間違いに気付くまでには時間がかかる。
2006年3月11日 読書 コメント (1)
ISBN:4813311849 単行本(ソフトカバー) 国弘 正雄 たちばな出版 1999/12 ¥1,575
えー、久しぶりに、英語の習得に関する書籍に関して書きます。
馬鹿な話ですが、「英語の学び方」に関する書籍については、そうだなぁ、本棚を見ても、どう少なく見積もっても100冊以上、読んでるんですね。
30才を過ぎてから英語の勉強をはじめて、何をやってもうまく行かないから、「これはやり方が間違ってるのだろう」という感じで、読みあさったというのがあります。
部分的にはすごく役だったこととかあるし、いろんな良い書籍について、いろいろ話も書けるんですけど、今日はそういうこととは違って、「自分の気づき」のレベルということを、ちょっと書いてみたいのです。
表題の書籍は、同時通訳の神様と言われた國弘正雄さんの書籍でして、この方はアポロの月面着陸のテレビ放送の時に、同時通訳をされていた方です。
で、この本は、「只管朗読(しかんろうどく)」と言って、ただひたすら、英語の本を音読しなさい、そうすれば効果がありますよ、と言ってる本です。ある意味それしか言ってない本でもあります。
初版は1970年ごろに出たらしいのですが、平成11年、6年ほどまえに改訂版が出されまして私はその平成11年に購入しています。
で、その時にいちおう読んではいるのですが、「音読」そのものは、始めたのは去年からなんですね。
つまり、読んでいながら言うことを受け取ってやり始めるまでに6年もの時間がかかっているということなのです。
で、最近音読が面白くなってきたものだから、読み直してみてるんですが、ほんとに「俺って、あほやなぁ」と思いますね。
ちゃんと、いろんな事書いてあるのに、読み落し、読み間違いしてるやん!俺はなんてバカなんだ、です。
その読み落し、読み間違いのひどさは、実際に音読をちゃんとやり出して分る。それまではわからないわけです。音読は本当に効果高いですわ。こらすごい。いや、びっくりした。
で、そういう状態の、いま読むとそうかぁっっっってことが多くてですね、で、当時「ここが大切」と思って鉛筆でマルで囲んでる部分があったんですが、それを見て「どこ読んでるねん、お前わ!」って自分を叱りつけたくなってしまったのですわ。
音読のすごさについても、いろいろ書きたいのですが、それは、また書くことにして、それより、自分の馬鹿さ加減について語る方が、体験をシェアするという意味では、より良いかと思うので、そっちの方を書きます。
だいたい、私の英語の勉強意欲というのは、「海外の新聞を読んで、海外から見た日本というものがどういう具合に見えているのかを知りたい」というような欲求から始まってるんですね。
それと仕事の上でもインターネット活用が一般的になってきて、英語のページからも情報を得たいというのがあったわけです。
ということなので「読みたい」というのがメインの欲求であって、「話す」ということに関しては、実は全然興味がなかったのです。
ただ、「読むための勉強」だけでは片手落ちかなという意識はあって、それで「話す」ということに関しては権威者である國弘先生の本の改訂版(平成11年のは改訂版です)が出たときに買ったわけです。
で、当時の読み方を、本につけられたアンダーライン等から見るに、完全に「話すことは不要。概略、話すための練習法だけ頭に入れておけばいい。でもヒアリングはできるようになりたいし、そこは学ばせてもらおう。」という意識でしか読んでないというのが良くわかるわけです。
つまり「話すことは不要」と思いながら「話しかた」の本を読んでるわけで、実にバカというか、不遜と言うか、失礼というか、傲岸というか、カッチョ悪いわけですね。
ようするに、素晴らしい知識や、良い教えがあっても、受け取る側に「受け取らせていただきます」という心がなかったら、受け取れないってことです。
ああ、しかし、6年も無駄にしたんだなぁ。アホやなぁ俺。
「読めればいい」と思いこんでるから、「話すことは不要」となって、本の一部しかちゃんとできなくなってたわけです。
で、6年たって、やっと去年TOEICを受けに行きまして、自分の実力が客観的に、全然ダメで、でも、努力すれば多少はなんとかなりそうだ、というのも見えてきてはじめて、「音読をやろう」ということになったわけです。
話すことも読むことも、「言語の習得」というおおきなテーマの別の側面からの取り上げ方にしかすぎないので、実は同じことなんですね。
