<自殺対策基本法>衆院本会議で可決、成立
2006年6月15日コメント (2)やっとだ。
やっと「自殺対策基本法」が成立した。
(引用開始)----------------------------------------------
自殺対策基本法:法案、参院委で可決
国と自治体、事業主、国民に自殺対策の責務を課した「自殺対策基本法」案が8日、参院内閣委員会で、超党派の議員立法として提出され、可決された。同法案は9日の参院本会議で可決後、衆院に送られ、今国会で成立の見通し。自殺対策の法制化を巡っては、東京のNPO法人が中心になり、請願の署名活動を展開。わずか1カ月半で目標の3倍以上の10万1055人分の署名が集まるなど大きな反響を呼び、自殺問題の深刻さを改めて浮き彫りにした。
同法案は自殺の防止と自殺者の親族のケアが目的。自殺対策を社会的な取り組みとして実施することを義務づけている。【玉木達也】
毎日新聞 2006年6月8日 東京夕刊
(引用終わり)------------------------------------------
これが超党派の議員立法で成立したという点、請願の署名活動が、わずか1カ月半で目標の3倍以上集まったという点などが、この問題の真の深刻さを表している。
言い争っている場合ではないのだ。
そういう事だ。
しかし、この法案の「自殺者が出た後の家族のケア」は、まぁなんとかなっても、肝心の「自殺の予防」というものが、どこまでできるのか、真剣に悩んでしまう。
前々から書いてるけど、これは「社会の変化」について行けてない人が、それだけたくさんいてるという事なのだ。
大問題なのだ。そう簡単なことではないのだ。
欧米の「個人主義」というものは、いやおうなく我らの生活に入り込んでくる。嫌でもだ。
いくら実感がなくても、それは忍び寄ってくる。
で、その一番矛盾の大きい部分がパソコンの世界で、まさにWindows95が登場した前後から自殺者が一気に増えているのだ。
この社会の本質的な変化に気づけない人は、欧米文化のかたまりでしかないパソコンの世界を「異物」と気づけず、「新しい便利な道具」としか見ることができない。
だから、たとえばパソコンを買ったら買った人全員に付いてくる「個人責任」を、たんなる企業のお題目としか思えないわけだ。
世の中の流れとか、欧米の個人主義の成り立ちとか、パソコンのデータに関する個人責任のポジションとかを、キチンと勉強してない人には、本来ストレスにしかならない存在なのだ。
それが「パソコン」なのである。
それは、いくら日本人が日本人特有の「家電製品感覚」でパソコンを捉えたところで、世界規模で動いているビジネスが「パソコンはキャリアアップの武器」という「武器」感覚でしか捉えていないのだからどうしたってズレるのだ。
「パソコン」は武器なのである。
だから個人責任で使うのが当たり前なのだ。
他人を出し抜いて、自分だけ儲けたいと思ってる奴のために売られている商品なのだ。それが全世界的トレンドなのだ。
「5万円パソコン」とかが存在するというのは、ようするに、そういう「パソコンは武器だよ」という市場が全世界に広がっているから、世界市場という大規模が成立しているから安くできるという事の証明なのだ。
それを「家電製品」と同じようにとらえていたら、そら「うつ病」にもなってしまう。
この善良なる日本民族の精神性を、食うか食われるかが当たり前で、「死んだらそいつの実力不足」でチョンにされてしまうような欧米文化に何の説明も解説も勉強もなくさらしていたら、そら自殺者も出る。
そういうことでしかない。
一神教への理解度が低い日本人に、最小単位としての「個人」なんてものは、そう簡単にはわからない。キチンと一神教の基礎から「理屈」として学習して、「ああ、そうか、欧米の奴らはそんな風に考えるのかぁ」と相手の文化を客体化して捉えられるだけの見識と知識がなければ、そらストレスだらけなのだ。
勉強しなけりゃ、ストレスだらけになるのは、当たり前なのである。
だって、自分たちの根っからの文化の延長線上に生まれたものではないから。
欧米の一神教の「神と個人の契約」概念から生まれたものだから。
で、そういう日本人にはとうてい「実感」できないものを、「家電製品と変わらんやろ」と勝手な思いこみで使って、それで段々ストレスがたまってきて、結果として自殺とか「うつ病」とか、あるいは不平不満を社会や家族にぶつけるだけのしょーもない人間とかが出てくるのである。
この辺の基本の基本の根本を、キチンとみんなが学習しない限り、この自殺者の増加は食い止められないと僕は思っているのだけれど、果たして、この法案ではそこまで踏み込んで語っているのか。
まだ詳しく調べたわけではないけれど、それでも超党派の議員立法という点が実にうれしい。
これこそが「自分たちの身を守るための、本当の意味での防衛意識」であり、同胞の命を思いやる、真の愛国心なのだ。
こういう形以外の動きは、たいてい「政治的なトリック」である。本当に必要な法案は、国民の側から、立場を越えて出てくるのだ。それこそがホンモノなのだ。
ともあれ、もう何年も前からずーーーーっと言ってたことが、多少なりとも形になって僕は少しホッとしました。
で、世の中の動きというものが見えてない人は、本当に勉強して欲しいと思う。
日本の歴史と欧米の歴史を比較して学習するなどしない限り、この手のフラストレーションは、まず解消されません。
だいたい「自由」って何かわかってます? 英語で言えば、フリーダムとリバティがあるけど、その違いって何だかわかる?
