この数年のことを思い起こすに、知人・友人に対して、正直な感想や意見、あるいは批判などを提出して、想像以上に苛烈に反応されることが多い。

で、つらつら思うに、多分、「このくらい指摘されても『ああ、そうかなぁ、そうかも知れないなぁ』程度の反応だろう」という前提で指摘してるんですね。私としては。

ようするに「この程度の指摘なら、受け止められるだろう。」という前提のもと、指摘してることがけっこうあるわけです。

もちろん、あまりに鈍感で気付きが無さ過ぎて、カリカリに怒って叱りつけることもあるんだけど、「それはちょっと●●なんじゃないの? こっちから見ると○○○○に見えるよ」と、サラっと言ったつもりという場合も多いわけです。でも、「そんな言い方ないでしょ!」とか、ものすごい反応をされるのよなぁ。

「えええええー? そんなに苛烈に反応するようなことかぁ?」とか思うことが、けっこうある。

もう、こうなると処置なしなので、ほったらかしにする。そこまで苛烈に反応するってことは、多分指摘が当たらずとも遠からずで、その人の心の一番痛いところを突いてしまったんだろうなぁと思うばかり。

ちゅうかね、アダルトチルドレンの話でも書いたけれど、この一二年で、たぶん私自身が自尊心が高くなってきて、自分の欠点を指摘されても「ああ、そういうところはあるかもなぁ。ちょっとずつでも直していこう。」と、普通に思うように変わってきたからなんだと思うのです。

そらまぁ一気には無理やけどね。

前に、知り合いに「食い物の味とかをどうたらこうたら言うのは、はしたないという感じがして良くないと思う。」というような話をしてたら、「それは食べるという事に関して歪んでると思う」とだいぶキツイ指摘をされたのですが、数年ほどして、何かの話題で「あんた、なんか食に対して潔癖な感じがなくなってきたね」と言われて、「ありゃ、そうかしら?」と自分でびっくりということがあったのです。

たぶんね、この数年で、自分の内面を、そうとうにほじくり返したから、その過程で、いろんなことの感じ方が相当大きく変わったんだと思う。

痛みと成長が二人連れ、なんてことも、よくよく考えたら、この数年で学習したことかも知れない。痛みが大きいほどに学習の度合いは大きいですな。

「君はお金の計算とか甘いよ」と言われたことがあって、一時期すごく反発してましたが、これもいろいろ学習して克服したし、変わった。考え方だけは。

そういう風にしてきたから、「まぁ、このくらい受け取れるやろ」という思いが相当きつくなってしまってる部分はあるかも知れない。

なおかつ心の内面を見る目も、多分相当キツく、シビアにチューニングされてしまったんやろなぁとも思いますな。

すんまへんなぁ。そこまで反応するとは思ってなかったんっすよ。許してやっておくなはれ。という事だ。

でもなぁ、想定外にキツイ反応してるってことは、まぁまず間違いなく、こっちの指摘が、そうとうに鋭いところを突いてるからのはずなんよなぁ。突いてなかったら「わははは、そらひどい勘違いですなぁ。」で終わりなわけだし。

なので、この手の話題には、もう触れないってことにするしかなくなる。伴侶とか血縁者の場合なら、徹底して問題を解決しないといけないとも思うのだけれど、知人・友人の場合はちょっと置いておくしかない。

で、当人がその事実を受け入れるか、あるいはごまかしてもいいけど(ごまかすのよな、人間は。そういうものなのかもしらん。)どうにか、なんとかするまでほっておくしかない。

別にこっちが悪いことをしたわけではないし。

というのも、結局人間は、自分の真の姿は、他者から教えてもらうしか他に方法がないと、相当昔から私は思っているからなのであります。

「君から見て、私はどう見える?」とか「私にはこういう問題があると思うがどうですか」とか「これこれがうまくいかないのは、どういうところに問題があると思う?」とか、良く聞いてたもの。

