の話は日本には少ない。というか、ほぼ皆無。
そこで気付いたのですよ。「ああ、そうか」と。
ようするに海外では「子殺し」をしていないのです。「捨て子」だとか「養子に出す」という事はしても、「子殺し」はない。
貧困の中で子供が出来てしまったら、泣く泣く「裕福な人の所で育ててもらってくれ」と施設にあずけたり、宗教施設に捨て子したりする事は多いのでしょうけれど、そして、それが貧困層を作るという事は、あるにはあるのでしょうけれど、基本的に「殺し」はしない。
このあたりはたぶんキリスト教のプロテスタントもカソリックも、イスラム教とかでも同じなのではないかと思うのです。
いや、中国の儒教や道教、インドの仏教においても、「子殺し」を標準の文化として持っている国なんて、そうそうないのではないかしらん。
日本の文化は「和」を中心に「みんな一緒」を大切にして「一億総中流」を標榜してたわけですけど、その本質って冷静に考えると、貧困層の切り捨て、それも、いちばん弱い「赤ん坊を殺すこと」で成立していたわけです。
赤ちゃんは文句言わないからね。世の中の矛盾を赤ちゃんに押しつけるのが、この国では普通なわけですよ。恐ろしいことに。
あまりに当たり前になっていて、みんな気付いてないですけど、「水子供養」なんて言葉が、町なかのポスターとかに堂々と書いてあったりします。考えたら相当にゆがんだ文化を我々は持っていたのではないかと僕は思ったわけです。
というのも、僕自身がアダルトチルドレンであると気付けたのも、「親に捨てられたけれども、幸せな家庭を気付いた人」の存在を知ったからこそ、なんですね。
海外の成功者の中には貧困層から這い上がってきた人というのがけっこうたくさんいます。で、そういう人は本当に愛情豊かな発言をすることが多くて、僕はけっこう信用するのですが、そういう立派な人と、自分の父親とを比べると全然違うよなぁ、というのが、アダルトチルドレンから抜け出す大きなきっかけになっているのです。
親がいないのに、正しく愛情豊かな家庭生活を築いた人がいる。
これほど僕を勇気づけた事実はないわけです。
アダルトチルドレンの問題は、親にされた虐待を、自分が大人になった時に子供にもしてしまうという仕組みなわけです。
親からの正しい愛情を受け取れなかった私も、同じ間違いをしてしまうのではないか? それは避けられないのではないか? とすら思ってたわけです。まぁ、一種の強迫観念になっていた。
でも、親のない成功者の姿勢とかを見て、親からの愛情を受け取ってなくても、社会に揉まれながら愛ある行為を学んで行くことは可能なんだ、という事がはっきりとわかりました。
「親はいないが幸せな人」の存在を知ることで、正しい幸せというものが、自らの意志で学習可能なのだ、ということが証明されてるわけです。
だから、大丈夫なんだと。
愛ある行為は、後天的学習で、キチンと身につけられるのだと。
それがわかったわけです。
アダルトチルドレンのくびきから逃げ出せたのは、まさにこの一点にかかっていたわけです。
日本以外の多くの国は、子殺しをしません。だから貧困層は多いです。子供に手間を取られて豊かになれないのでしょう。でも、そこに愛はある。
また、子捨てという事はするだろうけれど、そういう人が成功した時に、本当に誰もにとって希望になる。救いになる。安心感を生むというのがあります。
そして、お金持ちが捨て子を育てると言うことも頻繁に行われているわけです。ごく普通に。そういう仕組みもおそらくはあるのでしょう。だから「お金持ちを尊敬する」という社会通念も生まれやすいのです。
インドなどでは逆にお金持ちは「施しをしなければならない」ですしね。アメリカでは「儲けた金の10%を必ず寄付に回せ」が金持ちになるための基本ルールと言われているし、国の法律としても「寄付は無税」になっている。
でも日本では「金持ちは、なんか悪いことしたから金持ちなんだ」という揶揄のほうが強い。はっきり言ってホリエモンがつかまったのは、それが原因でしょう。(いやまぁ政治的にそうとう複雑な裏がありそうなので、あの問題にはアンタッチャブルですが)概略、検察が「行ける!」と踏んだのは、世間が金持ちは悪いことしてるから金持ちなんだと思っているという大前提があってのことなわけですよ。基本はね。
