自分の身に起こることはすべて自分のせい。
2006年3月13日「自分の身に起こることは、すべて自分のせい」
この五年から十年で、この考え方に至っております。自分のせいだからと言って、自分を責める必要はないし、そんなことしたら逆効果なんだけど、ダメな自分を受け入れるということくらいはできなきゃね。
数年前に、ある仕事で、とんでもない担当者に出会ってしまって。「俺は発注してるから偉いんだ」というような発想しかない人で。意味なく人を呼びつけようとして「外注なんだからさっさと来い」という態度だったんですね。
むかっと来たけど、「申し訳ない、ちょっと今日は伺えません」とか「昼一は無理ですが夕方6時とかならいけるかもしれません」とかで対処してたんですけどね。
細目は省略するけど、まぁ結局、請求段階でトラブッたわけです。三ヶ月近く時間を取られて、そうとうな量の原稿のリライトして、その分の請求がまったく支払われずになってしまったのですが。
よっぽど法に訴えようかとも思ったけど、そういうことにこだわる自分が情けない感じがしてやめました。(本当はとても良くないことなんだけどね。こういうルール違反をする奴は法的にガツンとやるのが社会正義なんです。本当は。)
で、その時とても悲しい思いをしたのだけれど、いったい何が悲しかったかというと、そういうダメな奴を許せない自分がはっきりといてるのだという事実ですね。
私の中にとても頑固な部分がある。許せないものは許せない。で、これはあるんだから仕方ない。このやっかいなものと一緒に生きていくしかないんだ、という自己受容です。
これが実に悲しかった。
んー、わからんかなぁ。
本当は、マザー・テレサみたいに、未熟な相手を完全に許して、心の平穏を保ったまま、それでも正当な請求を支払わないままにしようとしているという社会的な「間違い」に対しては平然と法に訴え、社会悪としての相手の「行為」を裁く、というのが正しいわけです。
でも、そんなことできねーよ。支払いしようともしねーんだぜ。そんなバカなことが許せるかよ。って気持ちがどうしても消えない。いや、怒って当然なんだから怒っていいんだけど、コントロールできないくらいに腹が立ってしまったりする。そういう自分がいてるわけです。
そのコントロールできないくらい腹が立ってる自分というのが不憫でね。「ああ、こういう爆弾を抱えながら私は生きて行かなければならないのか」という気づきがあって、それで悲しかったわけです。
当時、本当に悲しかったなぁ。
だから法に訴えるってこともしなかった。そんなことしたら自分の腹立ちがどんどんエスカレートするだけで、自分の精神衛生上とてもよろしくないと思ったわけです。(本当は弁護士とかにまかせると、その段階で訴えた相手とは直接の接触がなくなるから、その意味で精神衛生が保たれる、ってことなんですけどね。)
ま、前にも書いたけど、行動と人格の区別ってことですね。人格的なところに腹が立ってるところもあるんだけど、それは言っても仕方ないし、ただそれでも「行動として間違っている」ことは正しく正さないと世の中のためにならない。でも、その「行動のみ」を弾劾するためには、自分の中に人格攻撃をしないだけの冷静さが必要ってことですな。
で、それができるほど私は成長はしてないってことです。
むずかしいよ、それは。
明確な過ちに対しては腹が立つもの。立腹して当然だし。
なので、相手を訴えることもできず、請求もできなかったのは自分のせいだ、ということで、この件はあきらめたんですね。
しょうがないよな。自分がまだまだ未熟なんだし。
で、そんなしょうもない相手に対して、いつまでも怒って精神の不安定状態でいたくないし。そういう精神の不安定状態であることの方がうんと問題ですから。
この時の救いは、なんといっても、従来からおつきあいある得意先さんから、ちょっとした仕事(価格的にはごくごくお安い仕事でしたが)の依頼があって、その仕事がネーミングとかね、そういう専門性の必要な仕事で「これはもうシゲさんにお願いするしかないなと思いまして」と、キチンと「私」を認めてくれる仕事だったってことですね。