わからない人の方が普通ですよ。
じゃ、それで我々はキチンと自由について考えられるのか? って言ったら、それは無理、なんだよ。無理なんだ、無理。
そこから理解しないとダメなんだ。
で、そういう根本がわかってないから、「生きてる実感」がわけわからなくなって、うつになったり自殺したり、児童虐待したりするわけよ。
デモクラシーと言えば、「民主主義」とみんな思ってるけど、デモクラシーって「主義」みたいなイデオロギーじゃないんだからね。福沢諭吉が「民衆交際」と訳したように、「いろんな考え方をつつき合わせましょう」というのがデモクラシーなんだ。
そういう根本の根本もわかってないから、「民主主義とは多数決の事だ」とか勘違いする人間が増えて、それでイライラが募る。「数の論理」なんて下品なものがデカイ顔してまかり通る。アホか。そんなものにデカい顔をさせたらダメなんだよ。それはデモクラシーじゃないんだ。
でも、そういう事もわかってないから、「みんなが同じことをすることが民主主義的幸せだ」とか思いこんで、大ヒット映画や大ヒットゲームにぶら下がる。
そんなもん幸せでもなんでもなくて、システムに心を食い荒らされてるだけなのに。
自分の幸せなら、「●●をしている時が私はとても幸せなのです」と、キチンと誰にでも(自分を含む全ての人間に対して)明快な説明ができなければならない。それが「個人」ということだ。
自分の幸せ観をキチンと実感・コントロールできもしなくて幸せになれるわけもない。それが出来ていないのは、自分の幸せとは何か? という「個人」の喜びについて考えていないからだ。
で、欧米的幸福観というものは、そういう「個人」の価値観をこそベースにしている。
そんなもの、「個人」があいまいな日本人には、よくわからないものなんだ。
でも、どうせ世の中は、そういう「個人」という単位に収束されざるを得ないんだ。
だから、身の回りの人との関係を豊かにし、家族と確かなコミュニケーションを保ち、児童虐待もせずに生きていくには、面倒でも(本当に心底面倒くさいのだけれど)勉強するしかないのだ。
この勉強もしない人間はどんどん不幸になるだけなのだ。
昔の日本なら、それでも良かった。
でも、もう無理だ。
小泉君がグシャグシャにしてしまった社会制度は、5年や10年、弱肉強食で心のゆとりもない社会に、この日本を作り替えてしまうだろう。もう待ったなしなのだ。
だから勉強していて、心ある人は、この自殺対策法の必要性を正しく認識して、そして超党派で議員立法で法律を作ったのだ。
アメリカの直接支配を受けてしまっている官僚たちの作文ではなく、血を流して生きている日本人そのものから「せめて最低限のセーフティーネット」が生まれてくるのだ。
状況は、そこまで悪化しているってことです。弱肉強食の世界にどんどん作り替えられて行ってるのに、どこにも「日本人による、日本人のための弱者救済策」が作られて来なかったってことです。
そういう意味で、超党派・議員立法での、この法律成案は、せめてもの救いだと思う。
本当に良かった。やっとここまできたか、という気分だ。
こういう本質問題もわからず、ただグローバル化の流れの中で、適当なコマーシャリズムに流されて、自分の本質を見失った人がどんどん増えていることに、私は心を痛める。
みんなはやく気付いてくれ。
そして、ちょっとでいいから勉強しよう。
自分の実感とは異なる現実が、嫌でも「日本より広い枠組み」として存在しているって事を勉強・認識しないと、人生が辛いだけだ。
つくづくそう思う。
そこは勉強するしかないんだよ。
欧米の文化は日本人には「実感」することは絶対できないのだから。学習して知識を頼りに身につける以外に方法はない。
一切ない。
まったくない。
どこにもない。
勉強せずに安心立命を得られる状況は、もうすでに、この国にはないのである。
それが現実なのだ。
きびしいことだけれど、それが現実だと知るしかないのである。
やっと「自殺対策基本法」が成立した。
(引用開始)----------------------------------------------
自殺対策基本法:法案、参院委で可決
国と自治体、事業主、国民に自殺対策の責務を課した「自殺対策基本法」案が8日、参院内閣委員会で、超党派の議員立法として提出され、可決された。同法案は9日の参院本会議で可決後、衆院に送られ、今国会で成立の見通し。自殺対策の法制化を巡っては、東京のNPO法人が中心になり、請願の署名活動を展開。わずか1カ月半で目標の3倍以上の10万1055人分の署名が集まるなど大きな反響を呼び、自殺問題の深刻さを改めて浮き彫りにした。