で、その「金持ちは、なんか悪いコトしてるから金持ちなんだ」というひきずりおろし感覚というのは「子殺しをして、やっと生活を安定させてる人がたくさんいてる」からなんですね。そこから生まれた感覚なんだろうと思います。
もうね、この本に書いてあった「優生保護法による子殺し」という観点で日本社会を見渡すと、もうすべてが全部、きれいに見えてしまうのですよ。
結局、日本人の文化は、「自分の経済的安定のために子殺しをする文化」でして、基本的に常に弱者に問題点をおっかぶせて、それで自分の責任はほおかむりする社会構造から生まれているんです。それがすべてと言ってもいいかもしれない。
望まない子供が出来た。その責任は誰にあるのか? 親にあるに決まってるではないですか。
でも、日本という国は、そこで責任を、その個人に取らせない。生まれてきた子供に取らせる。それが「当たり前」になっている。
この基本構造があるからこそ「児童虐待」は生まれるわけです。
「都合の悪いことは子供のせいにしておけ」という風潮が生まれる。
だいたい儒教が日本で受け入れられたのも、この「子供の人権無視」という文化がもともとあったからではないか? と僕は思っているのです。「子は親に仕えよ」です。それが儒教ということになっている。
そらね、中国の本場の儒教は徹底して「親孝行は美しい」を強調しますからね。ものすごく強調する。たぶん老人虐待が、かの国ではひどかったんでしょう。姥捨て山とかが普通にあったんだと思う。というか、姥捨て山の話って海外では多いですよね。
でも、そういう事とは別に「親孝行は美徳」という儒教の考え方が、日本人に支持されてしまったのは、その裏に「児童虐待」が普通に行われてきたからなわけです。
親が子供の気持ちを踏みつけにしてかまわない。それを保証してくれるから「親孝行は美徳」が支持されている。そういう構造でしょう。
逆に言うと、「親孝行は美徳」という社会通念が強すぎるから児童虐待が起こりやすいという側面も大きいのですね。「子は親に従うのは当たり前」と、理由も示さずに子供を親に従わせるのが教育だと勘違いしてる親のなんと多いことか。
それは教育ではなくて虐待なんですよ。
でも、そうは感じないのですよね。日本人の多くの人は。子供の頃から虐待され続けてきたから、親が理由もなく子供を叱り、子供を親に従わせるのが当たり前だと思ってしまっている。
そんなこんなのいろんなことをひっくるめて、この国の文化の根幹のところで問題なのが「水子供養」だってことだと思う。
でも、もう文化として定着してるもんなぁ。水子供養とか。
僕は日本文化の中でも、この水子供養だけはちょっと問題だなぁと思っているのです。
でも、こんな問題意識を持って、世の中を見てる人の方が少ないでしょう。
だってテレビとかで、堂々と「少子化対策として新婚家庭の免税が」とか平気でやってるし。
そんなもん、出生率に関してだけなら、優生保護法を変えて、子殺しできないようにすれば、一発で解決ですよ。で、再チャレンジ政策がどうたら、本質のわかってない論議がされてるけど、貧困層のための養子縁組促進システムとかキチンと整えなきゃいけないんだってーの。本気で少子化問題に取り組むなら。それだけのことじゃん。
でも、そのあたりの本質的構造が「水子供養は当たり前」「親孝行は美徳」という児童虐待あたりまえ文化によって、きれいに隠されてしまってるんですね。
とにかく、日本の少子化は世界的に見ても異常で突出してます。で、それは「優生保護法」が主原因なのであって、最優先で考えるべきは、そういう社会の底辺層の人たちのバックアップシステムが整っているかどうか、ということなんです。養子縁組を促進する。孤児院を社会的に認めて国家運営する。そういうような事を法的に実施していかないと変わるわけがない。
でもそれは日本の文化にそぐわないし、経験がないから、なかなか世の中に意見として出てこないわけです。
だいたい子を持つ親が「子育てしたことのない人に教育問題を語ってもらいたくない」とかアホなことしか言えない人が多いので、こういう問題が見えにくくなるのです。
養子縁組、捨て子を救う、孤児院などなど。そういう「子供は社会の宝」として見る視点なしに、この問題は解決しない。