ああ、ありがたい。こんな風に私をキチンと認めてくださっている人がいてるではないか。こういうお仕事に感謝しながら生きることが重要だ。
という気持ちになりましてね。もうそこからはひたすら感謝ですよ。感謝できる仕事を優先的にやる。とにかくそれが基本。そういう気持ちがすごく大事ですわね。
やっぱりね「外注先だから好きに使ってやれ」みたいに志しが低い人に対応してるとね、こっちの気持ちにも「相手をしてやってるんだ」という奢りが出るんですね。これを、いくら相手がひどい人でも、奢りなしに感謝して対応できるだけの人格的完成度を自分が持ってるなら、そういう志の低い人を相手にすることもできるんでしょうけど、私はそれだけの許容度はなかったということなわけです。
だから、まだまだ、自分を磨かないとだめなんだなぁと思うばかりでね。
結局はそういう志の低い人に「相手してやってるんだ」という奢りがあったからトラブルが起きたわけで、まずは腹が立ちそうな人には近づかないという所からやらないとダメなわけです。私の場合は。このあたりは人によるでしょうがね。
(どうも私は、こういうダメな人の相手をしてやって、それで「相手をしてやってるんだ」という満足感を持ってしまうという悪癖があるんですな。これ、ほんとなんとかしないといかん。それは間違った感情であり、奢りでしかないですわね。仕事の上での「だめんずうぉーかー」ですからな。)
身の回りの人間を見て、それを鏡にして成長するっていうのは、要するに、こういうことで、どれだけ自分の中身というものをしっかり分解して把握できるかってことに尽きると思う。
どうしても変更できないこと(自分の欠点・弱点の把握。私の場合なら「怒りのコントロール」)と、社会正義からの善悪の把握(この場合では当然の報酬を未払いであること)、自分の行動の決定(それらを総合しての判断)ということが必要で、そのためには、自分の内面をしっかり見つめるという作業も必要だし、法的な問題をキチンと把握しておくことも必要だし、心理学的な知識とかを持っていることも役立つでしょう。
総合的に、全部必要なんだよな。結局。
で、そんなことを思ってたら、「許せない自分が許せない」というのは、心の問題の中では比較的よくあるパターンの課題であるようで。で、やっぱりそれはまず「自己受容」が大事なんだね。「私は許せていない。」と知ることが、まず大事。で、「許せなくてもいいんだよ。それが人間なんだから。」と自己受容する、つまり「自分を許す」のが先なわけです。
これを、自分の心の中を顧みることもせずに「相手を許してるよ」と思うのは、「相手を許してるよ」ということで「私は偉い」というご褒美がある、単なる奢りですわな。
自分の中に「許せない自分」がいてると分った時は、ほんとうに悲しくて、どうしたらいいか分らなくて、フォーククルセダース(古っ!)の「悲しくてやりきれない」ばっかり唄ってた。
悲しくて、悲しくて、とてもやりきれない。
このやるせないモヤモヤを誰かに告げようか。
ってね。
でも誰かに告げても、まぁモヤモヤは消えない。(あ、しまった。ウソ。誰かに告げるとラクになる。カウンセリングはすごい効果あると思う。ちなみにこの曲の作詞したのは北山修だし。作詞家で精神科医で、精神分析家の「きたやまおさむ(芸名)」ですからな。だから「誰かに告げようか」になるんでしょうが。キリスト教の人だと懺悔室だよな。日本に懺悔室はないからやっぱりカウンセリング受けるのがいいってことになる。)
ともあれ、誰かに告げてもいいけど、そうではなくて、自分を抱きしめてやることが大切なんだと思うね。
「そんなダメな自分も私なんだ。そういうダメさとともに生きていこうね。僕はずっと僕自身の味方だよ。」と自分をまず抱きしめてあげることだ。
それができないと、人生は辛くなるばかりだもの。
前から、アダルトチルドレンの話を書いているけど、親だって未完成なんだから、完璧ではありません。そういう意味では何かしら子供を傷つける行為を親がすることがあるわけです。
で、それをして親を許すとかどうかとか、そんなこと考えること自体がバカバカしいわけ。
何が大切なのか?