でも、それがわかってないからこそ、読むと話すを別のこととして、切り分けて、意識にフタをしていたわけです。
結局、実際には、現実どういう事だったかというと、「発音するのが苦手だから、苦手なことはしたくない」でしかなかったわけですね。
そういうありのままの自分に気付いてなくて、「発音が苦手」を正当化する理由として「話せなくてもよい」としていたわけです。
でも発音できなけりゃ、聞き取りできないし、聞き取りできないってことは読めもしないんですよ。だって言語習得という意味ではまったく同じことですから。
このあたり、僕は音読によって、ものすごくインパクトの大きい体験を、この半年でしておりまして、もうそれは日本語のあり方、言葉を学ぶということ、話すとはどういうことか、文法とはいったい何なのかにいたるまで、音読体験によって完全に覆ってしまったんですが、それはまたいずれ書くことにしましょう。
とにかく大事なことは「苦手だなぁ」と感じていた事を「苦手と思っている」と正しく認識できずに「話すことは必要ない。読めればいいのだ。」と屁理屈をつけていたのだと自覚するに至った、それに6年もかかってしまったんだ、ということであります。
たぶん、本当に自分の、こういう正当化されてしまった間違いに気付くまでにはすごく時間がかかるんでしょう。ようは「苦手」を直視するとかが人間は不得手だ、ということですね。
でも実際には「苦手を避けてる」だけなわけで。で、その「苦手」を実際にやってみると、ものすごい天地がひっくり返るほどの「学び」「気づき」が得られるのですわ。
結局、こういう本を読んで学ぶというのには、「気づき」の体勢が整っているかどうかが、本当に重要なんだなぁと思いましたね。
本は、
●気づきの体勢を整えて、ありのままに受け取る。
●書いてあることを正しく理解し、著者の意見をくみ取る
●書かれてあることを実践し、自分の人生の役に立てる。
の三段階の活用レベルがあると思うのですね。
で、たぶん多くの人間は、最初の「ありのままに受け取る」ということ自体ができてないんではないか? というのが最近ようやくわかってきたことです。
前から書いてますが、三色ボールペン読書法における「自分の興味が動いた箇所に緑線を引く」だけやってても、「よりよい知恵の受諾」はできてないんですよね。自分の成長はない。まぁ、読まないよりはマシですが。
やはり、「著者が言おうとしている、重要と思われるところ」に赤線を引く態度が重要で、これには「赤線を引くぞ」という決意がまず必要で、なおかつ、正しく赤線を引く「訓練」がないと、なかなか正しくは引けないわけです。
つまり、「書いてあることを、ありのまま受け取る」ということだけでも、これだけ大変だ、ということなんですね。
で、こういう具合に意識的に赤線を引く経験を増やしてはじめて、著者が言おうとしていることが、おぼろげながら見えてくる。
で、それを正しく受け取ったら、そこで自分の考え方に影響が生まれます。この「自分の考え方に変化が出る」という所まで、体の中に、その著者の言おうとしていることを入れるのが、著者の意見をくみ取るということでして、実は僕は、これを仕事の上では「テクニック」として活用しています。
どういうことかと言うと、たとえばビジネス文書などに誰かが何かメモしてたりすると「このメモの意味は何ですか?」とか質問するようにしてるんですね。どうでも良さそうに思われる、ちょっとしたメモに、その人の考えてる思考体系そのものが眠ってる場合があるので、打ち合わせなどで資料を出されたときに手書きのメモとかがわずかでも書いてあると、必ず確認します。
ま、ちょっと、これは余談でしたが。
で、この「正しく理解」した後に「書いてあることの実践」があるわけですが、実は、ここまで行く人というのは、ほとんどおりません。書籍に「こうすると良いよ」と書いてあって、その通りに実行する人は、まぁ3%が良いところだそうです。
読むだけ読んで、「ああ、わかった、わかった」と思って、何もしない。この本で言うと「とにかく何度でも音読をするのが良いのだ」と書いてあるのに、しない。本当に人間は行動しないですな。
で、自分自身の体験を踏まえてみて、行動以前に、書かれてあることを、正しく読み取ることが難しいわけですよ。何冊もの書籍を読んで基礎知識が頭に入ってないと理解できない事というのも多いし、「赤線」を引く訓練ができてないと、理解力が身に付いてない、ということもあるし。
しかし、なによりそれより以前に、「苦手」を「必要ない」としているような、自分勝手な言い訳をしている事のほうが、人間ははるかに多いわけです。