とくにネックだった恋愛関係ではとくに聞いてた。

鏡の事を思い起こせばすぐにわかるのだけれど、人間は、自分の顔を、自分でだけ見ることができないのです。遠くをぼーっと見ている自分の表情が、どんなにアホなのか、あるいは美しいのか、まったく不明なのである。

日常、表情豊かに生きている人も、静かな人もいてるけれど、自分の表情が、そのどのあたりに位置するのかとか、そういうバランスさえわからないわけです。

右ナナメ上を見ている時の自分の顔を、左三十五度から観察する、なんてことは絶対にできないわけですよ。
それができるのは自分以外の他者だけだ。

それがよく分かっていたからかも知れないが、とにかくうまく行かないことに関しては、客観的な意見を聞き回った。

そしたら答えが「自己完結してるわな」とか「ユニーク(ようするに変わり者ってことだが)」とか言われて、ずいぶんショックでもあった。

で、考えてみると、そういう他者からの評価を軸に「自己完結しないように、周りとの連携で仕事をする・仕事を他者に振る」とか、「ユニークすぎないように、共通項でお互いにメリットのあることは優先させる」とかを、ちょっとずつ学んで取り込んできたところがあるのですね。

一気にやるのは大変なんだね。ちょっとずつって言うのがいいんだ。

そういや、ビートたけしが映画界に入ったのも、ちょっとずつだったんだよなぁ。最初はゲスト出演の脇役で。
でもいつの間にか俳優になっていて、監督になっていて、世界の北野になってる。
あの人、そうやって少しずつ変わっていくのがうまい。
髪型とかもちょっとずつ変えていく。で、ハッと気付くと全然変わってるのな。

やっぱり上手い人は、「ステップを刻む」ということを知ってるんだと思う。自分が越えられるハードルを、越えられる分だけ、常に越えてるんだね。
だから、それが五年とか十年で大きな差になってる。

結局、最近の友人・知人とのやりとりでの問題は、この「ちょっとずつ自分を育ててきた」ことと無関係ではないんだろうなと思うわけです。

多分、「自分の顔は自分が一番良く知っている」と思ってる人とは、もう、相容れないんだと思うんですよ。
「そんなアホな、それ、鏡で見ただけの顔やろが」としか思えないもん。僕には。ほんと。

「俺の顔には右目の下にホクロがあって」とか、そういうどうでもいいこと言うのな、そういう人って。
いや、知らんって。どうでもいいって。
そうじゃなくて、あなた以外のみんなが思っているあなたのイメージが大事なんじゃないのってことで。

で、もうひとつ言うと、「自己完結」とか「ユニーク」とか言われても、それって「ヒント」でしかないわけね。
そういう印象を持たれている原因となる「何か」が自分の中にあって、それを探り出さないと本当の自分改革はできないわけです。

だから、そういう「キーワード」程度のことに腹を立てるってことは僕の場合はほぼない。っつーか、最近ほんとうになくなった。「うーん。そうなんかなぁ。そうかも。ちょっと考えてみる。」って感じ。いやわざわざそう言ったりはしないかも知れないけど。どうせ、行動とかを変えるにしても、一気にはできないと思うし、あわてることもないし。

このあたりはね、ほんとうに内面の自分と手を取り合って、自分の心の中を探検しないとわからないので、人それぞれ、やるも良し、やらないのも良しなんでしょうけどな。

でも、結局、「自分の顔は、自分だけが知らない。」ってのは大事だと思うわけですよ。
ここがわかってないと、「自分の課題」が上手に見つけられないから。課題のない人生はつまらない人生ですよ。いやほんと。

なにかを成し遂げるんだ、とか、私はこうなりたい! とかあるから、この理不尽な世界で、イキイキと生きていけるわけで。
課題さまさまですよ。

うーん。なんかどんどんカッコいい話にばっかりなってしまってるから、ここまで。
ほんとは、もっとドロドロしてるんやけどね。
まぁ、ここまでにしとこ。

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