それは「ケガはどこか?」ってことですよ。
子供には自尊心は備わってないです。ということは、どんな不用意な言葉や態度で傷つくかわからないわけです。
で、その傷を癒さないまま大人になるから、アダルトチルドレンというのは他者との関係を良くしていくことができないわけです。
だから、まず必要なのは、自分の「ケガの手当」だってことなわけ。親がどうとか言ってる場合じゃないって。
そんなこといくら考えても、何の意味もない。
いったい自分はどういうタイミングで、どういう事柄について頑なになったり、立腹したりするのか? そういうことをキチンと自分で把握して、まずは「抱きしめる」。自分を抱きしめてやることです。
それをしないとケガが治らない。ジュクジュクになって化膿するばかり。
親がどうたら言うのは、石につまづいて転んでケガした後で「私はあの石ころを許してます」とか言ってるのと同じ。意味なし。まるでなし。
重要なのは、「石につまづいてこけることがあるから、それに注意すること」ですね。これは自分が親になったときに子供を不用意に傷つけないように注意するということ。
で、それより先にやらねばならんのは、自分のケガの手当です。転んでケガしたのは膝小僧なのか肘なのか。ほっぺたなのか頭なのか。
これをキチンとやらないから、心の傷が化膿してジュクジュクになってとりかえしのつかないことになるわけです。
親になってから、子供のことばっかり言ってる人間とかは、基本、これです。
自分の親のことも、自分の子供のことも、両方忘れろ。
まず、自分の「ケガ」してるところはどこか探せ。
で、そこにヨーチンとかマキロンとか塗るのが先だよ。
そら、薬塗ったらしみるし痛いんだけどね。痛くてギャー!とか言うんだけど、でも塗らなきゃダメだよ。化膿するよ。
そういうことなんだから。
自分の身に起こることは、すべて自分のせいで、それはたいていの場合自分が怪我してることにも気付かずに、あるいは気付いてないフリして生きてるってことだと思う。
この五年から十年で、この考え方に至っております。自分のせいだからと言って、自分を責める必要はないし、そんなことしたら逆効果なんだけど、ダメな自分を受け入れるということくらいはできなきゃね。
数年前に、ある仕事で、とんでもない担当者に出会ってしまって。「俺は発注してるから偉いんだ」というような発想しかない人で。意味なく人を呼びつけようとして「外注なんだからさっさと来い」という態度だったんですね。
むかっと来たけど、「申し訳ない、ちょっと今日は伺えません」とか「昼一は無理ですが夕方6時とかならいけるかもしれません」とかで対処してたんですけどね。
細目は省略するけど、まぁ結局、請求段階でトラブッたわけです。三ヶ月近く時間を取られて、そうとうな量の原稿のリライトして、その分の請求がまったく支払われずになってしまったのですが。
よっぽど法に訴えようかとも思ったけど、そういうことにこだわる自分が情けない感じがしてやめました。(本当はとても良くないことなんだけどね。こういうルール違反をする奴は法的にガツンとやるのが社会正義なんです。本当は。)
で、その時とても悲しい思いをしたのだけれど、いったい何が悲しかったかというと、そういうダメな奴を許せない自分がはっきりといてるのだという事実ですね。
私の中にとても頑固な部分がある。許せないものは許せない。で、これはあるんだから仕方ない。このやっかいなものと一緒に生きていくしかないんだ、という自己受容です。
これが実に悲しかった。
んー、わからんかなぁ。
本当は、マザー・テレサみたいに、未熟な相手を完全に許して、心の平穏を保ったまま、それでも正当な請求を支払わないままにしようとしているという社会的な「間違い」に対しては平然と法に訴え、社会悪としての相手の「行為」を裁く、というのが正しいわけです。
でも、そんなことできねーよ。支払いしようともしねーんだぜ。そんなバカなことが許せるかよ。って気持ちがどうしても消えない。いや、怒って当然なんだから怒っていいんだけど、コントロールできないくらいに腹が立ってしまったりする。そういう自分がいてるわけです。