もう、そらね、こんな自分勝手な言い訳をそのままにしてたら、何にも学べていないわけですよ。そらもう、全然意味ない。
自分をごまかして、何の得もないってことです。
繰り返して書くと
●気づきの体勢を整えて、ありのままに受け取る。
●書いてあることを正しく理解し、著者の意見をくみ取る
●書かれてあることを実践し、自分の人生の役に立てる。
というのが大事だって書いたわけですが、こうして書くと、すごく普通のことしか書いてないように見えると思いますが、これを「できてない人間」に焦点をあてて書き直すと、
●言い訳して逃げて、事実を受け取る事自体を拒否する。
●書いてあることを曲解して、著者の意見を無視する
●良いことが書いてあるのに実践せず、人生が役立たずのままである。
ということなわけです。
まぁ、役立たずってことですな。
そういうことなんです。
とにかく、6年前に読んだ本を読み直して、そういう事をすごく感じましたねぇ。
と、言ってますが、じゃあ、この「英語の話しかた」が良い本でおすすめかというと、うーんと唸る。実際に「只管朗読」をやってみて、中学の英語の教科書を一ページあたり100回以上音読して、一冊、二冊、仕上げてから後でないと、この本に書いてあることは、実感を持って「おもしろい!」「なるほど!」ってならないですからなぁ。うーん。
まぁあれです、実行までに6年もかかった自分を「アホ」と思うと同時に、曲解しまくりであろうとも、6年前に、「読もう」と思って、曲がりなりにも、いちおう「読んだ」自分を偉いと思いますわな。6年前のその体験なくして、いまの「実行」は絶対にないわけですから。
なんせ、この本「只管朗読が良い」とは書いてあるけど、音読の手順とか、回数の目安とか、そういうのは全然書いてないし。そういうところが不親切なのがよろしくない。
そういう意味では、
「英語上達完全マップ」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4860641027/qid%3D1134706702/sr%3D1-1/ref%3Dsr%5F1%5F2%5F1/250-6415135-5021859
の方が、ノウハウ本としては、はるかにお勧めなわけですが。
でもやっぱり、英語の音読なら國弘先生ですわねぇ。平気で「中学の英語の教科書を500回も朗読すれば、それが実力になります」とか書いてますからなぁ。
500回ってどんだけ猛練習やねん。ほんまに。
さらっと書いてあるから読み落としてしまうけど、一ページの音読に30秒から1分はかかりますからな。中学英語の教科書を、朝から晩まで8時間ずっと朗読して、やっと一ページってことですから。
ま、それをしなさいと、この人は言っておられるわけです。
いや、まぁ、そういうことなんだけどね。実際。
ともあれ、去年の11月から、毎日一時間ずつくらい音読をするようにし始めましたが、違うね、これは。中学英語の二年生用を一冊、100回朗読を終えましたが、実感出てきた。いまは続いて中学三年生用をやっております。最近面白くなってきた。うん。
いや、ともあれ、音読はええよ。ほんま。
もっと早くに「実践」までたどりついておけば良かったなぁ。
でも、そういうものかもしれない。
間違いに気付くまでには、時間がかかるのだ。やっぱり。
えー、久しぶりに、英語の習得に関する書籍に関して書きます。
馬鹿な話ですが、「英語の学び方」に関する書籍については、そうだなぁ、本棚を見ても、どう少なく見積もっても100冊以上、読んでるんですね。
30才を過ぎてから英語の勉強をはじめて、何をやってもうまく行かないから、「これはやり方が間違ってるのだろう」という感じで、読みあさったというのがあります。
部分的にはすごく役だったこととかあるし、いろんな良い書籍について、いろいろ話も書けるんですけど、今日はそういうこととは違って、「自分の気づき」のレベルということを、ちょっと書いてみたいのです。
表題の書籍は、同時通訳の神様と言われた國弘正雄さんの書籍でして、この方はアポロの月面着陸のテレビ放送の時に、同時通訳をされていた方です。
で、この本は、「只管朗読(しかんろうどく)」と言って、ただひたすら、英語の本を音読しなさい、そうすれば効果がありますよ、と言ってる本です。ある意味それしか言ってない本でもあります。
初版は1970年ごろに出たらしいのですが、平成11年、6年ほどまえに改訂版が出されまして私はその平成11年に購入しています。
