昨日、「アダルトチルドレンと気づけていないことは、RPGの『ぶきをそうび』を知らないことみたいなもの」と書きましたが、これ、自分の実感として、ものすごーーーーーく、言い得て妙だよなぁと思いましたです。

「ぶき」は「そうび」しないと、全然機能を発揮しないんですよね。RPG(ロールプレイングゲーム)においては。

「ぶき」だけでなく「ぼうぐ」とかもそうです。RPGでは「そうびする」ということはとても重要な概念です。

「そうび」しないで敵と戦うと、あっという間に主人公は死にます。このあたりアダルトチルドレンの傷つきやすさとそっくりです。

また、「そうびする」ということを知らずにロールプレイングゲームをやっていると、ゲームに登場する登場人物が、非常に苛酷なことを言っているように感じます。

いわく「あの山の向こうに老師がいるが、途中で化け物が出る。でも、ホニャララの剣を持っていれば大丈夫だよ。」てなことです。

ふつうは「ホニャララの剣」を装備していくから、出てくる化け物をバッタバッタと倒せるわけですが、「そうび」がわかってないと、結局素手のままですからな。どんどこ死ぬばっかりなわけですよ。

持っていてもダメなんだ。「そうび」しないと。

でも、「そうびする」のは当たり前だから、街の住人やヒントをくれる登場人物は、そんなことは言わない。「もっていれば大丈夫」って言うだけ。で、「そうび」せずに「持って行く」だけやって「うまくいかない!」って怒る。

「なんだよ、世の中ウソばっかりじゃないか」って怒る。

で、回りの言うことが全部信用できないってことになってしまう。

まさに自分がアダルトチルドレンと気付いてない状態のアダルトチルドレンがこれ。ほんとにこれ。

世の中が悪いんじゃなくて、自分が「大事なこと」に気付いてないってことこそが問題なのよ。

だから、気付くだけで人生が大転回するんだけどねぇ。

でも、それがわかってないから、すべての事柄を、自分勝手な理屈づけで、無理矢理意味づけして、「自分の納得」を作るしかなくなるわけです。

で、世間の言う「良いこと」「親切」というのが、「かっこつけ」とか、「甘え」とかに感じられるし、「そういういいかげんなものなのだ、世の中は」と勝手に理由づけして、それで何も信用せず、より不幸になる、とかやってるわけです。

ああ、もったいない。人生の無駄だ。

勉強すれば、より良い状況になる、とかも、あくまで「お題目」にしか感じられないし、「個人の責任」というようなことも「契約書の上だけのかっこつけ」というようにしか思えない。
(このあたり、先の法とは何かという項目で書いたように、法そのものがキチンと機能してないのが日本なので、致し方ない面もあるにはあるんですが。)

ほんとにね、自分がアダルトチルドレンであることに気付いてない人と、RPGにおいて「ぶきをそうび」する必要に気付いてない人というのは、状況としてそっくりだと思います。

そらもう、世間全部、社会全部が気に入らないとかになってしまう。回りみんなが「異世界の人」に思えてしまうでしょうね。

なので「家族」にだけ頼るとか、子供だけが命とかになっちゃうんだけど。


ところが。


これが「ぶきをそうび」=「アダルトチルドレンであると自覚できる」ができるようになると、人生は一転するんですよ。

それはねぇ、本当に一転すると言っていい。
それはねぇ、本当に「ぶきをそうび」の意味がわかったのと同じくらい、環境から考え方から生き方から、幸せ感、生きる喜び、楽しみ、までまで、全部、一切合切が変わってしまう。

ロープレゲームの面白さの本質がやっとわかる。

つまり、「人生の面白さの本質がやっとわかる。」ということなのだ。

そのくらいインパクトのあることなのよ。アダルトチルドレンと気付くか気付かないかは。

ほんとに。

だから、そりゃ絶対、気付いた方がトクなのよ。
もう絶対ですわ。
ほんとに天と地ほどの違いだもの。

うん。
ほんとにそう思う。

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