同法案は自殺の防止と自殺者の親族のケアが目的。自殺対策を社会的な取り組みとして実施することを義務づけている。【玉木達也】
毎日新聞 2006年6月8日 東京夕刊
(引用終わり)------------------------------------------
これが超党派の議員立法で成立したという点、請願の署名活動が、わずか1カ月半で目標の3倍以上集まったという点などが、この問題の真の深刻さを表している。
言い争っている場合ではないのだ。
そういう事だ。
しかし、この法案の「自殺者が出た後の家族のケア」は、まぁなんとかなっても、肝心の「自殺の予防」というものが、どこまでできるのか、真剣に悩んでしまう。
前々から書いてるけど、これは「社会の変化」について行けてない人が、それだけたくさんいてるという事なのだ。
大問題なのだ。そう簡単なことではないのだ。
欧米の「個人主義」というものは、いやおうなく我らの生活に入り込んでくる。嫌でもだ。
いくら実感がなくても、それは忍び寄ってくる。
で、その一番矛盾の大きい部分がパソコンの世界で、まさにWindows95が登場した前後から自殺者が一気に増えているのだ。
この社会の本質的な変化に気づけない人は、欧米文化のかたまりでしかないパソコンの世界を「異物」と気づけず、「新しい便利な道具」としか見ることができない。
だから、たとえばパソコンを買ったら買った人全員に付いてくる「個人責任」を、たんなる企業のお題目としか思えないわけだ。
世の中の流れとか、欧米の個人主義の成り立ちとか、パソコンのデータに関する個人責任のポジションとかを、キチンと勉強してない人には、本来ストレスにしかならない存在なのだ。
それが「パソコン」なのである。
それは、いくら日本人が日本人特有の「家電製品感覚」でパソコンを捉えたところで、世界規模で動いているビジネスが「パソコンはキャリアアップの武器」という「武器」感覚でしか捉えていないのだからどうしたってズレるのだ。
「パソコン」は武器なのである。
だから個人責任で使うのが当たり前なのだ。
他人を出し抜いて、自分だけ儲けたいと思ってる奴のために売られている商品なのだ。それが全世界的トレンドなのだ。
「5万円パソコン」とかが存在するというのは、ようするに、そういう「パソコンは武器だよ」という市場が全世界に広がっているから、世界市場という大規模が成立しているから安くできるという事の証明なのだ。
それを「家電製品」と同じようにとらえていたら、そら「うつ病」にもなってしまう。
この善良なる日本民族の精神性を、食うか食われるかが当たり前で、「死んだらそいつの実力不足」でチョンにされてしまうような欧米文化に何の説明も解説も勉強もなくさらしていたら、そら自殺者も出る。
そういうことでしかない。
一神教への理解度が低い日本人に、最小単位としての「個人」なんてものは、そう簡単にはわからない。キチンと一神教の基礎から「理屈」として学習して、「ああ、そうか、欧米の奴らはそんな風に考えるのかぁ」と相手の文化を客体化して捉えられるだけの見識と知識がなければ、そらストレスだらけなのだ。
勉強しなけりゃ、ストレスだらけになるのは、当たり前なのである。
だって、自分たちの根っからの文化の延長線上に生まれたものではないから。
欧米の一神教の「神と個人の契約」概念から生まれたものだから。
で、そういう日本人にはとうてい「実感」できないものを、「家電製品と変わらんやろ」と勝手な思いこみで使って、それで段々ストレスがたまってきて、結果として自殺とか「うつ病」とか、あるいは不平不満を社会や家族にぶつけるだけのしょーもない人間とかが出てくるのである。
この辺の基本の基本の根本を、キチンとみんなが学習しない限り、この自殺者の増加は食い止められないと僕は思っているのだけれど、果たして、この法案ではそこまで踏み込んで語っているのか。
まだ詳しく調べたわけではないけれど、それでも超党派の議員立法という点が実にうれしい。
これこそが「自分たちの身を守るための、本当の意味での防衛意識」であり、同胞の命を思いやる、真の愛国心なのだ。
こういう形以外の動きは、たいてい「政治的なトリック」である。本当に必要な法案は、国民の側から、立場を越えて出てくるのだ。それこそがホンモノなのだ。
ともあれ、もう何年も前からずーーーーっと言ってたことが、多少なりとも形になって僕は少しホッとしました。
で、世の中の動きというものが見えてない人は、本当に勉強して欲しいと思う。
日本の歴史と欧米の歴史を比較して学習するなどしない限り、この手のフラストレーションは、まず解消されません。
だいたい「自由」って何かわかってます? 英語で言えば、フリーダムとリバティがあるけど、その違いって何だかわかる?