で、その時にいちおう読んではいるのですが、「音読」そのものは、始めたのは去年からなんですね。
つまり、読んでいながら言うことを受け取ってやり始めるまでに6年もの時間がかかっているということなのです。
で、最近音読が面白くなってきたものだから、読み直してみてるんですが、ほんとに「俺って、あほやなぁ」と思いますね。
ちゃんと、いろんな事書いてあるのに、読み落し、読み間違いしてるやん!俺はなんてバカなんだ、です。
その読み落し、読み間違いのひどさは、実際に音読をちゃんとやり出して分る。それまではわからないわけです。音読は本当に効果高いですわ。こらすごい。いや、びっくりした。
で、そういう状態の、いま読むとそうかぁっっっってことが多くてですね、で、当時「ここが大切」と思って鉛筆でマルで囲んでる部分があったんですが、それを見て「どこ読んでるねん、お前わ!」って自分を叱りつけたくなってしまったのですわ。
音読のすごさについても、いろいろ書きたいのですが、それは、また書くことにして、それより、自分の馬鹿さ加減について語る方が、体験をシェアするという意味では、より良いかと思うので、そっちの方を書きます。
だいたい、私の英語の勉強意欲というのは、「海外の新聞を読んで、海外から見た日本というものがどういう具合に見えているのかを知りたい」というような欲求から始まってるんですね。
それと仕事の上でもインターネット活用が一般的になってきて、英語のページからも情報を得たいというのがあったわけです。
ということなので「読みたい」というのがメインの欲求であって、「話す」ということに関しては、実は全然興味がなかったのです。
ただ、「読むための勉強」だけでは片手落ちかなという意識はあって、それで「話す」ということに関しては権威者である國弘先生の本の改訂版(平成11年のは改訂版です)が出たときに買ったわけです。
で、当時の読み方を、本につけられたアンダーライン等から見るに、完全に「話すことは不要。概略、話すための練習法だけ頭に入れておけばいい。でもヒアリングはできるようになりたいし、そこは学ばせてもらおう。」という意識でしか読んでないというのが良くわかるわけです。
つまり「話すことは不要」と思いながら「話しかた」の本を読んでるわけで、実にバカというか、不遜と言うか、失礼というか、傲岸というか、カッチョ悪いわけですね。
ようするに、素晴らしい知識や、良い教えがあっても、受け取る側に「受け取らせていただきます」という心がなかったら、受け取れないってことです。
ああ、しかし、6年も無駄にしたんだなぁ。アホやなぁ俺。
「読めればいい」と思いこんでるから、「話すことは不要」となって、本の一部しかちゃんとできなくなってたわけです。
で、6年たって、やっと去年TOEICを受けに行きまして、自分の実力が客観的に、全然ダメで、でも、努力すれば多少はなんとかなりそうだ、というのも見えてきてはじめて、「音読をやろう」ということになったわけです。
話すことも読むことも、「言語の習得」というおおきなテーマの別の側面からの取り上げ方にしかすぎないので、実は同じことなんですね。
でも、それがわかってないからこそ、読むと話すを別のこととして、切り分けて、意識にフタをしていたわけです。
結局、実際には、現実どういう事だったかというと、「発音するのが苦手だから、苦手なことはしたくない」でしかなかったわけですね。
そういうありのままの自分に気付いてなくて、「発音が苦手」を正当化する理由として「話せなくてもよい」としていたわけです。
でも発音できなけりゃ、聞き取りできないし、聞き取りできないってことは読めもしないんですよ。だって言語習得という意味ではまったく同じことですから。
このあたり、僕は音読によって、ものすごくインパクトの大きい体験を、この半年でしておりまして、もうそれは日本語のあり方、言葉を学ぶということ、話すとはどういうことか、文法とはいったい何なのかにいたるまで、音読体験によって完全に覆ってしまったんですが、それはまたいずれ書くことにしましょう。
とにかく大事なことは「苦手だなぁ」と感じていた事を「苦手と思っている」と正しく認識できずに「話すことは必要ない。読めればいいのだ。」と屁理屈をつけていたのだと自覚するに至った、それに6年もかかってしまったんだ、ということであります。
たぶん、本当に自分の、こういう正当化されてしまった間違いに気付くまでにはすごく時間がかかるんでしょう。ようは「苦手」を直視するとかが人間は不得手だ、ということですね。