「子育てしたことのない人に教育問題を語ってもらいたくない」みたいな閉じた、視野の狭い、つまらない発想しか持てないから、子育て問題が、子供から大人まで含めた誰もが考えるべき問題にならないのですね。
妊婦が移動しやすい街にならないし、優先座席も妊婦より老人が代表例になってしまう。子育てしやすい社会というものが生まれない。そういうことです。
でもまぁ、そういうアホなことしか言えない人が出てくるのもしゃーないわなぁって思うのですよ。いまだに優生保護法で水子供養してるのが、この国なわけですから。優生保護法なんて、国が児童虐待してるわけですからね。本質的に矛盾してますよ。ほんとに。
でも多分、大きくは日本も欧米化して行かざるを得ないのだから、数十年とかの時間はかかるけれども、そういう仕組みを作って行く方がいいようには思いますね。
インターネットの時代なんだし、水子供養よりは養子縁組だと思う。ほんと、子供のいてなくてうまくいってない夫婦も多いっすから。そういう夫婦が子育てしたほうが「子は親に従うのが当たり前」と児童虐待してる家庭に育つよりかはマシな気がします。
いや、これはマジに。
ともあれ、少子化の本当の秘密は「優生保護法しいては、それを許している我々の鈍感な感受性」にあるんだというのは僕自身の自戒を込めて思いますね。
コメント
あと、水子の供養についてはその起源を調べてみることをお勧めします。
さて、「論理の飛躍」というのは、何行目のどの点でしょうか。具体的に指摘いただければ助かります。
あと、水子供養に関しては起源を調べてみることをお勧めします、というのはどういう意味でしょう?
ご指摘の意味がわかりません。
明確な指摘をお願いいたします。
こちらが推測するに「水子供養というのは、病死した子供の供養が始まりであって、この話の流れには適切ではない」ということなのかな? と思いますが、そのまさに「病死と子殺しをひとまとめにしてごまかしている感覚」こそが、我らが国のよろしくない点ではないかなぁと思います。
殺人と病死を同列に扱うのだから、困ったものです。
まさに、論理の飛躍のポイントを明示しない、水子供養の起源とは何かを明記しないというやり方とおなじですね。
殺人と病死は明確に異なります。
そのくらいは本来はっきりと分けて考えるべきでしょうね。
どうやら、あなたと僕とでは基本的な思考が違っているようです。そのために錯覚を起こしてしまったようなのです。
推敲せずに書き込んでしまった非礼をお詫びします。
ですが、僕の曖昧なコメントに皮肉を感じたせいなのか、こちらの意図を勝手に汲み取ってそれを批判に使うのはどうかと思いますよ。
ここでは意見(というか思考?)が接触してしまいましたが日頃の濃い内容の日記をこれからも期待しています。
そのあいまいさは、私に非があるのではなくて、僕が書いた「仮説」を受け入れる気になれないあなたの心の中に問題があるとしか、僕には読めない、ということです。
明確な批判は、私の認識を高めこそしてくれるものの、決して低めたりはしない。だから批判は大歓迎です。
しかし、単なる揶揄とか、論旨のはっきりしない批判は時間のムダであり、はっきりと社会の迷惑です。だって何を言ってるんだかわかんないんだもん。反応のしようがない。そんな事はどうでもいい。
でも、ひとつ言っておくと、推敲もせずに書き込んだということは決して悪いことだとは思いません。誰にでも失敗はあるからです。自分に失敗をする自由を認めないのはよくない考え方です。推敲もせずに書き込んだから「論旨の明確でない書き込みは社会の迷惑にしかならないよ。」という、そんじょそこいらでは聞くことのできない、あなた個人の問題点の発見ができたのです。そこは喜んだ方がいいと思います。
以上です。
この部分、目からウロコでした。なるほどですね。
ずっと疑問だったのです。
本文の内容とは、離れてしまいますが、
金持ちの娘が誘拐されたとき、その無事を喜ぶよりも、その家庭が金持ちであることへのバッシングの方が多かったことが疑問で。
それに加えて、バッシングしている人たちをバッシングする人が居なかったことにも。
ずっとひっかかりを感じていました。
金持ちは、悪いことをしてるのに違いない。
悪いもんの子供は、何をされても当たり前、という運びだったのですね。
それが日本人の一般的な感覚と思えば、納得です。
話を反らしてごめんなさい。
これからも読ませていただきます。