わからない人の方が普通ですよ。
じゃ、それで我々はキチンと自由について考えられるのか? って言ったら、それは無理、なんだよ。無理なんだ、無理。
そこから理解しないとダメなんだ。
で、そういう根本がわかってないから、「生きてる実感」がわけわからなくなって、うつになったり自殺したり、児童虐待したりするわけよ。
デモクラシーと言えば、「民主主義」とみんな思ってるけど、デモクラシーって「主義」みたいなイデオロギーじゃないんだからね。福沢諭吉が「民衆交際」と訳したように、「いろんな考え方をつつき合わせましょう」というのがデモクラシーなんだ。
そういう根本の根本もわかってないから、「民主主義とは多数決の事だ」とか勘違いする人間が増えて、それでイライラが募る。「数の論理」なんて下品なものがデカイ顔してまかり通る。アホか。そんなものにデカい顔をさせたらダメなんだよ。それはデモクラシーじゃないんだ。
でも、そういう事もわかってないから、「みんなが同じことをすることが民主主義的幸せだ」とか思いこんで、大ヒット映画や大ヒットゲームにぶら下がる。
そんなもん幸せでもなんでもなくて、システムに心を食い荒らされてるだけなのに。
自分の幸せなら、「●●をしている時が私はとても幸せなのです」と、キチンと誰にでも(自分を含む全ての人間に対して)明快な説明ができなければならない。それが「個人」ということだ。
自分の幸せ観をキチンと実感・コントロールできもしなくて幸せになれるわけもない。それが出来ていないのは、自分の幸せとは何か? という「個人」の喜びについて考えていないからだ。
で、欧米的幸福観というものは、そういう「個人」の価値観をこそベースにしている。
そんなもの、「個人」があいまいな日本人には、よくわからないものなんだ。
でも、どうせ世の中は、そういう「個人」という単位に収束されざるを得ないんだ。
だから、身の回りの人との関係を豊かにし、家族と確かなコミュニケーションを保ち、児童虐待もせずに生きていくには、面倒でも(本当に心底面倒くさいのだけれど)勉強するしかないのだ。
この勉強もしない人間はどんどん不幸になるだけなのだ。
昔の日本なら、それでも良かった。
でも、もう無理だ。
小泉君がグシャグシャにしてしまった社会制度は、5年や10年、弱肉強食で心のゆとりもない社会に、この日本を作り替えてしまうだろう。もう待ったなしなのだ。
だから勉強していて、心ある人は、この自殺対策法の必要性を正しく認識して、そして超党派で議員立法で法律を作ったのだ。
アメリカの直接支配を受けてしまっている官僚たちの作文ではなく、血を流して生きている日本人そのものから「せめて最低限のセーフティーネット」が生まれてくるのだ。
状況は、そこまで悪化しているってことです。弱肉強食の世界にどんどん作り替えられて行ってるのに、どこにも「日本人による、日本人のための弱者救済策」が作られて来なかったってことです。
そういう意味で、超党派・議員立法での、この法律成案は、せめてもの救いだと思う。
本当に良かった。やっとここまできたか、という気分だ。
こういう本質問題もわからず、ただグローバル化の流れの中で、適当なコマーシャリズムに流されて、自分の本質を見失った人がどんどん増えていることに、私は心を痛める。
みんなはやく気付いてくれ。
そして、ちょっとでいいから勉強しよう。
自分の実感とは異なる現実が、嫌でも「日本より広い枠組み」として存在しているって事を勉強・認識しないと、人生が辛いだけだ。
つくづくそう思う。
そこは勉強するしかないんだよ。
欧米の文化は日本人には「実感」することは絶対できないのだから。学習して知識を頼りに身につける以外に方法はない。
一切ない。
まったくない。
どこにもない。
勉強せずに安心立命を得られる状況は、もうすでに、この国にはないのである。
それが現実なのだ。
きびしいことだけれど、それが現実だと知るしかないのである。
コメント
マイコン時代からいじってますが、パソコンはあくまでも