でも実際には「苦手を避けてる」だけなわけで。で、その「苦手」を実際にやってみると、ものすごい天地がひっくり返るほどの「学び」「気づき」が得られるのですわ。
結局、こういう本を読んで学ぶというのには、「気づき」の体勢が整っているかどうかが、本当に重要なんだなぁと思いましたね。
本は、
●気づきの体勢を整えて、ありのままに受け取る。
●書いてあることを正しく理解し、著者の意見をくみ取る
●書かれてあることを実践し、自分の人生の役に立てる。
の三段階の活用レベルがあると思うのですね。
で、たぶん多くの人間は、最初の「ありのままに受け取る」ということ自体ができてないんではないか? というのが最近ようやくわかってきたことです。
前から書いてますが、三色ボールペン読書法における「自分の興味が動いた箇所に緑線を引く」だけやってても、「よりよい知恵の受諾」はできてないんですよね。自分の成長はない。まぁ、読まないよりはマシですが。
やはり、「著者が言おうとしている、重要と思われるところ」に赤線を引く態度が重要で、これには「赤線を引くぞ」という決意がまず必要で、なおかつ、正しく赤線を引く「訓練」がないと、なかなか正しくは引けないわけです。
つまり、「書いてあることを、ありのまま受け取る」ということだけでも、これだけ大変だ、ということなんですね。
で、こういう具合に意識的に赤線を引く経験を増やしてはじめて、著者が言おうとしていることが、おぼろげながら見えてくる。
で、それを正しく受け取ったら、そこで自分の考え方に影響が生まれます。この「自分の考え方に変化が出る」という所まで、体の中に、その著者の言おうとしていることを入れるのが、著者の意見をくみ取るということでして、実は僕は、これを仕事の上では「テクニック」として活用しています。
どういうことかと言うと、たとえばビジネス文書などに誰かが何かメモしてたりすると「このメモの意味は何ですか?」とか質問するようにしてるんですね。どうでも良さそうに思われる、ちょっとしたメモに、その人の考えてる思考体系そのものが眠ってる場合があるので、打ち合わせなどで資料を出されたときに手書きのメモとかがわずかでも書いてあると、必ず確認します。
ま、ちょっと、これは余談でしたが。
で、この「正しく理解」した後に「書いてあることの実践」があるわけですが、実は、ここまで行く人というのは、ほとんどおりません。書籍に「こうすると良いよ」と書いてあって、その通りに実行する人は、まぁ3%が良いところだそうです。
読むだけ読んで、「ああ、わかった、わかった」と思って、何もしない。この本で言うと「とにかく何度でも音読をするのが良いのだ」と書いてあるのに、しない。本当に人間は行動しないですな。
で、自分自身の体験を踏まえてみて、行動以前に、書かれてあることを、正しく読み取ることが難しいわけですよ。何冊もの書籍を読んで基礎知識が頭に入ってないと理解できない事というのも多いし、「赤線」を引く訓練ができてないと、理解力が身に付いてない、ということもあるし。
しかし、なによりそれより以前に、「苦手」を「必要ない」としているような、自分勝手な言い訳をしている事のほうが、人間ははるかに多いわけです。
もう、そらね、こんな自分勝手な言い訳をそのままにしてたら、何にも学べていないわけですよ。そらもう、全然意味ない。
自分をごまかして、何の得もないってことです。
繰り返して書くと
●気づきの体勢を整えて、ありのままに受け取る。
●書いてあることを正しく理解し、著者の意見をくみ取る
●書かれてあることを実践し、自分の人生の役に立てる。
というのが大事だって書いたわけですが、こうして書くと、すごく普通のことしか書いてないように見えると思いますが、これを「できてない人間」に焦点をあてて書き直すと、
●言い訳して逃げて、事実を受け取る事自体を拒否する。
●書いてあることを曲解して、著者の意見を無視する
●良いことが書いてあるのに実践せず、人生が役立たずのままである。
ということなわけです。
まぁ、役立たずってことですな。
そういうことなんです。
とにかく、6年前に読んだ本を読み直して、そういう事をすごく感じましたねぇ。
と、言ってますが、じゃあ、この「英語の話しかた」が良い本でおすすめかというと、うーんと唸る。実際に「只管朗読」をやってみて、中学の英語の教科書を一ページあたり100回以上音読して、一冊、二冊、仕上げてから後でないと、この本に書いてあることは、実感を持って「おもしろい!」「なるほど!」ってならないですからなぁ。うーん。