そのコントロールできないくらい腹が立ってる自分というのが不憫でね。「ああ、こういう爆弾を抱えながら私は生きて行かなければならないのか」という気づきがあって、それで悲しかったわけです。
当時、本当に悲しかったなぁ。
だから法に訴えるってこともしなかった。そんなことしたら自分の腹立ちがどんどんエスカレートするだけで、自分の精神衛生上とてもよろしくないと思ったわけです。(本当は弁護士とかにまかせると、その段階で訴えた相手とは直接の接触がなくなるから、その意味で精神衛生が保たれる、ってことなんですけどね。)
ま、前にも書いたけど、行動と人格の区別ってことですね。人格的なところに腹が立ってるところもあるんだけど、それは言っても仕方ないし、ただそれでも「行動として間違っている」ことは正しく正さないと世の中のためにならない。でも、その「行動のみ」を弾劾するためには、自分の中に人格攻撃をしないだけの冷静さが必要ってことですな。
で、それができるほど私は成長はしてないってことです。
むずかしいよ、それは。
明確な過ちに対しては腹が立つもの。立腹して当然だし。
なので、相手を訴えることもできず、請求もできなかったのは自分のせいだ、ということで、この件はあきらめたんですね。
しょうがないよな。自分がまだまだ未熟なんだし。
で、そんなしょうもない相手に対して、いつまでも怒って精神の不安定状態でいたくないし。そういう精神の不安定状態であることの方がうんと問題ですから。
この時の救いは、なんといっても、従来からおつきあいある得意先さんから、ちょっとした仕事(価格的にはごくごくお安い仕事でしたが)の依頼があって、その仕事がネーミングとかね、そういう専門性の必要な仕事で「これはもうシゲさんにお願いするしかないなと思いまして」と、キチンと「私」を認めてくれる仕事だったってことですね。
ああ、ありがたい。こんな風に私をキチンと認めてくださっている人がいてるではないか。こういうお仕事に感謝しながら生きることが重要だ。
という気持ちになりましてね。もうそこからはひたすら感謝ですよ。感謝できる仕事を優先的にやる。とにかくそれが基本。そういう気持ちがすごく大事ですわね。
やっぱりね「外注先だから好きに使ってやれ」みたいに志しが低い人に対応してるとね、こっちの気持ちにも「相手をしてやってるんだ」という奢りが出るんですね。これを、いくら相手がひどい人でも、奢りなしに感謝して対応できるだけの人格的完成度を自分が持ってるなら、そういう志の低い人を相手にすることもできるんでしょうけど、私はそれだけの許容度はなかったということなわけです。
だから、まだまだ、自分を磨かないとだめなんだなぁと思うばかりでね。
結局はそういう志の低い人に「相手してやってるんだ」という奢りがあったからトラブルが起きたわけで、まずは腹が立ちそうな人には近づかないという所からやらないとダメなわけです。私の場合は。このあたりは人によるでしょうがね。
(どうも私は、こういうダメな人の相手をしてやって、それで「相手をしてやってるんだ」という満足感を持ってしまうという悪癖があるんですな。これ、ほんとなんとかしないといかん。それは間違った感情であり、奢りでしかないですわね。仕事の上での「だめんずうぉーかー」ですからな。)
身の回りの人間を見て、それを鏡にして成長するっていうのは、要するに、こういうことで、どれだけ自分の中身というものをしっかり分解して把握できるかってことに尽きると思う。
どうしても変更できないこと(自分の欠点・弱点の把握。私の場合なら「怒りのコントロール」)と、社会正義からの善悪の把握(この場合では当然の報酬を未払いであること)、自分の行動の決定(それらを総合しての判断)ということが必要で、そのためには、自分の内面をしっかり見つめるという作業も必要だし、法的な問題をキチンと把握しておくことも必要だし、心理学的な知識とかを持っていることも役立つでしょう。
総合的に、全部必要なんだよな。結局。