「道具」でしかないと思っています。
最近の自殺者の増加は先の見えない不安感とか、年功序列の崩壊とか
実力主義の導入もあるのではないでしょうか。
欧米だと、あくまで「キャリアアップの道具」ですね。「武器」だと認識するってことは「不要の場合は使わなくて良い」という自覚も持てるってことです。
日本の場合「ビジネスの道具だし、みんなが持っているんだから、持たなくては」と持つという人がどうしても出てくる。「ねばならない」で対応してしまうんですね。
「先の見えない不安」とか「年功序列の崩壊」っていうのは、どちらも「自分で決する」という意志の無さそのものでして、日本の文化は「周りにあわせておけば安心・極楽」というのが基本「だった」わけですよ。
しかし、欧米では神とひとりひとりが「契約」するのが基本なので、他の人がどうしてようが、それは問われない。自分がどうありたいかだけなんですね。逆に言うと「どうしたいか」をずーーーーーっと考えてるのが当たり前ってことになる。
そういうものを「みんなが使うから仕方ない」って発想で使うと、やれバックアップだ、自己責任だとうるさい話になってくるわけで。
しかし、本当に「家電製品」的にパソコンを作るなら、データは絶対に消えないようにも作れるわけです。なにもわざわざ「消去」できるようにしなくてもいい。
でもパソコンは自分で作ったデータが消せる。不注意でも消える。もうこれだけでも「ストレス」ですわね。
でも、これをストレスと感じるか「消せて便利」と思うかは、「武器」と思っているか「家電製品」と思っているかの違いなわけです。「武器」と思っていれば、昔のスパイ大作戦じゃないけど「自分で管理してあたりまえ」なわけです。
しかしこれを「家電製品」と思うと「なんだか面倒だよなぁ」とストレスになるわけです。
なので最初から「武器なんだし、しょーがねーよな」と思う方がストレスを溜め込まないで済むってことなんですね。
で、もうひとつ言うなら、そういう「ストレス」が嫌なら使わなければいいわけです。別に「使わなきゃならないもの」って事もないんです。「キャリアアップして、パソコンで人を出し抜いて儲けたい」って人が使うものなんですから。
そこは「生き方」に関わってくる。どういう生き方を選択するのか、その意志に関わってくるわけですね。
で、その「生き方」が昔は「年功序列」で、上をうやまい、下を可愛がるとか、そういう単純な事で良かったけどそうではなくなって明確でなくなってきた。自分で選ばなければならない。
そういう欧米の文化をそのまま「カタチ」にしたのがパソコンと言い換えてもいいわけです。
もちろん、メーカーは家電製品的にラッピングして商品化してますし、日本のネットでのサービスなんかも日本風に味付けはしてありますけど、データが消せるというような、本質的な部分ではモロ欧米的です。
で、この欧米的な本質を持った機械が社会のインフラとも言うべき仕組みの中に入っていくことで、猛烈なスピードで日本の社会を欧米化させているんですね。
いままで人と人のあうんの呼吸で処理していた部分も全部「自己責任」で決めないといけないとか、そういうことがパソコンによってとても促進された。
若い世代にはそれは普通だけれど、おじさん世代には辛いでしょうし、若い世代でも、あんまりキチンと状況を把握してない人には本質的なところは見えないと思うわけです。
なんでパソコンがこんなに杓子定規なんだろうって感じていても、それを普通の人は「機械だからしょうがないさ」って思うだけ。でも本当はそうではなくて、個別な具体性をやたらと重んじる欧米の文化そのものを「機械のカタチ」に集約したからそうなっているのだ、と知るべきなんですね。
このとらえ方は似ているようで、実は全然違う。機械と人間の違いではなくて、人間と人間、文化と文化の違いなんだというとらえ方の違いです。
そういう大きな溝があるのに、日本人はそれを「人間と機械の違い」としか読めなくて、苦しくなって行ってしまうわけです。そういう側面はとても大きい。そう思います。