まぁあれです、実行までに6年もかかった自分を「アホ」と思うと同時に、曲解しまくりであろうとも、6年前に、「読もう」と思って、曲がりなりにも、いちおう「読んだ」自分を偉いと思いますわな。6年前のその体験なくして、いまの「実行」は絶対にないわけですから。
なんせ、この本「只管朗読が良い」とは書いてあるけど、音読の手順とか、回数の目安とか、そういうのは全然書いてないし。そういうところが不親切なのがよろしくない。
そういう意味では、
「英語上達完全マップ」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4860641027/qid%3D1134706702/sr%3D1-1/ref%3Dsr%5F1%5F2%5F1/250-6415135-5021859
の方が、ノウハウ本としては、はるかにお勧めなわけですが。
でもやっぱり、英語の音読なら國弘先生ですわねぇ。平気で「中学の英語の教科書を500回も朗読すれば、それが実力になります」とか書いてますからなぁ。
500回ってどんだけ猛練習やねん。ほんまに。
さらっと書いてあるから読み落としてしまうけど、一ページの音読に30秒から1分はかかりますからな。中学英語の教科書を、朝から晩まで8時間ずっと朗読して、やっと一ページってことですから。
ま、それをしなさいと、この人は言っておられるわけです。
いや、まぁ、そういうことなんだけどね。実際。
ともあれ、去年の11月から、毎日一時間ずつくらい音読をするようにし始めましたが、違うね、これは。中学英語の二年生用を一冊、100回朗読を終えましたが、実感出てきた。いまは続いて中学三年生用をやっております。最近面白くなってきた。うん。
いや、ともあれ、音読はええよ。ほんま。
もっと早くに「実践」までたどりついておけば良かったなぁ。
でも、そういうものかもしれない。
間違いに気付くまでには、時間がかかるのだ。やっぱり。
コメント
だから余分なことを考えてるヒマがあったら、五分でも十分でもいいから音読したほうがマシだよってことなんだろうと思う。
でも、そういう言い方はされないのですな。文法書も必要に応じて必要なだけお読みなさい、って書いてある。いや、正しいんだけど、そんなこと書くから音読だけではダメかって思っちゃうわけで。
とにかく、TOEICで600点とか700点とかまでは、どう考えても音読を最優先でやるのが得策ですわ。
で、「ああ、こういうこと気付くのに何年もかかってバカだな、俺」と思って、よくよく読むと、
(引用開始)-------------------
多くの人は、数年間英語を勉強した後で、どこか変だぞと気付きます。その時点でようやく「基本の習熟度」という事実に思いが至るわけです。
(引用終了)-------------------
と、ちゃんと書いてある。それもサラっと。
あまり強調せずに。
たぶん國弘先生は、そういう無駄な時間を使わなかった人なんでしょうね。だからサラっとしか書いてないんだと思うけど、「数年」ですよ「数年」。
私の場合だと6年ですけどな。
それだけの時間、無駄に勘違いしたまま時間をやり過ごしてしまうのが、「多くの人」、つまり普通だと喝破されてるわけですよ。
最初から、そういう勘違い人間は相手にしてないのね、この人。「アホは何年でも無駄なことしておけ。私は時間を無駄にせずに努力している人間だけ相手にする」という態度なわけです。
で、まさに私は、そういうアホだったということなわけで。失礼しました、って感じですな。
軽く「何年も」とか書いてあるけど、そんなものね、何年もあれば、中学の英語の教科書の音読の百回や二百回は軽くできてしまうわけです。
一日一時間あれば、まぁ三十回から六十回くらいは音読できますから、これを二三ヶ月続ければ中学英語の音読の最低限のところはできる。まぁ一ページあたり100回は最低でも音読しないといけないので、余裕を見て半年でしょう。これが最低限、まず必要な量です。
その半年分くらいの音読練習がないと、この本に書いてあることはわからない。
で、音読もせずに遠回りな勉強法を、ああでもない、こうでもないといろいろやっても、何年もかかって「私は、基本項目の習熟度が低いんだ!」と気付くだけでして、そこで始めて、中学英語の音読を始めるにいたると。そういうバカな話なんでしょうね。
いや、しかし、英語に関する書籍は、たくさん出過ぎてるから、良い本を見つけるまでが大変なんだよなぁ。ほんと。