で、そんなことを思ってたら、「許せない自分が許せない」というのは、心の問題の中では比較的よくあるパターンの課題であるようで。で、やっぱりそれはまず「自己受容」が大事なんだね。「私は許せていない。」と知ることが、まず大事。で、「許せなくてもいいんだよ。それが人間なんだから。」と自己受容する、つまり「自分を許す」のが先なわけです。
これを、自分の心の中を顧みることもせずに「相手を許してるよ」と思うのは、「相手を許してるよ」ということで「私は偉い」というご褒美がある、単なる奢りですわな。
自分の中に「許せない自分」がいてると分った時は、ほんとうに悲しくて、どうしたらいいか分らなくて、フォーククルセダース(古っ!)の「悲しくてやりきれない」ばっかり唄ってた。
悲しくて、悲しくて、とてもやりきれない。
このやるせないモヤモヤを誰かに告げようか。
ってね。
でも誰かに告げても、まぁモヤモヤは消えない。(あ、しまった。ウソ。誰かに告げるとラクになる。カウンセリングはすごい効果あると思う。ちなみにこの曲の作詞したのは北山修だし。作詞家で精神科医で、精神分析家の「きたやまおさむ(芸名)」ですからな。だから「誰かに告げようか」になるんでしょうが。キリスト教の人だと懺悔室だよな。日本に懺悔室はないからやっぱりカウンセリング受けるのがいいってことになる。)
ともあれ、誰かに告げてもいいけど、そうではなくて、自分を抱きしめてやることが大切なんだと思うね。
「そんなダメな自分も私なんだ。そういうダメさとともに生きていこうね。僕はずっと僕自身の味方だよ。」と自分をまず抱きしめてあげることだ。
それができないと、人生は辛くなるばかりだもの。
前から、アダルトチルドレンの話を書いているけど、親だって未完成なんだから、完璧ではありません。そういう意味では何かしら子供を傷つける行為を親がすることがあるわけです。
で、それをして親を許すとかどうかとか、そんなこと考えること自体がバカバカしいわけ。
何が大切なのか?
それは「ケガはどこか?」ってことですよ。
子供には自尊心は備わってないです。ということは、どんな不用意な言葉や態度で傷つくかわからないわけです。
で、その傷を癒さないまま大人になるから、アダルトチルドレンというのは他者との関係を良くしていくことができないわけです。
だから、まず必要なのは、自分の「ケガの手当」だってことなわけ。親がどうとか言ってる場合じゃないって。
そんなこといくら考えても、何の意味もない。
いったい自分はどういうタイミングで、どういう事柄について頑なになったり、立腹したりするのか? そういうことをキチンと自分で把握して、まずは「抱きしめる」。自分を抱きしめてやることです。
それをしないとケガが治らない。ジュクジュクになって化膿するばかり。
親がどうたら言うのは、石につまづいて転んでケガした後で「私はあの石ころを許してます」とか言ってるのと同じ。意味なし。まるでなし。
重要なのは、「石につまづいてこけることがあるから、それに注意すること」ですね。これは自分が親になったときに子供を不用意に傷つけないように注意するということ。
で、それより先にやらねばならんのは、自分のケガの手当です。転んでケガしたのは膝小僧なのか肘なのか。ほっぺたなのか頭なのか。
これをキチンとやらないから、心の傷が化膿してジュクジュクになってとりかえしのつかないことになるわけです。
親になってから、子供のことばっかり言ってる人間とかは、基本、これです。
自分の親のことも、自分の子供のことも、両方忘れろ。
まず、自分の「ケガ」してるところはどこか探せ。
で、そこにヨーチンとかマキロンとか塗るのが先だよ。
そら、薬塗ったらしみるし痛いんだけどね。痛くてギャー!とか言うんだけど、でも塗らなきゃダメだよ。化膿するよ。
そういうことなんだから。
自分の身に起こることは、すべて自分のせいで、それはたいていの場合自分が怪我してることにも気付かずに、あるいは気付いてないフリして生きてるってことだと思う。
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